第6章第1節
お待たせしました。第6章開始です。
暗く、どこまでも続く湖畔。
ほのかに光る水を湛えた広大な湖の畔で、1人の少年と1匹の巨龍が戦いを繰り広げていた。
「くっ!!」
山のような巨龍が打ち下ろした前足が岩盤を水ごと打ち上げ、地面を走る衝撃波が少年に襲いかかる。
少年は向かってきた衝撃波の勢いに逆らわないように大きく後ろに跳躍した。
襲いかかってきた衝撃波は少年の体の小枝のように吹き飛ばす。
少年、ノゾム・バウンティスはそのまま何度も地面に叩きつけられるが、その度に何度も受け身を繰り返し、体にかかる負担を最小限に留める。
いくら屈強な戦士とはいえ、重傷は免れないような勢いで飛ばされたにも拘らず、ノゾムは逆に地面に叩きつけられた勢いを利用して体を跳ね上げ、ほぼ無傷のまま体勢を立て直す。しかし、相手とかなり距離を開けられてしまった。
ノゾムが持つ武器は自分の手に携えた一振りの刀のみ。
遠距離から有効な攻撃手段を持たないノゾムにとって、この距離での戦闘には勝ち目がない。
最も、目の前の巨龍、ティアマットが相手では、たとえ距離を詰めることが出来たとしても、勝ち目など砂浜の中から一粒の砂金を探り当てるに等しい。
以前初めて戦った時はティアマットにとってノゾムは何ら脅威ではなく、地を這うアリと同じだったが、それゆえに奴には油断がありつけ入る隙があった。
しかし、今ノゾムが戦っているティアマットにそんな油断は微塵もない。
幻無で何とか傷をつけることぐらいは出来たはずの鱗はノゾムの気術を難なく跳ね返し、傷一つ付く様子は見受けられない。
彼の視界には天を覆うほどの光球も群れが映し出されている。
「この……!」
「ガアアアアア!!」
ティアマットの咆哮とともに奴が精霊魔法で作り上げた光群が、一斉にノゾムめがけて堕ちてくる。
隙間なく、まるで動く城壁のように迫り来る光の群れ。
この光景を目の前にすれば、並の人間なら相手との計りきれない力の差に絶望し、抵抗することを諦めて茫然自失となるだろう。そして、そのまま自分の死を受け入れるだけだ。
「死んで……たまるか!!」
しかし、ノゾムは抵抗することを諦めなかった。
この湖畔。ノゾムとティアマットの精神世界でのしのぎを削る戦い。
もし自分が諦め、目の前の巨龍に屈したら間違い無くノゾムの体は消滅し、ティアマットは現世に復活を果たすだろう。そうなれば、今まで何度も悪夢で見てきた光景が現実のものとなる。
みんなに何も話せず、目を背けることしか出来なかった自分を受け入れてくれた彼女達が物言わぬ骸となる。ノゾムはそれだけは容認できなかった。
だからこそ、彼は抵抗し続ける。
驟雨のように自分めがけて降り注ぐ光球をノゾムは避けきる事は不可能と判断。しかし、この距離での戦闘継続はいたずらに時間と自分の体力を消耗するだけだ。
ノゾムは自分の両足に気を集中させた。
目の前の巨龍との戦闘が始まった時に、能力抑圧は解除している。
溢れ出るほどの気で強化された両足で大地を踏み砕きながら瞬脚を発動。一瞬で加速したノゾムの体がティアマットめがけて弩弓の矢ように疾駆する。
「おおおおお!」
ノゾムは引き伸ばされる周囲の景色を視界の端に映しながら、迫り来る光球に意識を集中。世界が一瞬灰色で満たされ、目の前の映像が全てゆっくり映し出されるようになる。
極限の集中力の元、体感時間が何倍にも引き伸ばされる感覚の中でノゾムは両手に持った刀と鞘を振るう。
襲いかかる光球を切り裂き、弾き飛ばす。
能力抑圧を開放してから数分。既に限界は近い。
足を進める度に体がガクガクと崩れそうになり、振るう両腕は千切れそうになる。全身がギシギシと悲鳴を上げていた。
それでもティアマットの光群は迎撃しきれない。ノゾムが振るう刀と鞘を掻い潜って、光球が彼の体を貫く。
突き刺すような痛みが全身に走り、ノゾムの動きが僅かに鈍る。
その瞬間を待っていたかのように、ティアマットは己の口腔を開いた。
収束していく混沌の光。屍龍の光弾がまるで蝋燭の火のように見えてしまうほどの巨大な炎弾。
「くっ!!」
ノゾムは未だに降り掛かってくる光弾の雨を突破できていなかった。その間にもティアマットの口に集まる黒色の炎は徐々に大きさを増し、絶望すら生温いと感じる程の威圧感をノゾムに叩きつけてくる。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
一撃でアルカザムを吹き飛ばしかねない威力を持つ巨炎が一人の少年めがけて放たれる。
ノゾムは全身穴だらけになりながらも、何とか光弾の雨を突破したが、既に混沌の巨炎は目の前に迫っている。
「この……!」
もう回避は間に合わない。防御なんて意味が無い。ならば……斬るしかない!
