第8章終幕(シーナエピローグ)
第8章終幕の続きです。
今回はシーナサイドのお話。
「ふう、リサの奴、暴走しすぎだって……」
グローアウルム機関のホール。そこに設けられた椅子腰かけながら、ノゾムはため息を漏らしていた。
ここ数日、いろいろな検査を受けてきたが、今日は一番疲れた日だった。
主に暴走した幼馴染のせいで。
「仕方ないわよ、彼女の気持ちを考えたら」
消毒液の匂いが漂う冷たいホールに、涼やかな声が流れる。
ノゾムが顔を上げれば、湯気が立ち上るカップを持ったシーナがいた。
ここ数日、ずっと軟禁されて検査やら尋問やらばっかりだったからか、久しぶりに会えた仲間の元気な姿に、ノゾムはホッと息を漏らす。
「ひさしぶり。そっちは大丈夫?」
「ええ。貴方のような検査を受けることにはなっていないから」
シーナはノゾムの隣に腰かけると、手に持っていたカップを差し出す。
白濁したミルクが、甘い香りを漂わせている。どうやら、はちみつ入りのホットミルクらしい。
「ありがとう」
「ふふ、どういたしまして」
陶器製のカップから手の平に伝わるぬくもりに導かれ、そっとミルクに口をつける。
ほのかに甘い香りが尾行をくすぐり、のどに落ちていく温かさが、検査と質問漬けでくたびれた心と体を癒していく。
ほう……と口から白い息が静かに漏れる。隣を見れば、シーナも同じように白い息を吐いていた。
「ああ、あったかい。これ、どこで?」
「トルグレイン先生の研究室のものを、ちょっと失敬してきたの」
内緒にしてねと、シーナが人差し指を立てて口元に添える。
そんな彼女のしぐさに、ノゾムも思わず含み笑いを漏らす。
二人の間に流れる、穏やかな空気。しかし、その空気を割るように、美麗な声が二人にかけられてきた。
「やあ、二人とも。こんなところで、逢引かい?」
「あなたは……」
姿を現したのは、エルフの美丈夫であり、シーナの婚約者候補であるラウルスだった。
彼はすべての女性を虜にしそうな笑みを浮かべながら、二人が座るベンチに近づいてくる。
「ラウルス様、何か御用ですか?」
「相変わらず、君は私には言葉がきついんだね。まあ、今さらいいんだけど。彼に少しお願いがあってね」
そう言いながら、ラウルスはノゾムに視線を向ける。
「お願い、ですか?」
「ああ、トリフォリウム様に会ってほしいんだ」
ラウルスの口から出た名前に、ノゾムもシーナも目を見開いた。
シーナの曽祖父であるトリフォリウムは、現在誘拐未遂の現行犯で牢屋に入れられている。
血縁とはいえ、学園生徒の意思を封じて、都市から無理やり連れだそうとしたからだ。
これが普通の罪人なら、囚人として鉱山などに贈られるだろう。
だが、彼の立場や身分などを考慮した結果、最終的には都市外退去となるだろうというのが、ラウルスの見解らしい。
「……会うのは、俺一人ですか?」
「いや、出来るなら彼女も一緒に……」
ラウルスの言葉に、二人は互いに顔を見合わせる。
ノゾムとしては、会ってもいい。むしろ、会わなければならないと思っていた相手だ。
なにせ、彼は知らなかったとはいえ、シーナと血約の儀を交わしてしまっている。
とはいえ、シーナはどうなのだろうか?
