001
「……ちゃん…………てー……」
「んー……?」
よく聞こえない。
「……ってばー、学校……ちゃう……」
「学校……?」
仕事じゃなくて? 仕事は今日休みの筈だ。だからこそ昨日はアルコール入れたんだ。
「あんまり寝ぼけてると……ちゃうからね」
「なんだっ……ムグ!?」
唇に柔らかな感触。そして口の中にまで広がる甘み。昨夜のビールでからからの喉に、何かが流れ込んでくる感覚。俺は驚いてはね起きた。
「……ぷは。なんだ!?」
「あー起きた。おはよー、お兄ちゃん」
俺の目の前にあったのは、見知らぬ女の子の顔だった。明るい茶髪を二つ結った、小悪魔みたいな笑顔。可愛らしいがあまりに幼く、小学生なんじゃないかと思うほどだった。
いや……? 見知らぬ顔、だろうか?
「えへへ、それとももしかして、キスを待ってたりした……? もー、エッチなんだから―」
「は……? キス? じゃあ今のって……」
「起きたからもうしてあげないもーん。それよりご飯できたってよー、下行ってるからね」
「あ、ああ……」
女の子は俺の上から下りて――なんで彼女は俺の上に乗っていたんだろう――のんびりと歩き、ドアの前で振り向くと小さくウインクをしてから出ていった。
……いやいやいやいや、誰やねん。
というか現状が何もわからなかった。漸くはっきりしてきた頭を整理しようと周りを見渡すが、そこはどうも汚らしい俺の部屋ではないようだった。
妙に明るいグリーンの壁。
学習机。制服。
「制服?」
俺はベッドから立ち上がり、壁にかけてある制服を見た。ブレザーだ。俺のいた学校は男子は学ランだけだから、これも俺の私物ではない筈だ。
というか第一、それは学生時代の話である。うちは私服出勤が許可されている。こんな制服がかかっている筈がないのだ。
「……」
もう一度部屋を見渡す。見覚えのない部屋。いや、違うぞ、どこか既視感のある部屋だ。ちょっと移動するだけでその感覚は強くなった。そうそう、まさにここ、ドアの前に立って全体を見渡すと……
「お兄ちゃーん! 冷めちゃうよー!」
「わっ!」
驚きで思考が中断する。くっそ、もうちょっとで何か掴めそうだったのに……現実に引き戻されてしまった。
そうだ。着替えて下に行かなきゃ。
俺は着ていたパジャマを脱ぎ捨て――もちろんこんなパジャマなど俺は持っていない――迷った挙句に制服に着替えた。そして急いで階段を駆け下りる。
……現実に引き戻された、か。これは現実なのだろうか?
「じゃーお兄ちゃん、私こっちだから! また放課後ね!」
そう言って女の子は玄関の奥に向かっていった。
女の子というか……妹だ。妹らしい。
全く見覚えのない母と全く見覚えのない父、そしてなんとなく見覚えのある妹に囲まれた朝ご飯の味は全然わからなかった。食べ終わったところで、今度はそこからどうすればいいのかが分からない。一緒に行こうという妹の言葉から、成程同じ場所に行けばいいのだなと想像しついて来たが、辿り着いたのはやはりと言うか、学校だった。
「私立……アフィーユ学園……」
この名前にもなんとなく覚えがある。だが、何処で聞いたかが思い出せない。
あともうひと押し。何かのきっかけが足りないのだ。
「っつか事務所に缶詰めの俺が、どこで学校の名前なんて聞くって? しかも学園ってなんだよ中学高校大学どれだよ……」
ぶつくさ言いながらしかし、結局これからどうしたらいいか分からなかった。
流れでここまで来たが、俺は今一体どういう立ち位置なのだろう。少なくとも、普段通りの三十一歳童貞に見られてはいないようだった。制服ということは学生? ここのか? 周りを見渡すと、同じような制服が大量に校舎に吸い込まれていくところだった。うん、ここの学生であってるっぽいな。
