第6章第3節
ソルミナティ学園の一画にある執務室では、この部屋の主とその補佐が向かい合っていた。
部屋の主、ジハード・ラウンデルの手には紙の束が握られており、彼はじっとその書類に目を通している。
一言一句見逃すまいと細められた視線は厳しく、どこか緊張感を含んだ空気が執務室に満ちていた。
ジハードが放つ緊張感に当てられたのか、向かい合うインダの額から一筋の汗が流れ落ちる。
「ノゾム・バウンティス……。インダ女史、これに書かれている事は本当なのか?」
「は、はい。少なくとも、その書類がソルミナティ学園におけるノゾム・バウンティスの成績表です」
緊張のあまり詰まったようなインダの声が響く中、ジハードは目の前の紙に何度も目を走らせる。
ジハードの手に握られているのは、先の特総演習における上位チームを構成していた生徒達の書類だ。
この学園における今までの彼らの成績や試験の結果が、その書類に記載されていた。
「…………」
ジハードの視線は先程からずっとノゾムの書類で止まっており、時折何かを考えるように口元に手を当てている。
傍にいるインダも何も言わない。彼女としても、この前の演習の結果は信じられないものだったからだ。
「ジハード殿……」
「わかった。ありがとうインダ女史。仕事に戻ってくれ」
「は、はい……」
インダがジハードに何か聞きたそうな顔をしていたが、彼女は一礼して執務室を出て行く。
ジハードはゆっくりと椅子の背もたれに体重を預けた。
ギシリと椅子がきしむ音がして、幾分肩の力が抜ける。ジハードは執務室の天井を眺めながら、先程読んでいた書類の内容を考えていた。
「総合ランクD-。 少なくともこのクラスの人間がアンデットとはいえ竜と対峙して生き残れるはずが……」
ランクD-。これは本人の実力が駆け出し冒険者や、一般兵士レベルであることを指している。
屍竜との戦闘時、彼の傍にはアイリスディーナ・フランシルトやリサ・ハウンズを始めとした3学年でも最上位のメンバーがそろっていた。しかし、それでも竜という存在を相手取るには彼女達はいくら成長してきたとはいえまだ役者不足だ。
精神的な未熟さゆえに綻びが生じやすい若者達。仕方ないことではあるが、彼らぐらいの年齢の少年少女が精神的に成熟するにはまだまだ時間と経験が必要なことは確かだった。
あの時の状況では死者が出てもおかしくはない。最悪全滅していた可能性もある。
しかし、誰一人欠けることはなかった。怪我人は多かったが、救出された彼らは全員が取り返しのつかない状態ではなかった。その点を見ればまだまだ至らない点は多いが彼女達は成長して来ていると言える。
その中でも異彩を放っているのが、先ほどジハードが見ていた書類に書かれていた生徒、ノゾム・バウンティスだった。
確か彼は特総演習以前にもあの黒い魔獣、今では“アビスグリーフ”と名付けられた魔獣と交戦して生還している。屍竜と直接対峙して生き残っている事を考えても、彼がこのランクであることはおかしな話なのだが。
「やはり、試験は所詮試験でしかない。書類だけでは本人の実像は分からんか」
手に持っていた書類を机の上にそっと置きながら、ジハードは息を吐き出すように呟く。
「アビスグリーフの方も無視できん。他にも色々懸念事項はあるがのだが……」
気持ちを切り替えるように大きく息を吐き出す。
机の上に広がった書類を纏めて机の中に片づけると、ジハードは立ち上がって執務室を出て行く。
頭の痛いことが多いが、ひとつずつどうにかしていくしかない
「まずは、マウズ殿と話をして、それからアンリ女史に彼について話を聞く必要があるか……」
ジハードの呟く様に漏らした声は、彼の口調とは正反対に温かい陽光が差し込む執務室の中に溶けて消えて行った。
さて、学園の昼食タイムと言えば、1日の学園生活の中で校舎の中が一番賑やかになる時間であろう。
襲ってくる空腹感を単純に満たすため、午後の授業の活力を求めて食堂や売店に駆け出す生徒達。
学園生活においては見慣れた光景であるが、時には学生同士の喧嘩にも発展する、一日の中で最もトラブルの多い時間帯。
そんな喧騒をよそ目に、ノゾムは早々と目当ての物を購買で手に入れていた。
彼の手にあるのは、相変わらず一番安い黒パンと生野菜、そして焼いた豚肉の腸詰めだ。
