【競演】さよならのあとで
競演に参加させて頂きました。
お題は「再会」です。
『逢坂』
彼の声が聞こえたような気がして振り返った。けれど彼の姿などあるはずもなく、雑踏の中で立ちつくす私がひとり。人の波が器用に私を避けて流れていく。
「どれだけ経ったと思ってるの……?」
ぽつりと呟く。けれど、視線は彼の姿を必死で探していた。
ふと、聞き覚えのあるメロディーが流れてきた。人の声、靴音、車の走る音、様々な雑音が折り重なった中に、その音はかすかに、それでいて確かに耳の中で反響している。
美しく、もの悲しいピアノの音色。
ショパンエチュード第三番。
「このせいか」
一人納得して、私は落胆しながら踵を返す。
これは、彼が良く弾いていた曲。
初めてこの曲を聴いたのは、高校生の頃だった。
部活動の帰りにどこからかピアノの音が聞こえてくることに気が付いて、校舎を見上げた。
辺りはすっかり日が暮れて夜闇に飲み込まれているというのに、校舎の最上階、一番端の教室にだけ煌々と明かりがついている。音楽室だ。
「合唱部がまだ残ってるのかな?」
闇に溶けるような悲しげなメロディーに気味悪さを覚えた。けれど不思議と惹きつけられる。
音楽の魔力に取り憑かれた私は、暗い校舎の階段を昇っていた。
廊下からそっと覗き見ると、予想に反して音楽室はがらんとしていた。
ここからではピアノが邪魔をして奏者の姿は見えない。合唱部じゃないなら教師が弾いているのだろうか?
細く開けた扉に体を滑り込ませた。
途端に、
「誰?」
ピアノの向こうから鋭い声が飛んできた。
「すいません!」
私は反射的に謝っていた。
「こんな時間に誰がピアノを弾いてるんだろうと思って……って、根岸君?」
低姿勢で言い訳をしていた私は、奏者の姿を認めて素っ頓狂な声を上げた。線の細い少年が座っている。
「こんな時間まで何してるの?」
「逢坂? お前こそ」
「部活。もうすぐ地区大会だから」
「地区大会? 逢坂は何部だっけ? 髪短いから運動部?」
「うん。バレーボール部。根岸君はピアノ弾けるんだね。だから合唱部に入ったの? でもうちの学校、運動部の方が強いから居づらくならない? 男子で文化系もあんまりいないし」
まくし立てる私に、彼は「違う」と首を振った。
「部活に入る気はないよ。今更だし。ピアノは借りてるだけ」
「部活入らないの?」
「まあね。いつまでいられるか分からないし」
「転校してきたばっかりなのに……」
根岸君は親の仕事の関係で、この春うちの学校に転校してきたばかりだった。三年に上がった春に部活に入るというのも、考えてみれば面倒なことかもしれない。転校を繰り返していることはすでに担任の教師から伝わっている。それでも、どこかの部活に所属していれば少しでも早く打ち解けることが出来るかもしれないのに……。
「早くみんなと仲良くなった方がいいでしょ?」
「すぐ別れるのに仲良くなってどうするのさ? 言っておくけど、俺、前の学校の連中のこと良く覚えてないし。今のクラスも覚える気無いし。覚えてたって、俺みたいのはすぐに忘れられるんだよ」
彼は自嘲気味に笑った。
「でも! 私の名前は覚えてたじゃない」
すると彼ははっとして口ごもった。
「別に……。一人や二人覚えてても良いじゃないか! ただ……」
「ただ?」
「逢坂は髪短いのより、長い方が似合うと思うと思って……」
