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閑話 アイリスディーナのお手伝い

 とある休日の午後。アイリスディーナ・フランシルトは1人で街中を散歩していた。

 颯爽と通りを歩く、類まれな美貌を持った麗人。

 春の穏やかな風が、彼女の長く艶のある髪を撫で、太陽の日差しが漆黒の瞳を際立出せている。

 何よりその身に纏う凛としたオーラが、彼女の周りだけを別世界の様に切り取っていた。

 道行く人々は彼女の容姿に見惚れながらも近寄ることもできず、その周囲は閑散としており、額縁で切り取った一枚の絵画のようだった。


「んっ……いい天気だ。こんないい空なんだから、ソミアも誘えばよかったかな?」


 普段は休日でも鍛練を欠かさない彼女だが、今日は最低限の鍛練に留め、息抜きもかねて街に繰り出していた。

 妹も誘ってみようかと思ったのだが、家で何やら忙しそうにしていたので遠慮して1人で街に散策に出たのだ。

 あてもなくただアルカザムの街を歩く。

 フランシルト邸がある北区画から町の中心にある中央公園に出て、そのまま南の商業区へ。

 大陸中から集まる名品、珍品を眺めながら、商業区を一通り見て回った後、今度は西側にある職人区へと足を向ける。

 職人区ではこのアルカザムを支える様々な職人たちが日々仕事に励んでいる。

 その職種は石工職人や大工、パン職人や仕立屋など生活に直結する職人から、宝石職人やガラス職人などの高級品を扱う職人など様々だ。

 しかし、彼らが自らの命を懸けて生み出す品々の数々は、幼い頃から一流の品を見てきたアイリスディーナの目を唸らせるものもある。

 時には思いもよらない掘り出し物に出会う時もあり、アイリスディーナにとってもこの地区の散歩はかなり楽しみだったりする。

 足を止めないようにしつつも、道端に並べられた数々の品に目端を利かせていた時、アイリスディーナの目に思いもよらない人物の姿が飛び込んできた。


「彼は……」

 

 彼女の目線の先にいたのは、大きな包みを背負って歩いている人の後姿。

 背丈を覆うほどの荷物を背負っているので、背格好まではよく分からないが、背負った荷物の下から覗く足を見る限り、男性のようだ。

 アイリスディーナがそっと荷を背負った男性の後ろに近づき、声を掛ける。


「……ノゾム?」


「え、アイリス? なんでこんな所に?」


 思いもよらない人物に声を掛けられ、ノゾムが驚きの表情で振り返る。

 ノゾムとしても、まさかここでアイリスディーナに声を掛けられるとは思いもらなかった。

 アイリスディーナはこの職人区で作られる品を買いに来たのだろうと考えたノゾム。

 フランシルト家の令嬢である彼女なら確かに商業区の職人の品を欲するときもあるだろうが、品の注文や配達は職人かメイドの仕事だ。主である彼女本人が直接赴く事はあまりないだろうと考えていたので、ここに彼女がいることには少し驚いている。


「私は時間が空いたから散歩をしているんだよ。ここの職人たちの品は本国と比べても質が高いからね。ただ歩いているだけでもそれなりに楽しめるんだ」


 普段と同じように背筋を伸ばし、口元に笑みを浮かべながら、ノゾムの問いかけに答える。その笑みも決して不快感を煽るものではなく、むしろ彼女の魅力をさらに高めていた。

 相変わらず、周囲にいる人間を惹きつけて止まないアイリスディーナ。学園の生徒達と同じように、周りにいる職人達も彼女に見惚れていた。もちろんノゾムも。


「そ、そうなのか……」


 気の抜けた返事を返すノゾムや、周囲の様子を知ってか知らずか、アイリスディーナは先程感じた疑問を彼に投げかけてみた。


「君はここで何を?」


「仕事だよ。ギルドから雑務系の依頼を受けているからね」


「そうか、君は生活費を自分で稼いでいたのだったな……」


 そう言いながらノゾムは背中に背負った荷物に目を向ける。彼が背負った麻袋の中には、赤い色をした草がこれでもかと大量に入れられていた。


「……ノゾム、この草は一体何に使うんだい?」


「服の染料。この先にある仕立屋に頼まれてね。服の染付を手伝って欲しいそうなんだ」


 服の染付は、この地区では植物から絞り出したエキスに生地を漬け込んで行われる。

 大量の生地を染め上げるには大量の染料が必要であり、ノゾムは染料を作るための植物を運んでいる途中だったのだ。

 一通り事情を聴いたアイリスディーナがしばし考え込むような仕草をする。


「……ノゾム。その仕事、私も手伝ってもいいかな?」


「え? な、なんで?」


 いったい何を考えているのかとノゾムが首を傾げていると、アイリスディーナは彼に自分も手伝おうと言ってきた。

 

