第8章第34節
夕暮れ時、アイリスディーナは商業区にある統一感のない雑多な物であふれかえった店を訪れていた。
彼女が訪れた場所は、ゾンネが根城にしていた占い屋。
アイリスディーナは喉元から湧き上がってくる緊張感を飲み干すように、コクリと息を飲むと、占い屋の入口を潜る。
店の中で、ゾンネは簡素なロッキングチェアに深々と腰掛けながら、パイプで煙草をふかしていた。
独特の甘い香りが店の中に漂っている。
「おお、お嬢さん。何の御用かな?」
「お願いがあって参りました」
単刀直入に、アイリスディーナは用件を伝える。
今度行われる、フランシルト家とウアジャルと家との交渉。その場に、ノゾムの後見人として立ち会ってほしいというものだった。
「ふむ、つまり、吸血鬼と交渉するにあたり、後ろ盾になってほしいということか?」
「はい。誠に身勝手なお願いとは承知しておりますが、伏してお願いいたします」
深々と頭を下げながら、アイリスディーナはゾンネの回答を待つ。
この提案は、ノゾムの中にいるティアマットを刺激したくないゾンネにとっても、悪い話ではないはずだ。
(ああ、そういう事か。父様の目的も、私にノゾムと接触しろと言ったのは、彼の後見人になっているゾンネ殿の協力を仰ぎたいから……)
また、ここに来てアイリスディーナは、父親の真意にも気づいた。
現実的に今この街で、ヴィトーラに対してもっとも戦力的に頼りになるのは、ノゾムではなく目の前の老人だ。
精霊種として最上位に位置する龍。その中でもティアマットの監視者に選ばれるほどの存在なら、絶対に頼りになる。
だが、ゾンネの回答は、アイリスディーナにとって色よいものではなかった。
「無理じゃな。儂ら龍族は人間の俗世には一切かかわらん。吸血鬼だろうが何だろうが、干渉せん」
「……なぜですか? 私事で申し訳ないとは思いますが、ヴィトーラは完全にノゾムを標的にしています。今の大事な時期に、彼にこれ以上負担をかけることは……」
「勘違いしておるのかもしれんが、儂はあくまであのティアマットの監視者じゃ。決して、完全に小僧の味方というわけではない」
奥歯を噛み締めながら、アイリスディーナはやはりそうかと、心の中で嘆息した。
「鍛練をつけて分かったことだが、あの小僧に精霊魔法は使えん。妖精の娘が尽力して精霊の存在を感知できるようになったようだが、それもこのあたりが限界じゃろう」
「……なら、なぜノゾムに精霊魔法について鍛練をつけてくれたのですか?」
「あの小僧の傍にいれば、もしティアマットが復活したとしても、即座に封印できるからじゃよ」
もちろん、アイリスディーナ達の為にティアマットの力を制御できるようになりたいと願った、ノゾムの意志に押された面もある。
というか、ゾンネの内心としては、その点が一番大きい。だが、監視者として、完全に情にほだされる訳にはいかないのが、ゾンネの立場だった。
「じゃから、いくらアイツを教えたとしても、儂の監視者としての立場は変わらん」
「……ですが!」
「そして、監視者という立場から言えば、今あの小僧の一番の負担になっておるのは、お主らフランシルトの人間じゃ。あの小僧とお嬢さん。どちらが龍族にとって重要か、今更語るまでもない」
「それは……」
「この際だから、はっきりと言うておこう。儂は今度あの小僧が暴走したら、問答無用で封印する。そうなれば、この街は確実に崩壊するじゃろう」
「っ……」
「これは、龍族としての総意と思ってくれて良い。そもそも、儂があの小僧の鍛錬をつけることすら、本来は難しいことなんじゃ」
龍族としては、本来なら即座に封印処置を施しても不思議ではない。
そうしないのは偏に、ゾンネがそういった強硬勢力を抑えているからだ。
もちろん、ノゾムが内に取り込んだ力を制御できる見込みがないなら、ゾンネとしても彼を封印せざるを得ない状況となるだろう。
「……悪いのう。お嬢さんの家族を守りたいという思いはわかるが、これが儂らの答えじゃ」
アイリスディーナには、ゾンネの言葉の端々に、彼の決して揺るがない意思が垣間見えていた。
