第5章第23節
街中と違い、夜の闇に閉ざされたアルカザム外縁部。月の光が生い茂る草花を照らし、月の光を糧とする月光虫がほのかな光を放ちながら舞っている。
いつもアイリスディーナ達と鍛練していたこの場所からは離れた場所にノゾムはいた。
彼は1人、草土の上で必死に刀を振るっている。その姿はまるで自分に纏わり続ける何かを必死に振り払おうとするようだった。
「っ!!」
なりふり構わず全身に気を巡らせ、ただひたすらに刀を振るい続ける。夜の闇の中に閃く剣閃は荒々しく、月と月光虫が放つ清涼な光の中でなお異彩を放っていた。
「ハア、ハア、ハア……っく!!」
能力抑圧の影響で少ない気はあっという間に枯渇し、すさまじい倦怠感がノゾムの体を襲う。しかしノゾムは唇を噛み切り、その痛みを支えにし、渾身の力を込めて刀を薙ぐ。
「くっ! この……うっ!」
だが、急激に気が枯渇したことで足元が覚束なくなる。それでもなんとか体勢を立て直しながら刀を振り続けようとするが、一度崩れ始めたバランスは元に戻らず、それどころか無理な体勢で刀を振るったことで致命的なまでに体勢を崩してしまう。
「うわ!!」
地面に手をつき、どうにか体を支えるノゾム。
彼は再び立ち上がって刀を振ろうとするが、彼がいくら足に力を入れても、彼の足は動いてくれなかった。
「くそ……この!」
刀を杖のように地面に突き立て、ノゾムは必死に立ち上がろうとする。
しかし、ガクガクと振るえる体は彼の意志に反して動こうとしてくれない。
アルカザムに到着した後、まっすぐこの外縁部に来て刀を振るい続けていたノゾム。荒れ続ける心と疲弊しきった体が完全に乖離してしまっていた。
「くぅう!」
ノゾムは自分を縛る不可視の鎖にまで手をかける。
これがあるから……。そんな顔で八つ当たりするように鎖を引き千切ろうとする。
だが、以前なら紙のように容易く千切れた不可視の鎖は、今は本物の鎖のようにガッチリとノゾムの体に巻きつき、その身を縛りつけていた。
「……くそ、畜生……」
動けなくなった彼の心を襲うのは猛烈な罪悪感と深い後悔、そして自分に対する情けなさだった。
おまけに今しがた自分が振るっていた唾棄するような刀さばき。彼の師が見ていたら問答無用で殴り飛ばされ、刀を取り上げられて修行のやり直しを命じられていただろう。
そんな情けない剣しか振るえなくなった自分に怒りが込み上げ、ノゾムは思いっきり地面を殴りつけた。
噛み締めた唇から血が滴り、ポタリポタリと地面に叩きつけたノゾムの拳に落ちる。
辺りに漂う月光虫の光が、動けなくなってしまった彼を慰めるように舞っていた。
「……こんな所にいた」
辺りに響く鈴のような声。ノゾムが顔を上げると、風になびく蒼い長髪と月光虫の光に照らし出される白磁のような白い肌が目に飛び込んできた。
「貴方……こんな所で何やっているのよ……」
そこに立っていたのはシーナ・ユリエルだった。かなり焦ってここまで走ってきたのか、彼女の青く、長い髪は所々乱れていいる。
「君こそ……何で、こんな所に……」
なぜここにいるのかと、唖然とした表情で問い返すノゾム。彼としたら、何で彼女がここにいるのかが分からなかった。
そんなノゾムに、なぜそんなくだらない質問を返すのかと、シーナは呆れ顔で答える。
「貴方を探しにきたに決まっているでしょう。学園まで戻らず、いきなりいなくなったりして……みんな探していたわよ」
「みんな……」
気の抜けた表情でつぶやくノゾム。シーナは魂の抜けたようなノゾムの隣に座りこむと、その身を支えて地面に座らせた。
「そっ。アイリスディーナさんにティマさん、ソミアさん。アンリ先生にミムルにトム。あの面倒くさがり屋のフェオまでいたのよ?」
「そっか……」
努めて明るく喋るシーナだが、ノゾムの曇った表情を変えることはできなかった。彼の唇は固く閉ざされ、それ以上話をすることを拒絶している。
「…………」
「…………」
黙り込んでしまうノゾムとシーナ。彼女がちらりと横目で見るが、彼が話し始める様子はない。
