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第8章27節



 アイリスディーナが父親からウアジャルト家との協定について聞かされてから、二日後の早朝。彼女は一人、学園への通学路を歩いていた。

 元々の凛とした表情と相まって、普段から浮世離れした雰囲気を持っていた彼女だが、今朝の彼女はまるで氷原のように凍り付いた空気を纏っている。

 通り過ぎる通行人達は剣呑なアイリスディーナの雰囲気に気圧され、顔を引きつらせてスッと、離れていく。

 怯える周囲の反応を見て、アイリスディーナは嘆息した。


“これじゃあダメだ。表情を取り繕えてない……”


 自分の感情が漏れていることに気付き、彼女は荒れる心を落ち着けようと、深呼吸を繰り返す。

 漏れ出ていた剣呑な感情が、少しずつ、少しずつ治まっていく。

 同時に、アイリスディーナは再び感情が高ぶって漏れ出さないように、己の心に蓋をしていく。

 彼女自身、この手の感情制御には慣れている。貴族社会の中で生きていれば、否応にも身に着けるものだからだ。

 凍り付いていく自分の心を自覚しながらも、アイリスディーナはこれからの事に思考を巡らせる。


“父様が私を学園に通わせ続けようとしているのは、いざという時にノゾムを手札として切れるようにするためだ。だが、今の彼を、あの女の前に出す訳には……”


 暴走したノゾムの状態を直接目の当たりにし、実際に相対して刃を交えたからこそ、アイリスディーナは今の彼の状態が、針の上を歩くような危ういものと理解している。

 なにより、アイリスディーナはノゾムに返しきれないほどの恩がある。

 魂を抜き取られそうになった妹を助けてくれたことは、アイリスディーナにとって、今でも感謝してもしきれないほどだ。

そんな彼を餌として使うことなど、アイリスディーナは到底許容できない。

 なにより、彼女自身の想いが、ノゾムを吸血姫に差し出すことを全力で拒否している。

 だが、アイリスディーナの貴族としての思考と理性は、ソミアを守るために彼の存在が必要であると、冷静に突き付けてくる。

 矛盾する思考。鬩ぎ合う想いと理性。答えの出ない問いかけを延々と繰り返している中、アイリスディーナは一度思考をリセットしようと、頭を振った。

 貿易協定の最終交渉はまだ始まっていない。

 もちろん、交渉が問題なく終わればアイリスディーナの杞憂は消えるが、彼女は今になって姿を現したウアジャルト家当主が、最後の交渉の場で黙っているとは思えなかった。

 ヴィクトルもアイリスディーナと同じように考えたからこそ、アイリスディーナを学園に通わせ続けることにしたのだから。


“でも、どうすればいい? ディザード皇国は他国との関係は皆無だ。フランシルト家や私のコネクションも意味がない”


 交渉相手がどんな相手であれ、ある程度の交流が元々あるなら、その縁を利用して相手に条件の妥協を迫ることができる。だが、今回のように初めて国交を結ぶような相手の場合、前例や交渉を優位に進めるための縁がほぼない。

 

“そもそも、父様がウアジャルト家との交易を推し進めた理由……”


 金による解決だけでは跡が残ると言っていたヴィクトルだが、時間が経ち、アイリスディーナも独自に自分の持つコネクションから情報を仕入れたところ、少しずつではあるが、父親が話していない懸念を理解してきた。


“クレマツォーネ帝国の派閥争いの収束と、急速な軍備拡張の懸念……”


 クレマツォーネ帝国では、近年派閥争いによる国内の混乱が続いていたが、数か月前に一方の派閥であるヴィトゥン派が敵対派閥の主要メンバーを粛清したことにより、国内の混乱に一応の決着がついたらしい。

 それにより、帝国に国境を接する各国は、帝国の目が国外に向くことを懸念している。

 しかも、帝国内で勝利したヴィトゥン派内でも何やら不穏な動きがあるらしく、それが尚の事、各国の警戒心を刺激していた。

 現状、クレマツォーネ帝国とフォルスィーナ国、そして、各国間の勢力は均衡している。

 しかし、帝国は元々資源的にも人口的にも、強大な潜在的国力を持っている。

 それが発揮された場合、大陸の勢力が大きく変わる可能性があり、それは各国上層部では、数年以内に起こると考えられている。


“だから、父様も国王も、ディザード皇国と国交を結ぶことを決めた……”


