賢い友人と革表紙
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こちらは創作日記から抜粋した小話となっております。
古びた窓が、がたり、となった。
そこに誰かいるのか、僕は呑気に窓を見つめる。手元の本のページが隙間風でめくれた。革の表紙のその本は、友人から借りたものだ。本当はもう、読了している。しかし、その友人が帰らない以上本を返すことは不可能なわけであって、結局僕は、引き込まれるようにその本を読み続けるしかないのであった。
湿気った隙間風が髪を撫で付ける。気持ち悪い。髪の中を蛆虫が這い回るような気持ちだ。けれども風は僕のそんな不快感はお構いなしに、ひゅう、と吹き付け続けているのだった。コーヒーの表面に波紋が広がることにさえ、何の情緒も感じられない。
さすがの僕もこれには参った。僕はうるさいのとへばりつくのが厭だった。この本を貸した友人は、静かで孤独を好む、僕にとっては理想的な友人であった。それゆえ僕らは、僕ら以外の何かの介入というものをことごとく嫌った。排斥したと言ってもいい。とにかく僕らは、僕ら以外の何ものをも寄せ付けようとはしなかったのだ。
だからこそ、あの良い友人のいない家で、友人の本を読んでいた僕の邪魔をした忌々しい風が、僕にはなんだかとても煩わしく思えた。テーブルの上にひっそりと置かれた花瓶で叩き砕いてしまおうかとさえ思える程、僕はそれが厭だった。しかし当然の如く、形あるもので形ないものが砕けるはずもなく、実際僕はただ風になすがままあるしかないのであった。
よくよく見ると、隙間風はなにも窓の隙間からのみはみ出ているわけではないようであった。木造の壁の隙間、木目と木目の境界線からも、風がにじみ出ている。じわじわと、まるでこの部屋全体を取り囲み浸食せんと画策しているように、風は僕の周囲を取り囲んでいた。ここで僕はあるよくない妄想に取り付かれた。この風を吸い込めば最後、僕は肺から腐り落ちて死んでしまうのではないか——?
首を振った。否、そんな莫迦なことがあるものか……。仮にあったとして、そんなものは空虚な夢幻、良くない生活習慣の生み出す悪夢という奴だ。そうに違いない——僕はそう思うことにした。床にコーヒーカップが落ちていた。
はた、と音が止んだ。もうあの風は窓を揺らすことを諦めたようだった。ほっとした。ずるずると背中をこすりつけながら、僕は風のにじんだ壁に寄りかかった。僕の頭を這いずる蛆虫も、もうどこかへ行ったようだった。やはりこれは僕の鬱屈した想いの生み出した良くない幻想だったのだと思った。手が震えていた。
僕は足場を探るようにして立ち上がった。けれども、自分が立ち上がっているのか、いないのか分からず、困惑した。はて、と思った。つまりは首を傾げた。しかし、頭を斜めにしてみたところで、どうにも答えは見えないようだった。とうとう僕は困り果てて、今度は声に出して「はて」と言った。
ぐわんぐわん、と反響したかのように聞こえた。否、そんなはずがないこともまた、僕は分かっているのであった。それでもやはり、ドラム缶を拳で殴りつけたような鈍くて滑稽な音が、はて、と聞こえてくるのであった。
そろそろ僕も怖くなってきた。こんなことは今までなかった。初めての体験だった。そしてまた、一生体験することはないだろうと思われた類いの出来事だった。僕は僕自身に課した「これは夢だ」という思い込みを、すっかり忘れ去っていた。
不意に、友人のことを思い出した。あの静かでしっかり者の友人なら、こんなときどうしたのだろう。僕の頭はやけに冴えていた。少なくとも、鈍らではないようだった。先ほどの愚鈍な風が研ぎすまさせたのかしら? そんな莫迦みたいな考えが頭をよぎった。鼻で笑った。
友人のことを考えていたら、今度はあの革表紙の本のことが思い出された。題名はなんだったろう。あんなにも繰り返し読んだのというのに、僕はその本の題名も内容も思い出すことができなかった。しかし、そんなことを気にするほどの猶予も、僕にはないような気がした。咄嗟の考えで動くな、判断しろ。そんなことをあの賢い友人に言われたのを思い出した。
本に触れた。湿気って、生暖かかった。蛆虫どもが蠢くのを感じたが、気にしなかった。表紙を開いた。そこにはなんだか、この世のものではない言葉が書かれていたような気がした。僕はこんなものを読んでいたのかと、他人事のような感想を抱いたことだけが、その記憶を裏付けるものだった。
本は気味悪い風と蛆虫とを食らい尽くして、そのまま黙りこくってしまった。
その後本を開いてみたけれど、そこには何も書かれていなかった。
なんと言い訳すれば、友人は許してくれるだろう。そのことで頭がいっぱいだった。
新しく買い直せばいいと思ったが、やはり僕は、その本の題名が思い出せなかった。
本は、ただ革と革に挟まれた紙っぺらに成り下がってしまった。
数ヶ月、数年経っても、結局友人は帰らなかった。
お読み頂き誠にありがとうございました。