そう確信して視線を正面に戻そうとした、瞬間。
「あ、やっぱり佐倉くんだ!」
何度も聞いた声が、俺の後ろからした。
「おっはよー佐倉くん。……佐倉くん?」
少しずつ。ギギギ、と音がするくらいに。少しずつ首を動かす。
そう。これは何度も聞いた声だ。
何度も何度も何度も何度も聞いた声だ。
それに気付くと同時に、全ての疑問が解けた気がしていた。
「……どーしたの、変な顔して?」
そこにあったのは、やっぱり何度も見た顔だった。
「幸せをあなたに」、俺の大好きなギャルゲーで、何度も繰り返し攻略したキャラクターが、そこにはいた。
全ての疑問が解けた気がしていた。
見覚えのある妹……しかし、なんとなくしか見覚えがない妹。無理もない。なんのミスだったのか、彼女の立ち絵は公式サイトとパッケージ裏でしか見れないのだ。ゲーム中で妹は、声と名前から存在していることしかわからないという不遇なキャラクターだった。俺は何度もゲームをプレイしたが、だからこそ妹の立ち絵、顔などすっかり忘れていた。
見覚えのある部屋……それもそうだ。いつもホーム画面で、ドアの位置から見た部屋の全容を見ていた。こちらは特に意識していなくてもなんとなく覚えているのは当然だった。
見覚えのない父、母、自分のパジャマ……これもそもそも、グラフィックが用意されていなかったものたちだ。主人公のパジャマの色の説明も見たことが無いし、ここに既視感が無いのは正しかったということだ。
私立アフィーユ学園……主人公やヒロインたちの通う学園の名前。原作ゲームは十八禁なのだから、中学高校などはわからなくて当然だったのだ。
(そして)
隣の席をちらと見ると、朝に声をかけてきた美少女が視線に気づき、にこっと微笑んできた。
慌てて目を逸らすと、隣から笑っているような気配がする。くう、余裕可愛い……!
角野玲奈。
ヒロイン、というよりメインヒロインというやつだ。
パッケージに表に描かれている唯一のヒロイン。明るく可愛く、誰にでも分け隔てない優等生。クラスのアイドル……だとまで公には言われてないが、誰からも好かれる素敵な女の子だ。
しかし実は母子家庭で、母親との確執を抱えている、学校にいる間しか本当の自分を出せないという設定があった。個別ルートではそんな彼女の支えになりながら、親との和解に協力する……という展開が待っている。
俺はこのキャラがとても好きで、何十回と繰り返しプレイした。かなりありがちで退屈なストーリー展開なので飽きもあったが、角野玲奈というキャラがそれ以上に大好きだった。全てのシーンでの彼女に毎回心を震わせ、エッチシーンでは毎回律儀に抜いていたものだ。
その彼女が。角野玲奈が今、隣にいる。
事ここに至って漸く、俺は自分の状況を把握し始めていた。
何故だか分からないが、俺は今、「幸せをあなたに」のゲームの世界にいるようだ。
昼になった。
午前の授業のことなど覚えていない。憧れの角野怜奈が隣にいるというだけで何にも集中できなかったのだ。取り敢えず気持ちを落ち着かせようと、誰かに声をかけられる前に教室を出て、気付く。
学校の構造が分からない。
「幸せをあなたに」は今時珍しい、共通ルートと呼ばれる部分が殆ど無いつくりだ。プレイヤーは昼と放課後に誰と過ごすかを選択することで物語を進めていく。一定回数一緒に過ごすとフラグが立って、悩みや秘密を打ち明けられて個別ルートに入るのだ。
(移動中の描写が殆ど無いから、学校のどこに何があるのかよく分からない)
「おっ。悠斗じゃないか」
途方に暮れてボーっとしていると、前から歩いて来たのはこれまたヒロインの一人だった。
井上美咲。
彼女は幼馴染キャラだ。玲奈とはまた違った明るさがあり、活発でちょっと男勝り。家は離れているが、幼稚園から主人公と一緒な彼女は主人公にだけは乙女な面も見せる。典型的な、しかし魅力的なキャラクターだ。
