第8章第42節
長らくお待たせしました。
書籍版第2巻の書籍化作業が大体終わりましたので、こちらの更新を再開します。
中央公園で戦端を開いたマルスとルガトの戦いは、屋根の上で大暴れする二人を見た市民達により、即座に怒号と悲鳴を伴う大騒動へと発展していた。
幸いだったのは、二人が戦っているのが建物の屋根の上だったこと。
高い位置での戦闘だったため、立ち並ぶ建物の隙間が塹壕のような役割を果たし、斬撃や魔法に伴う衝撃波が市民たちに直接叩きつけられるのを防いでくれていた。
逃げ惑う市民達の喧騒に包まれながら、二人は刃と魔法をぶつけ合う。
「おおおおおおお!」
マルスが雄叫びを上げながら、ルガトが放った魔力弾の雨を、風を纏った大剣で薙ぎ払う。
魔気併用術“砕裂の風刃”
気術“塵風刃”と同じく、風刃を得物に纏わせる術だが、その規模、威力共に、塵風刃をはるかに上回っていた。
まるで竜巻を思わせる風の乱流。十の魔弾を砕いた風の刃は舞い上がった屋根板やモルタルを粉砕しながら、ルガトに襲い掛かる。
「くッ……」
ルガトは素早く四重の魔法障壁を展開するが、マルスの“砕裂の魔刃”は瞬く間にルガトの障壁を食い破っていく。
「余波でこれほどとは……恐ろしい威力ですね」
三つめの魔法障壁が砕かれた時点で、ルガトは即座に後方に跳躍。一足で十数メートルも移動し、屋根の上から飛び降りながら、驚異的な威力の風刃から逃れようとする。
「逃がすかよ!」
だが、マルスも逃がさんと追撃をかける。あまりの脚力に屋根板が粉砕され、轟音が響く。
魔気併用術は大剣だけでなく、マルスの身体強化も行っている。
既に人気のなくなった中央公園に飛び降りたマルスは、瞬く間に旋風と化し、再びルガトを刃圏に捉える。
ルガトは両手の指を素早く動かし、魔法を発動。血色の魔剣を生み出し、さらに身体強化の魔法を己の体にかけ、薙ぎ払われたマルスの大剣を受け止めた。
「ぐううう!」
激烈な負荷が、ルガトの両腕にかかってきた。
魔気併用術を完全に制御した今のマルスの身体能力は、封魂の縛鎖を解放したノゾムに匹敵している。
故に、ルガトは押し切られまいと魔力を高め、両腕にかかってくる圧力に抗おうとした。
「かかったな」
「っ!」
だが次の瞬間、大剣に纏わりついていた風が膨張し、ルガトの腕を血剣ごと飲み込もうとしてきた。
ルガトは咄嗟に剣を手放し、後ろに身を投げ出すように飛んだ。
大剣の一閃が宙に走り、猛烈な風が老紳士の片眼鏡を吹き飛ばす。
何とかマルスの斬撃を躱したルガト。しかし、完全に回避するには至らなかった。
「グッ……!」
苦悶の声が、老紳士の口から漏れる。良く見れば、彼の両手の指が、風の刃で切り刻まれ、もぎ取られていた。
「お前の魔法の起点は指だったからな。しばらく封じさせてもらったぜ」
指を失った老執事に、マルスは更なる追撃をかける。
ルガトの魔法は、指で魔法陣を描くことで発動する。吸血鬼の再生能力をもってすれば指の復元は容易だろうが、それでも多少の時間を要する。
「ふっ!」
だが、そんな時間をマルスが与えるはずもない。
今度こそ携えた刃にルガトを捉えんと、三度追撃をかける。
「舐めないでいただきたい!」
「っ!」
しかし、次の瞬間、ルガトは己の体を蝙蝠の群れへと変えた。
一匹一匹が鉄を削るほどの爪と牙を備えた蝙蝠たちが、地面を削りながらマルスに襲い掛かる。
「ふん……」
だが、マルスに動揺はない。
剣を掲げ、くるりと刃を返して逆手に構えると、竜巻を纏った刃を地面に突き立てた。
「ふっとべ!」
