第2章第4節
「あ、姉様!」
ソミアちゃんがアイリスディーナさんに駆け寄っていき、彼女はソミアちゃんを優しく受け止める。アイリスディーナさんの顔は微笑んでいて、学園での凛とした彼女ではなく、1人の優しい姉としての彼女のように思えた。
ソミアちゃんは頻りにアイリスディーナさんに話しかけていて、彼女もソミアちゃんの言葉にひとつひとつ頷いていて微笑ましく、その光景を見ていた周りの人たちにも笑みがこぼれていた。
(そうか、ソミアちゃんのお姉さんってアイリスディーナさんだったのか)
確かに2人にはよく似ている。髪の色、瞳、顔立ち、ぞれぞれの纏う雰囲気が違いすぎて分からなかったが、言われてみれば2人はとても似ていた。
(たぶんアイリスディーナさんの小さい頃はソミアちゃんと瓜二つだっただろうな)
ノゾムはソミアの待ち人が来たので姉妹の邪魔をするのも悪いと思い、そのまま帰ろうとしたが、ソミアと彼女に手を引かれたアイリスディーナがこちらに歩いてきた。
「やあ、妹が世話になったね」
「え、あ、ああ…………」
アイリスディーナがノゾムに微笑みながら話しかける。
当のノゾムはいつも周りから向けられる嫌悪にゆがんだ顔ではないことに驚いていた。
何より彼が返事に詰まった理由は彼女の笑顔。唯でさえ彼女の容姿は芸術品のように整っているのだ。そんな彼女に笑みを向けられたら…………。
かつてリサが自分に向けてくれていた生命力に溢れる笑顔ではないが、清流の様な澄んだ笑顔に、ノゾムはまともな返事を返せなかった。
「……?どうかしたのかい?」
「い、いや! なんでもない!」
アイリスディーナが固まったノゾムに再び話しかけると、ノゾムはようやくまともに返事を返した。最も、返事はまともでも声自体はガチガチに固まったままだったが。
「クスクス、ノゾムさん。アイ姉様の笑顔に見惚れてたんですよ」
(ち、ちょっとソミアちゃん!!)
ソミアの一言でノゾムは慌てた。
(見惚れていたのは本当だが、それを本人と当人の前で堂々と言わなくてもいいでしょう!)
「ふふ、そうかそれは光栄だな」
ソミアが余計なことを口走ったせいでノゾムはアタフタと慌てるが、アイリスディーナは全く動じずにすぐさま返す。
どうやら2人に遊ばれたようだ。ノゾムは恥ずかしさから2人をジト眼で見つめるが、ソミアはペロッと舌を出して誤魔化し、アイリスディーナも口に手を当てて微笑む。その表情も可愛くて、ノゾムは自分をからかった彼女達をつい許してしまった。
(……美人って得だよな…………)
「そういえば、君は今日の昼休み保健室にいたね。あの時は手伝ってくれてありがとう」
ノゾムが思ったより気さくな人だなあと考えていると、アイリスディ-ナが昼休みの時の治療の礼を言ってきた。
「いえ、自分もたまたま保健室にいただけですし……それに治療をしたのはノルン先生です」
「それでも君は私たちが連れてきた子が怪我人だと分かったらすぐに薬を持ってきてくれただろう」
「まあ、何もしないもの良くないので……そういうアイリスディーナさんも自分と関係ない子が怪我したのに保健室まで連れてきてあげたじゃないですか」
「まあね。目に付いた以上、無視はできないよ。それに怪我をした人を助けるのは当たり前だよ」
やはり彼女は人柄がいいのだろう。自分が直接関係なくても困っている人がいるなら助ける。それが彼女のやり方のようだ。
“困っている人がいるなら助ける”そう言う彼女には押し付けがましさや不自然な気負いなどはない。きっと彼女は自然に人を助けることができる人間なのだろう。
そんな彼女がノゾムには眩しく、輝いて見えた。
目の前の男の子と話しているが、やはりあの噂が立つような人とは思えない。
最近妹が公園で困っていたところを助けてくれた人がいたとは聞いていたが、それが彼とは思わなかった。
妹が楽しそうに話すその男の子と噂の人物は保健室で私が感じたとおり、大きくかけ離れていた。
ノゾム・バウンティス。
少なくともその名前をいい意味で捉える人はいない。同学年のリサ・ハウンズの元恋人で彼女を裏切った裏切り者。知り合いや後輩の女子生徒に聞いても似たような話が出てきており、そのほとんどが彼に対して強い怒りを覚えていた。
