第5章第22節
以前投稿していた物は一旦削除して、新規に投稿しなおしました。
多少加筆してありますが、大筋は変わりません。
特総演習中に突然現れた屍竜。
演習区域内に現れたこの魔獣によって特総演習は中止となり、綿密な調査が行われることになった。
学生達はすぐさまアルカザムに戻り、学園に着いて無事が確認され次第解散となった。
ジハードは現場で調査の指揮を執っているので、代理の教師から解散を言い渡されたアイリスディーナ達はすぐさま10階級の教室へと向かう。
だが、10階級の教室にノゾムもマルスもおらず、ジン達に話を聞いてみれば、2人とも学園に着いてすぐにいなくなったらしい。
「みんな、ノゾム達はいたか!?」
ひとしきり学園内を探し回った後、一旦正門前に集まったアイリスディーナ達。ただでさえ広いこの学園内を走り回ったせいか、皆一様に荒い息を吐いている。
「ハア、ハア、ううん。訓練場にはいなかった……アイの方は?」
「こっちもダメだ。アンリ先生の話ではアルカザムに着いた時はいたらしいが、教室で生徒達の確認を取った時にはもういなかったらしい……」
10階級の教室を訪れた後、アイリスディーナは2人を探しながら、教官室を訪れていた。アンリからノゾムのことを聞こうとしたのだが、彼女は教官室にはいなかった。
その後、校舎内にいたアンリを尋ねてみると、彼女もまたいなくなったノゾムとマルスを探していて、彼女の話では、やはり2人は教室で生徒の確認を取った時には姿を消していたらしい。
「ということは、2人とも学園内にはいない可能性が高いってことやな……」
「そうだね。でもどこにいるのか……」
フェオが学園の外を眺めながら呟き、トムもまたフェオの意見に同意する。
「仕方ないよ。2人がいきそうな場所を片っぱしから探していくしかないんじゃないかな?」
とにかく街に出て探そうと提案するミムル。
その時、エクロスの校舎の方からこちらにかけてくる人影があった。
「姉様!」
「ソミア!?」
走ってきたのはエクロスに通っているソミアだった。彼女は脇目も振らずアイリスディーナに駆け寄ると、彼女胸に思いっきり飛び込む。
「一体どうしてここに……」
力一杯自分の体にすがりついてくるソミアの様子に戸惑うアイリスディーナ。一体どうしたのかと混乱しながらも彼女は優しく愛妹を抱き返してあげる。
「あ、あの……姉様たちが演習中に竜と戦って怪我したって聞いて……それで、心配になって……」
目に涙を一杯に溜め、鼻声で詰まりながらも姉の安否を心配するソミア。
アイリスディーナが竜と戦い、怪我を負ったと聞いて相当不安だったのだろう。
深い絆で結ばれている姉妹。以前妹を失いかけたアイリスディーナが絶望に呑まれそうになったように、アイリスディーナが竜に襲われたと聞いたソミアも姉を失うかも知れないと思って怯えていたのだ。
「大丈夫だ。ちゃんと私はここにいる。いなくなったりしていないよ……」
「ふえ、ふっ! えぐ……」
必死に泣くまいと我慢していたソミアだが、姉の無事を見て緊張の糸が切れたのだろう。涙をいっぱいに溜めた瞳から堰を切ったように涙があふれ出す。
アイリスディーナがそんな妹をあやすように背中をポンポンと叩いてあげると、ソミアも徐々に落ち着きを取り戻してくる。
ソミアが泣き終わり、ゆっくりと抱擁を解くと、シーナがアイリスディーナに向かって問いかけてきた。
「ねえ、アイリスディーナさん。ちょっと聞きたいのだけれど、マルス君が言っていたことってどういうこと?」
「……どういうこととは?」
要領を得ないシーナの質問にアイリスディーナが問い返す。
「マルス君が言っていたじゃない。“本気なら竜を倒せていた”って。一体どういうことかしら? 確かに彼が強いのは知っているけど、竜を簡単に倒せる程とは思えなかったわ。何か……私達が知らない事があるんじゃないの?」
「それは……」
シーナの質問に、アイリスディーナが言いよどむ。
シーナ達はノゾムが自分の能力抑圧を解放できることを知らないし、その時のノゾムが発揮する桁違いの力についても知らない。そして、最近ノゾムの様子が以前と比べて変わってきていたことも。
(だけど……それは私たちも同じだ……。私たちは彼の持つあの力について碌に知らない。あの桁外れの力……抑え込まれていた力を解放しただけにしては異質すぎる……)
彼はルガトと戦った時の力について、能力抑圧の解放と言っていた。
だが、本来抑え込まれていた力が解き放たれただけなら、制御力に長けたノゾムがあそこまで膨大な力を垂れ流しにしていることはおかしい。彼の戦い方は元々力に頼る戦い方ではなく、高い気の制御力と卓越した刀術を駆使し、最小の力で最大の効果を得る闘法。能力抑圧を解放した時の彼の様子はそれと相反するものだ。
「アイリスディーナさん……話してくれないかしら?」
シーナがアイリスディーナを見つめてくる。不器用なほど真っ直ぐな瞳。だがそこにある意思はとても強く、アイリスディーナは彼女に退く気がない事はすぐに分かった。
「……姉様」
アイリスディーナの耳届く、小さいながらも強い意志と思いの篭ったソミアの声。アイリスディーナの傍にいる親友もまた、シーナと同じ瞳でアイリスディーナを見つめてくる。
2人の視線を受け止めたアイリスディーナが西の空を見上げると、紅く染まった太陽が地平線に沈みかけていた。
この街のどこかにいるノゾムとマルス君。2人は今どうしているのだろうか……?