ノゾムは崩れ落ちそうになる体を必死に支えながら、再び瞬脚を発動し、巨炎めがけて自分から踏み込む。
同時に、抑圧を開放しても押さえ込んでいた自分の中にある力を全て開放した。
ティアマットと同質の力が彼の体を覆い、携えた刀に収束されていく。
一気に跳ね上がった心臓の鼓動。激流のように体を駆け巡る血液。目の毛細血管に集まり、視界を真っ赤に染め上げた。
ノゾムにもう余力はない以上、これが最期の一撃になる。
このブレスを切り裂く事が出来てもティアマットに勝てたわけではない。しかし、それでも背中は向けたくなかった。
刀を振り上げ、自分自身を全て叩きつける思いで振り下ろす。
「おおおおおおおおおおおお!!」
混沌の巨炎と五色に輝く斬撃が衝突する。
しかし、ノゾムの斬撃は巨炎を切り裂くことは出来ず、巨大な炎塊はまるで底なし沼のようにノゾムの刃を飲み込んでしまう。
強烈な閃光を全身で感じながら、ノゾムの視界は真っ白に塗りつぶされていく。
「くっ!!」
抗いきれない力の差に唇を噛みながらも、ノゾムは目を逸らしたりせずに迫りくる混沌の炎を睨みつける。
その時、不可思議なことが起こった。
まるで水面に石を投げ込んだように、ノゾムの視界に波紋が広がっていく。
「え……?」
広がる波紋は反響し、共鳴するようにノゾムの視界を埋め尽くしていき、それに伴って目の前に迫る混沌の炎と巨龍の姿がぼやけて消えていった。
「ん……」
ゆっくりと意識が覚醒してくる。
ノゾムは改めて周囲を見渡して自分の体を触ってみるが、自分がいる場所は間違いなく寮にある自分の部屋で、自己の体は17年前に両親から授かった自分の体だった。
「……帰ってこれた、のか」
呆然としながらも、独り言のように呟きながら、ノゾムは自分が自分のまま帰ってくることが出来た事に安堵していた。
窓から差し込む太陽の光は日に日に強くなりつつあり、徐々に季節は春から初夏へと移りつつある。
ノゾムはベッドから起き上がると、顔を洗い、支度を整え始めた。
白を基調とした制服に身を包み、道具一式の入った鞄を取る。
昨日の残りのスープを温めて皿に移し、黒パンを放り込んで軽くかき混ぜる。
温まったスープの匂いと軽く焼いたパンの香ばしさを鼻と舌で味わいながら、ノゾムは先程まで見ていた夢に思いを馳せる。
「やっぱり間隔は3日から5日か……」
郊外の森での戦い以降、ティアマットは数日置きにノゾムの夢に現れ、彼の心を砕かんと戦いを挑んできていた。
当然ノゾムも抵抗するのだが、いかんせん相手があまりにも強大すぎて戦いにならなかった。
「あの世界で負けたのにどうして帰ってこれているのか、相変わらず理由ははっきりしない……っ!」
頭に走る痛みにノゾムは僅かに顔を顰める。既に何度夢の中で殺されたのだろうか。
何故ティアマットに乗っ取られずに、現実世界に帰れているのか。ノゾムにはその理由は分からない。
しかし、抵抗を止めるわけにもいかない。
確かに精神世界から帰還できている理由はわからないが、相変わらずノゾムの胸の奥には、嫌な予感が渦巻いていた。少なくとも自分が諦めてしまえば、その時点で奴が自分に取って代わるような予感が。
自分の胸に残る不安を自覚しながらも、ノゾムはゆっくりと食事を済ませていく。
朝食を食べ終わり、食器を片づけたノゾムは机の上に置かれた3本の刀に目を向ける。
窓から差し込む朝日の光が鞘に納められた刀達を優しく、そしてどこか力強く照らしていた。
ノゾムはゆっくりとその刀の柄を撫でていく。3本の刀の内、2本は既に刀としての生を全うしている。
その刃は既に砕け、僅かばかりの刀身と柄を残すのみ。しかし、その刀はノゾムにとって何よりも大きな心の支えになるものだった。
初めにノゾムが撫でたのは、初めて師から譲り受けた刀。