 つまるところ、今回の交渉の本質は、より確実な安全を担保するための安全保障ではなく、目の前に差し迫るであろう危機を回避するための安全保障だったのだ。

 どちらも言葉にすれば、同じ“安全保障”だが、意味合いは全く異なってくる。

 ここまで話が差し迫っている場合、アイリスディーナ個人では、もはやどうしようもない。


“国の事を考えれば、ディザード皇国と国交を結んでおかないと、数年以内に帝国との拮抗が崩れる。しかし、あのヴィトーラが素直に協定を結ぶとは思えない……”


 開園祭の時のヴィトーラの様子を思い出し、アイリスディーナは天を仰いだ。

大衆だけでなく、高位の貴人達からも注目される身でありながら、周囲の目をまったく気にしない行動力と、否が応にでも周囲を巻き込むカリスマ。傍若無人を絵に描いたような人物であるが、同時に王としての存在感は、アイリスディーナが知る誰よりもあった。

 

“それでも、今回の交渉にノゾムとソミアを関わらせる訳にはいかない。なんとしても、あの二人を除いた条件で交渉を成立させるようにしないと……”


 もし交渉に失敗すれば、アイリスディーナにとって、最愛の妹か想い人のどちらか、もしくは両方が傷つくことになるのは、容易に想像がつく。

 幼いころに誓った家族を守るという誓い、一人の少女としての思慕、そして、貴族としての義務感が、再びアイリスディーナの胸の奥で激しく鬩ぎ合い、無数の針で刺されるような痛みが走る。


“突破口の無い城など存在しない。何かあるはずだ。何か……”


 まだ、最後の交渉は始まっていない。

 その事実を自分自身に言い聞かせながら、アイリスディーナは焦燥で鈍りそうになる思考を必死で回し続ける。

 それは、霧に包まれた森の中で、一輪の花を探すようなものに感じられた。

 

「おはよう。アイ」


 鈴のような可憐な声に呼ばれて、アイリスディーナの思考は中断された。

 視線を上げれば、学園の制服に身を包んだティマの姿がある。

 彼女の後ろにはノゾムやマルス、シーナ達など、いつものメンバーが揃っていた。

 先程までノゾムの事を考えていたからだろうか。アイリスディーナの視線が想い人の姿を視界に捉えた瞬間、凍らせていたはずの心がドクンと重い鼓動に震え、蓋をしたはずの感情が熱を帯びて噴き出しそうになる。


「おはよう、アイリス」


「ああ。おはよう、みんな」


 揺れ動きそうになる心をなんとか押し止めながら、アイリスディーナは努めて平坦な口調を心がける。

 ノゾムの視線が、アイリスディーナの横に向けられる。登校時はいつも隣にいる、ソミアの姿を確かめていたのだ。だが今日は、いつもそこにいるはずの少女の姿はない。


「ソミアちゃんは?」


「休みだ。ソミアは以前ウアジャルト家に狙われた事があるから、交渉が纏まるまでは屋敷に残している」


「そう、か……」


 ソミアはヴィクトルから、ウアジャルト家との交渉が纏まるまでフランシルト邸に留まるように命じられている。

 アイリスディーナの淡々とした言葉に、事情を察したノゾムも、どんな言葉をかけたらいいか分からず、沈黙してしまう。

 二人の間に流れる一瞬の静寂。

 ノゾムもアイリスディーナも、押し黙る相手との間に、まるで底なしの谷が横たわっているような感覚を抱いていた。


「急ごう、遅刻してしまう」


 アイリスディーナの言葉に促されるように、ノゾム達も学園へと歩き始める。

 先頭をノゾムとアイリスディーナが並んで歩き、後ろからシーナ、ミムル、ティマ、マルス、フェオと続いている。

 学園へと向かう大通りを歩きながら、ノゾムは隣を歩くアイリスディーナに、率直な疑問をぶつけてみた。

 

