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第8章28節


 午前の授業が終わった、三学年一階級。教室の端で、静かな憂いと悲しみ、そして憤りに満ちた声は流れた。


「アイ、どういうつもり?」


 授業の緊張感から解放され、一時的に弛緩するはずだった教室の中で、その一角だけは、底冷えするような冷たい空気に満ちている。

 声の主は、ティマ・ライム。

 普段のたおやかで大人し気な雰囲気は鳴りを潜め、荒々しい激情をその瞳に湛えている。


「言ったとおりだ。しばらく忙しくなりそうだからな」


 冷たく、しかしながら、腹の底に疼くような熱を秘めた詰問に、アイリスディーナは淡々と返す。

 その声色には、感情が一切込められていない。

 親友の冷たい表情に、ティマは精緻な人形を見ているような感覚を覚え、やるせなさが、さらなる熱を腹の奥から噴き上げさせる。

 一方、肝心のアイリスディーナは親友の怒気などそよ風のように流し、背を向けて教室を後にしようとする。


「っ、アイ、待って!」


「悪いが、外せない用事があるんだ。君に拘わっている暇もなくてね。それじゃあ……」


 ティマの返答も待たず、アイリスディーナは教室を後にする。

 その日、彼女が教室に戻ってくることはなかった。









 放課後、ノゾムはアンリに連れられて、職人区を訪れていた。

 開園祭の片づけとエクロスの授業への協力した見返りに、アイリスディーナに贈る鈴を作る炉を貸してくれる場所を紹介してくれる約束だったからだ。

 だが、職人区を歩くノゾムの表情は芳しくない。


“忘れてくれ”


 アイリスディーナからハッキリと突き付けられた言葉が、脳裏に繰り返し過ぎっていた。

 しかめっ面のノゾムを訝しんだアンリが、彼の顔を覗き込んでくる。


「ノゾム君、どうかしたの~」


「実は、アイリスから鈴は要らないと言われまして……」


 アンリの問い掛けにノゾムは一瞬だけ逡巡したが、素直に事情を話した。

 開園祭の時に、アイリスディーナから鈴をねだられたが、もう要らないと言われた事。これからは距離を取ると言われた事。

 事実、登校時以外、アイリスディーナがノゾムに近づくことはなく、彼が昼休みに一階級の教室を尋ねても、既に彼女は姿を消していた。

 同じ教室にいたティマに話を聞けば、午前の授業終了と同時に、教室を出て行ったらしい。

 ティマも声を掛けたらしいが、アイリスディーナは全く聞く様子がなかったそうだ。

 その話を思い出し、キシリと、ノゾムの胸の奥が疼き始める。


「っ……」


「作るの、やめる?」


 顔をしかめたノゾムを心配したアンリが、彼の顔を覗き込んでくる。

 彼女の問いかけに、ノゾムは一瞬、押し黙ってしまった。


「…………」


 胸に走る痛みは、ノゾムが抱える焦燥を、さらに掻き立てている。

 今、彼が抱えている問題は、アイリスディーナの事だけではない。

 自らの異能を制御できる兆しが、さっぱり見えない事。なによりも、怒りに囚われて暴走した挙句、大事な人たちに刃を向けたことが、まるでジクジクとノゾムの心を蝕んでいる。


「……いえ、作ります。アイリスは要らないと言いましたけど、俺が作って贈りたいんです」


 だが、痛みを伴うような焦燥に蝕まれながらも、ノゾムははっきりと、約束の鈴を作ると言い切った。

 確かに、アイリスディーナは要らないと言ったが、それでもノゾムは約束の鈴を作りたかったのだ。

 これは、ノゾムの意地であり、我儘であり、矜持。一度約束をした以上、いつでもその約束を果たせるようにしておきたかった。

 確かに、拒絶された事は悲しく、胸を締め付けられるような感覚を覚えてはいる。

 だが、ノゾムとて、かつての逃げ続けていた彼ではない。アイリスディーナがそこまで自分を拒絶したのが、こちらを巻き込むまいと慮ってくれたからというのは、察しの悪い彼でも理解できている。

