第8章第40節
第8章第40節を更新しました。
フランシルト邸の応接間は、時が止まったかのように静まり返っていた。
驚きの表情を浮かべるヴィクトル達と、ようやく来たかと意味深な笑みを浮かべるヴィトーラ。
続いて、驚きの表情を浮かべていたヴィクトルの顔が、一気に険しいものに変わった。
実父から向けられる憤りの視線を受け流しながら、アイリスディーナは一歩前に出る。
「お二方、会談の場への急な割り込み、大変申し訳なく思いますが、この場に私たち姉妹も参加させていただきたく思います」
「ここは関係者以外立ち入り禁止だ。メーナ、彼女達を今すぐ外に連れ出せ」
激怒しながらも声を荒げなかったのは、さすがと言える。
しかし、押し殺すように発せられた低い声には、腹の奥に響くような重苦しさと憤りが込められていた。
「よいではないか。元々彼女達も関係者だ。それに、その覚悟を定めた瞳。非常に私好みだ」
吸血鬼の姫が愉悦を含んだ笑みを浮かべながら、ヴィクトル達の言葉を押し止める。
彼女の視線は既にヴィクトルではなく、この会談に割り込んできた2人の少女に向けられていた。
ヴィトーラの魔力の影響か、応接間の暖炉の炎は既に消え去り、外と変わらぬ寒さになっている。
「ふむ、今さら問うまでもないかもしれないが、一応聞いておこう。なぜ、この場に来た?」
「ヴィトーラ殿と我が家との新たな契約、その為です」
「なるほど、話はきちんと聞いていたようだな。その意味も理解している」
「待て! 私は認めていない!」
必死に被っていたヴィクトルの仮面が剥がれた。
「ああ、お前の覚悟もいいが、生憎とこの娘がこの場に着た時点で、お前の重要度は下がった」
凍てつく寒さを吹き飛ばすのではと思えるほどの、ヴィクトルの激昂。しかし、そんな彼の怒りも、吸血鬼の姫は薄笑いを浮かべながら柳のように受け流していた。
その視線はアイリスディーナとソミアに向けられている。しかし二人は、ヴィトーラの視線が自分達を通して別の人間を見ていることに気付いていた。
「そして娘、気づいているのだろう?」
「ええ、貴方は私達も見ていない。見ているのは、彼だけだ」
「そうだ。私の一番の興味は、あの龍殺し。他の事は正直どうでもいい」
はっきりとヴィトーラの口から述べられた「龍殺し」の言葉に、アイリスディーナの表情が険しくなる。
「……やはり、彼が龍殺しだと知っていたのですね」
「ああ、お前達の政敵である……なんだったかな? まあ、そいつの女副官、メクリアとかいう女が使い魔を用いて私に教えてきたよ」
「それで、彼女は貴方に何を対価に、何を求めたのですか?」
「何も。何もない。ただ、ノゾム・バウンティスが龍殺しであり、私の一番の臣下を降した、という事を聞いただけだ」
あっさりと自分に情報を流した存在について暴露する吸血鬼の姫。
ヴィトーラがチラリとルガトに視線を送ると、老執事は主の言葉を肯定するように深々と頭を下げた。
「龍殺し。そんな存在がいるとなったら、確かめずにはいられぬ……ふ、ふふ」
死鬼姫の体から風のような魔力が吹き出し、美しく、艶のある銀髪をぶわりと波立たせた。キラキラと光る氷の粒子が、波立つ銀髪に纏わりつきながら、宙を舞う。
「ダメだな。どうしてもノゾム・バウンティスの事を考えると、昂ってしまう。こんなに気持ちを抑えられなくなるのは、何百年ぶりだろうか」
感慨深く独白するヴィトーラ。死人を思わせる白い肌が恍惚とした朱の色に染まり、空っぽだった瞳がまるで初恋をした少女のように揺れている。
「いや、初めてだな。伝説に謡われる、“本物”の龍殺し。期待するなという方が、無理だというもの……」
「ぐぅ!」
次の瞬間、一際激しい魔力の突風が吹き荒れた。応接間の調度品が吹き飛ばされ、力を帯びた風が壁紙を削り取る。
はがれた壁紙は瞬く間に凍り付き、バラバラとなって、まるで粉雪のように舞い散った。