自らと一緒に師の地獄の様な鍛練を乗り越え、自分自身をもう一度見つめなおす機会の代わりに砕け散った。
ノゾムが次に撫でたのは、彼がつい数週間前まで腰に差していた物。
師の思いを受け取っても、自分自身の逃避に気付いても、足踏みを繰り返していた自分。
そんな自分がようやく一歩前に進めた証であり、自分の帰れる場所を守り通してくれた、恩人ともいえる刀。
そして最後に彼が手に触れたのは、師が長年愛用していた、彼女の半身ともいえる大事な刀。
今まで勇気がなくて腰に差すことをずっと躊躇っていた。
ノゾムが抱えた問題はまだほとんど解決してない。ティアマットの事、リサの事、あの屍竜の事。
彼自身、これから先にまだまだ何かよくない事が起こりそうな予感がしていた。
「でも、そんな中でも何もできないわけじゃない……」
それでも、ノゾムは胸の奥に巣食っている闇を感じていても、心の目は冷静に不安を感じている今の自分自身を見つめていた。
まるで大空から自分自身を俯瞰するような感覚。
あの森で、アイリスディーナ達に自分の思いを告げることが出来た事。
その時は自分自身が抱え過ぎていた荷物を一時的に仲間に預けることになったが、結果的にそれがノゾムの心に冷静さと、もう一度前に進む意思を呼び起こしてくれていた。
不安を感じる心と、それを落ち着いて見つめることが出来ている自分自身を確かめながら、ノゾムは触れるだけだった刀をしっかりと握りしめる。
刀を持つ手の平には太陽の光だけではない、何か温かい熱を感じる。
不安はある。心の中にまだ暗い闇は残っている。
それでも、今の自分は前に進める。たとえ一歩ずつ、ゆっくりでも。
「……よし、行くか!」
腹から大きく声を出してノゾムは部屋の扉を開け放ち、新しい1日へと足を踏み出していった。
寮を出たノゾムが向かった先はこの街の外縁部。
あの森での戦いの傷も癒えたノゾム、そしてアイリスディーナ達は数日前からこの場所での鍛練を再開していた。
「せや!」
「おお!」
今、互いの刃をぶつけ合っているのはアイリスディーナとマルスだ。雑草が生い茂る野原で戦う2人。
マルスが振り抜いた大剣がアイリスディーナの脇腹に迫るが、彼女は素早く後ろに跳躍しつつ、細剣を薙いで大剣の軌道を逸らす。
しかし、マルスはすぐさま追撃をかける。
気術“塵風刃”で大剣に風の刃を纏わせ、瞬脚でアイリスディーナめがけて一気に駆け出した。
対するアイリスディーナは即時展開で5つの魔力弾を形成し、マルスめがけて撃ち放つ。
大気を切り裂きながら、マルスに迫る黒色の魔力弾。
マルスの得物である大剣は元々素早く振り回せる物ではないし、手間もかかる。
彼女が大量の魔力弾を放った目的は時間稼ぎであると考えたマルスは、大剣を盾のように目の前に掲げたまま、アイリスディーナに向かって突進する。
即時展開のアビリティにより、本来なら魔法の発動に必要となる陣や詠唱を必要としないアイリスディーナ。おまけに彼女は攻撃だけでなく、拘束や防御の魔法についても優秀だ。
そんな彼女に時間を与えれば与えるほど、多彩な魔法で封殺され、自身が不利になることは分かり切った話だった。
掲げた大剣にアイリスディーナの魔力弾が命中し、マルスの腕に衝撃が走る。
さらに同じ場所に立て続けに衝撃が襲いかかり、マルスは思わず自分の大剣を取りこぼしそうになった。
マルスは何とか大剣を掴み直して目の前に掲げるが、完全に足を止められてしまう。
「ホント、片手間に放った魔力弾の威力じゃねえぞ、これ」
マルスは自分の大剣に衝突してくる魔力弾の威力に嘆息していた。
即時展開によって発動した魔法の威力は、術者がいかに正確な術式を思考できたかで左右される。さらに彼女は複数の魔力弾を、マルスが掲げた大剣の同じ箇所に正確にぶつけてきたのだ。
