第5章第10節
お待たせしました。今回はソミアとのデート編前半です。
放課後の正門前、俺はここでソミアちゃんとデートの待ち合わせをしていた。
今日の朝、彼女が言い放った一言はその場にいた全員の度肝を抜き、姉のアイリスに至っては明らかに狼狽した様子でソミアに詰め寄っていた。
だが、ソミアちゃんはそんな姉の様子を全く気にすることなく“ノゾムさん、いいですね?”と尋ねてくる。
口調は丁寧だったが、彼女の有無を言わせぬ雰囲気に呑まれた俺は思わず頷いてしまい、肝心のソミアちゃんただ一言“ノゾムさん、よろしくお願いしますね”と言うとさっさとエクロスの校舎に走って行ってしまった。
その場に残された俺達はただ茫然とするだけだったがアイリスの様子は特にひどく、ティマが声を掛けて身体を揺すっても全く気付かなかった。
やがて気が付いたのか、彼女はゆっくりと振り返って俺の両肩に手を置くと、顔をこれでもかと近づけて“くれぐれも間違いが無いようにな”と凄まじくドスの聞いた声で言い含めてきた。
その時の覇気たるや怒った師匠に匹敵するのではと思えるほどで、俺は思わず何度も何度も間抜けみたいに頷いてしまっていた。
「……まあアイリスの気持ちも分かるけどね。たった一人の大事な妹が多少知っている相手とはいえ男とデートなんて聞いたら心配にもなるだろうし」
そういえばデートなんてずいぶん久しぶりだ。リサと付き合っていた時は優秀なリサやケンに追いつきたくて、ひたすら訓練、訓練の日々だった。
もちろんデートに行った事もあるけれど、俺自身弱かったから訓練に時間を割いていたためにあまり機会はなかった。
「…………」
あの日々を思い出すと胸がズキンと痛む。昔の事を思い出そうとするといつもこうだ。もう戻らないと分かってはいるし、ケンやリサに対して“何でなんだ!!”という感情も湧き上がる。
だけど、結局その激情が過ぎ去った後には、いつも途方もない寂しさとむなしさに襲われる。自然と手が胸元に伸び、掻き毟るようにギュッと強く胸元を握りしめていた。
「ノゾムさ~ん!お待たせしました!」
俺が過去への思いにふけっていると、大きな声とともにエクロスの校舎の方からソミアちゃんが走ってきた。
いつも通り元気いっぱいの彼女。彼女に気負った様子は特になく、多分恋人同士とかそういう考えよりもお友達と一緒に遊びに行く感覚なのだろう。
「ハアハア、ごめんなさい。お待たせしましたか?」
「いや、そうでもないよ。俺もついさっき来たばかりだし」
よほど急いできたのだろう。全力で走って来たソミアちゃんの額には大粒の汗が浮かんでいた。
俺はハンカチを取り出して彼女の汗を拭う。
「随分急いできたんだね。そんなに焦らなくてもいいと思うけど……」
「あ、ありがとうございます。でも一緒に遊べる時間が短くなるじゃないですか」
俺の答えが不満だったのか、ちょっと不満げな顔で抗議してくるソミアちゃん。
「まぁ、そうだけどね。それじゃあ、そろそろ行こうか」
「はい!」
先程の不満げな顔をにこやかな笑みに変えた彼女が、元気のいい返事と共に俺の腕に飛びついてきた。
これからのデートが楽しみで仕方ないのかグイグイと手を引っ張ってくるソミアちゃんの様子に当てられたのか、俺の先程までの陰鬱な思いも吹き飛び、頬も緩んでくる。
ただ気になるのは、校舎の陰からこちらを覗いている複数の気配の塊があり、俺がこの正門前に来たころから監視してきているのだ。
おまけにその気配は俺がよく知る人達の物だったりする。
(……アイリス達何やってるんだ? おまけにその後ろにはフェオの気配もするし……)
おまけにアイリスがいる方からはさっきから尋常でない視線が俺に向けられている。
あまりに視線がピンポイントで俺に向いているせいなのか、隣にいるソミアちゃんはアイリス達が覗いていることに全く気付いていない。
「どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもないよ」
俺の腕を引っ張っていたソミアちゃんが怪訝な顔をして振り返るが、俺は努めて後ろの気配に気づいていないふりをしながら足を速める。
(……変なことにならなければいいけど)
だがいくら表面上を取り繕っても後ろの気配が消えるはずもなく、しかも俺達を追って移動し始めたのを確認したことで、俺の抱える不安は増していった。
ノゾムが感じた気配の内の1つ。
その場所ではソミアの姉であるアイリスディーナが街に向かって歩き始めた2人に食い入るような目線を向けていた。
「…………」
「ねえアイ、止めようよ……」
「…………」
「……ダメだ。聞いちゃいないぜ」