「ああ、すまないな。これは別にワザとやっているのではないぞ。これが私にとっては普通なのだ。どうやら彼を想い過ぎて、枷が外れてしまったようだな」
すまないと言いながらも、ヴィトーラは己の力を抑えこもうとはしない。
いや、抑えこんでおこうという気がもうないのだ。アイリスディーナ達がここに来た時点で、既にその必要がなくなっている。
「私は、歴代の吸血鬼と比べても比較にならないほど強大な力をもって生まれてしまってな。ただ生きているだけで、無秩序に周囲に影響を与えてしまうのだ。今でも外には雪が降っているだろう? あれも私の力の影響だ」
圧倒的な存在感。アイリスディーナから見ても、ヴィトーラの持つ威圧感は、あの龍族のゾンネやアゼルと比べても遜色ない物だった。
吹き荒れる極寒の魔力。だがアイリスディーナは、その嵐の中に、魔力ではない別の力の存在を感じ取っていた。
「これは、魔力……だけじゃない」
「ああ、お前達が源素と呼ぶ力だ。私の亡き父はこう言っていたよ。お前は先祖返りだとな」
「まるで……」
「化け物だろう? ふふふ……」
真っ赤な口を裂くように歪ませ、ヴィトーラは禍々しく嗤う。
人形のような顔に刻まれる、真紅の三日月。その容貌は怖気が走るほど恐ろしく、そして眼を離せなくなるほど美しかった。
「さて、それでは始めようか」
「メーナ、二人を逃がせ!」
ヴィトーラがアイリスディーナに向かって歩み寄ろうとしたところで、ヴィクトルが跳ねるように死鬼姫に向かって駆け出した。
彼の行動に合わせて、メーナも動く。
だが、そんな娘を想う父と従者の行動を前にしても、ヴィトーラは視線すら向けない。
「ルガト」
「はい」
禍々しくも美しい形相から響く静謐な呼び声に、ルガトが動く。
流水のような繊細さで素早く陣を描き、魔法を発動。ヴィクトルとメーナを拘束して、その場に這いつくばらせる。
「ぐっ!」
「これで邪魔は入らない。では、始めようか」
ついに、アイリスディーナとソミアの前に立ったヴィトーラ。
吸血鬼の姫は改めて生贄となる娘の瞳を覗きこみ、そして愉しそうに吊り上げた口元を更に歪めた。
「ふむ、面白い。今の私を前にして、怯えも憤りもない。我が国の者達ですら、少なからず、畏怖と恐怖の感情を抱くものだが……」
「決めているからだ。私の生き方を、命の使い方を」
「ほう……」
本性を現した自分を前にしても、アイリスディーナは毅然とした態度を崩さない。
足が崩れてもおかしくない程の恐怖が襲ってきているはずなのに、その口から発せられる声は驚くほど芯が通っていた。
「結局、私は私の生き方を曲げられない。曲げれば、私は私ではなくなる。それは多分、私にとっては死ぬより辛いこと」
アイリスディーナの手が、真っ白くなった自分の髪を掬い上げた。それは、彼女と、彼女が思う男性との絆。
彼女の口元に、この緊迫した状況とは思えぬほどの、穏やかで安堵に満ちた笑みが浮かぶ。
そのあまりに唐突で、予想外の表情に、ヴィトーラは目を見開き、一瞬我を忘れた。
ヴィトーラの動揺を他所に、アイリスディーナは独白を続ける。
「逃げる道はあった。でも、逃げないと決めた。なら、これから何が起きるのだとしても、私はそれを受け入れる」
「……っ、よい。それならば、何もいう事はない」
刹那の間とはいえ、自分の意識を奪い去った人間の少女に内心で感嘆しながらも、ヴィトーラは己の衝動が促すまま、彼女の首元に己の牙を突き立てた。
真っ白に染まった光だけの空間。上も下も分からない奇妙な場所で、ノゾムは困惑の声を漏らしていた。
「ここは……」
「初めまして、だね。ノゾム・バウンティス」
唐突に掛けられた声に、ノゾムは声の聞えてきた方に目を向ける。そこにあったのは、光り輝く髪飾り。
光を抱く耳飾りはやがてその光量を増していき、やがて大きな光の球を形成すると、やがて人の形へと変化し始める。
そして光が収まると、そこには一人の美男子が佇んでいた。
