第6章第6節
お待たせしました。第6章6節です。
アルカザムに存在するグローアウルム機関では、様々な研究が日夜行われている。
この機関の研究所自体はソルミナティ学園の西側に隣接する形で作られ、ソルミナティ学園の付属校であるエクロスとは学園を挟んで反対側にある。
その研究所の一画では、職員であるトルグレインとソルミナティ学園の生徒であるトムが忙しそうに動いていた。
2人の出会いは、やはり学園での授業。元々錬金術に関してかなりの優秀な生徒であるトム。錬金術の授業で、積極的にトルグレインに質問をしていた。
元々大人しい性格のトムと穏やかなトルグレイン。2人は話を重ねる内に意気投合し、トムは時々トルグレインの元を訪れては色々な話をし、そんな中で助手として研究の手伝いなどをするようになったのだ。
今回、彼とトルグレインが行っているのは実験に使う魔法陣の制作。
教室が丸々1つ入りそうなほどの大きな実験室の中心に、その魔法陣が描かれていた。魔法陣の周囲には8個の魔石が同心円状に配置されている。
さらに魔法陣からは何本もの線が様々な染料で描かれ、離れた場所に置かれた水晶球へと延びていた。
「先生、この陣はこれでいいでしょうか?」
「ええ、お願いします」
トムは周囲に配置された魔石にさらに魔法陣を描いていた。そんな彼の姿を、ミムルは実験結果を記録するための机の上で、足をブラブラさせながら眺めている。
「ねえトム、それ何に使うの?」
「ん、これ? 魔法陣に流れる魔力を安定させるための陣だよ」
「へえ~」
気の無い返事を返すミムルだが、その顔には笑みが浮かんでいる。目の前で作業に没頭している彼女の恋人がキラキラと目を輝かせていたからだ。
いつも気弱でオドオドしているトムだけど、錬金術をしている時の彼は本当にいきいきしている。そんな彼の姿を見ていると、自分まで嬉しくなってくるのだ。
“しょうがないなぁ”と思いつつも、ミムルは自分の口元が緩むのが止められなかった。
そんなミムルの様子には気付かず、トムはトルグレインの指示を受けながらせっせと魔法陣を描いていく。
周囲に配置された魔石は足りない魔力を補うための物だ。描かれている魔法陣は巨大で、かつ複雑だ。これだけ巨大ともなると、人一人の魔力でこの魔法陣を発動させることは難しいのだろう。
こんな巨大な魔法陣を用意するのだ。行われる実験が相当大がかりなものであることは間違いない。
「先生、この魔法陣は一体何に使うものなのですか?」
「う~ん。手伝ってもらっている手前、隠すのは気が引けるんだけど……」
ダメ元でトムはトルグレインにこの魔法陣の使用目的を聞いていてみるが、トルグレインの返答はやはり芳しくない。
無理もないだろう。いくら優秀な生徒とはいえ、おいそれと研究内容を漏らしたりはできないのだ。当然、この研究所に入ることができる人間も限られている。
いくら将来有望でも、今研究所内では一介の助手でしかないトムには重要な研究内容を簡単に話す訳にもいかない。
トムはこの研究所内ではトルグレインの助手ということになっているが、彼が関われる研究範囲は限られているのだ。まして今は研究とは全く関係ないミムルがこの場にいる。
理由はミムルがトムと一緒に行くと駄々を捏ねたせいであり、苦笑を浮かべながらも人のいいトルグレインが了承したからだ。
実の所、彼女がここにいられる理由は完全にトルグレインの善意でしかない。
「すみません。変な事聞いちゃいました」
「いや、そう言ってもらえると助かるよ」
言いよどむトルグレインの様子に、トムは困らせては悪いと思って引き下がった。
トムの視線の先でトルグレインが申し訳なさそうな顔を浮かべている。正直無理に聞いたのはトムの方なので、彼が悪気を感じる必要はないのだが。
地面に描かれている魔法陣は未完成で、肝心なところが描かれていないが、トムの見立てではどうやら中心に置かれた物体に干渉するためのものらしい。
これだけ巨大なものは珍しいが、様々な物体や力の性質を理解し、組み替え、創り上げる錬金術の世界では特に珍しくもない術式である。鍵となるものが周囲に配置された魔石や、これから中心に描かれる残りの陣であることは間違いないのだが。
「う~ん。私には全然わからない……」
