第8章第38節
第8章第38節です。
すみません、10月半ばからちょっとリアルがバタバタしてました。
アルカザムから離れるために、トリフォリウムは南の商業区にシーナを連れてやって来ていた。南門とその周囲には数多くの馬と人が行きかい、様々な種類の荷を積んでは降ろしている。
南門は、言うなればアルカザムの正面玄関。巨大な門の手前にある外縁部には、他の地区とは違い、物流の為の荷を積み下ろしするためのスペースや、荷を保管する為の倉庫、荷をアルカザム各所に届けるための管理所等がある。
一種の物流基地となっている外縁部および商業区の南側。そこでトリフォリウムはエルフだと知られないように目深にフードを被り、シーナの手を引いて辺りを見渡しながら、自分達を乗せてくれる馬車を探していた。
「一刻も早くこの街を出なくては……精霊たちがざわつき始めている」
彼はここまで来るのに、思った以上の時間を使ってしまった。腕を引いてもシーナが時折立ち止まろうとするなどの抵抗をしたためだ。
トリフォリウムの精霊魔法“捜心の草笛”によって精神を抑え込まれている彼女だが、その心は今でも老エルフの魔法に抗い続けている。
そんな曾孫の抵抗に複雑な気持ちを抱くも、トリフォリウムは内心湧き立つ焦りを誤魔化しながら、手近な馬車の御者に声をかける。
「そこの人間、その馬車に乗れるか?」
「ああ? 悪いが他をあたってくれ」
大量の荷を積むためか、馬車をひく馬の数は二頭。荷台も大きく、トリフォリウム達が乗るスペースも十分にある。
アルカザムは森の中に存在し、近場の街まで行くには街道を通るしかない。
街道の交通量は多く、常に寄り合い馬車などが出ているし、アルカザムの権力が及ばない隣町への移動手段の確保は容易い。
だが、トリフォリウムは思った以上に馬車の確保に手間取っていた。
人に対して隔意があり、尊大で慇懃な口調の彼に御者が皆不快感を抱いたこともそうだが、なにより晴れているにもかかわらず、目深にフードを被った二人組という怪しい出で立ちが、彼らの警戒心を刺激していた。
(ラウルスが気づく前に、早くこの街から出なくてはならんのに!)
「仕方ない。これでどうだ?」
懐から金貨を取り出し、御者に握らせる。警戒心を漂わせていた顔が驚きに染まり、続いて口元がニヤリとつり上がる。
「なんだか訳ありみたいだな。ま、騒ぎを起こさないなら乗っていいぜ」
「ふん……」
少し金を見せただけで目の色を変えた御者に鼻を鳴らしつつ、トリフォリウムはシーナを連れて馬車の後部へと移動する。
荷台には既に木箱や麻袋などが積まれており、トリフォリウムはシーナの手を引いて、荷の隙間に体を入れて座り込む。
二人が乗ったことを確かめた御者は、手綱を振るって、馬車を南門へと向かわせる。
商業区から外縁部、そして南門へと続く道は、大きく二つ。それぞれが一方通行となっており、渋滞を緩和するように作られている。
外縁部にある物流基地の横を通れば、後は南門まで直ぐだった。
しかし、その時、トリフォリウムが乗る馬車の脇を、馬に乗った衛兵が駆け抜けていった。
門の前には槍を持った衛兵が十人近く、門番として配置されている。
馬に乗った衛兵は門番に何かを報告すると、門番たちがあわただしく動き始めた。その光景に、老エルフは眉を顰める。明らかに、何か不測の事態に対して対応しようとしている動きだからだ。
「アルカザムが動いたのか? ふむ、念を入れておくか……」
トリフォリウムは、精霊との繋がりを高めるために、少しずつ魔力を周囲に流し、精霊達に声を掛けておく。
その時、トリフォリウムが漏らした僅かな魔力を察知した衛兵が、彼らの乗る馬車に視線を向けた。
僅かな魔力を即座に感知されたことに、トリフォリウムは口元を歪める。衛兵の手元にはほのかに輝く小さな石が握られていた。
老エルフは知る由もないが、衛兵が持っていたのは魔道具。ケン・ノーティスが起こした暴力事件に対する対策としてアルカザム各所に配置された魔力結界が反応したことを示すものだ。