「あう……」
親友の言葉に全く聞く耳を持たないアイリスディーナに困ったのか、ティマがカクッと肩を落とす。
「大体、そんなに心配なら一緒についていけばいいじゃねぇか」
「マルス君、それは流石にダメだと思うよ。女の子とのデートで「ソミアに“ダメです! 姉様!!”って断られた……」……ってアイもついていこうとしたんだ……」
マルスの無神経な発言に苦言を漏らすが、アイリスディーナもまたソミアに付いて行こうとしたらしい。
(アイ、ソミアちゃんを心配なのは分かるけど行き過ぎだよ……マルスくんもどうして2人きりのデートでそんなこと言うかな……)
色々とズレている2人の頭痛を感じたティマは頭を抱えるしかなかった。
確かにアイリスディーナにとってソミアは目に入れても痛くない愛妹だ。以前、フランシルト家とウアジャルト家との契約によってソミアの魂を奪い取られそうになった時、彼女は自分の家よりも可愛い妹を優先した。
それを考えれば彼女が男とデートする妹を心配する気持ちは分からなくはないが、相手はあのノゾムである。
彼の人柄を考えれば、ソミアを傷つけるなんてことは考えられないのだが……。
「……ううん。むしろ相手がソミアちゃんだから心配なのかな?」
「……?どうしたんだ?」
「う、ううん!何でもな「あっ!!」……え?」
自分の思考を巡らせていたティマがマルスの呼びかけに慌てて答えようとした時、アイリスディーナの驚いたような声が響いた。
自分が考えていたことを一時中断したティマがアイリスディーナの視線の先を見ると、そこにはソミアに腕を引かれながら街に繰り出すノゾムの姿があった。
「追いかけるぞ!」
「え? ちょっとアイ! 待って!」
「お、おいお前ら!!」
ノゾム達を追いかけ始めたアイリスディーナに、ティマ達は置いて行かれまいと慌てて彼女の後に続く。
だが、ノゾム達に意識を向けているアイリスディーナ達は更に自分の後ろにいる影に気付かなかった。
「……やっぱおもろい事になったな。あんな必死な黒髪姫なんて見たことないで」
「だね! あんなに必死になっちゃって。可愛いところあるじゃん!」
そこにいたのは孤尾族のフェオと山猫族のミムル、そして彼らに引っ張り込まれたトムだった。
フェオとミムルにいたっては完全な野次馬気分であり、さっきからノゾム達とアイリスディーナ達に代わる代わる視線を向けながら楽しそうにニヤニヤしていた。
その胡散臭さと怪しさといったら、すぐさま憲兵を呼ばれてもおかしくないくらいで、トムはそんな2人に呆れた視線を向けながら嘆息している。
「……2人とも楽しそうだね」
「当たり前やんか! ノゾムの方も面白そうやけど黒髪姫の方も捨てがたい!」
「なら、両方を眺めることが出来る位置から双方を見守るのが得策というものよ!」
「“見守る”なんていい言葉使っているけどそれ以外は本音が駄々漏れだよ……」
フェオとミムルの建前1割、本音9割の答えにトムが突っ込むが、ノゾムとアイリスディーナ達を覗くことに夢中な2人は完全無視だった。
「……シーナの方はよかったの?」
トムが仕方なく切り札ともいえる手を打った。
生真面目なシーナがこんな覗き行為を認めるはずもないことはフェオもミムルもよく分かっており、この事が彼女に知られたら烈火のごとく怒り出すことは容易に想像できる。
トムの言葉にピクリと肩を振るわせた2人。どうやらシーナのことは懸念していたようだ。
「何言っているんや。堅物シーナがこんなこと許すと思うか?」
「そうそう、こんなことが知れたら私たちタダじゃすまないよ」
「……知られたらどうなるか分かっているのに、2人ともやめるって選択肢はないんだね」
だが結局フェオとミムルを止めることはできず、2人は覗きを再開する。
バレたら酷い目に合うと分かっているけど、今目の前の光景も逃したくない。結果的に自分達の理性より衝動である後者を取るあたり、獣人らしい選択といえる。
「おっ、ソミッちがノゾムの腕に飛びついたよ!」
「おうおう積極的やな! 黒髪姫の方からも凄い気迫が伝わってくるで!」
「……2人とも覚えてる? そろそろ特総演習が近いんだよ?」
どうしようもなく盛り上がってくるデバガメ2人。彼らの耳にはもはやトムの話など文字通り右から左に聞き流されていた。
「ん?まあそうやな。でも今は目の前の事実がすべてや!」
「そう! 私たちが生きているのは今よ! 目の前の道を全力で駆け抜けることが生きているってことなのよ!!」
「……それってある意味現実逃避ってことなんじゃない?」
(もしかしてフェオ、こうなる事が分かっていてノゾム君との訓練の約束を撤回したんじゃ?)