傍から見ているミムルにはチンプンカンプンだ。元々魔法や戦術関係など、頭を使うことは不得意な彼女には、目の前広がる陣の何処がどう干渉するかなど全く分からない。
「ミムル君、周りの物に不用意に触らないでくれよ」
「やだな~。そんな事、する訳ないじゃないですか~」
「そう言いながら君、以前私の試薬を零して実験材料をパーにしたよね? あの時、下手したら試薬が反応してとんでもないことになっていたんだけど……」
「あ、あはは……」
当時、ミムルが面白半分に扱ってこぼしたのは魔石の粉末と火トカゲの尻尾だった。
魔石は割ると内部に溜め込まれた魔力が四散してしまうのだが、特殊な工程を踏むことで溜め込んだ魔力を保持したまま粉末状に出来る。
魔方陣を描く染料に使うと魔力の通りが良くなったり、様々な魔道具に応用が利くのだが、魔力との反応効率が上がってしまっているために、下手に扱うと内包していた魔力を短時間の間に一気に放出してしまう性質もあるのだ。
火トカゲの尻尾はその名を持つ魔獣の尻尾で、魔力に反応して炎を産みだす。
さて、魔力を持つ粉末と魔力で火を生み出すが反応した場合の結果は……言うまでもないと思う。
幸いこの時、零した魔石の粉末と火トカゲの尻尾が反応しなかったので、大惨事とはならなかったが、下手をしたら……。
青い顔をして冷や汗を垂らすミムル。その時、机に置いた彼女の手が何かにぶつかった。
一体何かとミムルはそれを手に取ってみると、それは額縁に入った一枚の肖像画だった。
儚い感じの幼い少女が、額縁の中で小さく微笑んでいる。
「誰……?」
一体誰だろうかとミムルが首を傾げていると、魔法陣を描いていたトルグレインが小さく声を上げた。実験室の扉が開いて誰かが部屋に入って来ていたのだ。
「トルグレイン殿、今度の実験についてなのだが……むっ、君たちは」
「や、やば……」
実験室に入ってきたのはジハードだった。トルグレインに何か用があったらしいが、彼は実験室にいたトム達を見ると顔を顰める。
「トルグレイン殿。生徒をこのような所に呼ぶのはどうかと……」
「ジ、ジハード先生。僕はトルグレイン先生の助手なんです……」
トムの説明を聞いた時、ジハードは驚きの表情を浮かべた。普通に考えれば一学生が、助手とはいえこの学園の研究員の助手をしているとは思わなかったのだろう。
「だが、彼女は違うのだろう? トルグレイン殿……」
目を見開いていたジハードだが、ミムルに目を向けるとすぐさま切り返してきた。事実、彼女は本来この部屋には入れない人間であるわけで、トルグレインも深々と頭を下げるしかない。
「す、すみません……」
「君達もそうだ。この研究所では扱いの極めて難しい物もある。下手をしたら一番初めに責任を負わなければならないのはトルグレイン殿だ。その辺りをしっかりと自覚しなさい」
彼女は確かに助手ではない。確かに彼女はトムの恋人ではあるが、ジハードの言うとおり、本来はしっかり公私は分けるべきである。
そして何か問題を起こせば彼女はもちろん、トルグレインにも塁が及ぶ。
トムがすみませんと深々と頭を下げる。ミムルもまた落ち込んでシュンと耳を伏せてしまっていた。
「さて、トルグレイン殿、あの件に関しての話なのですが……」
ミムル達をしっかりと言い含めたジハードは、ようやく本題に入るようだ。だが、まだ実験室内にいるトム達の事が気がかりなのか、チラリと彼らを一瞥し、トルグレインに目配せする。
「トム君、もうここまでやってくれれば十分だから」
ジハードの意思を汲み取ったトルグレインがトム達に今日はもう帰るように促す。
「分かりました。今日は帰ることにします。ミムル、行こう」
「う、うん。し、失礼しました」
2人はやや慌てた様子で荷物を片付け、足早に実験室から立ち去って行った。
彼らがドアの向こうに消えた後、トルグレインは再びジハードに頭を下げた。
「ジハード殿、申し訳ありませんでした」
「いや、いい。肝心なことは彼女達には知られていないようだし、今回は不問としましょう。そもそも私もこの施設の管理者と言うわけではありませんのでな。ただ、今後は気を付けてください。万が一の時は貴方だけでなく、彼らも責任を取らなければならなくなるのですから」
ジハードの言葉にトルグレインはしっかりと頷いた。
ジハードがこんなに口を尖らせているのもトムやミムル、トルグレイン達を心配しているからだ。
