第5章第24節
ノゾムとマルスを探して街中を駆け回っていたアイリスディーナ達だが、日が暮れた後、一旦学園の正門前に集まっていた。
皆一様に息を切らせており、その顔には焦りの表情が見て取れる。
「どうだった。2人は見つかったか!?」
「だめや。北区画にはおらへんかった……」
「職人区もダメ……」
「市民街にもいなかったよ……」
アイリスディーナが戻ってきたフェオ達に尋ねるが、結果は芳しくない。残るのは商業区を見に行ったティマと外縁部に行ったシーナだけ。
アイリスディーナはノゾム達を探し始めた当初、すぐさま男子寮に向かった。しかし、寮生達から驚きの目で見られただけで、肝心のノゾムはいなかった。
その後、街中を走りまわって探してみたが、やはり2人の姿は見当たらなかった。
「マルス君は多分、商業区のどこかだろうけれど、ノゾムは……。くっ! どこにいるんだ……」
ノゾムが見つからないことにアイリスディーナは唇を噛みしめながらも、なんとか平静を保とうとする。
もっと早く彼に聞いていたら……。そんな後悔がアイリスディーナの心を覆っていく。
「アイ! マルス君、見つかったよ!」
しかし、そんな彼女の耳に親友の声が届く。アイリスディーナが声のするほうに目を向けると、ティマとマルスがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「…………」
「…………」
互いに向かい合い、黙りこむマルスとアイリスディーナ達。彼女たちがマルスを見る目は皆一様に厳しい。
アイリスディーナ達の視線に息を飲んでいたマルスだが、意を決すると、彼女達の前で深々と頭を下げた。
「みんな、すまねえ! 俺のせいで危険な目に合わせちまった!」
マルスからの謝罪の言葉。アイリスディーナ達はマルスの言葉を、厳しい表情のまま受け止めている。
「許してくれなんて都合のいいことは言わねえ! 好きなだけぶん殴ってくれ!」
「…………」
しばしの間、マルスとアイリスディーナ達との間で沈黙が流れる。マルスは頭を下げたまま、彼女達の言葉を待っていた。
やがて、アイリスディーナがゆっくりと口を開く。
「……マルス君、君が一番謝罪しなければならない人物が誰か。分かっているのだろう?」
「……ああ分かってる。ノゾムに会ったらあいつにどれだけ殴られてもかまわない。どんな言葉だって甘んじて受けとめる! だから頼む。俺も一緒にノゾムを探させてくれ!」
「……分かった。皆、いいね?」
頭を下げたまま、一緒にノゾムを探させてくれと懇願するマルス。彼の謝罪を受け入れたのか、アイリスディーナの言葉に皆一様に頷く。
「……ありがとう」
マルスは、あんな事をした自分を再び受け言えてくれた彼女達に只々感謝していた。
「皆、集まっていたのね」
その時、正門前にシーナの声が響いた。彼女の後ろには一緒にいないはずのアンリ先生の姿も見える。
「シーナ君! それにアンリ先生!?」
アンリの姿にアイリスディーナ達が驚くが、シーナは構わず言葉を続けた。
「彼を見つけたわ」
「本当か!?」
シーナの言葉にアイリスディーナはうわずった声を上げる。彼女は慌てた様子で周囲を見渡すが、ノゾムの姿は見えない。
「……ノゾムはおらへんみたいやけど?」
「彼なら話をした後、森に入って行ったわ」
「なんだって!?」
再び聞かされたシーナの言葉に、今度は大声を上げるアイリスディーナ。あまりに感情が高ぶったせいか、彼女は思わずシーナに掴み掛かる。
「なんで行かせたんだ!? 彼も怪我をしていたんだぞ!?」
「アイリスディーナさ~ん! 落ち着いて~~!」