トムの胸の中に湧き上がった疑念がフェオに対して疑いの眼差しを向けさせる。
そんなトムの胸中を他所に、肝心の獣人2人は己の本能の赴くまま、思いっきり自分達の欲望を満たしていた。
「むっ! ノゾムと黒髪姫達が動き始めたわ! 後を付けるわよ!!」
「よっしゃ、行くで!!」
「はぁ、もうどうなっても知らないからね」
ノゾム達を追いかけ始めたアイリスディーナ達の後をつけるように、彼らもまた尾行を開始した。
「で、どこに行こうか?」
「あ、実は私ちょっと行ってみたいお店があるんです!」
ノゾムがソミアにどこに行こうかと尋ねると、すでに彼女には何か予定が会ったらしい。
「へえ、どんなお店?」
「何でも占い屋さんらしいんです。よく当たるって最近クラスの皆から聞いていたんです」
「占い屋か……どこにあるか分かるの?」
「はい、商業区にあるらしいです。場所もしっかり聞いてきました!」
そう言ったソミアはポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。どうやらこれがそのお店までの地図らしい。
「じゃあ、まずはそのお店に行ってみようか」
「はい!」
ノゾムはソミアの元気な声と笑顔に釣られたのか、彼の顔も自然と微笑んだ。それは本当に久しぶりの、彼の心からの笑顔だった。
そして増大する背後の物陰から感じる威圧感。
(問題は後ろにいるみんなか……)
ノゾムが内心ため息をつき、ちらりと自分の後ろに目を向けると、店の看板の陰に傍にいる少女とよく似た黒髪がはみ出ていた。
傍にロッドと大剣の柄が見えたところ、どうやらマルスたちも一緒らしい。おまけにその後ろの建物の影には金色の尻尾と茶色の尻尾が覗いている。
(……あいつが訓練の約束を取り消したのって、もしかしてこのためか?)
ノゾムもまたトムと同じようにフェオが訓練を取りやめた理由に疑問を持った。
彼が楽しいことなら何でもするし、それゆえにやや暴走することがあると身を持って知っているため、彼のフェオに対する疑いはほぼ真っ黒である。
(……どうする? いっその事、つけられていることをバラすか? でもそうするとこのデートはダメになるし……)
せっかくソミアが誘ってくれたので、このデート台無しにしたくないと思ったノゾム。とりあえずソミアの目を盗んで尾行している全員に目線を飛ばしておく。
覗いていることに気付いているぞとこちらから示すことで、これ以上尾行出来ない様にしようとしたのだ。
彼の手は功を奏したのか、覗いていたみんなの姿が消える。もっとも気配は消えていない以上、尾行そのものは止めていないようだが、とりあえず距離は離すことができた。周囲には通行人も多い以上、簡単にこちらの様子を窺うことは出来ないだろう。
ノゾムはとりあえず胸をなでおろすと、再びソミアと一緒に歩き始める。
「どうかしたんですかノゾムさん?」
「いや、何でもないよ。それより先を急ごうか、あんまり遅くなってお店が閉まってしまったら元も子もないし」
「あっ、そうですね。それじゃあ行きましょう!」
ソミアが再びノゾムの腕を引っ張ると、彼はその小さな手に引かれるまま少し足早に歩き始めた。
歩き始めてからしばらく経ち、ノゾムとソミアは目的の店にたどり着いたが、2人が行き着いた店は端から見ても異様な雰囲気だった。
「……ソミアちゃん、本当にこの店なの?」
「はい! お店の外観が友達の話と一致していますから間違いありません」
「でも、このお店って……」
ソミアに本当にこのお店なのかと確認していたノゾムだが、彼女の肯定の言葉に再び目の前の店に目を向ける。
店自体の大きさはさほどでもない。店舗ではなく露店と言った方が良いだろう。机に並べられたカードと水晶。壁に隙間無く欠けられたお札や魔除けのアクセサリー。そして店の中央に鎮座する山羊の髑髏。
もはや、店主が何を目的にして集めたのかも分からない数々の品がごった返し、正しく混沌を体現した店内。
