第三十一話「雪の記憶」
幸いなことに、ナンテンは俺たちがよく釣りをしている海岸沿いにいた。
俺とフロンの島での行動範囲は非常に狭いので、その中にナンテンがいたことに安堵した。島の北側にいるなんて言われたら、絶対に探し出せないからな。
『やぁ、ジョージ。春の音を見つけてくれたのかい?』
「いいや。ただ、探すのを手伝おうって思ってな――かなり大事なものなんだろ?」
『……まぁ、本当はそれも思い出せないんだけどね。大切な物なんだと思う。なにしろ、千年くらい前のことだと思うから――』
千年――気の遠くなるような時間だ。鎌倉幕府ができたのが、一一八五年だから、千年前といえば、日本だとまだ平安時代だ。
そりゃ記憶くらいなくなるよ。
俺なんて、一年前の記憶すら曖昧なのに。
さすがは精霊――時間のスケールも大きい。
そして、千年くらいってことは、平気で誤差百年くらいあるのだろう。
その誤差の範囲で俺は生きていると思うと少し悲しくもなり、いまを一生懸命生きようという気にもなる。
ただ、千年前か。
「…………」
俺はナンテンにあることを伝えようとしたが、ナンテンだってそのことは重々承知しているだろう。
それを考えるのはやめることにした。
『本当に情けなくなるよね。大切な物だってわかっているのに思い出せないなんて――ただ、どうしても記憶に靄がかかっているような感じでね――』
「思い出すか……フロン、なにか記憶を呼び覚ます方法ってないかな?」
「人の方法ですと、そのときの匂いがあれば思い出しやすいと聞いたことがあります」
それは俺も聞いたことがある。嗅覚には、視覚や聴覚以上に脳との繫がりがあるとか。地球では匂いと記憶をリンクさせた勉強法なんていうのも研究されていたらしい。
「ただ、春らしい匂いとなると、どうしても季節の弊害が出てしまうな」
寒さで忘れがちだが、いまはまだ初秋らしい。本物の春が訪れるのは半年も先のことなのだ。
『僕の記憶の断片をジョージに見てもらうっていうのはどうかな?』
「そんなことができるのか?」
『うん、僕は精霊だからね。人間にはできないことくらい余裕でできるのさ』
ナンテンは自慢げに胸を張って言った。
人間にできないことができるのなら、その力で記憶を呼び起こしてほしいところだが、でもこれはヒントになりそうだ。
「危険はないよな?」
『大丈夫、絶対ないよ』
絶対とまで言い切ってくれるのは清々しい。というのも、上の立場の人間になるほど、あとで失敗したときの言い逃れをするために、「データ上は問題ない」等と逃げ道を作る。そうすれば失敗しても、「データはあくまでデータであって」とか「データにないことが起こった」と言い訳できるからだ。
「よし、任せた――あ、フロンは見られるのか?」
『彼女は無理だね。この力は君にしか使えないんだ』
「俺にしか?」
『ジョージは片足の膝くらいまで、神の領域に突っ込んでいるだろ?』
納得した。
俺だけがナンテンを見ることができる理由はそれだったのか。
迷宮師(神)――俺の職業だ。
この(神)というのが今回の精霊騒動の引き金になったというわけか。ナンテンのような超常な存在と引き合わせるきっかけになったのだろう。
「まぁ、いろいろあってな」
『ヒトも大変だね。その身に合わない力を持たされるというのは。そういう意味じゃ、いまの女神たちも……あ、うん、待って、そろそろ出せそう』
「出すってなにを?」
俺が尋ねた、その時だ。
ナンテンがくるくる回って、何かが空に飛んだ。
そして、それは俺の前に落ちてくる。
雪?
それは大きな雪の結晶だった。大きいといっても、通常の三倍くらいの大きさの結晶だが。
そして、その結晶にナンテンが映っているように思えた。
『ジョージ、それを手で受け止めて』
「わかった」
俺はゆっくりと手を伸ばし、落ちてくる雪をゆっくりと受け止めた。
最初は結晶の形を保っていた雪も、俺の手の体温のせいで徐々に溶けていき、水滴となって俺の手の中に吸収されていった。
『もう行ってしまうの?』
女性の声が聞こえた。フロンの声ではない、もっと大人びた女性の声。
姿が映る。
黒く長い髪の美女だ。どこか日本人風の顔立ちをしている気がする。
その美女を高い位置から見下ろしている――おそらく、これはナンテンが見ていた記憶なのだろう。
近くには木が生えていて、花が咲いている。小鳥が飛んできて、葉っぱの一部がちぎれている小枝を掴んで飛び去っていった。
(凄い偶然もある物だな)
俺はあることに気付き、少し笑いそうになってしまった。
しかし、音らしいものはなにも聞こえない。
『また、会える?』
彼女は少し寂しそうな声で言った。
『うん、また冬になったらね。その時にお礼を綺麗な冬を見せに来るよ』
これはナンテンの声だ。
ナンテンと美女が話している――この美女もナンテンの姿が見え、声が聞こえていたのだろうか。
そして、ここは別れのシーンだと思う。
たぶん、冬が終わり、ナンテンは姿を維持できなくなってきていたのだ。
『そう――じゃあまた冬が終わって春になったら春の音を――』
『てあげ』
『必ず』 『約束だか』
音が――いや、記憶が途切れ途切れになってきた。
と同時に、俺は現実に意識が戻る。
『そうか、ちょっとだけ思い出したよ。君に記憶を繋げたことで、モヤが少し取れた。そうか……僕は約束をしていたんだ。そして、僕はそれを反故にしたんだね』
ナンテンが寂しそうに言った。
『精霊はね、毎年同じ場所に顕現できるかわからないんだ。一年後に現れることもあったら、百年以上も眠り続けることがある。酷いときなんて……』
「…………」
『運が悪かったんだよ』
「…………ああ」
俺はそれ以外なにも言ってあげられない。
かける言葉が見つからない。
こいつはわかっている。
人間は千年も生きられないということを。
だから、こいつはもう、彼女から春の音を聞かせてもらうことはできない。
春の音がなにかわかったところで、ナンテンの約束と心が満たされることはもうない。
『ありがとう、ジョージ。君のお陰でいろいろとわかったよ――これはお礼。ふたりにあげるよ』
【特殊スキル:ジョージは氷の加護を取得した】
「ご主人様、氷の加護とは――」
どうやら、フロンも俺と同じようにスキルを取得したらしい。
「ナンテンからのお礼だって」
「それでは、ナンテンさんが探していたものは見つかったのですか?」
なにも教えられていないフロンが笑顔で言った。
「ああ、ヒントだけ……だがな。ナンテン、まだしばらくこの島にいるのか?」
『うん、明日の朝にはいなくなるけどね。この浜辺にいると思うよ。ねぇ、ジョージ……悪いけど、しばらくひとりにしてくれないかな?』
「そっか――わかった。じゃあ夜明け前にはもう一度来るよ」
俺はそういうと、フロンをつれて帰ることにした。
「フロン……この島にあるのかわからないが、探したいものがある」
ナンテンは約束を果たせない。
あの美女にお礼を渡すこともできない。
だが、それでも俺は届けたいと思う。
あいつに春の音を。