シーナに掴み掛ってきたアイリスディーナに驚いたアンリが間に入るが、熱くなっている彼女はアンリにも詰め寄ってきた。
「アンリ先生! 貴方もなんで止めなかったんですか!?」
「私も先生も当然止めたわ! でも彼、どうしてもそこに行かないとと言っていたの。まあ、話を聞いたら、確かにその場所に行こうとする彼の気持ちも分かったわ」
シーナは自分に頼みごとをしてきた時のノゾムの様子を思い出す。
“もう一度、師匠が眠っているところで気持ちを落ち着けたい。あの時、シーナ達を案内した小屋で待っているから、明日、皆をその場所に連れて来て欲しいんだ”
彼の瞳の奥には不安と恐怖が見え隠れしていたものの、それでもまっすぐ見つめ返してきたノゾム。まだ心に残る憂い事に背中を引かれながらも、それでも前に進もうとする意志をシーナとアンリは感じ取れた。
しかも、彼が指定してきたのは、師と語り合ったという思い出の場所。今の彼が自分の意思を固めるには確かにこれ以上相応しい場所はないだろう。
「ノゾム君はね~。今、お師匠様の所にいるの~」
「お師匠?」
アンリの言葉に首を傾げるアイリスディーナ達。彼女達の疑問に答えたのはシーナだった。
「彼に刀術を教えてくれた人の事よ。彼が向かった場所はそのお師匠様の家だったらしいわ」
「……だった?」
「……ええ、もう彼の師は亡くなっているらしいのだけど……」
シーナはノゾムと彼の師について、外縁部で話をしたことをアイリスディーナ達に語っていく。
彼が師と出会うことになった経緯と刀術を習うようになったきっかけ。毎日毎日、刀を振り続けた修行の日々。そして、自らの死を悟った師が、彼に向けて残した最後の言葉。
「ノゾム君の師は最後にこの言葉を残したらしいわ。“逃げることは構わない。でも逃げた事実からは目を逸らさないでくれ。たとえ逃げても、それを忘れなければいつか前に進めるから”って……」
「…………」
その言葉だけで、その2人がどれだけ深い絆で結ばれていたかは誰だって理解できる。
それに対して、自分達はノゾムに師匠がいることすら聞かせてもらっていない。
アイリスディーナは自分の胸の中がぽっかりと抜け落ちるような感覚を覚えていた。
自分達はノゾムにそんなに信用されていなかったんだろうか……。
そんな思いが鎌首をもたげ、今まで彼と過ごした時間が徐々に色が抜け落ちていくような感覚に襲われる。
シーナは目を伏せたアイリスディーナを一瞥するが、かまわず話を続けた。
「……それともう一つ。彼の持つ力の正体については話してもらえなかったけど、彼の持つ力は私が考えている以上に危険なものかもしれないわ」
「……どういうことだ?」
その場にいた全員が目を細めてシーナの言葉に耳を傾ける。
「彼が言っていたのよ、自分の力にはもう一つの意思がある。そしてそいつはこの街の人間なんて餌ぐらいにしか思っていないって」
アイリスディーナの脳裏によぎるのはルガトとの戦いでノゾムが見せた圧倒的な力。
叩きつけられる力の奔流は屋敷を覆い尽くしたルガトの魔力すら軽く押し流し、Sランクの猛者すらも圧倒した。
あれだけの力だ。冷静になって考えてみれば、何らかの代償が伴う可能性は十分にある話だった。
「……っ!!」
アイリスディーナは知らず知らずのうちに固く唇を噛みしめていた。
気付く要素はあったのに……。
この話を聞けば、最近ノゾムの様子がおかしかったことも頷ける。
なぜ、もっと早く彼に聞かなかったのだろう……。
後悔だけがアイリスディーナの胸をジクジクと蝕んでいった。
「たぶん、その力について相当悩んできたんだと思うわ。そして誰にも話せず、自分の中に押し込み続けた」