「アイリス、ウアジャルト家との交渉なんだが、そもそも、吸血鬼と貿易なんてできるのか?」


 ノゾムが気になったのは、そもそも、大国の大貴族が、吸血鬼という、人間の血を吸う存在と国交など結べるのかという疑問だった。


「実際、過去の当主は密約を交わしている。一昔前ならともかく、今は多分不可能では……って、ああ、そんな認識だろうな」


 一方、アイリスディーナはノゾムの質問に、思い出したような声をあげた。

 疑問符を浮かべるノゾム達に、アイリスディーナは滔々と、現在の吸血鬼の立ち位置について、質問を交えて語り始める。


「ノゾム達にとって、吸血鬼とはどんな存在だ?」


「ええっと、血を吸う異形? 後は体を蝙蝠に変えたり、すさまじい再生能力や魔力を持つ強力な種族かな?」


「後は、人を化け物に変える、なんて話も聞くな」


「そうだな。それが一般的な吸血鬼に対する認識なのだろうな」


 後ろを歩くマルス達が補足する内容を、アイリスディーナは静かに頷いて肯定する。

 吸血鬼は、人を化け物へと変える存在として認知され、迫害されてきた経緯がある。

 人とは相いれない化け物というのが、アークミル大陸の人族、亜人を問わず、吸血鬼に抱く印象だ。

 実際に、各国の村や街には、吸血鬼によって人が化け物に変えられ、英雄達によって元凶である吸血鬼が倒されるという話が残っている。


「……皆はウアジャルト家以外に、吸血鬼に会ったことはあるか?」


「い、いや、ないけど……」


 ノゾムの答えに、その場にいたアイリスディーナ以外の全員が同意したように頷いた。

 元々地方の村の出であるノゾムやアルカザムに住んでいたマルスはもとより、エルフとして大侵攻を逃げ延びたシーナも、獣人であるミムルやフェオですら、吸血鬼に出会ったことはなかった。


「そうだろうな。吸血鬼と実際に会ったことのある人間など、大陸でもほとんどいない。いるはずがない。なにせ、ディザード皇国が建国して以降、吸血鬼は皇国内にほぼ引きこもっているからな。

それから、吸血鬼が人に仇なす種として排他されてきたのは、“血を吸い、人を化け物に変える”という点が主な原因だ。しかし、最近のアルカザムでの研究で、それは覆っていてな」


「……え?」


「吸血鬼は、意図して人を怪物に変えてはいない、という研究結果がしばらく前に発表されていて、その定説は覆っているんだ」


 思いがけない事実に、ノゾム達は目を見張る。

 もしそうなら、今まで昔話や世間一般に言われている事が、まったくの出鱈目だったという事だからだ。


「でも、学園の図書館にも……」


 そんな中、トムが疑問の声をあげる。

 彼は錬金術を研究するために、図書館などで資料を漁る事が多く、その中には吸血鬼に関する記述もあった。

 そして、その本には、吸血鬼に関しては、血を吸った者すべてを、同じ吸血鬼に変えてしまうと書かれた。


「学園の図書館内の資料は各国から集められたものだが、古い資料も多いからな。特に最近の資料は、図書館の中でも別区画に置かれている事が多いし、中には図書館ではなく、グローアウルム機関に置かれているものもある」


 しかし、トムの言葉を、アイリスディーナはバッサリと否定した。

 アルカザムはアークミル大陸でも屈指の研究機関である、グローアウルム機関を有している。

 特に最新の研究は、グローアウルム機関内で継続して研究されるため、資料などは図書館に降ろさず、機関の建物内で保管している場合もあるのだ。


「さっきも言ったが、ディザード皇国建国以降、吸血鬼は領地内に引きこもっているから、集められた資料も必然的に大昔の物が多く、図書館の資料でも信憑性に欠けるんだ」


 学園の図書館は、各国から集められた書物を所蔵しているが、アイリスディーナの話では、その集められた書物その物が、信憑性が低い場合があるらしい。


「そもそも、血は吸血鬼にとって必要不可欠な食糧だが、一々血を吸う度に吸血鬼に変えていたら、いずれ血の供給が追い付かなくなってしまうだろう?」


 アイリスディーナの言葉に、その場にいた誰もが納得した。

 血を吸う度に吸血鬼に変わってしまうなら、吸血鬼はいずれ食糧難に陥り、自ら破滅することになってしまう。


「つまり、吸血鬼に変えるかどうかは、ある程度選別ができるって事か?」


「そうだ。人が吸血鬼に変貌する過程も、かなり解明されている。だからこそ、父様も国王も、交渉ができると踏んだんだろう」


 吸血鬼に変えるかどうかを、大本の吸血鬼が制御できるかどうか、その原因が判明しているかどうかは、非常に大きい。

 これも、アルカザムが大陸中の資料をかき集めて研究し、各地方の資料の矛盾点を突き詰めていくことができたからだ。


「じゃあ、なんで吸血鬼に街が化け物の巣窟に変えられたって話が残っているんだ?」


「あの吸血姫が言っていたが、“血に酔う”事が理由らしい。他にも、人を吸血鬼に変える過程に原因があるようだ。その辺りも、グローアウルム機関で今でも研究しているのだろう」