そんな彼女には学園でも隠れファンが多い。ファンの一人に告白されたことを主人公に相談してくるのが、彼女のルートの始まりだ。美咲のお願いで主人公は彼女と偽のカップルになり、偽装デートを繰り返す中で本当の恋人になっていく……というストーリー。
「み、美咲……さん」
「は? あっはっは! なんだよ急にさん付けとか! なんの遊びっつー」
「ああいや、ごめん。えっと……美咲、食堂行かないか?」
食堂への行き方は分からないが、舞台としてはストーリー中何度も出てきた。あるはずだ。
「えー? 珍しいな、悠斗が誘ってくるなんて。一緒に行きたいんだけどねー、今日は先約があるんだ、明日いこーぜ!」
「そ、そっか。わかった」
ばいばい、と手を振って歩いていく美咲を見送る。先約があるんじゃしょうがないが、結局どこに食堂があるか分からないから一人では行けないのだ。困った俺は、取り敢えず適当に移動してみることにした。
食堂は一階にあるだろうという予想のもと、一階に下りてみた。
「なんだろうこの感じ……き、きゃいきゃいしてる……」
うまい言い回しが思いつかなかったのだが、まさにそんな感じだった。一年生の教室棟だからだろうか、俺達二年の教室よりも、フレッシュな感じがあるのだ。
……うまい言い回し、あったじゃん。フレッシュでいいじゃん。
「って、ん? 一年生といえば……」
後輩にも一人、ヒロインがいた筈だ。
白井染梨。
後輩キャラだが、学校内で出会うことは基本的にできない。彼女の問題は「引きこもり」だからだ。
主人公が昼ごはんの時にクラスメイトとゲームをし、負けた罰でコンビニまで買い物に行く……というよくわからないシナリオの際、人目を避けつつもコンビニに出てきていた染梨に出会うという展開だ。彼女が気になった主人公は、その日から毎日昼に抜けだしてはコンビニに通い、警戒されながらも仲良くなる。染梨は交際を通してまた学園に行きたいという意思を持ち始め、二人で引きこもりを克服していくのだ。一番平坦だが一番ヒロインの魅力が出ている話でもあり、人気があるのだが……出会って以降の昼行動が全て、彼女に会いに行くことで潰れるため、フラグを立てるともう抜け出せない一直線ルートとしても有名だった。
「そういえばそのイベントって何日目だっけな? 急いで教室出てきちゃったけど、それが今日だったら……まずいかな」
というかそもそも今日はゲーム時間では何日目に相当するのだろうか。選択肢を全部覚えているわけじゃないが、せめてゲーム知識を参考にはしたい。
まあ彼女は、ルーチンとして毎日昼にコンビニに通っている筈。イベントを逃していても、昼にコンビニに行きさえすれば出会えるだろう。
そうこう考えてながら歩いているうちに着いたのは、食堂ではなく購買だった。
(んー……歩き回るので結構時間経っちゃったしなあ、購買で済ませるか……そうだ、それに)
それに屋上に行けば、四人目のヒロイン、最後の一人に会えるはずだ。
そう思った俺は、購買でパンを買い屋上を目指した。
最近の学校は基本的に屋上に入れない。
が、ギャルゲーにそんな常識は通用しないし、それどころか何故か都合よくヒロインと主人公以外入って来ないのまで含めてスタンダードだ。
それはどうやらこの世界でも「お約束」であるようで。
「あら、佐倉くん。こんにちは」
そこで待っていたのは、案の定先輩ただ一人だった。
岩倉音葉。
先輩ヒロインにして、そして最も重いストーリーを持つキャラだ。なんと彼女の物語は、性的暴行を受けているところを、主人公が目撃して始まるのだ。
