第4章第18節
5月19日。修正及び大幅な加筆を行いました。
「ハア、ハア、ハア…………引き離したかな?」
ゴブリン達にあの黒い魔獣を押し付けて逃げ出したノゾムは、後ろから追いかけてくる気配がないことを確認して、ようやく一息ついた。
「とりあえず、これでしばらくは大丈夫……でも一応念を押しておいた方がいいかな?」
相手の魔獣の戦闘力を含めて不明な部分が多い以上、取れる手は全て取っておいた方がいいだろう。
そう考えたノゾムはシノの小屋に行く前に一箇所寄り道することを決める。
すでに陽は完全に落ち、周囲を夜の闇が覆ってはいるが、ノゾムは僅かな月明かりと星明りを頼りに歩き始めた。
森の中を歩き続けていたシーナ達は、やがてシノの小屋へとたどり着き、ミムルはトムをベットに寝かせると、棚の中から薬と治療道具を取り出し、治療を始めた。
傷口洗って糸で縫い、ポーションを振り掛けて包帯を巻く。
トムは未だ荒い息を吐いており、額には脂汗が浮かんでいた。
「………………」
一方のシーナはトムに治癒魔法を掛けているものの、先程の失態とその後始末を被ったノゾムの事が気になるのか、どこか上の空で魔法に集中できておらず、かざした両手から溢れる治癒の光も安定していない。
「……シーナ、ちゃんと集中して……」
「ッ! ご、ごめんなさい……」
ミムルに窘められ、慌てて魔法に集中するシーナ。ミムルも恋人の傷のことで頭が一杯なのか、その声はどこか硬く、そして冷たかった。明らかに彼女にも余裕かない。
やがて、荒い息を吐いて苦しそうにしていたトムの表情が和らいできた。
「……これで、とりあえず大丈夫だと思う…………」
「そう……」
手当てを終えたといっても、トムの怪我は深く、流れ出た血も多かったのか、彼は痛みが和らぐのとほぼ同時に眠りについてしまった。
トムの手当が一通り終わったので、2人は座り込んで休むが、互いに何も話せずに黙り込んでしまう。
シーナは先程の失態を気にしているのか肩を落として、床を見つめており、膝の上に組んだ手を硬く握り締めている。
ミムルの方も落ち着かないのか手がせわしなく動いており、視線は眠りについているトムから離れない。
気まずい雰囲気が部屋の中に立ち込めているが、その空気を吹き飛ばせるような事は何もなく、ただ沈黙だけが続いていく。
「……ねえシーナ。何であの時逃げようとしなかったの?」
「……え?」
やがて、ミムルがその沈黙を破って、シーナに先ほどの彼女の行動について問いかけてきた。
「どう見てもあの魔獣は異常だったじゃない。あんな魔獣、私達には手に余るってすぐに分かったじゃない。何で無茶しようとしたの?」
「そ、それは……」
シーナを問い詰めるミムルだが、その口調は強く、彼女に問いかけると言うよりも、彼女を糾弾していた。
ミムルの視線には強い怒りが込められており、その視線を向けられたシーナは言葉に詰まってしまう。
「あなたがあの時無茶しないで逃げに徹していれば、ノゾム君が無茶する必要もなかったじゃない。トムが怪我する必要もなかったじゃない!」
「…………」
ミムルの言葉にシーナは何も言えず、下を向く。
今の状況を考えれば、ミムルがこの場でシーナを問い詰め、一方的に糾弾する事は決してほめられた行動ではない。
あの黒い魔獣からは逃げ切れたが、今はまだ森の中であり、この安全も所詮一時的なものでしかない。森の中に魔獣はあの黒い獣だけではないのだ。
シーナが逃げようとしなかった理由を聞くだけならともかく、一方的に責め立てることはパーティーの完全な分裂を誘発してしまう可能性もある。
だがミムルも恋人のトムが重傷を負い、精神的に追いつめられていた故に、結果的にこの状況を生み出したシーナに対して八つ当たりをしてしまっていた。とりあえず安全な場所に逃げ込めた事で、張り詰めていた気持ちが綻んだことや、シーナが彼女の問いかけに対して何も言わずに俯いている事も彼女の怒りに拍車をかけていく。
シーナを糾弾するミムルの声が徐々に大きくなっていく。
「この……何か言いなさいよ!!」
ミムルがシーナに掴みかかるが、シーナは眼をギュッと閉じて、唇をかみ締めているだけで何も話さない。
それでも何も言わないシーナにミムルの我慢が限界に達した。