リサ・ハウンズは真紅の髪と明るい笑顔の持主で、学園でも屈指の実力者だ。しかし、本人はその才覚に驕ることはなく、理不尽な暴力は許さないなど、自分から見ても魅力的な女性であるし、好感を持てる人だった。
そんな彼女が幼馴染で恋人の男子生徒に浮気をされて捨てられたという噂が立ったのが、1学年の夏だった。
当時、私たちの学年はその話で持ちきりで、恋人に捨てられたという彼女の元にはたくさんの生徒たちが心配して駆けつけていた。
駆けつけてきた人は皆、彼女を捨てたという男子生徒に強い怒りを覚え、聞いたところによると、そのリンチまがいのこともあったらしい。
同じ女として、話を聞いた時は私も彼女を裏切った男子生徒に対して憤りは感じたものの、さすがにやり過ぎだとは思った。
目の前の男子生徒を見る。際立った容姿などはない、どこにでもいるような普通の男の子だ。たぶん人混みにまぎれたら見分けがつかないだろう。
彼をからかった妹とジャレ遭うその姿は微笑ましく、妹も懐いているようで、それには少し驚いた。
私の家はあまり言いたくはないが大きく、いわゆる名家と言われている。長く国に仕え、重要な役職につき、国に奉仕してきた。
それに伴って大きな権力を持つようになり、その力はこのソルミナティにおいても強い影響を与えてしまう程だった。
そんな強い権力にはその甘い蜜を吸おうと多くの蟲が寄りついてきた。
その蟲たちは、頭首の実子である私たち姉妹も当然標的にしており、汚濁のような心を能面のような笑顔で取り繕って近づいてきた。
子供の頃から私たちはそんな欲に塗れた大人たちに囲まれてきたためか、人の内にある悪意に妹も私も敏感になり、そんな人と会話をする時は、楽しそうに話ながらも心には大きな壁を作っていた。
そんな処世術を身につけてしまった私と妹だが、彼と遊んでいる時の妹にはそんな壁は存在せず、素のままの自分をさらけ出している。私もこうして向き合って話をしていても、心には彼に対する警戒感は湧かない。
自分で言うのもどうかと思うが、私の容姿はかなり良いらしく、同年代の男の子の視線は私の胸やお尻に向かい、それと同時に劣情の視線も感じるのであまり好きではない。
だが彼にはそのような不快感はない。妹に指摘されて慌てていたが、それはどちらかというと微笑ましく、不快感を煽るようなものではなかった。
不思議な青年。それが彼に抱いた最初の感想だった。
その後、陽が落ち、夕焼けが公園を照らし始めたので、ノゾムは2人に別れを言い、寮へと戻った。
戻る途中の道中で先ほどのアイリスディーナとの会話を思い出すとノゾムは少し嬉しくなった。
あんな風に同年代の人と自然に話すのは本当に久しぶりだったからだ。
(中々話す機会はないと思うけど、また話ができたらいいな)
寮に戻るとすぐに支度をし、寮を出る。向かうのはシノの小屋。明日は休みということでノゾムは夜に鍛練を行い、シノの小屋に泊まることにしていた。シノの小屋は森の中にあるので、そこなら能力抑圧を解放しても、人には気付かれない。ノゾムが龍殺しの力を解放する時は必ずそこで行っていた。
「…………?」
寮を出てしばらくすると、ノゾムは妙な視線を感じた。寮を出てからずっと自分の跡をつけてきている。
学園で自分をよく思わない人間かと思ったが、視線には敵意はないのでそうではないようだ。
街を出てもまだ追って来ている。どうやら視線は1つなので、追って来ているのは一人のようだ。
「森に入れば撒けるかな」
しかし下手に撒くと後々面倒なことになりそうなので、ノゾムはそのまま森に入り、いつもどおり小屋へと向かう。
しばらく森を歩いていたが、視線が感じられなくなったことを確認すると、一旦足を止める。
「ふう、いなくなったみたいだ。でも誰だったんだろう」
ノゾムは視線の持主について考えるが、答えは出ない。しかし、こんな風につけられる理由を考えると推測はできるが、その推測はあまり歓迎できないものだった。
(もしかして、龍殺しってバレた?)
