第8章第39節
「白痴にでもなったのか? それでも妖精にでも誑かされたか?」
唐突な結婚の申し込みに、ヴィトーラは一瞬頭の中が真っ白になった。
今まで不遜な態度を崩していなかった吸血姫の驚きの表情に内心小躍りしながらも、ヴィクトルは話を続ける。
「それほど不思議ではないでしょう? 古来より、家の繋がりを強めるのは婚姻です。私も妻に先立たれていますし、確かヴィトーラ殿も結婚はしていなかったと思いますが?」
「いや、そうだが……なるほど、そういうつもりか。お主、自分がウアジャルト家の一員になることで、契約の履行と条約の締結を同時に行うつもりか」
「ええ。実のところ、フランシルト家にはあの娘以外にも次期当主の候補はおりました。故に、こちらについては、私がいなくなってもどうにかやっていけるのです」
要は体のいい人質である。
しかし、こういう場合、普通は血縁の近い、当主以外の人間が対象となる。
現当主が他家の、しかも全く国交を結んだことのない国に婿入りするなど、前代未聞である。
しかし、ヴィクトルの声には一切の迷いや影がない。故に、ヴィトーラも穏やかな彼の言葉の裏に隠れた本気を、ヒシヒシと感じ取っていた。
「よく言う。お前に目的は、あくまで娘の安全の確保だろうに。そして、我が家に婿入りする為の条件もよく分かっているはずだ」
「はい、吸血鬼にハーフというものは存在しません。故に、吸血鬼と婚姻するには、吸血鬼になるしかない」
吸血鬼が増える手段は二通り。吸血鬼同士が結ばれて子をなすか、他種族を吸血鬼に変えるか。
婚姻が、種族繁栄のためにあることは、吸血鬼でも変わらない。そして、吸血鬼に、ハーフというものは存在しなかった。
彼らは例外なく、血によって他種族を同族に変えることで婚姻等を行ってきた種族なのだ。
「吸血鬼は血を吸い、人を化け物に変える。ですが、実の所、それはある意味間違いです。吸血鬼は血を吸って人を化け物に変えるのではない。自らの血を与えることで、相手を自らと同じ存在へと変えようとするのです」
「ああ、そうだ。我らにとって、血は特別だ。血を分け与えるという事は、己を相手の一部とすること、相手を己の一部とすることだ。その繋がりは、時に強さを貴ぶ我らの決闘の理よりも優先される。だが……」
「血を受け入れたからと言って、私があなたと同じになれる保証はない」
「そうだ。むしろ、ほぼ間違いなく失敗するだろうな。お前は本来、私が血を与えるに値しない。そもそも、我らの祖先が追われた理由も、我らの血に絶えられなかった者達の暴走故だ」
「ええ、そうでしょう。私個人の強さなど、貴方にとっては吹けば飛ぶ埃程度でしかない」
ヴィクトルは初めから、自分がヴィトーラの血の魔力に耐えられるとは思っていなかった。彼女が密約の履行を求めてきた時点で、自分が生贄になるつもりだったのだ。
「人ではなくなる。もう、あの娘達を抱きしめることは出来なくなる。でもいいのですよ。私にはあの子達以外にも後継者はいます」
そう言いながら、ヴィクトルは応接室の一画に飾られている絵画に目を向けた。
そこには、いつの間にか執務室から運ばれていた、彼の幼い娘と亡き妻を描いた絵画が飾られていた。
彼の脳裏に、娘が生まれた時の事が蘇る。
アイリスディーナの時は只々動揺して、産婆や妻に呆れられた。
ソミリアーナの時は、大きな悲しみに包まれた。元々病弱だった妻は死の縁に陥り、生まれた娘も未熟児だった。そして、弱々しい体で生まれた娘を守るために、妻が命を捧げるのを、ただ見ているしかできなかったのだ。
だから、彼は心に決めていた。もし、娘の為に自らの命が必要となるのなら、妻と同じように迷わず捧げようと。
「むろん、貴方に不利益は無いように、手は打ちます。私がグールになった時は、メーナに即座に処分するよう命じています。彼女の実力なら、問題ないと思っております」
