第8章第35節
夜の闇に包まれた森の中、ノゾムはかつて師と修行をしていた時のように、ひたすらに自分の体を酷使していた。
一般人なら数歩で木の根に足を引っかけるか、石に躓いて転ぶような悪路を、狐か猫のように音もなく駆け抜ける。
己の鎖を解かぬまま、森の魔獣達に気づかれることなく二時間近く走り続けたノゾムは、ゴール地点であるシノの小屋に到着すると、今度は腰の刀を抜いてひたすらに型を繰り返す。
屍竜との戦いで倒壊した小屋の前で、ノゾムは刃と身体に気を纏わせながら、夜の闇に一閃を描き続ける。ひたすらに、ただひたすらに。
どれほど振るっていただろうか。やがて肉体の限界を超えたノゾムは、抜身のままの刀を放り出し、地面にあおむけに倒れ込む。
「はあ、はあ、はあ……」
荒い息が口から溢れ、汗が止めどなく流れる。
熱を帯びた体からは白い湯気が立ち上り、冬の冷たい空気に溶けて消えていく。
かつて、逃避の為に刀の鍛錬に没頭した時のような疲労感が、優しく全身を包み込んでくる。懐かしい感覚だった。
「なんというか、一人でここまで追い込んだのは久しぶりだな……」
体が鉛になったかのような疲労感の中で、ノゾムは独白する。
ノゾムは三学年になってから、一人鍛錬することは少なくなっていた。新たに得た縁と、取り戻した温もりが、彼にかつての孤独を忘れさせてくれていたから。
だが、今は一人で考える時間が必要だった。
「俺は龍殺しで……いや、ちがうな」
こうして一人で限界まで体を酷使することで雑念を払い、冬の土の冷たさを背中で感じながら、思索に耽る。
かつて逃避に走っていた自分を自覚し、過去の清算をつけ、そして今、未来について考えなくてはいけない。
「俺の、やりたい事……」
リサの告白を受けられなかった理由。彼自身がやるべき、そして、成すと定めたこと。
だが、幾ら考えても、答えは出てこない。
暗闇の中で光を求めるように、彼は近しい人達が抱く夢を思い返す。
「アイリスはソミアちゃんを守るため、ソミアちゃんは、アイリスのようになるため」
「リサは冒険、シーナは故郷を取り戻すため、アンリ先生は、自分の生徒達を支える為……。皆、何らかの夢を持っている」
ノゾムだけが、夢がない。目標がない。
龍殺しとしての力を鍛えることは、彼にとっては夢ではない。只の義務であり、責務だ。
使いこなせるようにならないといけない。そうでないと、大事な人達を傷つけてしまうかもしれないから。
そして、実際に傷つけ、取り返しのつかないことになりかけた。
暴走してアイリスディーナ達に刃を向けたという事実は、アゼルの襲撃以来、ノゾムの心に新たなシコリを生み出し、彼の焦燥を掻き立ててくる。
「ふう……」
だが、限界まで酷使された肉体の疲労が、その焦燥を幾分か和らげてくれている。深呼吸を繰り返しながら、彼はおもむろに自分の左手に視線を向けた。目を凝らせば、幻のような不可視の鎖が、身体全体に巻き付いているのが見える。
「封魂の縛鎖……か。なんというか、本当に俺自身を表しているみたいだな」
彼の生命線であり、彼の命綱、そして枷。心なしか、ノゾムにはその不可視の鎖の輪郭が、以前よりもはっきりとしているように見えた。
まるで、徐々にその力を強めているように。
ノゾムは自分の体を縛る封魂の縛鎖を握りしめながら、今度は周囲に意識を向ける。
夜の闇に包まれた小屋の周囲から、無数の視線を感じる。
月の光、葉を揺らす風、漆黒の闇の中から、精霊たちはノゾムに目を向けていた。
「シーナが言っていたっけ。俺は特殊だから、精霊の注目を集めやすいって」
精霊。彼の体にいる存在と同質の者達であり、そして、人には到底操れない力を行使する根源的存在。
周囲に精霊に意識を向けながら、声をかけてみる。
だが、精霊たちはノゾムの呼びかけには答えず、一定の距離を保ったまま、近づこうともしない。
残っていた僅かな気を引き出しても、元々雀の涙ほどしかない魔力を拡散させても、精霊たちは答えない。
やはり、人の身であるノゾムには、精霊魔法を使うことは出来ないようだった。
「なら……」
ノゾムは握り締めていた封魂の縛鎖を引き千切り、力を開放する。直後に噴き出す源素の奔流。絶大な力と共に、ティアマットの意識もまた解放された。
“オオオオオオオオオオオオオ!”