「……私達じゃ、ダメだったってことですか?」
「ソミア……」
アイリスディーナの傍にいたソミアが、泣きそうな顔で呟いた。
そうじゃないんだソミア。私が彼に聞こうとしなかったから……。
そう言って、涙が今にも溢れてきそうな妹を慰めようとするが、アイリスディーナの口は彼女の思いに反して言葉を発してはくれなかった。
「そうじゃないわ。むしろ逆なんだと思う。大切だったから話せなかったのよ。私も以前そうだったから分かるけど、悩みは押し込めれば押し込める程話せなくなっていくの。とにかく心が硬くなっちゃって、どうしても前に進めなくなってしまう時があるのよ」
だが、アイリスディーナの代わりにシーナがソミアを慰めた。
彼女はソミアの傍に行って屈むと、その手で優しくソミアの頭をなで、慰めている。
強くなっていく胸の痛み。瞼の裏が熱くなり、涙が込み上げてくる。
「っ!!」
必死に唇を噛みしめて、必死に涙を押しとめようとするアイリスディーナ。その姿をシーナはチラリと横目でちらりと見ていた。
「ノゾム君が待っているのは森の奥にある小屋。場所は私達が知っているから明日案内するわ」
「森の中の小屋?」
シーナの言葉を聞いて、ミムルとトムが怪訝な顔をするが、何かに気付いたのかハッとした表情で声を掛けてきた。
「ねえシーナ。その小屋って……」
「そうよミムル。以前、私たちが避難したあの小屋。彼は私達にそこまでの案内も頼んできたわ」
「……避難?」
シーナ達の会話が理解できないマルス達。さらに“避難”という穏やかでない言葉に、彼らはさらに表情を厳しくする。
「その時の話は明日、その小屋に向かう時にでも話すわよ。そこは彼が彼の師と一緒に刀術の修業をしていた場所で、彼にとっても思い出の場所。ノゾム君もまだ少し考えたいって言うし、今日は一人にしてあげましょう」
「……だが」
時間をおいてからノゾムに会いに行こうというシーナ。しかし、アイリスディーナの声が彼女の言葉に割り込んでくる。
「ノ、ノゾムも怪我をしたままだ……今はとにかく、きちんとしたところで休ませた方が……」
「でも、それはみんな同じよ。その場所を熟知しているノゾム君ならともかく、よく把握していない夜の森に消耗した状態で入るのは得策じゃないわ」
言葉の端からも焦りが感じ取れるアイリスディーナの言葉。
彼女の言葉はすぐさまシーナに否定されるが、とにかくノゾムに合わなければと思っている彼女は、胸の中に渦巻く焦燥感に促されるまま森に向かおうとする。
「……待ってくれ、アイリスディーナ」
しかし、そんなアイリスディーナに待ったをかけたのは意外にもマルスだった。
シーナの“みんな消耗している”という言葉が、彼の逸る心を押し止めたのだ。
「あいつが待ってくれって言うなら……待とうぜ。きちんと話してくれるって、言っていたんだよな」
「ええ、そう言っていたわ」
確かめるようにシーナに問いかけるマルスにシーナは頷いて答える。
「なら、それで俺は十分だよ……。あいつなら夜の森でも大丈夫だと思うし」
絞り出すように紡がれるマルスの言葉には今までの彼が纏っていたどこか尊大な雰囲気はない。
「あら? ずいぶん大人しいわね。俺は関係ねえとばかりに一人で森に入ろうとするかと思ったけど」
「……今更何言ってんだって、言われても仕方ないけどな」
シーナからの痛烈な皮肉に、マルスは力なく答える。彼は再び焦りのまま動こうとしていた自分自身に対して、自嘲した笑みを浮かべていた。
「アイリスディーナさんもいいかしら?」
「…………」