主の言葉に合わせて、メーナがスッと半身をさらす。彼女の腰には、細剣が掲げられていた。
チン……と鞘から剣身を覗かせれば、鋭いミスリルの刃が顔を覗かせる。
ヴィクトルの覚悟を前に、ついにヴィトーラは破顔した。
「く、くくく……良い、良いぞ。良い瞳だ。たとえ死すとも、絶対に勝利を掴もうとするその瞳。非常に私好みだ」
笑いを堪え切れないのか、腹の奥に響くような喜悦が、ヴィトーラの口から漏れてくる。
隠しきれない興奮に紅の瞳の瞳孔は開き、口元は禍々しく歪み始めている。
全身から視認できるほどの魔力が溢れ出し、窓の外に降る雪が徐々に増してきていた。
「今日は良き日だ。同じ瞳を持つ者達が、こうして一堂に会するのだからな」
「同じ瞳?」
唐突に意味深な言葉を口にしたヴィトーラに、ヴィクトルは首をかしげる。
その時、ガチャリと応接室のドアノブが回された。
フランシルト邸は既に人払いが済んでいる。誰もいるはずがない。突然の訪問者の気配にヴィクトルは思わず応接室の扉の方へと振り向き……そして言葉を失った。
「っ……!?」
「ようこそ、父親に突き放された生贄の娘達。そこにいる男はともかく、私は歓迎しよう」
そこには、ヴィクトルが眠らせ、放逐したはずの娘達がいた。
彼と同じ、覚悟を決めた瞳を宿して。
時は少しさかのぼり、ウアジャルト家との交渉が始まる前。アイリスディーナは自分の意識が、鉛のような重いまどろみから、ゆっくりと昇ってくるのを感じた。
「う……ん……」
瞼の裏を透き通る白い光と熱に、意識は静かに上り、沈み、そして上るを繰り返す。
だが、見下ろしながら絶縁を宣告した父の姿を思い出し、温い白濁に揺蕩っていた意識が、急激に覚醒した。
「…………!」
かけられていた毛布を跳ね飛ばしながら、アイリスディーナは身を起こす。落ち着きのある茶色の色彩が特徴的な客室が、彼女の視界に飛び込んでいた。
暖炉には火が灯され、パチパチと薪が弾ける音が響いている。そして、暖炉の傍に置かれた椅子には、一人の貴婦人が腰かけていた。座る彼女の膝上には、アイリスディーナの愛剣が乗せられている。
貴婦人は起きたアイリスディーナの様子を確かめると、真一文字に引き締めた口元を幾分か和らげる。
「おや、起きたのかい」
「パルライン、夫人……」
暖炉の傍で椅子に座っていたのは、アイリスディーナの父の旧友であるマザリネット・パルラインだった。
夫人はアイリスディーナが起きたこと確かめると、傍にあった卓上の水差しからコップに水を注ぎ、彼女に手渡す。
受け取ったコップをから伝わる水の冷たさが、混乱する彼女の心を幾分か落ち着けてくれた。
「あのバカが何を言ったかは、覚えているかい?」
「……はい」
「そうかい」
夫人の問い掛けに答えるアイリスディーナの声は、普段の凛とした彼女からは想像も出来ない程弱々しい。
ゆっくりと水の入ったコップを傾けるアイリスディーナを、パルライン夫人は痛ましそうに見つめていた。
マザリネットは、アイリスディーナを幼い頃から知っている。
フランシルト家の次期当主となり、家族を守る。その為に、生まれてからの十数年の時間を、ほぼ全てを使って来たのだ。
よく見れば、アイリスディーナの手がギリギリと、空になったコップを握りしめている。
それだけでなく、唇を噛み締め、悔しさを必死に押し殺している様子が、彼女がどれだけ父からの絶縁宣言にショックを受けているかを物語っていた。
「姉様!」
突然客室の扉が開かれ、黒髪の幼子が室内に飛び込んできた。
飛び込んできたのは、アイリスディーナと一緒に眠らされ、連れてこられたソミアだった。
おそらく、彼女も自分が父親から絶縁されたことを聞かされたのだろう。
悲壮な表情で駆け込んできたソミアは、ベッドにいる姉の姿を確かめると、ぽろぽろと涙をこぼしながら、姉の胸に飛び込んだ。