「私はこのような雑務系の仕事をしたことが無いんだ。でも、フランシルト家当主としてこれから先、民の生活に直接関わることは少なくなってしまうかもしれない。だから、今の内に、私達を支えてくれている民達の事を色々と知っておきたいんだ」


 ノゾムがいったいどういう事かと疑問に思っていると、アイリスディーナがその疑問に答えてくれる。

 彼女としても正式に当主となれば政務に追われることは目に見えている。彼の父親が健在である内はその心配はないが、いつ何時、どんなことが起こるか分からない。

 それに、彼女の目標の1つは銀虹騎士団に入団することだ。

 この大陸でもっとも有名な騎士団に所属することになれば、フランシルト家の当主にならなくても騎士団の任務に追われることになる。

 だからこそ、彼女は学生であるこの時間を一分一秒でも大切にしたかった。


「……わかった。先方に聞いてみるから、付いてきてくれ。人手が必要なのは確かだし、俺も頼んでみるよ」


「うん、よろしく頼むよ。ノゾム」


 ノゾムの答えにアイリスディーナは笑みを浮かべる。

 アイリスディーナの真摯な頼みをノゾムは断る気にはならなかった。

むしろそんな一途で真っ直ぐな彼女に好感を持っていたノゾムは進んで力を貸そうと思い、彼女を連れだって歩いて行った。








 染付の作業場についた2人を出迎えたのは恰幅のいいおばさんと仕立屋の主人の中年男性だった。作業場では既に仕立屋の手伝いに来ている近所の主婦達が作業をしている。

 結果から言えば、アイリスディーナの頼みを仕立屋のおばさんは快く受け入れてくれた。彼女としても人手が欲しかったところだし、アイリスディーナの真摯な頼みを断る理由はなかったからだ。


「じゃあ、まずはこの草の葉を毟っておくれ。あんたはこっちで毟った葉をすり潰すんだよ」


 アイリスディーナの仕事は単純。目の前に山の様に積まれた赤い草を細かくちぎること。ノゾムの仕事はちぎった草をひたすらにすり潰すことだった。

 手伝いの主婦達は慣れた手つきで次々と草の茎と葉を分けていく。アイリスディーナもそれに習う様に紅い草をちぎり始めた。


「その年でこの街にいるってことは、もしかしてお嬢さんはソルミナティの学生さんかい?」


「はい、そうですね。若輩の身ではありますが、あの学園で様々なことを学ばせていただいています」


「そうかい! いや~そうじゃないかなって思っていたんだよ。あの男の子も同じ学園の生徒さんみたいだし……」


 そう言いながら、アイリスディーナは作業場の奥にいるノゾムに目を向ける。

 彼は人一人がすっぽり入りそうな程の大きなすり鉢と長いすりこぎ棒で赤い草をひたすらすり潰していた。

 大量の草が入っている鉢をかき回すのは容易ではないのか、ノゾムは全身の力を篭め、すりこぎ棒で鉢の中身をかき回している。

 しかし、次から次へと草を入れられても、ノゾムは手を止めない。体重を上手く利用して投入され続ける草をどんどんすり潰し、染料となる赤い汁を抽出していく。

 額に汗を流しながらも、器をかき混ぜる手を止めないノゾム。真面目に作業をしている彼の様子を横目で眺めながら、アイリスディーナはノゾムに触発される様に作業に集中する。

 赤い草を一本一本丁寧にちぎり、分けていく。段々慣れてきたのか、彼女の作業速度も徐々に上がってきた。

 まだ周りにいる主婦たちに比べれば遅いが、彼女は10分もすればそれなりの速度で作業をこなせるようになっていた。


「へえ、覚えるのも早いね。この草は筋が硬いからちぎるのもちょっとしたコツがあるんだけど」


 その手際よさに感心するおばさん達。こんな所でもアイリスディーナはその才覚を発揮していた。

 ちょっと方向性がずれている気がしないでもないが。


「それに、すごく綺麗な顔をしているね。こんな綺麗な娘は見たことないよ。どうだい、うちの息子の嫁に来ないかい?」


「何言ってるんだい。嫁に来るならこっちだろう。あんたの所のドラ息子じゃこの子を幸せになんてできないよ!」


 真剣に作業をしているアイリスディーナを気に入った主婦のおばさん達がとんでもない事をアイリスディーナに提案してくる。

 その話に触発されたのか、周りにいる主婦たちが次々と自分の家の息子を紹介しようとしてきた。


「すみません。皆さんのお話は嬉しいのですが、私自身まだ身を固める気はありませんので、お断りさせていただきます。皆さんはこんなにしっかりされていらっしゃるのですし、御子息もそう心配されずともよろしいのではないでしょうか」