ノゾムに会いたいという思いと、みんなを危険に晒せないという思いがアイリスディーナの中でぶつかり合う。
唇をかみしめていた彼女の手を、姉のそばにいたソミアはそっと握りしめた。
手を通して伝わってくるかけがえのない愛妹の温もりを感じたアイリスディーナはゆっくりとシーナの問い掛けに頷く。
「じゃあ、明日の放課後、向いましょう。集合場所はいつもの外縁部で」
シーナの言葉にみんなが解散していく中、マルスは帰ろうとする彼女に声を掛けた。
「シーナ、その……今日のこと、すまなかった……」
マルスは深々と腰を折り、自分の愚行を詫びる。シーナもまた、真摯に頭を下げてくる以上、マルスをこれ以上責めようとは思わなかった。自分自身も黒い魔獣と戦った時、自らの間違いで仲間を危険に晒していたから。
「……分かった。謝罪は受け取ったわ。後は彼の前で言いなさい」
「ああ。分かってる」
シーナはただ一言。あと一人、マルスが謝罪するべき人間のことを口に出しておく。マルスはその言葉を唯まっすぐに受け止めていた。
屋敷に帰ったアイリスディーナとソミアは食事もそそくさと済ませると自分の部屋に戻り、崩れ落ちるようにベッドに倒れ込んでいた。
特総演習と屍竜との戦い。その後のノゾムとマルスの仲違いと彼らを探してアルカザム中を走り回ったことで蓄積した疲労はピークを迎え、鉛のように重くなった手足と全身を覆う気怠さがすぐさま彼女を眠りへと誘おうとする。
しかし、眠ろうとする体とは裏腹に彼女の頭は眠ることを拒否し、結果的に少し眠っては起きることを繰り返していた。
今、彼はどうしているのだろう……。
彼女の思い浮かぶ光景はどれもが、気になる彼の姿だった。
脳裏に浮かぶ彼の姿は自分に背を向けており、彼が今どんな顔をしているのか窺い知ることが出来ない。それが尚の事、彼女の焦りを助長させていく。
保健室で初めて出会った時、怪我をした女子生徒の治療を自分から進んで手伝ってくれた。
思えば、その保健室のことがあったから、その後に彼が噂の人物だと知っても、噂の人物像をそのまま彼に結びつけなかったのかもしれない。
次に彼に出会ったのは放課後の中央公園。ソミアを迎えに行く途中、妹と仲良く話をしている姿を見かけた時が二度目の出会いだった。
最近、新しい友達が出来たと楽しそうに話をしていたソミア。でもまさか、その人物が彼とはアイリスディーナも想像していなかった。
彼もソミアの姉がアイリスディーナだとは知らなかったのか、彼女を見て目を見開いて驚いていた。そんな彼を見て少し悪戯心を刺激され、ちょっとからかってしまったのだが……。
ドロドロとした欲望を笑顔という仮面の陰に隠す者が跋扈している貴族社会に、幼いころからいた妹が懐いている。だからこそ、アイリスディーナもノゾムに対して警戒心が湧かなかった。
そしてソミアの誕生日に起こった事件。
フランシルト家とウアジャルト家が過去に交わした密約が原因で起こったあの事件で、彼はアイリスディーナたち姉妹を救ってくれた。そしてその後、彼はちゃんとソミアに誕生日プレゼントまで渡してくれた。
たとえ命を救ったとしても、恩着せがましくすることもなく、二人への態度を変えることのなかったノゾム。
自分が有利になった途端態度を豹変させるような大人たちを見てきたアイリスディーナ達にとって、変わることなく友人でいてくれたノゾムに一気に惹かれていくことは必然だったかもしれない。
その後、お礼と称してアイリスディーナは彼をデートに誘った。
男性から誘いを受けることは数多あったが、自分から誘ったのは初めてだった。そして、あれほど心躍ったことも。
