表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
201/221

第8章第37節

「いなくなったって……。何時だ?」


「今朝らしいよ。ミムルが朝起きたら、部屋からいなくなっていたみたいなんだ」


「ぐしゅぐしゅ……チーン!」


 ズビズビと涙を浮かべるミムルに自分のハンカチを渡しながら、トムは恋人から聞き出したシーナの事情をその場にいた全員に話す。

 血約の儀と、それによってシーナの身に起こった変化。連れ戻しに来た曽祖父と、その付き人。

 ミムルから事情を聴いたマルス達は、皆一様に難しい表情を浮かべる。ティマにいたっては目を見開き、両手を口に当てて言葉を失っていた。


「しかし、シーナさんがそんな状態になっていたなんて……」


「まあ、そんな状態で紅髪姫とノゾムのラブシーンなんて見せられたら、自棄になっても仕方ないわな~~」


「ラ、ラブシーン!?」「わ~~~~ん!」


 その場にいたほどんどが硬い表情を浮かべる中、あくまでも調子が軽いのがフェオだった。

 相も変わらず気の抜けたようなセリフを口にしているが、そのセリフにティマとミムルが過剰反応してしまう。


「ティマもそこの猫もちょっと落ち着け。まあ、事情は分かった。確かにシーナがそんな状態になっていると知ったら、ノゾムは気を病むかもな」


 マルスは興奮状態のティマとミムルを宥めつつ、視線をトムに向ける。

 泣き崩れるミムルやシーナに感情移入してしまっているティマと違い、男勢は結構思考に余裕がある。

 ミムルから話を聞く限り、シーナ自身が色々と溜めこみ過ぎて爆発した可能性が高い。

 とはいえ、肉親の言葉を否定した以上、彼女がアルカザムから出ていくとは考えにくい。


「ま、連れ戻す言うたってエルフの長老の言葉を否定しとるし、一時の感情が爆発した位なら、落ち着いたらそのうち戻ってくるんやないか?」


「そ、そんなごど、分からないじゃないが~~!」「そうよ! ここはみんなで探すべきよ!」


 あっけらかんと放置して問題なしと言い切るフェオに、ミムルとティマが猛反対する。

 話を聞いていたカミラもそわそわと落ち着きなく体を揺らしているが、カミラは事情がよく分からない。隣のリサに至っては「しょうがないな」というように肩を竦めていた。


「さて、どうするかな。授業を休むのは別にいいんだが……」


 とりあえず、シーナの身に起きた事態はノゾムに話したほうがいいだろう。そう考えたマルス達だが、その時、後ろから語り掛けてくる女性の声が響いてきた。


「ここにいましたか」


 話しかけてきたのは、三学年二階級の担任であり、ジハードの補佐を行っている女性教師、インダだった。

 学園の方向からやってきた女性教師は、ようやく見つけたというように大きく息を吐く。

 そしてマルス達を一瞥すると、僅かに目を細めた。


「貴方達に話があって探していました。急ぎの用だったのですが……ノゾム君とシーナさんはどうしたのですか?」


「アイツも今日は来ていねえ。シーナの奴も、早朝に寮から出ていったらしい。それで、話ってなんだ?」


 ノゾムとシーナがいないという話を聞いて、インダは目元をさらに引き締める。

 鋭さを増したインダの視線に刺激されたのか、マルス達もまた一様に緊張感を漂わせる。


「シーナさんについてです。貴方達に話しておかなければならないことがありますので、ついて来てください」


 そう言うと、インダはマルス達の返事も聞かず、話す時間も惜しいというように踵を返した。普段の落ち着きのある彼女とは違う焦りを漂わせた様子に、マルス達は自分達の内にうごめく不安感がさらに増していくのを感じながら、インダの後を追っていった。