日々のストレスで心が沈んでいた彼女は、美術部の親友の作品を破壊してしまい、それを変態教師に見られていた。彼女は内緒にしてもらおうと身体を差し出し、その際に撮られていた映像で脅迫され続けるのだ。勿論その後のストーリーでは彼女を支えつつ救い出し、教師を痛い目に合わせるのだが……これには発売直後から賛否両論、争論の絶えないルートとなっていた。そもそも「幸せをあなたに」は、若干話が重めではあるが基本的にはイチャラブゲー。女の子とのキャッキャウフフがウリの作品だ。他のルートはそうだし、絵風もとても可愛らしい。そんなゲームに「非処女キャラ」が出てきた時点で一部の信者は大激怒、それが「脅迫強姦もの」であったとあれば、荒れて当然という話だった。
しかしながら、何度も絶望しながらも主人公以外には最後まで隠し通し、戦い抜く彼女の姿は、過去に行われた人気投票で一位になるほどの人気を得た。
という背景があるものの、その辺は個別ルートに入ることで知ることができるわけで、つまり今の俺と先輩の関係は、可愛い後輩と優しい先輩、というだけの筈だった。
「ご飯買ってきたんだ、こっち来て一緒に食べましょ?」
「はい」
裏を感じさせない穏やかな笑顔。俺は先輩の隣に腰かけて、昼食を食べ始めた。
会話をしながら思考を巡らせた。午前中いっぱい呆けてしまったので、会話を楽しみながらも遅れを取り戻さなきゃ、と思ったのだ。
まず――ここは何処なのか?
「幸せをあなたに」のゲームの世界らしい、ということは分かった。が、どういった状況なのだろう。俺がゲームに入り込んだ? ゲームそのままの異世界があって主人公に憑依かなんかで入り込んだ? それともそもそもただの夢?
正直考えてもわからないことなので、次の思考、どういった行動をとるべきなのかに繋げていく。俺がゲームに入り込んだのならゲームの知識もそのまま使えるはず。何度もやり込んだゲームだ、流石に細かい日付や選択肢は覚えていないが、大まかな流れくらいは分かっている。簡単に攻略できるはずだ。
ここが異世界だとしても変わらない。今のところ各キャラクターに大きな差異は感じられないのだからなんとか攻略できるはず。寧ろゲームの世界であった場合と違って、異世界から帰れる望みは薄いだろう。積極的に彼女を作っておくべきだ。
最後に夢。これはもうなんの問題も無い。「夢で死ぬと現実でも死ぬのでは?」なんてのも恐らく関係なし、このゲームのストーリー中では誰も死なないからだ。先輩ルートの教師すら死にはしない。加えてバッドエンドも存在しないので、誰かのルートに入りさえすれば安泰だ。
そうと決まれば、方針は決まったようなものだった。
「うし」
「? どうしたの、佐倉くん?」
え? と見ると先輩が不思議そうな顔をしていた。声に出てしまったことに気付く。
「ああいえ、ちょっと将来というか、人生のことを……なんとなく方針が決まったなあと」
「え、すごーい! まだ二年生なのにねえ、偉いわ。私にも教えて?」
「な、内緒ですよ」
「えー」
わざわざ先輩に言うようなことでもない。というか、言えない。
先輩と話をしていながら、俺はこれから、角野玲奈を攻略しようと決めたのだから。
別に深い考えも必要なかった。
「大好きな玲奈ちゃんが目の前にいるんだ。彼女を彼女にしたい。……ん? えっと、付き合いたい!」
そしてあわよくば、玲奈と童貞を卒業したい!
とは流石に、誰も聞いていなくても口には出せない。それに、一番詳しく個別ルートを覚えている彼女が最も攻略が容易だという打算もあった。
というわけで時は過ぎて放課後。
「それではHRを終わる。気をつけて帰るように」
なんとも古風な担任の言葉の後に隣席を見ると、既に玲奈の姿は無かった。え? と思って周りを見渡すと、他のクラスメイト達はまだ席を立ち始めたばかりだ。
(HR始まる前はいたよな……?)
