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 他の民家とは少しばかり距離を置いて、その家は建っていた。古い日本家屋は現代建築で使われるコンクリートを一切使っていない。

 千里は擦り硝子の入った戸口を開けた。

「ただいま」

 がらんとした玄関口で声を張る。「おかえり」と奥の間から返事があった。間延びした優しいその声は祖母に違いない。

 漆喰の床は靴下越しにも関わらず、ひんやりとした感触を千里に与える。ぶるっと身震いしながら、彼女は居間に続く戸を開けた。

 熱気が体を包んだ。

「ああ、千里。おかえりなさい」

 母は台所から柔和な顔を覗かせた。千里は肩にかけた荷物を、壁際にあるソファへ放る。

「ただいま、お父さんは?」

「まだ役場にいるんだと思うよ」

 答えたのは祖父だ。

 千里は父方の祖父母、両親の四人と共に暮らしている。父はここから来るまで一時間程の場所にある町役場で働いており、いつも帰りは七時ぐらいだ。置時計を見ると、六時五十分だった。もうすぐ帰って来るだろう。

「今日の晩御飯は何?」

 台所に立つ母を覗き込み、千里は訊いた。

「千里は煮魚とサラダで……あんた以外はトンカツと春巻き」

「うげぇ」

 千里は顔を顰めた。自分だけ油物がない。

「しょうがないでしょ。あんたの食事制限あるんだから」

 母は口を尖らせる。彼女も本当は千里にも油物を作ってやりたいのだ。千里が通う高校の陸上部員には、食事制限が課せられている。鳥肉以外の肉類禁止。それは食べ盛りの千里にとって、拷問に等しかった。

「……お母さん、一切れだけ! 小さいので良いからトンカツ一切れ!」

「ふふっ、はいはい」

 母は慣れたもので、千里用の皿に一つだけトンカツを乗せてくれる。

「千里ちゃん、大会はいつかね?」

 奥の間から居間へやって来た祖母が訊いた。

「四月まではないよ。あるのは長距離選手だけ。だから、すごく暇」

 千里は冷蔵庫の中から牛乳を取り出すと、母が洗ったばかりのコップにそれを注ぐ。

「じゃあ、あんた。長距離も走ればいいんじゃないかい」

「短距離と長距離じゃ筋肉のつき方とか練習メニューが違うの。今から長距離に転向しても無理なの」

 千里は短距離を専門としている。陸上に関して疎い祖母へ説明しながら、牛乳を一気に呷った。昔はこの独特な味が嫌いだったなあと思い、舌を出す。

「千里は今、どんな練習しているのかね?」

 祖父が皺がれた声で尋ねてくる。

「うーん、一〇〇メートルのタイム計ったりとか、坂道ダッシュ、あとスタート練習とかしてる。もうすぐ、来春の大会に出る人を決める選抜戦あるし。もうちょい頑張れば出られそうなんだよね」

 そうかそうか、と祖父は満足げに笑う。

「家族みんな、千里が大会に出るの楽しみにしてるからな。千里がこんなに優秀で……比呂ひろも天国で嬉しがっているだろうねぇ」

 口端についた牛乳を拭っていた千里の手が止まる。

「……別に、私はそんなエース選手じゃないし」

 千里は仏壇に目を向けた。立ち昇っている線香の煙。飾られた果物やおはぎ。

 胸が絞られたような痛みを感じる。

「着替えてくるね」

 千里は居間を後にする。軋む階段を上がって自室へ向かった。すぐに押し入れを開ける。ぷんと脱臭剤のにおいがした。

 朝、綺麗に畳んで押し入れへ詰め込んだ布団を、乱雑に引っ張り出した。その上に倒れ込む。

 千里は天井の染みをじっと見つめた。

「比呂……か」

 野村比呂のむらひろ

 居間の仏壇に名前を刻まれている、千里の兄。

 生まれてくる前に死んでしまった双子の兄。

 喪失は胎内でのことだから覚えていないが、この時期――彼岸の時期になると虚無感に襲われる。

 まるで自分の半身がもがれたような。手足がもがれて不自由になっていくような。

 冷たく、おぞましく、仄暗い感触に囚われてしまう。

 千里は布団を握りしめた。

「比呂、あなたは寂しくないの」

 答える者はいない。



 少しして階段を下りたら、玄関口で靴を脱ぐ父と遭遇した。

「お父さん、おかえりなさい」

「ただいま」

 千里と父親は瓜二つだ、と昔から親戚や近所の人々からよく言われる。

 整った顔立ちに高身長。若い頃、それはモテたらしい。その面影は今も薄っすら残っているものの、髪の毛が後退していることが嘆かわしい。

「あなた、お帰りなさい」

 千里と父が揃って居間の戸を開けると、母が仏壇前で参っていた。彼女は父を見るや否や、すぐに座布団から足を外して父のカバンと背広を受け取った。

「遅かったのう」

 待ちくたびれたよ、と祖母が口をすぼめる。

「ごめんよ母さん。パソコンの調子が悪くてね。書類の提出が遅れたんだ」

「まだかまだかと首を長くして待っておったぞ。千穂さん、食事をお願いします」

 祖父は母に向かって頭を下げる。

「はい、わかりました」

「お母さん、私も手伝うよ」

 千里は母が持っていた皿を持ち、食卓に並べる。

 その間、父や祖父母は仏壇に参った。

 朝昼晩の食前に仏壇へ手を合わせる。これが野村家の慣例である。

「さ、千里も」

 食事を一通り並べ終えた千里を、父が手招きする。

 千里は首肯して仏壇の前に座った。線香を二つに折って蝋燭の灯にかざす。炎がくゆる。ふっとそれを手で扇いで消せば、煙が立ち上る。

 千里の脳裏に過ぎるは、生まれてくる前に死んでしまった兄のことだった。

 もし彼が生まれてきていたら、どんな表情をしていたのだろう。二卵生だったらしいから、顔立ちは似ていないかもしれない。

 千里が短髪にしている原因も、兄を意識してのことだったりする。誰にも言ったことはないが、男らしい格好をしていれば、兄の魂が自分の中に留まっていてくれるような気がするのだ。