それだけに、マルスは彼女の魔法技術と制御力がいかに高いかを思い知っていた。
「……やっぱすげえな、アイリスディーナは。でも、そんなアイリスディーナでもあの併用術を使うのは困難だと言っていたな……」
初めてマルスが気術と魔法の併用術を話した時、アイリスディーナもまたその困難さを口にしていた。彼女ほどの技量をもってしても難しい併用術。
ノゾムの幻無にしても、実戦における極度の緊張下で、停滞なくあれほどの気刃を練り上げることができることが如何に驚異的なことなのだろうか。
マルスがちらりとノゾムの方を覗き見ると、彼はフェオの持つ投剣を片手に何かを話している。
再びマルスの腕に衝撃が走った。何よそ見してんだと、マルスは自分自身を叱咤して、目の前の戦いに再び意識を向けた。
刃に纏わせた風の刃が黒色の魔力を引き裂き、空中に舞い散らせていく様を視界に収めながら、マルスは再び魔力素の向こうに見えるアイリスディーナの動向に集中する。
「今の俺にはあの併用術は使えない。俺には何もかもが足りなすぎる……」
特総演習時に自分が犯してしまった過ちがマルスの脳裏に蘇る。
魔法と気術の制御力、どんな困難な状況でも冷静に自分の体を把握できる自制心。どれもが今の自分には足りないものだ。
「だけど、そのまま至らないままにしておく気はねえ……」
マルスは静かに自分に言い聞かせながら、一気に気を高めて大剣に叩き込んだ。
大剣の周りに纏わりつく風の刃が勢いを増し、周囲に舞う風が荒れ狂う。
「なら、今の俺に出来ることをするしかねえ……」
ノゾムとて一足飛びにあの気刃を形成できる領域に辿り着けたわけではない。文字どおり死にかけるような鍛錬の日々を年単位で過ごしてきたからあの域に辿り着けたのだ。
本人は今一そのあたりに自覚がないようだが、一足飛びに辿り着くことなど出来ないなら、自分も少しずつ前に進んでいくしかない。
そう考えながら、マルスは勢いを増した風の刃を前面に開放する。
気術“裂塵鎚”が地面を深く抉りながらアイリスディーナめがけて突進していく。
「やはりそう来たね」
しかし、アイリスディーナはそのことも織り込み済みだった。すでに彼女の手には闇色に染まった投槍が握られていた。
「はあ!」
裂ぱくの気合と共に、アイリスディーナが迫ってくる裂塵鎚にその手に持った槍を投げつける。
風を切り裂きながら飛翔した“深淵の投槍”は向かってきた裂塵鎚と正面から激突して炸裂。爆風と土煙を周囲に振りまきながら、その身に宿っていた力を全て放出してしまう。
巻き上がった土煙でマルスの姿を見失ったアイリスディーナだが、すぐさま対応できるように空中に複数の魔力弾を作り上げる。
遠距離戦では豊富な魔法と高い魔力を持つ彼女に分がある以上、マルスは接近戦を仕掛けようとするはずだ。
少しの違和感も見逃すまいと土煙を見詰めながらも、アイリスディーナはあらゆる対応が出来るように適度に力を抜いて身構えている。
「…………」
ほんの少しの間、静寂が辺りを支配する。
時間にしてほんの数秒だが、意識が集中しているせいか数分にも感じられる時間だった。
そして、状況は突然変化する。
周囲にズドン! という炸裂音が響き、土煙を押し出すように引き千切りながら、何かが彼女に向かって突進してくる。
「はっ!」
アイリスディーナはすぐさま待機させていた魔力弾を突進してくる物体に向けて射出した。
大剣に纏わせていた風を撃ち放った以上、マルスに遠距離攻撃の手段は残されていない。
疾駆する魔力弾がマルスに迫り、打ち倒す……はずだった。
「なっ!?」
着弾して炸裂する魔力弾。しかし、そこにマルスの姿はなかった。
アイリスディーナめがけて疾駆してくるのは、魔力の気配を漂わせている風塊。彼女の眼には土煙が晴れた先に左腕を突き出しているマルスの姿が映し出されていた。
