第2章第8節
ノゾム達がアイリスディーナ達と別れてからしばらくの後、2人は牛頭亭にやってきていたが…………
「何をやっているのよ! お兄ちゃん!!」
その牛頭亭ではマルスがエナに説教されていた。不機嫌な顔で帰ってきたマルスに気付いたエナがマルスとノゾムを問い詰め、彼がティマにガンつけたことがバレたことが原因だった。
「なんでお兄ちゃんはすぐに人に突っかかるの!!」
「………………うるせえ! 大体なんでお前がゴチャゴチャ言うんだ! お前には関係ねえだろうが!!」
「何言っているのよ!これでまたハンナさんたちに迷惑が掛かったらどうするつもりだったの!」
「…………ええっと……」
2人の言い合いは激しさを増しており、ノゾムは既に蚊帳の外だった。
「気にしなくてもいいよ。2人にとっては日常茶飯事さ」
「ハンナさん」
牛頭亭の女将であるハンナは皿に軽食とミルクを入れたコップをノゾムの前に置くと、2人の喧騒をまるで気にしないかのように言った。
「あの2人にとってはこのくらいのケンカはスキンシップみたいなもんさ。明日になれば元通りだから気にするだけ無駄だよ」
周りを見ると店にいた数人の客は2人のケンカを止めるようとする人はおらず、ただ苦笑いを浮かべているだけである。
どうやらこの店ではいつもの光景らしい。
「何でお兄ちゃんはいつもそうやって余計なことばかりするの!もしかしてお兄ちゃん、そのティマさんのことが好きになったの!? 意地悪して気を引こうなんてどれだけ子供なのよ!!」
「べつにそんなこと思ってねえよ! 勝手に俺の感情を捏造するんじゃねえ!!」
小さな宿に勃発した大舌戦はさらに勢いを増し、もはやノゾムにはどうにも出来なくなっていた。
あまりの音量に宿の窓ガラスが揺れ、ノゾムの持つコップのミルクには波紋が立っていた。はっきり言って魔獣同士が戦っていると言われても納得してしまうほどの騒がしさである。
(でもお客さんは全然動じていない…………どんだけよ)
そんな状態でも周囲のお客さんの様子は変わらない。これだけ騒いでも憲兵が駆け付けないところを見ると、どうやら憲兵たちにすらこの兄妹の喧嘩は周知されているようだ。
驚くべきはこれだけの大喧噪の中で普通にしていられる地元の住民達か、それともそんな光景を“普通”と認識させてしまった兄妹達か…………。
バキィイ!!!!
ノゾムが周囲を見渡して呆然としていると、喧嘩をしている2人の方から突然大きな音が鳴り響いた。
(な、なんだ!!)
ノゾムが慌てて音のした方向をみると、エナがカウンターの椅子を持ち上げて床に叩きつけていた。
「お、お前いきなり何すんだ!!」
「もうお兄ちゃんに何を言っても駄目だと分かりました! こうなったら実力行使で分かってもらいます!! 覚悟して!!」
エナが椅子の足を両手で掴み、青眼に構える。その構えは妙に様になっていた。
「てやあああああああああああ!」
エナがマルスの脳天めがけて椅子を振り下ろす。マルスは慌てて振り下ろされた椅子を回避するが、いきなり椅子を頭に叩き付けられそうになったせいか、その顔は妙に引きつっていた。
「こ、殺す気かお前!! ちょっと遅かったら脳天カチ割れていたぞ!!」
ノゾムがギリギリ回避したマルスを見ると、彼の体からは高められた気の気配がする。どうやら身体強化まで使っているらしい。
(…………ちょっと待て。身体強化したマルスがギリギリ回避ってどういうことだよ?)
ノゾムが妙な違和感を感じ、エナの方を見ると、彼女の体からも高められて気の気配がする。どうやら無意識に身体強化を使っているらしい。
(…………あれ?確かエナちゃん、身体強化とかの戦闘訓練なんて積んでいないって聞いていたけど?)