普段は特に何の反応も示さない魔道具。それが光ったことに、衛兵は一気に警戒を高める。
「おい、そこのお前! 何をしている!?」
門の前にいた衛兵四人が、トリフォリウムの乗る馬車のそばへと駆け寄ってくる。
「いや、なに。大したことはしていない。少しネズミに驚いてしまっただけだ」
「驚いた程度というが、特にそのような様子は見受けられなかったが……。何所に行くのだ?」
「隣町まで……」
できるだけ淡々とした口調を心掛けるトリフォリウムだが、衛兵たちの警戒心はそうそう消えない。
元々皇国のヴィトーラがこの地に来たために厳戒態勢を敷いていた彼らだ。当然、フードを被って馬車の荷台に隠れるように座っている二人組を、見逃すはずはない。
「そうか。だが、せめて話すときはフードを取ったらどうだ? 怪しいと言っているようなものだぞ」
その言葉に、トリフォリウムは臍を噛む。
フードを取れば、二人がエルフであることが一発でバレてしまうからだ。そして、彼の前にいる衛兵は、老エルフのわずかな躊躇を見逃さなかった。
衛兵の瞳が、不審から猜疑の色へと変わる
「どうした? 取れない理由があるのか?」
押し黙るトリフォリウム。衛兵達の警戒はさらに一段階上がり、四人の衛兵は馬車を囲むように展開する。
仕方なく、トリフォリウムはフードに手をかける。同時に精霊に命じ、自分の顔を特徴のない人間の老人の顔に変えようとする。
「っ! さっきよりも強い魔力反応! こいつ、何か魔法を使っているぞ!」
しかし、その行為はすぐに衛兵たちに察知された。
魔道具を持った衛兵が、さらに強力な魔力を感知したことに大声を上げ、馬車を囲む衛兵たちが一気に色めき立つ。
「お前、今何の魔法を使った!」
「大人しくしろ!」
「しかたないか……地の精霊よ。石の鎖にて彼らを縛れ」
槍を突きつけてくる衛兵を前に、トリフォリウムは強行突破することを選択した。魔力を高め、あらかじめ契約していた精霊に命令を下す。
次の瞬間、舗装された石畳がまるでゼリーのようにうねり、無数の鎖となって衛兵たちに襲い掛かる。
「うわ!」
「なんだ!?」
石の鎖は衛兵たちの体を拘束すると、そのまま彼らを地面に縫い付けてしまう。
「うわああああ!」
「なんだなんだ!」
「逃げろ! 街中で魔法を使っている奴がいる!」
突然の出来事に御者が自分の馬車を捨て、大慌てで駆けだしたのを皮切りに、一気にパニックが起こる。
アルカザムに来た者たちの中には、遠くから行商として訪れるものも多い。
当然、山賊や魔獣などに襲われた経験を持つものも多く、騒動の火種に対する反応は非常に速い。それこそ、過敏とも思えるほどに。
たとえトリフォリウムが使った魔法が拘束を目的としたものでも、“魔法という強力な力が行使された”ということに、その場にいた商人たちは一斉に退避行動を開始した。
そして、一度大騒ぎが起きれば、後は坂道を転がる大岩と同じ。無秩序に騒ぎは拡大し、周辺の衛兵達が一斉に現場に駆けつけてくる。
「ちぃ、面倒なことになった!」
トリフォリウムは主のいなくなった御者席に移動すると、魔力を込めて素早く手を振る。
風と土の精霊が、進行方向にあった十数台の馬車を除けた。
「ブルルル、ブルルル!」
「ヒヒ――ン!」
「大丈夫だ。お前達を傷つけるわけじゃない。少しだけ、走ってほしいだけなんだ」
「ブルルル……」「フシュゥウウ……」
魔力のこもったトリフォリウムの声に、動揺していた馬達は瞬く間に落ち着きを取り戻す。
動物と心を通わせるのは、妖精種の異能の一つ。老エルフと心を通わせた二頭の馬は、二人を乗せた荷車をつけたまま、開きっぱなしになっている南門へと駆け出す。
「させるかよ!」
加速し始めた馬車が一直線に南門へと向かい、あと少しで町の外へ出られるというその時。荒々しい声と共に馬車と門の間に飛び出した影が、背中に背負った大剣を振るった。
左手一本で打ち下ろされた刃が石床を吹き飛ばす。
「ヒヒ―――ン!」