疑問に思いながらも放課後の行動を考え始めたところで、気付いた。そうだ、玲奈は「放課後図書室にいるキャラ」なのだ。たった今HRが終わって「放課後になった」から、「図書室にいなければならない」。だから突然いなくなったように見えたのだろう。
「変なところでゲーム設定に忠実だな……」
HR中からずっと見つめてたらどうなるんだろうな、なんて思いながら、俺は図書室に向かった。
俺たちの仲は順調に進んだ。
最初こそ、突然俺がゲームの癖で「玲奈ちゃん」と呼んでしまい驚かれたが、それ以外は流れに忠実だった。読書が趣味である彼女と図書館で少しずつ距離を縮め、何度かお昼を一緒に食べたりもした。どうやら俺が目覚めたのはゲームで言う最初の時期、学期のはじめだったらしかった。予定通り、春の終わりを感じる頃にはじめての休日デートに至った。
その後もデートを何度か繰り返すと、玲奈に父親がいないことを教えてくれる。しかも母親とも不仲で本当は仲良くしたいという話を聞き、一緒に和解の方法を考え始める……。
最高の気分だった。何度も何度も画面越しになぞった流れを、大好きな人の隣で、自分が体験しているのだ。幸せの絶頂と言ってもよかった。まさかこんなよく分からない状況で、人生の絶頂を迎えるとは。人生とはわからないものだなと本気で思った。
最初の日以来他のヒロインと会うこともあまりなかった。そもそも美咲はクラスが違うし、後の二人は学年が違う。というか染梨に関しては、昼行動の確保のために出会ってもいなかった。一回くらい会ってみたかったが昼行動全縛りは厳しすぎだ。
(でもゲームとそのものじゃないんだし、会うだけなら大丈夫だったのかな? 今更遅いけど……)
玲奈とは、ゲームの通り十回目のデートで初エッチをした。
お互いに実家暮らしなのでホテルに入ると、通された部屋の内装までゲームで見たのと同じだったのには驚いた。ゲームと同じ部屋に入れたという事だ。
そして、残念ながら体位に至るまでゲームに忠実だった。俺は最初くらい正常位でと思っていたのだが、玲奈は頑として譲らなかった。ゲームの通りに騎乗位で初エッチを終えるころには、玲奈が可愛いし気持ちいいからまあいいか、と思っていた。
日常の終わりは突然だった。
「B組の井上さんが、昨夜、亡くなったそうです。全校集会がありますので、講堂に移動してください」
「は?」
……なんだって?
ダレガドウナッタッテ?
聞こえていないわけじゃなかったが、言葉の意味が分からなかった。言葉の意味を理解しても、文章の意味を頭が理解しないのだ。
井上美咲は、俺の幼馴染だ。
亡くなったというのは、死んだという事だ。
この二つが結び付かない。
講堂に移動した。学園長の長い話を聞いた。すすり泣く声があちこちから聞こえた。その間ずっと、隣で玲奈が俺の手を握ってくれていた。多分、俺はずっと呆けた顔をしていたと思う。
集会後は即帰宅となった。彼女は全校、学生に限らず教師たちからも人気があり、誰も彼もが悲しみに暮れていたからだ。私立ということもあり簡単に休講は決定し、みんな一斉に帰路についた。
玲奈は俺が家に入るまで隣で手を握ってくれていた。なんとかありがとうと言って、彼女を見送った俺は、自分の部屋に戻ってすぐにパニックになった。
(この展開は、知らないぞ……!?)
死という、イレギュラーによってだ。
これまで俺はゲームでの知識を元に動いて来たし、それで順調にいっていた。
ゲームのストーリー中では誰も死なない。先輩ルートの変態教師ですら死にはしない。だから俺も死んだりはしないと、安心材料にもなっていたのだ。
(それが、崩れた……!)
