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哲学科

世には「哲学科」なるものがあるらしい。

何やら噂によると、哲学科の学生は(かすみ)を食って生きているという。

このように仙人じみた哲学徒であるわけだが意外な事に、友人Aの言うところによると、哲学科の新入生は入学するとまず四年の間に自殺を試みては決してならぬぞと釘を刺されると言うのだ。

嘘か真かはわかりかねるが、これらの逸話がますます哲学科を(かそ)けき存在たらしめていた。

そうこう噂話に花を咲かせている内に、とうとう我々はまだ見ぬ哲学徒の姿を追い求めるようになってしまっていたのだ。


我が大学の隅にある、大学生協が運営する書店はお世辞にも品揃えが良いとは言えない。

しかし、生協の組合員であれば割引がある事や、有名な新刊本であれば入手できる確率の高い事から私は頻繁に利用していた。

いつものように授業の空きコマに立ち寄り、文庫本コーナーを逍遥していると、熱心に本を覗き込む背の高い男がいた。ふむ、感心、感心……ん?

「あれは、もしや哲学科ではないか?」

私は心の中で叫んでいた。

「君、もしかして哲学科の生徒ではないか!?」

私は即座に彼のもとに駆け寄って尋ねた。

相手は辻斬りにでも遭ったように驚き、口をぱくぱくとさせた。

「今君が読んでいたのはプラトンの『国家』だろう。こんなものを読む者は哲学科の他にいない!」

彼が読んでいたのは西洋哲学の大御所プラトンだった。もはや言い逃れはできまい。

私の剣幕に再び息を吹き返した長身の男は、意想外な事に私の仮説を簡単に打ち消した。

「え、えっと……哲学科じゃなくて国文学科の生徒です……」

「そうなのか?では、なぜ『国家』なぞを」

「僕、村上春樹が好きで。小説の中で「イデア」って言葉が出てきたから気になって」

「なるほど……、それはすまなかった。」

そんな事でプラトンを読もうと試みるとは、国文学科も大概狂っているみたいだ。しかし、私が見たいのは本物の狂気だ。


二度目のチャンスはすぐに訪れた。私が図書館で本を探していると、目的の書棚で立ち読みをしている男子学生がいた。ちらと横目で見ると表紙に「イマニュエル・カント」という文字。これは間違いない。

「君、哲学科だろう?」

興奮を抑え、あまり大きな声にならぬように尋ねた。

本から顔を上げた男は、困惑した表情をしていたがひとまず問いに応えてくれた。

「いえ、僕は国教。国際教養学部です」

「そうか、国教の学生だったか」

「ええ。でもどうして哲学科だと?」

「君がカントを読んでいたからね。てっきり僕はそうだと」

「ああ、これはですね。国際連合の理念についてやっぱり知っておきたいと思って『永遠平和のために』を読んでいたんですよ」

「なるほど……そういう事か。失礼した」


哲学科なんていうのは、始めから存在しないのではなかろうか。

哲学科探しを始めてから二週間ほどが経ち、私の胸中には一抹の疑念が根を張り始めていた。授業の合間に大学構内の喫煙スペースで煙草を吸っていると、同じく一服しにきたらしい友人Aと遭遇した。

「やあ、A。思うのだが、哲学科というのは本当に存在するのだろうか。」

「ああ、俺も同じ事を考えていたんだ。これまで、それと思わしき人に手当たり次第に声を掛けたが、哲学科の人間は一人もいなかった」

私はゆっくりと煙を吐いた。「そんなにいないものか」

Aは灰を落としながら、ひとりごちるように話した。

「もしかすると、哲学科は概念なのかもしれない。いや、俺たちの願望を投影した幻想かもしれんよ。俺たちははっきりと像を結ばぬ哲学科の中に巧妙に自身の欲望を託し、それを追い求めていただけなのかもしれない」

「君は何を馬鹿な事を言っているのだ。では、私たちは哲学科を探していたのではなくて、己の欲望に囚われ振り回されていただけだと言うのか」

「その通りだ。俺たちはついぞ哲学科そのものを見ようとはしてこなかった。俺たちはそこに自分の姿を見出そうと必死になっていたんだ」

何となくAの言っていることがわかってしまう自分がいた。一風変わったユニークな人物。これこそ、私の理想の自我なのかもしれない。そして、その理想を他人に押しつけるのは道理に合わない。

「しかし……、それでは真の意味で哲学科を探すためには、どうすればいいのだ」

Aはゆっくりと煙を吸い込む。先端の赤い火が一瞬強く光る。

「さあな。俺にもわからん」


煙草を吸い終えたAは再び校舎へ戻っていった。先ほどの会話について思索を深めたかった私は、Aを見送るともう一本に火を点けた。

火で煙草の先端を炙りながら、ゆっくりと深く吸い込む。

「あの、」

「え?げほっ、げぇほごほ、こほ」

無心で煙を吸っている時に急に話しかけられ、私は盛大にむせた。

「す、すみません!大丈夫ですか!?」

急いで目尻の涙を拭って、話しかけてきた相手に向き合う。

「ええ、大丈夫ですよ。見苦しい所をお見せしてすみません」

目の前に立っていたのは、艶やかな黒髪をショートボブにした可憐な女子学生だった。背も低くめで、全体的に小柄な印象を与える人だ。しかし、このような美しい人が、髪をろくにセットできない私なんかに何の用があったのだろうか。

彼女は申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。突然話しかけてしまって」ともう一度謝ってきた。

「いえいえ、全然です。それで、僕に何か御用でしたか?」

「あ、えっと……哲学科について話しているのが聞こえてしまったので、つい」

「哲学科についてご存知なのですか!?」

思わず、相手に詰め寄る。

「えっ。は、はい」

彼女は半歩後ずさりをした。

それにも構わず、私は矢継ぎ早に、

「ぜひ哲学科の者を紹介していただきたい!」

「私は己の偏った哲学科イメージを払拭し本物の哲学科というものを知りたいのです。」

「誰か紹介していただける方はいませんか?」

と質問攻めにしてしまった。流石にやり過ぎた。

私は後悔した。しかし、彼女は待ってましたと言わんばかりに、「それについてですがーー」と言うと、


「私が哲学科だと言ったら、どうします?」と囁いた。

彼女はにやりと笑いながら、(おど)けた調子で私の顔を覗き込む。


ん…?この子が…、あの、哲学科!?

天変地異だった。

こんなに可愛いらしく、生き生きと喋り、目に入れても痛くないような子が、あの仙人的に浮世離れしているという哲学科だというのか。

そんな馬鹿な……。いくらなんでもそれは無茶だ。彼女ほど哲学科に似つかわしくない者はいない。

私は呆然とした。


熱っーー。

煙草の火が指をじりじりと焼き始め、ようやく我に返る。

火は揉み消したが、やられた、と思った。


私は哲学科に恋をしてしまっていた。


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