舞い上がった石つぶてと旋風に、馬車を曳いていた馬達は嘶きを上げて急停止した。
「チッ、もう追いついたのか」
「悪いな。ここは通行止めだ」
トリフォリウムの馬車の進路に割りこんできたのは、大柄な金髪の青年、マルスだった。
シーナが曽祖父の手で連れ去られたことに気づいた以上、いの一番に向かうのは、アルカザムの玄関口であるこの南門である。
彼は三角巾で右手を釣ったまま、左手で打ち下ろした大剣を肩に担ぐと、不敵な笑みを浮かべた。
「ここまで走ってくるのは少し骨だったんだ。手間を駆けさせんなよ、爺さん」
「人間風情が! 退け!」
トリフォリウムが魔力を猛らせながら、馬に眼前の人間を無視して駆け抜けるように命令する。さらに彼と契約した精霊が馬車を包み込み、あらゆる加護を授けていく。
馬たちの恐怖を緩和し、御者であるトリフォリウムと精神をさらに同調させ、身体能力を強化し、馬車の構成部材全てを強化する。
更に風の障壁を生み出し、馬車全体を守るように包み込む。
そして精霊の加護を受けた馬車は、まるで竜巻を思わせる風を纏ったまま、激増した脚力で地面を砕きつつ、道を塞ぐマルスへ突進を開始した。
「ふう……」
マルスが静かに息を吐きながら、背負っていた剣を降ろし、後ろに流すように構える。
竜巻を纏いながら突っ込んでくる馬車を前にしても、彼は特に動揺した様子はない。
むしろ、口元に笑みを浮かべる余裕すら見せていた。
「試し打ちだ」
次の瞬間、マルスの大剣に巨大な風の刃が生み出された。彼の身長の二、三倍はあろうかという巨大な風の剣身。何よりも異様なのは、圧縮された風の密度だった。
トリフォリウムが精霊の力を借りて生み出した風の障壁を遥かに力強い烈風が、彼の持つ大剣の剣身には纏わりついていた。
「ぜえええええい!」
裂塵一刀。
左手一本で打ち下ろされたマルスの風刃はトリフォリウムの風の障壁を容易く抉り斬ると、二頭の馬を繋ぐハーネスを切り裂き、そのまま地面に激突。
衝撃波と風の嵐を生み出し、トリフォリウムが乗る馬車を吹き飛ばした。荷台が跳ね上がり、積み上げられていた荷が老エルフと共に宙に舞い上がる。
「う、おおおおおお!」
トリフォリウムは慌てて精霊に命じて、自分とシーナの落下の勢いを緩和しようと試みる。
精霊の力でシーナは守られたものの、彼の体は勢いよく地面にたたきつけられた。
「ごほごほ、ごほ……」
呻きながらトリフォリウムは体を起こす。馬車は横転し、馬は地面に倒された衝撃で気絶していた。
南門に集まっていた他の馬たちも総じて逃げ出しており、これで彼は脱出手段を失ったことになる。
トリフォリウムは屈辱からギリギリと奥歯を噛み締めつつも、精霊に報復を命じる。
砕けて宙を舞っていた土や砂が空中に寄り集まり、無数の石の矢を形成。マルスに向かって一斉に射出された。
マルスの体を穿たんと疾駆する石矢。しかし、その矢はマルスの体に突き刺さることなく、空中でバラバラに分解された。
「トリフォリウム様、そこまでです」
「やはりお前か、ラウルス」
横合いから、ラウルスが姿を現す。
彼の体からは魔力が滲みだし、周囲を光の粒が舞っていた。マルスに向かって撃ちだされた石矢を分解したのは、彼である。
「はい。さすがに今回の貴方様の行動は看過できません。同胞達の為にも、止めさせていただきます」
邪魔に入ってきたラウルスに、トリフォリウムは口元を歪めると、全力で魔力を猛らせる。深緑の魔力が、さらに多くの精霊に命令を下そうと手を掲げる。
老エルフの動きに反応したラウルスもまた、魔力を猛らせながら腕を突き出す。
魔力を帯びたラウルスの魔力が、トリフォリウムの魔力と干渉し、精霊との交信を阻害する。
「ちぃ!」
「さすがに、既に契約された精霊を貴方様から剥すことは出来ませんが、新たに命令を下すのを妨害することは出来ます。そして、ある程度時間を稼げば十分です」
「なに?」
「隙ありや!」
「シーナを返せ!」