一気に何も信じられなくなった。もう確信を持って動けない、自分の知識が頼りになるか分からない。パニックが極まった俺は何故か、いつの間にか泣いていた。
そしてそんな風に、自分のことばかり考える俺が。彼女だって何度も攻略した、美咲の死という事実をもっと悲しめない自分が嫌になって、もっと泣いた。
美咲の死から一ヶ月がたった。
辛い時期の玲奈の支えもあり、俺と彼女の関係は今のところ上手くいっていた。
俺も少しだけ立ち直ってからは、彼女のルートの役割に戻っていった。少なくともそこだけは、今のところゲームの通りに進んでいるという事実に安心したのかもしれない。
俺たちは少しずつ、玲奈と母親の和解に向けての作戦を詰めていた。一週間後の日曜日に食事の約束を取り付け、そこで決めることにした。
美咲の死と並ぶ大事件が起こったのはそんな時だった。
「悠斗くん! ニュース見て、ニュース! 今すぐに!」
突然だが玲奈は俺のことを悠斗くんと呼ぶ。付き合って、キスしてエッチも何度もして、それでも未だにくん付けだ。そういったちょっとあざとい感じも大好きなのである。
以上、現実逃避だ。
玲奈の声は、かなり切羽詰まっていた。
俺も急いでテレビをつける。怖かった。玲奈は基本、母との関係以外で焦りを表に出すことはない。俺がかなり頑張って迫っても、夜のテクを身に着けても、全然動じてくれない玲奈がこれほど焦る内容が想像できなかった。嘘だ。想像していたのだ。
だからこそ、想像を簡単に越えられて愕然とした。
ニュースの画面には、学園が映っていた。
「こちら今回の事件があった学園の前です! 男性教師二十二人が逮捕されるという、前代未聞の大事件! 学校教育界全体を揺るがす大事件が、つい先ほど発覚したのです!」
最初は一人の男性教師だった。彼はある女学生の弱みを握り、性的暴行を繰り返していた。
彼は小心者だった。誰にもその事実をバラさず、一人で暴行を繰り返した。
しかし、それを別の男性教師が目撃し(・・・・・・・・・・)、最初の男性教師を脅した(・・・・・・・・・・・)。彼は一人、また一人と別の男性教師を誘っていき、秘密を共有する仲間を増やしていった。誰か一人にによる「ぬけがけ」を二人目が禁止した結果、最終的には一人に対し二十人以上が襲い掛かるという構図にまでなった。二十三人目、巻き込まれかけた男性教師が、このことを警察に通報したのである。
これは日本中を震わせる大事件としてニュースを騒がせた。学園も休講になり、むやみに出歩くなという連絡が来ていた。
そして俺は自室で一人震えていた。
(分かってた筈だ……俺は、分かってた筈だった……!)
いつかのように泣き叫ぶことすらできなかった。
「女子学生」の名前が報道で出ることはないが、それが誰なのか俺には分かった。間違いなく音葉先輩だ。教師に脅され性的暴行を受ける、完全に俺の知る音葉先輩の個人ルートだ。
問題は、そこで終わっていないということ。入らなかったルートの先にも、未来があったという事だ。
(俺が目撃して止めなかったから、あの教師は暴行を続けたんだ……そして、だから、別の教師に見つかった……!)
屋上で先輩と話し、玲奈を攻略すると決めたあの日。別に深くは考えなかった。玲奈が好きだから彼女を選んだ。それ自体が間違っているとは、思わない。その思考は誰にも失礼だから。
(あの時の先輩は、ゲームの通りなら既に被害に遭っていた筈。あの時何か話を聞いていれば、違った未来があったかもしれない)
いや、その後だってそうだ。美咲や先輩に会わないことを、少しでも不自然に思っていれば。違う、そんなきっかけだって必要なかった、匿名でただ一言、女性教師にでも電話を入れていればまた違った未来になったのかもしれない。
俺が何もしなかったから。
当事者たち以外ではこの世界でただ一人、その事実を知っていた俺が何もしなかったから。
先輩は何度も襲われた。
何度も何度も恐怖しただろう。
何度も何度も何度も男たちに囲まれて、どれだけ苦しかっただろう。
何度も何度も何度も何度も、それは繰り返されたのだろう。
(俺が何もしなかったせいで……)
一か月前。支えてくれた玲奈も、今は隣にいない。
俺は一人、部屋から出ずに、自分を責め続けた。
そのまま五日間が経った。
俺はトイレ以外一歩も部屋から出なかったし、誰とも口をきかなかった。
唯一玲奈から心配のメールには返していたが。それも三日目からは来なくなった。