シーナは仕方がないとため息を吐くと、先程アイリスディーナから聞いた切り札と呼べる話をし始めた。
「アイリスディーナさんから聞いたわ。貴方の力について……」
「っ!!」
一瞬でノゾムの顔に緊張感が走る。その顔に浮かぶのは驚愕と恐怖。何に怯えているのかシーナには分からなかったが、今はとにかく話をしなければと思い、構わず話を続けた。
「能力抑圧の解放。聞いたことないわね、こんな話。学園の図書館にある書物でも見たことないわ」
「…………」
ノゾムの答えは沈黙。答えたくないのか、答えることができないのか。シーナにその判断は付かなかったが、恐らく両方ではないかと見立てをつけた。
「おまけにあのディザート皇国を束ねる七氏族の一角。ウアジャルト家の吸血鬼と戦って勝利を納める。とても信じられない話だわ……」
シーナの口から語られる話は彼女達がノゾムの力について知っていることを彼に告げ、同時にノゾムの心の中でそれほどの力を隠し続けていたことへの後ろめたさが膨れ上がっていく。
「……それはそうだろ。傍から聞いても妄言でしかない話だ……」
ノゾムの口から何とか絞り出された言葉は、吐き捨てるような苦し紛れの言葉だった。当然、シーナはそんな何の意味もない言葉など一刀両断にする。
「そうね。貴方を知らない人間ならそう判断する。“学園でのノゾム・バウンティスしか”知らないなら……」
「…………」
あえて“学園での彼”を強調するシーナ。それは彼女がアイリスディーナの話を信じていることの証であり、ノゾムに言い逃れさせないための予防線だ。
「でも私たちは知ってる。貴方が実際は噂の中の人間とはまるで違うのだということを。その実力も、人柄も。じゃなければ貴方に散々悪態ついた私を助けたりしないわ」
微笑みを浮かべながらノゾムに笑い掛けるシーナ。
だが、その笑みをノゾムは見ることができなかった。俯き、目線はおろか顔を向けることもできない。
「……だけど、結局あの時も俺は出来なかった。もし俺があの時全力で戦っていたら、トムは怪我を負わずに済んだし、シーナだってあんな無茶しなかったはずだ。なんとかできる手を持っていたくせに、俺は何もできなかったんだぞ……」
彼の口から出た言葉は、まるで自分で自分を断罪するかのような後悔と懺悔の言葉。
以前、シーナ達が黒い魔獣に襲われた際に自らの枷を外すことができなかったことに負い目を感じていたノゾム。前に進まなければと思いながらも、進めなかった彼の心の悲鳴だった。
「でも、私は感謝してるわ。貴方のおかげで私はミムルやトム、そして精霊達ともう一度向き合う事が出来たのだから」
だが、そんなノゾムの告白を聞いてもシーナは彼を否定しなかった。
彼女の口から出たのは非難ではなく、彼に対する感謝の言葉。ノゾムはなぜそんな言葉を掛けるのか分らないといった表情でシーナを見つめている。
「確かに貴方はその手を使えなかったかもしれないけど、そのおかげで私は大切なことを知ることができた。以前の憎しみと怒りのまま、前に進むことしか考えていなかった私がどうしようもない壁にぶつかった時、自分を支えてくれる友人がいたことを思い出すきっかけをくれた。貴方が助けに来てくれなかったら、私はきっとあの魔獣に殺されていたわ」
以前は黒い魔獣に復讐し、故郷を取り戻すことに躍起になっていたシーナ。
彼女は自らの敵と同じ黒い魔獣に出会った時に、復讐心に囚われたまま魔獣に立ち向かったが、結果的に手も足も出ないまま手酷くやられてしまった。
さらに自らの暴走のせいでトムが手傷を負ってしまい、それが原因でミムルと衝突した彼女。
その後、自らの責任感と無力感に苛まれたシーナは負傷したトム達をノゾムに任せ、たった1人で黒い魔獣と戦おうとした。
だが、たった一人で黒い魔獣に敵うはずもなかった。鍛え上げてきた弓の腕も届かず、精霊達の力を借りようと必死に呼びかけたが、復讐心と自責の念で不安定な彼女の心は、黒い魔獣に怯える精霊達には届かなかった。
