第6章第5節
お待たせしました。第5節投稿です。
放課後、アンリは前が見なくなるほどの大量の資料を抱えて廊下を歩いていた。
この資料は授業で使う教材を纏めるために図書館と資料室から借りてきて使っていたのだが、あれもこれもと借りていたら、いつの間にかその量は異常といえるほどに膨れ上がってしまっていた。
借りた資料を返そうと、ヨタヨタと危なげな足取りで廊下を進むアンリ先生。
彼女の手にある資料の山は彼女の上半身くらいあり、頂上は不規則に揺れていて今にも崩れそうだ。
「あ、あら? あらららら?」
案の定、山積みにされている資料の頂点がグラグラとぐらつき始めた。
アンリは何とかバランスを立て直そうとするが、絶妙な均衡で保っていた資料の山は一度崩れ始めると雪崩のように一気に崩落してしまう。
「ふええ~~」
アンリの間延びした悲痛な声がだだっ広い廊下に木霊する。
床にまき散らされる資料の山。バサバサという音に混じってゴロゴロという何やら硬質な音も混じっているところをみると、彼女が抱えていたのは本だけではないようだ。
床を見ると古ぼけた本や何かを記した羊皮紙。よく分からない鉱石の塊から一体何に使っていたのか分からない品々まで散らばっている。
全く統一性が無く、かつ一見するとゴミにしか見えないのだが、恐らく相当価値があるのだろう。アンリは涙目になりながら、慌てて散らばった資料を掻き集め始めていた。
「え~ん。怒られる~~」
アタフタと焦るアンリ先生。その時、横から伸びてきた手が床に落ちた資料を拾い始めた。
「ふえ?」
アンリが間の抜けた声を出しながら資料を拾ってくれている手の持ち主に目を向けると、そこには白銀の鎧を纏った壮年の男性がいた。
「やれやれ、大丈夫ですか。アンリ先生」
「ジハード先生~。ありがとうございます~」
ジハードは先程の大人としてはやや間の抜けた光景を偶然見ていたようだ。苦笑を浮かべた彼の顔を見たアンリがパッと笑顔を浮かべる。
ジハードは落ちていた資料をすべて集め終わると、拾った資料を抱えたまま行先は何処かアンリに尋ねた。
「で、この資料は何処に持っていけばいいのですかな?」
「え? 良いんですか~?」
この学園の中心人物の1人であり、目上の人に自分が落した資料を運んでもらってもいいのかと考えたアンリだが、ジハード本人は別に気にしていないようだった。
「ああ、構わんよ」
「ありがとうございます~。助かりますよ~」
ジハードのお礼を言いながら、アンリは半分に減った資料を今度は落さないようにしっかりと抱え込む。
親子ほども年が離れている2人が廊下を歩く。初めに向かうのは資料室。
のんびりとした性格のアンリは歩くのも速くはないので、隣にいるジハードが彼女の歩幅を合わせている。
「アンリ先生、少々聞きたい事があるのですが、よろしいですか?」
「ええ、いいですよ~」
ジハードが何やら気になる事があるようで、窺うようにアンリに声をかけてきた。
実のところ、ジハードは先の特総演習について、今話題のあのパーティーについてアンリに聞きたい事があったのだが、この後少々厄介な事案を片付けなければならなくなっていた。
そんな時に偶然彼女を見つけたので、これ幸いにと彼について話を聞いてみようと考えたのだ。
「アンリ女史、この前の特総演習の結果はご存じですかな?」
「はい~。驚きました~」
アンリの感嘆の声が含みの無い、ジハードの耳に響く。全く含みの無い、素直な言葉だ。純粋に自分の生徒が躍進している事を喜んでいる。
「正直、今回の結果は予想外だった。10階級の生徒が1階級に負けず劣らずの成績を残す。この学園の歴史は短いが、それでも例のなかった出来事だ」
ソルミナティ学園の歴史は浅いが、それでも各国に対して優秀な人材を相当数送り出している。