 だが、アイリスディーナは主婦達にはっきりとお断りを申し上げる。

 相手を不快にさせない程度に持ち上げつつ、自分の意思をしっかり伝える辺り、さすがと言える。


「あらら、振られちゃったわね。まあ、こんないい娘ならうちの息子よりいい子を見つけるでしょうし……」


「それもそうね。ところで、あなたはどうなの? 結婚なんて早いって考えていても、気になる男の子ぐらいいるんじゃない?」


「そうそう! 誰かいるんでしょう~!? よかったら聞かせてくれないかしら」


 元々本気ではなかったのだろう。主婦たちはアイリスディーナの返答を聞いてあっさり引き下がった。

 しかし、今度はアイリスディーナ自身の恋バナへと発展してしまう。

 さすがは噂好きの主婦達というべきなのだろうか。

 普段の安穏として退屈な日常の中で見つけた話のネタに集まるその姿は、まるで砂糖に群がるアリのようだった。


「ふふ……。さて、どうでしょうか?」


 しかし、アイリスディーナも負けてはいなかった。

 社交会で鍛えられたポーカーフェイスと弁舌で群がるおばちゃん達の追及を躱し切る。


「分かった! あそこにいる男の子でしょう! 今日一緒に来ていっしょに仕事をするくらいなんだから!」


「そうね! きっとそうよ!」


 1人の主婦がノゾムを指差してアイリスディーナに詰め寄ると、他のおばちゃんたちも確信を持ったように後に続く。

 しかし、アイリスディーナ本人は至極冷静だった。


「彼には確かに色々とお世話になっていますが、想い人はいませんよ」


 興味と自分の欲求全開のおばちゃんたちの猛攻。全方位から降り注ぐ矢群の様な質問の雨はやむことなく振り続ける。

 しかし、アイリスディーナは口元に浮かべた笑みを全く変えないまま、おばちゃん達の猛烈な攻勢を華麗に躱し続ける。その姿はまさにまるで無数の軍勢を相手に一騎駆けをする英雄のごとし。


「……おい小僧」


「親方、いいから次の草入れてください。早く、さっさと、早急に」


 そんな戦場の端で、親方とノゾムは小さく縮こまっていた。

 ノゾムが親方に“何とかしてくれ!”と目線で送ると、親方が“母ちゃん怖いから自分で何とかしろ!”と無責任な返答を視線で返す。

 何とも情けない男衆である。

 しかしそれも仕方ない。噂話をしているおばちゃん達は竜と並ぶ魔獣なのだから。

 一度刃向ったが最後、押さえられている財布の紐を徹底的に硬くされ、小遣い無しの刑になるのだ。それは世の働く夫達にとって、激戦区の戦場で補給線を断たれたに等しい。

 まあ、それ以前に刃向ったことに気付いてもらえるかどうかも怪しいが。強大な魔獣は足元をうろつく蟻には気付かないものである。場合によってはうっかり踏み潰してしまっている事にも……。

 キャイキャイワイワイ騒がしい一画に極力目を向けないようにしながら、ノゾムは無心で草をすり潰し続け、親方は草を鉢に投入し続ける。あちらに視線を送ったが最後、弄ばれることは目に見えていた。