もはや打つ手がないと諦めたシーナの目の前に現れたのが、彼女を追いかけてきたノゾムだった。
“何で追いかけてきたのか!”と声を荒げるシーナに向かって“ド阿呆!”と言いながら、黒い魔獣に立ち向かって行ったノゾム。
その後、シーナはトムとミムルと本音をぶつけ合い、理解し合うことで精霊と契約ができるようになったことで黒い魔獣を打ち倒すことができた。だが、それもノゾムが間に合ってくれたからこそだった。
(そうよ。貴方は情けなくなんかない。たとえ今は進めなくなっていても、それでも必死になって私達を助けてくれたんだから……)
あの時、彼は本当に何度もシーナ達を助けていた。負傷したトムを逃がすための殿となり、合流した後も彼女達のために食事を用意してくれた。
自分も辛い悩みを抱えながらも自分達を助けてくれたノゾムをシーナは情けない人間とはとても思えなかった。
「それに……あの時の私が貴方の力を見たら、私はきっとなおのこと焦っていたと思うわ。それだけの力を1人の人間が持てるのにって」
アイリスディーナの話を聞く限り、シーナは能力抑圧を解放した時のノゾムの力はかなりのものだろうと判断していた。それこそ、あの黒い魔獣と互角に戦えるくらいに。
だからこそ、あの時の自分がその力を見たら、間違いなくその力を手に入れようと躍起になっていただろう。
その時は多分、自分を支えてくれていたトムやミムル、そして精霊達の姿など目に入らなくなってしまっていたはずだ。
「だからこれで良かったのよ。少なくとも、私はそう思ってる」
真っ直ぐとノゾムを見詰めたまま、彼女はこれでいいのだと宣言する。
凛とした表情でその言葉を言い放ったシーナを、ノゾムはただ呆然と見つめていた。
「それに情けない顔されたままだと気になるのよ。その……だから……」
自分を見つめてくるノゾムの視線。その視線を受けて急に顔が熱を帯びていくのを感じたシーナは急にノゾムの顔を見るのが気恥ずかしくなってしまい、視線を逸らしてしまった。
突然様子が変わったシーナにノゾムが首をかしげるが、その時遠くから聞いたことのある声が響いてきた。
「見つけた~~~!」
「「え?」」
間延びした声がする方に臨むとシーナが目を向けると、土煙を立てながらこちらに突進してくる影があった。よく見ると女性らしいほっそりとした影なのだが、その後ろに舞い上がる土煙があまりに大きく、2人はその光景を現実的なものとして受け入れることができなかった。
「ノゾムく~~ん!!」
突進してきた影はノゾムを探していたアンリ先生だった。彼女は一目散にノゾムに駆け寄ると、思いっきりその身に飛び掛かる。
「ぶふ!!」
呆然としていたせいで受け止める体勢など取れなかったノゾム。彼はそのままアンリに押し倒され、彼女の胸に顔をうずめながら地面に後頭部を激しく強打してしまう。
「何でいきなりいなくなったの~。探したんだよ~! 心配したんだよ~~! どこ行っていたのよ~~!!」
押し倒したノゾムの顔をがっちりと捕らえると、彼の顔に自分の胸を押し付けたままブンブンと激しくノゾムの体を振り回すアンリ先生。
ノゾムは後頭部に走る痛みと、顔に感じる柔らかい感触に板挟みになりながら、なす術なくアンリのされるままになってしまっていた。
「……アンリ先生、落ち着いてください」
呆れたシーナがアンリをノゾムから引き離す。アンリは不満そうな顔をしていたが、シーナは当然無視する。
解放されたノゾムは突然現れたアンリに驚いた様子で彼女の名前を呟いた。
「アンリ先生……」
「ノゾム君、大丈夫~?」
強打した後頭部はいまだに痛むが、ノゾムはアンリから目を離せなかった。
「痛いところない~? アイリスディーナさんや他の皆も心配していたよ~」
心配そうにノゾムを見つめるアンリの瞳を見て、ノゾムはようやく他の皆が心配していたという事実を認識できた。
それと同時に一人じゃなかったんだという実感が湧き上がってくる。