「ソミア……」
「姉様、父様が、父様が……。私、私……」
泣きじゃくりながら抱き付いてくるソミアの頭を撫でながら、アイリスディーナは暖炉の傍にいるマザリネットに視線を向ける。
「パルライン夫人、私は一体どれほどの時間、眠らされていたんですか?」
「一日も経っていないよ。そろそろ最後の交渉が始まる頃じゃないか?」
「そうですか……」
アイリスディーナも、父親が絶縁を突き付けてきた理由は察していた。これからフランシルト家が、因縁のあるウアジャルト家との交渉に臨むからだ。
胸の中で泣き崩れる妹の姿に、アイリスディーナの胸の内に言いようのない怒りがこみ上げる。
理性では彼女も理解できる。ウアジャルト家との密約でターゲットとなっていたのは、ソミアであり、次点でアイリスディーナだ。
だからこそ、ヴィクトルは絶縁という形で、二人を逃がそうとした。
(父様、ふざけないでいただきたい!)
だがこれは、フランシルト家を背負うと決めた今までの彼女の覚悟をドブに捨てる行為だ。腹の奥から噴出する激情にアイリスディーナギリッと奥歯を噛み締めると、おもむろにベッドから立ち上がった。
「待ちな、どこに行く気だい?」
「屋敷に戻ります。私はフランシルト家の次期当主、この一件を捨て置くことはできません」
部屋のドアに向かおうとするアイリスディーナの前に、スッと二つの影が立ち塞がった。
パルライン夫人の護衛を務めている二人のメイドである。
明らかに腕利きの気配を醸し出すメイド達。アイリスディーナの眉我が、僅かに釣り上がる。
個人的な力量では負ける気がしない。だが、今の彼女は無手の状態だ。
アイリスディーナとメイド達の視線が交わり、不穏な空気が部屋の中に満ちる。
「行かせるわけにはいかないよ。ヴィクトルはアンタ達を放逐した。もう、アンタはフランシルトじゃない」
「いいえ、関係あります。例え名を奪われようと、私の血にはフランシルト家直系の血が流れています。あの吸血姫なら自分の都合のいいように無視します」
「そうだろうね。だからこそ、アイツは残った。意味は分かるだろ?」
アイリスディーナの優れた頭脳が、脳裏に浮かんだピースをカチカチとはめ込んでいく。
そして導き出された答えに、彼女は絞り出すように、激情を吐露した。
「……勝手です」
「そうだね、アイツの我がままだ。だけど、最後の我がままだ。なら、気に入らない奴の頼みでも、多少は聞いてやるさ」
アイリスディーナの怒りをヒシヒシと感じながらも、マザリネットは淡々とした態度を崩さない。
しかし、その声色には僅かに哀しみの色が漂っていた。
「どの道、アンタ達をフランシルト邸に戻す気はない。私としても悔しいが、これが最善の手段だと思っている」
パルラインは自分の懊悩を振り払うように大きく息を吐くと、改めてアイリスディーナに視線を向ける。
しかし、アイリスディーナも退かない。
既にその資格は剥奪されようと、大家の一員としての風格と責任感を帯びた瞳で、眉ひとつ動かさずに、正面からマザリネットの視線を受け止める。
「……私達を幽閉するつもりですか?」
「ああ、少なくとも、この一件が終わるまではね」
大きく息を吐きながら、アイリスディーナは腰に抱き付いてくる妹を撫でながら、天井を見上げる。
放逐、幽閉と言っているが、つまるところはアイリスディーナとソミアを守るための対外的な外面、只の方便だ。
アイリスディーナもソミアも、全て理解している。そんな事に気付けないほど、愚か者ではない。
だが、理解したとしても、感情は喉の奥から込み上げる苦しみと共に荒れ狂う。
無力感と失望、そして憤激。太い針で刺されたような痛みが、アイリスディーナの胸に走る。ピシピシと、何かがひび割れる音が、耳の奥から響いてくるような気がした。
(それでも、私は……)