蒼穹の空を思わせる彼女の瞳には、やはり曾祖父に対する隔意が見て取れた。
しかし、彼女は再度コップの中のホットミルクに口をつけると、了承するように頷きながら、静かに口を開く。
「分かりました。お会いしましょう」
「よかった。面会の予約は取れているし、ジハード殿の許可ももらっている。それじゃあ、今から来てくれるかい?」
「今すぐに、ですか?」
「君の今の立場を考えれば、人目が避けられる夕方からのほうがいいかなと思ってね」
窓から見える外は、既に日が落ちかけていた。
確かに、今のノゾムは、いろいろな意味で時の人である。
学園側としても、できるだけ人目の少ない時間帯のほうが警備しやすいと思い、この時間帯を指定したのだろう。
ノゾムとシーナは互いに頷くと、持っていたミルクを飲み干し、ラウルスの後に続いた。
ノゾムたちが連れてこられたのは、中央公園にほど近い、衛兵達の本部。
ここには都市内で犯罪を行った者たちを収容する牢屋がある。
脱走を防ぐための地下牢。その中でも一番奥にある、もっとも厳重な警備が施された牢屋に、その老エルフはいた。
牢屋のあちこちには魔法陣が描かれ、ほのかに輝いている。精霊魔法の使い手である彼の魔力を封じるための結界だった。
「……来たか」
トリフォリウムは深い皴が刻まれた顔を上げ、訪れたノゾムたちを鉄格子ごしに見つめる。
その視線には警戒の色はあれど、ノゾムに対する嫌悪は今のところ表れていない。
「どうも……」
「ラウルス、シーナも連れてきたのか?」
「はい、無事を確認しておきたいだろうと思いまして……」
ラウルスの言葉にトリフォリウムはふん……と息を吐くと、改めてノゾムに視線を戻す。
「さて小僧、我が曾孫を汚した罪、どう償うつもりだ?」
「御爺様! それは私が……!」
「黙っとれ! これは理屈ではないのだ」
トリフォリウムの行動は、誰の目から見ても正しいことではない。
それでも、ノゾムにはこの老人の気持ちがすべてわかるとは言わずとも、想像することはできた。
たった一人残った大切な肉親。気にかけるなというほうが無理であり、積もる想いと不安ゆえに暴走したり、相手の願いとは違うことを強要したりする者もいる。
彼のかつての親友が、そうだったから。
「分かっています。責任は取ります」
「ノゾム君!?」
「彼女の夢であるネブラの森の奪還に協力します。その時は俺の持つすべての力、貴方達が故郷を取り戻すために使いましょう」
龍殺しの協力。その確約に、トリフォリウムは眉をひそめる。ノゾムの言葉が本当か、確かめようとしているのだ。
一方、ノゾムはただまっすぐに、老エルフの視線を受け止めている。
数秒の沈黙。互いに視線をぶつけ合う中、先に口を開いたのはノゾムだった。
「……それが、俺の願いにもなります」
「願い?」
「俺の夢は、大切な人達の力になる事。今も昔も、それは変わりません」
それは壮大に思えて、実のところちっぽけな夢。そして、ノゾムの原初の願い。
大切な人の夢を繋ぐこと。
それが、回り道に回り道を重ねた結果、たどり着いた彼の答え。
「彼女は、俺にとっては大切な人で、同時にかけがえのない恩人の一人です。そのためだったら、この力を使うことに否はありません」
一瞬、ふっと目元が緩んだかと思うと、ノゾムの目が隣のシーナに向けられた。
柔らかで温もりに満ちた視線を向けられ、彼女の顔がほんのりと朱に染まる。
その穏やかな空気に、トリフォリウムは肩を落とした。
片や己の負の面を認められずに暴走した者。片や、己の弱さと向き合い、乗り越えた者。
どちらが、大切な人を真に想っているか。結果は明らかだった。
「結局、儂は何もできなかったというわけか。いや、過去に目を曇らせている者に、未来を見据えて今を生きる者に敵うはずもない、か……」
エルフの長老は過去を思い返すように瞑目すると、ノゾムに向かった深々と頭を下げた。