「あなたは……」
「ミカエル。君が取り込んだティアマットの元パートナーだ。義娘が、世話になったね」
白龍の王子。そう呼ぶにふさわしい毅然としたたたずまいと、柔らかな口調で、ミカエルはノゾムに名乗る。
「今更かもしれないが、少し話をしたくて、ね。彼女をその身に宿し、自らも報復の炎を抱きながらも、私達とは違う道を歩んだ君に」
ミカエル。ティアマットの記憶に出てきた白龍。彼女が最も憎悪する存在。
彼と話をすることはノゾム自身が望んだことではあるが、こうして実際に相対すると、ノゾムは胸の奥から何とも言えない感情が湧き上がるのを感じた。
「話……」
「君は彼女のこと、テトや彼女の力ことを知りたがっていただろう?」
「ええ……どうやったらティアマットの力を制御できるのか、と」
「……まず、幾ら妖精の少女が肩入れしようが、君は僕たちのように、精霊魔法としてテトの力を使う事はほぼ不可能だろう。もしかしたら、長い年月をかければ可能なのかもしれないが、前提として、まず君にその素養がほぼない」
ノゾムの願いに、ミカエルは一時考え込むような仕草を見せると、おもむろに「君には精霊魔法は使える可能性は限りなくゼロだ」と断定してきた。
「だから君は、テトの力をそのまま、己の力として行使するしかない。全てを破壊する厄災にして、滅びの精霊となった彼女の叫びと憎悪に染まった、純粋なままの力で」
ミカエルの言葉に、ノゾムは小さく頷く。契約魔法の素養が自身にないことは、ノゾム本人も否が応にも理解させられていた。
もっとも、限りなく不可能という事は、僅かではあるが可能性はあるということ。
同時に、それはひとえに、一人の妖精の少女の尽力によるものでもあるとも述べる。
「だから、君自身が、彼女の力を制御する必要がある」
ミカエルの宣告に、ノゾムは大きく深呼吸をする。
脳裏に蘇る、恥ずかしそうなシーナの笑み。そして、楽しそうにダンスを踊っていたアイリスディーナの笑顔。
ふと手をみれば、アイリスディーナのために用意した髪飾りと、予備として残っていたミスリルの鈴があった。
紫色のクロウェアの造花と白いリボン、そして約束の鈴を付けた、ちょっと気取った飾り。ノゾムの胸に、決意が改めて湧き上がる。
「それで、どうしてティアマットは貴方達を敵視する。確か、貴方とティアマットは仲間だったんだろう?」
「ああ、確かにそうだった。でも、私達の国は滅びた。原因はそうだな……一言でいえば、全員がボタンを掛け違えたのさ」
そしてミカエルは話を続ける。
アルハラントは確かに栄えた、人と獣、そして精霊達が調和した、理想的な国へと。
「しかし、それは同時に、他の者達からは大きな脅威となった。僕たちが作り上げた国の他にも人間の国というのは存在していたからね」
そしてミカエルは続ける。アルハラントの国の人達も、自分達が手に入れた力に酔っていったと。
「だが、精霊や獣と調和していたんだろう? どうしてそんな意識になる?」
「始めは本当に調和していた。互いの意識を共有し合い、互いに相手を尊重する。しかしそれは、あくまでアルハラントの中での調和でしかなかったのさ」
龍やおとぎ話に出てくるような強大な力を持った精霊ならともかく、通常の精霊というのは意思が薄弱で、同時に染まりやすい気質の者達が多い。
精霊や獣たちと調和しない同族達。人間達のそんな隔意が蔑視へと変わり、調和した獣や精霊が、それに徐々に同調していった。
そして、同調した三者はいつの間にか自分達の価値観こそが絶対と考えるようになっていったのだ。
「自分達の小さなコミュニティの中で、人も獣も精霊も、自ら世界を小さくしていった。互いの存在に依存し、力に酔い、そして自分達の価値観こそが絶対だと考えるようになった」
薄ら笑いを浮かべながら、まるで罪人の懺悔のように語るミカエルの話に、ノゾムは思わず息を飲む。