 とはいえ、吸血鬼と交渉できる下地があったのだとしても、実際に交渉を纏める事ができるかどうかは別問題だ。

 ひとしきり話が終わると、再び沈黙が戻ってくる。

 ノゾムとアイリスディーナ、二人は並びながら学園へと向かうが、その間にはやはり重苦しい空気が漂ったままだった。

 やがて、その空気に耐えかねたのか、ノゾムが口を開く。

 

「アイリス、ウアジャルト家との交渉なんだが、いつやるんだ?」


「……一週間後、私の屋敷で行われる。使用人はメーナ以外すべて屋敷から出した上でな」


「一週間……。早いな」


「ああ。既に条件自体はほぼ纏まっている話だったから、それほど時間を置く必要がないんだろう……」

 

 交渉の場と言うが、正式な条約を結ぶ段ともなれば、あらかじめ、条件などには折り合いがついているのが常である。

 しかし、今回はあの吸血姫がいる。

 あの無軌道な姫がどのような行動を取ろうとしているのか、ノゾムにはさっぱり見当がつかない。

 ただ、背筋を蛇が這うような嫌な予感だけが、ノゾムの焦燥を掻き立てていた。


「アイリス、交渉の間、ソミアちゃんを預かろうか?」


「なに?」


 その焦燥に急かされるように、ノゾムはつい、そのような事を口走ってしまった。

 そして、一度歯止めが外れてしまえば、堰き止めていた言葉は、つらつらと口から溢れ出てくる。


「アイリスに頼まれた鈴、今日にでも炉を借りて造るから、明日には渡せる。その時にソミアちゃんを連れて出て、交渉の間、俺達が彼女を守る。どうだ?」


 ノゾムの提案は、はっきり言って、極めて不用意な発言だ。

 彼はジハードから直接、フランシルト家とは距離を取るよう言い含められているし、フランシルト家も、開園祭の際に学園側は協力できないと釘を刺されている。

 一方、フランシルト家としては、この話は渡りに船だ。

 アルカザム側からは、交渉に関して場所は提供するが、それ以上の協力はしないと言われているが、ノゾム自身からの申し出ならば、話は別である。

 アルカザムの決定に背いたのはノゾムであり、フランシルト家に責は無いと言い切れるからだ。

 実際、ヴィクトルがアイリスディーナに学園に通い続けるように言った理由は、ノゾムの方から協力の申し出をさせるためであるとアイリスディーナは考えていた。


「ウアジャルト家の密約の狙いはソミアちゃんだった。だったら、交渉の間、俺達が傍にいれば、イザという時に守れると思うんだが……」


 フランシルト家にとっては、文句のない状況。

 だが、この申し出は、今のアイリスディーナには劇薬でしかなかった。

 再燃していた葛藤が火を噴きあげ、封をしていたはずの蓋を激しく揺らす。

 自分自身ですら答えの出ない問題に内心で翻弄されながらも、アイリスディーナは動揺を表に出さないように、表情だけは必死に取り繕う。

 だが、いくら表情を取り繕っても、頭の中はグチャグチャで、どんな言葉を返したらいいか分からない。


「ノゾム、それは無理だ。ジハード先生から、私とは関わるなと言われているだろ?」


 反射的に彼女の口から出た言葉は、ノゾムの申し出に対する拒絶の言葉だった。

 ノゾムを利用しようとする自分への嫌悪感が、貴族としての理性を上回ったのだ。

 この行動に一番驚いたのは、当の本人であるアイリスディーナ自身だった。

 フランシルト家の人間として、彼女はノゾムを引き入れておかなければならない。それを、自分から投げ捨てた形になる。

 貴族として、自分の感情を押し殺し、相手の真意を見抜くことを常に行ってきた彼女。

 今からでも遅くない。ノゾムの申し出を受けるのだと、彼女の理性が騒ぎ立てる。


「……確かに、ジハード先生からはそう言われている。だけど、俺は」


「ノゾム達が関われば、それは、学園の決定に逆らうことになる。そうなれば、下手をすれば、中立の立場を貫いているアルカザムの根幹そのものを揺るがすことになるだろう。

 それに、はっきり言えば、今の君は、外交上で有効な権限も立場も持っていない……」


 理性の訴えとは裏腹に、彼女の口はノゾムとの繋がりを遠ざける方向へと向かっていく。

 だが、同時に感情も、頑なな態度でノゾムを拒絶しても、意味がないとも訴える。

 彼は一度決めたら、たとえ折れても立ち上がる人間だ。抑圧的な言葉程度で止まる人間ではない。

 彼を止めるなら、もっと直接的な力で、無理矢理にでも押し止めて置かなければならない。

 このように、感情的に言葉で拒絶すること自体が逆効果だ。むしろ、彼はより頑なに、アイリスディーナ達を守ろうとするだろう。

 それこそ、自分の身の事など度外視して。

それは、彼女が抱く最悪の結果へと続いてしまう。

 もはや、アイリスディーナ自身も、自分の行動を理解できていなかった。

 言葉だけは冷静だが、肝心の中身、思考も感情も、全てがバラバラだった。


「だけど!」

 