それを聞いて私は思わず笑い声を上げた。
「やっぱり男子って大和撫子が好きだよね」
そう言うと彼はふてくされたように「別に」と呟いた。
「ねえ、さっきの曲、なんていうの?」
「え。知らないの?」
私の問いに彼は驚いていた。
「うん。音楽興味ないからさ。有名な曲?」
すると彼は、少し考えて答えた。
「ショパン。ショパンエチュード第三番」
そう言うと、彼のしなやかな長い指が鍵盤の上で踊り出す。
「綺麗な曲。ちょっと悲しいけど」
「ショパンは二度とこんな美しい旋律を見つけることは出来ないとまで言っていたんだ」
「ふーん。ショパンエチュード第三番かあ。うん。覚えておくよ」
そう言うと彼は澄んだ瞳を私に向けて、照れくさそうに微笑んだ。
それからは部活帰りにピアノの音が聞こえると音楽室へ行った。
そこには必ず根岸君が居て、ショパンエチュード第三番を飽きることなく弾いている。
彼と過ごす穏やかな時間がいつまでも続いていくような気がして、私の胸は知らぬ間に弾んだ。
けれど、そんな日々は長くは続かなかった。
彼はたった三ヶ月という短い期間で再び転校してしまう。
いつもの音楽室で、いつものようにショパンエチュード第三番を弾いて、いつものように「またな」と私に手を振って、彼は遠い場所へ行ってしまった。
私の中に永遠にきらめく時間を残して。
あの曲が「別れの曲」と呼ばれていることを知ったのは、高校を卒業してからのことだった。
あの時、彼が曲のタイトルと言わなかったのは、いずれ来る別れの時を意識していたからなんだろうか?
考えてみれば、彼が私の初恋の相手だった。
私は彼に言われたとおり、部活を引退すると同時に髪を伸ばし始めた。それ以来、ずっとロングヘアのままだ。いつか、彼に会ったら見せようと思い続けている。
春の嵐のように過ぎ去っていってしまった彼は、今はどこでどうしているんだろう。
あれから二十年近く経っているというのに、未だに彼のことをこうして思い出しているあたり、どうやら私の初恋はまだ終わっていないらしい。
*
外は霧雨が降っていた。
電車を降りると、芽吹いたばかりの若葉と土の匂いが鼻腔をくすぐる。
しっとりと煙る景色を見上げると、山の稜線が幾重にも連なっている。懐かしい風景。この景色を見ると「帰ってきた」と実感する。
私は故郷の小さな駅に立っていた。
久しぶりに同窓会が開かれるからだ。
母校が統廃合されると言うことで開かれるらしい。
いつもは面倒くささに断っていたのだけれど、不意に思いだした彼の足跡を追おうと久しぶりに故郷を訪ねた。
雑踏の中で彼の気配を感じてから、すでに季節が一巡りしていた。
「家に寄ればいいのに」
母が電話口で小さくため息をついている。
会場である小さな居酒屋の前で私は実家に電話をかけていた。
「ごめんね。仕事が長引いちゃって寄ってる暇無さそうなの。終わったらちょっと顔出すから」
謝ると、母はまたため息をついた。「せっかくあんたの好物作ったのに……」
残念そうに肩を落とす母の姿が見えたような気がする。なんだか哀れに思えてきて私は慌てて言った。
「ちゃんと食べに帰るから。終わったら必ず行く」
「絶対よ」母が念を押す。
「分かってる。じゃあまた後でね」
そう言うと通話を切った。
全く、同窓会でも食事は出るというのに、私をどれだけ太らせたいのだろうか?