何も考えたくなかった。最早自責も後悔すらも殆ど無く、ただただ無心に時を過ごした。
そして六日目の朝。
(……明日の為の、準備をしなきゃ)
俺は部屋を出た。
明日は玲奈との約束の日であるという事を身体が覚えていた。昨日の夜まで何も考えなかった頭が、勝手に思考を始めた。もうこれ以上の失敗にはきっと耐えられないと思った。
(俺は玲奈を選んだ。そのせいで取り返しのつかないことにたくさんなったけれど、せめて玲奈だけは幸せにしなくちゃ駄目だ)
もはや好きという感情よりも、シンプルな使命感。これも誰に対しても失礼な理由。それでも俺には、それが最後の心の支えになっているのだ。
やるしかない。
一週間前に建てた作戦は本当に単純なものだった。俺と玲奈と、玲奈の母の三人で食事をする。玲奈はそこで母にこれまでの感謝と自立を伝え、母も想いを玲奈に打ち明け和解。普通の親子とは少し違った形かもしれないが、これも幸せの一つの形――そんなナレーションと共に彼女のルートは終わりを迎える。
このとき、食事に俺もいるのはギャルゲーやラブコメによくある謎だし、けっこうあっさり解決したなあという感想もあるにはあった。だがまあこれでも、今までも玲奈は和解のために頑張ってきている。その努力が母に伝わったんだろう、というのがプレイヤーたちの認識だった。
同席する以上は身なりを整えておきたいというわけで、俺が今向かっているのは床屋である。当初行こうと考えていた日に事件が報道され、動けなくなっていたのだ。
(……っ)
今でも思い出すと苦しくて倒れそうになる。自分のしたことの、しなかったことの責任の重さに潰れそうだ。それでもなんとか目的地にたどり着き、散髪を終え、折角外に出れたのだからと気分転換を兼ねて服も新調した。
少しだけ気持ちが明るくなって帰路につくと、家の近くの公園で、見慣れた人影を見つけた。
玲奈だ。
最近漸く見慣れた、ゲームで出てきたのとは違う私服姿の玲奈が、ひとり公園に座っていた。
「……? 何をしてるんだ?」
意外に思って近づき、声をかける。彼女の家、仲の冷えた母と二人暮らしの住居は反対方向の筈だ。この世界に来てからだいぶ時間が経ったことで、俺も主要な建物の配置くらいは分かるようになっていた。
「……あ、悠斗、くん」
「! 玲奈、お前……なんでこんな冷たいんだ! いつからここに!?」
「あはは、四日くらいかな。最初はね、ファミレス入ったり、してたんだけど。お金なくなっちゃって」
「四日? 四日って……!」
それはつまり、俺に玲奈からメールが来なくなった日からだ。
季節は春の終わり、夏に近いくらいだ。こんなに冷たい身体は、異常だ。
「取り敢えず家に来い! 身体あっためないと!」
「あはは……ごめんね。迷惑、かけたくなかったのにな」
「迷惑なんかじゃ……! ほら、歩けるか? つかまって」
肩で支えた玲奈は、本当に冷たくてぞっとした。
「色々ありがとうね、悠斗くん」
夜。
あの後急いで家に玲奈を連れてきて風呂に入れた。衰弱が酷かったので俺も付き添った。家族には彼女の存在を知らせていなかったが、皆快く受け入れてくれた。ヒロインとの仲を邪魔しない、というゲーム上の設定だったのかもしれないが、素直に嬉しかった。そのまま寝かせ、起きた彼女にご飯を食べさせた後の、夜だった。
「……その、嫌じゃなければ聞かせてくれ。どうしてあんなところに何日も? お母さんと何かあったか?」
遂に聞いた。流石に無視できなかった。普通に考えても異常だし、ゲーム的にもこんなシナリオは無かった筈だ。
玲奈は笑って、涙を流しながら、言った。
「ごめんね、悠斗くん。明日の作戦はね、できなくなっちゃった」
それは食事会が無しになった、という話だった。
「いっぱい、考えてくれたのに。一生懸命、私の為に、作戦だって。考えてきてくれたのにね。無駄になっちゃった。本当にごめんなさい」
「いや、そんな……そんなことは、俺のことはいいんだ。でもどうして?」
何かミスをしたのか。たしか個別ルートに入ってからは、選択肢による分岐は無かったと思う。主人公の提案や、そこに至るまでの過程だってほぼ完ぺきにトレースした。どこかにミスがあったというのか。
彼女は遂にぼろぼろと涙をこぼし始めた。
「アフィーユの学生と一緒にいたら、親だと知られたら評判が悪くなる、って。私に近づくな、って。出ていけって。そう言われちゃった」
「……は?」
なんだそれは?