そんな事を考えながら、彼女は妹の誕生日に起こった事件について思いを馳せる。
確かにノゾムの力を知ることになったウアジャルト家との密約については簡単に話せる話ではない。
だが、黄昏に染まり、暗闇に閉ざされていく街並みがアイリスディーナの焦燥感を煽っていく。
このまま何も話さずにいるわけにはいかない……。何かをしなくてはならない。そうしなければ何も変わらない。ノゾムもマルス君も……そして、私達も……。
一度瞑目するアイリスディーナ。彼女は意を決した様に頷くと、真っ直ぐシーナ達に向き合う。
「私達がそれを知ったのは、ソミアが11歳の誕生日を迎えた時のことだ……」
シーナの視線を真っ直ぐに受け止めながら、黒髪の乙女は彼との始まりの出来事を話し始めた。
特捜演習が行われていた森の中。
演習を中止した後、ここではジハード達がアルカザムの警備兵達、そして派遣された調査員と共に突然竜が現れた原因について調査していた。
彼らは竜が現れた穴の奥を調査したところ、その奥には巨大な空洞が広がっており、その場所にはあちらこちらに竜の骨が散乱していた。
「つまり、この下は竜の巣になっていたわけですか、トルグレイン殿……」
ジハードの落ち着いた声が響く。彼の目の前には屍竜が現れた穴と、報告に来た20半ば位の白衣を着た男と、その護衛である銀虹騎士団の団員がいた。
「はい。奥にあった竜の遺骸を調べましたが、散乱していた骨の状態から、おおよそ10年以上前のもの。しかも発見された骨は、ほとんどが成竜になる前の幼竜のものです」
トルグレインと呼ばれた青年はジハードの質問に対して、かしこまった態度で答えていく。
知的さを漂わせる眼鏡の奥に見える優しそうな瞳。体格も華奢であり、どう見ても戦いを生業にする人間ではない。
事実、彼は戦う人間ではなく、この件の調査の為にで招集されたグローアウルム機関の研究員だ。
グローアウルム機関とは、アルカザムに造られた総合研究機関である。
この機関の研究等や設備はソルミナティ学園に並列する形で造らており、各国から集められた研究者がその場所で日夜様々な研究を行っている。
研究によって得られた成果は年に一度各国へ向けて発表されており、農地開発や街のインフラ設備、魔獣対策や再び起こるかもしれない大侵攻に対しての備えなど、多方面に重宝されていた。
また、グローアウルム機関の研究者の中にはソルミナティ学園で講義を行うこともあり、未来の人材育成にも活躍している。
「10年……つまり、アルカザムが造られる前の話か……」
「はい。出入り口は土砂で塞がれており、おそらく何らかの理由で崩落したものと思われます。閉じ込められたことで餌をとれなくなった竜達は共食いをすることで命を繋いでいたが、ついに1体だけになり。餌がなくなったことで休眠したものの、そのまま衰弱死したのでしょう」
「そして、そのままアンデットになったわけか……」
10年前の大侵攻が切っ掛けで造られたアルカザムは極めて若い都市だ。アルカザムが立てられるより以前からここに住んでいた者がいてもおかしくはない。
もちろん、都市建設の段階で周辺の調査はされていたのだが、もうその時には竜の巣への入り口は塞がれており、生き残っていた竜は休眠したか、すでにアンデットになっていたのだろう。
「トルグレイン殿、生徒達を襲った屍竜については?」
「こちらは特には何も。アンデットになったという事以外、特別といえるものはありませんでした」
トルグレインの言葉になぜかホッとしたように息を吐くジハード。
護衛の団員はその様子を怪訝な顔で見つめていた。
ジハードは顎髭に手を当てながら空を見る。元々薄暗い森の中だが、調査を始める前よりかなり視界が狭まっている。おそらく日がかなり傾いてきているのだろう。
「……分かりました、もうそろそろ日が暮れます。詳しい調査は行うこととし、今日はアルカザムに帰還します。撤収の用意を……」
「分かりました」
「了解です」