いつもよりかなり多めに昼食を買い込み、ノゾムはその足で校舎に向かって歩き出す。
白を基調とした校舎の中に設けられた小さな部屋。保健室の前まで来たノゾムは、抱えた昼食を落とさないように気をつけながら扉を開く。
保健室の中ではノゾムの仲間達が一足先に集まって談笑していた。彼が小さく手を振ると、彼の仲間達も手を振って応えてくれる。
彼らの傍まで来ると、ノゾムはそのまま空いていた椅子に腰を下ろした。
「やあ、ノゾム。早かったね」
「まあね。このパン、相変わらず人気ないから」
アイリスディーナと軽く言葉を交わしながら、ノゾムは持っていたパンのいくつかをフェオに投げ渡す。
「ほら。約束の品だ」
「うほ、きたきた! サンキューなノゾム!」
このパンは購買で一番安いものだ。生地もパサパサしていて、決して美味いとは言えないパンなのだが、それでも極貧生活を続けているフェオには問題ではなかった。今の彼には、空腹という最高の調味料があるのだから。
「はむ! んぐんぐ……」
乾いた黒パンを何もつけずに頬張るフェオ。確かに硬いし、生地も完全に乾いているから飲み込み辛い。でも、そのパンはフェオにとっては何よりの御馳走だった。
ノゾムとしても投剣術を教えてもらったお礼としてはあまり良くないと思ったので、他にも野菜や肉などをかなり買ってきていた。空腹に喘いでいるフェオには質より量と考えたからだ。
ノゾムが差し出すそれらのおかずも、すさまじい勢いでフェオの胃袋に消えていく。
その光景を苦笑いしながら眺めていた他の面々も椅子を持ってきて座る。
談笑しながら昼食を取り始めるノゾム達。思い思い会話を楽しみながら、持ってきた昼食に舌鼓を打っていた。
「あら? ティマさん、その髪留めはどうしたの?」
シーナがちらりと見たティマの髪飾りに目を留める。
綺麗に切りそろえられた彼女の茶色の髪は銀色に光る細工をあしらった髪飾りが輝いていた。
小奇麗で洒落た髪飾りだが、銀に輝くその色は彼女の髪色や今の服装からはちょっと派手すぎるように感じる。
だがシーナがその髪飾りに目に留めたのは、色合いもそうだがその細工からほのかに魔力の気配を感じたからだった。
「あ、これ? ちょっと試しにアクセサリーに術式を組み込んで作ってみたの。貯め込んだ魔力はあまり長続きしないし、せいぜい虫除けぐらいの効果しかないけど……」
どうやらこの髪細工はティマの自作らしい。
「いや、そんなことないだろ、毒虫なんかも近づいてこないならかなり有効なんじゃないか?」
マルスがティマの髪飾りの効果を褒める。その隣でノゾムも頷いていた。
森の中には毒を持っていたり、生き物の体内に卵を産んで幼虫の餌にするような虫もいる。確かに虫の体躯は小さく、一見無力のように見えるものが多いが、自然界という彼らのテリトリー内においては決して無視できない存在なのだ。
ノゾム自身も森に入り、うっかり地中にあったハチの巣を踏み抜いてえらい目にあったことがあった。
マルス達に褒められたことで顔を紅くするティマ。恥ずかしいのか俯いているため顔が前髪に隠れているが、口元まで真っ赤に染まってしまっている。
「そうね~。それに森に入ると虫に食われて肌が赤くなるし……。」
「え? そっち?」
アンリもまた彼女の髪飾りを賞賛する。
だが、アンリの口から出た言葉はやはりというか、ちょっとズレていた。
ノゾムは下手したら死に掛けるかもしれない毒虫の話から、いきなり肌荒れの話にずれた事で間抜けな声を漏らしてしまう。隣にいるマルスも同様に目を白黒させていた。
「確かに、パーティーに出る時に肌が赤いと着れる服が限定されてしまうし……」
「その後のお手入れも大変だしね~」
ノゾムやマルスとしては、その理由は虫に対する脅威度の順位としてはかなり低いのではとは考える。
しかし、どうやら女性陣にとって肌荒れを引き起こす虫は毒虫の次くらい脅威度が高いらしい。
「でも、この髪飾り自分で作ったんでしょう~? 結構きれいな髪飾りね~」
「い、いえ。髪飾り自体はお店で売っていたんです。私がやったのは術式を組み込むことと魔力を込める事ぐらいで……」
アクセサリーのデザインが気に入ったのだろう。アンリが身を乗り出してティマに身を寄せてくる。
アイリスディーナやシーナも興味あるのか、ティマの髪を飾っているその細工をしげしげと眺めていた。