彼としても、大切な生徒であり、将来有望な彼らの将来に泥を塗りたいわけではないのだから。
「ただこの件に関して、彼らは無関係と言うわけではないのですが……」
「ああ、あの報告書は拝見しました。やっぱりあの魔獣は彼らが……」
トルグレインの言葉に、ジハードは深く首肯した。
その様子を見たトルグレインが驚きの表情を浮かべる。
「本題に戻りましょう。あの実験は何時できますか?」
「トム君に手伝ってもらったので、大まかな部分は終わっています。後は中心の陣を完成させれば何時でも実験が出来ますが……」
トルグレインがやや戸惑う様にジハードに報告した。
そうですか。と呟いたジハードは、しばしの間目を閉じて考え込んだ。数秒間の沈黙が、重苦しい空気となってトルグレインを包み込む。
やがてジハードは大きく息を吐き出すと、ゆっくりと口を開いた。
「分かりました。実験は予定通り今夜行います。準備を」
ジハードの言葉が無機質な実験室に響く。淡々とした、飾り気のない言葉での命令。だがその言葉にはこれ以上ないほどの緊張感が満ちていた。
ノゾム達は森の中を奥へ奥へと進んで行った。詳しい目的地の位置はアイリスディーナが知っているので、彼女が先頭を歩き、後ろからノゾム達がついて行くような形となっている。
まだ太陽は空にあるというのに、やはり森の中は薄暗い。それでも木の上からは温かな日が差し込んでおり、透けた葉からさした日光が薄暗い森の中を僅かに照らしている。
また、森を歩くノゾム達の耳には、生い茂る枝の隙間から聞こえる鳥達のさえずりが響いていた。魔獣の住む森とはいえ、鳥や他の小動物達も自分達の生を謳歌しているようだ。
ノゾム達は周囲の気配を伺いながら、慎重に足を進めていく。
どのくらい歩いただろうかとノゾムが辺りを見回した時、いつの間にか先頭を歩いていたアイリスディーナが振り返っていた。
「ノゾム、体はその……大丈夫なのか?」
「え?」
「いや、今日の朝、少し辛そうだったから……」
やや言いよどむようにノゾムの様子を窺うアイリスディーナ。今朝、ノゾムがティアマットの夢で消耗していたことが気がかりだったのだろう。
「あ、ああ。大丈夫。特総演習の事であっちこっちからジロジロ見られていたからちょっと疲れたけど、体は問題なく動くし、頭もボーっとはしていない。足手纏いにはならないよ」
「そういう事を言っているんじゃないんだが……」
アイリスディーナとしては単純にノゾムの事が気懸りだった。彼は自分にとって辛い事は自分の内に押し込む傾向が強い。
それはリサ、そしてケンとの一連の出来事がそうさせてしまうのかもしれない。もしくは生来の彼の気質なのだろうか?
アイリスディーナ達に全てを話してからはそうでもないのだが、それでも心配なものは心配だった。
アイリスディーナがジッとノゾムの瞳を見つめる。
彼の心の奥底まで覗き込もうかとするように、名工の彫刻を思わせる美貌がスッと迫ってくる。
シミ一つない、新雪のように綺麗な肌。黒曜石を思わせる瞳が心配そうに揺れていた。
「……本当に大丈夫なんだな?」
確かめるようなアイリスディーナの声。ノゾムは早鐘を打つ自分の心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫だ。ヤバくなったら言うよ」
「是非そうしてほしい。君は無理をしすぎるから」
屍竜の時もそうだったしと、一言付け加えるアイリスディーナ。ノゾムとしては、苦笑を浮かべて頭を掻くしかなかった。
「そういえば、今朝はソミアちゃん一緒じゃなったけど、どうかしたの? いつもは一緒に来るんじゃ……」
「ああ、ソミアは今朝早めに登校したよ。ソミアは最近すごくやる気に満ちていてね。エクロスの先生に教えを受けに行った」
その話を聞いて、ノゾムは感心したような声を上げた。
ソミアはまだ11歳。いろいろ遊び盛りの時だろうし、彼女自身まだまだ色々やってみたいこともあるだろう。
いつも太陽のように明るい少女。ノゾムは目標である姉を真摯に目指すその姿勢には好感を覚えている。まあ、姉との事で一時期悩んでいた時期もあるみたいだから、あまり気負いすぎないか心配な気持ちも芽生えるのだが。
「まあ、多分ソミアがそうなったのは……」
アイリスディーナが何やら意味深な笑みを浮かべながらノゾムを見ている。
その真意が分からないノゾムは首を傾げるだけだった。