そう思っていると、突然肩を叩かれた。
「ちーちゃん!」
振り返ると懐かしい顔があった。
「みっちゃん? 久しぶり!」
「私の結婚式以来じゃない? またずいぶん綺麗になって! まだ独りなんでしょ? そろそろ結婚? 今日ね、たぶんその報告ばっかりだと思うよ。あとは出産報告! 先生、必ず結婚式に出るって言ったの律儀に守ってるもん。私もね、出産報告。去年三男が産まれたの。年賀状送ったよね。男ばっかり三人ってどうかと思うけど賑やかで良いわ」
矢継ぎ早にまくし立てる。高校生の頃と全く変わりない彼女のキャラクターに私は思わず笑みをこぼした。
「結婚の予定はまだ」そう言うと彼女は少し気の毒そうに私を眺めた。
「そうなの……」
「仕事が順調だからね」
「そう……」
その神妙な面もちを見ていると「文句ある?」と張り倒したくなるのはキャリアを取った独身女のプライドなのかもしれない。
晩婚化が進んでいるとは言え、地方の田舎町では私のような女は「余り物」として見られるのだ。だからこそ私は故郷に居心地の悪さを感じて寄りつかなくなった。
「ちーちゃん久しぶりだからてっきり……」
「気にしないで。気分転換に羽を伸ばそうと思っただけだから」
私は重くなった空気を払うように笑顔で手を振った。
「ところで、みっちゃん。根岸君て覚えてる?」
「……根岸君? そんな人いたっけ?」
悪気もなくケロリとした表情で言ってのける彼女に落胆する。
『俺みたいのはすぐに忘れられるんだよ』
悲しそうに言った彼の言葉が甦った。
「逢坂千寿か! 顔を出さないと思ったらずいぶん綺麗になったもんだなあ」
担任の諏訪先生は去年教職から退いたらしく、顔をしわくちゃにして笑っていた。
「先生。根岸君て覚えていますか?」
「根岸? このクラスに根岸なんていたかな?」
先生は覚えが無いというように首を捻っている。無理もない。四十年近い教師生活の中のたった三ヶ月などほんの些細な時間だ。
「三年に上がった春に三ヶ月だけいた男の子なんですけど……」
三年の春……。根岸……。ブツブツと呟きながら記憶を辿っている。
覚えているわけもないか……。
確かにそこにいたはずなのに、みんなの記憶の中から欠落してしまった彼は、まるで実体のない幽霊のようだ。
そう思ったとき、諏訪先生は手を打って声を上げた。
「ああ! 根岸な。根岸貴之」
その名前が人の口から出てきたことで、彼は急速に形を取り戻した。
「確か、ご両親の仕事の都合で各地を転々としていたはずだな」
「先生、根岸君と連絡を取っていたことなんてないですよね? その後どこへ行ったのか中なんて分かりますか?」
「転校してしばらくはやり取りはしていたが……。その後は確か、横浜の方へ行くとか……」
そう言うと諏訪先生は何かを思いだしたようにはっと息を飲んだ。
「どうしたんですか、先生?」
「嫌なことを思い出しちまった」
「嫌なこと?」
問い返すと、先生は「ああ」とうなずいた。
「わざわざ落ち込ませるようなことをしたくなかったから言わなかったんだが……」
言い淀む。何か悪いことでも起きていたのだろうか……?
「先生?」
小さく呼びかけると、諏訪先生は声を低くして言った。
「今だから言えるが、根岸は転校先で亡くなったらしい。交通事故だ」
その言葉に、私の世界が大きく傾いた。
亡くなった? 転校先で? 二十年も前に彼はいなくなってしまったの?
*
気が付くと暗闇の中を歩いていた。
ぽつりぽつりと立つ外灯が霧雨の中でぼんやりと光っている。
衝撃のあまり会場を飛び出してきてしまったようだ。
髪が雨に濡れて毛先から水が滴っている。
どこへ行くの?
自分へ問いかけてみる。けれど、返事などあるわけもなく。私はただ暗い小道をひたすら歩いていた。
どれくらい歩いただろうか。
ハイヒールを履いた足が痛い。
ふと、ピアノの音が夜闇に溶けるように響いていることに気が付いた。
古い木造の校舎が闇の中で微かに光を放っているのが見える。
私は懐かしい母校の校舎の前にいた。
ピアノは悲しいメロディを奏でている。
ショパンエチュード第三番。
私はそれに気が付いて、痛む足も気にせず走り出した。
昇降口の扉を開け放ち、廊下を走る。階段を一段飛ばしで上がった。
音楽室。
窓から零れる明かり。
ピアノの音。
一体誰が弾いているの?