 自分に矛先が向かない事をひたすらに願いながら、ノゾムは気配を消して鉢をかき回し続ける。

 こんな真っ昼間の街中で、森にいた時以上に気配を消して、身を潜めていることに嘆きながら。







 仕事が終わり、依頼達成の確認書を受け取ったノゾム達はそのまま中央公園に来ていた。後はこの確認書をギルドに提出すれば依頼達成だ。


「ありがとうノゾム、色々勉強になったよ」


「そ、そうか……」


 いったい何の勉強になったのだろう……。ノゾムの脳裏に群がるおばさん達を華麗に捌いていたアイリスディーナの姿が過る。


「それにしても、こんなものまで貰ってよかったのかな?」


 ノゾムは頭に浮かんだ光景を務めて考えないようにしながら、手元にある大きな袋に視線を落とした。

 ノゾムの手は一抱えもするほどの麻袋を抱えていた。中には色取り取りの染料で染めた生地が入っている。あの仕立屋で使えなかった生地の切れ端だ。


「それは、何につかうんだ?」


「服の修復とか、紐代わりに使うとかかな? 古着屋に売ってもそれなりになるだろうし、使い道はいくらでもあるよ」


 服の切れ端や布地は実際いくらあっても足りない。ほつれた服の修復はもとより、鉄の防具も金属板を繋げるには布や紐を使っている。

 実際、森での生活で針は必需品だ。斬るためのナイフと結ぶための紐や糸、そして布。

 どれも道具を作る上で欠かせない物であり、ノゾムも糸を警戒線に使用したりすることがある。


「そうか……。ノゾムはすごいな。1人でいろんな事が出来る。あの森に単独で入っていける」


「そうか? アイリスディーナみたいに魔法も使えないし、それに……」


 正直、ノゾムにはアイリスディーナこそ眩しく映る。

 真っ直ぐに前を向いて自分の道を歩んでいくその姿は、今の自分には無いものだと理解しているから。しばしの間、沈黙が流れる。

 

「……ん!?」


「どうした?」


 押し黙る2人だったが、突然アイリスディーナが喘ぐような声を上げた。

 どうしたのかとノゾムが尋ねると、アイリスディーナは自分の両手を差し出してくる。そこには真っ赤に腫れたアイリスディーナの両手があった。


「いや……妙に手が、痒くて……」


「見事に腫れているな……。あっ、もしかして草をちぎった時に汁が手についたのかも」


 ノゾムの話では、あの草の汁は染料として使えるが、肌をかぶれさせるらしい。時間を置けば問題ないのだが、絞ったばかりの汁は皮膚にはあまりよくないらしい。

 手馴れているおばちゃん達は上手く汁が手に突かないように出来るのだろうが、アイリスディーナはそこまではおばちゃん達のように作業をこなすことが出来なかったのだろう。


「とりあえず、この汁は腫れるのも早いけど、治まるのも早いんだ。しばらくそっとしておけばすぐに腫れは引くと思うよ。気になるなら道具屋で売りに出されている軟膏を塗ればすぐに……ん? なんだこれ?」


 アイリスディーナに症状の説明をしている時、生地の入った袋を抱えていたノゾムの手が、何か硬いものに触れた。

 いったい何かとノゾムが袋の中を漁ってみると、小さな瓶が出てきた。中には乳白色のゼリー状のものが入っている。


「……これ、軟膏だ」


 ノゾムが手にしたのは、今まさにアイリスディーナの手の腫れに効く軟膏だった。

 おそらく入れたのは依頼主のおばちゃんだろう。アイリスディーナが腫れる汁の事を知らないと分かっていたので、このお礼の袋に忍ばせていたのだ。何とも粋な計らいである。


「アイリス。これを塗れば腫れは引くと思うよ」


 ノゾムが軟膏の入った瓶を差し出すが、なぜかアイリスディーナは瓶を受け取らない。

 いったいどうしたのかとノゾムが首を傾げていると、アイリスディーナは真っ赤に腫れた手を差し出してきた。


「ノゾム、悪いが私の手に軟膏を塗ってくれないか?」


「……え?」


 実は手があまりに痒くて物に触れられなくなっていたアイリスディーナ。彼女としては助けてほしくて軟膏を塗ってほしいと頼んだのだが、ノゾムの頭の中に疑問符が乱舞していた。

 いったい彼女は何を言っているのだろう。アイリスディーナの頼みに、ノゾムは自分の頭の熱が一気に上がっていくのを感じた。

 いいのだろうかと逡巡するノゾムだが、アイリスディーナはいつもと変わらない様子で、早くしてくれという様に手を差し出している。


「……手が痒すぎて物に触れないんだ。ノゾム、悪いが頼むよ」


「わ、分かった……」


 ようやく事情を理解したノゾムは差し出された彼女の手を見つめる。

 いつも新雪のように真っ白なアイリスディーナの肌が若干火照っているように赤くなっていた。

 瓶のふたを開けて軟膏を取り出すと、ノゾムはそっとアイリスディーナの手に軟膏を塗る。


「んっ!」


「っ! だ、大丈夫か?」


「ああ、大丈夫だよ。ちょっと冷たかったから声が出てしまったんだ」


 アイリスディーナの妙に艶めかしい声にドギマギしながらも、ノゾムは軟膏を塗っていく。

 周囲の視線がノゾム達に注がれていく。女性の手に触れている今のノゾムは、傍から見れば盛り上がっている恋人同士に見えなくもない。

 自分の状況に気付いたノゾムの顔が一気に赤くなる。とにかく周囲の目線を気にしないように心がけながら、軟膏を塗る自分の手に意識を集中する。

 しかし、手に意識を集中すると今度はアイリスディーナの手の感触がより鮮明に感じられてしまう。

 武術をしている人間とは思えないほど柔らかい手。体温はノゾムと比べて低いのか、ひんやりとした感触が自分の手に広がり、ノゾムの身体がさらに過熱する。


 対するアイリスディーナは至極冷静だ。人目に付くことになれているのか、はたまた名家の令嬢ゆえにメイド達から世話をされることになれているのか、ノゾムとは正反対に堂々としている。

