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老婆1人がやっているのだろう露店には、たった一つの簪のみが敷物の上に置かれている。その両脇にあるたこ焼き屋やもろこし屋の喧噪からは隔絶された、静寂の空間。千里の他には老婆の露店に目を向ける者はいないようだ。
「こ、こんばんは」
居た堪れなくなった千里はそう口にした。
老婆は何も言わない。ただ正座したままニコニコしている。
「それ、売り物ですか?」
千里は朱色の敷物の上に置かれた簪を指差して訊ねた。老婆はゆっくり首肯する。
「そうだわね。この簪は、災厄から守ってくれる品じゃ」
「災厄から、守ってくれる……」
しげしげと簪を見つめる。別段、珍しい色形をしているわけでもない。なのに、目が離せない。何だか懐かしいような、不思議な気持ちが押し寄せてくる。
「ちょっと、触っても良いですか?」
「もちろん」
老婆は優しい声で了承した。千里は老婆の厚意に感謝の言葉を述べつつ、簪を手に取った。
漆が塗られている綺麗な簪。しかし、どこか欠けているように感じる。簪の表面をよくよく見てみると、絵柄が奇妙なことに気が付いた。半月なのか、ぱっくりと裂けている。
千里は簪を張り巡らされた行燈の灯にかざす。
「……綺麗……」
簪を売り込むことはせず、老婆は静かな眼差しで千里と簪を見つめていた。千里は老婆の視線に気付き、簪をもとの位置に戻す。
「買わないのかい」
「うん……おばあちゃんの大切なものかもと思って」
老婆は目を瞬かせる。
「だって、この簪……とても古いものだもの。おばあちゃんが使っていたんじゃないんですか?」
ほほほ、と老婆は笑った。その声はどこまでも優しく、千里を安心させる。
「人に渡したくないものを誰が露店に並べるもんかい。この簪は、わしが使っていたのではない。……今は昔、それを大切に持っておった若者がおった。生まれた直後に死んじまっためんこい妹の形見だと言うての」
老婆は簪を手に取って、それを優しく撫でた。
「簪が妹のもとへ届くようにと。来る日も来る日も若者は願っておったわい」
千里は話に聞き入っていた。
老婆はふと顔を上げる。
「あんたも思いを届けたい死人がいるんじゃないのかい?」
虚を突かれたような衝撃を受けた。
脳裏に浮かぶのは会ったこともない比呂の影。千里はぎゅっと拳を胸の前で握りしめた。
「私が思いを届けたい人は、男だもの。簪なんて……」
そう言いつつ、簪から目を離せない。そんな千里に、老婆は簪を差し出した。
「やろう。銭は要らぬ」
「え?」
「この簪はあんたのところへ来るべくして来たんじゃよ。受け取ってやっておくれ」
何のことだかわからない。しかし、最初から決められていたことのように、千里は老婆から簪を受け取ってしまった。
「あ、お金払います」
受け取ってしまったあと、ハッと我に返った千里は慌てて財布を探った。
老婆は口許に手を当てて笑う。
「心根の良い子だねぇ。近頃じゃあんたみたいな子、とんと会えなかった。ああ……とても良い気分になった……。金は受け取らんぞ。気持ちだけで十分じゃ」
そう言って、老婆は敷物を丸め始め、店じまいし出す。あまりにその動作が素早かったものだから、千里はただ立ちつくすしかなかった。店じまいを終えた老婆は最後に千里へ目を向け、片目を瞑ってみせる。
「ありがとう、ございます。これ、私の兄のお墓に供えます」
うむ、と老婆は頷いた。千里は踵を返す。
「その簪は、おめぇさんが失くしてしまった片われのもとへ連れて行ってくれるはずじゃ」
え、と振り返る。
そこにはもう、誰もいなかった。ただただ雑踏のみが視界一面に広がっている。
恐怖は、感じなかった。
「あ……」
今頃になって、千里は美子達のことを思い出した。辺りを見回すが、見知った顔はいない。
それはそうだろう。勝手に老婆の前で立ち止まったのだ。先を行っていた皆が千里を待っているわけがない。
慌てて携帯で美子に連絡してみるも、コール音もならない。この人混みのせいで電波が混み合っているのだろう。
このままここへいるわけにもいかない。兎にも角にも、千里は人垣を掻き分けて墓地へ向かうことにした。