86 届く拳と届かない拳
ロンとウルフェンの戦いが始まりました。
ロンはウルフェンとの間合いを一気に詰めると鋭く踏み込んで自身の最速の突きを放つ。グンと腰を返し肩を入れて拳に速度を乗せる。伸びる様に勢いよくロンの拳はウルフェンに向かうが、その拳はウルフェンに軽くいなされる。
左手の指先で軽くロンの放った右拳の手首を横手から押し、拳の軌道を変える。ロンは初弾の拳を躱されたが直ぐに拳を引き、その拳を引いた勢いで肩腰を入れ替え止まるどころか拳速を少しも落とすこと無く左拳で連撃を放つ。
その拳もウルフェンはいなすがロンは気に留め無い。即座に左拳を引き身体の回転を反対の右拳に伝えて最速の突きを放つ。
三連撃。一呼吸も吐かない一瞬でロンはウルフェンを三回攻撃した。だがこの突きも軽くいなされてしまった。
だがロンは止まらない。右拳を自身の胸元に引き再び回転の勢いをつけて今度は左足の蹴りを放つ。今までの三連撃の突きと違い蹴り脚は間合いが広い。
いきなり攻撃の間合いが変わると普通はついては来られ無い。ゴブリン等はもとよりオークやオークハイに至ってもロンの突きの連撃からの蹴りを躱せた者はいなかった。
これもまた当身の虚実である。死の道、暗殺者ルドガー・オルセン・パーカーの殺手術の体捌きはロンの動きを格段に鋭いものにしていた。
だがこの蹴りもウルフェンには届かなかった。ツイとウルフェンは事も無く後ろに下がるとロンの蹴りを当たり前の様に躱す。
だがロンもこの蹴りも躱される事は想定のうちであった。ロンはウルフェンが自分と同じ構えを取った時に既に察していた事なのだ。
ウルフェンは「同じ構えだ」と言っていたが、それは見た目の形だけだ。ウルフェンの取る構えと自分が取る構えが同じな訳が無いのである。
ロンの様に徒手で戦う人間は、人間やエルフの中では他にいない。というか自分と同じ構えで戦う者などこの世に居ないと思っていた。なので全て手探りの中から試行錯誤を繰り返して創意工夫のもと戦ってきた。だがロンが拳法家となってからまだ一年も経っていない。
それに引き換えウルフェンは獣の始祖だと言う。いったいどれだけの長い年月を生きてきたのだろうか。獣の王として当然の事ながら一切の武器を持つこと無く、その身一つで数多の戦いを制して来たのだ。強者と戦う事を目的としていると言っていたが、果たしてロンと同じである構えを取りどれだけの猛者と戦いを繰り広げて来た事だろう。
それを踏まえると、もうこれだけでまるで次元の違う構えなのだ。二本の腕、二本の脚。出来る事は決まっている。ロンに出来る事は、当然のことながらウルフェンにも出来るであろう。同じ構えから繰り出される攻撃はウルフェンからしてみれば既知の動きなのである。
だから動きが読まれる事などはなからわかっていた。だからといって相手の動きを伺っている余裕も無い。明らかに自分より格上の相手なのだ。最初の最初、一番油断しているであろう時に自身の最速の最大の攻撃で倒してしまわねば勝機は限りなく低いものになってしまうだろう。
ロンはウルフェンが後ろに下がり蹴りを躱した事を見逃さなかった。横に捌かれると攻撃側のロンも方向転換しなければならない。そうすると勢いを殺さねばならないのだが、ウルフェンは後ろに引いた。これもロンの思惑通りである。突き三発の後の間合いの広く変化した蹴り、急な変化というものは危険である。次に来る攻撃の予測がつきにくい。なので無意識のうちに相手との距離を取るのだ。
ロンは蹴り足を引かず、そのまま前に踏み込む。蹴りの威力を使いさらに一歩前に踏み込み地面を強く踏み締めるや最大最速であり、さらに重さの乗った突きを放つ。
ドスンという音を立ててロンの突きはウルフェンに突き立てられる。最速最大の威力で持って放たれたロンの突きは、今放てる最高の突きとなった。
だがロンの拳に伝わる感覚は魔鋼の鎧を身に纏うオークハイを殴りつけたものとは違うものであった。