完全実力主義と、あらゆる面で密度の濃い学園生活がそれを可能としていた。
元々、野に眠っている才ある人材を発掘する事を目的としているソルミナティ学園。
厳しい学園生活の中で突然才能を開花させ、一角の人物にまで上り詰めた生徒がいないわけではない。
この学園生活の中だけでなく、ジハード自身も自分の中にもそんな人物に幾人か出会った事がある。
しかし、そんな人物は本当に極少数だ。だからこそ、ジハードはあの少年の事が気になっていた。
「ノゾム君の事ですか~?」
ジハードが聞きたい事を察したアンリが自分から話を促してくる。
アンリの言葉にジハードは素直に頷いた。
「今回の結果だが、私の予想では原動力になったのは彼だ。貴方と戦い、劣勢に追い込まれて仲間一人が脱落することになったが、彼らは特別目標であった貴方を倒している。正直、興味を持つなと言う方が無理だろう」
ノゾムの名前をジハードが初めて聞いたのは、あの黒い魔獣との一件からだ。仲間を助けるために殿を受け持ち、あの魔獣から逃げ切った男子生徒。
初めは運に助けられたのかと思ったが、今回の演習結果から、ジハードはどうやらノゾムという男子生徒は運だけではない何かを持っているようだと感じていた。
「そうですね~。素直でいい子ですよ~。時折無茶が過ぎるところがありますけど~、状況判断力や実戦での戦いならかなりいいところに行くと思います~。上手く立ち回れば、学年上位の生徒とも張り合えると思います~」
その言葉にジハードが目を細める。
確かに状況判断力が優れているというのは納得できる。Aランクの中でも上位の実力を持つアンリ相手に活路を見出すには、単純に正面から力押しでは難しい。その場にいた仲間達の力を十分に把握し、実現可能な策を導き出す必要がある。
それが出来たという事がノゾム・バウンティスの判断能力の高さを実証していた。
「……では、彼のこの学園での成績はどういうことですか?」
「ノゾム君の特性上、どうしても学園内では実力を発揮しきれないんです~。そういう意味では、今回の特総演習のような学園外での試験は、彼にとって実力を発揮できる機会だったんじゃないでしょうか~」
「ふむ、能力抑圧か……」
彼の持つ特性。能力抑圧の事かとジハードは判断した。
確かに、気量、魔力、身体能力に制限を受けてしまっては、個人の実技で成績を残すことは難しいだろう。結果的に状況判断能力や、戦術等、個人戦以外で発揮できる技能を磨いたのだと思ったのだ。
実のところ、状況判断力はシノとの鍛練でなし崩し的に身に付いたもので、戦術等は筆記試験で出来るだけ点を稼ごうと、必死に努力した結果である。
それ以外にもノゾムが幻無を初めとした攻撃用の気術を使わないように自制している事も大きいのだが。
足を進めながら、ジハードはノゾム達がどのようにしてアンリと戦っていたのかの詳細を聞きだしていく。
「なるほど、演習参加者の証であるペンダントを破壊しての勝利か。確かに格上の相手から勝利を得るにはいい手だな」
「はい~」
具体的な内容を聞いて、ジハードは小さく頷いた。
演習での失格条件は一定量のダメージの蓄積か、参加証の喪失。自分達以上の実力者と遭遇したノゾム・バウンティス達がすぐさまペンダントの破壊を選択したのはいい判断だろう。元々持久力の少ないノゾムが、一撃で勝利を決めるには、急所を狙うか、ペンダントの破壊が一番手っ取り早い。
また、その結果に至るまでの道程も十分評価できる。魔法障壁を張れる魔法使いを吹き飛ばして相手に叩きつけ、動きを封じるなど普通は考えないだろう。
やや無茶で荒削りな策ではあるが、相手の意表を突くには十分すぎるほどのインパクトがある。
どんな相手と鉢合わせるか分からない遭遇戦、しかも彼らはアンリ先生と戦う前に4階級のパーティーと戦闘した直後だ。
不意の戦闘でここまで出来れば十分だろう。