一度見たら忘れられない店構えにノゾムは見覚えがあった。そしてその店の店主についても。
「おや、お客さんかの」
「……やっぱり」
店の奥から現れたのは以前アイリスディーナにセクハラ紛いなことをしようとした老人、ゾンネだった。
「何じゃお前か、小僧。ワシは見ての通り忙しいんじゃ。さっさと帰った、帰った」
「いきなりずいぶんな挨拶だな、エロ爺。どう見ても暇にしか見えないぞ」
ノゾムを見るなりぞんざいな態度を取るゾンネに、ノゾムもまたいつもの彼らしくない不躾な言葉を返す。自分の師匠であるシノとよく似た雰囲気を持ち、ある意味遠慮の要らない人物であると知っているが故の態度だった。
「ふん! 最近の若者は年長者に対する礼儀を知らんの~。とても先達にたいする態度ではないわ」
「アンタが尊敬に値するところを見せれば話は別になるよ。もっともこの前の醜態を見る限り、まずあり得ないけど」
以前、ノゾム達が学園に登校している最中に現れたこの老人は、その有り余る性欲に身を任せたまま、一緒に登校していたティマに手を出そうとした。
その前に会ったときは、アイリスディーナに占いにかこつけて触れようとしたこの老人。アイリスディーナに並ぶ美貌を持つティマにも当然のごとく目をつけた。
「何を言っておるか。男とは常に女性という花とその奥にある至高の蜜を求める者なのじゃ。そしてその花を守り、手に入れるために戦い続けることが男という者じゃ」
「でも爺さん、この前はマルスに脅されて一目散に逃げ出したよな」
「…………」
ノゾムの突っ込みにゾンネが黙りこくる。
元々気弱で男性が苦手なティマが牡の本能のままに突っ走るこの老人に対して強気に出られるはずもなく、彼女は詰め寄ってくるゾンネにビクビク怯えていた。
しかしその時、ゾンネの所業を止めに入ったのがノゾムとマルスであり、その時のマルスはかなり頭に来ていたのか自分の大剣を引き抜こうとまでしていた。
さすがに武器はマズイと思ったティマとソミアが止めに入り、その隙にこの老人は一目散に逃走。結局マルスがゾンネにヤキを入れることは出来なかったが、少なくとも出会い頭の女性をナンパした上に失敗し、しかもその後なりふり構わず逃げ出す姿に、この老人の言う男の姿はとても感じられない。
「……まあ、戦いは引き際も大事なんじゃ……」
「…………」
明後日の方向に視線を逸らし、聞こえないような小さな声で呟くゾンネ。そんな彼をノゾムはジト目で睨み付けている。
「そ、それでこの店にいったい何の用じゃ」
慌てて話を逸らそうとするゾンネにノゾムの口からため息が漏れるが、隣にいたソミアに視線を送ると、彼女は元気よく一歩前に出た。
「あ、あの。私を占って欲しいんです」
「ほう、占いとな。良い目利きしとるの、お嬢ちゃん。将来有望な未来の美女の頼みじゃ、もちろん占って進ぜよう」
「あ、ありがとうございます!」
「どれ、ではまず手の平を「それは無しだぞ」なんじゃい小僧。邪魔するでな「やったら分かるよな……」さあお嬢さん!この水晶に触っておくれ!!」
アイリスディーナの時のように占いにかこつけて触れようとしたゾンネをノゾムが牽制する。もちろん実力行使を匂わせるために刀を抜く仕草をするおまけ付きで。
案の定、ソミアが水晶の置かれた机を挟んでゾンネの向かいに座った時、ノゾムは背後に隠れている彼女達からの視線が妙に強まったのを感じていた。
もしノゾムが目の前の老人を牽制しなかったら彼女の姉様がこの場に突撃してきたかもしれない。
ソミアが水晶に触れると、水晶が淡い光を放ち始めた。水色から赤、紫、灰色と変化していき、やがて光りが消える。
「ふむ、お嬢さんは今悩んでおるようじゃ。灰色という曖昧な色がその証拠じゃ」
「……はい。そうですね」
「初め水色はお嬢さん自身を意味し、赤はお嬢さんの目標、紫の色は不安を意味する。お嬢さんが悩んでいるのはその辺りにありそうじゃ」