「そういえばノゾム、さっきギルドで妙に変な奴に絡まれとったな」
その時、隣を歩いていたフェオが話しかけてきた。
「ああ、エルドルって男子生徒か?」
「そうそう。アイツ、1学年の中では指折りの実力者らしいで。噂じゃ黒髪姫にゾッコンで、最近アタックもかけたとか」
「へえ……」
ノゾムはアイリスディーナの様子をちらりと横目で覗き見る。先程までのノゾムを心配していた時の表情ではなく、いつもの凛々しい顔に戻っていた。
フェオの話では、今年入学してきた一年の中でもかなり上位の実力者らしい。
父親が兵役を努めていたらしく、その父親から習った剣術はかなりのもので、剣と盾を使った攻防一体の剣術を得意とするらしい。
そんな彼だが、この学園に来た初日にアイリスディーナに一目惚れして告白したらしいが、あえなく撃沈。
だが、懲りずにモーションをかけてくるところをみると、まだ諦めてはいないようだ。
「なんや、淡白な反応やな」
「いや、他にどうしろと……」
「そこは、こう言うべきやろう“なに人の女に手を出して……”」
「フェオ君、君は手伝いに来たのか? それとも邪魔しに来たのか?」
ニヤニヤしながらノゾムの肩に腕を回すフェオだが、いざこれからという時に黒髪の少女に待ったをかけられた。
彼女の方に目を向けるとアイリスディーナの目は細り、口元は釣り上がっている。
一見すると笑いかけているように見えるが、彼女の体からはピリピリとした殺気が迸っていた。
人一倍殺気に敏感なノゾムは冷や汗が止まらなかった。冷たい笑みで微笑む彼女の後ろに刀を構えた師を思い浮かべたくらいである。
当然、煽った張本人であるフェオも、大慌てでフォローと言う名の自己保身に走った。
「も、もちろん、手伝いに来ました! ほら、この通り!」
慌てた様子でフェオは懐から何かを取り出した。ベルトの様な帯に、鉄の棒の様なものが3つ括りつけられている。
「フェオ、それは……」
「ノゾムの投擲用の短剣や。ノゾムはかさばる様な持ち物は避けているみたいやから、数は3本ぐらいやけど」
フェオが持って来たのはノゾム用の投剣だった。持ち運びやすいように大きさも小振りで、数も多くない。
ノゾムはフェオが投げ渡してきたベルトを受け取ると、3本ある投剣の内一本を取り出し、手に持ってみる。
「思ったよりもしっくりくるな……」
「当然や、ワイが選んだんやからな」
ノゾムは思った以上に自分の手になじむ投剣を選んできたフェオの目利きに感心していた。
まあノゾム自身、自分の投剣術はまだ実戦に使える段階ではないと思っているので、せっかく貰ったこの投剣をこの依頼で使うことはないだろうと考えている。
フェオならばどんな状況でも正確に投剣を投げられるだろうが、自分はまだその段階ではない。無防備な体勢で、かつ攻撃に晒されていない状況でなければ正確に投げることは出来ないだろう。
また、せっかく投剣を用意してくれたフェオには悪いと思ったが、運よくそんな状況になったとしても、ノゾムは身に馴染んでいないこの技法に頼ることには抵抗があった。
フェオはどうだと言わんばかりに胸を張るが、調子に乗りかけているフェオにアイリスディーナの冷たい視線が突き刺さる。
「まあ、手伝いに来たのは本当のようだね。でも、今度ふざけたら、私がその口を縫い合わせて閉じてあげるからね?」
「はいすみませんでした。大人しくします……」
細剣の剣身をキラリと鞘から覗かせ、凄みのある視線をフェオに向けるアイリスディーナ。
そんな彼女の剣呑な雰囲気に当てられたフェオは即座に耳をペタンとたたみ、尻尾を力なく垂らすと、肩を縮めてアイリスディーナに服従した。
ノゾムはそんな2人の様子に苦笑いを浮かべながら、フェオが持ってきてくれた投剣を納めたベルトを腰に括り付ける。
「さて、フェオ君も分かってくれたようだし、気を付けて行こう。そろそろ目的地も近いと思うよ」
ギルドでのアイリスディーナの説明によれば、今回の依頼は最近森に住み着き始めたオークを討伐するか、森の奥に追い返してほしいというものだった。
依頼してきたのはこの森で狩りをしている狩人達。森の奥で生活していたオークの群れの一部が、街近くまでやってきて住み着いたらしい。
オークは魔獣のランクとしてはCランクに属する魔獣。基本的に人間よりも大きな体躯を持ち、棍棒などの原始的な武器を使う。