「ふむ……。ではあの噂はどういうことかね? その噂を聞く限りでは、とてもアンリ女史の言うような生徒ではないようだが……」
だとすると、ジハードとして気になるのはあの噂だ。
彼が孤立することになったあの話。
「噂は所詮噂ですよ~。真っ赤なデタラメです~」
「ふむ……」
思案顔で黙り込むジハード。
彼の頭の中に様々な考えが浮かんでは消えていく。アンリはやや視線を上に揚げて思案顔をしている壮年の戦士をニコニコとした笑顔のまま眺めていた。
そんな風に視線を上げていると、ジハードの目に資料室の札を掲げた部屋が見えてきた。どうやら話をしている間に目的の部屋の前まで来ていたらしい。
資料室の扉を開けて中に入り、目の前の机に持っていた資料の山を置く。パンパンと手を叩くと、ジハードはアンリに振り向いた。
「ありがとう、アンリ先生。なかなかいい話が聞けた」
「いえいえ」
ジハードと同じように机の上に資料を置き、整理を始めるアンリ。彼女が整理を続けている間も、ジハードは顎に手を当てて考え込んでいる。
そんな壮年の剣士を横目で眺めていた時、アンリの頭にある考えがピンと閃いた。
「そうだ、ジハード先生~。もしノゾム君の実力を直に見たいなら、良い手がありますよ~」
「いい手?」
「ええ、報告書の中だけでは分からないノゾム君の力量。学園の中では簡単には出来ない彼の本来の戦い方です~」
アンリの言葉にジハードは眉を顰めた。先程の話から、ジハードが考えたノゾム・バウンティスは知略に長けた参謀型の生徒という印象だった。
だが、今の彼女の発言から考えるとどうやらそうでもないらしい。
そういえば、あの魔獣の件でノゾム達から報告を受けた時も、彼は腰に刀を差していた。
参謀や指揮官の人間なら、立ち位置は自然と戦場を見渡せる後衛になり、得物も弓などの間合いの広いものになる。
だが、彼が手にしているのは扱いの難しい、この大陸ではほとんど出回らない刀。
学園に広まっている噂のせいで仲間となる人間がおらず、必然的に自分も接近戦をこなす必要があったにしてもおかしい。それなら扱いやすい長剣や持ち運びやすい短剣、間合いを取れる槍等を持つだろうし、わざわざ習熟に労力と時間がかかる刀術を選んだりはしないだろう。
ノゾム・バウンティスという人間が抱える奇妙な不一致。おそらく目の前のアンリ先生はそのあたりを知っている。正直、ジハードは目の前に餌を吊るされている気分だった。
「知りたくありませんか~?」
満面の笑みをジハードに向けるアンリ。彼女が何を考えているのか、ジハードはその表情かと言動から読み取ろうとする。
インダから時に行き過ぎと言われるほど生徒想いアンリ先生の事だ。恐らく、その提案も、ノゾム・バウンティスを想っての事であることは間違いない。ジハード自身、アンリの話を聞いてから、ノゾムに対してさらに興味を惹かれていたところだ。
「話を聞こう」
決断は早かった。多くの重要事案を抱えているジハードにはあまり時間的な余裕はないが、それでも話を聞くくらいは出来る。
ジハードの答えに満足そうに微笑みながら、アンリはゆっくりと口を開いた。
アンリがジハードに資料運びを手伝ってもらっていた頃、ノゾムは商業区にあるギルドの前でアイリスディーナ達の到着を待っていた。昼休みに彼女から頼まれた、依頼の手伝いをこなすためだ。
ノゾムの目の前では石を切り出して作られた3階建ての建物がそびえ立ち、大きく開かれた扉からは様々な風貌の人たちが出入りしている。
獣人特有の艶やかな体毛を持つ戦士達や、フードを被った魔法使い。ソルミナティ学園の制服を着た学生達や依頼をするために訪れたと思われる街の人々が開かれた門をくぐっていく。
ソルミナティ学園の制服を着た生徒達はギルドの壁にもたれかかっているノゾムを見つけるとハッとしたような表情を浮かべ、続いて小声で何かコソコソと喋り始める。