「重い」最初に感じた感覚は大きな壁。ウンドの城壁よりも分厚く高い壁である。
「上手いな。これが人間の放つ突きか、面白い! 」
ウルフェンの関心した様な声が聞こえる。ロンは自身の拳が動かない事に気がつく。見るとロンは拳をウルフェンの大きな掌に正面からしっかりと握られている事に気がつく。
ロンは絶好の機会に最良の角度でスイゲツの急所に拳を最速最大の威力で打ちつけたと思っていた。が、それは違っていた。ロンの突きは真正面からウルフェンに受け止められていたのである。
「我を上手く誘導したな。虚を突く攻撃、なかなか鋭いではないか。ふむ。歳若い身でありながら汝がどれほど多くの突きを放ってきたかよくわかるぞ。」
そう言ってウルフェンはロンの拳を掴む手に力を込める。ミシミシと音を立てると共に鋭い爪がロンの拳に食い込む。
ロンが「グッ」と苦痛に吐息を漏らすと。フイと拳にかかっていた圧力が消える。ロンは慌てて拳を引くと思わず後ろに跳びすさりウルフェンから間合いを取る。
「汝はロンとか言いおったかな? おいロンよ、その体術は今の時代の人間世界では浸透しておるのか? ロンよ汝に師はおるのか? 」
突然の問いかけに少々混乱しながらも純粋で生真面目なロンは律儀にもその問いに応える。
「いや、こうやって徒手空拳で戦うのは僕一人だけだ。師匠と呼べる人達は何人もいるけれど、この戦い方を教えてくれる人はいない。拳法は僕が作った。だから僕一人だ。」
「ふむ。それは拳法と言うのか。なるほど故に拳法家か。しかも汝しかおらんとな。如何な理由で脆弱な人間が武器も持たず自身の身一つで戦うのかは知らぬが...... 拳法、汝が考えたのか。良いではないか、面白い。明確な意思を持ち、自ら思考し行動出来る者は滅多に居らぬ。手前勝手な人間であれば尚更だ。」
そういってウルフェンは大仰に腕を組みため息を吐く。その言葉に憮然とするのはロンである。
「手前勝手って言ったらお前だって随分と勝手じゃないか。自分の都合で魔族の大群をウンドに連れて来て、こんな大変な大騒ぎを引き起こしているんだから。」
ロンの歯に絹着せぬ物言いにウルフェンは心底愉快そうに笑い出す。
「ハッハッハ! その通りだな! 我の都合で人間は酷く迷惑を被っておることよな。これは意に介さないでおったわい、悪い事をしたな。なに、我が本懐を遂げたなら居合わせた魔族もまとめて始末してやるから許せ! 」
ウルフェンの細かい事は何も考えていない豪快すぎる物言いにロンは一瞬呆気に取られるが。すぐに我に帰り、猛然と抗議の言を述べる。
「な、何言ってるんだ! そうこうしてるうちに街は破壊されてたくさん人が死んでしまうかもしれないんだぞ! ……それに、お前の本懐ってこの地に眠る強者を叩き起こす事だろう? 」
「いかにも! 」
「いかにもじゃないよ! そんな事したら魔族を追い払う前にこの地が滅んじゃうじゃないか! やっぱり駄目だ、あんたも止めなきゃならないし、魔物も魔族の止めなきゃならない。」
「ふむ。汝は真面目な男だな。……ふむ。」
ウルフェンはそう言って腰に手を当て、ぐるりと辺りを見回しコボルト達に囲まれて避難の準備をしようとしているウンドの住人達を一瞥して鼻で息を吐く。
「武器を持って戦う者達は知らぬが、そこに居るこの街に住んでおるような者達はおいそれと死ぬ様な事はあるまいて。」
「そりゃウンドに住んでいる人達は皆んな悪運の強い人ばかりだけど、今回ばっかりはそうも言ってられないんだよ! とにかく一刻を争うんだ!あんたも魔物も魔族も止める! 」
そう言ってロンは再び構え直しウルフェンと相対する。
「ロンよ、汝は頭の固い男だのう。」
そう言ってウルフェンも再び構える。やはりロンと同じ構えである。
「まあ勇敢さとは言い難いがな。些か蛮勇よの。」