トルグレインと部下に撤収の準備を指示した後、ジハードは地面に空いた巨大な穴を見降ろしてみる。穴口のすぐ先には奥がまるで見えない、深い闇が顔を覗かせている。
報告では、穴の奥に魔獣のような生物は確認できなかった。
潜っていた調査隊と兵士が次々と上がってくるのを確かめながら、彼はもう何もないはずの穴の奥とただ見つめていた。
太陽が西に沈み、星々の光が天を埋め尽くした頃のアルカザム商業区。ここは相変わらず夜になっても明かりは途絶えることはなく、街灯に照らされた石畳みの上を行き交う人達の声が木霊している。
その商業区の一角にある宿屋兼酒場の牛頭亭で、一人の青年がまるでやけくそのように酒を飲んでいた。
やけ酒を飲む青年。マルス・ディケンズはテーブルの上に無数の酒瓶を並べ、次から次へと空き瓶を増やしていく。
彼は相当イライラしているのか、触れるだけで切られそうな雰囲気を発している。彼が放つ威圧感のせいで今日この店を訪れた客は、皆一歩店内に入っただけで踵を返して出て行ってしまっていた。
「ング、ング……はあ……」
そんな閑散とした店内のことなど意に介さず、マルスはグラスに酒を注ぐと一気に飲み干す。
カッと喉を焼く感覚とともに酒が胃に落ち、その度にマルスの頭は霞がかるようにぼんやりとしてくる。
だが、幾ら酒を飲みほしても彼の脳裏にはノゾムの姿がチラついていた。
2学年末に模擬戦の時の姿。外縁部に呼び出して戦いを挑み、その後牛頭亭で飯をおごり、じゃれ合った帰り道。話をするようになってから始まった外縁部での鍛練。ルガトとの戦いでSクラスの吸血鬼を圧倒する姿。
そのどれもがまぶしく光るが、それ故に彼の体を焼く怒りは納まらない。
(あいつ! なんで全力を出さなかった! あいつの実力なら簡単だったはずなのに!)
だが、全力を出さなかったノゾムに憤りを感じれば感じるほど、マルスは自分自身の中にノゾムに対して感じている怒りとは別の何かが湧き上がるのを感じていた。
それを誤魔化すように、マルスはグラスの中の酒を飲み干す。
その時、あまりにだらしないマルスの様子を見かねたエナがぷんぷんと怒り顔でマルスに苦言を言ってきた。
「ねえお兄ちゃん、もうやめてよ。こんなところでお酒飲むの。お客さんみんな帰っちゃうじゃない!」
「うるせえ……」
エナの苦言を無視して、空になったグラスにさらに酒を注ごうとするが、横から手を伸ばしたエナが酒瓶とグラスを持ち去ってしまう。
「……返せ」
「だめ。今日のお兄ちゃんは邪魔者でしかありません」
マルスの要求をキッパリと拒絶をするエナ。さらにカウンターにいたハンナもエナに同調する。
「そうだよ、マルス。あんたに飲ませる店のお酒はないんだから! 大体こんなにお店の商品を空にして……」
「チッ……」
酒を取られたマルスは舌打ちしながら恨めしそうにエナとハンナを睨み付ける。だがその時、床を掃除していたデルが彼の名を呼んだ。
「……マルス」
「……なんだよ。っておい! 何しやがる!」
突然、デルに襟首を掴まれたマルス。彼は何事かと必死に抵抗するが、がっしりとしたデルの腕はビクともしない。
「何があったかは分からんが、そんな熱くなった頭ではなにもできん。しばらく夜風にあたって頭を冷やしてこい」
「ちょ! うお!」
デルは抵抗するマルスを店の入口まで引きずると、そのまま表通りに放り投げる。
放り投げられたマルスがうめき声をあげている間に、牛頭亭の店主は素早く入口に掛けられている“営業中”の札を“準備中”に変えるとドアを閉めて鍵をかける。
「はあ、お兄ちゃんにも困っちゃうなぁ……」
「どの道、今日は店開けてもどうしようもないねぇ。お客さん、すっかりいなくなっちゃっし……」
エナとハンナの口からため息が漏れる。
店の中には、外にいるマルスがドアを激しく叩く音が響いていた。しかし、どうやっても入れてもらえないと悟って立ち去ったのか、やがてドアを叩く音が止む。
「でも……どうしちゃったのかな、お兄ちゃん。最近はあんな風になることなんてなかったのに……」