「初めから、完全な調和なんて不可能だったんだろう。むしろ、僕たちが作ったのは混沌だった……」
一度瞑目し、先の見えない頭上を見上げながら、ミカエルは話を続ける。
そして、やがて時と共に燻る火種が増え、アルハラントの中にも強硬的な考えを持つ者達が増えていったと。
「そして、暴走する子供達を前に、僕達もまた割れていった。人間達にこれ以上干渉するべきではないという者達が現れ始め、僕たちの結束は徐々に綻んでいった。そして僕とテト以外の四匹の龍は、アルハラントを亡ぼすことを決めた」
「自分達が助けた人達を、見捨てたのか?」
「ああ、強硬的な者達の中には、明らかに僕達龍族に害意を抱くものすら現れてきた。中には、龍ですら無視できない力を持つ者達もいた。それでもまだ、アルハラントはまだ、僕たちの力で調和を保つことが出来た国だったから……」
ティアマットの記憶を思い出せば、元々アルハラントは複数の龍脈の影響を受けた地。龍達の力で荒ぶる自然を鎮めた地に造られた。彼女達の助力が消えれば、アルハラントは再び災いが吹き荒れる地となる。
つまり、ミカエルとティアマットを除いた他の龍達は、自分達が自国民の生殺与奪が可能なうちに、自分達の始末をつけるべきだと考えたのだ。
人間達から見れば、間違いなく激怒する話である。
「傲慢だ……」
「ああ、傲慢だろう。それでも、彼らは龍族だ。この世界の理を担う精霊たちの頂点。故に、世界の過剰な歪みをもたらしかねない存在を放置はできなかった。アルハラントは、もうそれだけの歪を潜在的に抱えてしまっていたんだ」
だから、ティアマット以外の龍達は自分達の国を亡ぼすことに決めた。
「だけど、テトだけは諦めなかった。アルハラントを建国する時に協力してくれた他の仲間たちが自分達の国を見捨てる中、まだ間に合う、まだ繋ぎ止められる。繰り返し、そう自分に言い聞かせていた」
ノゾムの脳裏に、ティアマットの過去の情景が思い起こされる。
理不尽な厄災に打ちのめされる無力な人達に自分を重ね、必死になって助けようとしていた彼女。
助けた人達から向けられた、「ありがとう」の言葉。
それがどれだけ彼女の救いとなっていたのだろうか。
自らも打ちのめされていた時にアイリスディーナやシーナ達のおかげで立ち直ることが出来たが故に、ノゾムはティアマットの気持ちが痛いほど理解できる。
「彼女の悲痛な叫びに絆されて、僕も限界までテトに力を貸すことを決めた。同族から疎まれていたテトにとって、アルハラントは自分のアイデンティティだったから」
ティアマットに対する共感、そして胸の奥が締め付けられるような感覚に、ノゾムは思わず奥歯を噛み締める。
「そして、あの事件が起きた」
「事件?」
「僕たちの仲間の一人が、無理やりテトを止めようとしたんだ。そして死んだ」
死んだ。その言葉に、ノゾムは目を見開く。
ノゾムの驚きを他所に、ミカエルの話は続いていく。
「死んだ彼の源素は、切っ掛けとなったテトに取り込まれ……そして彼女は暴走を開始した。暴走した力は止めようとした他の仲間達をも殺し、テトはさらに異質で過剰な力を取り込むことになってしまった」
止めようとした者達が死に、さらに元凶が力を増す。まさに最悪のドミノ倒しである。
「僕たち龍は、純粋な存在。本来、異なる属性の源素を司る龍の力を継承する事はできない。だが、テトは特別だった。彼女は自らと違う源素も取り込み、己のものとすることが出来た。それは、彼女が生まれ持った素養だったんだろう」
だが、幾ら素養があれど、大量に取り込んだ異質な力は彼女の体と精神を蝕んでいた。
制御できない力と、ひび割れていく精神。ノゾムも異質な龍の力を取り込んだからこそ、その力に体や精神が引き裂かれる感覚は理解できる。
「それでも何とかギリギリのところで自我を保っていたんだ。その最後の鎖を、僕が砕いてしまった」
ミカエルの表情が、これ以上ないほど後悔に歪む。