そう言ってウルフェンは目を細める。次の瞬間にはロンの視界から消えていた。
気がついた時にはロンは横面をぶん殴られていた。ウルフェンとの会話に気を取られ油断していたと言えばそれまでだが、ウルフェンの不意の動きはロンには全く見えなかった。
ロンは霧散しそうになる意識を何とか繋ぎ止め後ろに大きく飛び退り構えを取る。
「ほう、いまので昏倒せなんだか。」
ウルフェンはそう呟いて猛然とロンに迫る。再びロンの頭程もある拳を振り上げ攻撃してくるが、ロンはその拳を即座に見切り上体を捻り躱す。
ウルフェンもロンの様に体を入れ替え二撃目、三撃目と連撃を放ってくるが、ロンは体捌きでその攻撃を躱した。それを見たウルフェンはニヤリと不敵に笑うとさらに次々と突きを放ってくる。
その突きは多種多様で頭部を狙うものから胴体や下肢を狙うものまで様々であった。それもロンはしゃがんだり飛び跳ねたりしながらも構えは崩さず的確に躱していった。
何十という止む事の無いウルフェンの拳の猛攻をロンは黙々と躱していく。おおよそ常人には回避できる様な攻撃では無いが今のロンには手に負えない代物では無かった。
ウルフェンの巨躯全てがロンに次の動作を告げていた。膝や爪先の向き、目線や顎の角度、肩や腰の動き、それらの流れがウルフェンの拳がロンのどこを狙っているのか饒舌に語っていた。
無言で呼吸を乱すこと無くロンはウルフェンを見続ける。その動作の一挙手一投足見逃すまいと。真一文字に閉じている口だが、ロンは無言でウルフェンの動きの律動を刻んでいた。そうフィリッピーネの様に。
フィリッピーネの振り付けたパイリラスとの演舞の練習をしている時も傍らでフィリッピーネは手拍子や足踏みで拍子を取りながらロン達を指導していた。その指導の間にロンに言い続けていた言葉が「律動」と「調子」である。
黙々とウルフェンの吹き荒ぶ暴風の様な拳を躱しながらロンはフィリッピーネの言葉を頭の中で反芻していた。
「ロンさん自分の身体の中にある音を聴いて。律動を感じるの。綺麗に拍子を取らなくていいの。自分の音が聴こえたらパイリラスちゃんの律動も聴いてあげて! 」
ロンは深く突き込んできたウルフェンの突きを躱さなかった。体勢低く一歩踏み込んで拳の下を掻い潜るとロンはウルフェンの懐の中にいた。
ロンは地面を蹴ると共に大きく伸び上がる。前進するウルフェンと伸び上がる様に蹴り出されるロンの足先が激突する。
下から突き上げる様にロンの蹴りがウルフェンのスイゲツに刺さる。前に進む者同士の身体がぶつかった。だが虚を突いたのはロンである。
ウルフェンの巨躯が浮き上がり前につんのめる。ロンは蹴り足を即座に引き鋭く元の構えに戻る。
ウルフェンはロンの頭上を越え後方に飛び出して行く。
ドサリという音を聞いてロンは即座に構えを解かぬまま後ろに向き直る。そこにはウルフェンが立っていた。やはりロンと同じ構えで。
「ロンよ、やるではないか。不意を突かれた所から持ち直して、よもや我の胴に一撃を返すとはな! 良いぞ! そう来なくてはな。」
そう言ってウルフェンは凶暴な笑顔を見せるが、ロンはウルフェンを蹴り飛ばした脚に痺れを感じながら背中には冷や汗を一筋流していた。
ロンの内心は恐怖に駆られていた。不意の一撃を喰らい飛びそうになっていた意識を何とか繋ぎ止めウルフェンの猛攻を躱しつつ呼吸を整え、何とか体勢を立て直し、更にウルフェンの攻撃を見切れる様になるまで躱し続けた。
ウルフェンの動きの律動を読み、一瞬の隙を突いて攻撃を躱しざまにスイゲツに蹴りを放った。前に突進するウルフェンの勢いを利用し自身の蹴りにその勢いを上乗せした。
結果は上々といった感触があった。ウルフェンの勢いもあってロンの蹴りは通常の強さの倍の威力を持ってウルフェンのスイゲツに突き立てられた。それは直にウルフェンを蹴り上げたロン自身が脚に伝わる衝撃から感じ取っていたし、実際にウルフェンの巨体が浮くほどの威力が出ていた事から明白であった。