 インダが案内したのは、ジハードの執務室。

 マルス達はインダに促されるまま、立派な樫の木の扉を開けて部屋に入る。


「ジハード先生、彼らを見つけました」


「ありがとう、インダ先生」


 執務室に入った瞬間、マルス達は皆一様に首をかしげた。ジハードが座る執務机の隣に、美麗なエルフが立っていたからだ。


「誰だ?」


「あ、あんたは!」


 マルス達が何故か執務室にいたエルフに首を傾げる一方、その人物に心当たりのあったミムルは、犬歯をむき出しにして気色ばむ。

 ジハードの隣にいたのは、シーナの婚約者候補であるラウルス・フォリウム。

 相も変わらず舞台男優のような端正な顔を微笑ませながら、執務室に入ってきたマルス達を出迎えていた。


「昨日ぶりですね、シーナのお友達。ご機嫌はいかがですか?」


「何がご機嫌いかがよ! この陰険エルフ!」


「陰険とは……。随分と嫌われましたね。私は彼女にとって、最良だと思う事をしていただけなのですが……」


「こんの……!」


「ミムル、落ち着いて。そうですか、貴方がシーナの婚約者候補の……。それでジハード先生、お話ってなんでですか?」


 頭に血が上ったミムルが、ラウルスに詰め寄ろうとするが、それを傍に居たトムが抑えつつ、自分達を呼び出したジハードに話を促す。

 この短いやり取りの中でも、シーナが行方不明になった原因の一端がこのエルフにあることは容易に想像がついたが、問題はそこではなさそうだという事も察することができていた。


「こちらのエルフの御仁が、ノゾム君とシーナ君に話があったらしいのだが……。彼らはどうした?」


「色々あって、今ここにはいねえ。とりあえず、話を聞いてから探して、伝えておくさ。……ヤバい話なのか?」


 ジハードの話を引き継ぐように、ラウルスがマルス達の質問に答える。


「少し、ね。正直、エルフとアルカザムの間で問題になりかねない話だ。我らがエルフの長老の一人、トリフォリウム様が、シーナをアルカザムから連れ出そうと躍起になっている」


「それは知っている。ミムルの奴から聞いたからな」


「そうかい。じゃあ、トリフォリウム殿が力づくでシーナを連れ出すことを決めたことも知っているかい?」


「……なるほど、そこまで本気なのか。というか、シーナを連れ帰ることが目的なら、何でお前はここにいる?」


 立場的にも明らかに上の人物に対しても、マルスは物怖じしない。むしろ、警戒感を露わにして、正面からラウルスを睨みつける。

 一方、ラウルスもマルスから向けられる敵意の視線を、穏やかな微笑みで受け流している。彼としても、このような敵意を向けられることには慣れている様子だった。

 マルスの質問に答えるように、ラウルスは静かに胸の内を吐露し始める。


「力づくで彼女を連れ帰ることは、本意ではない。というか、やるべきではない。彼女は現在、ソルミナティ学園の生徒だ。エルフの長老が身内の問題だと正当性を声高に叫んだとしても、彼女の意思を無視して無理矢理連れ帰ろうとすれば、それは立派な誘拐になる」


 そして、同時にそれを実行すれば、エルフとアルカザム、ひいては他種族との間に遺恨となる。それは、他種族との交渉を任されているラウルスにとっては、絶対に避けるべきこと。


「ただでさえ、エルフは大侵攻の際に他種族の忠告を無視した経緯がある。これ以上、恥の上塗りをするわけにはいかないのさ」


 そう言って、ラウルスは自嘲の笑みを浮かべた。

 他種族間との交渉を纏めてきたこの青年にとって、さすがにトリフォリウムの行動は目に余るようになっていたのだろう。


「どうやって連れ出す? 力を失っているとはいえ、シーナの奴も相当抵抗するんじゃないか?」


「今の彼女は、精霊との繋がりを完全に失っている。魔力もまともに練れない状態では、精霊魔法を使えるトリフォリウム様には何の障害にもならないだろう。たとえ抵抗しても、トリフォリウム様は精霊魔法でシーナの意思を封じてしまうだろうね」


「随分と、酷いことをするな」


「そこまで本気なのさ。あの方はずっと、シーナを手元から離したことを気に病んでいたし、何よりこの街には、噴火寸前の火山が二つもあるからね。龍殺しと、それに興味を抱く死鬼姫という、特大の火山が……」


 ノゾムが龍殺しであることを明言したラウルスに、マルス達の視線が一層剣呑さを帯びる。その事実を知っているのは、この学園でも極一部。まして、外部の人間が知っているとは思えない。