手を振り上げてシーナを叩こうとする。だがその時ガタンという音が小屋の扉の方から聞こえた。
2人の間に緊張が走る。
シーナが傍にあった弓を構え、ミムルが腰の短刀を引き抜く。
2人の頭の中に過ぎったのはあの黒い魔獣。
トムが動けず、ノゾムがいない今、あの獣に襲われたらあっという間にやられてしまう事は明らかだ。
ミムルが短刀を構えてジリジリと扉に向かい、シーナが弓を引き絞り、いつでも矢を放てるようにする。
扉がガタリと音を立てて、開かれると、そこには全身泥塗れの人型の何かがいた。
「! ミムル!!「へ?」」
シーナがミムルに呼びかけ、番えていた矢を人型の眉間目掛けて放つ。人型が何か言っていたようだが、シーナの声に打ち消されて2人には聞こえない。
「うあああああ!!」
人型が泥で出来ているとは思えない叫びと身のこなしで、迫ってきた矢を避けるが、今度はミムルが踏み込んで構えて短刀を振りぬいた。
「はあああ!!」
「ちょ、ちょっと……」
人型が何か言おうとするが、2人は気付かず、人型はミムルが振りぬいた短刀の腹を棒状の何かで叩いて逸らした。
自分の攻撃を受け流された事に驚いたミムルだが、すぐさま刃を返して斬りかかろうとする。
しかし、その直前、2人の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「待てっての! 2人とも!!」
その声に2人の動きが止まる。
よく見るとその人型は全身に泥を塗った人間であり、2人の知る人物だった。
「「ノゾム君?」」
「そうだよ。俺だよ! 何でいきなり味方からも攻撃されなきゃならないんだ!!」
3人を逃がすために黒い魔獣の囮となったノゾム。森の中を必死に走り回り、命からがらが逃げ切った彼が、声を荒げて叫んでしまったのは仕方がなかっただろう。
「い、いや。ゴメンねノゾム君」
「その……ごめんなさい……」
「……いや、もういいけどさ……」
ミムルとシーナが肩を落として謝ってくる。まあ命の恩人ともいえる相手に礼をいうどころか、武器を向けてしまったのだから彼女達の落ち込み方も仕方がないだろう。
ノゾム自身も最初は怒ったものの、今の自分の姿を考えれば武器を向けられても仕方がないと思った。
ノゾムは既に全身の泥を洗い流し、着ていた服は火で乾かした。
改めてミムルがノゾムに尋ねてくる。
「……で、ノゾム君? 何でそんなに泥まみれだったの?」
「ああ。あの魔獣に匂いを頼りに追いかけられないようにするためだったんだ」
ノゾムが森で追い掛け回された魔獣達の中には、相手の匂いを頼りに追跡してくる魔獣もいた。ワイルドドックなどがその代表例だろう。
そのような魔獣の追跡から逃れるために、川に入って匂いを落とし、泥を全身に塗り込んで体臭が外に漏れるのを防いでいたのだ。
「……それより、トムの傷はどう?」
「……手当ては終わっていて、今は寝ているよ。でもやっぱり早く街に連れて行ったほうがいいと思う……」
「…………」
「??」
ノゾムはシーナの方を見るが、彼女はミムルがノゾムの問いに答える間も俯いたままだった。ミムルもシーナの方を見たりせず、意図的に無視している。
「なあ、何かあったのか?」
「……どうかって何が?」
「いや、だから「外、見張っているわ。何かあったら呼んで……」お、おい……」
なんだか妙な空気の2人に尋ねようとするが、シーナは呼び止めようとするノゾムに答えず、外に行ってしまう。
「……どうしたんだ?」
「……知らないよ。シーナの事なんか……」
ミムルはミムルでいじけたようにそっぽ向いてしまう。
ノゾムは大きくため息を吐くと、台所から大きな鍋を取り出すと、火にかけて湯を沸かし、簡単なスープを作り始めた。
「……?何やってるの?」
「何って、食事を作ってるんだよ。こんな状況なんだ。食べれるときに食べておかないと体が持たないし……」
そう言いつつも、ノゾムはテキパキと手際よく食事の用意を整えていく、ナイフで干し肉を削って出汁を取り、小屋に保存していた芋などを入れていく。
煮立ってきたら味を見て岩塩などで味をととのえ、器に注ぎ分けていく。
「……味の方はあまり保障できないけど、とりあえず体は暖まるよ。トムの分は残してあるから、彼が起きて食べられるようなら食べさせて」