「当時、僕は龍と人間達の国へ最後の交渉に行っていた。そして戻ってきた僕が目にしたのは、友人たちの魂を取り込み、暴走して自分達が最も大切にしていた国の大半を滅ぼしたテトの姿だった」
つまり、彼女は自らの意思に沿わない所で、自ら守りたかった者達に手をかけてしまったのだ。
「彼女は言っていた。殺そうと思ったんじゃないって。僕は彼女の言葉を信じず、こう言ってしまったんだ。裏切り者って……」
それから後の話は、伝説に語られるとおりだった。
ティアマットの理性は怒りに完全に塗りつぶされ、その憎悪は自分を否定した龍と、裏切った人間、そして世界そのものに向けられた。
力のままにアルハラントを破壊しつくし、対立していた人間の国をすべて滅ぼし、龍族にまで牙を向けた。
そしてミカエルは責任を取る形で封印の要となり、ティアマットに破壊しつくされたアルハラントごと、彼女を封印したと。
ミカエルが話し終わると、二人の間になんともいえない沈黙が流れる。
「さて、僕たちの過去話はここまで」
唐突に話を変えてきたミカエルに一瞬ノゾムは面食らうが、頭を振って意識を切り替える。
ティアマットの過去もずっと気になっていたが、それ以上に彼が今欲しているのは、己が取り込んだ力の制御方法だ。
「君が取り込んだ彼女の力を制御する方法だけど、二通りある。一つは、君自身の異能で制御する方法。だけど、これはいつ可能になるかわからない。それに、外では、今大変な事になっているみたいだ」
「っ!」
ミカエルが手を振ると、彼の後ろに円形の鏡のようなものが現れる。
そこには、衛兵に取り囲まれる、虚ろな表情のシーナ、そして、ヴィトーラに首を噛まれ、痙攣しているアイリスディーナの姿が映し出されていた。
一体これはどういう事だ!?
湧き上がる動揺と困惑、そして焦燥を察しているかのように、ミカエルが言葉を続ける。
「老いた妖精の子供は、君の存在を危険視して曾孫を引き離そうとした。曾孫の心を無理矢理封印して」
心を封印した祖父を引き離しても、シーナの人形のような表情は変わらない。
宙に浮いた鏡の中で、駆け寄ったミムルが肩を掴んで必死に呼びかけているが、肝心の少女は空っぽの瞳のまま虚空を見つめている。
「白髪となった少女は、君に心配をかけまいと、自ら贄となることを決めた。その胸に気高くも、儚い信念に殉じて」
ヴィトーラに血を送り込まれたアイリスディーナは、その場に膝から崩れ落ち、肩を抑えながら震えはじめた。
首筋に穿たれた牙跡から、黒い葉脈のような筋が、真っ白な彼女の肌に浮かび上がっていく。
「二人とも、君と強い縁を結んだ者達だ。かつての僕とテトのように」
ミカエルは次々と、アイリスディーナやシーナ達が必死に隠していた彼女達の秘密を暴露していく。
怒涛のように叩き付けられる事実は、ノゾムの思考をまるで渦潮のようにかき回していた。
「妖精の少女が君に行った儀式は、本来彼らの婚姻の儀式。魂をより深い場所で繋げ、死で別たれるまで続く絆を結ぶ儀式だ。そして彼女は君の為に、自らの夢をかなえる力を、自ら手放した」
血約の儀。エルフにとって最も神聖な儀式であり、そして本来は婚姻の儀となるはずの儀式。
それは、妖精の少女が彼に向けて抱いていた想いであり、そして彼の力になりたいという願いの形だった。
「白髪の少女は、本来無関係である君を悪縁から切り離すと決めた。それが、今の自分が君に出来る最善だと信じて」
それは、気高い彼女が譲れなかった想い。彼が憧れ、そして見惚れていた彼女自身の強さ。
同時に、その姿は、彼女が自身のもう一つの想いを押し殺した姿でもあった。
「っ!」
混乱の渦に叩き込まれたノゾムの思考が、一気に怒りへと転じる。それは何も知らなかった、否、気付かなかった自分への憤り。
唇を噛み締めながら、叫びたくなる衝動を押し殺すノゾムを、ミカエルはどこか羨ましそうに見つめていた。
彼にとって、そのような怒りの感情すら、とっくの昔に感じなくなったことだった。