次の瞬間、大剣に纏わりついていた“砕塵の魔刃”が一気に膨れ上がり、巨大な竜巻が出現する。
魔気併用術“爆嵐渦”
局地的に出現した竜巻は一瞬で中央公園のベンチや木々をなぎ倒し、粉砕しながらあらゆるものを巻き上げる。
出現した強烈な竜巻は数秒で消え去るが、暴風が過ぎ去った後に、粉微塵に砕かれた石や木の残骸が降り注ぐ。
ティマの上級魔法にも匹敵する威力。しかし、肝心のマルスの表情は芳しくなかった。
「ち、外したか」
マルスが視線を向けた先には、間一髪で竜巻の暴風圏から逃れた蝙蝠たちが集まっていた。
一塊に集まった蝙蝠たちの中から、ルガトが再び姿を現す。
「以前、ノゾム殿に同じことをして全身を焼かれましたからな。さすがに同じ目に合うのはごめんです。それに、準備はできました」
「なに?」
「私も何も考えずにこの身を蝙蝠に変えた訳ではないという事!」
ルガトが魔力を猛らせると、おもむろに地面に魔力に満ちた足を叩き付けた。地面に叩き込まれた魔力が、地面に穿たれた傷跡に沿って流れていく。
地面を流れる魔力光はマルスの“爆嵐渦”のによる破砕跡のさらに外側を包み込むように、巨大な魔法陣を形成していく。
それは、指を失ったルガトが、蝙蝠状態だった時にマルスに襲い掛かりながら用意していた陣。
足元に集まる魔力光を見て、マルスはようやくルガトの策に気づいた。
「っ!」
次の瞬間、巨大な闇の波動が、マルスの足元から吹き出してくる。
闇の波動はマルスの体を飲み込みながら、その大きさを増していく。
「ぐううう……おおおおおお!」
全身を削られるような痛みに耐えながらもマルスは大剣を振り上げ、魔気を込めて地面に突き刺し、再び“爆嵐渦”を発動する。
吹き出した魔気の奔流に内側から抉られたルガトの魔法が、塵となって消えていく。
「あなたもノゾム殿に負けず劣らず、滅茶苦茶ですな」
「はあ、はあ……ふう。こうでもしないと、すぐにアイツは遠くなっちまうからな」
頬についた血をぬぐいながら、マルスは大剣を無造作に一閃した。
刃の切っ先まで満ちた魔気。多少傷を負っても、彼の戦意は微塵も衰えていない。
「どうやら、あちらも始まった様子ですな」
「あん?」
ルガトの視線に促されるように、彼が見ている方に目を向けると、天高く吹き上がる五色の光が見えた。
それだけで何が起きているのか、大まかに察することができる。
後は、目の前の老吸血鬼をどうにかするだけ。マルスはそんなことを考えながら腰を落とし、踏み込もうと構える。
だが、マルスが戦意を猛らせる一方、ルガトは全身に纏っていた魔力を四散させ、道を開けるように一歩、脇へと逸れる。
先へ進むように促すルガトの様子に、マルスが怪訝な表情を浮かべる一方、老紳士は口元に笑みを浮かべていた。
「私の役目はこれで終わりです。これ以上は手を出すなと言われておりますので……」
マルスの額に皺が寄る。ルガトの真意を測りかねているのだ。
だが、そんなマルスの懐疑を払うように、ルガトは血に塗れた手を胸に当てて、深々と頭を下げる。
その佇まいに、相手を騙そうとする意志は微塵も感じられない。
「……そうかい。正直リベンジがまだだが、そう言うなら、俺は行かせてもらうぜ」
マルスはかつてのフランシルト邸で、ヴィトーラの命令を遂行するためにこちらの話を一切聞こうとしなかった老紳士の姿を思い出す。良くも悪くも、この老人は主人に忠実だった。
ゆっくりと構えを解く。剣を降ろしても、ルガトは微動だにしない。そして大剣を背負いなおし、ルガトの脇を駆け抜ける。
ルガトはやはり深々と頭を下げたまま、背を向けたはずのマルスに対して何もしてこなかった。