悔しそうに唇を噛み締めながら、彼女は無言で席を立ち、ゾンネの露店を後にする。
背を丸めながら帰る彼女の後姿を見送りながら、ゾンネは今一度、手に持っていたパイプをふかす。
(あのお嬢さんにはああ言ったものの、事が大きくなれば、どの道小僧は動くだろうな)
ノゾムが動けば、ゾンネは動かざるをえないし、下手に止める事も出来ない。
力づくで止めようが、もしも大事な人たちが危機に陥れば、あの男は自身がどうなるとも構わず、力を行使するだろう。
そうなれば、下手をすればゾンネがティアマット復活の引き金を引きかねない。
彼にとっても、ノゾム・バウンティスは、それだけ悩ましい存在だった。
(それに、今になってあの者達が動いたのかも気になる。ふむ……)
パイプから白い煙をくゆらせながら、ゾンネは思案にふける。
(エルフのお嬢さんが仕込んだ鍵が、そろそろ扉を開くときじゃ。その後が運命の分かれ道。悲劇に終わるか、それとも……)
唯一、彼の希望は、シーナが血約の儀でノゾムにもたらしてくれた精霊の感応能力。契約を結ぶことすら叶わぬ小さな力。
それが希望の灯火になることを、ゾンネは願わずにはいられなかった。
ゾンネに協力を断わられたアイリスディーナは、仕方なくフランシルト邸へ戻った。
淡々と食事を済ませると、食後のお茶を飲みながら、憂鬱そうに窓の外を眺める。
ゾンネの積極的な協力を受けられなかった以上、白龍翁が動かざるをえない状況に追い込む必要が出てくる。
それには、ノゾムを利用するしかない。そしてそれは、アイリスディーナにとっては到底受け入れられないこと。
自然と、カップを持つ手に力が籠る。
全身からピリピリとした威圧感を漂わせているアイリスディーナに、傍に控える給餌役のメイドは冷や汗を浮かべていた。
「こんなところにいたのか……」
「……何か御用ですか、父様」
食堂に訪れたヴィクトルに、アイリスディーナは冷たい返事を返す。
ノゾムに対するスタンスから対立している両者。二人の間に流れる空気は冷たい。
一方、ヴィクトルは娘の突き放すような態度を意に返さず、向かい合うように同じ卓の椅子に腰かけた。
「アイリスディーナ、彼と距離を取っているそうだな。私はうまく接触しろと言ったはずだが?」
「いくら父様の命令でも、今回はさすがに許容できません。彼は大恩ある人物。そんな彼を人身御供にすれば、間違いなくフランシルト家の威厳は地に落ちます」
父親の冷徹な言葉に、アイリスディーナは煮えたぎる怒りを抑えながらも、淡々と答える。
「さらには、アルカザムだけでなく、彼の後ろにいる老人も敵に回します。そうなれば、もはや家の存続どころではありません。故国の立場すら怪しくなる」
「そうだ。かの翁を敵に回せば、間違いなく終わりだ。だが、ノゾム・バウンティス自身が自ら動くなら、かの老人も動かざるを得まい。上手く行けば、死鬼姫の動きを封じることも出来るだろう」
実際、ノゾムの後ろにいる白龍を敵に回すことは、絶対に避けなければならない。
だが、ヴィクトルにとっても、頼みは力の制御に難のあるノゾムではなく、実質的に彼の後見人となったゾンネだった。
「お前も、考えていたのではないか?」
見透かすような父親の質問に、アイリスディーナは押し黙る。
実際、彼女も現状を打破できるのはゾンネだと思い、ついさっき彼に接触した。
「ゾンネ殿の協力を仰ごうと思ったのは同じです。しかし、かの御仁には龍族の立場から断られましたし、断られたからと彼をダシに使おうとは思いません」
「それは私も願うこと。かの翁が自主的に協力してくれるのが一番だ。だが、彼が動かないのなら、動かざるをえなくするしかない。選択肢が他にないなら、それを選ぶのが賢明だ」
込み上げる苛立ちが、アイリスディーナから貴族としての顔を剥す。
妹を守らねばという想いと、彼を巻き込みたくないという想いが、彼女の心の中でグルグルと渦を巻く。
(ノゾムを巻き込むことも、ソミアを犠牲にすることもできない。なら……)
自分の心が定めるままに決意を固め、今一度、大きく深呼吸をする。