ハンナ達の話ではエナは戦闘技術の習得などしたことは無いと言っていた。にも拘らず無意識に身体強化をしているところを見ると彼女もマルスと同じように、かなりの才を持っているのかもしれない。
…………というかそんなに強化した身体能力で肉親に殴りかかるなと言いたい。あまりにも遠慮が無さすぎる。
(無意識とはいえ、下手すりゃマルス本当に死んでたな…………)
「ちょっと待て! お前俺には暴力を振るうなとか言っておきながら自分は振るうのかよ!!」
(まあ……殺されかけたマルスからすればもっともなセリフだよな…………)
マルスは完全に腰が引けていた。
エナは14歳で、身長も決して高いというわけでは無い。しかし今の彼女の纏う気迫は完全にこの場を支配している。このままでは本当にマルスが殺されかねない。
さすがにそれはマズイと思い、エマをなだめる為に声をかけた。
「ま。まあエナちゃん。さすがにそれはやばいと思うよ…………」
「邪魔しないでくださいノゾムさん! お兄ちゃんを更生させるにはもうこれしかないんです! もしかしたら衝撃でまともな性格になるかもしれません!!」
「いやいやいや! その前にマルスの頭が別の意味で使い物にならなくなるから! ちょっと落ち着こうよ!!」
ノゾムがエナをなだめながらマルスの方を見ると、彼は激しく首を上下に振っている。流石に今のエナの状態はマズイと悟っているのだろう。
「ダメです! ここでお兄ちゃんをまともにしないときっと私、後悔します!!」
(いやいやいや!どうにかした方がきっと後悔するから!!)
エナがマルスに飛び掛かりそうになり、ノゾムは彼女を後ろから捕まえて止めようとするが、身体強化をしているエナの膂力にノゾムは振り払われそうになる。
(ちょ、力強!!)
ノゾムも当然身体強化を使っているが、エナの身体強化は無意識に行っているせいか、まったく加減がない。
ちなみに当のマルスは完全に戦意喪失し、部屋の隅に追い詰められていた。
傍から見れば、暴力夫に暴力を振るわれている妻と、それを止めようとしている娘の図である。
言うまでもなく、暴力夫がエナで、妻がマルス。止めようとしている娘がノゾムだ。
3人の様子を見ていた客たちが大声で笑い始める。
配役を間違っているとしか思えないが、喜劇としてはいいのかもしれない。
もっとも、当の本人たちは至極真面目であるが………………。
喜劇の結末を言えば、結局マルスはエナの椅子の一撃を受けた。しかしノゾムがどうにか抗ったため、死なずには済んだが気絶し、ハンナに部屋まで引きずられていった。
マルスを粛清……いや更生?したエナは全く動じずに接客へと戻っている。
(……うん、エナちゃんは怒らせないようにしよう…………)
ノゾムは友人の尊い犠牲によって、ひとつ忘れてはならないルールを己の心に刻みつけた。
……もっとも、元を正せばやはりマルスの自業自得なのだが…………
ようやく騒動が終わり、ノゾムがひと息ついて椅子に座りこんだ。
先ほどの喧騒はお客を遠ざけるどころか、逆に引き付けたようで、今店の客席はほとんど埋まっており、空いているのはノゾムの座っているテーブルだけだった。
(まったく、ここに住んでいる人達元気すぎるだろ……)
そんなことをノゾムが思っていた時、店のドアが開き、新しい客が入ってきた。
「あ、いらっしゃいませ。ようこそ牛頭亭へ!」
エマが元気な声で新しい客を出迎える。先ほど全力で気を使っていたとは思えないほどである。
(……エナちゃんタフだな…………)
ノゾムが半ば感心して入ってきた客を見た時、ノゾムの表情は固まった。
「ねえケン、このお店なの?」
「うんそうだよ。かなりおいしい肉料理を出してくれるんだ」
入ってきたのは幼馴染のリサとケンだった。
「すみません、今は席がいっぱいで合席となってしまいますがよろしいですか?」
「いいかい?リサ」
「別にいいわよ」
「ありがとうございます。それではこちらへどうぞ」
エナがそう言うと2人を連れてこちらにやってきた。やがて2人はノゾムに気付き、驚き声を上げた。
「あれ?ノゾム?」
「!!」
3人の視線が交差した瞬間。リサの表情が一瞬で険しくなった。
「…………やあ」
ノゾムはどうにか声を絞り出すが、その表情はとても硬い。
「あ、あのノゾムさん、お知り合いですか?」
「う、うん。幼馴染なんだ…………」
「そう……なんですか? あの、相席でもいいですか…………?」
「うん……俺はいいけど…………」
幼馴染といった割には険悪な雰囲気にエナが言いよどむが、他に席もないのでノゾムは相席を了承した。