「確かにちょっと派手だが、なかなかいいデザインじゃないか」
「商業区の大通り沿いに新しいお店ができたみたいなの。そこで売ってたよ。アイも今日一緒に行ってみる?」
ティマの誘いにアイリスディーナは“今日か……”つぶやくと、少し残念そうな顔を浮かべた。
「う~ん。行ってみたいが今日はギルドの依頼をこなそうと思っていたんだ。昨日すでに受けてしまったし、討伐系の依頼だから出来るだけ早く完了させてしまったほうがいいと思っていたのだが……」
討伐系の依頼がギルドにあるいうことは、その魔獣のせいで困っている人がいるということだ。彼女の話ではその依頼をしてきたのは森で狩りをしている猟師達らしい。
正義感の強いアイリスディーナとしては一度受けてしまっているし、何より困っている人たちを早く安心させてあげたかった。
「ならしょうがないね……」
アイリスディーナの気持ちを知っているティマとしても、そういう理由なら無理強いする気はなかった。もっとも、彼女の性格なら人に無理を言うなどまったく出来ないのだが。
「すまないティマ、また今度ということで頼む」
申し訳なさそうなアイリスディーナにティマは気にしなくてもいいよと言うように笑顔を浮かべる。
ティマの笑顔に安心したのか、アイリスディーナも表情を緩めた。その時、彼女は思いついた様にノゾムに声を掛ける。
「そうだ、ノゾムは今日の放課後、どうするんだ?」
「俺? 今日は森に入る予定だったけど……手が必要なの?」
いきなり声を掛けられたことに少し驚くノゾム。しかし、今までの彼女の話から先ほどの依頼についての事かと思い至り、彼女の問い掛ける。
事実、アイリスディーナの話はその依頼に関することだったらしく、彼女はノゾムに助力を求めてきた。
「ああ、君は森にも詳しいし、ティマはちょっと用事で今回の依頼を一緒に出来ない。出来ることなら手を貸してほしいんだけど……」
ノゾムはそのランクの低さゆえに、森に入るような危険度の高い依頼を受ける資格がない。しかし、一定の人数でパーティーを組むか、高ランクの人と組めばその依頼を受けること事は許可されるのだ。
アイリスディーナとしてもノゾムのように森の中に詳しい人間がいることは非常に頼りになる。
「いや、その……特総演習の時にパーティー組む約束をしていたけど、出来なかっただろう? だから、まあ、この機会に一緒に依頼をやってみたらどうかと思ったんだけど……」
いきなりこんな話を持ちかけたからだろうか、少し遠慮しがちにアイリスディーナがノゾムに頼み込んでくる。
確かに特総演習2日目は一緒に組もうと約束していた、屍竜の襲撃によって演習が中止になってしまってその約束は果たされなかった。
元々あの時の約束はソミアのデートを心配したアイリスディーナが後を付けてきたことに対するお仕置きだったはず。
もしかしたら色々と迷惑をかけたことを彼女は気に病んでいたのかもしれないとのノゾムは一瞬考えたが、なんだか伏し目がちにノゾムの顔を覗きこんでくるアイリスディーナの姿にノゾムの胸がドクンと高鳴った。
一瞬彼の脳裏に浮かんだのが、彼女が森でノゾムに向かって言い放った一言。君に私の背中を守ってほしいという言葉だった。
「……わ、分かった、いいよ」
ノゾムはちょっと言葉に詰まりながらもアイリスディーナの頼みを引き受ける。
彼としては人気のない森の中で龍殺しの力も含めて色々と鍛練するつもりだったのだが以前の約束の事もあるし、彼女の頼みであれば多少予定を遅らせても大丈夫だろうと考えた。
何よりも、頭に過った彼女の一言が何より大きかった。誰かに頼りにされたことなど、この学園にいてからほとんどなかったのだから。
「あ……よかった。ありがとう」
断られるかもしれないと思っていたのだろうか。アイリスディーナがホッとした様子で肩の力が抜く。少し緊張して強張っていた頬も緩んで笑みが零れる。
普段凛々しい表情を崩さない彼女なだけに、その笑みは見る者を惹きつける。
これは完全に不意打ちだった。ノゾムは一瞬で彼女の優しい自然な微笑みに目を奪われてしまう。
呆然としたまま佇むしかできないノゾム。その時、意外な人物が口を開いた。
「……なら、ワイも行こうかな」
アイリスディーナが放つ甘やかな雰囲気を一刀両断したのは、自分もその依頼に加わるというフェオのとんでもない一言。