ここは商業区の大通りに面しているため、ギルドに訪れる人以上の人々が行き交っている。
喧騒が激しいため、ノゾムには彼らが何を言っているか聞き取ることは出来なかったが、話している内容は恐らくは今日発表された特総演習の結果についてだろう。
今日、ノゾムの鋭い感覚は学園にいる間、自分に向けられた数多くの視線を察知していた。
多くの生徒が行き交う廊下や正門前では彼に向けられた視線は特に多かったが、その大半は疑惑に満ちた眼差しであり、中には相変わらず敵意や蔑みの目で睨みつけてくる生徒もいた。
ノゾムと同じクラスメート達ならともかく、今人混みの中から覗いている生徒達もまた、ノゾムに向かって疑いの視線を向けている。
実際にノゾムが戦う姿を見ておらず、噂の中での彼しか知らないのなら無理もない話ではあるのだが。
ノゾムは仕方ないと思いながらも溜息を吐く。今までが今までだっただけに、疑い目を向けられるくらいならまだいい。
ノゾム自身、そんな目で見られる事に多少は耐性が出来てしまっているし、ここは学園の外ゆえにあまり向けられる視線も多くはない。それでも学園にいる間、ずっと遠巻きに見られていた事で、精神的には多少の疲れを感じていた。
「アイリスもフェオも早く来てくれないかな……」
そんな独り言をつぶやきながら、ノゾムはしばしの間、喧騒に耳を傾けながら辺りを眺める。
大事な商品を忘れた商人が慌てた様子で走っていく足音。歩きながら受けた依頼の確認をしている冒険者達の話し声。規則正しい足踏みで街を巡視している憲兵達。
精緻な作りの陶器や色とりどりの反物など、道端で並べられた商品の種類は膨大で、東西南北から集められた品はまるでこの大陸の縮図のように感じられる。
それらの喧騒の1つ1つが、ノゾムにはこの街の息吹のように思えた。
ソルミナティという学園のために造り出された街。
しかし、この街は学園とは別の、もっと広い世界を垣間見せ、道端に並べられた幾多の品はまるでその世界への入口のようにも見える。
「リサはお父さんと旅をしていた時、こんな風景を見ていたのかな?」
ノゾムがそんな思いを抱きながら街の喧騒を眺めていた。
リサとケンとの関係をどうするか。ケンに対する怒りはあるし、リサに対する複雑な思いもある。
だが、ノゾムはその怒りにはもう囚われていない。正確には、怒りを抱えながらも冷静になれていた。
その理由が自分を陥れようとしたケンの告白で、キクロプス相手に暴走したことが理由と言うのはある意味皮肉と言えた。
本当の意味で一つになれなかったノゾム達。
なら、自分はどうすればいいのだろうか……。
ようやく再び前を向けるようになり、ノゾムは改めて自分を取り巻く状況と、自分自身の想いを己の内に問い掛けてみる。
考えることは山程あった。ノゾムの脳裏に沢山の思い出と想いが過っていく。
果たされなかったリサとの約束とケンとの誓い。自分を助けてくれたアイリスディーナ達への想い。目標を失った自分自身の未来と抱え込んだティアマットの問題。
リサと向き合うなら、まずは話を聞いて貰わないといけないが、ケンの話を完全に信じきっている以上、それも難しい。今までの彼女の様子から考えると素直に話を聞いてくれそうにない。
なら証拠を集めてどうにかしようかしようかとも考えるが、はたして物的な証拠があるのだろうか?
アイリスディーナ達にちょっと考えさせてくれと言ったが、いざ考えてみると考える事が多すぎて頭がゴチャゴチャしてくる。
ノゾムは頭を振って一旦考えを止める。大きく背を伸ばし、深呼吸をして気持ちを切り替える。
「まず考えて、俺はリサ達とどうなりたいんだろうか……」
リサ達の関係がこのままではよくないとは思う。だが、自分は彼女達とどのような関係を望んでいるのだろうか?
