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第5章第27節

 焼き払われた小屋を吹き飛ばし、瓦礫の中から立ち上がったノゾムを見た瞬間、不意に強まった強大なティアマットの力に当てられ、シーナの視界は一瞬で真っ黒に染められてしまった。


「っあ……!」


 視界が暗転すると同時に、彼女の体を暴風のような力の波が通過していく。

 叩きつけられた力の奔流に、彼女は全身がバラバラになりそうな感覚に襲われた。何より恐ろしかったのは、この世すべてを呪い殺さんばかりの憎悪だった。

 全身がガクガクと震えて冷たくなっていく。

 あまりに巨大な死の具現に、彼女は気が付けば、許しを請う罪人のようにへたり込んでしまっていた。

 一拍の後、真っ暗な視界の中を、突然燃え広がった炎が覆い尽くす。

 目の前に広がる真紅の炎が、焼け落ちた見なれた建物とあちらこちらに転がっているかつて人だった物を照らしだす。それは間違いなくノゾムが見ているアルカザムの光景だった。


「うっ!」


 鼻につく肉の焼ける臭いに、彼女は思わずむせ返る。


「こ、これって……」


 焼け落ちた小屋からノゾムを助けるために精霊魔法を使おうとしていたシーナ。元々精霊と高い感応力を持つ彼女の力と、ティアマットの発した力と感応した結果、今まさにティアマットがノゾムに見せている光景を彼女も垣間見ることになってしまったのだ。

 突然の出来事に狼狽するシーナだが、その時彼女の耳に聞いたことのある男性の声が響いた。


「みんな! どこだ!!」


「ノ、ゾム君?」


 声の主を求めてあちこちを見渡すシーナ。すると、少し離れた場所に佇む彼の姿が目に留まった。


「ノゾム君!!」


 声を張り上げてノゾムの元に向かうシーナ。肌に焼くほどに熱く感じる炎と、むせるような息苦しさを感じながらも、彼女は息を切らせて走り続ける。

 徐々に大きくなっていく彼の姿。ノゾムも近づいてくるシーナの気配を感じ取ったのか、振り返って彼女の方に視線を向ける。

 ノゾムの目が自分の姿を捉えたことに、彼女はホッとして表情を和らげる。


「ノゾムく……」


「……邪魔する気か」


 しかし、次の瞬間叩きつけられた殺気に、シーナの表情は一瞬で凍りついた。

 なぜ彼が自分にここまで敵意を見せるのかが分からない。

 何でなの……と、自分の手を彼に向って伸ばした時、彼女は視界に移った自分の手に言葉を失った。


「……え?」


 自分の手がまるであの黒い魔獣のように揺らめく影で自分の手が覆い尽くされている。

 驚いて自分の体を確かめると、全身が手と同じ影で覆われていた。


「時間がないんだ。俺はみんなを探しに行かないといけない! 邪魔をするなら……!」


 ノゾムがシーナに向かって刀を構える。

 その時、シーナの目は6枚の翼の様なものを持つ巨大な山のような影が、ノゾムの後ろに揺らめく炎に映し出されているのを捉えていた。


「まさか……」


“……妖精、我の復活のための糧になってもらうぞ”


 頭の中に、彼ではない者の声が響くのと同時に、ノゾムが彼女めがけて踏み込んできた。その身から背筋が凍るほどの殺気を放ち、瞳を真っ赤に染めたまま。







 一方、現実では、同じようにノゾムが殺気を迸らせながら、アイリスディーナ達を真紅に染まった瞳で睨みつけていた。


「ッ! ノゾム!!」


 アイリスディーナの悲痛な声が火の粉が舞う空中に響き渡る。

 彼女の頭に浮かんだ最悪の予想。

 ノゾムがティアマットの意思に飲み込まれてしまったのではないのかという予感が彼女の心を鷲掴みにする。

 締め付けられるような胸の痛み。

 そんなはずない! と必死に声を張り上げて彼の名前を呼び続ける。

 しかし、肝心のノゾムにはそんな彼女の声は届かなかった。彼の視界に映るのは龍殺しとなってから見続けてきた悪夢の光景が蘇っている。

 燃え盛るアルカザムと助けを求める誰かの声。そして自分の前に立ち塞がる影のヒトガタ、そしてむせ返るほど充満する死の匂い。

 早くみんなを見つけないと!

 そんな焦りに急かされながら、ノゾムは姿が見えなくなった仲間達を地獄の中から必死に探し出そうとしていた。

 

「おおおおおおおお!」


 ノゾムは真紅に染まった瞳で彼女達を睨み付けながら瞬脚で突っ込んできた。

 全身からは止め処なく血が流れており、全身を紅く染め上げている。昨日と今日に渡る屍竜との連戦と能力抑圧解放による反動。いくらダメージを最小限に抑えることが出来ていたとしても、限界は近かった。

 それでもノゾムは戦う事を止めようとしない。明らかに、今目の前にいるアイリスディーナ達の姿が見えていなかった。

 無理もない。今の彼にはアイリスディーナ達は掛け替えのない仲間ではなく、仲間の探しに行こうとする自分を邪魔するヒトガタとして映っているのだから。




 アイリスディーナめがけて踏み込んでくるノゾム。しかし、彼女はシーナの体を支えているため、咄嗟に動くことができない。


「くっ!!」


 動きが取れないアイリスディーナを見て、マルスが大剣を構えてノゾムと彼女の間に割り込む。しかし、ノゾムは既に刀の刀身に“幻無-纏-”を付与しており、まともに打ち合えば剣ごと両断されてしまう。

 真正面から受けられない以上、何とか刀の側面を打って、斬撃を逸らすしかない。マルスは必死にノゾムの剣筋を見極めようとする。


「どけええええ!!」


 しかし、ノゾムの動きはマルスの予想を超えてあまりに速過ぎた。

 絶叫と共にノゾムの足から再度炸裂音が響き、彼の速度がさらに加速する。


「なっ……!」


 瞬間的な加速で間合いを一気に詰めてきたノゾム。いきなり相手との距離が変化したことでマルスは対応が遅れてしまう。そしてそれは、今のノゾムが相手ではあまりに致命的な隙だった。

 ノゾムの斬撃が吸い込まれるようにマルスの首筋に迫る。

 彼の刃がマルスの首を切り裂くかに思われた瞬間。


「っ!!」


 ノゾムの刀はなぜか一瞬で逆方向に斬り返されていた。

 次の瞬間、バンッ!という音と共に紫電の雷光が空中で弾ける。続いて、ノゾムめがけて飛びかかってくる1つの影。


「てぇいやあああ!」


 気合の入った叫びと共に突き入れられるナイフ。跳び込んできたのは、先程屍竜を足止めしていた内の一人ミムルだった。

 彼女はアイリスディーナに斬りかかってきたノゾムを見て、フェオが反射的に放った符術による雷弾に続いて突進。身動きが取れない親友とアイリスディーナを助けるためにノゾムの気を引こうとしたのだ。