予感めいた何かが私を支配する。
それはきっと、彼だ。
彼しかいない。
私は音楽室のドアをそっと開けた。
途端に、激流のような風が私を包み込んだ。
「久しぶり」
聞き覚えのある声が聞こえた。
相変わらずメロディは鳴り続けている。
まさか。
私はそっとピアノに近づいた。
そこには根岸君がいた。
あの頃と何も変わらず、線の細い少年が制服を着てピアノを弾いている。
「根岸君?」
そっと囁く。
「ごねんな、逢坂。俺にはこれくらいしかしてやれない」
澄んだ瞳が私を見上げる。
「先生は冗談を言ったの?」
自分に問う。それに彼が答えた。
「先生は冗談なんて言ってない。ただ事実を言ったんだ」
「でも! 根岸君はここにいるじゃない!」
怒りのような悲しみのような不思議な感情が沸き起こる。
「死んだなんて嘘でしょう? 根岸君、最後に言ったじゃない『またな』って」
「うん。だからここでずっと待ってた。いつか、逢坂が来てくれるんじゃないかと思って」
そう言うと、彼はそっと手を止めた。突然止まったメロディは小さく反響して止んだ。
彼はゆっくりと立ち上がって私に向かい合った。
「二十年も前に俺は死んでる」
その言葉を聞いて私の視界は大きく揺らいだ。あふれ出した涙がポロポロと頬を伝う。
「嘘! ちゃんとここにいるじゃない! ピアノを弾いていたじゃない!」
子供のように泣きながら私は彼に向かって言った。
「あの時『またな』って言ったじゃない! 私、ずっと待っていたのに……!」
死んじゃってるなんて、ずるいよ。
そう言って私は泣きじゃくる。涙はあとからあとから溢れてきて止むことを知らない。
「ごめん」
彼は再び謝って、そっと手を伸ばす。しなやかに長い指が私の頬を滑って丁寧に涙を拭った。
けれど、せっかく彼が拭ってくれても涙は一層溢れる。
「ちゃんと、暖かいじゃない」
その事が悲しかった。
彼は確かにここにいて、温もりが確かにあって、なのにもうどこにもいないなんて。信じたくなかった。
「ここは、俺と逢坂の記憶の中。俺はずっとここで生きていた。体は無くなったけど、心はずっとここにいた。ずっと逢坂の隣にいた。あの時、伝えられたなかったことを伝えるために」
「……あの時?」
「そう、あの時」
そう言って彼は私の手を優しく握りしめた。
「最後の日、『またな』じゃなくて『好きだ』って言いたかった」
彼の瞳が私を見つめる。
「逢坂、好きだよ。今までも、これからも、ずっと」
「そんな悲しいことを今言わなくたって良いじゃない。今までも、これからも、根岸君にはそんな時間は無かったんだから」
ただただ悲しかった。二十年という時間は私にとってはあっという間だった。けれど、あなたはその時間を生きることさえ出来なかったのに、そんなことを言わないで。まるで同じだけの時間を感じていたようになんて。
「言っただろ? 俺の心はずっと逢坂の隣にあった。同じ時間を、同じだけ生きていた。ずっと一緒に」
「でも」
首を振る私を、彼はそっと抱きしめた。
「理屈でなんて説明できない。でも、ずっと好きだったんだ。死んだあともずっと」
そう言う彼の体温はやけどをしそうなくらいに熱かった。胸の奥ではちゃんと鼓動も聞こえる。
死んでいるなんて嘘。
そう思いたかったけれど、彼はあの頃と全く変わらず若いまま。その事が事実を告げている。
これはきっと夢なんだ。
私の心が見せる夢。
それは残酷で幸せな夢。
私は彼の胸の中で静かに泣いていた。
「高校を卒業したら、こっちの大学に進学しようと思ってたんだ」
唐突に彼は言った。
「そしたら、チャンスなんていくらでもあると思ってた。だからあの時、俺は『次がある』と思ったんだよな。だから今はまだ言わなくてもいいって……。それがいけなかったんだ」
「なあ、逢坂。運命ってあると思う?」