ノゾムはただ只管に考える。周囲を行き交う人達の声や物音、照りつける日差しすら気にならない程、彼は自分の心の奥底にある答えを探そうとしていた。
怒りはある。憎しみもある。悲しみも、憂いも、そして彼女を好きだったという気持ちも。
吐き出した息が初夏の風に呑まれて消えていく。通りには相変わらず大勢の人達が行き交い、喧騒に溢れていた。
だが、突然その喧騒の流れが乱れた。ザワリという喧騒と共に、辺りの空気が一変する。
いつもガヤガヤと忙しそうに道を行き交っている人たちの目線が、ある一点へと向けられる。
一体どうしたのかとノゾムが彼らの視線を追ってみると、そこにいたのは1人の少女だった。
長い、黒檀のような艶やかな黒髪をなびかせ、向けられている無数の視線を全く気にせず、胸を張って颯爽と歩いてくる。
通り過ぎた少女の香りに誘われるように、老若男女の視線が彼女の後を追ってしまっている。
颯爽と歩いてきた少女はギルドの前に来ると、誰かを探すように辺りをキョロキョロと見渡し始めた。
やがてノゾムと少女の目線が交わった時、彼女は探し物を見つけたようにホッと微笑むと、彼の元に歩み寄って来る。
「ノゾム、待たせたね」
「あ、ああ、うん。き、気にしないで……」
街の喧騒の中の一瞬の静寂。その中に、ノゾムの名を呼ぶ鈴の様な声が響いた。
周りにいる多くの人たちの視線を釘付けにしながらも、少女の視線はノゾムだけを見つめている。少女はやはり自分がどれほど注目されているのかをまるで気にしていないようだ。
「フェオ君は……まだ来ていないようだね」
「ああ。そうみたいだ……」
「じゃあ、先にパーティー申請の手続きだけでもしておこうか」
本来、森に入るような依頼を受ける事が出来ないノゾムだが、高ランクの生徒や、一定の人数を集めてパーティーを組めばその依頼を受ける事が出来る。
今アイリスディーナの行っていた手続きとは、依頼を出すギルドにパーティーを組む事を伝えるための手続きだ。
また、この情報は学園とも共有しており、そのおかげでもし生徒が行方不明になったり、不測の事態に陥った時に迅速な対応を取る事を可能としている。
「じゃあ、行こうか」
「あ……」
ちょっとそこまで行くような気軽な声で、アイリスディーナはノゾムの手を取ると、そのまま彼の腕を引いてギルドの中へと向かっていく。
いきなり手を握られた事に茫然としたまま、ノゾムはただ柔らかい彼女の手に導かれるまま、後について行くしかなかった。
ギルドの中にはごった返した人々の熱気がムワリと篭っていた。
入り乱れる人垣の中をアイリスディーナはノゾムの手を引いたままスタスタと歩いて行く。
四方八方から行き交う人達の隙間を綺麗に縫っていくアイリスディーナ。
一方ノゾムはそんな彼女とは正反対に、肩やら腕やらがぶつかったり、人の間に挟まれたりしている。
普段ならノゾムもしっかり人垣の間を縫っていけるのだろう。しかし、手に感じる彼女の温もりがノゾム身体から自由を奪い取ってしまっていた。
「ちょ、アイリス、手……うわ! むぎゅ!」
引っ張られてもみくちゃにされてしまっているが、ノゾムは不思議とその手を手放したいとは思えなかった。
「そ、そういえば、あの時も……」
ノゾムの脳裏に浮かぶのは、初めて彼女と街中を歩いた時の光景。
突然デートの時も、ノゾムはこんな感じで引っ張られながら街中を巡り歩いていた。
「う……」
あの時と同じ温もりが手に伝わってきて、ノゾムは思わずぐもったような声を上げた。
心臓の鼓動がドンドンと胸の奥を叩いている。身体は針金を巻かれたように強張り、上手く足がもつれそうになる。それでもノゾムは何とか倒れまいと、必死に足を動かした。
「さて、手早く済ませてしまおうか」
気が付くと、ノゾムは自分が受付のところまで来ていた。
基本的に、依頼は掲示板に張ってある依頼書を受付まで持って行き、手続きを済ませる事で受ける事が出来る。
だがアイリスディーナは既に依頼を受領しているので、今回はパーティーメンバーの登録だけを行うだけだ。
「すまない。新規参加のメンバー登録をしたいのだが」
ノゾムの手を離し、アイリスディーナは受付をしている青年に声をかけて持っていた依頼書を差し出す。
人の良さそうな青年がアイリスディーナの顔を見て呆けたように固まっていた。
一方、アイリスディーナは固まってしまった受付に怪訝な顔をするだけ。
「? すみません。メンバーの登録を……」
「はっ!……はい。承りました!」
ハッとした受付が慌てた様子で依頼書を受け取り、手続きを済ませていく。
アイリスディーナの学生証とノゾムの学生証を受け取った青年は手慣れた様子で手続きを済ませていく。
受付の青年の頬はすこし赤くなっていて、チラチラとアイリスディーナを横目で覗いている。
彼の視線はまず名工が作り上げた彫刻のような彼女の容貌と艶のある長い髪、美しい曲線を描く肢体、そして最後に隣いるノゾムに辿り着く。
そしてこんな顔をするのだ。“何でこんなやつが?”