「数多くの無礼、この場にて謝罪を述べる。誠に申し訳なかった。そして我が最後の家族のこと、よろしくお願いする」
トリフォリウムとの面会を済ませたノゾムは、迎賓施設への帰り道をシーナとラウルスと歩いていた。
既に日は落ちているため、周囲に人影は少ない。
「いや、君、凄いね……」
「なにがです?」
ノゾムが振り返れば、ラウルスが感嘆の表情を浮かべて見つめてくる。
彼はともすれば男すら魅了しそうな美麗な表情で微笑んでおり、その視線には純粋な敬意の色があった。
「トリフォリウム様に、あんなふうに正面から物申せる人はそういないよ。なにせ、エルフの最長老の一人に数えられる人だからね」
「俺は、自分の意志を話しただけなんですけど……」
「それが出来る人は少ないさ。特に権力、権威をもつ者の前に立った時はなおさらだ。まあ、君自身は自覚がないみたいだけどね」
首をかしげるノゾムを見て、ラウルスはふふっと含み笑いを漏らす。
誉め言葉としてとるには何とも微妙な言葉を受け、ノゾムは難しそうな表情を浮かべる。
「なんというか、君はとても澄んだ心を持っているね。シーナとのことはあるけど、僕としては君と仲良くしていきたい」
そう言うと、ラウルスは右手を差し伸べてきた。
握手。親愛を結ぶための行為。だが、気難しく、孤立意識の強いエルフから握手を求めてくるというのはかなり珍しい。
なにより、ノゾムはラウルスのことはよく知らない。
シーナの婚約者候補であるということは知っているが、実質それだけだ。
彼は差し出された手を見つめ、そして笑顔で見つめてくるエルフの美丈夫の表情に視線を戻す。
見つめてくるラウルスの視線に負の意識はまるでなく、純粋に友好を結ぶことを願っているように見えた。
そしてノゾムは、一度深呼吸してから、差し出された手を握り返す。
「よろしくね、シーナの婚約者殿」
「はい……うん? 婚約者?」
一瞬、ラウルスの言っていることがよくわからなかったノゾムが、思わず聞き返す。
誰が、誰の婚約者だというのか。ノゾムの隣にいたシーナの顔が、瞬く間に朱に染まる。
「君は、シーナと血約の儀を交わしたんだろう? なら、婚約者と言ってさしつかえないんじゃないか? 責任は取ると言ったんだし……」
「い、いえ、その……」
「~~~!~~~~!」
ノゾムが動揺しているのをよそに、隣では顔を真っ赤にしたシーナが言葉にならない声でわめき始めている。
「あはははは! まあ、あとは二人で話をするといい。それからちょっと気を付けたほうがいい。エルフの愛は静かだが、人間にはいろんな意味で重いからね」
「……え?」
「それじゃあ、あとは若い者たちに任せるということで、私はこれで失礼するよ」
シーナを煽るだけ煽った上、意味深な言葉を残してラウルスはさっさと立ち去ってしまった。
精霊の力を借りているのか、その速度は以上に早く、あっという間に見えなくなってしまう。
そして、残された二人。互いの視線が自然と交わり……そしてパッと離れた。
恥ずかしさから後頭部をかくノゾムと、赤い顔で下を向くシーナ。静かな、そして甘酸っぱい空気が流れ始める。
「ま、まいったな……」
「貴方は、嫌? 私は……嬉しいわ」
間を繋ごうとしたノゾムに対して、シーナの言葉は直球だった。
普段からあまり感情を表に出さないエルフとは思えないほどのドストレートな告白に、ノゾムは一瞬面食らってしまう。
しかし、すぐに動揺する気持ちを落ち着けると、正面からシーナと向き合いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……いいや、嫌なんて思っていない。むしろ、嬉しいくらいだよ」
その言葉に、シーナがパッと顔を上げた。
妖精のように可憐で、非現実的な美貌をほころばせながら、心の底から喜び、幸せをかみしめている。