折れそうになる心を奮起させながら、今一度、アイリスディーナはパルライン夫人に視線を戻す。
幼い頃から世話になって貴婦人であり、実母を早くに亡くしたアイリスディーナやソミアにとっても、母親のような女性である。
基本的に気が強く、歯に着せぬ物言いが目立つこともあるが、それでも、とても思いやりのある、暖かい人だった。
冷えていた心に、熱が戻ってくる。
「……パルライン夫人」
「なんだい?」
「ありがとうございます。父の我がままを聞いていただいて。そして、申し訳ありません。私は、この件に従うことはできません」
そしてアイリスディーナは、父とマザリネットの好意をすべて理解した上で、袖にした。
唐突なお礼と、そして予想していた拒絶の言葉。その意味を理解し、マザリネットは苦々しそうに顔を歪める。
「アイリスディーナ……」
聞き分けのない子供を言い聞かせるような、重く、しかし暖かさのある声。しかし、それでもアイリスディーナは首を縦に振らなかった。
逃げてもいい。その選択を前にして、彼女は逃げることを選ばなかったのだ。
「私は今まで、フランシルト家の当主となるべく生きてきました。大切なものを守るために……。だからこそ、ここで退くわけにはいきません」
大切なものを守る。それこそが、彼女が剣を握る理由であり、己に見出した、生きる理由だ。
逃げることはできたのかもしれない。しかし、彼女はその選択をしなかった。
「それに、おそらくヴィトーラの目的は私達ではありません。私達を餌にして釣れる大魚が目的です」
「……ノゾム・バウンティスかい?」
「はい。私も父も、かの吸血姫にとっては、撒き餌にすぎません。だからこそ、行かねばならないのです」
「……どういう事だい」
「人質にされるなら、されるなりの方法がある、という事です」
「そんな方法、あるはずが……」
「ありますよ。たった一つだけ。針の穴を通すよりも困難ですが。もしかしたら父様も、同じことを考えているかもしれません……」
そう言いながら、アイリスディーナは笑みを浮かべる。
それはこれから死地に向かうものが浮かべるにしては、あまりにも清々しく、そして、達観した表情だった。
パルラインはアイリスディーナの悟ったような顔に、言いようのない不安を覚える。
気がつけば、夫人の手は自然と、自分の服の裾を強く握り締めていた。
「おそらく、私は死ぬでしょう。だからこそ、かの吸血姫に交渉の余地が生まれます。命を懸けずに、本懐を成す事など出来ません」
大切な人を守る。その為に生きてきた。その為に己を磨いてきた。その為に、自分の人生すべてを費やしてきた。
もう戻れないし、戻ろうという気もない。それが、アイリスディーナが自分で定めた、己の人生なのだ。
「ふざけるんじゃないよ! それを聞いて行かせられるわけないだろ!」
自らの死を冷静に計算に入れ、それを許容するアイリスディーナに、パルライン夫人が激昂する。
部屋に響く怒声が、夫人がどれだけアイリスディーナの身を案じているかを物語っている。
「捨てるんだ! 今ここで、今までの自分を! そうすれば、あんたは彼と一緒に生きていけるだろう! それがあの軽薄者の、アンタの父親の願いだ!」
今までの自分、フランシルト家としての全てを捨てろと、マザリネットはアイリスディーナに叫ぶ。
しかし、そんなマザリネットの叫びを聞いても、アイリスディーナは困ったような笑みを浮かべるだけだった。
「なら、仕方ない……」
マザリネットが、スッと手を上げる。
次の瞬間、部屋の入口で控えていたメイドが動いた。
一瞬で気を纏い、音も気配もなく、両側から挟み込むようにアイリスディーナへと襲い掛かろうとする。
彼女達を拘束して、そのままアルカザムから連れ出すつもりなのだ。
完璧なタイミングと、動作の入りをほとんど察知させない隠形。この二人のメイドは、間違いなく、Aランクの実力者だった。