が、当のウルフェンは顔色一つ変えずに、あまつさえ不敵に笑ってロンを頭一つ高い位置から見下ろしている。
ロンはその場に射竦められたかの様に釘付けられているが構えは解いていない。それを見たウルフェンは嬉しそうに口を開く。
「まだ構えるか、我との力量差を肌身に感じながらも。人間にしては中々の胆力があるではないか。」
そう言ってウルフェンは唐突に己の掌を叩く。バンと大きな音が響き思わずロンは身を硬く竦める。
「ロンよ硬いぞ。そう身体をこわばらせていては自由に動けぬぞ。我を前にして拳を握るという事は汝の死は逃れ得ぬ事だ、もうわかっておろう? それでもまだ向かって来る気概があるのだ。緊張で息を飲むな、身体を硬直させるな。形振り構うな。全てを我にぶつけて来い。悔いを残さん様にな。」
ウルフェンはそう言って再び構えを取る。ロンは唐突なウルフェンの言葉を咀嚼しきれず一拍遅れてようやく腑に落とす。
ロンははたと気がつく。少々自身の攻撃に重さが乗り、功が成ったと思い上がっていた事に。今まで格上ばかりと戦ってきた。その都度その度毎に死の淵まで追い詰められ、己の全てを賭して戦い抜いてきた。
いつもと同じだ。目の前には死がある。だが己の拳を振るうのだ。変わりはない。
「ランペル! 僕が動くと同時に皆んなを連れて避難してくれ! 」
「で、ですが、ロン様は…… 」
「僕は大丈夫。皆んなを安全な所に。」
ロンは構えを解く事なくウルフェンから視線を外さずにそう告げる。ランペルはそんなロンの後ろ姿を見て無言で頭を下げる。
ランペルは踵を返し他のコボルト達に「ワワン」と指示を出してモリーンとポレット、ウンドの住人達を促してその場を速やかに離れる。
ロンは背後にランペル達の気配が無くなるまでウルフェンを睨み油断無く構えていた。それを黙って見下ろしていたウルフェンは口を開く。
「ロンよ汝の心残りは無くなったか? 」
「いや、まだある。助けないといけない人がまだいる。」
「そんな憂いを残して悔いなく戦えるのか? 」
「だからこそ全てを賭してお前と戦える。」
ロンがそう言った時に頭の中に浮かんだのはエルザの顔だった。毎朝走り込みをする時について来るエルザの真剣でいてどこか抜けた顔。
その顔を思い出すとロンの肩から力が抜け緊張が解ける。「フウ」と思わずため息を吐くロンを見てウルフェンは満足気に頷く。
「良いな。良い面構えだ。」
ウルフェンがそう独り言ちるのとロンが鋭く踏み込んで来るのとは同時であった。ロンは左右の連撃を即座放つが、拳を繰り出した時にはウルフェンはロンの眼前から消えていた。
見失った瞬間にロンは背後から殺気を感じる。振り向くのとウルフェンの爪を躱すのは同時であった。
ロンはウルフェンの刃の様な爪から即座に距離を取るために後方に飛び退る。
ウルフェンの構えを見てロンは背筋を凍らせる。今まで握り締められていた拳は獲物に掴み掛からんと拡げられ指先からは鋭い爪が垣間見える。一撃でもその刃に触れられ様ものなら命ごと肉体を削り取られそうである。
ウルフェンはロンがひと心地もつく間も無く間合いを詰めてくる。再び始まるウルフェンの猛攻をロンはそれでも冷静に躱そうとつとめる。
鋭いウルフェンの一撃がロンの胸を掠めるや鮮血が奔る。
次々と放たれるウルフェンの攻撃は少しづつロンを捉える様になってきた。ロンはウルフェンの動きを見切りその爪を躱そうとするのだが、見切った筈の攻撃がロンを捉えるのだ。
ロンの身体が少しづつ自身の血で染まってゆく。ロンは身体の痛みに焦りを感じ始めるが、何故躱した筈の攻撃が届くのか分からない。
「焦らないで! 緊張は音楽を聴こえなくするわ! 緊張した固い身体は律動を感じなくなっちゃうわ! 焦った時こそ深呼吸! 」
強張るロンの頭の中に踊りの稽古の時に何度も聴いたフィリッピーネの言葉が響きだす。