「そうだね。ノゾム君達と出会ってから、暴れたり、自棄になることなんてなかったんだけどねぇ……」
そう言いながら、エナとハンナは最近変わり始めていたマルスの様子を思い出していた。
ノゾムと出会ってからマルスは以前の様に暴れることはなくなった。確かに商店街の皆からは相変わらず怖がられているし、店を訪れるタチの悪い酔っ払いを実力行使で追い払うことはあったけど、他の店に迷惑をかけることはなかった。
だが、今日帰ってきたマルスの様子は以前の荒れていた頃の彼に戻っていた。
一体学園で何がったのか気になるのか、マルスがいたテーブルを片付けながらもエナの視線は鍵を掛けられた入口のドアをチラチラ見てしまう。
そんなエナの肩にデルの大きな手がそっと置かれた。
「心配するな。今は無理かもしれないが、落ち着けば帰ってくる。その時、説教ついでに聞いてやればいい」
「お父さん……」
エナの肩に添えられた暖かい手。置かれた手から感じるぬくもりと安心感。そのぬくもりに元気づけられたのか、沈んでいたエナの表情を徐々に持ち直してくる。
「そうだね。エナを悲しませたんだから、キッチリとお灸を据えないと」
ハンナもまた娘を安心させようとニッとした笑みを浮かべて胸を張る。
その笑顔に緊張が解れたエナは微笑みを浮かべて小さく頷いた。
その時、入口のドアが小さくトントンと叩かれた。
「はい。どなたですか?」
マルスは先程去って行ったようなので、エナは客が来たのかと思い、ドアを開けると、そこには息を切らせた茶髪の女の子がいた。
「ティ、ティマさん……」
「ハア、ハア……夜分遅くにすみません! マルス君、帰っていますか!?」
よほど急いできたのか、ティマの白い肌は赤く火照り、体からは白い湯気が立ち上っている。まだ肌寒い春の夜に荒い息を吐きながら、彼女はすがるような眼をエナに向けていた。
「お兄ちゃんならさっき店のお酒飲んでベロベロになっていたので、お父さんに摘み出されましたけど……」
エナの言葉を聞いたティマはすれ違いになったことに肩を落とす。
初めはマルスのことを尋ねようかと逡巡していたエナだが、ティマの只ならぬ雰囲気を感じた彼女は意を決して口を開いた。
「あ、あの……今日のお兄ちゃん、帰ってきてから様子が変なんです。確かに今まで、散々碌でもないことしてきた兄ですけど、家のお店の中でまであんなことして……。何かあったんですか?」
「そ、それは……」
「…………」
エナの言葉を聞いて目を見開くティマ。その様子に彼女が事情を知っていると確信したエナは強い視線でティマを見つめていた。
エナの眼差しを受けてティマが視線を泳がすと、ハンナやデルと目が合った。
二人もまた真っ直ぐにティマを見つめており、それだけでティマは、彼女達がマルスを心配している様子が分かってしまう。
「あ、あの……。実は……」
エナ達の強い瞳に後押しされたティマ。とにかく今は彼を探すことが必要と思い、彼女は学園で何が起こったのかを話し始めた。
「はあ、はあ……うぷっ!」
店を追い出されたマルスは泥酔したまま、覚束ない足取りで商業区の裏通りを歩いていた。
小奇麗にされ、街灯に照らされた表通りと違い、この場所にはあちこちゴミが散乱していて薄暗い。だが、その薄暗さが今のマルスにとっては安心できた。少なくともこんな情けない姿を他人に見られずに済むから。
「うっ…くっ」
ふらついた体を壁に手をついて支える。
顔を真っ赤した彼の脳裏によぎるのはやはりノゾムの姿。だが、思考を鈍らせていた酒が断たれたせいか、彼の脳裏によぎる想いは牛頭亭にいた時と比べて、多少冷静になっていた。
仲間の危機にも関わらず、全力を出さなかったノゾムに対する憤りはマルスの胸の内で燻っているのは確かだ。
しかし、同時マルスは最近ノゾムの様子がおかしくなっていた事も思い出していた。
ノゾムはここしばらく沈んでいることが多く、だが何か悩みを抱えながらも必死に押し隠そうとしていた。
マルスの霞む視界の中に、自分の手が映っている。今日、怒りのあまりノゾムを殴り飛ばした右手だ。