ノゾムの脳裏に浮かんだのはティマアットとの死闘の後、生き残った自分に安堵の笑みを浮かべていた師匠の顔。その顔は何故か今目の前にあるアンリの顔に被って見えた。
「アンリ先生。俺は……」
「ん? なあ~に~?」
いつもと変わらないにこやかな表情。まるで、ティアマットと戦った後、お帰りと言ってくれた師匠と同じような温かい眼差し。
その眼差しに促されたのか、それとも自分が屍竜を倒す手段を持っていることをシーナ達に白状したせいなのか。ノゾムは気が付いたら、自然と今まで話せなかった言葉を口にしていた。
「……俺、どうしたら良かったんでしょうか?」
「ん~?」
ノゾムの言葉にアンリが首を傾げる。
「……俺は隠していることがあります。信じられない事かもしれませんけど、実はあの時、俺には屍竜を倒す手段がありました」
「…………」
突然始まったノゾムの告白。彼女は何も言わず、ただノゾムの言葉に耳を傾けている。
「俺、出来ませんでした。今日、屍竜に襲われた時、俺は何とかできる力を持っていたのに……。その所為で、みんな負わなくてもいい怪我を負ってしまって……」
自分の不甲斐無さに対する後悔からノゾムの言葉がそこで止まる。
黙り込んでしまったノゾムを眺めていたアンリがゆっくりと口を開いたが、彼女の口から出た言葉にノゾムは思わず驚きの声を上げた。
「ねえノゾム君~。ノゾム君のお師匠様には相談したの~~」
「え!?」
「お師匠様?」
話が全くつかめないシーナは首を傾げているが、ノゾムはそんなシーナの容姿には微塵も気付かず、目を見開いてアンリを見つめていた。
それも当然だろう。ノゾムはシノについて、彼女達に話したことは無かったのだから。
「な、なんで師匠の事を知っているんですか!? 誰にも話したことなんて……」
「だって~。ノゾム君、一学年の初めの頃は刀じゃなくて剣を使っていたでしょう~~? そんなノゾム君がこの数年でそこまで刀を操れるようになったなら~、誰か教えてくれた人がいるんじゃないかな~って思って」
ノゾムの口から思わず息が零れる。
だが、確かに幾ら才能があっても、独学で剣術から刀術に転身することは簡単ではない。ならば、誰か他に刀術を教える者がいたと考えるのが普通だろう。
一学年の時から担任だったアンリが、その事に気付いてもおかしくはなかった。
「……ええ、そうです。俺には刀術を教えてくれた師匠がいました」
「その人は~~?」
「……ついこの間、亡くなりました」
ノゾムの顔が沈痛な表情を浮かべる。アンリもまたノゾムの言葉を聞き、申し訳なさそうに下を向いてしまった。
「……ゴメンね~」
「いいんです。師匠も最後は笑ってくれていましたし……」
シノの事を僅かでも話したことが呼び水になったのだろう。ノゾムはポツリポツリと彼女と過ごしてきた日々について話し始めていた。
「リサに振られて、自暴自棄になって森の中で鍛練していた時、魔獣に襲われた俺を助けてくれたのが師匠でした。それが切っ掛けで刀術を教えてもらって、放課後や授業の無い日はほとんど森で師匠と鍛練をしていました」
シノと出会い、剣の代わりに刀を握るようになった。
その時から始まった地獄のような鍛練の日々。魔獣のいる森の中を走り回され、一歩間違えれば重傷を負いかねない組み手を繰り返す。
彼女の教えを請うようになってからはとにかく毎日を生き残るのに必死だった。
しかし、そのことを話すノゾムの口調は、話の内容とは裏腹にとても柔らかく、口元には笑みすら浮かんでいる。
まるで大切な宝石を自慢するような顔でシノとの日々を語るノゾム。
今彼は、学園にいる時とはまた違う一面を2人に見せていた。
「ノゾム君は~、その人が大好きだったんだね~~」
「……はい。いろいろ無茶苦茶な人で、修行の時はイジメ抜かれましたけど……とても大切な人でした」
確かに無茶苦茶な人物だった。桁外れの技量と経験を持ちながらも、その内面は子供っぽく、癇癪を起す時もあれば、甘い物で顔を綻ばせる時もあった。
彼女と修業をした期間は約2年間。リサ達と比べて一緒に過ごした時間は長くはなかったが、あの小屋で過ごした濃密な時間は今でもノゾムの心の中で大きな位置を占めている。