それはノゾムにとってはあまりによくないものだった。もしそうなら各国政府がどんな対応をしてくるか予想できない。
(でもそれなら最後までつけてくるよな? 森に入ったくらいで追跡を止めるとは思えない)
自分でいろいろと推測を立ててみるが、今のノゾムには答えを出すことはできず、結局そのままシノの小屋に向かった。
「やっぱりアイツ、森に行っていたのか」
ノゾムの後を付けていたのはマルスだった。ノゾムが森に入っているのを確かめて、その上で言い逃れできないようにして色々と聞き出すつもりだったのだ。
しかし、相手が森に入ってしまい、1人で森に入るのは危険と判断して森の手前で引き返したのだ。
「森に入られちまったが、まあいい。明日は幸い休みだ。色々問い詰めるにはもってこいだな」
元々マルスに魔獣の跋扈する森に1人で入る気はなかった。
今回ノゾムが1人で森に入っている事実を確認できれば、その事実から問い詰められると考えていたし、他にも方法は考えていた。かなり力ずくな手段ではあるが…………。
シノの小屋に到着するとノゾムは荷物を小屋の中に置いて、掃除をする。
掃除をしていると、棚の上に置かれた位牌と一振りの刀がノゾムの視界に入った。かつてシノが使っていた刀だ。
シノの死後、小屋の中にある故人の荷物の整理をしていたノゾムは彼女がノゾムに向けて当てた遺書があった。
そこには「わしの刀をお前に譲る。」とだけ書かれていた。
遺書に書くようなことは初めから死の間際にすべて伝えるつもりだったのだろう。
そんなあり方がまっすぐな師匠らしいと、この遺書を見た時ノゾムは思った。
しかしノゾムは、まだその刀を使わなかった。彼の腰にはもう一振りの刀が差してあるが、これはシノの予備の刀で、物置にしまわれていたものだ。
ノゾムは未だ逃げている自分が、シノの刀を持つには相応しくないと思っていたのだ。
しかし……。
(師匠……今はまだこの刀を持つことはできませんが、いつかきっと………………)
掃除が終わると、ノゾムは素振りを始める。自然体の状態から即座に抜刀し、抜き打ちの刃が空気を切り裂く。放たれた刃をすぐさま返し、返しの刃を放つ。返された刃の勢いを殺さずに連撃へと繋ぐ。
左切上げ、逆袈裟切り、横薙ぎ………。
すり足による流れるような体重移動と体幹の筋肉を連動がそれらの斬撃を無駄なく連動させる。
連撃を行う中でノゾムは自分の内に埋没する。
やがて周囲の音は聞こえなくなっていき、完全に自分の世界の内で刀を振るいながら自分の斬撃を修正していく。
そのまま今度は身体強化を発動し、型の中で気術による技を絡めていく。刀身に気を纏わせて切り払うと即座に納刀。“破振打ち”を放ち、体術に移行する。
正拳突き、踏み込んでの肘打ち、体を回転させつつ腰を落としての足払いと追撃の鞘打ち。
抜刀からの連撃と体術を連動させ、絶え間なく舞うように踊り続ける。
最後に一気に刀を振り下ろす。空気が切り裂かれ、凪ぐ風が髪を揺らす中でノゾムは残心。
佇まいを正したノゾムは刀を鞘に納めると目を瞑る。ここからは細心の注意を払わないと即座に死ぬことになる。
ノゾムは再び自分の内に埋没していく。やがて自分の体に巻き付いた鎖が見えてくる。ノゾムのアビリティ“能力抑圧”が具現化した鎖だ。
これから行うのは能力抑圧の解放と龍殺しの力の制御。
「…………ふう……」
息を整え、鎖に手を掛ける。
もし制御に失敗すれば滅龍王を開放してしまうことになり、その時ノゾムは間違いなくタダでは済まないだろう。
しかし目を背けるわけにはいかない。制御できないまま放置して取り返しのつかないことになった時、自分だけではなく、アンリ先生やノルン先生、アイリスディーナさんやソミアちゃん達に累が及んだら一生後悔するだけでは済まない!!