(くそ……なんだってんだよ……。そんなに俺達が信用できなかったのかよ……)
だが、僅かに戻った理性もすぐに怒りに呑まれてしまう。
いきなり殴った自分に殴り返しもせず、只々下を向いていたノゾム。その姿が以前蔑視していた頃のノゾムの姿を思い出させ、怒りで目の前が真っ赤になる。
だが同時にマルスは何故か猛烈な後ろめたさも感じていた。
ノゾムに対する怒りと、自分でも分からない罪悪感に苛まれながら、マルスは徐々に足を速めていく。その時、マルスの耳に誰かが騒いでいる声が聞こえてきた。
「や、やめてください!」
「いいじゃねえかよ。夜遅くにこんな場所に1人で来るんだ。遊びたかったんだろ?」
「俺達と一緒に遊ぶってのはどう? もちろん朝までさ!」
聞こえてきたのは助けを求める女性の声と、下卑た男達の声。ぼんやりとした頭でマルスが声のする方に歩いて行くと、やがて裏路地にたむろする同年代の青年達が見えてきた。
彼らは1人の女性を数人で取り囲み、言い寄っている。
それはどう見てもナンパの現場だが、あまりにも一方的で配慮に欠けていた。女性の方は明らかに嫌がっており、迫ってくる男達から逃れようと、触れようと伸ばされる手を必死に振り払っている。
取り囲んでいる男たちは身なりや素振りから見ても不良やろくでなし共だが、その中にマルスは知っている顔を見つけた。
「……お前ら、何やってんだ」
マルスの目に留まったのは、不良共の真ん中で女性の一番近くにいた2人の男。彼らは以前マルスの取り巻きだった10階級の男子生徒だった。
「ああ?……何だマルスか?」
「見りゃわかるだろ? 遊んでんだよ」
「は、放してください!」
元取り巻きの男の一人が女性の腕を掴む。女性は必死に振り払おうとするが、相手は10階級とはいえソルミナティの生徒。ただの女性が逃られるはずもなかった。
それどころか、女性が必死に抵抗する様を見てさらに興奮する男達。口々に女性をはやしたて、女性の胸や臀部に触れようとしてくる。
「ひゅ~~。かなりいい体してるぜ! こりゃ当たりだな」
「ああ! 久しぶりに楽しめそうだ。おい、絶対に逃がすなよ」
「や、やめ、やめて……」
興奮し続ける男共に対する恐怖がついに限界を超えたのか、女性はぺたりと地面に座り込んでしまう。
「いいじゃねえかよ。見たところこの街は初めてなんだろ? せっかくだし俺達がいい思い出を作って……」
女性の気持ちなどまるで考えない言葉。元取り巻きの男はもう一人が女性の服に手を掛ける。しかし、次の瞬間、その元取り巻きは殴り飛ばされて宙を舞っていた。
「マルス! てめえ! 何しやがる!」
元取り巻きを殴り飛ばしたのはマルスだった。殴られた元取り巻きは他の男共を巻き込みながら地面に倒れ伏す。
「うるせえよ。今イライラしてんだ。そんな俺の目の前でさらにイラつくことしやがって……」
殴り飛ばされた仲間を見て、一瞬で激昂したろくでなし共。だが、マルスは全く動じずに彼らを睥睨する。
そんな中一歩前に出たのは、マルスの実力をこの中でだれよりも知っているはずの元取り巻き。
「へぇ……俺と戦う気か?」
「へっ! 何言ってんだよ。以前のお前ならともかく、すっかり牙を抜かれておとなしくなっなっちまったお前に負けるはずないだろ!」
マルスの口元が吊り上がる。彼の胸中に渦巻くのは、とにかくこのイラつきを何かにぶつけたいという衝動と、ぶつけ場所を見つけたことに対する歓喜だった。
「…………」
「大体、あの最底辺と一緒にいるような奴に俺が……」
元取り巻きがノゾムのことを口に出した瞬間、マルスは元取り巻きに殴りかかっていた。
それが乱闘開始の合図になる。しばらくの間、裏路地には打撃音と罵声が飛び交い続けた。
「っ! あの野郎……」
元取り巻き達と壮絶な喧嘩をしたマルスは、表通りには戻らず、裏路地の中で、民家の壁に背中を預けて座り込んでいた。
殴られた顔は所々赤く腫れ上がり、触れるとビリっとした痛みが走る。
喧嘩自体は双方しばらく殴りあった後、その隙に逃げだした女性が憲兵を呼んだことで収束した。