握った彼の掌は思った以上に温かく、それだけで慌てるノゾムの姿が楽しくて、余り行ったことのない場所でも自然と足が前に進むほどに、彼女は浮かれていた。
途中で立ち寄った飴細工屋で彼が初めて作った飴を食べさせてもらった。
占い屋で初めて会ったゾンネと漫才のような舌戦を繰り広げていた。
慌てふためく彼の顔を見るのが楽しくて、自分の名前を愛称で呼ぶように言ってみたりもした。
そして気が付けば、隣を歩いていた彼の横顔を覗いていた。
アイリスディーナはギュッと見つめていた手のひらを掻き抱く。
ノゾムとデートをした日の夜、この手を掻き抱くだけで胸は高鳴り、心は温かくなっていった。
でも今はただ痛みだけが胸の中を走っていく。
その時、キィという音と共に部屋のドアが開けられる音がした。アイリスディーナが体を起こしてドアの方に視線を送ると、パジャマ姿のソミアが不安そうな顔で佇んでいた。
「……姉さま」
「ソミア?」
「…………」
ソミアはしばしの間、ドアの前で立ち尽くしていたが、やがてトコトコと早足でベッドの上にいる姉に駆けよると、その胸の中に飛び込んできた。
慌ててソミアを受け止めるアイリスディーナ。一体どうしたのかと尋ねようとしたが、妹の肩が震えていることに気付く。
「……大丈夫だソミア、大丈夫」
そんな妹の様子を見かねて、背中をさすってあげるアイリスディーナ。
出来るだけ妹の不安を取り除けるよう丁寧に、ガラス細工を扱うように優しく抱きしめる。
しばらく姉の胸の中に顔を埋めていたソミア。やがて震えが納まると、彼女は姉の身体から離れて顔を上げる。
しかし、まだ不安は解けきれていないのか、その顔はやっぱりまだ硬かった。
「姉様、ノゾムさんの事なんですけど……」
やはり、ソミアが聞いてきたのはノゾムの事だった。
アイリスディーナと同じようにノゾムと仲直りできるか不安なソミアは、少しでも安心したくて姉の所までやって来たのだろう。
不安を抱えているのはアイリスディーナも同じ。それでも彼女は、少しでもソミアを安心させようと、笑みを浮かべながら妹の頭を優しくなでる。
「……大丈夫。シーナ君の話ではノゾムはちゃんと待っていてくれるみたいだから……」
内心の不安を押し殺して笑みを浮かべてソミアに語りかけるアイリスディーナ。
ソミアを安心させようとしながらも、彼女は自分自身にもそう言い聞かせていた。
「……でも、もしノゾムさんがいなくなったら……」
「…………」
ソミアにとってもノゾムは大事な存在だ。
一緒に遊びに行くほど仲のいい友達であり、魂を助けてくれた恩人。
11歳の多感な少女は、自分を助けてくれたこの年上の少年をいつしか兄のような目で見るようになっていた。
家族がいなくなることを何よりも恐れる少女。
そんな彼女にとってノゾムがいなくなるかもしれないという不安は、血の繋がった姉ですら完全には拭えないほどに大きなものだった。
もう後はない。
その気持ちがアイリスディーナの心の奥で大きくなる。
「もしノゾムがいなくなったら……」
一緒に外縁部で切磋琢磨した朝の鍛錬。もう二度とあの場所で剣を交えることはなくなるだろう。
ノゾム達と一緒に取った昼食。食べた物はそれほど変わらないのにいつもより何倍も美味しく感じられた。
そして、一緒に街を歩いたこと。心の底から笑顔になれたあの瞬間。
そのすべてが無くなる。
そんな未来を想像した瞬間、背中にゾクリと寒気が走り、胸の奥にまるで心臓が抜け落ちて穴が空いたような感覚を覚えた。
(イヤだ……そんなの……)
そんなのはイヤだ。ノゾムがいなくなるんなんてイヤだ!彼が隣にいないなんてイヤだ!!