土煙で互いの姿を視認できなくなった時、マルスはすぐさま使用していた気術を全て解除し、魔力を高めながら詠唱をして、気術ではなく魔法をアイリスディーナめがけて撃ち放った。
放った魔法は“駆け抜ける風塊”。
アイリスディーナは裂塵鎚と同じ道を疾駆した風塊をマルスと誤認してしまい、待機させていた全ての魔力弾を放ってしまっていた。
マルスはすぐさま全身の気を高めて大剣に叩き込み、風の刃を纏わせて裂塵鎚と瞬脚を発動させる。
「おおおおおお!!」
瞬脚と風の刃の開放を推進力にして、一気にアイリスディーナに肉薄するマルス。
「くっ!!」
しかし、アイリスディーナも負けてはいない。マルスの刃圏に自分の体が捉えられる前に素早く身体強化の魔法を重ねがけする。
さらにマルスの全力の斬撃を受け止めるには自分の細剣は心許ないため、得物にも魔力を流し込む。
かち合う大剣と細剣の甲高い音が周囲に木霊する。
次の瞬間、荒々しいマルスの剣風と、舞うようなアイリスディーナの剣舞が激突した。
一方、ノゾム達は刃を交えているマルス達を少し離れたところから見守っていた。
「ほへ~。やっぱり2人ともすごいね。アイリスディーナさんはもちろんだけど、彼女の動きについていけるマルスもすごいな~!」
ミムルがのほほんとした口調で目の前で戦うマルス達を称賛している。
確かにアイリスディーナの流麗な動きも素晴らしいが、マルスの方も負けてはいない。
大剣を振り抜く勢いと剣身に纏わせた塵風刃で周囲の空気をかき乱し、アイリスディーナの細剣をほとんど寄せ付けない。
時々斬撃の合間を掻い潜ってアイリスディーナの細剣が襲いかかってくるが、マルスは半身をずらしたり、手甲で受け流したりして捌ききる。
「しかしマルスの奴、随分冷静に戦っているな。以前のアイツなら攻撃一辺倒ですぐに黒髪姫に足元をすくわれとったのに……」
フェオが呟く様にマルスの動きに感嘆していた。
確かに彼の言うとおり、今までのマルスの意識は攻撃に寄り過ぎていて、アイリスディーナやフェオの様な冷静沈着な相手では逆に不利に働くことが多かった。
攻撃に乗った時の勢いは他の生徒の中でも類を見ないほど苛烈なものだが、一旦足を止められるとそのまま封殺されてしまい、脆さが露呈してしまっていたのだ。
もちろん地力のあるマルスを封殺できる人間は3学年の中でもほとんどいない。
しかし、逆を返せば一部の人間はそれが可能という事になる。その数少ない生徒がアイリスディーナやフェオだ。
だが、今のマルスは確かに攻撃に寄っている部分はあるが、今までの様な暴走を匂わせる様な雰囲気はない。
考えられるきっかけは特総演習でのマルス自身の暴走とその後の一連の出来事だろう。
あの事件は確かに綱渡りの連続ではあったが、その経験は確かに彼の心身に刻まれていた。
「ところで、ノゾム君はさっきから何をしているの?」
ミムルの隣にいたトムがノゾムに声を掛ける。彼の視線の先では、ノゾムがフェオの投剣を掲げて、ためつすがめつしていた。
「いや、このくらいの投剣なら俺も携帯できるかなと思って。ほら、俺って遠距離攻撃の手段がほとんどないから」
ノゾムの言葉に首を傾げていたトムだが、何かに気付いたように頷いた。
「ああ、そういえばノゾム君は魔法がほとんど使えないんだっけ?」
「ほとんどじゃなくて、全く使えないんだ。初級魔法を発動する魔力もないから遠距離戦じゃ何もできなくて……」
ノゾムの魔力は能力抑圧の影響でほとんどない。初級魔法を発動する魔力もなく、魔法の実践授業ではほとんど何もできない。
いままで単独行動が多く、接近戦しかほとんど活路を見いだせなかったノゾムにとって最も苦手とするのは遠距離からの広範囲攻撃である。