 その為にわざわざ叫び声をあげて、自分を目立つようにしたミムル。案の定、彼女のナイフはノゾムにしっかりと受け止められていた。

 ノゾムの殺気に満ちた赤い瞳がミムルに向けられる。


「ア、アイリスディーナさん! 今のうちにシーナを……って、うわ!」


 殺気に満ちた瞳に睨まれ、ミムルは思わず居竦んだ様子を見せる。

 尻込みした彼女の様子を見抜いたノゾムは、一気に彼女を押し切ろうとしてきた。

 ノゾムが刀越しに押し返してくる。“幻無-纏-”を纏った刀身がミムルのナイフに食い込み、そのままナイフを彼女の腕ごと押し切ろうとする。

 咄嗟に手に持ったナイフの柄を離して距離を取るミムル。次の瞬間、彼女のナイフは押し付けられたノゾムの刀で真っ二つに切断されて地面に落ちた。

 幸い、ナイフを両断されるより先に、ノゾムの刃圏から逃れることができたミムル。しかし、ノゾムは追撃の姿勢を見せる。

 両足に気を叩き込み、瞬脚を発動しようとするノゾム。

 しかし、その間に体勢を立て直したマルスが、彼の背後から大剣を振り下ろしてきた。


「でやああああ!」


 ノゾムを傷つけないように剣の腹を向け、マルスは出来うる限りの気を剣身に叩き込んで振り下ろす。

 だが、マルスの剣は、無造作に払われたノゾムの鞘に弾き返された。

 何気ない一撃とは思えないほどの衝撃が腕に伝わり、思わず顔をしかめるマルス。

 ノゾムはそのまま振り向きざまに、マルスの脳天に鞘を振り下ろしてきた。


「く!」


 腕に走る痺れを無理矢理押さえ込む。

 マルスは素早く大剣を引き戻して頭上に掲げ、全身を気で満たし、限界まで体を強化してノゾムの鞘を受け止めようとするが……。


「がっああああ!!」


 マルスの全力ですら、ノゾムの斬撃を真正面から受け止めきることはできなかった。

 ズドン!! という轟音と共に、マルスの両腕に大岩が落ちてきたような重みがかかり、彼は思わず膝を付く。


「お、重すぎる……!」


 もし、ノゾムが“幻無-纏-”をかけた刀の方を振り下ろしていたら、大剣ごとマルスの体は両断されていただろう。

 しかし、すぐさまノゾムは膝を付いて見上げるマルスを斬り捨てようと、再び刀を振り上げる。


「くっ……がぁ!」

 

 必死にノゾムの刃圏から逃れようとするマルス。しかし、彼はノゾムの鞘に上から押さえつけられ、身動きが出来ない。両腕だけではノゾムの膂力に逆らうことはできず、徐々にマルスの肩に自身の剣が食い込んでいく。

 ノゾムとマルスの視線が交差し、赤く染まった両眼にマルスの顔に冷や汗が流れる。振り上げられた刀は今にもマルスめがけて振り下ろされそうだ。

 その時、ノゾムの瞳が揺れたかと思うと、何故かマルスを押さえつけていた力が一瞬弱まった。


「っ!……おおおおお!」


 その一瞬の隙を突いて、マルスは両足に渾身の力を込めてノゾムを押し返す。


「マルス君!」


 次いで、マルスを助けようと、ティマが横合いから”駆け抜ける風塊”が放たれた。

 大地を書ける獣のように疾駆してくる風の塊。

 その光景を見たノゾムはすばやく後方に跳躍する。自分に迫ってくる風塊の軌道をすぐさま見切り、最小限の動きで鉄槌のような風を躱す。

 風塊を躱したノゾムは着地と同時にすぐさま瞬脚を発動、今しがた攻撃を加えてきたティマに向かって疾走する。


「っ!」


 ノゾムの突き刺さるような視線と殺気に、ティマは思わず息を呑む。

 湧き上がる焦りにも似た緊張感の中、彼女は“尖岩舞”を発動させようとした。

 空中に徐々に形成される巨大な岩槍。

 しかし、ノゾムは瞬く間にティマとの間の距離を踏破。彼女が詠唱を完了するよりも先に彼女の体を刀の間合いに捕らえる。

 


「う……!」


 尋常でない速度で自分に向かってきたノゾムに動揺してしまったティマ。

 詠唱しようとしていた魔法の術式の制御が不安定になり、空中に浮かぶ岩槍の形成が止まる。

 だが、詠唱を続けられたとしても既に間に合わない。ノゾムは既に、その手に持った刀を振り上げていた。

 元々接近戦などほとんど出来ないティマにノゾムの刀から逃げる術はない。

 自分の視界に映る炎獄の中で、自分に刃を向けてきたヒトガタを即座に倒すべき敵と判断し、ヒトガタ……ティマに向かって刀を振り下ろそうとする。


「っ!!」


「え?」


 しかし、またもやノゾムの様子が変化した。何事かと一瞬顔を顰めるノゾム。それに伴って、振り下ろそうとした刀の軌道もずれ、なぜか彼の刀はティマの頬を掠めるのみだった。

 確実に仕留められる機会を逃したノゾム。その時、一瞬の静寂がこの場に広がっていた。





 


 ノゾムは何故ヒトガタを倒す機会をみすみす逃したのか自分自身でも分からず、戸惑っていた。


「……この!」


 振り下ろした刀を跳ね上げ、再び目の前のヒトガタを斬り捨てようとする。

 このヒトガタの傍には作りかけの岩槍が見える。まだ、未完成とはいえ、既に大人数人分もある巨大な槍。この大きさを考えれば、このヒトガタの魔力資質は間違いなくSランクに相当する。

 いかに能力抑圧を解放したノゾムでも、この影の魔法は無視できるものではなかった。おまけに、流れ出続けている自分自身の血。塞がっていた傷は既に開ききり、時間が経つにつれて出血量も増えてきている。