憲兵に連れて行かれるのは流石に不味いと思ったのか、喧嘩をしていた面々は即座に喧嘩を止め、一目散に逃げ出した。
10人もの不良相手に一歩も引かなかったマルスだが、酒に酔っていた身では碌な体術も使えなかった。
結果として殴られながら殴るを繰り返す羽目になってしまい、顔のあちこちに傷を作ることになってしまい、今でもズキズキと痛みが走っている。
(……何やってんだ。俺は……)
先程、元取り巻き達と喧嘩をしていた自分を思い出して自嘲するマルス。
傍から見ればマルスは女性を助けに入ったと見えるが、彼としては囲まれていた女性についてはどうでもよかった。ただ、暴れられれば誰でも良かった。このイラつきをぶつけられれば何でも良かったのだ。カッコ悪いことこの上ない話である。
(…………)
暴れたことで頭に篭っていた熱が冷めたマルス。だが、代わりに今度はハッキリとノゾムを殴ったことに対する後ろめたさと、怒りのまま友人に殴りかかったことに対する罪悪感が湧いてくるのを感じていた。
それでも心に燻り続ける怒りは消えることがない。その“怒り”という火種はずっと以前から彼の心の中に巣食っているもの。
昔から腕っ節が強く、暴れん坊で手がつけられなかったマルス。彼が暴れる理由は、常に彼の心に湧き上がり続ける怒りだった。
彼自身も自分の中に強い怒りが湧き上がり続けていることは分かっていたが、幼い彼の心はその怒りに抗うことは出来なかった。
今でも彼の中の怒りはノゾムに対する後ろめたさ、そして罪悪感すらも糧にして猛ろうとする。それに抗おうと、マルスはギュッと拳を握りしめ、歯を食いしばる。
(くそ……何でいつも俺はこうなんだ……)
“怒り”を制御できない自分に対する怒り。あらゆることに対する感情が怒りとして変換され、彼の心を蝕み続ける。
(アイツも呆れてるよな……。散々頼った癖にこのざまだったんだ……)
彼の脳裏にティマの顔が過る。
力を振り回すしか能のない自分のわがままに付き合って、自分に魔法を教えてくれた彼女。
初めはオドオドして情けない奴だと思っていたけど、実は芯の強い奴で、いざという時は驚くほど頼りになる少女。
だが、自分は彼女の期待を裏切った。
彼女の忠告を無視して、あの不安定な併用術を使った結果、仲間を窮地に立たせてしまい、仲間に要らぬ負担を強いることになってしまった。あの時、ノゾム達が窮地に立たされることになってしまったそもそもの原因は自分が術の制御を出来なかったからだ。
ノゾムに対する怒りも、元を正せば自分の不甲斐なさを認めたくなかったから。
(ほんと……情けねえ……)
乾いた笑い声がマルスの口から漏れる。その時、マルスは誰がが駆け寄ってくる気配を感じた。
「はあ、はあ、はあ……見つけたよ。マルス君」
ふと呼ばれた自分の名。マルスが顔を上げると、そこにいるのはつい今しがた考えていた少女の顔があった。
彼には、怒っているはずの彼女が何故か安堵の笑みを浮かべているのか分からなかった。
マルスの傍に歩み寄ったティマが、彼の隣に腰を下ろす。
「…………」
「…………」
互いに押し黙ってしまうマルスとティマ。薄暗い裏路地の中に、表通りの喧騒だけが響いてくる。
しばしの間黙り込んでいた2人だが、ティマは何かを決心したように頷くと、ゆっくりと話し始めた。
「マルス君。私、聞いたよ。マルス君とエナさんの本当のご両親のこと……」
「っ!その話、誰から聞いた!!」
思わず声を荒げてティマを問い詰めてしまうマルス。その話を知っているのは彼の家族以外いないはずだったからだ。
「……放課後、マルス君達を探していて牛頭亭に行ったら、事情を聴いたハンナさん達がが話してくれたの……」
「……ちっ!」
マルスを探して牛頭亭を訪れた時、事情を聴いたハンナ達は深刻な表情で俯き、エナに至っては何かに怯える様にハンナに縋り付いていた。
その後、大きく息を吐いたデルはマルスとエナの過去をゆっくりと話し始めた。
ハンナとデルはマルスとエナの本当の両親ではなかった。