防御系の魔法も使えず、気量も少ないから幻無などの遠当ての使用回数も限られる。気を極端に消費する滅光衝などはもちろん厳禁だった。
ノゾムにとって気を消費せず、多少距離があっても攻撃できる投剣は戦闘時の選択肢に入れるには十分な条件を満たしていたのだ。
「とはいっても、荷物としてはかさばるし、基本的にこの手の類の武器は使い捨てだから、あくまで選択肢の一つとして考えているっていう程度だけどね。やっぱり俺が一番信用できる得物はこれだよ」
ノゾムは苦笑を浮かべながら、自分の腰に差さっている刀の柄をポンポンと叩く。
たとえ自分がどんな強力な魔法を使えたとしても、どれほど強力な武器を得たとしても、ノゾムにとって自分の命を預けるに足るものは腰に差さっている刀と、師から受け継いだ刀術だ。他の選択肢は、 あくまで自分の打てる手を増やし、自分の最も得意な刀術を生かすための布石である。
「とはいっても、刀術以外の手段がどうしても必要って場面は出てくると思うけどね」
もっとも、その布石を怠れば、敗走するばかりか、自分の命が危機に陥ることがあることもノゾムは よく知っている。森の中で魔獣に追いかけまわされながら思い知らされたことだ。
だからこそ、彼は森の中に罠を仕掛けたりしていたのだが。
「なら、ワイが投剣術について教えてやろか?」
「いいのか?」
「ああ、別に減るもんやないしな」
フェオがノゾムに投剣術を教えようかと、問いかけてきた。
彼としても別に教えることに不満は無いようだ。
「減っているのは主に貴方の財布の中身だけど……」
「うっさいわ!」
横にいたシーナのからかいにフェオがやけっぱちに返答する。
なんだか妙に瞳が潤んでいる。どうやら未だに金欠状態が改善していないようだ。よく見てみれば、いつもは艶のある金色の尻尾の毛並みも、今は心なしかくすんで見える。
その時、離れたところで剣を交えていたアイリスディーナとマルスがノゾム達の所にやって来た。どうやら決着がついたらしい。
「う~ん。やっぱり魔法と気術の切り替えがまだまだか。もっと早く、正確にする必要があるな」
「マルス君の着眼点はいいと思うよ。魔法の精度を上げることは君の併用術を使いこなすには必須だと思う。後は慣れだね」
どうやら先程の模擬戦はアイリスディーナの勝利に終わったらしい。
話の流れから察するに、マルスは気術と魔法の切り替えに手間取り、その隙を突かれたらしい。
「それで、みんなは何を話しているんだい?」
「フェオの投剣を少し教えてもらおうと思ってね。頼む、基本だけでいいから教えてくれ。今日の昼飯くらいは奢るさ」
アイリスディーナの質問に答えるノゾム。奢りという言葉に反応したフェオが一気に顔を輝かせる。
なるほど、やはり相変わらず食糧事情がひっ迫しているようだ。
「オーケー、任せとき!」
そう言いながら、懐から投剣を取り出すと、近くにあった木に向き合う。
「基本的には剣と同じように上から打ち下ろすのが基本や。正中線を意識して、手の平と親指で投剣を挟み込むようにして投げるんや」
フェオが無造作に投げた投剣は、木の幹に深々と突き刺さる。
やってみ、と言う様にフェオがノゾムに視線を送ると、今度は彼と入れ替わるようにノゾムが前に出た。
フェオと同じように投剣を構え、的である木に向かって投げつける。
「あ……」
しかし、ノゾムが投げた投剣は空しい音を立てて木の幹に弾き返されてしまった。
地面に落ちた投剣を拾い、何度か投げ続けるが、やはり上手く的に刺さってくれない。
「ノゾム、基本は刀の打ち下ろしと同じや。それと、腕の振りの速さはあんまり関係あらへん。正しい動きで投げれば自然と投げた剣は相手に刺さるんや」
フェオが懐から投剣を抜き出して、その一本を再び木に向かって投げる。