「……その人が、最後にこう言ったんです。“逃げることは構わない。でも逃げた事実からは目を逸らさないでくれ。たとえ逃げても、それを忘れなければいつか前に進めるから”って……」
シノの最後の言葉。ノゾムが彼女に誓い、今のノゾムを支えている約束だ。
「そう言われて、それを胸にもう一度やっていこうと思ったのに……俺、また逃げちゃいました……」
誓いを守っていても、自分が逃げていると気付いていても、いつまでも前に進めない。そんな自分自身を侮蔑するように、ノゾムの顔には嘲りの笑みが浮かんでいた。
「……そうね~。ノゾム君は逃げちゃったのかもしれないわ~。でも、まだやり直せるでしょう~。だってアイリスディーナさん達はまだノゾム君を探してくれているんだよ~」
「そうよ。アイリスディーナさん達もあなたの事を探してくれているわ。呆れて、どうでもいい人間と思っているなら、探そうと思わないわよ」
「…………」
アンリとシーナがノゾムを励まそうとするが、彼はまだ大きく一歩を踏み出せない。
だが、僅かでも話を聞いてもらえたことが、ノゾムに半歩前に進む勇気をもたらした。
たった一人で増大していく不安に耐えていたノゾムにとって、それは真っ暗な夜の森で途方に暮れる中、生い茂る枝の間から導く様に月の光が差し込んできた時のようだった。
「……ノゾム君は、どうしたいの~」
「……皆と……一緒にいたいです」
みんなと一緒にいたい。たった独りの頃に戻りたくない。それは間違いなくノゾムの本心だった。
親友に裏切られ、恋人も隣からいなくなり、心に突き刺さり続けた周囲の心無い言葉と視線。そして、萎縮して何も考えないようになっていく自分の心。
常に目を伏せ、耳を塞ぎ続けた日々を過ごしていた。
「ずっと学園では1人でした。俺自身も逃げ続けて1人でいようとしました。まともに人と話すのは師匠と一緒にいるときだけでした……」
先程のアンリの言葉を聞けば分かることだが、決して学園の人間全員がノゾムを蔑んでいたわけではない。
しかし、自分から心を閉ざしてしまったノゾムはそんな人達に気付かなかった。気付くことが出来なくなっていた。
「戦いで怪我を負って帰ってきた師匠は徹夜で看病してくれたこともありました。師匠が俺に“お帰り”って言ってくれた時、思わず泣いちゃったこともあります……でも、その師匠も亡くなりました」
そしてシノが亡くなった。
以前のままの、学園では心を閉ざしたノゾムなら、彼は本当の意味で孤独になっていただろう。
しかし、彼はそうならなかった。
師との誓いがあった。そしてマルスやアイリスディーナ、ティマ達と出会えたからだ。
「でも、アイリスやマルス達と一緒にいるようになって、本当に楽しかった……。隣に誰かいてくれることが嬉しくて、話をしているだけで時間なんて忘れていました」
「なら……」
アンリが“なら話してみようよ”と促すよりも先にノゾムが言葉を挟む。
「でも!……でも、それでも怖いんです。俺が手に入れた力には、俺以外の意思があります。そいつはアイリス達やこの街の人間なんて餌ぐらいにしか思っていない。そいつがもし解放されたら、……間違いなく皆殺しです。」
「……そっか~。そういうことだったんだね~」
ノゾムの中にはその力に付随してもう一つの意思がある。その言葉を聞いた時、アンリはノゾムがその意思に何らかの影響を受けていたのだと理解した。
ノゾムは以前リサという大切な人を失い、そして家族同然だった師を失った。
彼は、その手の中にあった温もりを2度失ったことになる。
大切な誰かを失い続けてきたノゾム。師との誓いからその心が壊れることはなかったものの、もしその誓いが無ければ彼はどうなってしまっていたのだろう。
彼の中にあるもう一つの意思に呑まれてしまったのか、それとも手にした力に溺れてしまっていたのか。
どちらにせよ、今のノゾムはいなくなってしまっていたのではないだろうか?