「喋ったのか!」とマルスが無言の抗議の視線をジハードに向けるが、ジハードは黙って首を振り、否定する。


「……精霊魔法、か?」


 ジハードが喋っていないと考えると、残る可能性はエルフが持つ固有の魔法。しかし、ラウルスは首を振って、マルスの言葉を否定する。


「それは切っ掛けだね。龍殺しの君についての情報をもたらしたのは、彼の後ろに控える精霊の王さ」


「ゾンネの爺か……理由は?」


「火種を龍殺しの君に近づけるわけにはいかないそうだ」


 ラウルスの言葉を聞いて、マルス達は苦々しい表情を浮かべた。それはつまり、ゾンネはシーナに関して手を切ったという事になる。

 捜索には協力してくれないだろうし、場合によってはノゾムに連絡することを邪魔してくる可能性もある。

 ゾンネは現在、ノゾムに精霊魔法の指導をしているとはいえ、元々は龍族が彼に差し向けた監視者だからだ。


「そういうことだ。少なくとも、エルフの長老が我が学園の生徒を拉致しようとしている事が分かった。現在学園はフォルスィーナ国とディザード皇国との交渉の準備で忙しいが、放置しているわけにはいかない」


「分かった。俺達も協力しよう。ノゾムの行き先には心当たりがある」


 事情を知った以上、マルス達に見て見ぬふりをするという選択肢はない。

 ゾンネが邪魔してくるかもしれないが、その辺はどうにかするしかないだろうと、マルスは割り切って考えることにした。

 それに、トリフォリウムを止めることができれば、ゾンネが懸念する火種の一つが消えるのだから、結局は問題を解決できる。


「問題は行方が分からないシーナの方だが……」


「私が行こう。力になれるはずだ」


「分かった」


 名乗りを上げたのはラウルスだった。彼はエルフであり、シーナやトリフォリウムと同じように精霊魔法が使える。

 精霊との意思疎通も出来るなら、シーナ達を探すには確かに有用だ。

 ミムルを始めとした一部の仲間達は渋い顔をしているが、マルスは直ぐに彼の強力を受け入れることに決めた。


「ただ、トリフォリウム様の精霊魔法は、私よりも強力だ。全力で抵抗されたら、流石に厳しい……」


「そっちはどうにかしてもらう。ジハード、衛兵はどのくらい動かせる?」


「二十人といったところだ」


「少ないな……」


 巨大なアルカザムを維持するための衛兵は、少なくとも千人以上存在する。

 おまけに、下手をすればアルカザム中を探さなければならないことを考えれば、この人数はあまりにも少ない。

 マルスの指摘に、ジハードは眉を顰め、苦々しい表情を浮かべる。


「フランシルト家とウアジャルト家の交渉が前倒しになったからだ。どうやら、あちらでも大きな動きがあったらしい。明後日の予定だったらしいが、今日から行われるらしい」


「……どういうことだ?」


 マルスがフェオから聞いた話では、交渉が始まるのは明後日のはず。

 声のトーンを落としながら確かめてくるマルスに、ジハードは大きく息を吐くと、緊張した面持ちで口を開く。


「アイリスディーナ・フランシルトとソミリアーナ・フランシルトが、フランシルト家を放逐された。どうやら、ヴィクトル殿が娘の安全のために、強硬措置をとったらしい」


「そんな……。アイとソミアちゃんは、今どこに!?」


 その言葉に最初に反応したのは、アイリスディーナの親友であるティマだった。

 驚愕と焦燥を浮かべながら、詰め寄るように前に出る彼女に、ジハードは低い声で淡々と説明を続ける。


「二人は現在、パルライン家に保護されているようだ。星影が、眠らされている二人を確認している」


 一応二人の無事を知らされ、ティマの肩から幾分か力が抜けたが、それでも彼女の顔に張り付いた焦りの色は濃い。

 一方、立て続けにあちこちで事態が動き始めたことに、マルスとフェオは胸の奥で疼いていた不安感が、いよいよその牙をむき出しにし始めたことを感じていた。


「交渉が前倒しになったことで、アルカザム側の対応にも混乱が生じている。現在、衛兵の大多数は、安全確保のためにフランシルト邸の周囲の封鎖に翻弄されているのだ」


「吸血鬼が一般的に言われてきた血を求めるだけの種族ではないと分かっても、長年培われた認識は簡単には覆りません。まして、開園祭で姿を見せたヴィトーラに、その場に参加した誰もが本能的な恐怖を抱いてしまっています」