真面目に占い始めたゾンネにノゾムは多少驚きながらも、刀の柄に掛けていた手を離し、ゾンネの言葉に耳を傾ける。ゾンネの言葉を聞いたソミアは彼の言葉を肯定するように黙って頷いた。
ノゾムはそんな彼女の様子を驚いた目で見ている。彼が見る限り、ソミアはいつも元気一杯で悩んでいるような様子を見せたことはなかった。
それと同時に、実は彼女が無理をしていて、いままでその悩みを押し殺していたのではないかとのではないかと思うと、ノゾムの胸が痛んだ。
「…………」
そんな彼の胸中を余所に、ソミアは黙ってゾンネの次の言葉を待っていた。
「おそらく悩んでいるのは赤に関してのことじゃろう。赤は気力や活力を意味するが、お嬢さんの場合は自身の目標についてかの? 不安と迷いという色が現れている所を見るとかなり悩んできたようじゃ……」
ゾンネの言葉に再びソミアが頷いた。
「じゃが、苦しくても、その不安と迷いはどちらもお嬢ちゃんにとっては大切な物であり、君はまだ幼い。目標に向かって走り続けるのも良いが、時には後ろを振り返ることも必要じゃないかのう。迷いがあるなら、今はその大切な物を見失わないようにすること。不安があるなら一人で抱え込みすぎないことが肝要ではないじゃろうか? 人間、一人で生きるには弱すぎる生き物じゃからの……」
「……はい」
「なに、お嬢さんには大切に出来る人がおるのじゃろう? なら大丈夫じゃ。お嬢ちゃん自身の色は水色。明るく、優しい色を持つ君は、誰かを大切に出来る優しい娘じゃからの……」
まるで祖父が孫に話しかけるように優しい笑顔でソミアに語りかけるゾンネ。ノゾムは今まで見てきた好色爺の姿ではないゾンネの姿に驚くと同時に、僅かの間にソミアの悩みを見抜き、解決の糸口を提示した彼に感心していた。
自分が彼女の悩みを聞いたとしても、ここまでキチンとかみ砕いてソミア自身に説明し、少しでも心の重りを軽くしてあげることが出来たであろうか?
「あ、ありがとうございます! えっと、お代は……」
ゾンネにお礼を言って自分の財布を開こうとするソミアだが、そんな彼女をゾンネが制止した。
「気にせんでいいんじゃよ。お嬢ちゃんは初めてみたいじゃから今回はサービスじゃ。あ、でもお嬢ちゃんが良いなら10年後くらいにワシとデートなんてどうじゃ!? お嬢ちゃんは将来がとても有望じゃから、もしデートしてくれるならお爺ちゃん何でもしちゃうぞ!!」
「え、ええっと……「いい話をしたと思ったらこれか!!」あっ!」
ソミアの悩みを聞き、解決とまでは行かないものの彼女の憂いの一つを払ったゾンネを見直していたノゾム。だがそんないい話の直後に幼いソミアのナンパし始めたことで、ノゾムは一度上げたゾンネの評価を一気に下方修正した。
老人の悪行を止めるために実力行使をとるノゾム。打ち下ろした手刀に手加減は当然無い。
「げふぅ!! 何するんじゃ!会う度にワシの頭を叩きおって!」
「だからそれはこっちの台詞だ!!アンタ女性に会う度にナンパしなきゃ気がすまないのかよ!!」
「何を言うか、ワシにだって分別くらいあるわい! ちゃんと声をかける女性は選んでおるわ!!」
「どんな分別だよ、それは!」
ノゾムにぶたれた頭を両手で押さえながら涙目で抗議するゾンネ。ノゾムもまた目の前の老人に対して遠慮など欠片もない所為か、いつのもの彼らしくない大声を張り上げており、周りの通行人が何事かと振り向いている。
「もちろん始めに見目麗しい女性じゃ、この間の黒髪の麗人などはマジでワシ好みじゃの! 何でお主のような小僧と一緒におったのかはわからんが。全く、彼女の様な素晴らしい女性ならワシのようにもっといい男もおるじゃろうに……」
「こ、このエロ爺……」
「ま、まあまあ、ノゾムさん」
再び刀の柄に手を伸ばすノゾムをソミアがなだめている。
ノゾム自身、自分がアイリスディーナとは釣り合わないというのは分かっている。