そして、2度も大切な人を失ったからこそ、彼はアイリスディーナ達に自分のことを告白できなかった事を理解できた。
大切な人が周りからいなくなっていく。もしかしたらアイリスディーナ達も。そんな不安に見舞われ続けていたのではないだろうか。
問題はノゾムが手にしているという力の正体。それが分からない限り、ノゾムの不安を本当の意味で理解することは出来ない。
そう思ったアンリは真っ直ぐにノゾムを見つめたままノゾムの不安の正体を尋ねる。
「……ねえ、ノゾム君~。ノゾム君がそこまで怖がる力の正体って何なの~」
「それは……」
歯を食いしばりながら黙り込んでしまうノゾム。その様子から直接正体を尋ねることは無理だと判断したアンリは質問を変えてくる。
「……じゃあ質問を変えるわ~。ノゾム君のお師匠様はその事を知っていたの~」
「……はい」
もしかしたら……。
ノゾムは自分の師には力の正体を話していた。その事実を聞き、半ば自分の予想に確信を得たのか、立て続けにノゾムに問いかける。
「じゃあ、ノゾム君? お師匠様は他に何か大事なことを話さなかった~」
「大事な事?」
「うん。ノゾム君が聞いた“逃げても逃げた事実から目を背けない”ってことの他に~」
「そんな事、師匠は他には何も……」
アンリの問いかけにノゾムは難しい顔をして考え込むが、アンリの言うような事には皆目見当がつかなかった。
「思い出してみて~。ノゾム君のお師匠様はきっと伝えたはずだよ~。言葉にしなかったかもしれないし、本人は意図していないかもしれないわ~。けど、今のノゾム君が自分の不安を乗り越えるために必要なことが、きっと何らかの形で隠れているはずだよ~」
アンリの言葉を聞いて、ノゾムはまぶたを閉じると自らの師との最後の鍛練を思い出す。
初めに思い出されたのは師匠が自分に向けた最後の言葉、逃げた事実からは目を背けないという約束。
「師匠が、俺に伝えてきたこと……」
「うん。ノゾム君はその言葉をどうやって伝えられたの?」
アンリに促され、ノゾムはゆっくりとシノとの最後の夜のことを思い出していく。
「……師匠は睡死病を患っていました。当時、自分はそのことを知りませんでしたが、最後の夜に最後の鍛練だと言って師匠はいきなり斬りかかってきたんです」
「それで~~」
睡死病を患い、そのことを隠していきなり襲いかかってきたシノ。突然の出来事に動揺しながらもノゾムはなんとか抵抗しようとした。
「師匠は完全に俺を殺す気で斬りかかってきました。俺も必死に抵抗しましたけど、師匠は話を聞いてくれなくて……。結局、袈裟がけにバッサリ斬られました」
「ええ!?」
しかし、本気のシノが相手ではノゾムに勝機はなかった。本来目視も防御も困難なはずの幻無を同じ幻無で相殺するという妙技に動揺した隙を突かれ、ノゾムは深手を負わされた。
いきなり斬られるなんて物騒な言葉に驚いてシーナが思わず大声を上げるが、ノゾムは構わず話し続ける。
「それで俺、死にかけていたんですけど、師匠は攻撃の手を緩めませんでした。俺も師匠なら殺されてもいいかって思って……」
あの時、殺されかけたにもかかわらず、ノゾムは抵抗の意思はなくなっていた。生きたいという意思は湧き上がることなく萎み、斬りかかってくる彼女の刃をなんとか捌こうとする自分を、まるで他人事のような目線で眺めていた。
「……その時、師匠は突然、自分がどうしてこの大陸に来たのかを話し始めたんです」
「お師匠様の昔話?」
「……はい、師匠の話では、以前恋していた相手が姉の思い人で、姉に裏切られてこの大陸に来たって……」
彼の師匠にとって辛い過去が係わっているせいか、ノゾムの声のトーンが下がる。彼にとっても、師匠の過去は話し易いものではなかった。
アンリもその事を理解しているのか、普段から穏やかな口調をさらにゆっくりにして、ノゾムを促すように話しかける。シーナもまた何も言うことはなく、黙って2人の会話と聞いていた。