ミムルはノゾムが差し出した器を受け取るが、彼女は複雑そうな顔で手に持った器を見つめている。
「……大丈夫?」
「う、うん、大丈夫! 気にしないで……ありがとう」
沈んだ顔をしていたミムルだが、すぐに笑顔を浮かべるが、無理をしているのは傍から見ても分かった。
そんな彼女の空元気を見て何か言おうとしたノゾムだが、その時、寝ていたトムの方からうめき声が聞こえてきた。
「トムが起きたみたい。私はトムに食事を持っていくから、ノゾム君はシーナに食事を持っていってあげて。……多分、私が持っていったら、我慢出来なくて喧嘩になっちゃうと思うから……」
そういう彼女は自嘲したような笑みを浮かべている。酷く後悔しているような、悔しそうな顔。
それを見たらノゾムは何も言えなくなってしまった。
「……分かった」
結局ノゾムはシーナのスープを持って彼女のところに行くしかなかった。
私は小屋の屋根の上で膝を抱えて座っていた。
見張りしているなんて言ってるけど、そんな事は到底出来ていない。
頭の中に過ぎるのは悔しさと後悔だった。
私の故郷、フォスキーアの森が大侵攻で陥落したとき、目の前の光景が信じられずに立ち尽くしていた私の目の前に現れたのは、あの黒い魔獣だった。
姿形は今日現れた個体とは違っていたが、全身を覆っていた黒い汚泥と無数の血のように紅い眼は間違いようがなかった。
あまりのおぞましさと逃れようのない死の気配は鉄の鎖のように全身を締め上げ、私はその恐怖だけで殺されてしまうのではと思った。
そんな私を助け出してくれたのが私が大好きだった両親と姉さんだった。
「シーナ、逃げなさい」
父と母が戦っている中、姉さんは背を向けて、あの魔獣と向き合ったまま私にそう言った。
はじめ、私は姉さんが何を言っているのかわからなかったが、その言葉を理解したとき、イヤイヤと駄々っ子のように首を振って、姉に懇願していた。
“戦っても勝てない。一緒に逃げよう”と。
黒い魔獣にはどう見ても勝てるわけがなくて、戦っていた両親も姉もそれは分かっていたはずなのに、それも姉は私の懇願を聞いてはくれなかった。
必死に戦っていた両親だったけど、やっぱり勝てなかった。
父と母が殺され、次は姉さんと私の番になった。全身を両親の血で真っ赤に染めた奴は、恐ろしさのあまり動けなくなっていた私を一瞥してニヤリと笑っていた。
「しっかりしなさい! シーナ!!」
私を雁字搦めにしていた呪縛を解き放ったのは、姉の叱咤と彼女に叩かれたせいで頬に走った痛みだった。
「いい、シーナ。もう一度言うわよ。貴方は早く逃げなさい。振り返っちゃダメ。このまま真っ直ぐ走り続けなさい。私は後から追うから。」
姉さんがそう言うが、私はそれが不可能だという事はすぐに分かった。それでも姉さんは私に心配かけまいと、無理矢理笑顔を浮かべていた。
「で、でも……」
決断できない私をよそに、黒い魔獣が姉さんに襲いかかってきた。
「くぅう!!」
姉さんは魔法障壁を作り出して魔獣を押しとめていたけど、障壁にはすぐにヒビが入り、長くは持ちそうになかった。
それでも私は決断できなかった。一人で逃げることも、姉さんと一緒に戦うことも。
決断できない私の足を動かしたのは姉さんの一喝だった。
「行きなさい! シーナ!!」
大声とは無縁の穏やかな姉さんの叱咤。それを聞いた瞬間、私は姉に背を向けて全力で逃げ出していた。
「ううぅ、うわぁぁああ……」
涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながらただひたすらに走り続けた。自分の何より大切な家族を置き去りにして。
それから私は生き残った仲間たちと一緒に大陸中を放浪した。
いや、放浪したというよりも居場所がなかったがゆえにそうせざるを得なかった。
当時、大侵攻を受けた各国は疲弊し、難民を受け入れている余裕な無く、侵攻を受けなかった国々に逃げることができた者もいたが、あまりにも多かった難民たちすべてを受け入れることはできなかった。
受け入れてもらえなかった私達はあちこちを放浪しながら、痩せた土地でどうにか飢えを凌いでいくのが精いっぱいだった。
成長した私はソルミナティ学園に入学することを決めた。
あの時、何も出来なかった自分。過去の弱かった自分を変えるため。そして故郷を取り戻すため。