「ふん、いつかきちんと決着をつけてやる」
「若人の挑戦、楽しみにしておくとしましょう」
背中合わせに互い思う言葉を叩きつけながら、マルスはフランシルト邸へと急ぐ。
噴き出す五色の源素は、先にこの都市を覆い始めていたヴィトーラの源素混じりの魔力を吹き飛ばし、まるで火山の噴火のように荒れ狂う。
「始まるなこりゃ。大騒動になるぞ。まあ、アイツが街を爆走した時点で確定だが……」
だが次の瞬間、噴き出した五色の源素はまるで逆再生するように収まっていく。
立て続けに起きた爆発的な現象とは真逆の沈黙が、アルカザムに流れる。
だがマルスは、これから先に何が起こるのか容易に想像がついた。間違いなく、親友の大暴れが始まると。
「ティマ、あっちは頼んだぜ」
ちらりと学園の方に視線を向けながら、マルスは親友に追いつこうと先へと急いだ。
ノゾムとシーナ。フランシルト邸に突撃してきた二人の姿を確かめた時の反応は様々だった。
姉妹は驚きに目を見開き、紅髪の少女は得意げに鼻を鳴らす。
そして事の元凶たる吸血鬼の姫は、喜悦に頬を緩ませていた。
「ようやく来たか、龍殺しよ。歓迎するぞ」
喜色を帯びた表情を浮かべながら、ヴィトーラは手を広げてノゾムを出迎える。
一方、ノゾムは抱えていたシーナを下ろすと、彼女の耳元で呟いた。
「頼む」
「ええ」
シーナから身を離し、ノゾムは蹲るアイリスディーナの元に歩み寄っていく。
アイリスディーナの傍にいたソミアとリサが、道を開けるように横に逸れ、道を譲る。
「ノゾム、後は任せたわ」
「ノゾムさん……」
「ああ、任せて」
横を通り過ぎる際にかけられる懇願。ノゾムは彼女達の言葉に小さく頷くと、アイリスディーナの前で膝立ちになってかがんだ。そして顔を上げようとしないアイリスディーナの肩に優しく手を沿えて顔を上げさせる。
黒い葉脈に侵された白い肌が目につく。その痛々しい姿に、ノゾムは唇を嚙みしめた。
「アイリス……今助けるから」
「は、はあ、はあ……」
助ける。ノゾムのその言葉にも、アイリスディーナは拒否するように視線を逸らして首を振る。
そんな頑なな彼女の様子に苦笑を浮かべつつも、ハッキリと自分の意思を口にする。
「悪い、もう決めちゃったんだ。それにここに来るまでに、結構な数の街の人達に見られたと思うから」
もう決めた。自分の道を、自分の生き方を。
ノゾムはここに来るまで、封魂の縛鎖を開放した状態で街中を爆走してきた。
それは、ノゾムが持つ力が公になったことに等しい。
あれだけ他者に龍殺しの力を知られることを恐れていたノゾムだが、そう語る彼の声色は軽く、そして揺るがない確固とした意志が垣間見えた。
思わず顔を上げたアイリスディーナの唇に、己の唇を重ねる。
「あっ……」
突然唇に広がる温もりに、アイリスディーナが濡れた声を漏らす。
次の瞬間、後ろに控えていたシーナが、二人の間に契約によるパスをつなぐ。
そしてノゾムが封魂の縛鎖を再び発動させた。
ノゾムの体に巻き付く、不可視の鎖。強力な封印はパスを通してアイリスディーナにも影響を及ぼし、彼女を侵食していたヴィトーラの魔力を抑え込む。
黒い葉脈の浸食が止まり、染み込むように消えていく。
「バカ、何で来たんだ……」
「まあ、バカだからなんだろうな。でも、しょうがないよ、これが俺なんだから、諦めてくれ。それから……」
悔しそうに、呆れたように、そして何よりも嬉しそうに呟くアイリスディーナに、ノゾムは苦笑を浮かべながら、懐にしまっていたそれを取り出し、彼女の前に差し出した。
「これ……」
「約束の鈴だ。ちょっと素材負けしちゃってるけどね」