「……その話をした時、お師匠様はどんな様子だった~~?」
「……どんな様子って」
ノゾムの脳裏に思い出されるのは、刀を振るいながらも、なぜかつらそうな表情をしていたシノの姿。
「……なんだか……すごく、泣きそうな顔をしていました」
「ノゾム君はお師匠様がどうしてそんな顔していたと思う?」
「……俺に……師匠が伝えたかったことが俺に伝わらなかったからです」
そう、実際ノゾムはそう思った。
当時、自分の意思がうまくノゾムに伝わらずにいたことに嘆いたシノ。彼女にとって、それは身を引き裂かれるような思いだったはずだ。
「……それだけ~~?」
「……え?」
「お師匠様がどうして泣きそうな顔をしていたのか~。理由は本当にそれだけ~?」
だが、アンリが言うにはそれ以外にも理由があるらしい。
自分の思いがうまく伝わらないこと以外に、彼女が泣きそうになっていた理由。
その言葉を聞いた時、ノゾムが思い出したのは突然斬りかかってきたシノが、涙ながらに漏らした言葉だった。
“どうか、わたくしの最後の願い。受け入れてはもらえませんか”
溢れ出た積年の想いと、そんな彼女の迷子の様な表情。受け入れてもらえるか不安で、泣きそうな顔。
「……不安、だったから……俺が、ちゃんと師匠の事を受け止めてくれるかどうか不安だったからです」
「うん。私もきっとそうだったと思うわ~。誰だって自分の辛い過去を話すのは勇気がいるもの~~」
「……そうね。私もこの間までは家族の事とか故郷の事を思い出すのも辛かったわ」
「…………」
シーナは思い出すように瞳を閉じると、思い出すように独白する。
彼女にとっても、10年前に自分の故郷へ降りかかった災厄は大きな傷として残っていた。
人間は元来臆病な生き物で、自分にとって辛い事や思い出したくない事を隠そうとする傾向があり、それを告白することは多大な精神力を必要とする。
まして、シノが言ったことは、自分が人目に付かないようにこんな所に篭ってしまう原因となった、姉との確執を家族同然である唯一の弟子に告白すること。
そのことで彼女が一体どれほどの不安に襲われていたのかは想像に難くない。
「でも、ノゾム君はきちんとお師匠様の事、受け入れることが出来たんでしょう?」
「……はい。拒絶されるかもしれないと思っていても、師匠が自分の事を俺に話してくれたから、俺は抑圧を解放して師匠と向き合うことが出来ました」
泣きながら自分の寿命と過去を告白したシノの思いに答えようと、ノゾムは初めてティアマットの力を開放し、あの湖の湖畔で奴と対峙した。
猛然とノゾムに襲いかかったティアマット。それはもはや戦いではなく、一方的な処刑だった。
初めて奴と戦った時とは違い、ティアマットは始めからノゾムを殺しに来た。遊ばれている時ですら手も足も出なかったノゾムが本気になったティアマットに力で勝てるはずもない。
自らの半身を消し飛ばされ、食われて咀嚼されていくノゾム。
完全にティアマットに取り込まれそうになっが、それでも彼は自分の意思は譲らなかった。
最後の最後まで諦めず、伸ばし続けた手がティアマットの力の一部を奪い取ることに成功する。
奴の力を奪い取った瞬間、ノゾムは現実に戻り、シノと対峙。全力で戦う事でシノの思いに答えることが出来た。
「それはノゾム君がお師匠様を受け入れたいと思ったからでしょう~? シーナさんやアイリスディーナさん、マルス君達もきっとノゾム君がお師匠様を受け入れたいと思ったみたいに、ノゾム君を受け入れたいって思っているはずだよ~」
「そうよ! だからみんなこうして貴方を探しているんじゃない」
「…………」
硬く握りしめられたノゾムの拳。
小刻みに震えるとその手と伏せた眼差し、そして硬く噛みしめられた唇がノゾムの迷いを象徴していた。
そんなノゾムを目の前にして、シーナとアンリはノゾムの正面に回り込むと、震える彼の手を自分の両手で優しく包み込んだ。
「……あ」
「大丈夫だよ~。ノゾム君」
「そうよ。貴方ならきちんと向き合えると思うわ」