 全身を襲っていた激痛はもはや感じなくなり、代わりに痺れるような感覚が全身を覆っていた。

 もう時間が無い。早くみんなを見つけないと……。

 そう思いながら刀を振り上げる。

しかし、今度こそと思いながら斬り上げた刀は、再び頭の中に過った違和感に外されていた。

 唸りをあげて逆風に斬り上げられる刀身は、今度はヒトガタの鼻先を通過するのみ。

 その間に、目の前のヒトガタの口がモゴモゴと動く。次の瞬間、目の前の作りかけの岩槍が炸裂し、無数の石つぶてとなって襲いかかってきた。


「くっ!!」


 ノゾムは咄嗟に横に大きく跳んで、至近距離から襲ってきた大量の石礫を回避する。

 しかし、その隙に先程のヒトガタに後退の隙を与えてしまった。更に、その人影と入れ替わるように、今度は手に棍を持った影が襲いかかってくる。

 時間が惜しいノゾムは、攻められるのならばこちらからと、逆に自分から影に向かっていこうとする。

 だが、彼が足に気を集中させて瞬脚を発動させた瞬間、棍を持ったヒトガタが何かを投げつけていた。

 急激に加速した自分の速度も相まって、高速で目の前に迫る影。それは投擲用の短剣だった。


「ちっ!」


 即座に瞬脚-曲舞-で投げつけられたナイフを躱すノゾム。彼がそのままの勢いで棍のヒトガタに斬りかかろうとした瞬間、目の前に地面から砂の壁が出現した。砂による防壁を作り上げる魔法“砂上の城壁”だ。おそらく、後方に控えているヒトガタ達の魔法だろう。


「はあ!!」


 目の前に現れた砂壁に向かって幻無-纏-を付与した刀を振り下ろすノゾム。砂でできた壁である“砂上の城壁”は、ノゾムの剣閃の前に一文字に斬り裂かられるが、すぐさま元通りに修復される。

 ならばと、ノゾムは一旦後退して距離を取ると、腰を落として刀を弓のように構えた。

 彼は極圧縮された気刃が輝く刀にさらに気を叩き込んで狙いを付ける。目標は砂上の城壁の中央。

 彼は気術“芯穿ち”で壁ごと後ろにいたヒトガタを粉砕するつもりだった。

 極限まで圧縮された気は砂でできた壁など容易く貫通し、炸裂する無数の気刃は砂壁の後ろにいたヒトガタを微塵に斬り裂き、塵に帰すだろう。

 両足に気を満たし、弾けるように血が吹き出るのも無視してノゾムは踏み出そうとする。

 しかし、ノゾムが今まさに駆け出そうとした瞬間。


「っ、がああ!!」


 今度は頭の中に雷が走るような感覚に襲われた。

 ふらつくノゾムの身体。何とか足に力を入れて踏ん張ろうとするが、その時彼は背後から猛烈な速度で何かが迫ってきた。


「っく!!」


 咄嗟にノゾムは振り向きざまに刀を振り払う。ほぼ直感のままに薙いだ刀は甲高い音を上げ、ノゾムの脇を突き入れられた大剣が掠めていく。

 突っ込んできたのは大剣を持ったヒトガタ。突進の勢いが強すぎたのか、その背中はがら空きだった。


「いい加減に……! っく!!」


 薙ぎ払った勢いを利用して体を回転させて、ノゾムは大剣持ちのヒトガタが晒している無防備な背中に斬りかかろうとするが、再びノゾムの頭に雷が走るような感覚が襲った。


「っ! このおお!!」


 走り続ける頭痛を無視して斬りかかろうとするが、一瞬躊躇したことでヒトガタはノゾムの刃圏から逃れていた。ノゾムの刀は大剣持ちのヒトガタ……マルスの身体を捉えることなく空を切る。

 さらに目の前の砂上の城壁の奥から、巨大な岩槍が上空に打ち出された。

 大空へ飛び上がる“尖岩舞”は重力に従って放物線を描く様にノゾムめがけて落ちてくる。

ノゾムは瞬脚で素早くその場から退避しようとしたが、今度は足元が青く光り輝いたかと思うと、地面に紫電の雷が走った。


「っ!!」


 全身に走った痺れがノゾムの身体の自由を一瞬奪う。何事かと思ったノゾムが辺りを見渡すと、棍を持ったヒトガタが一枚の符をその手で地面に叩きつけていた。先程の痺れは、おそらく何らかの符術によるものだろう。

 その間に、落ちてきた“尖岩舞”が炸裂。膨大な数の石槍となってノゾムに襲いかかってきた。

 

「くっ!!」


 もはや、豪雨のように降りかかる石槍から逃げることは不可能と判断したノゾムは、双剣のように構えた刀と鞘に気を叩き込み、振り落ちてくる槍群を迎え撃った。


「おおおおおおお!!」


 眼にも留まらぬ速さで振るわれる刀と鞘。込められた気の輝跡が空中を縦横無尽に走り、まるで立ち塞がる城壁の様に降りかかる無数の槍を弾き返す。

 しかし、既に限界が近い彼の体。動きは徐々に鈍くなり、降りかかる全ての石槍を防ぐことは出来ずにいた。すり抜けてきた槍がノゾムの身体を掠めていく。


「っ!! ああああああ!!」


 裂帛の気合いを込めて、ノゾムは両手に持った刀と鞘から塵断を発動させる。炸裂した無数の気刃が迫りくる石槍を纏めて砕く。

 さらにノゾムは、有り余るほどに肥大化した気を得物に叩き込み続け、連続で塵断を槍群に叩き込んでいく。

 無数の気刃と高速で振るわれる刀と鞘が合わさり、恐ろしい威力を持った攻勢防壁を展開。触れた石槍をすべて塵へと帰していく。

 しかし、急激な気の連続使用がさらにノゾムの体を追い詰めていく。

 耳の奥にブチッ、ブチッという筋肉が断裂していく音が響く。


 心臓が破裂しそうなほどの早さで鼓動し、全身に過剰ともいえる血液を送り込む。

 眼球の毛細血管に集まった血液が視界を紅い色で満たし、燃え盛る炎の赤と合わさって、眼前の光景をどす黒く染め上げていった。

 やがて、雪崩のように落ちてきた槍群が途絶える。

 あまりに多くの石槍を砕いたせいか、ノゾムの周囲には土煙が舞っていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 大きく息を吐き続けるノゾム。今までにないほど彼の呼吸は荒れていた。抑圧解放の限界と絶え間なく襲ってくる頭痛が彼の精神と肉体を著しく疲弊させていく。