飛翔した投剣は竹が割れるような小気味のいい音と共に再び木の幹に穴を穿つ。
ノゾムは拾った投剣を眺めると、再び的に向き合った。
「刀と同じ……刀と同じ……」
ノゾムは差し出された投剣を受け取りながら、自分に言い聞かせるように先程のフェオの言葉を反芻していた。手の平に納まっている投剣と、自分自身の身体に意識を集中させている。
まずは踏み込み。重心をすり足で滑らかに前方へ移動させる。
続いて投剣を掲げる。正中線と脇を意識しながら刀を振り下ろす要領で腕を振り下ろす。
腕が軌道に乗り、ある一点に達したところで投剣を手放す。楔から解き放たれた投剣が飛翔しながらクルリと回転し、その刃を目標に突き立てる。
続いて響く甲高い音。ノゾムが放った投剣はフェオの投剣と同じように、木の幹に深々と突き刺さっていた。
「……できた」
「へえ、まさか成功するとは思わんかった。半端ない集中力やな」
多少アドバイスしたとはいえ、この短時間で的に的中させたことにフェオは驚いていた。普通なら的に突き刺さらせるにもそれなりに鍛練する必要があるのだが。
「とは言っても、まだまだだな。かさばるし、持てても数本。実戦で使うにはやっぱり時間と修練が必要みたいだ」
「せやな。ノゾムの言うとおりたくさん持てる武器やあらへんし、命中率を上げ続けることは必須の武器や」
「そうだな。刀術を疎かにするわけにはいかないから、少しずつやっていく……っ!」
やはり鍛練の継続が必要。そういう結論に達した時、ノゾムの頭に再び頭痛が走る。
突然襲ってきた頭痛に顔を顰めながら、ノゾムの脳裏には今朝見た夢が思い起こされていた。
やはり夢の中でのティアマットの戦いはノゾムの精神に多大な負担を強いるのだろう。体は寝ていても、脳や精神は十分な休息を取れなかったのだ。
「……ノゾム、またあの夢を見たのか?」
「ああ……」
アイリスディーナの問いかけにノゾムは頷いて答える。
彼は今日見た夢。ノゾムは精神世界でのティアマットとの戦いについて、仲間達には話しをしていた。
ノゾムの耳にアイリスディーナの心配そうな声が届く。
ふとノゾムが顔を上げれば、アイリスディーナだけでなく他の仲間達も心配そうな表情を浮かべてこちらを見つめていた。
「少し、休んでいくか?」
「いや、大丈夫だよ。我慢できない頭痛じゃないし、そろそろ朝礼が始まるから、学園に向かおう」
アイリスディーナがノゾムに休憩を進めてくるが、あんまり時間もない以上、ここに居続けるわけにもいかない。
ノゾムは心配ないというように口元に笑みを浮かべながら、やんわりとアイリスディーナの申し出を断った。
「本当に大丈夫なの? あまり無理しないほうがいいと思うけど……」
「分かってる。辛くなったら保健室に行くよ。あそこにはノルン先生もいるしね」
今度はシーナが声をかけてくるが、ノゾムとしてもここで無理をする気はなかった。
色々なことに悩みすぎて普段から張りつめすぎると、いざという時に本当に切れてしまう。
事実、数週間前はそれで大騒動になってしまった。
ノルン先生はノゾムの事情を知っているし、体調が悪いといって授業を抜け出せば問題ない。
「……お、おし! んじゃあ行くか!」
ちょっと空気が重くなってしまったが、マルスが気合を入れるように大声を出した。
ワザと感がありありであからさますぎる言葉。だが、その不器用さが沈みかけていた空気を一気に吹き飛した。
マルスもノゾムがこんな雰囲気になることを望んでいないことを理解してくれていたのだろう。
ぶきっちょな言葉でも、ノゾムとしてはその気遣いが何より嬉しかった。
マルスの掛け声に促されるように、ソルミナティ学園に向かって歩き出すノゾム達。その足取りは自分の不安を何も言えないまま、心の奥に押し込めていた時に比べて驚くほど軽くなっていた。