「悠斗くん、ニュースは?」
「……最初の一日に、見たよ」
「そっか。その後休講になったでしょ? でもあの日、報道された日は殆どの学生が登校したんだよ。休講になるか、わかんなかったから」
「俺が……行けなかった、日か」
「登校してから休講が決まって、すぐに帰されて。でも外には、たくさんテレビの人たちがいて。取材をお願いしますって、声をかけられて」
そうか。
「映ったのか……」
「取材を受けたわけじゃないよ? 私は詳しいことを知らないし、適当に答えるのはよくないと思ったから。でもまあ、そうだね。顔が分かっちゃうくらいには、映った」
「それをお母さんが見たってことか」
事件は数日で、真偽の見分けがつかないほどにたくさんの憶測が飛び交っていた。
そしてその中には、実は発端は、女子学生が男性教師を誘ったのでは、という話すらある。
教師すら惑わせる人間の、所属していた学園の同じ女子学生が、どんな目で見られるか。
「って、それじゃ何日も外にいたの危なかっただろ! 大丈夫だったのか?」
「夜はずっとファミレスにいて、日中は人通りのあるとこを選んでたから……たまに変な目で見られたけど、危なくはなかったよ。今日からはほんとにどうしようかと思ってたけど」
「なんで……なんで俺を頼って来なかったんだ!」
俺は叫んでいた。泣いている彼女を前にして、自分が不甲斐無くて、叫んでいた。
「全然いいんだ! 辛い時は頼ってくれていいんだよ! なんで俺を、頼ってくれなかったんだ!」
「だって」
玲奈は涙でぐしゃぐしゃの顔で、もう一度笑って、言った。
「悠斗も辛かったでしょ」
笑う。
「井上さんが亡くなって、今回のも、慕ってた先輩、だったんでしょ?」
その笑顔はしかし、俺の大好きな太陽みたいなそれじゃなかった。
「これ以上、悠斗が苦しむ必要なんてないんだよ。……結局最後に迷惑かけちゃって、ごめんね」
ただ、ただ俺を気遣って、思いやる笑顔。
同時に自分のすべてを諦め、捨てた笑顔。
こんな笑顔はゲーム時代は見れなかった。
こんな笑顔を見るくらいなら、画面越しのままでよかった。
そんな顔をさせるぐらいなら、もっと頼ってほしかった。
俺は一晩中彼女を抱きしめていた。彼女も俺を抱きしめ返して、眠った。
学園は割とすぐに再開した。
いくらなんでも教育機関が休んでばかりはいられないのだろう。
表面上は変わらない学園生活。
外から見れば変わらない学園生活。
しかしそこに、井上美咲の姿はもうない。
白井染梨は変わらず学園へは来ない。
岩倉音葉も学園に来ることはなくなった。彼女に罪はないため卒業はできるらしいが、その後については俺にはもう想像できない。
そして、角野玲奈は。あのままウチにいる彼女は、もう心の底から笑わない。いつも笑ってはいる。困ったように、笑っている。
そして俺と二人であるときにだけ、幸せそうな歪な笑みを浮かべるのだ。
俺は。
俺の入り込んだ主人公、佐倉悠斗は。
佐倉悠斗に入り込んでしまった俺は。
今日も、過去の選択を悔い続けながら、生きている。