 何とか息を整えようとするが、その土煙を突き破ってヒトガタ達が襲いかかってきた。

 ノゾムはそのまま相手の得物を受け止めつつ、剣撃をぶつけ合う。

 先程、無数の槍群を捌ききったノゾム。限界が近いとはいえ、目の前にいるヒトガタ達を倒すことはまだ可能なはず。

 しかし、ノゾムとヒトガタ達の斬り合いは……拮抗していた。


「はあ、はあ……っ!!」


 走り続ける頭の痛みを、歯を食いしばって耐えながら、ノゾムは自分の中で猛烈な違和感が込み上げてくるのを感じていた。

 なぜ自分はこんなにも、このヒトガタ達を斬ることを躊躇っているんだろう……。

 治まることのない頭痛、拭えない抵抗感と違和感。

 打ち合う得物に“幻無-纏-”を掛ければ、相手を得物ごと両断できるはずだが、なぜか今は刀に気を走らせることが出来ない。

 何かが腑に落ちない。込み上げる疑問は加速度的にノゾムの中で大きくなっていく。


 剣閃はぶれ、斬撃には力を篭められない。

 何故、何故、何故……。


 答えの出ないままノゾムは刀を振り続ける。

 3人の得物が組み合い、鍔迫り合いとなる。だがその時、視界の端にふらりと立ち上がるヒトガタの姿が見えた。

 あのヒトガタは今まで自分に襲いかかってこなかったから放置していたが、どうやら今度はこのヒトガタも参戦してくるらしい。

 ヒトガタがゆっくりと得物を構える。その手に持つのは細剣。その剣身が燃え盛る炎を映して鈍く光っている。


「っああ!!」


 その時、今までにないほどの頭痛に襲われた。

 目の前にいるヒトガタ。どこか女性らしいほっそりとした輪郭と、風になびく長髪の様に背中に流れる影。

 


「う、うう……!」


 頭を抱えながらも、走り続ける頭痛にノゾムの視界は砂嵐のように霞んでいく。

 その時、組み合っていたヒトガタ達がいきなり退いた。それと入れ替わるように突進してくる細剣を持ったヒトガタ。その姿を目に納めながら、それでも何とか刀を構える。

 視界を荒れ狂う砂嵐の中、ノゾムは自分の中で、先程感じていた違和感が頭の中で爆発的に広がっていくのを感じていた。

 








「ノゾム! やめろ!! 私達が分からないのか!」


 その様子をアイリスディーナは傍で震えるシーナの身体を支えながら、泣き叫ぶような声を上げていた。

 あと少しだった……。

 自分達の本音を打ち明けて、彼から抑え込んでいた心の内を打ち明けて貰えて、仲直りして、これからもう一度隣を歩けると思ったのに……。

悲しさと悔しさで涙が込み上げてくる。

 彼が言っていた、自分とは違う意思の存在からの干渉。

ティアマットという、このアークミル大陸の中でも規格外の存在に彼の意志はもう飲まれてしまったのだろうか……。

 目の前でもう一度友人になりたいと思っていた人達にその刃を向けている彼の姿に涙が止まらない。

 どうしてこんなことに……。

 理不尽な現実に怒りがこみ上げるも、ノゾムは一方的にマルスたちを追い詰めていく。彼女はただ涙を流しながら唇をかみしめることしかできなかった。

 ノゾムの刃は辛うじてマルスたちに届いていないが、それも時間の……。


「……届いていない?」


 その時、アイリスディーナの頭に疑問が湧いて出た。


「……何故? ノゾムの刃がマルス君達を捉えていないんだ?」


 抑圧を解放した状態のノゾムは、以前にあのルガトを圧倒している。少なくとも、いまノゾムが振るっているのは紛れもなく彼自身が使っていた刀術だ。

 ノゾムの意志が消えてティアマットの意志が前面に出ているなら、本来龍であるティアマットが人間の使う剣術を使うとは考えづらい。

 それだけではない。ノゾムがティアマットの意志に呑まれ、完全に支配されているなら、少なくとも今彼と戦っているマルス達の内、誰かが既に斬り殺されてしまっているはずだ。

 アイリスディーナは戦いを続けているノゾムの様子を注意深く見詰める。

 ノゾムがティマに繰り出した2連撃は空を切り、突進してきたマルスの背を斬ろうとした時も彼の刀は届かなかった。

 致命的な隙であるにもかかわらず、彼の刃はティマ達の体を捉えることが出来ていない。


「……もしかして」


 アイリスディーナの頭に過った一つの仮説。それを確かめようと、意を決して立ち上がろうとした時、彼女は自分の腕を強く引っ張られるのを感じた。


「はあ、はあ……ア、アイリスディーナさん……」


 彼女の腕を引いたのは傍らにいたシーナだった。

彼女は大粒の汗を流し、荒い息を吐きながらアイリスディーナを見上げていた。


「っ! シーナ君! 大丈夫か!?」


「え、ええ。大丈夫……。ちょっとティアマットの気配に当てられただけ……。それより今、彼はティアマットに幻覚を見せられているわ……」

 

 立ち上がろうとするシーナを支え、介助するアイリスディーナ。

 しかし、絞り出すように紡がれたシーナの言葉に、彼女は眉を顰めた。


「幻覚……」


「ええ、アルカザムの崩壊と姿を消した私達。彼は今、燃えさかるアルカザムの中で必死に私達を探そうとしているわ……」


 シーナが目の前の戦いに目を向ける。

 そこではノゾムが無数に降り注ぐ石槍を両手に持った刀と鞘で弾き飛ばしていた。

 元々精霊に対して関能力が抜群に高い彼女。ティアマットの気配に当てられたのと同時に、今ティアマットがノゾムに見せている光景を断片ながらも垣間見ていた。

 彼の体から流れ出した血で制服は真っ赤に染まり、足元には血溜まりができている。


「今の私達は彼の眼の前に立ちふさがる邪魔者にしか見えていないわ。私たちの姿は、何か影のような魔獣に見えていて、私達の呼び掛けも邪魔されているのか、彼の耳に届いていない……」


 既にノゾムの体は怪我をしていない場所を探す方が難しくなっている。このままでは間違いなく彼は死んでしまうだろう。

 