「ぐっ! これ、なら……」
耳の奥で響くティアマットの憎悪の咆哮を努めて無視しながら、外気の精霊に語りかける。この龍の力を抑えたいから、力を貸してくれと。
しかし、精霊達はノゾムの呼びかけに応えることなく、一目散にこの場を離れていく。
滅龍王としての力の発現に、やはり周囲の精霊はノゾムの呼びかけには答えず、むしろ一斉にこの場を離れていく。完全に逆効果になってしまっていた。
「だめ、か……」
封魂の縛鎖をかけ直し、ノゾムは落胆の息を吐いた。
進めない、解決できない、未来が見えない。真っ暗な水中で、息が出来ずにもがいている。行き場のない感情が、ゴロゴロと音を立てながら暴れ狂う。
せっかく体に刻んだ疲労感もいつの間にか消え去り、後にはどうしようもない憤りだけが心に残る。
再び込み上げてくる焦燥を落ち着けようと、目を閉じる。しかし、渦巻く心が落ち着くことはない。
以前、彼は自らが立ち止まっていることを自覚するのが怖かった。自分の現状に気付かず、ずっと止まったままでいたかった。
だが今は、立ち止まっていることが死ぬほど苦しい。
胸の奥で渦巻く激情を抑えようと、ふと顔を横に向けると、ワンドールの店で作ったミスリルの鈴を入れた紙袋が目に飛び込んできた。
疲労を抱えた体を起こして、袋を開ける。
チリチリと涼やかな音を鳴り、少々不細工な鈴と、色とりどりの布地が顔をのぞかせる。
アイリスディーナと約束した鈴。しかし、彼女からはいらないと言われた物
ノゾムはおもむろに自分のポーチを開けると、常備している裁縫用の針と糸を取り出す。
焚火をつけて光源を確保し、布地を適当な形に切り、形を整えていく。
イメージするのは、今日中央公園で見た小さな紫色の花、クロウェア。
紫色の布地で作った造花に糸を通し、軽く仮止めして形が崩れないようにしておく。
ノゾムが作ろうと思ったのは、髪飾り。約束の鈴と白を基調としたリボン、そして彼女の元々の黒髪と今の白髪、どちらにも合うと思った花を造花で作って組み合わせ、手渡すつもりだった。糸が足りないために完全に作り切るのは無理だが、形さえ整えておけば、帰って完成させることができる。
もっとも、今の彼女が受け取ってくれるかどうかはわからない。だけど、それでもいつでも約束を果たせるように、作っておきたかった。
「まあ、こんな形かな? 我ながら、酷い出来映え……」
とりあえず形だけは作ってみたものの、元々の鈴が不格好だし、造花も歪んでいる。お世辞にもアイリスディーナのような美少女が身に着けるには不相応の品。
「さて、どうするかな」
糸を解いて、もう一度やり直す。クロウェアを模した造花を作り直し、髪飾りのリボンの形を整える。
もう一度作った髪飾りは、やはり不格好。再び糸を解き、作り直す。
二度目がだめなら三度、三度目がだめなら四度。ノゾムは焚火にあたりながら、何度も何度も髪飾りを作り直し続けた。
針を握る指が痺れ、買った布地がどんどん皺くちゃになっていくが、ノゾムは別に気にならなかった。
焚火に薪をくべることすら忘れ、ただ、髪飾りを作ることだけに、意識を集中させていく。
気が付けば火は消え、月明かりだけを頼りにノゾムは髪飾りを作り続けていた。
「できた……。うわ、朝になっちゃってるよ」
そしてノゾムが気づいた時には、既に朝を迎えていた。
彼は大きく息を吐くと、その場に横たわる。手には仮止めの状態とはいえ、鮮やかな紫の造花と銀色のミスリルの鈴を抱いた髪飾りが握られている。
ほぼ完璧といえる造花に比べて、やや不格好なミスリルの鈴が滑稽だが、こればっかりはしょうがない。
「後は、きちんと糸を通しなおさないと……」
体だけでなく、頭も酷使したことで、ノゾムも結構限界だった。学園の授業があるけど、とても体が動きそうにない。
薪をくべ忘れた焚火はとっくに消え、冬の寒さが芯までノゾムの体を冷え切らせていた。
コテン、と消えた焚火の横に転がり、空を見上げる。黎明の空が、薄黒い空を優しく照らしている。
おもむろに手を掲げ、作ったばかりの髪飾りを黎明の空に重ねる。ようやく形を見せた髪飾りが、朝焼けの光を浴びてキラキラと輝く。
その光景を目にして、夜の寒さに冷え切った体とは対照的な温もりが、静かにノゾムの胸の内から湧き出してくる。