「そうだ焦るな。」そう独り言ちてロンは深く息を吐く。焦るな。調子を取って律動を感じろ。ウルフェンを見ろ、見ろ、見続けろ。
ロンは目を見開きウルフェンを凝視する。その動作を一つも見逃すまいと。ウルフェンの爪がその身を掠めようと怯む事なく、目を逸らす事なく。
そうすると徐々に見えて来る。ウルフェンの爪の律動が。
ロンはウルフェンの動きと、自身の身体のつけられた傷を注意深く観察する。ロンの身体につけられた傷はどれも致命傷には至らないものだった。何故なら急所からはその傷は離れた所につけられているからだ。
そこでロンは、はたと気がつく。ウルフェンは攻撃を外しているのだ。今までの攻撃は寸分違わず急所を狙ったものだったのに対し、ロンの身体を傷つける今の攻撃は粗く急所を狙っていない。
速さだけを乗せた当てるための攻撃だ。それを急所を狙った攻撃に、速度だけを乗せさらに一拍ずらした粗い攻撃を織り混ぜて放ってきているのだ。
今までは急所だけを狙った鋭い攻撃だけを放っていたが、それとは別に今までと違う調子の攻撃を巧妙に忍ばせていたのだ。
急所を狙った攻撃は脅威ではあるがともすれば単調になりがちである。その攻撃に慣れた頃に調子を外した攻撃を放たれると身体と眼が対応出来ない。
しかしそれが解れば躱すのは容易い。粗い大振りな攻撃は冷静に観察すると軌道を読み易い。
ロンはウルフェンの巧妙に緩急をつけた連撃を次々と躱す。さらには攻撃の間隙を突き、鋭い爪を躱しざまにウルフェンの水月に左右の突きの連撃を叩き込む。その攻撃にウルフェンの動きが一瞬止まる。
ロンはその一瞬の隙をさらに突き拳を放つ。
ウルフェンは大きく後方に跳びすさりロンと距離を取る。ロンは追撃しようと踏み込むがウルフェンの姿を見てその足を止める。
何故ならウルフェンの構えに一分の隙も無かったからである。
「お、追撃を踏み止まったな、偉いぞ。もし不用意に飛び込んで来ようものならその首を捻り切っていたぞ。」
その言葉にロンは黙して軽く頷き、ゆっくり息を吐く。偉いも何もウルフェンの隙の無い鋭い構えに踏み込むのを躊躇しただけで、褒められる事では無かったからである。
しかしウルフェンはその事も織り込み分かった上で静かに頷く。
「この我の攻撃の機微を見出しよくぞ躱した! あまつさえ反撃を加えようとは、ロンよ汝は人間にしては機転の利く面白い奴よの。良いではないか。どれ……では、もう少し本気を出してやろう。」
そう言ってウルフェンはゆらりとその身を傾けたかと思うとロンの意識の外に消える。
ウルフェンがその場から消えた事にロンが気がつく前に、その凶刃の様な爪はロンを捉えていた。
ロンが気がついた時には死はもう眼前に迫り、逃れ得ないものになっていた。
ロンの目の前が赤く染まる。だがそのほとばしる鮮血はロンのものでは無かった。
「ほう、貴様は獣の身でありながらロンに与するのか。若きフェンリスウルフよ。」
ウルフェンがにやりと笑うのと、ロンが眼前にいるアルジェントに気がつくのはは同時であった。
「ア、アルジェント!? 助けてくれたのか! 」
ロンは前足から血を流すアルジェントを見てようやく状況を把握する。ウルフェンの攻撃をアルジェントは身を挺して受け止め、ロンを救ったのだ。
「アオン」とアルジェントは短く吠え、ウルフェンを睨む。それを可笑しそうに眺めウルフェンは笑う。
「貴様はアルジェントと言うのか。獣でありながら我に従属せんばかりかロンに与し牙を剥くのか? 」
ウルフェンがそう言うとアルジェントは「グルル」と低く唸る。その唸り声を聞いてウルフェンは大きく笑いだす。
「ハッハッハ! ロンとは飯を分け合った仲間であるのか!それに母からロンを護れと言付かっているだと!? 」
「ん!? アルジェントのお母さん? ああ、デボラの事か! デボラそんな事言ってたのか。」