彼はそっと私に問いかけた。けれどそれは答えを求めるものではなく、彼は静かに語りだした。
「初めて逢坂に会ったとき、これが運命だと思った。わかったんだよ。俺はこの人とずっと一緒にいるんだって。俺が親に縛られずに自由になったら、きっと迎えに行こうと思ってた。いつか結婚して、子供が産まれて、孫が生まれて。ずっと二人で手をつないで生きて行くんだと思ってたんだ」
想像する。彼と生きていた私を。二人で手をつないで長い道のりを歩いている自分を。それはとても幸せな人生。
けれど、そんなことは途中でやめた。
「……そんなの、ただの絵空事じゃない」
「今となっては確かめる方法は無いけど、唯一あるとすれば、逢坂が今でも独り身だってこと。逢坂は俺と結婚する運命だったから。だから、ごめん。そばにいてやれなくてごめん。辛いときも悲しいときもずっと独りで耐えてきたんだよな」
「そんなことない」私は首を振った。
「これは私が選んだ結果。根岸君とは関係ない」
気丈に振る舞おうとする私の顔を、彼は不安そうにのぞき込んだ。
「なんでそんなに強がろうとするんだよ。全部俺のせいにすればいいだろ? 『責任取れ』って、泣いて喚けばいいだろ?」
「……責任なんて取れないくせに」
「取って良いなら取るよ。逢坂を離さないって世界中の神様に誓う」
そう言って私をきつく抱きしめた。
「……根岸君は、私を連れていくの? そのためにずっと待っていたの?」
小さく囁くと、彼は私からそっと離れた。
「そんなことはしたくない。逢坂は俺の分まで生きないと駄目だ」
「支離滅裂」
「わかってる」
「根岸君はずるいよ」
「自分でもそう思う」
「運命なんて、私は信じないから」
「逢坂が信じなくても俺は信じてる」
「全部私が、自分で決めたの」
「そう思いたいならそれでいい。でもこれだけは信じて欲しい。俺は逢坂のことが好きだ」
「そればっかり」
「一番伝えたかったことだから。逢坂は、俺が嫌い?」
その言葉に、私は小さく首を振った。それを見て彼は満足そうに笑みを漏らす。
「俺もずっと不安だった。逢坂に何も言えなくて、何も伝えられなくて、俺はただ記憶の中に留まって意味があるのかと思ってた。でも、ちゃんと伝えられた。俺はそれだけで満足だ」
「……根岸君はいなくなってしまうの? もう二度と会えないの?」
「根岸貴之としては会えないだろうけど、またどこかで会えるよ。今日か、明日か、三年後か。いつになるかわからないけど、俺は必ず逢坂を見つける。そういう運命だから」
そう言うと、彼はまじまじと私を眺めた。
「髪、やっぱり長い方が似合ってる」
長い指が私の髪を優しく梳く。
「千寿」
不意に名前を呼ばれて、顔を上げた。
目の前には彼の顔。
唇がそっと触れ合う。
驚いていると、彼は照れたように笑った。
「ずっと狙ってたんだ」
おどけるように言って頭を抱き寄せる。
「とりあえず、さよならだ」
「……ずっとそばにいるって言ったのに」
「また、必ず会いに行くよ」
そう言って彼は私の手を鍵盤の上に置いた。
「ショパンが聞こえたら振り返って。俺はきっと逢坂を必死で探してるはずだから」
「絶対にそうだって言える?」
振り返ったときには、彼の姿は消えていた。
明かりは次第に小さくなり、やがて消えた。
私は椅子に腰掛けてピアノをそっと撫でた。
どこかで彼の弾くショパンエチュード第三番が聞こえるような気がする。
*
「おばさん。邪魔」
突然肩を叩かれて目が覚めた。
無理な体勢で寝ていたらしくひどく腰が痛む。
どうやらピアノにもたれかかっていたらしい。
「ここどこ?」
ぼやける声で自問する。
すると答えは頭の上から降ってきた。
「音楽室」
「え?」
見上げると高校生らしき少年が私を見下ろしている。
「なんで?」
音楽室にいるの? というか、君は誰?