容姿の差を自覚しているノゾムとしては、こんな視線を向けられても苦笑を浮かべるしかない。
アイリスディーナに見惚れていた受付が、隣にいるノゾムをギロッと睨みつけながら手続きをするために奥へと消えていく。
その時、2人は突然後ろから声をかけられた。
「あ、アイリスディーナ先輩じゃないですか!」
アイリスディーナとノゾムが声のする方に目を向けると、4人の男女の姿が見えた。
彼らはノゾム達と同じように白を基調と真新しい制服に身を包んでいる。だが、その徽章の色から察するに、彼らは一学年の生徒のようだ。
声をかけてきたと思われる生徒が一歩前に踏み出してくる。
顔立ちは端整で、肩までかかりそうな茶色の髪は手入れが良く行き届いているが、後ろで纏めたりはしておらず、無造作に流している。
一応腰に剣を差しているが、制服の胸元をだらしなく開いていて、あちこちにジャラジャラと沢山のアクセサリーを付けていた。お世辞にも真面目な生徒には見えない外見である。
後ろにいるのは杖と弓を持った女子生徒が2人と槍を持った男子生徒が1人。
「君は、エルドル君か」
エルドルと呼ばれた男子生徒は軽薄な笑みを顔に張り付けながらアイリスディーナに近づいてきた。
「先輩も依頼を受けにきたんですか?」
「ああ、そうだ」
「よかったら一緒に行きませんか? 俺達も森での依頼を受ける予定なんですよ」
アイリスディーナを誘おうとするエルドルだが、彼の言葉を聞いてアイリスディーナは眉をひそめた。
「でも、君達は1学年だろう。まだ早すぎると思うが……」
「大丈夫ですよ。俺達全員Dランクですから」
自慢げに胸を張るエルドル。
確かに入学したばかりの彼らがDランクに至っていることは大したものであり彼らの才能の片鱗を窺わせる。だが、彼の態度には行き過ぎた自信から来る慇懃さが見て取れた。
彼の過剰な自信から来る言葉を聞いた時、アイリスディーナの表情が一瞬強張る。
「あの、アイリスディーナ先輩、そちらの方は?」
「彼はノゾム・バウンティス。今日、私とパーティーを組む同級生だ」
「え?」
ノゾムの名前を聞いた瞬間、目を見開いたエルドル。続いて、何やら得意げな顔を浮かべてノゾムに尋ねてきた。
「ノゾム先輩、ランクはどれ位なんです?」
「D-だが」
ノゾムのランクを聞いて、エルドルが小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。ノゾムのランクが自分よりも低い事を聞いて優越感を感じているのだろう。
「アイリスディーナ先輩、やっぱり俺達と一緒に行きませんか? 俺達の方がランクは高いですよ?」
そして、エルドルと呼ばれた生徒は再びアイリスディーナに誘いをかけてくる。ノゾムより自分の方がランクが高いから、役に立ちますよと言いたいのだろう。
「遠慮する。今日、私は彼とパーティーを組む約束をしている」
だが、アイリスディーナはエルドルの誘いをきっぱりと断った。
「でも、この人、あの噂の……」
「それに、そんな失礼な態度を取る君と一緒に組もうとは思わない」
なおもエルドルは、ノゾムの噂を持ち出してアイリスディーナに言い寄ろうとする。だが、彼女はさらに強い口調でエルドルを突き放した。その顔には明らかな嫌悪の表情が見て取れる。
いつも分け隔てなく、優しいアイリスディーナだが、普段の彼女らしくない厳しい口調で断られたせいか、エルドルだけでなく後ろにいる後輩達も驚きで目を見開いている。