「ティアマットの目的はおそらく自分自身の復活……。そのために、今の自分を縛る枷であるノゾム君を壊そうとしている。精神的にも、肉体的にも……」


 ノゾムの体が消滅すれば、ティアマットを縛る鎖はなくなる。おそらくティアマットは、ノゾムに彼女達を殺させることで、彼の精神を崩壊させようとしているのだろう。

 そうなれば、絶望に落ちたノゾムを死に至らしめることはさして難しくない。

 怒りと憎しみのまま力を振わせ続けてもいいし、自殺に追い込んでもいい。

 アイリスディーナは改めて、自分達に刃を向けようとしているノゾムを見つめる。

 確かにシーナの言うとおり、ティアマットの狙いはそれだろう。だが、アイリスディーナはシーナの話を聞いて、まだ何とかなるのではないかとも思えていた。


「……シーナ君。彼に私達の姿が見えていないが、完全に飲まれたわけでもない。もしそうなら、戦っているマルス君達が無事なはずがない」


「…………」


 焦りが感じられるシーナの声を聞きながらアイリスディーナは先ほど感じた疑問を彼女に述べていく。


「それに、先ほどから彼の剣にはどこか躊躇がある。多分、まだ間に合う……」


 屍竜と戦っていた時と違い、どこか迷いを感じられるノゾムの動き。

 ティアマットに幻覚を見せられても彼が戸惑いを感じているなら、もしかしたらその躊躇こそが現状を突破できる要因になるかもしれない。

 問題は、どのようにしてティアマットの幻覚を打ち払うか。


「……どうするの?」


「……呼びかける」


 至極単純な答えをアイリスディーナは返す。


「それだけじゃ……」


 しかし、元々ノゾムにその呼びかけが届いていないのだ。それだけでは意味がない。

 アイリスディーナ自身もそのことは理解しており、シーナの言葉に素直に頷く。


「分かってる。それでも何とかして彼に言葉を届けないと……」


 しかし彼女は、それでも! と、改めてノゾムに言葉を届ける意思をシーナに伝える。

 アイリスディーナの言葉を聞いて、シーナは難しい顔で顎に手を当てていた。

しばしの間思案していた彼女だが、やがて意を決したようにアイリスディーナに向き合って口を開く。


「……分かったわ。私が何とかする」


 はっきりと胸を張って“自分が何とかする”と宣言したシーナ。

 向かい合う彼女を見つめながら、アイリスディーナは彼女に疑問を投げかる。


「いったい何をするんだ?」


 その疑問を言葉にしたアイリスディーナの目に映ったのは、目の前いっぱいに広がったシーナの顔だった。


「……え?」


「んっ……」


 唇に伝わる柔らかい感触。舌に感じる錆鉄のような味と共にアイリスディーナの体に魔力が流れ込んでくる。口の中に侵入してくるヌルっとした感触に、2人の口からは思わず艶めかし声を漏れていた。


「き、きき、君はいきなり何を……!」


 ハッと意識を取り戻した時、アイリスディーナは思わず声をあげて、シーナの体を突き飛ばすように距離を取ってしまう。

 キスされたアイリスディーナも、キスしたシーナも、2人とも顔は真っ赤で体が震えている。


「か、勘違いしないでよ! 訳があるんだから!」


「わ、訳って……」


“き、聞こえるでしょう”


 言い訳をするように声を荒げるシーナ。

 思わず聞き返してしまったアイリスディーナだが、その時、彼女の頭に中にシーナの声が響いた。


“こ、これは?”


“わ、私と貴方の間で簡易的な契約を結んだわ。私が彼の意志と貴方の意志を仲介するから、機を見て彼に呼び掛けて”


“な、なるほど……”


 シーナ達、エルフが行使する精霊契約。

 本来は契約魔法を用いて自分の魔素を精霊に分け与え、契約を行うことで精霊魔法を行使することができる。

 しかし、今回は相手が人間なので、彼女は接吻と血液を介した魔力交換により契約を行った。

 おまけに正式な契約を行ってはいないので、人間のようなはっきりとした自我を持ち、精霊との感応力が低い相手では効果は長続きしない。

 出来ることも、精々自分の意志を相手に伝える程度の念話ぐらいだ。


“そ、それと、ティアマットの幻覚がどれほど強固なものか分からない。魔力で念話の主力を底上げしてみるけど、私達の呼びかけだけで突破できる可能性は……残念だけど低いと思うわ”


“そうか……”


 分かり切った事実。ノゾムの話では夢という形が主な干渉手段だったようだが、おそらく今回は能力抑圧の解放に便乗する形でノゾムに幻覚をかけたのだろう。

 ティアマットがノゾムにどれだけ干渉できるのか彼女達には分からないが、相手は伝説に出てくるような相手だ。ほとんど可能性はないだろう。でも、それでも……。


“でも、彼ならなんとか出来ると思う。そう信じよう”


 ハッキリと言い放ち、アイリスディーナは真っ直ぐとノゾムを見据える。

 おそらく奴もまだそこまでノゾムに干渉できていない。だからこそ、未だに幻覚という曖昧な方法でノゾムに干渉しているんだ。

 ノゾムが本気で刀を振るうことを躊躇している様子から察するに、自分達が呼び掛けて内側と外側から幻覚に干渉すれば……。

 いくらか言葉を交わして確認をした彼女達は、各々の役割を果たすために行動を開始する。


「……では、手筈通りに」


「分かったわ」


 2人の眼の前では、ノゾムとマルス、そしてフェオが入り乱れるように各々の得物をぶつけ合っている。

 アイリスディーナがその戦場に向けて一歩踏み出す。


「マルス君、フェオ君、後は任せてくれ」


「なっ! 本気か!?」


「ああ、本気だ」


 ノゾムと組み合っていたマルスが驚きの声を上げた。

 腰の細剣を引き抜き、全身に魔力を行き渡らせる。目線に剣先を合わせ、正面からノゾムの目を見つめる。


「っああ!!」


 ノゾムとアイリスディーナの目線が交差した時、ノゾムが痛みを堪えるように頭を押さえた。


「っ! 退くで! ここは二人に任せたほうが良いようや!」


「……分かった! アイリスディーナ、ノゾムを頼む!!」


 今まで以上に動揺した姿を見せたノゾム。その様子を見たマルスとフェオはすぐさまノゾムの事を2人に託すと決め、一時後退。ティマ達と合流し、もしもの時に備える。

 頭を抱えて唸るノゾムの姿を見た瞬間、アイリスディーナはすぐさま即時展開を利用して強化魔法を重ねがけして一直線にノゾムめがけて踏み込んだ。

 シーナはアイリスディーナの数歩後ろで機会を待つ。


“やはり、ノゾムは完全に取り込まれてない!”


 その核心を胸に、アイリスディーナはノゾムめがけて細剣を振るう。


「せい!」


 突き入れられる彼女の細剣を、ノゾムは痛む頭を押さえながら斬り上げで弾く。

 返す刀で薙ぎ払われるノゾムの刀。片手にもかかわらず、彼の斬撃はアイリスディーナの胴体を両断するほどの勢いで彼女に迫る。

 しかし、彼女の体を捉える直前、ノゾムの顔が引き攣ったと思うと、明らかに彼の剣筋がぶれた。

 その隙にアイリスディーナは腰を落としてノゾムの横薙ぎを回避する。


「はっ!」


 頭上スレスレを通過していくノゾムの刀がアイリスディーナの髪の毛を数本散らす。

 彼女は膝をバネの様に弾ませて、跳ね上がるようにノゾムめがけて再び突きを繰り出した。

 ノゾムはそのまま一歩足を引き、体を捻りながら薙ぎ払った刀を引き戻す。

 再び響く甲高い金属音。

 火花を散らしながら衝突した2人の得物が反対方向に弾ける。

 先に体勢を立て直したのはやはりノゾムの方。


「っ!!」


 お返しとばかりにアイリスディーナめがけて突きを放つノゾム。しかし、やはり彼女の体を捉える直前で、彼の剣速が鈍った。

 

「せや!」


 その隙にアイリスディーナが迫るノゾムの刀と自分の体の間に細剣を挟みこみ、彼の突きを逸らす。

 明らかにノゾムの刀には力が入っておらず、アイリスディーナには彼の躊躇が如実に感じられた。

 斬り結ぶ両者。身体能力、剣術の技量、ともにノゾムが上回り、アイリスディーナは窮地に立たされ続けるものの、彼の刀は彼女の体を捉える直前で必ず鈍り、ことごとく空を切る。


「はあ、はあ、はあ……」


 しかし、アイリスディーナの消耗も激しかった。自らに迫るノゾムの裂撃と剣気は、たとえ直前で鈍ると分かっていても極度の緊張を強いられてしまう。

 斬り結んだのは数合にもかかわらず、アイリスディーナの額に走る大粒の汗がその厳しさを物語っていた。


“だけど……!”