次の瞬間、トリフォリウムの背後。舞い上がる煙の中から、二つの影が飛び出してきた。後詰として控えていたフェオとミムルである。
二人はトリフォリウムに背中から飛びつくと、老エルフを地面に押し倒す。
そしてフェオが懐から取り出した札をトリフォリウムに張り付けると、老エルフの体から滲みだしていた魔力が、瞬く間に四散していった。
「魔力封じの札や。これで、精霊魔法はもう使えんやろ」
「シーナ!」
「ぐうう!」
元々、トリフォリウムは肉体的にはそれほど頑強ではない。身体能力に優れ、訓練を十二分に受けている獣人を振りほどけるはずもない。
一方、ミムルはトリフォリウムの拘束をフェオに任せ、一目散にシーナの元に駆け寄る。
「シーナ大丈夫、怪我はない!?」
曽祖父に精神を封じられた彼女は、虚ろな表情のまま、宙を見上げている。
呼びかけても反応のないシーナに、ミムルはラウルスの言葉を「意志を封じている」という言葉を思い出した。
「……シーナを元に戻しなさい」
怒りを滲ませた声で、ミムルは拘束され、地面に組み伏せられたトリフォリウムを見下ろす。
親友に害を及ぼした老人に向ける灼熱の憤怒に染まった視線。しかし、瞳の奥に見える光は怖気が走るほど冷たい。
だが、害意すら滲ませるミムルを前にしても、トリフォリウムは憮然とした態度を崩さない。
「……断る。お前達こそ、早くこの街を離れることじゃ。いずれ、この街は滅びるじゃろう。龍殺しの手によってな」
「この……!」
「落ち着け。ラウルス、元に戻せないのか?」
手を振り上げたミムルを押し止めながら、マルスはラウルスに目配せする。しかし、彼は首を振った。
「無理だな。術を維持している精霊が、私との対話を拒んでいる。相当強固な契約を結んだのだろう」
「じゃあ、シーナはどうなるのよ!」
「トリフォリウム殿が解かない限り、数十年はこのままだ」
「……どうしたもんかな」
シーナがこの状態である現在、精霊魔法を使える唯一の味方が手を上げたという現状に、マルスは天を仰ぐ。
いつの間にか厚い雲に覆われ始めていた空からは、チラチラと白い粒が降り始める。
「雪? だけどなんか……」
確かに、季節的には降ってもおかしくない。しかし、その雪にはわずかに魔力の残滓が残っている。
その時、異質な雪をいぶかしむマルスの目に、遠くで空に昇る光の柱が見えた。
「なんだ、ありゃぁ……」
「魔力の柱? それにしても、あんな規模の魔力なんて、考えられへんで。それに、あの柱のある方向……」
柱が見えていたのは、マルスたちから見て北側の方角。ちょうど、フランシルト邸がある方向だった。
フランシルト邸の応接間。白亜の大理石と品の良い調度品に彩られた一室で、銀髪の美女が革製のソファーに腰かけながら、出されたワインに舌鼓を打っていた。
この日、ヴィトーラは件の協定を正式に結ぶために、フランシルト邸を訪れていた。
外は既に日は既に南中を超え、徐々に西に傾き始めている。
既に冬を迎え、空気は冷たい。しかし、故郷とは違い、陽の光が差す空を、ヴィトーラは満足げに見上げていた。
彼女の後ろにはルガトが控え、主のワイングラスが空になる度に、静々と深紅の葡萄酒で満たしている。
ヴィトーラが窓の外を眺めていると、応接間の入り口の扉がガチャリと開いた。
「ヴィトーラ殿、お待たせして申し訳ない」
入ってきたのは、この交渉の全権を委任されているヴィクトル。
そして、彼の後ろには、彼に仕えるメイドであるメーナが控えている。
「気にする必要はない。非常に美味なワインを楽しませてもらったからな。それにしても、寂しい館だな。他の使用人はいないのか?」
そう言いながら、ヴィトーラは手に持ったワイングラスを掲げた。
先ほどルガトが注いだワインは、すでに半分ほどが無くなっている。
「此度の件の重要性を考え、一時屋敷から出払わせていますので。それはそうと、そのワインはブリューニュ地方でしか取れない特別なものです。我が国と皇国が国交を結べば、今後は姫がご満足できるだけのワインが届けられるでしょう」