じんわりと手の平から伝わってくる温もりがノゾムの心を優しく導いていく。
「2人とも……」
「今は少し臆病になってしまっているけど、貴方は一度、きちんと大切だと思える人と向き合えている。ならもう一度、自分が大切だと思える人達と向き合うことも出来るはずよ」
シーナの透き通るような瞳がノゾムを捉え続けている。エルフ特有の透明感のある肌と髪が月の光を受けて幻想的な光景を生み出す。
見つめてくるシーナに、ノゾムは自分の心に小さな火花が走ったような感覚を覚えた。
ポウッと彼の胸に灯った小さな火種。淡く、儚い光ではあるが、その光は懸命にノゾムの心に巣食った闇を払おうとしている。
「貴方は私に向き合う事の大切さを知る機会をくれた。……本当に感謝している。だから今度は私が貴方の力になりたい」
「シーナ……」
“貴方の力になりたい”
その言葉がノゾムの心の中で弾けた。
ノゾムの心に灯っていた小さな火種はシーナの告白を受けて一気に燃え上がり、熱が体中を駆け巡って全身の血液が湧き上がる。
彼女の隣では、アンリ先生がいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
力になりたいと言ってくれたシーナ。いつもと変わらずにいてくれるアンリ。
2人の温もりと優しさに、怯えて縮んでいたノゾムの心が瞬く間に活力を取り戻していく。
「俺は……」
以前、ノゾムは龍殺しになったことをシノに告げられ、自分が逃げていることを突き付けられた。
逃げ続けていたノゾムに現実を突きつけた彼女。でも、その後彼女が浮かべた表情は安堵の微笑みだった。
“…………おかえり。がんばったのう”
シノが掛けてくれた言葉。龍殺しであることを知っても変わらなかった彼女。
そんな彼女だったから、ノゾムは自分のすべてを曝け出せたし、シノが告白した過去を受け止めることができた。いま目の前にいる彼女たちもその時のシノと同じ顔をしている。
なら今の自分はどうなのだろうと、ノゾムは今一度自問する。
学園の凛とした雰囲気とは裏腹に、占いにかこつけたセクハラ爺に制裁を加えたり、妹のデートとを心配のあまり尾行する等、実はお茶目な面もあるアイリスディーナ。
いつも笑みを絶やさず、明るく素直なソミア。しかし、それだけでなく辛い思いもしたからこそ明るく振舞える強さを持つ少女。
荒っぽい気質と大柄な体格、そして気の強さでみんなから怖がられているが、妹に対しては全く頭が上がらないマルス。
ちょっと気が弱くて普段はオドオドしているけど、友人のためならたとえ格上の相手でも身を呈して守ろうとする、一本気のあるティマ。
今、自分の傍にいてくれる彼女達の顔と、彼らとの思い出が彼の脳裏に過ぎっていく。
出会ってからたった数か月だが、失いたくないと思える大切な人達。
もう一度、彼らと一緒に笑い合えたら……。
「俺は……みんなに聞いて欲しい……」
その言葉を自ら口にした時、ノゾムの心の中で自分の願いがはっきりと形作られる。
これからどうしたいのか。そのためにはどうすればいいのか。
必要なことは相手に自分の本心を伝えること。自分自身を曝け出さなければ自分の本当の姿は相手には伝わらない。
その姿は人から見れば醜いかもしれない。嫌悪感を催すかもしれない。恐怖を煽り、その結果、拒絶されるかもしれない。
でも、力になりたいと言ってくれた人がいた。自分の心が他者から干渉されていることを知っても、いつもと変わらずにいてくれる人がいた。あの時の師と同じように。
なら大丈夫だと思った。恐怖はある。不安もある。でも、一歩だけでも進むことは出来そうだった。
「……シーナ、アンリ先生。ちょっと、頼みごとをしてもいいですか?」
シーナやミムル達のように向き合って、アイリスディーナ達ともう一度笑い合いたい。そのために、師と同じように、今度は自分から伝えていこう。
そんな思いを胸に、ノゾムはもう一度前に踏み出す決意を固めた。