体躯から考えてもかなりの膂力を持つ魔獣だが、その力はキクロプスやサイクロプスには及ばず、強力な異能も持たないので、ノゾムが以前戦った巨人程の脅威はない。
「アイリス、そのオークって、この辺りに住み着いたのか?」
「ああ、以前はゴブリン達の集落だったのだが、今は彼らの住処になっているみたいだ」
森の奥を指差しながら、アイリスディーナがノゾムの質問に答える。
「ふ~ん。ゴブリン達は哀れ豚鼻達の晩御飯になってしもうたわけか……」
確かにゴブリンは数こそ多いものの、単体としての脅威はさほどではない。十分な数を揃えたオーク達が相手なら、大した抵抗も出来ずに蹂躪されてしまうだろう。実際、ゴブリンの集落が他の魔獣に襲われるなど珍しくはないのだ。
だが、アイリスディーナはフェオの言葉に首を振った。
「いや、猟師達の話では、その集落のゴブリン達が倒されたのはオーク達が来る以前らしい。どうやら、空き家になっていたところに体よくオーク達が住み着いたようだ」
「へえ……ん?」
最近全滅したゴブリンの集落。ノゾムの脳裏に何かが引っ掛かった。
「ゴブリン達の姿が見えなくなった事が気になり、猟師達が集落の様子を見に行ったらしいが、その場所はまるで嵐の後のように滅茶苦茶になっていたらしい」
「そんな強力な魔獣がいたんか? ちょっとヤバいんとちゃうか?」
「その辺りもギルドに確認したが、調査をしたところ既に魔獣の痕跡はなかったらしい。今でもオークが住み着いているところをみると、少なくともその魔獣はこの場所を離れているのだろう」
確かに、そんな強力な魔獣が未だにこの近辺にいるのなら、オーク達がその場に住み続けるはずがない。
また、この依頼をギルドにしてきた狩人達にも被害が及ぶか、目撃している可能性もあるが、そんな情報は入ってきていない。
「まあ、それでも危険がないわけではないから、森に詳しいノゾムについてきてもらおうと思ったんだ」
だが、事前情報が全てではない。未だに判明していない事もあるかもしれない。
不確定要素がある事は考えられる中、アイリスディーナが一番頼りにしたのがノゾムだった。
アイリスディーナがちらりと横目でノゾムを伺う。薄暗い森の中では分かりづらいが、やや頬が紅潮しているように見える。
「…………」
だが、ノゾムは何やら複雑な顔をして黙り込んでいる。口元に手を当て、視線を宙に漂わせながら、何やらブツブツと呟いていた。
「いや……まさかな」
「ノゾム? どうかしたのか?」
「い、いや、もしかしたらそのオーク達が街の近くに住み着いた原因って……」
ノゾムの妙な様子に首を傾げるアイリスディーナ。隣にいるフェオも変なものを見る目で彼を見つめている。
ノゾムの脳裏に浮かんでいたのは、あの魔獣との命をかけた逃走劇。森の中を走り回り、罠を活用し、そして……。
「……あ」
ノゾムはこの依頼がギルドに出された原因の一端を垣間見たような気がした。
何とか動揺を落ち着かせて頭に過った仮定の話を切り出そうとした時、彼の目に森の中ではまず見られない珍妙な光景が飛び込んできた。
「ノゾム?」
「いや、あれ……」
ノゾムが指さす先に目を向けたアイリスディーナとフェオ。
3人の視線の先には、地面に生えている茂みからニョッキリと2本の足が生えている光景だった。
おまけに茂みの奥にいる人物は何をやっているのか、茂みから飛び出している2本の足がモゾモゾと動いていた。奇妙な光景にノゾム達の目が点になる。
「あれ? おかしいのう……。確か……」
ノゾムの耳に聞き覚えのある声が響く。
一体この人物はこんなところで何をやっているのだろうと考えながらも、ノゾムは茂みから生えている足に近づいて声をかけてみた。
「……何やってるんだ爺さん?」
「ふおおおおお!」
ノゾムの声に驚いて、茂みから白髪の老人が跳ねるように飛び出してきた。
あまりの勢いにノゾムも面喰って思わず後退る。
「な、なんじゃ小僧。な、何でこんな所におるんじゃ!」
「それはこっちのセリフだ。何で森の中に爺さんがいるんだよ」
老人一人で森の中。傍から見ても怪しい事この上ない。
「な、なんじゃ、別にどうでもええじゃろう。何でワシが小僧に教えてやる必要が……」
「ご老人、なぜこんな所にいらっしゃるのですか?」
「大切なものを無くしてしまってのう! 探しに来たんじゃよ!」