ノゾムは覚悟を決めて身を縛る鎖をはずす。
その瞬間、解放された力が一瞬でノゾムの体を満たし、収まりきらずに体から溢れ出す。
「ぐ、ぐうぅぅぅ!」
ノゾムは歯を食いしばって耐えるが、強すぎる力によってノゾムの精神はあっという間に押し流しされそうになり、体には脂汗が浮く。
大きすぎる力は一人のちっぽけな人間の精神など容易く壊してしまうが、ノゾムの精神はどうにか耐えていた。
龍殺しとなり、ティアマットの力を一部とはいえ手に入れたことで、その力に対する耐性を多少なりともノゾムは手に入れていたのかもしれない。
しかし、やはり限界が訪れる。必死に抗っていたノゾムだが遂に耐え切れなくなるなり、再び自身を縛る鎖を己の体に巻き付けた。
「く! ハアハアハアハア…………」
能力抑圧がティアマットの力を封じ込めると、ノゾムはその場にへたり込んでしまう。
ドッと出た脂汗と力の反動で全身はガクガクと震え、すぐには収まりそうにない。
「やっぱり、どんなに抑えても2分位が限界か…………くそ!」
ノゾムはそのまま仰向けに寝転がる。
結果は芳しくない。やはり今のノゾムでは2分が限界で、これ以上制御できそうな気配はない。
ノゾムの表情には、一向に成長する気配がない制御力に焦りが見えていた。
結局その日の鍛練はそれ以上の結果を出すことはできず、ノゾムは翌朝帰路に就いた。
ノゾムが寮の自分の部屋の前に着くと、ノゾムにとって意外な人物が彼を出迎えた。
「よう、ずいぶんと遅かったな」
ノゾムの部屋のドアにもたれかかっていたのはマルスだった。
「……何か用なのか?」
「ああ、ちょっと顔貸しな」
マルスは有無を言わせぬ口調でノゾムにそう告げた。
「いったい何だ。俺は仕事帰りで眠いんだけど」
森に入っていた事と、そこで龍殺しの力の鍛練行っていたことは話せないので、ノゾムは朝方まで仕事をしていたと嘘を付く。
「ふん、仕事ね、それは森の中でやるようなものか? 確かお前、ランクが足りないから森でやるような仕事は受けられないよな。なのに、なんで森に行っていたんだ?」
マルスの言葉にノゾムの意識は一瞬真っ白になった。
(何で知られた? もしかして昨日つけてきたのは…………)
「もしかして、昨日俺をつけてきたのは…………」
「ああ、俺だ。……しかし、やっぱり気付いていたのか。ならちょうどいい、お前に聞きたいことがある。ついて来い。」
マルスが背を向けて歩き出す。ノゾムにはその背について行くしか選択肢は無かった。
第2章第4節投稿です。
次はマルスの追求が始ります。
それではまた。