 それでも諦めたくない! 

そう意を決してノゾム目がけて踏みこんでいくアイリスディーナ。

 彼女の胸に去来するのは、自分の思いを告白しようとした時のノゾムが見せた、付きものが落ちたように晴れやかな笑顔だった。

 受け止めてほしいという願いと、拒絶されてしまうかもしれないという不安の間で揺れ動いていた彼と、やっと気持ちを通じ合えると思えたあの瞬間。


“俺も、みんなともう一度……”


 改めて自分の気持ちを告白しようとしたノゾム。おそらく今の彼はその気持ちすらティアマットに利用されている。

 それが彼女には許せなかった。


「ノゾム! 聞こえているか!」

 

 何としても彼を取り戻す! その決意を新たに、アイリスディーナは声を張り上げてノゾムの名を呼ぶ。


「これが君の抱えていたものか。なるほど、確かに強大だ! この力の前では私達の力など子犬にすら劣るかもしれない!」


 自分から踏み込んだアイリスディーナはまるで自分の気持ちをノゾムにぶつけるように、細剣を叩き込む。


「でも、君は……くっ!」


 しかし、その一撃はノゾムの刀に難なく防がれ、すぐさまの反撃の袈裟切りが彼女に迫る。

 だが、やはりノゾムの動きはアイリスエディーナを捉える直前で精彩を欠き、彼女とノゾムは組み合うように鍔迫り合いとなる。

 互いの吐息が掛かるほど間近で視線を交わす2人。

 アイリスディーナの漆黒の瞳にノゾムの真紅に染まった眼が映し出される。彼女の眼に映った彼の瞳は、傍から見ても分かるほど揺れていた。


「ノゾム!!」


「っ!!」


 すぐ傍で響いた自分の名を呼ぶ仲間の声。たとえ今は声が届かなくとも、その想いが彼の心を大きく揺さぶったのか、その瞬間ノゾムが後ろに後ずさった。


「今!」


 後ろに控えていたシーナの声が響いた。

 彼女はまっすぐにノゾムめがけて全力で駆けていく。

 跳躍してノゾムに飛びかかるシーナ。ノゾムは自分めがけて跳びかかってくるシーナに迎え撃とうとするが、組み合っているアイリスディーナが体を入れてそれを阻む。


「う……」


 自分の心を掻き乱され続けているノゾムはアイリスディーナを押し返せなかった。

 ノゾムの首に飛びついたシーナはそのまま自分の唇をノゾムの唇に押し当てる。


「んっ!」


「っ!!」


「うっ……」


 ノゾムの瞳が驚愕で広がる。2人が考えたのは簡易契約を利用して、ノゾムの心に直接アイリスディーナの声を届けようというもの。

 ティアマットの妨害がどこまで及ぶか分らないが、彼が仲間たちに対して刀を振るうことを躊躇していることから、まだノゾムの心はティアマットに飲み込まれていないと判断した。

 問題は中継役となるシーナが今のノゾムと簡易契約を行えるかということだったが……。


「はあ!?」


「え!?」


「あ、あら……」


「シ、シーナ君! 何を……!」


 何も聞かされていなかった仲間達は目の前でいきなり繰り広げられた光景に呆気に取られていた。

 こんな時にいきなりキスシーンを見せつけられれば仕方ないし、もちろん理由があってこうしているのだが……。


「簡易契約は成功よ! 今なら私を通して彼に念話が通じるわ! ティアマットの影響が強くてあまり長くは保たない! 早くし……きゃ!!」


「くっ!」


 唇を離したシーナがアイリスディーナに呼びかけた瞬間、ノゾムの体から爆発的な勢いで気が放たれた。

 叩きつけられた気で吹き飛ばされるシーナとアイリスディーナだが、彼女達は受け身をとって吹き飛ばされた衝撃を殺し、地面を転がりながらもすぐさま立ち上がる。

 一方、2人を弾き飛ばしたノゾムは明らかに様子が変化していた。

 頭を押さえてまま状態がふらふらと揺れ、目の焦点は合っておらず、真紅に染まった眼は瞬きのように暗明を繰り返している。

 時間がない。シーナの言葉から、ノゾムに念話を送れる時間は限られている。


「私は……!」


 アイリスディーナは言葉を探して必死に頭を回転させる。

 何を言えばいいのだろう。どういったら彼が戻って来ることが出来るのだろう。

 目の前ではノゾムがフラつきながらも、再び刀を構えようとしているが、いざとなったら頭の中が真っ白になってしまって言葉が出てこない。

 刀を構えたノゾムの目がアイリスディーナに向けられる。暗明を繰り返していた真紅の視線に再び殺気が走り始めた。


「私は!!」


 未だに頭の中は真っ白で何も思い浮かばない。

もう時間がない! 


「私は君に傍にいてほしい!」


 とにかく伝えないと! その想いのまま彼女が口にした言葉は“傍にいてほしい”という願いだった。


「君の背中を守りたい! 君に私の背中を守ってもらいたい!!」


 それは、以前彼女が“そうなったらいいなあ”と想像していた光景。彼の背中を自分が守り、彼に背中を守られるという背中合わせの包容。

 でも一度言葉にしたら、その想いは急激に膨れ上がっていく。

 トクン、トクンと胸を打つ鼓動が急に耳につき、彼女の唇は彼女が感じるままの言葉を捲し立てるように言い放つ。


「だから……」


 ノゾムの頭に走る痛みは最高潮に達し、ピシッ! という音と共に燃え盛るアルカザムの光景に皹が入る。


「ッ!! うう……あっ、ああ!!」


「帰ってきてくれ! 私達の傍にいてくれ!!」


「う、うう……おおおおお!」


 痛みに耐えかねたようにノゾムがアイリスディーナめがけて踏み込んでくる。右手に持った刀を突き込むように構え、身体ごと叩きつけるような勢いでアイリスディーナに突進するノゾム。