アイリスディーナに声をかけられ、急に笑顔になるゾンネ。いつも通り、相手が男性か女性かで態度を180度変えている。
相変わらずの色欲ぶりに、ノゾムもいい加減に怒りよりも頭痛を感じ始めていた。
だが、どうせ何言っても無駄なのだから、最終的には殴って止めればいいかなんて物騒な結論に落ち着き、ノゾムはすぐに思考を入れ替える。
「大事なものってなんだよ」
「いや、ワシがある商人に頼んでいたものなんじゃが、街に運ぶ道中でゴブリンに襲われて荷を奪われたんじゃよ」
ゴブリン……おそらく以前、あの集落に住み着いていたゴブリンの事だろうとノゾムは考えた。
ゴブリンはその小柄な体躯を活かして、集落の家畜などを盗む時もある。
むしろ、単体としての力に乏しい彼らは、集団で獲物を狩るときも基本的に自分より弱い相手だったり、単独で行動している者、怪我をして、群れから落伍したものなどが多い。
おそらく、襲われた商人も護衛を雇ったり、商隊を組んではいなかったのだろう。
「だがご老人、森の中に入るなど危険を通り越して無謀すぎますよ」
「おお~。心配してくれるのかお嬢さん。そこにいる失礼な小僧と違って何と優しいんじゃ」
ゾンネの言葉に、ノゾムの額に青筋が浮かぶ。
つい衝動的に刀の柄に手を伸ばしてしまったが、“落ち着け、落ち着け”と心の中で反芻しながらゆっくりと柄から手を放す。
「でも、ゾンネ爺さん。ギルドに依頼せんかったのか?」
「依頼はしたわい。でもいつまで経っても何の進展もせん。なら自分で探したほうが早いわい」
「無茶する爺様だな……」
そこまでするならよほど大切な物だとは予想できるのだが、改め考えても無茶苦茶な行動である。ノゾムとアイリスディーナの口からため息がこぼれた。
ノゾムが肩を落とし、アイリスディーナが額に手を当てて天を仰いでいると、ゾンネと話をしていたフェオがノゾム達の方に振り向いた。
「で、どうするんや?」
「目的地のオークの巣窟は近い。ご老体をこの場に残すのは危険だな」
フェオがこの爺様をどうしようかと相談してくる。また、アイリスディーナも目的地が近いことを告げていた。つまり、いつオークと遭遇してもおかしくないという事だ。
正直、老人が一人で歩き回っていい場所ではない。今後の事を考えれば、街に送り届けるべきだろう。
「まあ……いくら色欲魔人で、理性の“り”の字もなくて、自制や自重という言葉も豚に食わせて肥料にするような本能第一主義者で、自分がモテてるって公言するけど隣に女性がいるところは一度も見たことない勘違い爺様だけど……」
「こ、小僧……」
ノゾムもまた、ゾンネをこの場所に残しておくのは危険でしかないと考えた。ついでに先ほどの仕返しとばかりにゾンネを散々扱き落とす。今度はゾンネの額に青筋が浮かんでいた。
そんなゾンネの様子を視界の端にとらえながら、元々こき落としたのはそちらが最初だろうとノゾムは肩をすくめる。正直な話、どっちもどっちである。
「アイリスディーナの言うとおり、このまま置いて行くわけにもいかないだろ。この森が危険な事は変わらないんだし」
「そうだな。一旦街に戻った方がいいだろう」
確かに殺しても死ななそうな人物ではあるが、この老人は一応、一般人である。
結局、ノゾム達はそんな人間を魔獣の巣窟近くに置き去りするわけにもいかないだろうという結論に達した。
彼らはゾンネを連れて一旦街に戻ることに決める。だが、探し物が気になるのか、ゾンネは不服そうな顔を浮かべていた。
「しかしのう。ワシはまだ探し物が……」
「なんなら、爺さん。依頼をこなすついでに森の中にそれらしいものがないか探してみるから、今日の所はここまでにしておいてくれや」
「お、そうか!? すまんが頼むわい。おお! ということは、お嬢さんと街まで連れ合えるのか! お嬢さん、お礼に街に着いたらワシがデートでも……」
大事な物を探すことが一旦横に置かれたせいか、すぐさまアイリスディーナに粉をかけるゾンネ。
「すまないが、今日は先約があるのでね」
だが、やはりアイリスディーナに一刀両断される。先約があるといった彼女の視線の先には、刀を腰に差し、老人の行動に頭を抱えている少年がいた。
「ぐぬぬぬ……。またしても貴様か小僧……」
老人の頭に浮かぶのは、黒髪の美姫に手を引かれていたノゾムの姿。ちょっと前に2人と出合った時のデートの光景が脳裏に蘇っていた。