 だからこそ、ノゾムは、今の自分が揺れる訳にはいかないという意思を強くしていた。


“女を安心させたいなら、余裕を持て”


 脳裏に、ダンスと紳士の心構えを教えてくれた貴婦人の姿が思い出される。

 ノゾムとアイリスディーナ、互いに追い詰められているからこそ、彼は今、自分が揺れる訳にはいかないと、必死に虚勢を張っていた。


(アンリ先生は、咎めてこないんだな……)


 ノゾムは精一杯の強がりで笑みを浮かべながら、アンリの顔を見返した。

 学園教師であるアンリには諫められるかもしれない。ノゾムは最初、そう考えていた。

 アンリはフランシルト家の事情も、ノゾムが置かれた立場も知っている。クラスの担任として、知らないはずがない。

 当然、ジハードからは、ノゾムをフランシルト家に近づけないように言いつけられているだろう。

 だが、アンリはノゾムを諌めることはせず、こうして鈴を作るための協力をしてくれた。

 ジハードは、アンリの行動をよくは思わないに違いない。

 それがノゾムには申し訳なく、同時に、これ以上ない程ありがたかった。


「うん、いい子いい子~」


 アンリは、自分の苦労や心労など毛筋ほども感じさせず、それどころか、まるで年の離れた弟を褒めるように、ノゾムの頭を撫で始める。

 ノゾムは彼女の意外な反応に驚きつつも、込み上げてくる気恥ずかしさに、思わず顔を背けた。


「アンリ先生、止めてください」


「いい子いい子~~~」


「はあ……」


 体を動かしてアンリの手から逃れようとするノゾムだが、添えられたアンリの手はまるでタコの吸盤のように吸い付き、ノゾムの頭から離れない。

 辟易したノゾムが止めるように願うが、反復されるナデナデ攻撃は終わる様子が見られなかった。

 周囲から向けられる生暖かい視線をむずがゆく思いながらも、ノゾムはしばしの間、アンリに撫でられるに任せる事にする。


「ノゾム君、開園祭はどうだった~」


「初めての事ばかりで、困惑しっぱなしでした。正直流されるばっかりで……。けど、まさかウアジャルト家が出てくるとは思っていませんでした。それに……」


「違う違う、そっちじゃなくて、学園の外から来たいろんな人とお話できたでしょ~。ノゾム君はもう三学年だし、将来の事とか~、やりたい事とか~、何か見つかった~?」


 ナデナデが終わると、アンリは開園祭の感想を尋ねてきた。

 意外なことに、アンリが気にしているのは、龍殺しとしての力についての課題や、フランシルト家とウアジャルト家との問題ではなく、純粋にノゾムの将来に関しての事だった。


「……相変わらず、よく分かりません。リサとのケジメはつけましたけど、将来何がしたいのかと言われても、正直思い浮かばないんです。

 様々な国の人達から声を掛けられましたけど、どこかの国や誰かに仕官する気にはなれませんし……」


 過去に清算をつけたノゾムだが、未だに将来何がしたいのかは見定められていない。

 なにより、ティアマットの問題などが山積みになっている現状が、彼に将来について、考えを巡らせることを難しくしている。


「アンリ先生は、どうして教師になろうと思ったんですか?」


 ノゾムはふと唐突に、アンリになぜソルミナティ学園で教師をしているのか尋ねてみた。

 普段の間の抜けた言動からは想像もつかないが、彼女はAランクに位置する実力者である。

 他に道を探せば、幾らでも選択肢はあったはずだ。


「う~ん、やっぱり、頑張っている子を見ると、先生は何かしてあげたいな~って思っちゃうの」


 ノゾムの唐突な質問に、アンリは人差し指を可愛らしく頬に当てながら、滔々と語り始める。

 頑張っている子を支えるには、教師になるのが一番適していると思ったからだと。


「私はね~、魔獣と戦うよりも、みんながキラキラしているのが好きなの~。まるでお星さまみたいに、キラキラ~って」