紫色の花を模した造花と、銀色の鈴を付けた髪飾り。
造花の名前は、クロウェア。花言葉は、願いをかなえて。
ノゾムがアイリスディーナに向けた想いを形にした髪飾りに、アイリスディーナの瞳が揺れた。
感極まって震え、嗚咽を漏らすアイリスディーナ。彼女の髪に、ノゾムはそっと手にした髪飾りをつけてあげた。
思った通り、白く脱色してしまった彼女の髪にも、よく似合う。
ようやく約束の鈴を渡せたことに、ノゾムは安堵と喜びの笑みから、穏やかに微笑む。
「やれやれ、この私を放置してイチャつくとは、ここまでぞんざいに扱われたのは初めてだぞ?」
一方、放置されていたヴィトーラは腕を組み、不満そうな様子でノゾムたちを見つめていた。
ノゾムはアイリスディーナをリサたちに託すと、ヴィトーラと向き合う。
「一つ聞きたいのですが」
「ん?」
「どうしてフランシルト家をここまで追い込む必要があったのですか? 貴方の態度を見る限り、俺だけが目的のはずだ」
先の開園祭で対峙した時とは違う、強い意志を秘めた瞳に、ヴィトーラは口元を吊り上げながらも、ようやく来た客人の質問に答える。
「ああ、そうだ。この娘たちに手を出したのは、あくまでお前の覚悟がどの程度なのかを確かめるため。つまり試金石ということだな」
「試金石……そんなことのために、アイリスたちを巻き込んだのか?」
怒りの感情が、ノゾムの胸の奥から湧き上がる。
「いい目だ。戦意に満ちた瞳をしている。こうでなくてはならん」
「アンタの道楽に、こちらが付き合う理由はないんだが?」
「道楽? まあ、それもあったが、もしかしてお前は、私がそんな単純な理由でここに来たと思っているのか?」
「なに?」
「所詮この者たちも、お前達の国の誰もが、大きな時の流れの中で何も知らずに消えていく存在でしかない。この世界の真の戦い。それに気づくことすらないのだからな」
「真の戦い?」
「お前がその戦いに相応しいかどうか、確かめるつもりだった。正直、その娘たちはそのための撒き餌だったのだが……今では、ただの枷にしかならないな」
ヴィトーラの瞳の奥に、怪しい光が閃いた。
「っ!?」
ノゾムは反射的に、身を屈ませる。
次の瞬間、漂う源素を切り裂きながら、風の刃がノゾムの頭があった場所を駆け抜けた。
「ノゾム!?」
アイリスディーナが悲鳴にモニタ叫びをあげる中、右手を横に凪いだ状態で、ヴィトーラは淡々と語り続ける。
「私の真の目的は、お前の真価を確かめ、連れ帰ることだ」
「連れていく!? 何のために!?」
「さっきも言っただろう。この世界の真の戦いのためだ。最も、相応しくなければ、地の底に打ち捨てるだけだが……」
再び振るわれるヴィトーラの右腕。
ノゾムは全力で横に跳ぶ。頭から股までを両断するように縦に閃光が走り、続いて後ろの壁が破砕される。
あまりに高速なヴィトーラの動きは、ノゾムですらまるで感知できない。ただ、彼女の攻撃前の“起こり”を本能的に察知して、感で避けただけだ。
気が付けば、轟音と共に致死の刃が駆け抜けているような状態。只々背筋に走る直感に任せ、体を動かし続ける。
「ああ、そうだな。確かに最初からお前を連れ去ればよかった。フランシルトの契約など、ルガトに任せておけばいいのだから。力づくで連れて行けば、人間たちがどんなに叫ぼうと関係がない……ん? いや、そうすると……」
一旦腕を止め、ヴィトーラは考え込むように天を仰ぐ。
「ああ、そうか。私はいつの間にか酔っていたのか、お前の血に……」
「なに?」