その時、受付が手続きの終了と告げて依頼書を返してきた。
「ノゾム、行こう」
「お、おい」
受付が渡してきた依頼書を受け取ると、アイリスディーナはノゾムの手を引いてこの場を立ち去ろうとする。
エルドルが何かを言おうとしていたが、彼女は呼び止めようとする彼を無視して出口へと向かった。
「アイリス、良かったのか? 後輩なんだろ?」
「ああ、別に気にしなくていいよ。多少の腕は立つが、少なくとも私は彼と組みたいとは思わない」
「そっか……」
ギルドの建物を出て、一息つくノゾムとアイリスディーナ。人混みから解放され、肩の力が抜けたところで、ノゾムは先ほどの後輩についてアイリスディーナに尋ねてみた。
「知り合いなのか?」
「まあ、ね。以前、私に付き合ってくれと告白してきた」
その言葉にノゾムは一瞬驚いたが、すぐに納得した。容姿、性格共に否の打ち所のないアイリスディーナの事だ。実際、彼女に告白する生徒は後を絶たない。
中には女子生徒からの告白もあったらしい。真偽のほどは定かではないが、強く、頼りになるアイリスディーナに惹かれる女子生徒は数多くいるところを考えると、あながち間違いではないのかもしれない。
「だけど断わったよ。私自身、その気もないのに答える事はできないし……」
アイリスディーナは大きく深呼吸をした後、チラリと隣にいる少年に目を向ける。
どこにでもいるような平凡な容姿。だが、彼の姿を見るだけで胸の奥から焼けるような熱が込み上げてくる。
「っ!」
胸の奥から湧き上がる熱はすぐさま全身に行き渡る。早鐘のように脈打つ心臓、彼の手を握っている指は火照り、思わず顔を背けてしまう。
顔を背けても、アイリスディーナの手はノゾムの手を握ったまま。離さないと彼にばれてしまうかもしれないが、離すことが出来ない。
「??」
彼の方から怪訝な雰囲気が伝わってくるが、アイリスディーナは振り返ることが出来ない。
彼の目を見れないアイリスディーナ。でも、彼の手を離すことも出来ない。
「それに……」
意味深な雰囲気を醸し出しながら言いよどむアイリスディーナ。だがその時、ノゾムの口が「あっ!」と言う叫び声を上げていた
「ノゾム?」
聞こえてきた叫び声に、怪訝な顔をして振り返るアイリスディーナ。隣にいるノゾムは彼女ではなく、なぜか明後日の方を見ている。
彼の視線の先を辿っていくと、金色の毛並みに包まれた耳をぴょこんと立てている狐尾族の青年の姿があった。
「ん~~。あ、ワイの事は気にせんでええよ。どうぞ続きを……ワイは路傍の石ころみたいなもんやし」
何時の間に来たのだろうかという疑問がノゾムの頭に湧いてくる。アイリスディーナのおかげで周囲からの視線が桁外れに多く、ノゾムは彼の気配に全く気付かなかった。
フェオはニヤニヤとした笑みを顔に張りつけながらノゾム達の様子を窺っている。
「フェオ、何時からいたんだ?」
「ん? お二方が連れだってギルドに入った姿が見えたから、これはいいものを見た! と思って後を……。なんならあっちにサービスのいい連れ込み宿が……」
「さてノゾム、行こうか」
「お、おい、アイリス……」
どうやらフェオは初めから全てを覗いていたらしい。
ノゾムは呆れてため息を吐きそうになるが、アイリスディーナはフェオを置き去りにして森に向かおうとする。ちなみに、彼女の手はノゾムの手を握ったままだ。
「ちょ、待ってな~! 軽い冗談やんか!」