「あ、あの……お客様もよろしいですか」
「僕はいいけど……」
「……………いいわよ……」
ケンがリサの様子を見ながら答え、彼女も了承した。
3人で1つのテーブルに向かい合うように座る。その雰囲気はお世辞にもいいとは言えない。そんな中、ノゾムはかつての自分達を思い出していた。
こんな風になってしまう前、俺たちはよく3人で出かけ、様々なところを回りながら色々な話をしていた。
学園での事、故郷にいる家族の事。そして、自分たちの夢の事。
リサは決まって冒険がしたいといい。俺はリサと一緒に行くといい、ケンも仕方ないから付いていこうかな?と言っていた。
その時の俺達にはこの先には辛くても3人一緒で居られることに何も疑問を感じていなかった。
しかし俺達は一緒ではなくなった。正確には俺だけが外れてしまった。
あの時、どうしてリサが俺を突き放したのか未だに分からない。
リサの表情はいまだに硬いまま、以前見せてくれていた、陽の光のような笑みは無く、瞳の奥には燃えるような怒りしかない。
その顔を見ると何も言えなくなる。
「この店にノゾムもいるなんてね。よく来るのかい?」
ケンが話しかけてくる。その声には変な硬さはなく、リサにどう接していいかわからない俺には正直ありがたかった。
それが逃げに繋がってしまっていることは分かっているが、少なくとも何らかしらの会話のきっかけにはなると思った。
「まあ、最近来るようになったからな。友達の両親がやっていて、さっきの店員は友達の妹さんだよ」
「へえ。そういえばここの肉料理はうまいって聞いたけど、どうなんだい」
俺は依然ハンナさんがご馳走してくれた穴ウサギのステーキを思い出した。こんがり焼けた肉と溢れるような肉汁。確かにあれはうまかった。
「そうだな。期待していいと思うぞ」
「そうなんだ!いや良かったよ。友人からおいしい店だって紹介されたからリサと食事をしようと思って来たんだけど期待できそうだよ」
「…………そうか……それはよかったよ……」
ケンの“リサと一緒という言葉に胸の奥がズキリと痛む。リサとケンが付き合うようになってから見せつけられてきた。
ケンと一緒に歩く彼女。
ケンの横で微笑む彼女。
そしてケンと背中合わせで戦う彼女。
そのどれもがケンに絶大な信頼を寄せているのが分かり、尚の事自分が惨めになった。
…………そして逃げた。鍛練に。そしてもう叶えられなくなったかつての自分の夢そのものに。
目を瞑る。思い描くのは大切なあの人。
……でもその人が気付かせてくれた。
自分の命を懸けて“お前は逃げている”と気付かせてくれた。
そして教えてくれた……“逃げている事を忘れなければそれでもいいんだ”と。
それを聞いて少し、弱い自分を受け入れられたような気がした。まだ前に進むことは出来ていない。けど、自分が逃げている事実は直視すると決めた。
…………だから俺は彼女にもう一度問いかけた。“どうして…………”と。
「なあリサ。どうして俺は君に振られたんだ?」
「!!!!」
リサは大きく目を見開くと、すぐに俯いてしまった。体は小刻みに揺れ、感情が抑えきれていない。
「ノゾム、それは…………」
ケンが俺を止めようとするが、俺はその声を無視する。自分が逃げている事には、俺が振られた理由も含まれている。
逃げているという事実に向き合うためにもリサからちゃんとその理由を聞かなくてはならない。
そうしなくては俺はきっと前に進むと決めた時に進めなくなるかもしれない。
「なあ、どうして俺は「……ふざけないで。」、え」
「ふざけないで!!!!!!!」
彼女の大声を上げるとバンとテーブルを叩き、椅子を蹴飛ばして立ち上がった。
「いまさら!いまさらなによ!!ふざけないで!!!!!」
彼女の声に俺は何も言えなくなる。彼女の声は憎しみに溢れていて、怒りに滾っていて、…………何より、自身の心を引き裂く様に悲痛だった。
深夜のアルカザムの中央公園。その闇の中に1つの影が月光に照らされ、映し出される。
「あと少しですな」
映し出されたのは一人の老紳士。黒い執事服を着こみ、白い手袋に包まれた手で何かを弄んでいる。
「主も興味はないと言いながらも、必ず持ち帰るように言われるとは……」
自らの主の命に矛盾を感じながらも、老紳士の表情は変えずに呟きながら街の一角に目を向け、歩き始める。
「……あまり手荒な真似は好みませぬが、それも先方しだい。穏便に事が終われば……」
すべてが闇に呑まれ、静寂に包まれた街。動く者のいない中、運命の歯車だけがゆっくりと動き始めていた…………。