「ノゾム!!」


 突進したノゾムはアイリスディーナに向かって突きを放とうとする。

 彼女がノゾムの名を叫んだ瞬間、彼の目の前に映るヒトガタの影に皹が入り、剥がれた隙間から、黒玉の様な漆黒の瞳が覗いた。


「っ!!」


 その眼差しを受けた時、ノゾムの頭にアイリスディーナの姿が過る。

 背中に流れる漆黒の髪と新雪のように白い肌、凛とした石を秘めた瞳がノゾムに“帰って来い”と呼びかけている。


“じゃあ、このヒトガタ達は……”


 今自分が誰に刀を向けているかに気付いたノゾム。次の瞬間、滴が水面に落ちたような音が頭の中に響くと、燃え盛るアルカザムに無数の亀裂が走り、広がっていった。

 急速に広がる皹はまるで波紋の様にノゾムの視界を埋め尽くし、弾けるような音と共に燃え盛るアルカザムは崩壊した。

 次の瞬間、ノゾムの目に跳び込んできたのは、自分の刀がアイリスディーナの首に吸い込まれそうになっている光景。


「まず……!」


 ノゾムは慌てて自分の身体に能力抑圧を掛け直す。不可視の鎖がノゾムの身体に絡み付いてティアマットの力を封じ込め、その身を引き止めようとする。

 しかし、能力抑圧はノゾムの力を封じてはくれても、既に走り始めてしまった彼の身体を止めてはくれない。

 慣性の勢いに従うままにノゾムの身体は前に進まされ、刀身がアイリスディーナの首ごと彼女の命を貫こうとする。


「ああああああああ!」


 ノゾムは咄嗟に自分の左手を突きだす。まるで自分の身体を自分の手で止めようとするように。

 しかし、彼の手は無慈悲に空を切る。


「ノゾム君! アイリスディーナさん!!」


 シーナの悲鳴が木霊する。

 結局、ノゾムは自分の身体の勢いを止めることは出来ず、衝突した2人の身体はそのまま地面に投げ出された。





 朦朧とした意識の中、アイリスディーナは全身にのしかかる重みと、ピチョン、ピチョンと暖かいものが自分の頬を当たる感覚で目を覚ました。

 ノゾムに押し倒された時に頭を打ったのか、視界はボヤけてハッキリとしない


「う、うん……」


 呻き声を上げながら瞼を開いた彼女の目に映ったのは、血に塗れた彼の顔から滴り落ちる血。そして、アイリスディーナの首のすぐ傍の地面に突き立てられているノゾムの刀が、彼女の体に馬乗りになっている彼の左腕を貫いている光景だった。

 ノゾムの突きは彼が咄嗟に挟み込んだ腕を貫通したが、そのおかげで剣筋が逸れ、アイリスディーナの身体を貫くことはなかった。 


「う、うう……」


「ノ、ゾム……」


 すぐ目の前にある彼の顔。彼の瞳はもう深紅に染まってはいない。いつもの彼の顔だ。

 しかし、彼の瞳は不規則に揺れ、自分の左腕を貫いた刀もカタカタと震えていた。


「お、俺……俺……」


「ノゾム……」


 自分が今やってしまいそうになった事を自覚したことで、ノゾムの顔が見る見るうちに青くなっていく。

 ノゾムと間近で向き合っているアイリスディーナの方は徐々に意識が鮮明になってきたのか、少しずつ彼を呼ぶ声がハッキリとしてきた。


「俺、み、みんなを……こ、ころ……」


 自分の力が暴走して仲間を傷つけてしまうことに恐怖し、怯えていたノゾム。

 その不安が的中してしまったと思った彼の動揺は計り知れない。現に彼の身体は今までにないほど震えており、顔色は病人を通り越してもはや死人の様に血の気を失っていた。

 そんなノゾムにアイリスディーナは……。


「ノゾム!!」


「ア、アイ、リス……」


 彼の名を叫び、その身に寄り添うことで答えた。


「大丈夫か!? 私達が分かるか!?」


 跳ね上がるように身を起こして、ノゾムの血に塗れた肩に手を置いて彼の目を覗き込むアイリスディーナ。流れ出たノゾムに血で全身がべっとり濡れてしまうことも全く気にせず体を密着させながら、只々ノゾムの心配をしていた。


「アイリス……俺……」


 突然抱きしめられたことで、ノゾムは自分の心の中に生まれた後悔と動揺を一時忘れ、呆然としてしまっていた。


「き、君がいなくなるんじゃないかって思えて。も、もう意識もなくなったんじゃないかって、心配で……」


 アイリスディーナの口から漏れる彼女の不安と安堵がノゾムの耳に響く。

 ノゾムの意識が戻ってきたことに安心したのか、力が抜けたように彼女の身体がノゾムにもたれかかる。

 アイリスディーナの瞳からは止めどなく涙が流れ、真っ赤に染まったノゾムの服に落ち、彼の肩を流れ出た血とは違う温もりで濡らしていく。


「で、でも、帰って来てくれた。よかった。本当に、よかった……」


「アイリス……」


 決して大きくはない、呟くようなその声。ノゾムは何も言えず、肩にかかる彼女の重みを感じていた。

 いつも凛として、誰かの目標であり続けたアイリスディーナ。生まれた家の責任に押しつぶされる事無く、背筋を伸ばし、前を見据えて歩く高貴さを持った少女。

 だが今、ノゾムの目の前で泣き崩れる少女にその様な気高さはない。しかしノゾムは今、彼女が見せてくれているそんな姿に激しく胸を突かれる思いだった。


「ノゾム君!!」


「シーナ……」


 胸の中で泣き崩れるアイリスディーナをただ受け入れていたノゾムだが、聞こえてきた声に視線を上げると、今度はシーナがこちらに駆け寄ってきた。

 彼女はノゾムとアイリスディーナの傍に来て膝を付くと、ノゾムの頬に両手を当てて、アイリスディーナと同じように顔を覗きこんでくる。


「大丈夫!? 意識、ハッキリしてる!?」


 心配そうにノゾムの目の前で手を振ってみたり、体のあちこちを触って傷を確かめてくるシーナ。彼女の白魚の様に細い手が忙しなくノゾムの身体を撫でる。

 ノゾムが彼女の顔を見てみると、あちこちに血が付着していた。抱きしめてくるアイリスディーナの身体も真っ赤に染まっている。


「みんな……怪我して……」


「してないわ。これは貴方の血よ」


 自分が傷つけたと呆然とした様子で呟くノゾム。彼の胸に後悔と懺悔の思いが込み上げてくる。

 しかし、シーナはそんなノゾムの顔を両手に挟んで自分に向けさせると、言い聞かせるように言葉を吐露した。


「貴方は誰も傷つけてない。貴方はティアマットに幻覚を見せられても、その刀で私達を斬らなかったわ」


「斬って……ない?」


 呆けた様子のままシーナに聞き返すノゾムに、彼女はゆっくりと、しかし、はっきり分かるように頷いた。


「ええ。貴方はティアマットから私達を守ってくれた。その証拠に、ここにいる全員がちゃんと自分の足で立っているでしょう?」

 