 取り留めのないことを思いめぐらせながら、手を合わせる。

 今日も一日無事過ごすことが出来ました、と。

 合掌を終え、のろのろと立ち上がる。

 千里は食卓についた。

「はい、では……手を合わせて下さい」

 千里の号令を受けて家族はいっせいに手を合わせる。

「いただきます」

 皆、いっせいに頭を下げた。

 響くのは茶碗と箸がぶつかり合う音と、食べ物を咀嚼する音のみだ。

 テレビはつけていない。

 皆、正座で食べている。

 千里の両親は食事マナーに関してものすごく厳しい。祖父母はテレビを見ながら食べてもいいじゃないかと言ってくれるが頑として両親は拒否してくる。

 だらだらテレビを見ながら食べるのは許せないらしかった。

 千里はいつも、祖父の隣に座っているのだが、食べてる最中に足が痺れてくると、両親にはわからないようにこっそりと足を崩している。祖父はそれを、ニッコリ笑って許してくれるのでありがたい。

「そういえば……千里、秋彼岸はいつ行くの?」

「うん……日曜に美子達と行く」

 母の問いかけに、千里は答えた。すると、祖母が「明後日……」と言って食事の手を止めた。

「じゃあ、その時にあのおはぎ持って行ってくれる?」

 祖母の様子に気づいていない母は、そう言って仏壇のおはぎを顎で示した。

「わかった。ちなみに、お母さん達はもう行った?」

「お母さんとお父さんは明日行くよ。じいちゃんとばあちゃんは今日行ったって」

「そっか」

「千里ちゃん」

 祖母が声をかけてきた。千里が何気なしに祖母の方を向くと、祖母は神妙な面持ちで口を開く。

「日曜に行くんなら、絶対山ン中入るんじゃないよ」

「どうして?」

 祖母のあまりに強張った言い方に、千里は疑問を覚えて小首を傾げた。

 祖父も千里同様に首を傾げていたが、何事かを思い出したのか手鼓を打つ。

「そうじゃ、そうじゃな、ばあさんよ。……千里。昔からな、彼岸の中日は入山を禁止されてるんじゃ。山神様に会うからね」

 そう言われた千里はきょとんとして瞬きした。

「そんな……山に入ったりするわけないでしょ。安心して。お兄ちゃんのお墓は山に入る手前にあるんだし」

 そう、比呂が眠る墓は山の入り口にある。とても、ひっそりとした場所にポツネンとある。

 祖母は千里を、なおも心配そうに見る。

「じゃが……」

「大丈夫じゃろ。友達と一緒に行くらしいし」

 祖父がすかさずフォローを入れてくれたことで、祖母は渋々納得したのか頷いた。



 食事が終わると、ようやくテレビのスイッチが入った。

 テレビがついているからといって、家族が全員テレビを観ているわけではない。父は小説を読み、母は洗い物をし……祖父母はテレビ観賞をしている。そして千里はソファに寝転がって英単語の暗記をしていた。

 ……と、千里の携帯のバイブが震えた。美子からのメールだ。

 内容を確認してみると、着物があった?との催促メールだった。

 気乗りしないが着物を着ていくことを了承した手前、うちに着物があるかどうか訊かなければなるまい。

 千里は上体を捻り、キッチンで洗い物にいそしむ母親へ声をかけた。

「お母さん」

「ん? 何?」

 千里は着物の件を母へ話した。すると、

「あるわよ」

と至極簡潔に母は答える。

 母は洗い物をする手を止めて、両親の寝室へ千里を招いた。そして、大きな桐箪笥から緋色の着物を出してくれる。

 薄い紙に包まれた着物とオレンジの帯。

「……派手……」

 千里は母の着物のあまりの派手さに躊躇いを覚えてしまう。

「なんだなんだ、秋祭りに着て行くのか?」

 居間で小説を読んでいたはずの父が割りこんでくる。

 千里は鬱陶しいと言わんばかりに肩越しに覗いてくる父親を押し返した。

 父の後ろには祖父母もいた。祖母は母が手にしている着物をしげしげと見つめ、柔和な表情を象る。

「いんや、派手じゃない。きっと千里ちゃんに似合うよ」

「でも……」

「はあ、こりゃ千穂ちほさんが娘時代に着てたもんじゃないか。とびきり上等な」

 祖父の驚いた声に、千里は「そうなの?」と母を見る。母は微笑を浮かべて首肯した。

「あんたちっとも女の子らしいものを着ないから、少しさびしかったけど、これ着てくれるなら……嬉しいわ」

「うーん、でも短髪の私がこれ着たら滑稽じゃない?」

 不安過ぎる。おとこおんなと同級生の少年達にからかわれ続けてきたのだ。見られたらまたからかわれるかも……という心配が頭をもたげる。

「そんなことあるもんか。千里は俺の自慢の娘だぞ」

「お父さんには聞いてない」

「ハァ……小さい頃はあんなに可愛かったのに。今じゃこの扱い。おい千穂、ビール」

 冷たく言い放つ千里に意気消沈する父を見て、母や祖父母はどっと笑った。


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