彼女の胸に巣食っていたノゾムがいなくなるかもしれないという不安。
しかし、そんな未来を拒絶しようとする意思もまた湧き起っていた。
もう後がないという思いが、喪失感に満たされた未来を拒絶する意思を沸き立たせ、彼女に再び立ち上がる為の活力を与えていく。
目の前にあるソミアの不安そうな顔。今の自分もそんな顔をしているかもしれないとアイリスディーナは思いながらも、腕の中にあるソミアの肌の温もりが不安で凍てつきそうな心を熱く燃え上がらせ、巣食った闇を拭い去る。
「……ソミア、確かに私達にはもう後がない。でももう一度機会がある」
「……姉様」
彼を失いたくないという思いがアイリスディーナの心に巣食っていた不安を焼き尽くす。
ここが正念場。
失うかもしれない恐怖とそれを拒絶しようとする意思との戦いは、この状況を打破しようとする意志の勝利に終わる。
この手に感じた温もりを無くしたくない一心で、アイリスディーナは矢継ぎ早に自分の思いを言い放っていく。
「まだ彼がいなくなるって決まったわけじゃないんだ。まだこの手は届くんだ。だから……だからもう一度、ノゾムに会いに行こう!」
大事なソミアに、そして何よりも自分自身にそう言い聞かせる。
今度こそ、今度こそちゃんと受け止めよう。
その決意を胸に、アイリスディーナは大切な妹の前でそう宣誓した。
月の光すら差し込まない森の中。そこには家ほどもある巨体が地面に倒れ伏していた。
血の気が消えうせ、腐臭をまき散らしている、死した身体。
生前は宝石のような光沢を放っていた鱗は無残に抉り取られ、首から上は切り落とされて地面に転がっている。
死にながらも生きているという矛盾を孕んでいた竜。飢えと渇きという渇望に縛られた彼は、今本当の意味でその苦しみから解放されていた。
本来ならもう動くことはなく、このまま獣や虫達の糧となるはずの存在。
だが、その屍の傍で動く影がある。
フードを深々と頭にかぶった謎の人影。彼がその手で屍竜の身体に触れると、その身が白い光に包まれていく。
暗い闇の中で一際目立つその光が屍竜の体を覆った時、突然竜の体が隆起した。
まるで心音が刻むような、ドクン、ドクンという音が響き、ビク、ビクと痙攣する屍。
白い光が背中を包みこむと、喪失していた背中の翼が復元され始めた。
切り落とされたはずの首が宙に浮き、本来あるべき場所に納まる。
やがて心音は止み、痙攣も納まると閉じていた屍竜の瞳が開き、動かなくなっていたはずの屍竜がその身を起こした。
向き合うフードの人物と屍竜。
フードの人物の表情は窺い知ることは出来ない。しかし、屍竜の方もまた、襲い掛かる様子はなかった。
目の前の人物が自分を甦らせたからなのか、はたまた他に理由があるのか。
少なくとも、かの竜の瞳には命の光はなくとも、その様相に以前の様な荒々しい様子はなぜか見受けられなかった。
「…………」
「…………」
フードの人物の口元が動く。屍竜はただその人物を見つめていたが、やがて再生した背中の羽を広げると大空に飛翔し、飛び去っていく。
一人取り残されたフードの人物は、ただ飛び去っていく屍竜の後姿を眺めていた。
落ちた日が再び昇り、中天に昇る頃。ノゾムは1人、シノの小屋の前で刀を振っていた。
小屋の前には師の刀と位牌が置かれている。ノゾムはまるでシノに見守られているような感覚を覚えながら、素振りを繰り返していた。
全身にはいまだに疲労感が残っており、身体は鉛のように重いが、それでもノゾムの心は活力に満ちていた。
「ふっ!」
振り下ろした刀が空を切り、風がノゾムの頬を凪いでいく。
周囲に香る木々の匂いと土の香り。
刀を振るたびに鳴る風切り音はノゾムの耳には心地よく、迷いと恐怖で曇っていた心が洗われるようだった。