「お前の血だ。滅龍王の力を宿した血液。確かに以前飲んだ時は私の好みではなかったが、それでも龍殺しの血だ。今思えば、あの時からすでに私は少なからず、タガが外れかけていたのだろう」
三度振るわれたヴィトーラの爪。
今度は完全には避けきれず、風の刃の余波がノゾムの頬を切り裂いた。
「ぐっ!」
「ああ、香しい。僅かに鼻孔をくすぐるだけでこれほど気分が高揚するとは。妾が自覚したこともあるが、やはりお前は素晴らしい」
傷口から流れ出し、滴り落ちる血の香りに陶酔したかのように、ヴィトーラが頬を染める。
「だが残念かな。後ろの娘のために、今のお前は自らの枷を外せない。外せば、再び私の魔力が、フランシルトの娘を侵し始めるだろうからな」
「ぐ……」
今のノゾムは、“封魂の縛鎖”を解除できない。解除すれば、再びアイリスディーナがヴィトーラの魔力に侵食され始めてしまう。
そして、シーナも同様の理由で、精霊魔法を使えない。
「お前の覚悟を見るために行った計らいだったが、代わりにお前の枷を増やしてしまった」
ヴィトーラの腕が円を描くように振るわれる。
次の瞬間、まるで竜巻のような嵐が、ノゾムに叩きつけられた。
「がっ!?」
回避する隙間すらない暴風が、ノゾムの体を弾き飛ばして壁に叩きつける。
苦悶の声を漏らしながら地面に倒れ込んだ彼を、ヴィトーラは残念そうな目で見つめていた。
「まあ、いい。いささか面倒だが、このままお前の四肢を引きちぎって連れて帰るとしよう。安心しろ。皇国の妾の領土に着いたら、きちんと治してやる」
「違う……」
「ん?」
壁に叩きつけられた衝撃で口の中を切ったのか、口元から血を流しながらも、ノゾムは這うように体を起し始めた。
上体を起こし、立ち上がろうとするが、ノゾムの足は細かく震え、今にもバランスを崩して倒れそうになる。
既に彼は一度、ティアマットの力を開放している。体の芯には、その負荷が残っており、先ほどのヴィトーラの一撃で、それが表面化していた。
やっとの思いで立ち上がったノゾムは、大きく息を吐き、口に溜まった血を飲み干す。
ゴクン、と喉が鳴り、苦々しい錆鉄の味が臓腑に落ちる。
「枷なんかじゃない。彼女たちは、俺の枷なんかじゃない」
絞り出すように語る声は擦れ、弱々しく、今にも消えそうになっている。
だが、不思議と耳の奥に響く力強さを秘めていた。
「枷を作っていたのは、俺だ。いつだって俺を縛りつけていたのは、俺自身だった」
過去と向き合うことを恐れて逃避し、逃避している現在の自分からすら目を背けた。
そして今度は、未来の道を見失って迷走していた。
心の中で何か迷いが生まれるたびに、ギリギリと体を締め付けられるような息苦しさを感じていた。
「俺は、夢も何もない。学園に来たのはリサの夢に惹かれたから。彼女たちを助けたいと思ったのも、彼女たちの夢に惹かれたからだ」
ノゾム・バウンティスは元々、強い意志は持っていなかった。
心にない芯を補おうと、常に他のものを求めていた。それはさながら、蝋燭の火に集まる蛾のようなものだった。
「まっすぐに、未来を見つめて走る彼女たちの夢は、俺には眩しかった。俺にはそういうものを、何も持っていなかったから」
ノゾムは自分の体を見下ろす。体に巻き付く不可視の鎖は、今でもしっかりとノゾムの瞳に映っている。
幾度となく引きちぎり続けた鎖。
しかし、その鎖は消えることなく、常にノゾムとともに存在し続けている。
「俺は、鎖だ。ただ、そこに有るだけの鎖。鎖はどこにも行けないし、何も作れない」
鎖。それは灯火のように、誰かを照らす炎ではない。
今思えば、これはノゾム自身の在り方そのものであり、彼そのものでもあった。