そして強くなった。もちろん学年の最上位ではないし、ジハード先生のような本当の意味での強さなどまったく見えてこない。
それでもここでの厳しい鍛錬の日々で、少しは弱い自分を振り切れたと思っていたのに……。
膝を抱え込んでいた腕に力が入り、ギュッと手を強く握り締める。
私のせいで、こんなひどい状況になったことを考えたら、どうにかなりそうだった。
悔しさと情けなさで気持ちはひたすらに落ち込んでいくくせに、自分に対する怒りの感情だけは胸の奥で激しく渦巻き続けている。
とにかく今は一人でいたかった。それなのに……
「やれやれ、小屋の周りに姿が見えないからどこに行ったのかと思ったら、こんなところにいたのか」
一番嫌いな人間の声が聞こえてきた。
「う、ううん……」
「トム? 大丈夫?」
「ミムル……うん、どうにか……」
「よかった……」
トムの様子を見る限り、どうにか大丈夫そう……。とりあえず最悪の事態はないことに私の口から安堵の声が漏れる。
「起き上がれる?スープがあるけど……食べられそう?」
「……ちょっとキツいけど、食べるよ。とにかく食べないといけないと思うし……」
そういって起き上がろうとするトムに手を貸して、起き上がらせる。
華奢なトムの体はやっぱり軽い。多分私よりも軽いんじゃないかな……。
昔から小柄でいじめられっ子だったトム。
はじめは私もいじめる側の人間で、そのときは恋人同士になるなんて思わなかった。
でも成長するにつれて、トムも私もだんだん変わっていった。
トムが華奢でちっちゃいのは変わらなかったけど、頭がすごくよくて、いろんな事を勉強して、いろんな事をできるようになっていって、そんな彼をいつの間にか目で追うようになっていた。
この学園に来る直前、トムのことが気になってしょうがなくなっていた時に彼に告白された。
とても恥ずかしくて、顔が自分でもわかるほどに赤くなって、逃げ出しそうになったけど、それと同時にとても嬉しくて、その時自分の気持ちに気づいた。
「熱っ!」
「あ、ごめん!」
トムは右腕を怪我しているから私が食べさせてあげていたけど、ちょっと熱かったみたい……。
「フゥー、フゥー……」
まだ暑いスープに息を吹きかけて冷ましていると、トムがなんだか神妙な顔で尋ねてきた。
「……ねえミムル。大丈夫?」
「……何が?」
「だってシーナと喧嘩してたでしょ?」
「……分かるの?」
「うん。だってミムル、考えてることすぐに顔に出るから」
私は交渉とかの駆け引きには向いていないってよく言われる。
「……シーナの事、許せないの?」
「……だって」
シーナとは入学してすぐのときに出会った。初めてのクラスで隣になったのが彼女だった。
その時のシーナは今以上に尖っていて、いつも鬼気迫った顔をしていた。
授業にも実習にも一切の手を抜かず、常に自分を追い込んでいて、いつ切れてもおかしくなかった。
「……ねえ、そんなに肩肘張って疲れない?」
そんなことを言ったのは別に彼女を心配していたからじゃなかった。単純に自分の息が詰まりそうだったから。
「……別にどうでもいいでしょう」
私を一瞥したシーナはすぐに私に興味を失って、再び読んでいた教科書に視線を戻す。
その態度が気に入らなかった私は眉を吊り上げて、彼女が読んでいた教科書を取り上げた。
今にして思えば子供っぽくて赤面物の行動だけど、このときのシーナは私以上に子供だったと思う。
なんとシーナは教科書を取り戻すために私に魔法を放ってきた。
魔法で吹き飛ばされた私をよそに、シーナは落ちた教科書を拾い上げてまた読書に戻っていた。
さすがにこれには私はキレた。はじめに手を出したのは自分だということはすっかり頭から吹き飛んで彼女に飛び掛り、文字どおりのキャットファイトを展開、仲良く二人そろって担任から説教をくらった。
それから何かにつけて私たちは衝突した。
講義で互いに張り合うように教師の質問に答えたけど、いつもシーナが上だった。正解を導くたびに私に得意そうな顔を向けてきたシーナを睨み付けて、歯軋りをしていた。
実技でも張り合うように課題をこなしたけど、模擬戦での成績は私のほうが高かった。教室での借りを返したといわんばかりに胸を張る私をいつもシーナは睨み付けて、持っていた弓を強く握り締めていた。