胸の内で渦巻いていた感情が、驚くほど静かに退いていく。
人が混乱するのは、無数の選択肢を頭に思い浮かべた時。揺れ動く思考を、定めるべき点に落とし込めない時。
だから、一度決めてしまえば、彼女の心と体は驚くほど軽くなっていた。
「ならば、私は愚者で構いません……」
一方、そんな彼女を、ヴィクトルは冷めた瞳で見つめている。
彼は、凪いだ海のように穏やかな口調の奥に込められた、巌のようなアイリスディーナの意思を察していた。
だからこそ、落胆のため息が漏れる。
それは、彼が想定する中で、最も避けなければならない事態の一つだったからだ。
「仕方ない。やるべきことが出来ないなら、お前にも外れてもらうしかないな」
「なにを……うっ!」
唐突に襲ってきた眩暈に、アイリスディーナは思わずテーブルに手をつく。
急激な眠気と共にグルグルと視界が回り、徐々に暗くなっていく。
「これ、は……」
「メイドに命じて、そのお茶に少し薬をな。今日限りで、お前をフランシルト家の次期当主の資格を剥奪し、当家から放逐する。今後、フランシルトの名を名乗ることは許さん」
唐突に突き付けられた、離縁の宣言。
思わず動かしたアイリスディーナの手が、テーブルクロスを掴む。
だが、お茶に盛られた薬で体の自由が利かなくなっていたアイリスディーナは、そのまま床に倒れ込んだ。
繊細な装飾が施された茶器が、音を立てて床に散らばる。
「父様……」
自由の利かなくなった体を必死に動かそうとしていたアイリスディーナだが、やがてその瞳をゆっくりと閉じていく。
アイリスディーナが眠ったことを確かめたヴィクトルは、床に倒れたアイリスディーナを見つめながら、薬を盛らせたメイドに声をかける。
「……よくやってくれた」
「いえ、その、私は……」
メイドには、明らかに罪悪感を抱いている様子が見受けられた。
彼女もまた、昔からアイリスディーナに仕えてきた者。故に、当主の命令とはいえ、主に薬を盛ったことが、心に響いている様子だった。
「気にすることはない。必要な事だ。……メーナ」
「はい」
ヴィクトルが名を呼ぶと、食堂に彼の傍付きであるメーナが入ってきた。
彼女の腕の中にはアイリスディーナと同じように目を閉じて眠るソミアの姿がある。
「手筈どおり、ソミアお嬢様も薬で眠らせました。パルライン家は引き受けてくれるそうですが……よろしかったのですか? お嬢様は納得しませんよ」
「どの道、眠っている間にすべてが終わる。予定通りだ」
ヴィクトルはどうやらソミアも眠らせ、二人の意思は無視した上で、パルライン家に引き取らせるつもりだったらしい。
ヴィクトルはこの話を、開園祭が終わった晩にメーナに命じてパルライン家に手紙で伝えた。
フランシルト家との縁を完全に断ち切り、ウアジャルト家に密約のことを蒸し返させないためだ。
だが、メーナも坦々とした表情を見せながらも、内心では納得していない様子が窺える。
もっとも、ヴィクトルとしては誰に言われようと、自分の意思を曲げるつもりはなかった。全ては、愛娘の為に。
「やれやれ、情けない男だよ。」
「マザリー……」
重苦しい空気が満ちた食堂に入ってきたのは、アイリスディーナ達の引き取り先であるパルライン家の現当主のマザリネットだった。
彼女の後ろには、護衛を務める二人の若いメイドの姿もある。
マザリネットは冷たい光を瞳に湛えるヴィクトルを一瞥すると、呆れたというように口元を歪めた。
「フィラーナに告白する前も、そんな感じでグチグチしてたね。まったく、格好つけたがりの癖に肝心なところで逃げるのは、昔と変わらないじゃないか」
アイリスディーナの母に告白する前、ヴィクトルは己の禊として、付き合って来た全ての女性と別れた。
彼女達からは猛烈な罵詈雑言を向けられ、物も投げつけられたりしたが、彼は甘んじてその全てを受け止めた。
別れるなら、せめてきっぱりと蛇蝎のごとく嫌われてから。それが、彼が複数の女性と付き合ってきた時の在り方であり、筋の通し方だった。