 ジハードの説明を、インダが補足する。

 あまりにも強大な力を持つヴィトーラの存在感は、たとえ彼女本人が周囲に見向きすらしなくとも、そこにいるだけで他者を恐怖に駆り立てていたらしい。

 例えるなら、海でぷかぷかと浮きながら寛いでいたら、自分の脇を巨大鮫が通過していたような状況。巨大鮫が小さな獲物に興味がなくとも、普通の人間なら恐慌を起こすところだ。


「おまけに、今はアルカザムの議会も混乱しています。アルカザムが存在する原理を曲げてまで、フランシルト家とウアジャルト家を追い出せと叫ぶ者もいます」


 ヴィトーラがもたらした潜在的な恐怖は、普段は賢人としてこの街を治める者達にも大きな影響を与えていた。

 アルカザムの存在原理。人材育成と研究の発展という目的で造られたこの都市だが、その大本の理念は、魔獣という脅威に対抗するため、大陸の人々の力と意思を結集するということだ。

 多くの犠牲の果てに掲げられた理想。しかし、人が持つ根源的な恐怖は、その理念すら打ち払い始めている。

 続けざまに語られるジハードの説明が、マルス達の不安感をさらに加速させた。


「何だか、ヤバイ感じだね……」


「ああ、とにかく、ノゾムとシーナを探すぞ」


 マルスの言葉に、その場にいた皆が一様に頷く。


「アルカザムは現在、前倒しになったフランシルト家とウアジャルト家による混乱を抑えるのに手が離せない。申し訳ないが、そっちを頼むぞ」


「分かっているさ」


「ジハード先生、私も彼らと一緒に行きます」


 小さく頷き、マルス達はジハードの執務室を後にする。

 彼らの後ろにインダとラウルスが続く。彼らの行動を円滑に進めるには、学園でも立場のあるインダや、数少ないエルフであるラウルスの協力は必須だ。

 執務室から彼らが出ていくのを見届けたジハードは、ゆっくりと立ち上がると、徐に窓の外に目を向けた。

 彼の視線の先には、ソルミアンティ学園と併設された、グローアウルム機関の建屋があった。









 アルカザム外縁部。

 広い、草の生えた平地にやって来たシーナは、ちょこんと芝生の生えた地面に腰を落ち着けていた。肌寒い冬の空気と、冷え切った大地の冷たさが、シーナの心の熱を、幾分か和らげてくれる。


「ふう……学園、休んじゃった……。ふふ……」


 胸の奥から湧き上がる興奮に、シーナは顔を綻ばせる。

 曽祖父に絶対に帰らないと言い放った後に寮に帰った彼女だが、翌日の早朝、同居人が起き出す前に街に出た。

 曽祖父相手に大声で思いのたけをぶちまけたからだろうか、一晩という時間を空けたからだろうか。

彼女自身の予想に反し、胸の奥に巣食っていた疼きは、いつの間にか収まっている。否、むしろ溜まっていた膿が洗い流されたかのように、心は穏やかだった。


「やっぱり、私は彼が好き。彼とずっと、一緒にいたい。例え、もう役に立てなくても、私の夢を……捨てることになっても」


 それが、リサの発破で改めて自分の気持ちに向き合った彼女の答え。

 同族からは、間違いなく罵られるだろう。エルフの誇りと悲願、それを捨て去るのだから。

 だけど、それでもシーナはノゾムと一緒にいることを決めた。自分の夢を捨てて。そして一度心に決めてしまえば、心は自然と落ち着きを取り戻していた。


「気持ちいい風。ミムルにも心配かけちゃったわね。多分、今もそうだけど……」

 