「ノゾム、もういい」


「……え?」


「もういい、と言ったんだ。さっき、自分の言った事は忘れるんだ。私が頼んだ鈴の事も忘れてくれ」


 ついには、彼女は全てを抑え込もうと、完全にノゾムとの繋がりを絶つ方向へと動き始めていた。

 尚も言い募ろうとするノゾムの言葉を、感情の無い、冷たい視線で潰す。

まるで、人形のように、感情が欠落したアイリスディーナの表情に、ノゾムは思わず言葉を失ってしまった。

 貴族としてのアイリスディーナと、少女としてのアイリスディーナ。彼女は漏れそうになる激情に蓋をしたまま、思考と心の両方を凍らせ、葛藤する自己を二つとも自ら押し潰す。

 瞳から感情が消えていくアイリスディーナの姿に、強烈な焦燥感がノゾムに襲い掛かってくる。


「アイリス、ちょっと待って……」


 このままではいけない。

 伽藍洞になっていく彼女の瞳に危機感を抱いたノゾムが、アイリスディーナに詰め寄ろうとするが、彼女はスッとノゾムと離れると、歩を速めて離れていく。


「お互い、大事な時だ。私はしばらく、距離を置くよ……」


 吐き捨てるように言葉を切ると、アイリスディーナはノゾム達を置いて、歩を速めてノゾムから離れていった。


“我ながら、酷く重く、矛盾に満ちていて、身勝手な女だな……”


 背中にノゾムからの当惑の視線を感じながら、アイリスディーナは、そっと自分の唇に、指を這わせた。

 彼女の脳裏に、かつて一度だけ、ノゾムと唇を合わせた時の事が思い出される。

 アビスグリーフに囚われたリサを助けたノゾムが昏睡し続けていた時、追い詰められた衝動から、アイリスディーナは昏睡しているノゾムにキスをした。

 アイリスディーナ自身、ノゾムに対する自身の感情など、とっくに自覚している。

 もう離れられなくなるくらい、自分自身が彼に惹かれていることも。


“この想いは、ノゾムの前で邪魔になる……”


 ソミアを守りたいという想いも、ノゾムに対する思慕も斬り捨てる事が出来ない。

 ならば、その全てを守るために、己の全てを投げ打つしかない。

 フランシルト家の次期当主としてではない。只の一人の人間として、あらゆる矛盾を飲み込み、亡き母との誓いを守るために、彼女は今の自分を完全に殺すことを決めた。

 チラリと、肩越しに振り返り、愛しい人の顔を覗き見る。

 自らの至らなさに顔を歪めながら拳を握り締める彼の姿に、凍らせるはずの心がズクン、と疼く。


“ノゾムからのプレゼント、欲しかったな……”


 そんな、少女としての叫びを、アイリスディーナは氷の仮面で無慈悲に踏みつぶした。 









 去っていくアイリスディーナの姿に呆然としているノゾムの背中を見つめながら、ミムルはシーナに耳打ちした。


「シーナ、チャンスだよ?」


「何がよ……」


「分かるでしょ」


「…………」


 ミムルの言葉の意味に気付きながらも、シーナはあえて惚けたような返事を返すが、ミムルもまた“誤魔化さないで”と言うように、強い視線でシーナを見つめている。

 視線の交差はわずか数秒。

 ミムルの無言の提案を理解しながらも、シーナは彼女の提案を拒絶するように目を逸らし、学園への道を再び歩き始めてしまった。

 

「もう……」


 頑なな親友の態度に憤りを含んだ声を漏らしながら、ミムルはシーナの背中を見つめ続けた。



というわけで、久しぶりの投稿。今回は皆さんお待ちかねの地雷爆発回でした。

皆さん、これが読みたいから拙作を見ているんですよね(ゲス顔

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― 新着の感想 ―
[良い点] いやぁ相変わらず試練の嵐 [一言] ノゾムは絶対やらかす(期待)
[一言] 地雷・・・そうですね。思い込み地雷女がいなくなったらどうなる?新しいごり押しの地雷女が現れる。
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