マザリネットもヴィクトルの不器用な面は知ってはいたが、まさかあれだけ溺愛していた娘に対しても同じようにするとは思わなかった。
「仕方ないだろう? これが私だ。私は、フィラーナのように強くはない……」
瞳に湛えていた冷たい光を悲しみの色に変えながら、ヴィクトルは力なく微笑む。
ヴィクトルは自分が強い人間とは思っていない。むしろ、弱い人間だと思っている。
昔はそれが受け入れられず、強い自分を取り繕おうとしていた。
自分のものでない権威を見せびらかし、多くの女性と浮名を流した。そのような仮初の衣を重ね着しなければ、自分を保てなかった。
そんな弱い自分を見つけ出し、認めてくれたのが、アイリスディーナの母親であるフィラーナだった。
「それに、これが恐らく最後なのだから。いざとなれば、あの小僧に任せる。癪だがな……」
ヴィクトルは床に倒れたアイリスディーナ頭を、そっと撫でる。
白く、脱色してしまった髪が、ヴィクトルの指の間をすり抜けていく。
(以前のアイリスディーナなら、迷いながらもソミアを選んだだろうに……。それだけ、あの小僧が大きくなっているということか……)
ヴィクトルはフランシルト家の当主であり、そして一人の父親である。
だから、彼はノゾムに対していつも憤りを抱いていた。目に入れても痛くないほど溺愛している娘に好かれていることもそうだし、未だに自らの在り方に気づかない愚かさもそうだ。
フィラーナと出会う前の若い頃の自分もそうだったことは他所に放り投げておきながら、心の中でノゾムへの罵詈雑言を言い放つ。
娘を自分から奪った憎たらしい男。だけど、それでも娘が唯一望んだ男なのだ。
残った家族を守るために、生き急いでいた長女が、唯一傍にいて欲しいと願った他人。
(ならば、この恨みつらみも、飲み込んでやる。代わりに、娘を絶対に幸せにしろよ、小僧)
そうでなければ、自分の手でその首を切り落としてやると宣言しながら、ヴィクトルは名残惜しそうに、アイリスディーナの頭を撫でていた手を離す。
「情けない父親で、すまないな。せめて、花嫁姿を見たかったよ……」
「ふん、だったら、さっさと仕事を終わらせて、迎えに来な。死んだら承知しないよ」
「心配してくれるのか?」
「は、自意識過剰も大概にしな。私が心配なのはこの娘達で、アンタじゃないよ!」
マザリネットは護衛のメイドに命じて、眠ったアイリスディーナとソミアを優しく運び出させると、肩を怒らせながら食堂を出て行った。
「メーナ、お前も娘達の傍に……」
「いえ、私はここに残ります。私はフランシルト家のメイドであり、そしてあなたの世話役です。それに……」
「それに?」
「碌に剣も振るえない貴方の護衛役は、私しか出来ませんよ」
メイドとしてではなく、友人として不敵な笑みを浮かべるメーナに、ヴィクトルもまたようやく頬を緩ませた。
「若い頃よりはマシになっている。剣も多少は振るえるさ」
「いえ、旦那様は筋力よりもセンスが致命的です。正直に申しまして、屋敷のランドリーメイドに剣を持たせた方がまだマシかと。当然、ノゾム様とは比べるべくもありません。月とスッポン、龍と芋虫レベルです」
ランドリーメイドとは、その名の通り、洗濯を専門とする女中である。
重労働であり、衣服の素材によって洗い方を細かく変える必要がある技術職であるが、少なくとも剣を振るうようなことは無い立場の人間である。
娘愛の暴走で火事場の馬鹿力を発揮している状態ならともかく、本来のヴィクトルはそれほど強くはないのだ。
「ま、魔法なら……」
「焚火ぐらいしか作れない魔法など、何の役にも立ちませんよ。だから大人しく、私の後ろに隠れていなさい。前に出られても邪魔なだけですから」
「そ、そこまで言うか……?」
「はい。現実はしっかり認識すべきです」
主に対して失礼極まりない発言をするメーナ。だが、今のヴィクトルには、その不遜さがなにより頼もしかった。
「ふふ……歓迎の準備をするぞ。用意を」
「承りました、マイロード」
一瞬でメイドの顔に戻り、恭しく頭を下げるメーナに、ヴィクトルは笑みを浮かべる。
その瞳に悲壮さはもうなく、決意だけが輝いていた。