マルスとエナの母親は、マルスが幼い時に流行り病でこの世を去っていた。
その後、妻を亡くし、失意に沈んでいた父親は酒と女に溺れるようになり、徐々に家に帰ってこなくなった。
一日、二日と徐々に帰ってこなくなる父親。彼はふらっと帰ってきても二人に目を向けることはなく、部屋に閉じこもってしまう。
まだ幼いマルスやエナは、部屋の外で必死に父親を呼んだが、部屋を出てきた父親は二人に優しい言葉ではなく、暴力を振った。
やめてと懇願しても暴力を振うことをやめない父親。まだ力のないマルスとエナは理不尽な父親からの暴力に必死に耐えるしかなかった。
そんな日々が1年ほど続いたある時、ついに父親は帰ってこなくなった。後から聞いた話では酒場で知り合った女と他の町に逃げたらしい。
その後、両親がいなくなった2人をどうするかと親戚同士が話し合ったが、その場で行われたのは話し合いではなく、父親に捨てられた2人の押し付け合いだった。
当時はまだ大侵攻の影響で様々な不安を抱えていた時代。どこの親戚も自分の家を守ることに精一杯で余裕はなく、彼らの目には醜い罵り合いの端で身を寄せ合う兄妹の姿は映らなかった。
その時だった。ただ押し黙り、幼いエナを抱いていたマルスの胸に怒りの火種が灯ったのは。
だがその時、揉めていた親戚同士の話し合いの中に、突然声を荒げて割り込んできた女性がいた。
彼女はまだマルスの両親が生きていた時、懇意にしていた近所のおばさんで、2人はよく可愛がってもらっていた。
彼女は身を寄せ合うマルスとエナに見向きもしない親戚達を一喝すると“自分が引き取る”と言って2人の手を取り、自分の家に連れて帰った。
突然子供を連れ帰って来た妻に彼女の夫も初めは驚いたが、元々子供に恵まれなかった夫婦だった彼ら。彼女の夫も事情を聴くと何も言わずに頷き、2人を引き取ることを了承した。
この時、マルスとエナを自分の家に連れ帰ったのがハンナであり、彼女の夫であるデルだった。
この話を聞いた時。ティマは驚きのあまり目を見開いた。
確かにエナとハンナはよくマルスを怒りとばしているが、それは心の奥で深く繋がった家族ゆえにできることで、内心ではあの店の家族全員が互いに信頼し合っていることはティマにも感じられた。実際、マルスは自分の取り巻き達を牛頭亭に連れてきたことはないと聞いていた。
信じ合っている家族だが、マルスは今までどうしても自分の中の怒りを制御できなかった。
ハンナの話を聞いた後のティマには分かる。それは一種の自己防衛だ。
幼かった頃の彼が抱えることになってしまった心の傷。肉親から捨てられた事実と理不尽に受けた暴力に対する彼の必死の叫びだった。
「……俺は、強くなりたかった……あんな理不尽をぶっつぶせるくらい強くなりたかった。内心、ノゾムやお前みたいな力が俺にもあればって思ってた。」
それは彼が力を求め続けた本当の理由。そしてその力を手にしている者への嫉妬だった。
「お前に魔法を教えてもらって、その力を手に入れられたと思ってた。でもそれは俺の勘違いだった……。結局、俺は自分の怒りを抑えられなかった」
「…………」
項垂れるマルスの独白を、ティマは隣でただだまって耳を傾けていた。
「……情けない話だろ。ただ自分の怒りに任せて、やってることはあのくそ野郎と同じだ……」
「……マルス君」
マルスの後悔と懺悔。自分の心に巣食った怒りに抗えなかった日々と友人に対しての嫉妬、自分が犯した間違いに対する懺悔。一度溢れ始めた想いは止まることはなく、マルスは初めて他者の前で自分の思いの丈をぶちまけていた。
「今日のノゾムとの事もそうだ。元を正せば俺がいい気になってあの術を使えると奢り高ぶったことが原因だ。あの時、シーナ達に任せていれば、こんな事にはならなかったかもしれないってのに……結局、俺は……」
歯を食いしばるマルス。強く握りしめた拳からはポタポタと血が滴っている。
ティマはそんなマルスの手にそっと自分の手を添えた。
「…………」
「ティマ?」