醜い男の嫉妬を全開にしながら、ゾンネはノゾムを呪い殺さんばかりの血走った眼で睨みつける。
「やっぱり、この爺さんの監視役は必要か……」
ついでに言うなら、ノゾムにとってゾンネという老人は放っておいたら何をしでかすか分らない人物である。
気がつけば無駄なカリスマを発揮した結果、某酒場でのストリップ乱痴気騒ぎ。占いで少女の悩みを素早く解決したかと思えばその少女に唾をつけようとする。監視が必要な要注意人物と言うか、一度憲兵に突きだした方が良いのではと思える程自重しない人物である。
こうしてノゾム達3人はゾンネを連れて街まで戻る事を決め、今来た道を引き返そうとする。
「ん?」
だがその時、ノゾムは森の様子に違和感を覚えた。さえずっていた小鳥達の声が途切れ、妙にネバっとした重苦しい雰囲気を感じる。隣にいるフェオも獣人の鋭い感覚で何かを感じ取ったのか、しきりに耳をピクピクさせていた。
「これは……」
一拍遅れてアイリスディーナも森の違和感を感じ取り、腰に差していた細剣に手をかける。
静寂が支配する森の中、ノゾム達は全神経を集中させて周囲の気配を伺っていた。
薄暗い木々の間に目を光らせ、肌に張り付くねっとりとした空気を産毛で感じ取り、風で揺れる枝の音を聞き分ける。
「きゃああああ!」
耳鳴りすら覚える静寂の中、ノゾムの耳に遠くから誰かの叫び声が聞こえてきた。
「っ! 爺さん! 下手に動かずそこにいろ!」
次の瞬間、ノゾムは声のする方に向かって駆け出した。アイリスディーナ、そしてフェオもノゾムの後に続く。
ノゾム達は生い茂る木々の間を縫いながら、全力で足を動かした。
薄暗い森の奥からは、草藪が擦れる音に混じって聞こえてくるのは戦いの音だ。
金属がぶつかる音、魔法の炸裂音、魔獣のものと思われる咆哮。
やがてノゾム達の目に、草の隙間から漏れる太陽の光が見えてきた。遠くてよく聞き取れなかった音も、徐々にはっきりと聞き取れるようになってくる。
「急いで……、このままじゃ……」
「分かって……! でも……」
剣戟や魔法の炸裂音に混じって誰かの声が聞こえてくるが、うまく聞き取れない。
だが、途切れ途切れに聞こえてくる内容から察するに、状況は芳しくないようだ。
ノゾムがアイリスディーナとフェオに目配せすると、2人も心得たというように頷く。
戦場までの距離はそう遠くない。今は気の温存よりも時間が優先と考え、ノゾムは全身の気を高めて足に叩き込む。
アイリスディーナが即時展開で術式を構築し、フェオもまた符を使って素早く術を発動する。
身体強化で脚力を高めて加速する3人。
ノゾムは能力抑圧の影響で遅れ始めるが、先を行く2人に構わず行けと手で合図を送る。
その姿を見て加速するアイリスディーナとフェオ。草藪を突っ切りながら、足にさらに魔力を込めて加速した。
先行するアイリスディーナとフェオ。やがて木々の隙間から光が漏れてきたかと思うと、一瞬目の前に広がる光と共に視界が開けた。
彼女達の目に映ったのは、この森には入る直前に会った後輩達がオーク達に追い詰められている光景だった。
アイリスディーナに声をかけていた生徒、エルドルがオーク達の前に立ち、彼の後ろには一緒にいた女子生徒達が倒れている。
槍を持っていた男子生徒が治療をしようとしているが、オーク達が目前まで迫っている事で治療に専念できないでいる。
オーク達の前に立つエルドルも完全に気圧されているのか、構えた剣と盾がガクガクと震えていた。
彼の前に立つオークが棍棒を振り下ろす。
エルドルは盾を掲げて棍棒を受け止めるが、腰が引けていたせいでまるで抗う事が出来なかった。打ち込まれた棍棒の勢いに押され、跪くように膝をついてしまう。
オークはそのままエルドルを押し潰しにかかる。ギシギシと盾越しに加わる圧力の前に、エルドルの顔が恐怖に歪んでいた。
「フェオ君!」
「分かっとる!」
アイリスディーナが腰の細剣を抜き、フェオが懐から符を引き抜く。
高まる魔力と共に顕現する闇と雷。アビリティや符による補助があるとはいえ、一瞬で術式を構築する様が彼女たちの力量を物語っている。
収縮した闇が魔弾と化し、紫電が弾けるような音と共に醜悪なオークめがけて飛翔する。
突然現れた闖入者。鼻を鳴らせてアイリスディーナ達を一瞥していたオーク達だが、突然高まった魔力に驚いて即座に迎え撃とうとする。