 一通り軟膏を塗り終えると、アイリスディーナはホッとした様に息を漏らした。

 ノゾムは疲れたようにおおきく息を吐き出している。


「ねえねえ、お母さん。あの人達、とても仲良いよ! 恋人さん達!?」


「そうね~。恋人さんたちかしら~」


 公園に遊びに来たと思われる親子連れの声がノゾムの耳に届く。

 恋人……。

 その言葉にノゾムの顔は赤くなりそうだった。

 しかし、その言葉がノゾムの過去を掘り起してしまう。思い出される親友の裏切りと自分の元から去っていった彼女の姿が脳裏をよぎり、ぶり返した熱が一気に落ちていく。


「ふふ、恋人達か……かわいい娘だね」


「そう……だな」


 こちらに手を振る親子連れに手を振りながらノゾムに話しかけてくるアイリスディーナ。

 やはり彼女は冷静だ。いつもと変わった様子が無い。

 ノゾムもいつも通りの声色で答えてつもりだが、若干詰まったような声になってしまっていた。


「ノゾム?」


「……そろそろ行こう」


 様子が変わったノゾムにアイリスディーナが声を掛けるが、ノゾムは彼女の言葉を遮るようにギルドに向けて歩きはじめる。

 胸の奥に湧き上がる激情にも似た感情を務めて押し殺し、ノゾムは足を進めていく。

 しかし、そんな彼を引き留めるように、アイリスディーナの言葉がノゾムの背中に掛けられた。


「ノゾム。今日は私のわがままに付き合ってくれてありがとう。もしよかったら、これからも一緒にこんな仕事を私としてくれないか? 私はもっと知りたいんだ」


 掛けられた言葉は今日のお礼と、これからもこんな仕事に付き合ってほしいというお願い。

 そのお願いはノゾムの胸に湧き上がった激情を僅かに沈めた。胸の奥の黒い渦の勢いが治まり、ほんのりと温かくなっていく。ノゾムの心臓がゆっくりと鼓動して、温かい熱を全身に届ける。


「……まあ、都合がつけば付き合うよ」


 振り返りながら、ノゾムはアイリスディーナに笑いかける。

 硬くなっていた表情は、いつの間にか元に戻っていた。









「……都合がつけば、か」


 アイリスディーナは自宅への帰路につきながら、ノゾムの言葉を反芻していた。


「しかし、今日はすごかったな。あれが民の主婦というものなんだろうか……」

 

 フォスキーア国の名門貴族であるアイリスディーナは、いくら学園で普通の民たちと触れ合っていても、その生まれゆえにどうしても世俗の事情には疎くなってしまう。

 だからこそ、このままではいけないと思って彼の仕事を手伝ってみたのだが、今日はアイリスディーナにとっては新鮮な出来事の連続だった。

 本音を言えばもっと話を聞いたり、他の仕事をやってみたかったのだが、今回は仕方ない。それに彼と約束したから、今後は彼の仕事に自分もついて行ける。

 自分の手の平に目を向ける。

 ノゾムが塗ってくれた軟膏が効いたのか、もう腫れは治まっており、いつもの彼女の手がそこにはあった。

 仕立屋の主婦たちに質問攻めにあった時、彼の話が出た時、そして彼に腫れてしまった手に軟膏を塗ってもらった時、アイリスディーナの胸の奥には自分でも分からない熱が渦巻いていた。なんとなく、ノゾムと初めてデートした時よりも熱いような気がする。

 特にノゾムに軟膏を塗ってもらった時は顕著だった。

 彼女は努めて冷静なように見えていたが、単に自分の表情を偽るのは今までの社交場で慣れていただけだ。

 腫れが引いたはずの手に熱が篭もっている。

 その胸には、ノゾムに対して興味以上の感情が芽生えていた。同時に彼の元恋人についても……。

 そっと熱が渦巻く自分の胸に手を当てながら、アイリスディーナは自分の屋敷への道を歩いていった。


“もっと知りたい”


 その気持ちが何に対して向いているのかを、内心薄々感じながら。

 



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