ティマの行為を不思議に思ったのか、マルスが首を傾げる。
ティマは今一度、ギュッとマルスの手を握りしめると、彼を真っ直ぐに見つめながら、口を開いた。
「私、知ってるよ? マルス君が本当はすごく優しいんだってこと。皆知ってる。アイもノゾム君も、ソミアちゃんもシーナさんも……」
ティマはゆっくりと言い聞かせるように言葉を紡いでいく。
「マルス君、前にルガトさんと戦った時、この手は私を守ってくれた……。私の友達を助けてくれた」
ちょっと冷たいティマの手。しかし、なぜか温かく感じるその手は、凍てついた氷を溶かすように、マルスの固まった心を解していく。
「マルス君は確かにちょっと間違っちゃったかもしれない。でも、まだ何とかなるよ。だってノゾム君も私たちもまだここにいるんだよ?」
ティマの言葉にマルスはハッとした表情で顔をあげた。
もういなくなってしまった彼の本当の父親との時間はもう進めることができない。父親が逃げ出してしまった以上、マルスは自分の心の中の怒りを本当に向ける先がないのだから。
だが、ノゾムとのことはまだ間に合う。彼はまだこの街にいるはずだし、マルスも内心、一度友人に会いたいと思っているから。
「……間に合うかな?」
それでも内心ある不安は消えないのか、マルスが確かめるようにティマに尋ねると、彼女は強い口調で答えた。
「間に合う。ううん、間に合わせようよ。もう一度ノゾム君に会って、今度はちゃんと言おうよ。“お前なに隠してんだ!”って」
「はは……。それ、俺の真似か?」
マルスの口調を真似するティマの様子がおかしかったのか。彼の顔に笑みが浮かぶ。
マルスはもう一度目を閉じ、心の整理をつけるように深呼吸する。
まるで今までの自分を洗い出すように大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出すマルス。息を吐きつくした彼は意を決したように眼を見開くと、力強く立ち上がった。
「……そうだな。あいつにもう一回会って、謝らないと。そして言ってやらないとな。“俺達に隠し事してんじゃねえ!”って」
マルスの顔に不敵な笑みが浮かぶ。いつも彼の表情だ。
その顔を見たティマの顔にも笑みが浮かぶ。2人の考えていることは一つ、
“もう一度ノゾムに会い、頭を下げて謝り、その上でノゾムに隠していることを話してもらう”
「じゃあ、とにかくノゾムの奴を見つけねぇといけないな……」
「そうだね。アイ達は街中を探しているから私たちは……痛!」
2人は、話が決まれば、善は急げとばかりにノゾムを探そうとする2人。しかし、立ち上がろうとしたティマの顔が歪み、彼女の体がよろけた。
慌てて彼女の体を支えたマルスの目に飛び込んできたのは、ティマの足首が真っ赤に腫れ上がっている光景だった。
「お前……その足」
マルスが呆然とした顔でティマの足首を見つめていた。
次の瞬間、彼の表情が厳しいものに変わる。その怪我が、自分がノゾムを殴る時に彼女を突き飛ばしたことが原因だと分かったのだ。
「え!? あっ! だ、大丈夫だよ。さっきまでは痛かったけど、今はあまり痛みを感じなくなってるし……」
自分の足の怪我に気付かれたことに慌てたティマは、なんとか言い繕うとするが、マルスはそんなティマを一喝する。
「馬鹿! いいわけないだろ! それって酷くなってるってことだぞ!」
「えっ! ちょっと! マルス君!?」
マルスは彼女の肩と足に手を入れて抱き抱えると、一目散に走り始めた。目指す先は牛頭亭。
彼の頭はとにかく彼女の手当てをしなければという思いで一杯で、お姫様抱っこのせいで真っ赤になったティマの顔は映っていない。
「とにかく! 今はすぐに家に戻って治療するぞ!」
「え、あっ! 待って待って! ……きゃああああ!」
うろたえるティマの悲鳴を聞き流しながら、夜の街を疾走するマルス。
ちなみに、牛頭亭に到着してティマの治療をした後、ハンナとエナに叱られた彼は、お姫様抱っこについても2人から散々追及され、2人そろって顔を真っ赤にさせていた。