「ノゾム、今日は頼りにしているよ」
あわてた様子でフェオが駆け寄ってきて弁明する。
だが、アイリスディーナはノゾムには声を掛けて微笑むが、フェオの方は全く見向きもしない。
「無視!? 無視なんか!? 姫さんちょっと待って! ノゾムも何か言ってや!」
歩調を全くゆるめないアイリスディーナにフェオが縋りつく。だが一向に成果がないと分かると、今度はノゾムに縋りついてきた。とはいっても、そんな事をされてもノゾムにもどうしようもないのだが。
ノゾムのため息がアルカザムの街に消えていく。
今日だけでどれだけ騒動があったのだろうか。しかも、トラブルはまだまだ増えそうな予感がする。
アイリスディーナの手の温もりにちょっとドキドキし、縋りついてくるトラブル誘引キツネに頭痛を感じながら、ノゾムは今日を無事に乗り越えられる事を祈った。
リサ・ハウンズにとって、ノゾム・バウンティスの事を考える時は常に胸をかきむしられるような思いが湧き上がっていた。
夢があった。その夢を応援してくれた人。
かつては一緒にいると言ってくれた相手だが、裏切られたと思っている彼女は、かつてのその胸に抱いていた思いと同じだけの憎しみを彼にぶつける様になった。
ノゾムの姿を見た時、目に映っていたのは常に裏切られた時の光景。自分ではない他の誰かと寄り添う彼の姿。そして、誰も来てくれない部屋の中で膝を抱える自分自身。
「…………」
無言のまま、リサは商業区の通りを歩く。隣には自分を支えてくれた幼馴染と親友がいる。
「リサ? どうかしたの?」
「大丈夫? なんだか最近上の空になる時が多いけど……」
隣を歩くカミラが怪訝な顔をしてリサの顔を覗きこんでくる。ケンもまた心配そうにリサの様子を窺っていた。
「だ、大丈夫! ゴメンね、なんか最近寝付けなくて……」
「体調悪いなら、寮に戻る?」
「ううん。心配しないで、ちょっと考え事していただけだから」
手を振りながら笑みを浮かべるリサ。心配をかけないように笑顔で振る舞うが、内心では心にさざ波が立つような感覚を覚えていた。
彼女がこの感覚を覚えるようになったのは特総演習後、屍竜と戦ったノゾム・バウンティスが重傷を負ったと聞いた時だ。
それ以来、彼女はかつての想い人の姿を思い浮かべる度にこの妙な感覚に襲われていた。
初めはノゾムに対する憎しみかと思っていたリサ。しかし、今まで彼の事を考えた時に感じていた胸をかきむしるような感覚ではない。
かといって、自分を裏切った彼を心の奥でせせら笑っているようでもない。
一体なんだろう……。
そんな思いを抱きながら、リサは隣を歩くケンに目を向ける。
「ん? どうかした?」
いつもどおりケンはリサに微笑んでくれている。あのオイレ村で一緒にいた時と変わらない笑顔。
でもなぜか、その笑みを見る度に胸の奥のさざ波が何かを訴えているように荒れ始めている。
「あっ?」
その時、リサはギルドの建物の傍で、アイリスディーナに手を引かれているノゾムの姿を見た。
黒髪の同級生に手を引かれて行く彼。
次の瞬間、リサの心のさざ波が一気に泡立った。今朝感じていた胸の奥のわだかまりは一気に高鳴り、高波のように彼女の心に打ちつけてくる。
目の前にフラッシュバックする光景。それは屍竜の前に立ち塞がっている彼の背中だった。
「リサ……?」
隣にいるはずの親友の声が遠い。
ギルドの中に消えていく彼の背中を、リサはただ茫然と眺めることしかできなかった。