この何も感じられない白い空間で、ただティアマットを封印するための要としてありつづけるだけの存在となってしまっていたのだから。
「さあ、君が心から欲する、もう一つのテトの力の制御方法を教えよう。それは、ここで僕を殺して取り込む方法だ」
「……え?」
「今の僕は、テトを封印するための要だ。僕を殺して取り込めば、彼女の力の制御も容易になる。父上も、そのつもりで君に僕を手渡したのだろうしね」
たとえその姿形が変わろうが、彼は今でも龍だ。故に殺せば、力と記憶の継承、簒奪は問題なく行われる。
諦観を帯びたミカエルの言葉に、湯だっていたノゾムの頭が一気に冷える。
混乱するノゾムを他所に、ミカエルは手を広げ、全てを諦めた瞳で、ノゾムを見下ろしていた。
「さあ、僕を砕くといい。それで君は、彼女の力を制御できるようになる。そして、君は彼女達を助けられるだろう」
気が付けば、ノゾムの手には彼の愛刀が握られていた。
彼の敵と、そして閉ざされた道を切り開いてきた刃。その鈍い輝きが、ノゾムに問い掛けていた。
一度ミカエルに視線を向け、再び手に握った刃に目を落とす。
そして目を瞑り、ふっくりと息を吐くと、おもむろにミカエルに声をかけた。
「道を……アルカザムに戻る方法を教えてほしい」
「僕を砕かないのかい?」
「確かに、俺はこの力をどうにかしたくてたまらない。ずっと、それを求めていた。でも、殺したくて刀を取った訳でも、復讐したくて力をつけた訳じゃない」
今一度、ノゾムは自分の道を振り返る。
リサの夢を支えたいと願いながらも親友に蹴落とされ、不遇の日々を過ごした。
逃避に逃避を重ね、何も変えられない日々を過ごし、それでもこの街を離れなかった。
師と出会い、別れ、アイリスディーナ達と出会い、支えられて、何とか立ち上がることが出来た。
誰かに支えられ、誰かに勇気づけられてきたから、折れても立ち上がることが出来た。
だからこそ、ノゾムは思うのだ。
「俺の夢は、ここで貴方を殺す事では手に入らない。そう思うんだ」
「そうかい……」
ゆっくりと手にした刀を鞘へと戻す。そんなノゾムの様子を見て、ミカエルはさきほど浮かべていた諦観の笑みとは違う、穏やか微笑みを浮かべていた。
「ありがとう、ティアマットの事を教えてくれて」
「僕の方こそありがとう。話を聞いてくれて。ずっと口をつぐんできたけど、僕はきっと、誰かに話したかったんだ……」
「ああ、よく分かるよ。俺も、そんな事を思っていた時があったから」
押し黙るうちに、自分の胸の奥に沈み、蓄積していく澱み。それを吐き出したくなるときは、誰にでもある。
それは龍だろうが人だろうが変わらないという事なのだろう。
ノゾムは意外と人間っぽい精霊に、苦笑を浮かべていた。
「戻るには、この鏡を割るといい。これは僕達がいるこの空間と外界を繋いでいるから、砕けば一時とはいえ、映す場所への道が開ける」
「そうか……」
ミカエルの言葉に従い、ノゾムは鏡の前に立つ。
「それじゃあ……」
「幸運を、祈っているよ」
ノゾムは一度収めた刀の柄に手を添え、目を閉じ、深呼吸を繰り返す。脱力に脱力を重ね、自分の体から極限まで力を抜いていく。
息を吐き、力が抜けていくごとに、心はどんどん澄んでいった。
今までの雑念が消えていき、最後に残ったのは、三つの過去の情景。
故郷の村で約束を交わしたリサ、妹の死を前に泣き崩れるアイリスディーナ、仇の魔獣を前にして打ちのめされるシーナ。
そして、その根底にあった、確かな想い。
「ああ、そうか……。アンリ先生の言う通り、最初っからあったんだな」
それは、彼が抱いた最初の感情。
逃げていた過去の事実を見つめ、現在を乗り越えたからこそ、見つけることが出来た、依頼への道しるべ。
もう、憂いはなかった。
「いくぞ……」
鯉口を切り、抜刀。
目の前の鏡を斬り砕きながら、ノゾムは消えていく破片の中へと、己の身を投じた。