「こっちがなんでだよ。どこから入ったの? 廃校になったから校舎は空だけど、一ヶ月前だったら完全な不法侵入」
少年は私を押しのけるとそそくさと椅子に腰掛けている。
なんでこんなところにいるんだろう? 昨夜は同窓会だったはず。途中までは覚えてるんだけど……。どうして学校になんて来たんだろう? どうも記憶があやふやだ。全く覚えていないけれど、相当飲んだらしい。
腰を軽く叩きながら首をかしげていると、少年が声をかけてきた。
「泣いたの?」
「え?」
「泣いた跡がある」
ぶっきらぼうに言う少年に、私は慌てて顔を拭った。けれど、涙の跡など指先でわかるわけもない。
昨夜何かあったのだろうか? うーん。思い出せない。
「君。そういうことは気が付いても黙っておくものじゃないの?」
「俺、空気読めないから」
少年はあっけらかんと言い放つ。
「そう言う君だって不法侵入なんじゃないの?」
「あいにく俺は先月までここの生徒だったんで」
「だからって無断で入るのはいかがなものかな?」
「それはおばさんだって同じ」
屁理屈な少年だ。
私は教室を出ようと放り出されていた荷物を拾うと立ち上がった。
バッグの中で何かが震えている。
きっと母だ。昨夜帰らなかったからなあ。相当ご立腹かもしれない。
げんなりしていると、聞き覚えのあるメロディが流れ始めた。
はっとして音楽室を振り返る。
少年が涼しい顔をしてピアノを弾いている。
「ショパンエチュード第三番」
思わず声に出して言うと、少年は「へーえ」と声を上げた。
「おばさん音楽詳しいの? 普通の人だったら『別れの曲』で覚えてるよね?」
「詳しくないけど……」
何かに引き寄せられるように私は少年の傍らに立った。
少年の白く長い指が鍵盤の上で優雅に踊っている。
「いつもここで弾いてるの?」
「まあね。家にピアノ無いから」
「青春の一曲?」
冗談めかして言う少年に、私はうなずいた。
「昔、好きな人が弾いてた曲」
「ふーん。ずいぶん感傷的」
「それは君だって」
「俺は別に……」
「なに? 好きな子に聞かせようと思って練習してるの?」
「『別れの曲』を? まさか」
少年は呆れるように笑う。それでも指は優雅に踊っている。
「ただ……」
「ただ?」
「……使命感みたいなもの?」
「なにそれ」
意外な返答に今度は私が笑った。
「ここでこの曲を弾くことに意味があるような気がするから……」
「なにそれ?」
メロディは山場を迎えてゆっくりと終焉に向かっている。
山際から顔を出したばかりのまばゆい朝日の中で聞くショパンエチュード第三番にはまた違った趣がある。
余韻を残して演奏が終わると、少年は神妙な面もちで私をまじまじと見上げた。
「なに? そんなにひどい顔してる?」
そう言うと、少年は考えを振り解くように頭を激しく振って声を上げた。
「全然趣味じゃないし柄でもないんだけど……」
「うん?」
「おばさん、運命って信じる?」
「え?」
その瞳の中に懐かしい気配を感じた。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
なんだかぐだぐだで申し訳ないです。
もっと精進します。