「つまらぬ前文句はよい。始めるぞ」
ヴィクトルには一切視線を向けず、テーブルに肘を立ててグラスを弄びながら、吸血鬼の姫は予めフランシルト家から提示されていた条件を、淡々と語り始める。
「其方が求めるのは、我が領内にあるミスリル原石の購入。そちらは輸入品の保証と、イジェン港の港湾設備の拡張、交易のための道路整備すべてを負担する、だったな?」
イジェン港はフォルスィーナ国の北部にある港であり、現在最も北にある不凍港だ。
ディザード皇国の国境ともほど近く、交易に使う品を集めるには適した港といえる。
しかし、輸入品などを満載した大型船が入港するには港湾設備が十分ではないため、拡張を行う必要があった。
また、道路整備も必要不可欠だ。それらもフランシルト家が全負担することになっている。
「ウアジャルト家が求める品は、こちらが集めてイジェン港内に集積し、取引は国境の関で行う。また、集積した品の安全については、国境まではフランシルト家が保証します」
皇国内には、純度の高いミスリルの鉱脈が存在する。
その純度は大陸でも間違いなく最高峰のものであり、フランシルト家が求めたのは、そのミスリル鉱脈の資源だった。
一方、フランシルト家がウアジャルト家に提供するのは、イジェン港の拡張と道路整備、および国境までの輸入品の品質、安全確保。
輸入品の保証には、海上輸送のための保険も含まれている。
船のような海上輸送などでは、荷主はもしも値を損失した場合の保険を掛ける者が多い。
大量輸送に適しているだけに、それが損失した場合の損害も計り知れないからだ。
他にも、船で荷を運ぶ際、必ず港では様々な手数料が発生する。
岸壁使用料、設備使用料、倉庫使用料などなど。これらも、フランシルト家が便宜を図ることになっている。
これは、フランシルト家には大きな負担となる。
さらに、ウアジャルト家は港湾、街道、国境の関の整備も大規模に行わなければならない。
一方、ウアジャルト家はディザード皇国内で、唯一の外交窓口となり、交易による利益独占が可能な立場となる。
ディザード皇国内には大規模な港というものが存在せず、また、寒冷な地であるために、冬場はすべての港が氷に覆われ、使えなくなってしまうからだ。
後の問題は貨幣の交換レートだが、このあたりについても既に話は通っている。
また、荷や金銭の受け渡しをするのは国境であり、ウアジャルト家はフォルスィーナ国に入ることはほとんどない。
初期投資が莫大だが、ミスリルの安定供給は、軍事上、外交上で大きなメリットである。
だが、この条約の根幹的な存在意味は“まったく国交がなかった二国が、限定的とはいえ条約を結んだ”という一点に尽きる。
金が流れれば人が流れ、縁ができて親交が生まれ、それが結果的に他国との戦争を抑制する。
それがヴィクトルの最終的な目的だった。
「はい、もしよろしければ……」
「よい、話はルガトから聞いている。一々繰り返す必要はない。簡潔に結論を言えば、我としては、条約を結ぶことに異はない」
「ありがとうございま……」
「ただし、ある条件を追加させてもらう」
ヴィクトルの感謝の言葉を遮りながら、ヴィトーラは手にしたワインのグラスを弄びながら、意味深な視線をヴィクトルに向ける。
「人の子よ、義務を果たせ。過去に我が一族と交わした契約を履行し、その義務を全うせよ。それが、この条約を結ぶ条件だ」
ヴィトーラはここに来て、改めて過去の密約を持ち出してきた。
一方ヴィクトルもこの展開は予想済みであり、特に動揺した様子もなく、淡々とした口調で返す。
「過去の密約については、既に話が通っているはずです。この条約締結にあたり貴国に提供する資本はすべてフランシルト家が負担する。この条約を結ぶ上で、そちらに利点こそあれ、不利な点はないと思いますが?」
「ああ、そうだな。こちらが不利益を被ることはないだろう。だがダメだ、過去の契約履行を追加せよ」
しかし、ヴィトーラも退く気がない。