「……え!?」
いきなり参加を表明したフェオに思わず間の抜けた声を出してしまうアイリスディーナ。
さっきまでの甘い蜂蜜の様な香りはどこかに吹き飛び、代わりに周囲を包みこむのは、この狐がまた変なことを考えているのではいう疑惑の視線と胡散臭い空気。
「別にええやんか。あの時はワイも一緒に組もうって話になっとったし。そうだ、シーナもどうや?」
「は、はあ!?」
更にフェオが思いがけない言葉を言ったために、アイリスディーナがあっと驚くような声を上げる。
シーナとしてもいきなり自分に話が降られたことで目を点にしていた。
「……どうして私も?」
「何言うてんねん。あんたもあの時一緒に組むはずだったやないか~」
確かに、あの時の約束ではシーナもノゾムのパーティーに参加する予定だった。それを考えればフェオの提案は当然のことのように思える。
しかし、にやけているフェオの顔が妙にシーナの猜疑心を煽り立てていた。
言っている事はまともに聞こえるが、ノゾムとしても態度が明らかに面白がっているようにしか見えない。
「それはそうだけど……」
シーナは少し言いよどむと、ちらりとノゾムとアイリスディーナを一瞥する。キュッと目尻が上がり、若干釣り目になるシーナ。
2人に向けた視線が少しきつくなり、ノゾムは何故か背中に悪寒を感じた。
シーナは少し考えるように唇に手を当てると、首を振る。
「遠慮しておくわ。今日はちょっと用事があるから……」
「え~、なんやそれ。せっかく面白くなりかけとったのに……。あ、そうだ! ついでにマルスも一緒にどうや!?」
ノゾムはフェオの面白くなりそうだったという言葉に若干不安を感じる。
ちらりとシーナに目を向けると、彼女はプイッと目を逸らした。声を掛けようとしても掛けられない
「俺はついでかよ……。俺は無理だな。店の手伝いが終わっていない」
「なんや、つまらんなあ。家の手伝いかい……」
つまらなそうな顔をしながら口を尖らせるフェオ。
その態度にマルスのこめかみがピクリと動く。
「原因の一端はお前なんだが……忘れているなら思い出させようか?」
「ハ、ハハ……そうやな、家族は大事や! トム達はどうするんや!?」
マルスがいい笑顔を浮かべながらフェオに若干ドスの利いた声で語りかける。
こめかみだけでなく口元も若干吊り上がって震えている所を見ると、あの酒に酔った挙句のバカ騒動のせいで牛頭亭はかなり面倒なことになっていたらしい。
マルスの威圧感たっぷりの笑みを向けられた狐様はすぐさま撤退を決定。若干顔を青くさせながら無理矢理トムに話題を振る。
「ご、ごめん。僕は放課後ちょっと先生に呼び出されていて……」
「私はトムと一緒!」
「おいこら待て、このエロ狐」
どうやらトム達もシーナと同じように用事があるらしい。何やら不安な空気を察知したせいか、若干トムの声が硬い。
「ならしゃあない! 森に行くのはこの3人で決定やな!」
「そ、そうか……」
あからさまな逃避行動に出たフェオに詰め寄ろうとするマルス。捕まってはたまらないと今度は無理矢理話題を終わらせようとしてくるフェオ。
フェオが牛頭亭で酒に酔って暴走した時、眠っていたトムや事情をよく知らない仲間達はみんな首を傾げているが、現場にいたノゾムの口からは呆れと溜息しか出てこない。
その中で被害者の1人であり、無自覚な色香でその場にいた男勢の暴走を招いてしまったアンリ先生は、何故かノルン先生の隣でいつも通りの笑顔でニコニコしている。当事者の1人だと言うのにいつの間にか完全に傍観者となっていた。
ノゾムが実はこの先生が一番油断ならないんじゃないかと考えていると、いつの間にか隣にいたアイリスディーナが声を掛けてきた。
「まあ、よろしく頼むよ、ノゾム」
「……ああ、よろしく」
若干言葉に詰まりながらも返事を返すノゾム。
その言葉を聞いてフェオがワザとらしく声を上げながら食べ終わったパンの袋を片付け始めた。
「と言うわけで、放課後はギルドに集合! その後森に向かって出発やな! いや~ホント楽しみや……じゃあ、そういうことで!」
「待てこら!」
無理矢理話を完結させたフェオが保健室から飛び出していく。逃げたフェオの後を追いかけて飛び出していくマルス。
ドタドタと騒ぎ立てながら廊下を走っていく両者を眺めながら、ノゾムは苦笑を漏らしていた。