 パタン、と地面に寝転び、冷たくも穏やかな風を全身で受けながら、シーナは朝焼けの空を見上げる。

 そして、ノゾムと重ねた唇の感触を思い出しながら、そっと自分の唇に指を沿わせた。


(最近、彼に会えていない。会いたいな……)


 脳裏に穏やかに微笑むノゾムの顔を思い出し、シーナの胸の奥から愛しさと渇望が染みだしてくる。同時にシーナは、大きな秘密を彼に伝えていないことを思い出す。


(血約の儀の意味と、その結果。ちゃんと話さないと。それから、私の気持ちも……)


「ホント、強いな……」


 一人の紅髪の少女の姿が、シーナの脳裏に蘇る。

 精霊という寄る辺を再び失って初めて気づいた、人が人を好きになることの怖さ、愛しさ。そして、強さ。

 エルフでありながら人と同じ孤独を抱えたからこそ、彼女は人が持つ弱さを知り、強さを見ることができた。

 既に心は決まっている。後は、行動に移すだけ。


「……よし」


 強い覚悟を決めた笑顔を浮かべながら、シーナは身を起こす。

 視線の先には、いつの間にかこの場にやってきていたトリフォリウムの姿があった。

 突然現れた曽祖父の姿にも、シーナは動じず、むしろ笑みを浮かべたまま、唯一の肉親を出迎える。


「これが最後だ。里に戻るのだ」


「お断りします。ここが、私の居場所です」


 既に何度も繰り返されたやり取り。しかし、シーナの声には、今までになかった落ち着きが漂っていた。

 今までにない強さを秘めた彼女の声に、トルフォリウムは目をそばだてる。


「シーナよ、昨日も言ったが……」


「はい。確かに、私はもう無力です。何もできません。それでも、私はここに残ります」


「…………」


 トリフォリウムが黙り込む一方、シーナは淡々と、しかしながら力強い口調で、己の心の内を吐露し続ける。

 あまりにもハキハキとしたシーナのセリフに、トリフォリウムの胸の内で渦巻いていた戸惑いが、やがて確信へと変わっていく。

 そしてその確信は、彼にとっては望んでいないものだった。すなわち、シーナが本当の意味で覚悟を決めてしまったということ。


「彼の傍が、私の居場所です。たとえ彼が先に逝ってしまうのだとしても、我を失った彼の刃でこの身が滅びたとしても、それでも彼の傍にいます」


 たとえ自分が死んだとしても、愛しい人の傍に居る。居続ける。

 その瞳に迷いやい後ろめたい感情はなく、ただ純粋に、愛しい人を想う慈愛に満ちていた。


「っ……」


 完全に心を決めたシーナの瞳を前に、トリフォリウムの脳裏に強烈な瞳に十年前の光景が蘇って来る。彼女の姉も、このような慈愛に満ちた瞳をした、優しい女性だった。

 同時にエルフらしく、一度決めたらどのような結果であれ、それを受け入れる覚悟を持った頑固な性格だった。

 その性格ゆえに、彼女は死んだ。

 一本の大樹を中心としたエルフの国が滅んだ、魔獣達の大侵攻。絶対的な堅牢さをもたらしていた大樹が落ちた時に、燃え盛る国と運命を共にした。より多くの同胞たちを逃がすために。


「曽お祖父様、申し訳ありません。そして、心配してくださり、ありがとうございました」


 あれだけ声を荒げたトリフォリウムに対して、既にシーナは負の感情を抱いていなかった。たとえ受け入れられないのだとしても、只々己の身を案じる肉親の気遣いに感謝している。

 トリフォリウムの目には、悟りきったシーナの表情が、彼女の姉の最後の姿に重なって見えていた。

 薄く微笑むその姿も、まっすぐに見つめてくるその眼差しも、何もかもが瓜二つだった。それが悲しみと安堵、そして焦燥を湧きあがらせ、どうしようもなく老エルフの心をかき乱す。