相手の恭順とも取れるような好条件の条約を前にして、自らその契約書を破りにかかっるという、常軌を逸した行動をとっていた。
「到底受け入れられません。すでに契約書自体が消失している今、この密約自体が無効に……」
「どうでもいい」
「なんですと?」
「どうでもいいといった。契約書の有無も、密約を結んだのが過去の当主だろうと、どうでもいい」
グラスの中に残っていたワインを飲み干し、従者に空のグラスに三度ワインを注がせながら、ヴィトーラは窓の外に目を向けた。
無関心な瞳には、食い下がろうとするヴィクトルは映っていない。
そもそも、話し合いが始まった当初から、彼女の目にはこの場にいる誰も映っていなかった。
「はっきり言えば、お前の話も、この協定自体もどうでもいい。私はこの街に来た理由は、そもそもこんな話をするためではない。このような些事、ルガトに任せれば済むことだからな」
「ノゾム・バウンティス、ですか?」
ノゾムの名前を出した瞬間、無機質なヴィトーラの瞳に、強い光が灯る。
窓の外、遠くにいる龍殺しにのみに関心を向けている死鬼姫の目が、ここに来てようやくヴィクトルに向けられた。
「ああ、そうだ。あの男をこちらに引き渡せ。そうでなければ、フランシルト家の寵児を引き渡し、過去の契約を履行せよ」
ノゾム・バウンティスを引き渡せ。そう語る彼女の顔は、いつの間にか恍惚とした表情を浮かべていた。
相当昂ぶっているのか、ヴィトーラの体から魔力が猛り始める。全身を氷漬けにされたような冷たい感覚が、ヴィクトルに襲い掛かった。
ピキピキと彼女の手に持ったグラスが凍り付き、パリンと割れ、彼女の体から噴き出した冷気が徐々に応接間全体へと広がり始める。部屋全体が軋み、大気が悲鳴を上げ始める。
滲みだしていた魔力は、やがて視認できるほどの密度となり、応接間はおろかフランシルト邸全体を飲み込み始める。
ヴィクトルがちらりと横目で窓から外を確認すれば、ヴィトーラの魔力の影響なのか、雪が降り始めていた。
まさしく魔女、否、それ以上の、文字通り隔絶した次元違いの存在。息をするように災いを振り撒ける超越者。
折れそうになる心を必死に保ちながら、ヴィクトルは絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……無理ですな。彼は現在、ソルミナティ学園の生徒。彼の身柄に関して、私に決定権はありません」
圧倒的な存在に威圧されながらも、ヴィクトルが口にしたのは、拒絶の言葉。
娘の為にノゾムを差し出すと思っていたヴィトーラは、彼の意外な答えに、初めて興味の視線を目の前の壮年の紳士に向けた。
「ほう、なら、フランシルト家の寵児を……」
「それも無理ですな。既に私に娘はおりません」
娘はいない。その言葉の裏を察したヴィトーラの口元が僅かに吊り上がる。
「なるほどなるほど、家を追い出したか。確かに既に縁を切られたとなれば、契約上あの者達に手は出せなくなる。だが、それで私が引き下がると?」
「いいえ、思っておりません。ですが、貴方にとってもっと良い話があります。少なくとも、貴方の退屈を紛らわせるくらいのお話が……」
ヴィトーラの魔力は、あまりにも強力だ。同族ですら恐怖を覚え、故に彼女の城にいる配下は、ルガト一人である。
そんな彼女の魔力を当てられても、目の前の男はまっすぐに彼女を見返していた。その瞳に、絶対に勝利を得るという、強烈な欲求を宿して。
勝利を求めるヴィクトルの瞳を前に、ついにヴィトーラの瞳が享楽の色を帯び始める。
個人としての力量は、まるでお話にならない。しかし、その提案を聞いてみようと思う位には、彼女はヴィクトルに興味を抱き始めていた。
そして、ヴィクトルがゆっくりと口を開く。
「ヴィトーラ殿、私と結婚していただきたい」
「……は?」
稀代の魔女の口から、緊張感に満ちた場にはふさわしくない、間の抜けた声が漏れた。
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