そうやっていつも衝突していた私達だけど、そんな私たちにトムが加わって、シーナと私の間を取り持つようになると、少しずつだけど、普通に話をするようになっていった。
いつの間にか昼ごはんを一緒に食べるようになって、いつの間にか一緒に帰るようになって、いつの間にか一緒に冒険するようになっていた。
親友だと思っていた。何でも話してくれると思っていた。
私たちはシーナの過去については何も知らない。10年前のことを考えれば何があったのかは大体想像はついたけど、それでも私たちの2年間は負けないと思っていた。
だけど、シーナは何も話してくれない。
シーナが暴走してトムが怪我をしたことには怒っているけど、あれだけ悩んでいるのに、辛そうにしているのに、なにも話してくれない事が何より頭にきていた。
「だって、ムカつくじゃない。何も言わないシーナも、力になれない私達も……」
「ミムル……」
沈痛な表情を浮かべて独白するミムルにトムも言葉に詰まる。
何もできなかった自分達。今までこの学園で必死に培ってきた力が通用しなかったことによる自分自身に対する失望。
彼らもまた、自分達の未熟さを痛感していた。
「何やっているんだよ。こんな所で……」
「別に……」
ノゾムの問いかけにそっぽを向いたまま答えるシーナ。顔を背け、膝を抱えたまま彼女は微動だにしない。
「……とりあえず、何か食べたらどうだ? 一応簡単なスープ作ったんだけど……」
「…………」
ノゾムがシーナから体ひとつ分距離を開けて隣に座り、湯気の立つスープを差し出すがシーナは差し出された器に見向きもしない。
「…………」
「…………」
沈黙が2人の間に流れる。
(き、気まずい……)
ノゾムは息が詰まりそうだった。彼女が放つ陰鬱な空気に当てられ、言葉に詰まってしまう。
彼はシーナの事情を知らない。彼女があの黒い魔獣と何かあったことは分かっても、その過去も彼女がその時に受けた心の傷の詳細は何も知らないのだ。
故にノゾムも何を言ったらいいのか分からない。だから彼が取った行動は彼女から何か言ってくれることを促す事だったのだが……。
「な、なあ。何か言って「ねえ。ちょっと聞きたいのだけど……」な、なに?」
「なんで自分が残るって言ったの?」
「えっ?」
ノゾムが彼女の方から質問してきた事に少し驚いたが、その質問になんの気なしに答えた。
「なんでって……他に方法がなかったからだし……」
ノゾムはあの時そう判断した理由を述べていく。
「あの時、ミムルもお前もとても戦える状態じゃなかったじゃないか。2人ともトムがやられて酷く動揺していたし、そんな状態で怪我人を抱えてあの魔獣から逃げ切るなんて不可能だよ。なら時間を稼ぐための囮が必要。それが出来そうなのはあの時は俺だけだったんだから……」
それはどうしようもないほどの正論だったが、その正論は今の彼女には酷だった。
彼女は動揺しているが、自分のミスでトムが怪我した事は十分わかっている。それが分からないほど彼女は愚かではないし。彼女もトムに怪我を負わせてしまった事に胸を痛めていた。
しかし、今の彼女は自分のミスのせいで酷くネガティブになっていた。
過去の自分が何も出来なかったときの無力さを糧に、張り詰めるように生きてきた彼女だが、先の黒い魔獣との戦闘で何も出来ずに惨敗し、結果的に仲間を窮地に陥れてしまった事で、今まで張り詰めていた糸が完全に切れてしまっていた。
「他になかった!? 残るのは私でも良かったでしょう!! 私が原因なんだからむしろ私が残るのが筋でしょう!!」
突然、大声を上げて詰め寄ってきた彼女に、ノゾムは及び腰になってしまう。
「大体あなた10階級でしょう!? どう考えても逃げ切れるわけないじゃない!! 死ぬって分かっててなんでそんなことするのよ!!」
「ちょ、ちょっと!」
シーナがノゾムの胸倉に掴みかかってくる。目を吊り上げ、息がかかるほど顔を近づけてくる彼女。
ノゾムは彼女のいきなりの行動にとっさに彼女の手を跳ね除けようとするが、彼女の瞳に溜まった玉石のような涙に気付いたら、とても今の彼女の手を振り払う事は出来なかった。
「ええ! 確かにあなたは何も出来なかった私と違った! 学年最弱なんて言われていたけど実際は強かった!! でもあの獣はそれ以上に危険なのよ。何であなたはそんな無茶するのよ!」