「どうしても、ダメなのか……」


「はい」


「そう、か。そうか……。もう、言葉ではお前を止められんのだな」


 瞑目しながら天を仰ぎつつ、トリフォリウムは唯一残った血族たる少女に思いを馳せた。

 トリフォリウムは、隠れ里にいた時のシーナを知っている。精霊魔法を失った彼女は、隠れ里の中でも腫物のような扱いを受けていた。

 別に村八分にされていたわけでも、侮辱されていたわけでもない。

 しかし、向けられる憐みの視線は、すべてを失ったシーナを追い詰めるには十分すぎた。

 エルフの隠れ里の中で自らの居場所を感じられなかったシーナは、かつての故郷を取り戻すということを目的に、アルカザムへ行くことを決めた。

 トリフォリウムは当然反対した。他種族に対する根強い不信感も手伝っていたが、なによりも心荒れていたシーナが里を離れた結果、取り返しのつかないことになるのを危惧した。

 結果から言えば、トリフォリウムはシーナを説得できなかった。大侵攻から七年ばかりの間に、シーナは精霊魔法を使えずとも、自衛をするには十分すぎるほどの力を身に着けてしまっていたからだ。

 それでも簡単に引き下がるトリフォリウムではなかったが、結局、一昼夜にわたる口論の末、シーナは半ば家出という形でアルカザムへと向かってしまった。

 その時は、彼女が七年の間に身に着けた力を信じ、大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。

 だが、今回彼女の周囲でうごめく脅威は、老エルフが自分に言い聞かせた言い訳など、既に完全に吹き飛ばしてしまっている。

 故に、ここに来てシーナの説得が不可能だと悟ったトリフォリウムは、最後に手段に出た。


「なら仕方ない。力づくで連れ帰らせてもらう。それが、約束だ」


「約束?」


「そうだ、大樹と共に戦い、亡くなったお前の姉とのな……」


 トリフォリウムは己の魔力を高め、周囲の精霊を呼び集め始める。

 しわがれた老体から噴き出す魔力光に導かれ、きらきらとした光の粒子が集まり始める。

 現れ始める精霊魔法の前兆。しかし、明らかに自分に向けられる魔法を前にしても、シーナは特に抵抗する様子を見せない。


「抵抗、せんのか?」


「全ての力を失った私では、抗えません。曾お祖父様の魔法を止める術はないです。ですが、私は自分の心は曲げません」


 愛する曾孫の宣言を前に、トリフォリウムは用意していた精霊魔法を発動する。

 周囲を舞っていた精霊たちが一斉にシーナに殺到し、彼女の周りを包み込むように飛び回る。

 やがて、シーナの瞳から、徐々に意志の光が消えていく。


「お前の意識を封じ、そして連れて帰る。すまぬ、恨んでくれて構わん」


“操心の草笛”


 トリフォリウムが使った魔法は、対象の精神を封じ、術者の思うとおりに命じた行動をとらせる魔法。気まぐれな妖精が、戯れに草笛で人をかどわかす様子から名を付けられた精霊魔法だった。

 ただ、その効力は桁外れであり、効果範囲の中であれば、百人だろうが二百人だろうが、意思を封じて人形とすることができ、同時に精霊という強力な存在の力を借りるが故に、並の対抗手段では対抗できない。

 その効果は、かつてルガトが使った結界による催眠魔法より、遥かに強力だった。

 シーナの意思を封じたトリフォリウムは、アルカザムの外を目指すべく、シーナを連れて南門へと向かおうとする。


「シーナよ、この街を出るぞ。ついてくるのだ」


 しかし、トリフォリウムの命令に反し、シーナはその場から微動だにしない。

 魔法の掛かりが浅いのかと思い、トリフォリウムは契約した精霊たちに命じて、再びシーナの意思を封じようとする。しかし、どれだけ精霊に命じても、精霊達から帰ってくる答えは、「術はしっかり効果を発揮している」というもの。


「どういう事だ? まさか、あの龍殺しと魂が繋がっていることに原因が? それとも……」


 周囲を飛び交う精霊に語り掛けるも、精霊たちからの答えは、これ以上は効果がないという返答のみ。恐らくは、封じた意思がトリフォリウムの命令に逆らっているのだ。

 トリフォリウムは曾孫の頑固さに呆れとも諦観ともとれる表情を浮かべると、その手を引きながら、アルカザムの南門へと足を進め始めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