「キラキラ、ですか」


 アンリは大きく両手を広げながら、思いっきり胸を張る。

 狭い人混みで手を広げるアンリの姿を、通行人が奇妙なものを見るような視線を向けてくる。

 中には、上着を押し上げる豊かな胸に釘付けになっている男達もいる。

 だが、その視線全てをアンリは気にしていない。その姿は、まるで彼女自身が輝いているように見えた。

 恥も外聞も関係なく、自分の思いに正直に振る舞う様は、ノゾムから見てもとても魅力的だった。


「でも、両親は反対したかな~。何を考えているんだ~。女一人でできる訳ないだろ~って」


「そうなんですか?」


「うん。でも、私は関係ないって言って、飛び出しちゃった~」


 軽い感じで言い切るアンリの様子に、ノゾムは少し驚きつつも、天真爛漫な彼女らしいと、苦笑を漏らす。

 もしかしたら、彼女もかなり裕福な家の出なのかもしれない。

 そんな事を考えていたノゾムに、再びアンリが顔を近付けてくる。


「ねえ、ノゾム君。この学園で、教師をやってみる気はない?」


「……え?」


 アンリの突然の提案に、ノゾムは思わず言葉を失う。


「この学園で、刀術を修めた人っていないのよ~。ノゾム君はミカグラ流の皆伝者なんだし~、私としては是非とも学園に残って欲しいな~って思うんだけど」


 実際、ノゾムの刀術の腕前は、学園としても、喉から手が出るほど欲しいものである。

 東方の武術を修めた人材は、この学園でもほとんどいない。

 また、彼はその経緯から、少ない気量で危機を打破する術を身に付けている。

 その戦闘術を上手く体系化し、人に伝えることができれば、魔獣と戦う上で非常に大きな力となるだろう。

 文字通り体に刻み込むという鍛練の経緯から、ノゾムは人に教える事は苦手としているが、その辺りは経験を積んでいけば、おのずと改善されていく。

 現にアンリの耳には、ノゾムが教えた一学年の生徒の体捌きが、驚くほど改善され始めているという話を聞いていた。

 教育とは、数年、十数年のスパンをかけて考え、実施していくものである。

 その点からも、アンリ自身、ノゾムの教育者としての才覚は、決して悪くはないと確信していた。

 

「……すみません」


「いいよ~。ノゾム君がやりたい事をやるのが、一番だと思うから~」


 だが、アンリの言葉に対するノゾムの返答は、色良いものではなかった。

 彼女自身も、ノゾムが将来について、答えを出せていない現状は理解している。

 彼の周囲を取り巻く状況は、あまりにも複雑かつ、予断を許さないものだ。


「ノゾム君、いざとなったら自分の思ったとおり、自由にやっていいと思うよ~」


「ですけど、俺には色々と問題が……」


 自らの置かれた状況を思い出し、ノゾムの表情が曇る。

 身に秘める事になってしまった強大な力と成長しない自分自身、龍族の監視と不穏な雰囲気を醸し出した周囲、そして、大事な人からの拒絶。

 目まぐるしく変わり始めた周囲に置き去りにされているような感覚に、ノゾムはどうしようもない程の閉塞感を覚えていた。


「ノゾム君の両肩に圧し掛かっている重荷は、正直、私も予想していなかった。教師として、教えられることも少ない……」


 アンリの陽気な表情に、一瞬影が落ちた。

 いつも間延びする語尾も、どこか悲しげに切れている。

 彼女はとても生徒想いの教師だ。同時に彼女は、ノゾムの置かれた境遇に心を痛めてもいた。

 必死に足掻き、立ち上がった彼に圧し掛かるのは、さらなる困難。

 急激に変わった周囲の反応は、彼自身を置き去りにしながら、まるで長雨で勢いを増した川の濁流のように、この少年を飲み込もうとしている。

 おまけに、ティアマットの事については、アンリは本当に無力である。精霊の術を教授できる訳でもなく、彼が抱える問題の多くは、一教師である彼女の手で解決することは不可能なものばかりだからだ。