数匹のオークがアイリスディーナ達の前に立ち塞がるが、彼らをアイリスディーナ達の魔法が襲う。
叩きつけられた魔弾が炸裂し、雷がその身を焼く。
だがオークの生命力もかなりもので、魔弾は肉を抉り、紫電は皮膚を焼いたものの致命傷には至っていない。
だが、それでも構わない。元々この魔法はオーク達の気を引いて、後輩達から目をそらさせる為のものだ。
森を突っ切ってきた勢いのまま、アイリスディーナ達はオーク達の群れの中に跳び込み乱戦へと持ち込む。
「おおお!」
オーク達の意識がアイリスディーナ達に向いた事で、組み合っていた盾にかかる力が弱まった。
その隙にエルドルは気合を込めて足に力を入れる。一気に増した相手の圧力の前に思わず後退するオーク。その隙にエルドルは一気に押し返す。
「ああああ!」
言葉にならない叫び声をあげながらエルドルは我武者羅に剣を叩き付けた。
ついさっきまで今日の晩餐となるはずだった哀れな獲物の苛烈な反撃にオークも動揺し、守勢に回る羽目になる。
その隙に槍使いの生徒が倒れている女子生徒の治療を始めた。
体勢を立て直す後輩達を横目で確認しながら、フェオとアイリスディーナは残りのオーク達の攻撃を捌き続け、波状攻撃の合間を縫うように的確に反撃を返している。
今後輩達の相手をしているオークは一体だけ。おまけにアイリスディーナ達がいきなり増援として来たことに動揺し、後輩に押し込まれている。
アイリスディーナ達も細剣でオークの腹を切り裂いたり、振り抜いた棍を眉間に叩きこんだりして的確に一体一体ずつ数を減らしていく。
「でええええい!」
「ブギャアアウゥ!」
エルドルの剣がオークの脚の肉を深々と抉った。彼の相手をしていたオークが思わず膝を付く。
これなら問題ないだろう。アイリスディーナ達がそう思った矢先、茂みの中から複数の影が姿を現した。
「なっ!」
アイリスディーナの口から思わず声が漏れる。
現れたのは醜悪な顔を張り付けたオーク達だった。おそらく今相手をしているオーク達の仲間だろう。
「ブルルルル! ブオオオオ!」
斬りつけられ、膝を付く仲間の姿を見て、新たに現れたオーク達が怒りの雄叫びを上げる。
「うっ!!」
木々を振るわせる咆哮にエルドルは萎縮して思わず呻き声を上げる。
次の瞬間、膝を付いていたオークが手に持った棍棒を片手で振り払った。
力任せに振り回された棍棒はエルドルの剣にぶつかり、彼の剣を遠くに弾き飛ばしてしまう。
「うわっ!」
思いっきり弾かれ、思わず尻餅をついてしまうエルドル。
痛みに顔を顰めた彼の目に跳び込んできたのは、憤怒の形相を浮かべているオークの顔だった。
自分に狩られるだけの獲物に傷をつけられたことに対する怒りが、オーラのようにその身から発せられている。
「ひっ!」
「マズいで!」
「くっ! エルドル君、早く逃げろ!!」
アイリスディーナが必死に呼びかけるが、彼は恐怖に顔を歪ませたまま動けないでいる。
何とか援護をしようと即時展開で魔力弾を放とうとするが、今相手をしていたオーク達が彼女に棍棒を振り下ろしてきた。
どうにか棍棒の雨を躱し切るアイリスディーナだが、肝心の魔力弾は妨害されたために目標を大きく外してしまう。
「くっ!」
悔しさが唇から漏れるが、それでもアイリスディーナは何とかして助けに入ろうとする。
だが、オーク達も彼女の意図が分かっているのか、増援に現れたオーク達がアイリスディーナとフェオに向かって来た。
多数のオーク達の波状攻撃にさらされ、助けに入れないアイリスディーナ達。
エルドルは死への恐怖から一時的に高まった反撃の意思を完全に挫かれてしまった。
再び心を覆い尽くした恐怖が身も心も縛り、すっかり抵抗出来なくなってしまっている。
既にオークはその身を起こし、その手に持っている棍棒を高々と掲げて憎らしい獲物を叩き潰そうとする。
今、その棍棒を振り下ろせば、一秒足らずで彼は恐怖に身を縛られたままこの世を去るだろう。
もう間に合わない。
アイリスディーナの顔が後悔に染まる。
だがその時、彼女の目に茂みの奥から飛び出してくる影を捉えた。
風のように疾走していくその姿を確かめた時、彼女の顔に浮かんだのは驚愕でも諦観でもなく、安堵の笑み。
次の瞬間、エルドルに棍棒を振り降ろそうとしたオークの腕が宙を舞っていた。