ここで師と戦い、彼女の思いを受け止めてから数カ月。たったそれだけの時間しか経っていないのに、ノゾムは随分遠回りしてきてしまったと感じていた。
自分が逃げていた事実からは目を背けないと誓っても、そこから先へは足を踏み出すことが出来なかった。
いつも心のどこかにあった、明らかに人と違う力に対する不安。それはずっとノゾムの心の中に巣食っていた。
龍殺しであることに気づかれたらどうしよう……。もし自分の力が暴走したらどうしよう……。
そんな不安は、ケンに真実を突き付けられたこと、その真実を知って怒りのままに力を振るった自分自身により、さらに肥大化していった。
日増しに大きくなる不安とそれによるアイリスディーナ達との擦れ違い。自分の秘密を打ち明けられなかったノゾムと、ノゾムを問い詰められなかった彼女達の間にできた溝。
それは何時までも交わられない両者によってさらに大きくなり、両者の間の亀裂をさらに大きくしていった。
そしてそれは今回、屍竜との戦いの時に引き裂け、破断してしまった。普通に考えれば、あんな一大事の時に力を使うことを躊躇したノゾムも、1人暴走したマルスも彼女達とは友人ではいられなくなるだろう。
「でも、シーナ達は乗り越えたんだよな……」
ノゾムの脳裏によみがえるのは、この場所で今のノゾム達と同じように仲違いしたシーナ達の姿。
自身の故郷を奪った黒い魔獣に対する憎しみに囚われて暴走したシーナと恋人を傷つけられたことで冷静さを欠いたミムル。
切迫した状況だった当時では致命的ともいえる事態。しかし、彼女達は最後に本音でぶつかり合い、分かり合って、その危機を乗り越えることができた。
そんな彼女達が、ノゾムは内心羨ましかったし、とても眩しく見えていた。
「もしも、俺があの時この力を使っていたら……か」
昨日、外縁部でノゾムが自棄になって刀を振るっていた時、シーナが彼に語りかけた言葉がノゾムの脳裏に蘇る。
彼女は、もしもノゾムが黒い魔獣と戦った時に竜殺しの力を使っていたら、自分はミムル達と和解できなかったと言っていた。
“私は感謝してるわ。貴方のおかげで私はミムルや精霊達ともう一度向かうことが出来たのだから”
ノゾムが全力を出せなかったことを知っても、彼に対して感謝の意を示したシーナ。
そして傍にいたアンリは、いつもと変わらない表情でノゾムを見守ってくれていた。
“あなたの力になりたい”
“大丈夫だよ~。ノゾム君”
そして感じた彼女達の手の温かさ。
彼女の言葉とその手のぬくもりは、ノゾムは力を使えなかった罪悪感から萎縮してしまった彼の心を再び動かし、もう一度前に進む勇気を与えてくれた。
「せい!」
鋭い太刀筋が空中に一本の線を刻み込む。昨日外縁部で振るっていた時とはまるで違う活力に満ちた剣舞。
傍にいてくれる人達がいる。
その喜びがノゾムに力強い踏み込みを可能にさせる。全身の筋肉が完璧な連動を見せる。
あらゆる障害を斬り伏せようと振り下ろされる刀。今の彼の目は不安を内包しながらも、それ以上にもう一度前に進むという強い意志を感じさせた。
「……あ」
淀みなく刀を振っていたノゾム。しかし、彼が振るっていた太刀筋が僅かにぶれた。
やはり全身に蓄積された疲労は誤魔化せなかったのだろう。
“何やっとるんじゃ! ワシはそんななまくらな刀を教えた覚えはないぞ!!”
突然、ノゾムの頭にシノの声がよぎる。
この場所で鍛練している時には決して途絶えることがなかった彼女の怒声。もちろん、物言わぬ身になった彼女が言えるはずもなく、ノゾムが向けた視線の先には彼女の刀と位牌しかない。
「……分かってますよ、師匠。ちゃんとやりますから体罰だけは勘弁してください……」
もう彼女がいないのは分かりきっているが、ノゾムは位牌に向かって語りかけるように言い放つ。
“ならさっさとやらんか! 次は口ではなくワシの刀が飛ぶからな!!”