「それでも、これだけは言えるわ。大事なのは、自分が何をすべきかじゃなくて、自分が何をしたいのか」


 だから、彼女はせめて、教え子が自らの意思すら見失わないように、そっとその頬を己の手で包み込みながら、言い聞かせる。

 突然のアンリの行動に、ノゾムは大きく目を見開く。

ノゾムが何を本当に望んでいるのか?それはアンリにも分からない。

 だが、強い想いがあるからこそ、この少年は命懸けの鍛錬にも、心ない罵倒にも耐えながら、一人の幼馴染の為に立ち直った。それは、まぎれもない事実なのだ。 


「多分、ノゾム君はもうちゃんと答えを持っている。持っているから、この学園に残って、頑張ってこれた。ただ、今は少し、その答えが見えづらくなっているだけ……」


 アンリはノゾムの頬から手を放すと、トントンと優しく、ノゾムの胸を叩く。まるで、そこに答えがある事を示すように。

 そして美麗の女性は、甘い蜂蜜の香りを振りまきながら、くるりと背を向けて、先を導くように足を進め始める。


「さ、行きましょう。今のノゾム君の、やりたい事をするために、ね」


 スッと振り返る彼女の表情は、いつもの天真爛漫さは鳴りを潜め、これ以上ない程大人で、魅力的な笑みを浮かべていた。










 ノゾムがアンリに連れてこられたのは、商業区の小道にある一軒の鍛冶屋だった。

 店と工房を兼用した小屋の奥から、キン、キン! と金属を打つ音が響いてくる。

 工房の炉の熱を外に逃がすためなのか、店の扉は開けっ放しにされており、汗がにじむような熱が肌を刺す。


「ここ、ですか?」


「うん、私が学生時代からお世話になっているお店なんだ~。ワンドールさ~~ん、居ますか~~」


 まるで近所の親戚の家を訪れたように、アンリはスタスタと店の中へと足を進めていく。

 ノゾムもとりあえず彼女の後に続くが、彼が開けっ放しの扉を潜った瞬間、至近距離に雷が落ちたような罵声が、耳に飛び込んできた。

 

「バカモン! また壊したのか!」


「ご、ごめんなさ~~い!」


 あまりの声量に、ノゾムは思わず顔を引きつらせて耳を塞いだ。

 怒声が響いてきた方に目を向ければ、豊かな焦げ茶色の髭を蓄え、鍛造用の槌を片手に分厚いエプロンを身に纏った小柄なドワーフが、怒り心頭といった様子で顔を赤らめている。

 ドワーフ。

 金属の扱いに長け、主に洞窟などに住み着く、亜人の一種。

 大侵攻の際に故国であった地下王国を追われ、今ではスマヒャ連合に属している種族である。

 だが、何よりもノゾムが驚いたのは、件のドワーフの前で平身低頭している、一人の紅髪の少女。


「……リサ?」


「の、ノゾム!」


 ドワーフの前で頭を下げているのは、ノゾムの幼馴染であるリサだった。

 彼女はアンリと一緒に店に入ってきたノゾムの姿を確かめると、慌てた様子で立ち上がり、パンパンとスカートを叩いて、ついていた煤を叩き落とす。


「もう、変なところ見られちゃったよ……」


 顔を赤らめながら、リサは恥ずかしそうに眼を泳がせる。

 一方、彼女を叱咤していたドワーフは、突然立ち上がって身だしなみを整えたリサを胡散臭そうな目で睨みつけていた。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 更新が再開され、定期的に更新されそうなこと。 [一言] リサのターンとなるのか? アイリスディーナとの関係がどのように変化していくか楽しみです。この状態で次の更新までの間隔が長いときつい…
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