アイリスディーナは非常に魅力的な女性だ。否の付けどころのない容姿、高潔な思想、それを貫ける意志。ハッキリ言って高嶺の花過ぎる。
過去の夢に逃げ、目の前の現実を知ろうとしなかった自分と比べる事自体おこがましいのは理解しているが、それでも目の前の爺に言われると男として妙に腹が立った。
「次はこのお嬢さんのように将来有望な女の子じゃの。あ、お嬢さん、勘違いせんで欲しいでじゃが、ワシは幼い花を手折る様な外道ではないぞ! 幼子は手折るものではなく、愛でるものじゃ。未だ咲かぬ花が将来どのような色を見せてくれるのか……それを辛抱強く待つのも男の甲斐性というものじゃ!」
「……やっぱり斬った方が良いな、この爺さん。どうせ師匠と同じで死なないだろうし」
「ノゾムさん! 抑えて! 抑えて!!」
刀の鯉口を切るノゾム。今にも抜刀してゾンネに斬りかかりそうな彼を必死に止めようとするソミア。
「そして、最後は散ってなお美しさを保つ花達じゃ。たしかに彼女達には往年の美しさはもうない。歳月は彼女達から白き肌と美しい髪を奪い取ってしまった。花を花足らしめる花弁を失った彼女達の絶望は如何ほどだろうか……」
両手を天高く掲げ、まるで世紀の大演説をするかのようなゾンネ。周囲の通行人から変なものを見るような視線が突き刺さっているはずなのだが、老人は自分の世界にのめり込んでしまっているのか周囲の視線を全く意に介していない。
「しかし、それにもかかわらず人の目を引き付ける彼女達。かつての美しさを失ってなお輝ける彼女達は既に時の流れですら簡単に奪えぬ花を手に入れたことの証左! ならば、その犯せぬ花を手に入れた彼女達には、もはや尊敬の念しか浮かばん!」
話の内容自体は素晴らしいのかもしれない。見た目ではない中身が素晴らしい人物に対する賞賛。
だがその賞賛も、以前の発言と行動によって底すら突き抜けた評価を覆すことは出来なかった。
「……これは良いことを言っているはずなのに、その前の話を聞いている所為で全部台無しになっている……」
「あ、あははは……」
「なんじゃい、人がせっかくいい話をしとったのに……お主、あんな目が覚めるような美女はまずお目に掛かることは稀じゃぞ。ワシがお主じゃったら即座に求婚しとるわ」
「相変わらず見境無いな、アンタ! もうちょっと自重したらどうだよ!!」
「何を言っておるんじゃ、相手に伝えないよりはマシじゃよ。隠し事は時に自分も相手も傷付けるからの。ならワシは隠すより伝える方を選ぶ。そっちの方がまだ希望があるからの。そしてもし隠すなら、相手に毛ほども気付かれぬように徹底的に隠すわい。中途半端が一番残酷なんじゃよ。相手にとっても自分にとっても。以前ばあさんに隠していた春画が見つかってえらい目にあったからのう……素直に持っていると言っとけばよかったわい。あの春画、ワシのお気に入りじゃったのに……」
「…………」
その時何があったのかは分からないが、何やら遠い目をして物思いにふけるゾンネ。なんとなく眼が潤んでいるように見える。
だが、ノゾムはそんな過去に思いを馳せるゾンネは視界には入っていなかった。
老人の口から発せられた言葉にノゾムは胸を突かれた様な気持ちになっていた。隠し事をしながらもそれを伝えられずにいるのは他でもない自分自身だからだ。
ゾンネの言うことは確かに破天荒で無茶苦茶ではあるが一理ある。それが分からないほどノゾムは愚かではないし、今の自分自身を見ることが出来ている。
だからこそ何も言えなくなってしまった。未だに逃げている自分を誰よりも自覚し、そしてどうしようもない袋小路に入り込んでしまっていること。そして何よりその事に苦しんでいるのは彼自身だから。
「ん、お嬢さんそろそろ店じまいの時間じゃ、また来ておくれ。可愛い娘は大歓迎じゃ」
「あ、はい。ありがとうございました!」
ソミアが笑顔でゾンネに挨拶をしている時も、ノゾムはただ黙って彼らを見つめていた。
まるで自分の中にどうしようもない感情を押し込めようとするように。