自分自身を縛る鎖であり、心の芯がない自分自身を保つための殻。なによりも彼自身だった。
「でも、鎖は縛り付けるだけのものじゃない。本当は、繋ぎ止めるものだ。零れて、流されて、消えてしまいそうなものを繋ぎ止めるものだ」
鎖の巻きついた右手を掲げる。
鎖。縛りつけ、封じ込めるもの。だが、それが鎖の一面でしかない。
鎖とは本来、繋ぎ止めるもの。離れないように、崩れてしまわないようにするため、守るために存在するものだ。
ノゾムの覚悟の籠った言葉に、幻のようだった不可視の鎖が輝きはじめ、徐々に質感を伴って現実味を帯びていく。
「あれは……」
「……白い、鎖だと」
光輝く鎖は、徐々にその光量を増していき、ついには他者の眼にも、その存在をはっきりと認識できるようになっていく。
誰もが突如として出現した鎖に目を見張る中で、今一度己の心に向き合うノゾムは、自らの存在そのものと言える鎖を見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「俺は……。俺は“夢を繋ぎ止める鎖”になる」
消えそうな夢が消えないように、壊れそうな輝きが失われないように。そして、たとえ涙がこぼれ落ちても、その壊れそうな心を繋ぎ止めよう。
それは己の心、自身のあり方を定める宣言。
次の瞬間、ノゾムの体を縛り付けていた鎖の輪が、糸を解くようにほどけていった。
続いて、彼の体から膨大な源素が噴き出し、フランシルト邸の天井を破砕して空へと昇っていく。
「なっ!?」
吹き出した源素は、一瞬でヴィトーラの魔力をかき消したかと思うと、解けた鎖輪の群れに包まれながら、瞬く間にノゾムの体に引き戻されていく。
そして、全ての源素が彼の体に戻る。
嵐が吹き荒れた後の応接間は、まるで新月の夜のような静寂に包まれ、その場には白い鎖を身に纏ったノゾムだけがいた。
先ほど見せた膨大な力とは裏腹に、驚くほど静かな佇まいでヴィトーラと相対している。
静かに光る鎖を纏った彼の体からは、何の威圧感も感じない。
存在感すらあやふやで、まるで虫か樹と向き合っているような静けさがある。
広がる無音の空間。
自然でありながら威圧感すら伴う静寂に、ヴィトーラの瞳が初めて険しさを帯びた。
「っ!」
ヴィトーラの右腕がぶれる。
吸血鬼としても規格外の身体能力から繰り出される腕撃。
真空刃すら纏う一撃は、人間では到底認識できないほどの速度でノゾムに迫り……。
次の瞬間、空中に走った無数の閃きに、ガラス細工のように粉砕された。
「がっ!?」
閃光がヴィトーラの真空刃を彼女の腕撃を腕ごと切り砕き、彼女は血を流しながら、思わず後ずさる。
彼女の視線の先にいるのは、いつの間にか刀を抜いていたノゾムがいた。
全身に巻き付いていた鎖は彼が携えた刀にまで及び、鎖が巻き付いた“無銘”は五色に輝く源素を纏っている。
明らかに現出しているティアマットの力。しかし、今までのような荒々しさは全くない。
むしろ、それほどの斬撃の雨を繰り出したにも拘わらず、驚くほどの静謐さを漂わせていた。
それは自分自身の在り方。封魂の縛鎖の本質を定めたノゾムが、己の異能を完全に掌握した瞬間だった。
「……いくぞ」
ノゾムの体が沈み込む。次の瞬間、彼はトン……と、まるで軽く木を叩いたような音だけを残して加速した。
「っ!」
それだけでノゾムは刹那の時すら踏破し、一瞬でヴィトーラの目の前まで踏み込む。
振るわれる刃と剛力の細腕。
虹色の一閃と魔力を纏った烈撃が激突し、空気が爆発したように弾かれる。
覚醒した龍殺しと、吸血鬼の姫。
その戦いが、ついに火ぶたを切られた。