ノゾムの目に浮かぶのは何故か嬉々として刀を取り出し、気を極圧縮していく自分の師の姿。
「……師匠。いきなり弟子を殺しにかからないでください……」
かつて自分の日常だった懐かしい光景を思い出し、ノゾムの顔がほころぶ。
ついでにこの後、いつも自分の身に降りかかっていた理不尽な仕置きまでも思い出し、いつの間にかノゾムの背後には哀愁が漂っていた。
暫しの間、刀を振るっていたが、やはり蓄積した疲労を感じていたノゾム。刀を振うことを止め、佇んで瞑目し始める。
思い起こされるのはこの場所で、シノが姉に裏切られて逃げ出したという自分の過去を告白した時のこと。
ノゾムを幻無-回帰-で袈裟がけに斬り裂き、さらに苛烈な斬撃の嵐を見舞っていたにもかかわらず、泣きそうな顔を浮かべていたシノ。
彼女は自分の思いが伝わらないことに切なさと、生きることを諦めようとしていたノゾムに悲しんでいた。
「随分……かかっちゃったな。気付くのに……」
自らの余命を悟ったシノ。彼女は残りわずかな、それこそ黄金よりも遥かに貴重な時間をすべて投げ打って、自分の思いをノゾムに伝えようとしてきた。もし伝わらなかったら、彼女はその貴重な時間を無駄に投げ打ってしまうことになっていただろう。
ノゾムの前に立ち塞がった時、彼女は既に自分の意思を決めてしまっていたが、その裏で、逃げてきた自分の過去を本当に受け入れてもらえるかどうかの不安は確かにあったはずだ。でなければ、あんな泣きそうな顔で自分の思いを受け入れて欲しいと懇願するはずがない。
人間誰しも、蓋を被せたくなるような過去や秘密を曝け出すことに不安を抱えないわけがない。
それでも彼女は進んだ。悩みと不安を抱えても、自分の思いを伝える為に。
「アンリ先生に聞かれなかったら気付かなかっただろうな……」
彼女がゆっくりと確かめる様にノゾムにシノの事を尋ねて来てくれたからこそ、ノゾムは、自分がシノの思いを受け入れることが出来た理由を思い出せた。
今度はその時とは違い、自分から告白する側だ。
やはり不安はある。恐れもある。
それでも手に残った2人の温もりと言葉がノゾムの背中を後押ししてくれていた。
「いつまでも、立ち止まっていられるわけじゃない……」
あの時、彼女が抱えていた不安。彼女は大切な家族と恋人に裏切られたと告白した時、また大切な人がいなくなるんじゃないかと心乱れたはずだ。
でも、彼女は前に進んだ。
ノゾムに最後の言葉を伝えるため。そして何より、本当の自分を受け入れて欲しかったから。
「なら、俺も進まないと……」
そして、ノゾムにも進まなければならない時が来る。屍竜との戦いの時の事を考えれば、アイリスディーナ達と友人関係を続けていくなら、自分の力について隠し続けることは出来ないだろう。
「アイリス達は俺が力を持っていることは知っていても、どんな力なのか知らないんだよな……」
アイリスディーナ達はノゾムが力を持っていることは知っていても、それが龍殺しの力であることは知らない。
はたして自分の力の本質を知った時、彼女達がどんな答えを返してくるのか……。
「もしかしたら……拒絶されるかもしれない。……でも、悩んでいても……前に進まないといけないんですよね、師匠……」
命を賭して、逃げた事実から目を背けないことを教えてくれたシノ。そして、本音でぶつかり合って、分かりあったシーナ達の姿が脳裏に浮かぶ。
「話すだけじゃ……足りないかもな……」
ただ単に自分が龍殺しであることを伝えることだけでは足りないかもしれない。話すだけでその本質を理解してもらえるかどうかは分からない。彼の恐怖の根源はその力の奥に潜むものなのだから。
「……そもそも開放できるのか?」
ノゾムの脳裏に昨日の光景が蘇る。
危機に陥る仲間の姿を前にして、懊悩を振り切るように抑圧を解放しようとしたが、自分の身を縛る鎖はビクともしなかった。
「でも、もう一度……今度こそ……」
ノゾムがもう一度瞑目した時、後の茂みがガサリと揺れた。
「……来てくれたのか」
振り向くまでもない。背中に感じるのは彼女達の気配。たった一日だけしか会わなかったのに、随分と長い間離れていたように感じる。
ノゾムがゆっくりと振り向く。そこには学園の仲間達……いや、これから本当の仲間になろうとする人達が立っていた。