ロンが感心した様にため息をつくと、今度はウルフェンが唸り声を上げた。
「グゥム、どの様な事情があるかは知らぬが、誇り高きフェンリスウルフが人間に育てられるとはな! どうりでフェンリスウルフにしては小さく、オーク共を狩る動きも覚束無い訳だ。」
「む! そうなのかな? 充分にオーク共を圧倒していたと思うけれどな。」
ウルフェンの物言いに何故かロンの方がムッとして反論をする。
「本来のフェンリスウルフであれば、ひと凪で百や二百のオーク共を薙ぎ払い噛み砕く事も出来ようぞ。それが出来ぬのは人間に飼われて狩りの仕方を教わらなんだからよ! 不憫であるな、半人前の狼は。」
ウルフェンは威丈高にそう言うと大上段からアルジェントを見下ろす。
睨めつけられたアルジェントは少し頭を項垂れつつもウルフェンを睨み返す。
だがウルフェンの暴力的な威圧感のある眼光にさすがのフェンリスウルフのアルジェントも二歩三歩と後ろに下がる。
アルジェントはウルフェンを見た瞬間に本能的にその存在を、獣である自分達の王たる存在であると認識した。それは正に野生の本能たる所以であった。そして絶対的に敵わぬ相手である事も理解した。身体が硬直して動かなくなってしまっている事からもそれは明らかだった。
ロンがウルフェンと戦い始めてからもその身は硬直して動かなかったが、徐々に追い詰められるロンを見て常日頃からデボラに言われている言葉が脳裏に浮かんでくる。
「アルジェント、いっつも一緒にご飯を食べているロンさんが万が一の時には助けてあげてね。あの人って友達いなさそうだもの。お店の裏であなたとご飯食べているんだもの、きっとそうよ。」
そう言ってデボラはアルジェントをいつも優しく撫ぜていたのだ。アルジェントもそう思った。言葉もわからないのに毎日訪れて一緒に飯を食うのだ。きっと孤独なのだろう。そう思ってアルジェントは事あるごとに自分の飯をロンに分けてやっていた。コレは彼なりの親愛の情でもあった。
コボルト達はさておいて、自分に近づいて来る人間はデボラを除けばロンくらいのものであったからだ。
そのロンが窮地に陥っている。ウルフェンの爪によりみるみる血塗れていくロンを見てもウルフェンに対する畏怖で身体が動かなかった。
その事を歯痒く見ていたが、獣の本能には抗えない。獣はすべからくウルフェンに対する畏怖を魂に刻み込んでいる為だ。
だが、ロンがウルフェンにとどめの一撃を正に喰らおうかとした時にアルジェントの身体は裏腹に動いていた。本能を超えて身体が勝手に飛び出したのだ。
そうしてロンの前に躍り出たのだが、再びウルフェンの威圧を受けて尻込みしてしまっている。アルジェントにしても不本意なのだが尻尾も恐怖で股の間に巻き込んでしまっている。
すごすごと後退しつつあると尻尾を巻き込んだ尻をバンと叩かれた。
「ふん。半人前ってなら、僕と合わせて一人前だ。アルジェント、僕達は同じ釜の飯を食った仲間だろ。一緒にこんな奴なんてやっつけちまおうぜ。」
そう言ってアルジェントに目配せしてニヤリと笑うとロンのその目は真っ直ぐウルフェンを睨みつけた。
アルジェントは驚きで目を大きく見開くと尻尾を左右に大きく振っている事に気がつく。今のロンの一撃で身体の硬直が解けた。
「ワン!」とアルジェントは短く大きく吠えるとウルフェンを睨みつけた。
目を大きく見開いたのは今度はウルフェンであった。一瞬の間の後ウルフェンは大笑いする。
「ガァッハッハッハ! そう来たか! そうこなくてはな! 良いぞロン、かかって来るが良い。そしてアルジェントよ良くやった!汝には獣の戦い方を叩き込んでやろう!」
そう言ってウルフェンは拳を握り構える。
続いてロンも拳を上げて構える。もちろんアルジェントも姿勢を低く今にも飛び掛からんと構えたのであった。
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