しばしの間、達成感に酔いしれるように、胸に手を当てる。その時、硬い感触がノゾムの手に帰ってきた。
何だろうかと、彼は胸ポケットからそれを取り出してみる。
「これは……」
出てきたのは、金の耳飾りを内に抱いた水晶。石と化したミカエルだった。
以前、シーナがノゾムに渡してくれたものだ。
「ぐぅっ!」
ミカエルを取り出した瞬間、強烈な衝動がノゾムを襲う。
その水晶を握りつぶせ、裏切り者を滅しろ! とティアマットが叫ぶ憎悪の声が、ノゾムの耳の奥から響いてくる。
手に持つ水晶を見て、ノゾムの脳裏に唐突に思いついたことがあった。
ミカエルは、ティアマット封印するために、自ら水晶となった。
声も出せず、耳も聞こえない。源素という根源的な力で意思を伝えることはできるが、精霊と言葉を交わせぬノゾムには不可能。
だが、ミカエルはティアマットを知る数少ない存在。そしておそらく、彼女と最も親しかった龍だ。彼なら、ノゾムの知らないティアマットについて、教えてくれるかもしれない。
ノゾムはおもむろに、自分の魔力をミカエルの水晶に流し込み始めた。力がないというのなら、力を分け与え、喋れる状態にするしかない。
頭に響く怨嗟の叫びを務めて無視しながら、ノゾムはなけなしの魔力を注ぎ込み続ける。
だが、ノゾムの魔力は元々少ない。到底、力を失ったミカエルを目覚めさせるのにはたりない。
「だめ、か……」
すべての魔力を注いでも沈黙を保つミカエルに、ノゾムは肩を落とす。
だが、視線を落としたその時、ノゾムの目に皺くちゃになったシルクバグの布地が飛び込んできた。
ふと、リサの姿が思い浮かぶ。あふれんばかりの冒険心で暴走した彼女が起こした騒動。その時彼女は、足りない魔力をどうしていただろうか。
「足りないなら、他から補う……」
生憎と、ノゾムの手元に魔石はない。だが、手がないわけではない。
ノゾムは仮止めした髪飾りが解けないよう、大切に紙袋に戻すと、そっと崩れたシノの小屋の瓦礫の陰に隠した。
そして、おもむろに構えを取り、拳を突き出す。
「せい!」
拳を突き出した勢いのままに踏み込み、腰を落として肘打ちを出すと、そのまま蹴撃へとつなげる。
そのままノゾムは、独楽のように型を繰り出していく。
輪廻回天。周囲の魔力を集め、術者に強化魔法を重ね掛けしていく儀式体術。
さらにノゾムは舞いながら、強化魔法をかける型を意図的に抜いて技を繰り出していく。
元々は神事において、神々に捧げられていた舞を発展させた武術は、かつての用途へと戻り、周囲から光の粒が彼の体に集まり始めた。
消費されない魔力は徐々にノゾムの体に蓄積されていき、行き場のなくなった魔力がノゾムの体の中で溢れ始める。
(これは……きつい)
気に比べ、ノゾムは魔力の扱いにはそれほど長けていない。さすがに以前よりはましになっているが、過剰な魔力は確実にノゾムの体を削り始める。
だが、その魔力こそ、今のノゾムには必要なものだった。輪廻回天を舞いながら、ノゾムは少しずつ、集めた魔力をミカエルの水晶に注いでいく。
さらにノゾムは、封魂の縛鎖も解除する。普段は抑え込んでいる魔力すら、水晶に集めようとしているのだ。
“オオオオオオオオオオオオ!”
「ぐっ!」
解放されたティアマットが、怨嗟の声だけでなく、強烈な破壊衝動をノゾムに叩きつけてくる。
ただでさえ集めた魔力の制御に四苦八苦しているノゾムの意識を、ティアマットの憎悪と力がさらにガリガリと削っていく。
だが、ノゾムも負けじと、歯を食いしばってティアマットを抑え込む。
既に舞は終わりを迎え始めている。渦風を伴って収束していく膨大な魔力は、既にノゾムの体には収まり切れない量になっている。
そして舞が終わる直前に、ノゾムは輪廻回天をやめ、集めた魔力を一気にミカエルに注ぎこむ。
「頼む、答えてくれ……」
少しでも意識をティアマットに飲まれたら、水晶を握りつぶしてしまう。
そして、膨大な魔力すべてを注ぎ終わった瞬間、ミカエルの水晶が、拍動するように白い光を放ち始めた。
「これは、うわ!」
次の瞬間、ノゾムの視界は真っ白に包まれる。
咄嗟に自分の体に封魂の縛鎖をかけなおしたものの、ノゾムの意識は白い光に溶けて消えていった。