「アイリスディーナ様、申し訳ありま……え?」
「きゃ!」
しかし、事態はメイド達の予想外の方向に動いた。
二方向に別れようとしていた二人のメイド。その体が突然中央へと弾かれる。
激突した二人の体はもつれ合うように床に倒れ込み、さらにそこにアイリスディーナが拘束魔法を放った。
闇色の鎖が床から出現し、二人のメイドの体を完全に拘束する。
「これは……」
マザリネットの呆然とした声が、部屋に流れる。よく見れば、メイドの体には闇色の鎖の他に、細い黒色の紐が絡みついていた。
「夫人が私を止めようとすることは分かっていました。ですので、夫人の合図に合わせて展開できる魔法を、あらかじめ用意しておきました」
そう言って、アイリスディーナは同じ魔力でできた黒色の紐を生み出し、両手に張り付けて、まるであやとりをするように持て遊ぶ。
“黒蜘蛛の魔糸”
強力な粘着力と弾性を持つ魔獣の糸を再現した魔法。
術者の意思に応じて粘性や弾性を自在に変えられる魔力の紐を、アイリスディーナはマザリネットの合図に合わせて、自分とメイドの間に密かに展開。
そのまま紐の張力で、メイド達の体勢を崩したのだ。
相手が二人で、かつ確実に自分を拘束してくることを予測し、連携の動きまで見切った上での魔法展開。
あっさりと自分の手勢が拘束された事実に、マザリネットはぽかんと口を開けていた。
「こう見えて、それなりの修羅場をくぐっておりますので」
得意げに微笑みながら、アイリスディーナは手で弄んでいた魔力の紐を消すと、改めてマザリネットに向かい合った。
「確かに、私は彼を愛しています。それに私の気持ちを汲んでくれた父様にも、マザリネット夫人にも感謝に絶えません」
「……あんた」
「彼と一緒に生きる、生きたいと思う。こんな気持ちになれるなんて、思っていませんでした。フランシルト家の当主として生きると人生を定めた時から、誰かに対して、その様な想いを抱くことはないだろうと思っていましたから」
それは、間違いなくアイリスディーナの本心。
今までずっと、次期当主としての自覚から己の内に押し込み、言葉にしないようにしてきたこと。
「たとえ、彼の隣に私の居場所が無くても、この気持ちを抱けるだけで嬉しかった。この胸の炎はもう、何があっても消えることはないでしょう」
内に秘めた想いを紡ぐアイリスディーナ。滔々と語られるからこそ、その言葉に秘められる思慕は海よりも深く、そして何よりも熱い。
自らの秘めた想いを吐露する彼女に、マザリネットはただ魅入られていた。幼かった一人の少女が、愛を知る一人の女性として羽化するその瞬間に。
「ですが、私は今までの私も捨てられない。私は彼と違って……弱いから」
妬心と劣等感に心揺さぶられはした。それでも、彼女は自分の在り方を曲げなかった。
「フランシルト家の私、家族を想う私、そして、彼を想う私……。私は、そのどれも捨てられません。一つでも捨てれば、私は私でなくなってしまうから」
否、曲げられるほど器用でもなかったのだ。普段の雑事はまるで流水に流すがごとくこなせるのに、彼女は芯の部分はどうしても不器用だった。
「パルライン夫人、貴方も、貴方であることを捨てずにここまで来たはずです。前パルライン当主に見初められ、彼を想い、彼が亡くなった時に、彼の背負ってきたものを背負うと決めて……」
その言葉に、マザリネットは本当に何も言えなくなった。
彼女自身も、かつてはアイリスディーナと同じように、たった一つの想いを貫いて、大家の当主にまでなったのだから。
「私も同じです。ですから、退けません」
歩み寄ってきたアイリスディーナが、マザリネットが手に持っていた細剣に手を伸ばす。
抵抗はなかった。力なく握られていた細剣は主の元へと戻り、夫人の手は力なく垂れ下がる。
「姉様、私も行きます」