 ノゾムの目線がシーナの後ろに見えるマルス達に向けられる。

 こちらに歩いてくるマルス達の顔には皆一様に疲労が見えるが、それでも誰もがしっかりとした足取りだった。


「みんな……無事なのか?」


「ええ、みんな生きている。生きてちゃんと傍にいるわ」


「よかった。みんな、生きてる……」


 みんなが生きていると知り、安堵の笑みを浮かべるノゾム。しかし、その笑みもすぐに曇ってしまった。


「……でも俺は」


 ノゾムが気にしていたのは、理由はどうであれ、アイリスディーナ達に刃を向けてしまったこと。

 仲間達を自分の手で傷つけてしまうことを何より恐れていたノゾムにとって、それは自分の不安が、気を抜けばいつでも現実になってしまう事を思い出させるには十分だった。

 シーナは、震えるノゾムの頬に添えた手に力を入れて、彼の顔を自分の方に向ける。

 

「貴方はティアマットに幻覚を見せられても、私達を傷つけなかった。貴方は私たちに剣を向けたかもしれないけど、無意識でも自分が操られていることに抵抗していたわ。だからお願い。そんなに自分を責めないで……」


 アイリスディーナも彼女と同じ想いなのか、ノゾムの胸に顔を埋めたままコクコクと頷いている。

 ノゾムがおずおずとシーナに目を向けると、彼女はまっすぐノゾムを見つめてきていた。

 ジッとノゾムを見つめる彼女の瞳が、今の彼女の言葉が真摯なものだとノゾムに訴えてくる。

 しかし、ノゾムの表情は未だ芳しくない。


「でも、俺、俺は……」


 シーナの言葉を聞いても、ノゾムは彼女の目を見続けることが出来なかった。

 予想していた最悪の事態には至らなかったものの、アイリスディーナ達に刀を向けた事実は動かしようがなく、ノゾムの胸の奥で大きなしこりとして残ってしまった。


「ノゾム! 大丈夫か!?」


「ノゾムさ~ん! 姉様~! 大丈夫ですか!!」


「ノルン~! 早くノゾム君の手当~!!」


「分かっているよ! わかっているからそんなに強く引っ張らないでくれ!」


 後ろに控えてきたもマルス達もノゾム達の周りにやってくるが、ノゾムは相変わらず下を向いたまま顔を上げられない。


「ノゾム君、手当を……」


「ッ……」


「あ……」


 アンリが手を伸ばして、ノゾムの傷を治療しようとするが、ノゾムは思わず身を引いてしまう。

 言いようのない沈黙がこの場に満ちていく。

 ノゾムは右手をアイリスディーナの肩に添えて、抱き着いていた彼女を優しく離そうとする。まるで自分では触れてはいけないような宝物を扱うように。

 しかし、アイリスディーナはノゾムの服と掴んだ手を離そうとせず、逆に涙を溜め込んだ瞳でキッとノゾムを睨みつけていた。

 ノゾムが何度か引き離そうと試みるが、その度に彼女の目が吊り上がっていく。

 それでも彼はアイリスディーナを引き離そうとする。自分を睨みつけてくるアイリスディーナにも顔を向けられず、ただ押し黙ってしまっていた。


「なあ、ノゾム。俺達は……」


 痛々しいノゾムの様子にマルスが耐えかねて声を掛けようとする。

 だがその瞬間、真っ白な光が辺り一帯を包み込んだ。









「……なるほど、最悪の事態にはならなかったか。しかし、いくらエルフの力を借りたとはいえ、ティアマットの干渉をあんな短期間に破ることはほぼ不可能だったはず」


 暗闇の中でフードを被った人物の声が響いている。

 彼の足元にはいまだに複雑怪奇な魔法陣が光を放っており、空中に浮かぶ光球にはノゾムを抱きしめるアイリスディーナとシーナの姿が映し出されていた。


「しかし、このままでは意味がない。今の状態では奴の復活は時間の問題だろうな」


 映し出された光球の中で、ノゾムは顔を真っ青に染めてガクガクと震えていた。自責の念に囚われるあまり、明らかに彼は精神が不安定になっている。


「ならば、もう一手必要か。これは本来、奴に対抗する為のものだが、これをもってお前の器を見定めるとしよう」


 フードの人物が足元の魔方陣に触れる。複雑に入り組んだいくつもの魔法陣が1つ1つほどけて消え、その度に光球に映し出されている屍竜の死骸の元に先程の魔方陣が描かれ始める。

 やがて全ての魔方陣がフードの人物の足元から消えた時、屍竜を取り囲んだ魔法陣が一斉に輝きを放った。


「さて、今のお前では、奴の力を使わずにこいつは倒せまい。力を使わずに彼女達を見殺しにするか。それとも使って奴に呑まれるか。今一度立ち上がるか……」


 輝いた魔方陣達が屍竜を取り囲むと、まるで風に吹かれた砂像の様に竜の身体が崩れていく。切断された足と尾、断ち切られた首、抉り切られて内臓がはみ出している胴体。すべてが粒になって消え、最後には白く輝く光の玉のみが残された。

 まるで蝋燭の炎の様に揺らめく光を宿した球、屍竜の魂のみが残された。

 再び魔法陣が動く。

 取り囲んでいた魔法陣が寄り集まり、幾重にも束ねられて光の粒を放ち始めた。

 やがて光の粒は寄り集まり、先程とは逆に、屍竜の魂を中核に一体の巨像を作り上げていく。

 白に輝く硬質の表面。生物的な力強さではなく、金属的な重厚さを持った体躯。背中には竜の持つ皮膜に翼ではなく、まるで名工の剣を幾重にも束ねた、鳥の様な翼を持っている。首も胴体と同じく白い金属に覆われ、眼球は蒼天の様に青く輝いている。

 

「キャアアアアア!」


 屍竜の姿を模したような竜像が産声を上げるように、金属をすり合わせたような咆哮を上げた。


「……おそらく、兆しはあるのだ。後は選択次第。好きな選択を選ぶがよい」


 竜像背の翼を広げ目標を睨みつける。龍像の視線の先にいるのは膝を付いて動けなくなっているノゾム。今一度、竜像は天にその咆哮を轟かせ、大空へ飛翔した。


屍竜「私はあと一回、変身を残していたのだよ!」

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― 新着の感想 ―
[一言] 屍竜に安息は訪れんのか…
[気になる点] この中で1番強いはずの先生が、戦闘に絡んでるシーンがほぼ無くて凄く違和感を感じました。
[良い点] 長月先生なみの追い込みかけますね。。。感動の前にもう一回ですか?
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