彼女が言っている事は完全に支離滅裂になっていた。
彼女自身もノゾムが戦う姿を僅かとはいえ見ているし、この森の詳細な地図を自作している。さらにあの魔獣から逃げ切った事を考えれば、ノゾムの実力が噂で聞く内容とは違う事は既に分かっていた。
しかし、彼女はノゾムに10年前に身を賭して自分を助けた姉の姿が被ってしまった。
トラウマとも言うべき。大好きだった姉の最後。
ノゾムのたった一人で囮を担うという危険な行動に自分の姉の最後を見た彼女は、頭の冷静な部分でノゾムの行動が最善だったと分かっていても、感情の方はそんな事実はそっちのけになってしまっている。
「………………」
ノゾムはシーナがあまりに強く掴みかかってきたために、かなり息苦しくなってきたが、それ以上に目の前の少女に眼を奪われていた。
月夜に照らされたエルフの少女は、その細い肢体、流れる様な青く長い髪、眼に溜まった涙とその涙に光る月光。まるでおとぎ話のような幻想的な光景だった。
だが、それ以上に彼女が胸の内に秘め続けていた激情の発露が、ノゾムを釘付けにしていた。
「なんで、なんで……」
彼女は俯き、涙と共に呟き続ける。その言葉が誰に対して向けられたものなのか、彼女自身にも分からないまま。
「……ごめんなさい。いろいろ変な事言っちゃって……」
「い、いや。別に……」
しばらく泣き続けた彼女だが今は落ち着き、2人は再び体ひとつ分と言う微妙な距離を開けて座っている。
顔を合わせずにあさっての方向を向く二人。互いに一言二言、言葉は交わすものの、気まずさからすぐに黙り込んでしまう。
「……ありがと。私の愚痴、何も言わずに聞いてくれて……」
「え?」
沈黙を破るように彼女が漏らした一言、その言葉にノゾムは当惑した。礼を言われる理由が分からなかったからだ。
ノゾムは彼女に対して何かを語ったわけではない。彼女も自分の過去をノゾムに語ったわけではない。
ノゾムもシーナが人に言えないような何かを抱えていて、その事に苦しみながらも語れずにいる事は分かっていたが、そんな彼女に対して何を言えばいいのかは分からなかった。
どうしたらいいのか。それはノゾム自身も知りたい事なのだから。
「別に……俺が何かしたわけじゃ……」
「そんなわけないでしょう? アイツから私達を逃がしてくれた。私達の体を気遣って食事を作ってくれた。おまけに私の汚い愚痴、何も言わずに聞いてくれたわ」
「……」
そういう彼女の顔は未だ疲れと多少の暗さを残すものの、先ほどよりはかなりよくなっている。
だがそれは表面上のものでしかないことはノゾムにはよく分かった。
彼女は確かに笑顔を浮かべているものの、その笑顔はノゾムがアイリスディーナ達に向けていた物と同じ、抱えてしまった物を必死に自分の胸の内に押し込めようとしている者が見せる仮面と同じだった。
彼女の仮面の笑顔に、ノゾムはいい表せない不安が湧き上がり、胸を締め付けられる。
「な、なあ。お前が以前あの魔獣と「本当にありがとう。それと……ごめんなさい。今まで貴方に散々酷い事を言ってしまって」」
何か言わなくてはと思い、ノゾムが話しを切り出そうとするが、彼女は機先を制してノゾムの話を断ち切ってしまう。その整いすぎた顔に泣きそうな笑顔を浮かべて。
「私、そろそろ戻るわ。食事、ありがとう……」
彼女はノゾムがさらに何かを言う前に話を断ち切り、冷めてしまったスープを持って下に下りてしまった。
「っ!!」
ノゾムは知らず知らずの内に拳を硬く握り締めていた。
彼女の作り物の笑顔を見たとき、ノゾムが感じたのはある種の同族意識だった。
龍殺しであることをアイリスディーナ達に話せない自分。
自身の過去から逃れられないシーナ。
互いに誰かに話したくても話せないジレンマに陥り、ただ底の見えない奈落の穴に落ちていく様な感覚を持っていた2人だが、たとえ同じ様な迷いと闇を抱えていたとしても、それが交わる事はなかった。
2人ともまだ踏み出せないから。
抱えているものに耐える事に精一杯で、1人で抱える事に慣れてしまっているせいで、自分の足元以外を見る事を忘れてしまっているから。
ノゾムの予感は最悪な形で的中した。
翌日の朝、ノゾム達が見つけたのは空になったシーナの毛布と「後は任せて、ミムル達をお願い」という彼女の書置きだけだった。