今まで口を閉ざしていたソミアが、姉に告げる。自分も戻ると。
「ソミア、だが……」
お前はここに残りなさい。そう言い含めようと妹に振り返り……同じように覚悟を決めた妹の瞳に、二の句を閉ざされた。
「私は、ずっと守られてきました。父様に、姉様に、ノゾムさんに……」
彼女はずっと守られる存在だった。姉の後ろ、そして、友人たちの後ろで。
その事がうれしくはあったが、同時にソミアの心に影も落としていた。
姉のようになりたい。そう願ったのも、ある意味彼女の心の影が影響していたかもしれない。それでもまっすぐに、誰かを想える優しい娘に育ったのは、ひとえに自ら自覚していた影を払える愛情を、多くの人から受け取れたからだ。
「ずっと、無力な自分が嫌でした。今でも、無力なままです。でも、でも……」
ソミリアーナ・フランシルトは、自分がどれだけ恵まれているのかを知っている。そして、同時に己の無力さも知っていた。
彼女には、尊敬する姉のような才能はない。アビリティも発現せず、剣も使えず、魔法もまだまだ拙い。
「でも! 私も、フランシルトの娘です! 守られるだけじゃない。自分で、守りたい人の為に前に進まなきゃいけないんです!」
それでも、心だけは違った。
たとえ力及ばずとも、いざという時に、自らの心を見失わない強さを持っていた。
アイリスディーナの目の前にいる妹は、心だけは、既に無力なだけの存在ではなくなっていたのだ。
(ああ。もうこんなに、大きくなっていたんだな……)
アイリスディーナの脳裏に、これまでの妹の記憶がよみがえる。
母の死とともに生まれた命。小さくとも、力強く響く鳴き声に、彼女は自らの生き方を見定めることができた。
ずっと守ると誓った妹。しかし、彼女もまた成長するのだ。
「分かった、一緒に行こう」
「はい!」
力強く頷く妹に、アイリスディーナも笑みを深める。
そんな二人を見つめながら、マザリネットは観念したように大きく息を吐くと、部屋の扉を指さした。
「表に馬車を止めてある。元々は、アンタ達をここなら連れ出すために用意したものだ。使いな」
「ありがとうございます……」
手を繋いで部屋を飛び出していく姉妹。その二人を見送ると、マザリネットは瞑目し、天を仰いだ。
彼女達が扉の奥に消えていくと、メイド達を拘束していた魔法が解ける。
主の命令を完遂できなかった二人のメイドは、己の不甲斐なさに唇を噛み締めながら、深々と頭を下げる。
「申し訳ありません、ご主人様」
「いいよ、いいんだ。もう、いいんだ……」
マザリネットにとって、アイリスディーナとソミアは、娘同然の存在だった。
故に、守るつもりだった。守らなければならないと思っていた。
しかし、娘だと思っていた二人は、いつの間にかただ守られるだけの存在ではなくなっていた。
「いっちょまえに、女の顔になっていた。離れた時こそ、人は自分の想いに気付くもんだけど……いや、もう持っていたね」
特にアイリスディーナは、その優秀さは知ってはいたが、それ以上に人間として、どこか脆い部分を抱えていた。彼女にとっては、まだまだ見ていなければ危ないと思える面があったのだ。
だが、既に彼女達は、マザリネットの知る幼い少女達ではなかった。
女性として、人間として成長した二人は既に決断を下した。
かつて自分も抱き、そしてここまで歩んでくるきっかけとなった“愛する人のために”という想いを胸に。
「なら、私に出来る事は一つ。あの子たちの憂いを、少しでも取り除いておくだけ……。お前たち、分かっているね。ノゾムとジハード殿に連絡を」
「「はっ……」」
それは同時に、彼女達が自分達古い大人の手から離れたという事を意味する。ならば、もう何も言うことは無かった。
屋敷を駆けだしていく馬車を窓から眺めながら、マザリネットは喜びと寂寥感を抱きながらも、手早く動き始める。
未来ある者達の道を、繋ぐために。