その笑顔に、ノゾムもまたググっと、愛しい気持ちが湧きがって来るのを感じた。
同時に、申し訳なさもこみ上げる。
「……でも、俺にはまだ話したい人が、伝えたい人がいる」
ある意味、シーナの告白を拒絶する言葉。
しかし、彼女もそのことが分かっているのか、歓喜の笑顔のまま、彼の言葉に頷いていた。
「うん、分かってる。これから行くの?」
「ああ……」
「そう……彼女はたぶん、今日の検査を終えて迎賓館に戻っていると思うわ」
「ありがとう……」
そう言うと、シーナはどこか名残惜しそうな表情を浮かべながら、背を向けた。
しかし、一、二歩歩いたところで、唐突に振り返る。
「あ、そうそう……忘れ物をしていたわ」
「え? うわ!?」
突然、ノゾムの目にシーナの美麗な顔が迫ってきた。
続いて、鼻孔に涼やかな甘い香りが広がったかと思うと、唇に柔らかく、温かい感触が広がる。
「ん……」
瞳を閉じ、愛しい人に唇を重ねる少女。
一瞬でノゾムの脳みそがフリーズした。突然の事態に思わず目が見開かれる。
硬直する意識の中、ノゾムは穏やかに閉じた眉緩ませる彼女の様子に、なんだか幸せそうだなと、妙に間の抜けたことを考えていた。
やがて数十秒の沈黙の後、シーナが重ねていた唇をゆっくりと話した。
チュパ……と粘膜が離れる音が、妙に淫靡にノゾムの耳に響く。
「私と貴方は繋がっている。でも、貴方は私の気持ちを感じ取れない。なら、私から気持ちを伝えないと……」
唇を離しながらも、シーナはノゾムの胸元に身をよせたまま、言葉を続ける。
「貴方が誰を好きになってもいい。でも、私の気持ちは変わらない。これからもずっとこうして、貴方に私の気持ちを伝え続けるから……」
「だ、だからって、いきなりするか!? というか、今の流れでどうしてそうなる!?」
「あら、リサさんはしていたじゃない。なら、私がしても問題ないでしょ。それに、今は夕方。周りに人はいないから全然大丈夫。覚えておいて、女の子にも独占欲はあるのよ? たとえ相手に、他に好きな人がいてもね」
むしろ他に相手がいるから、尚のこと独占したくなるの。
そう付け加えながら、シーナは今しがた自分が口づけをしたノゾムの唇に、人差し指を添える。まるで、今しがた自分がしたキスを確かめるように。
「貴方の心を感じ取るのはとても嬉しかったけど、こうして自分の気持ちを伝えるのは、もっと心が躍るわね。多分、貴方への気持ちが私の中から溢れているからかしら」
清純さを凝縮したようなエルフには似つかわしくない色っぽいしぐさに、思わずドクンと心臓が高鳴る。
「それから、もう一つ覚えておいて。エルフの恋は数十年単位。愛はどちらかが死ぬまで。だから、私の気持ちが冷めることは、もうないわ」
あまりに心でのつながりを大切にするエルフは、パートナーが無くなると長い時を喪に服してしまう者もいる。
そしてシーナの心は完全にノゾムの虜になっていた。ラウルスが先ほど言った「エルフの愛は人間には重いかもしれない」という言葉が、脳裏に蘇る。
気がつけば、彼女の腕に白い鎖が浮かんでいる。
「それじゃあ、また明日。ああ、離れるのが名残惜しいわ。今日は“彼女”に譲るけど、あとで埋め合わせ、してもらうからね」
スッと身を離したシーナは踵を返すと、淫靡さと清らかさという、相反した香りを漂わせたまま、女子寮へと帰っていく。
シーナの思いがけない猛攻にタジタジになっていたノゾムは、一度目を閉じて深呼吸をした。
乱れた心を、今一度落ち着かせるために。
「……帰ろう」
そしてノゾムは、今の住まいとなっている迎賓館へと戻っていった。
彼女に、今の自分の気持ちを伝えるために。
シーナ・ユリエル
エルフ故に愛情の形が人族と違うこともあるが、ノゾムが本心から自分の夢を支えてくれることを自覚したため、色々と感情が天元突破した。
静かだけど、重い女。でも、その重さがまたいい……。