第8章第23節
華やかで賑やかな迎賓施設と違い、夜の校舎は静寂に包まれている。
ジハードが案内したのは、学園の中にある彼の執務室だった。
ジハードは部屋の魔力灯に明かりをつけると、ノゾムに面会用のソファーに座るよう促す。
互いに対面で向かい合う形で、両者は席についた。
「ここなら問題はないだろう」
「それで、アイリスに関わるなとは、どういうことですか?」
ノゾムの問いかけに、ジハードは間を置くように手元の水差しからコップに水を注ぎ、一気に呷る。
水を飲み干したコップに視線を落としながら、ジハードはおもむろに口を開いた。
「まず、今回の件でヴィクトル殿から話された内容を伝えておこう。
彼の話では、今回のパーティーでウアジャルト家の重鎮がこの学園を訪れるということ。また、近日中に結ばれる、フォルスィーナ国とディザード皇国との限定的な貿易協定についての会合を、このアルカザムで行いたいという事だった」
ジハードがヴィクトルから聞かされていたのは、この会合において合意が得られた時点で、協定が有効となり、晴れて両国との間に国交が生まれるということだった。
「この話について、アルカザムの議会は了承した。今までどの国とも国交を結んでいないディザード皇国が最初に協定を結ぶには、このアルカザムの立場が理想的であることは間違いない」
同時に、上手くいけばディサード皇国の情報や人材、技術を、アルカザムにもたらすことが出来る。
それだけではなく、ディザード皇国側も、他国との交渉や協議をした前例を作ることで、これから起こるであろう数多の国家間交渉を円滑に進めることが出来る。
ノゾムもまた、ジハードの言いたいことを理解し、静かに頷いた。
「ディザード皇国の重鎮であるウアジャルト家の当主がこのパーティーに参加したのも、この協定を周知することにある。
そこにはフォルスィーナ国の安全保障やディザード皇国の利益、各国間の影響も考慮して行われたものだろう。
開園祭は、本来ソルミナティ学園の学生と各国要人との顔合わせの場だが、今回のような場合、ある程度の事情は配慮される」
開園祭のパーティーは本来、参加学生と各国との橋渡しが主な目的であるが、他国の要人が集まる以上、そこに各国間の交渉や会合のような状況が発生することは避けられない。
だからこそ、アルカザム側もある程度は暗黙の了解ということで配慮し、咎めたりすることはない。
ヴィトーラ自身が参加してきたことは学園側としても予想外だが、ウアジャルト家がパーティーに参加すること自体は既に問題ではないのだ。
「だが、そこに学園生徒に危険が及ぶ可能性があるなら話は別だ。特に、君のような重要な生徒に、かの吸血姫の矛先が向いている、などという状況の場合などはな……」
元々、ヴィクトルからウアジャルト家の重鎮がアルカザムに来ると聞かされた時点で、学園側はジハードが応対をする予定だった。
かの国の実力者相手ともなれば、ジハード位しか適任者がいない。
だが、蓋を開けてみれば、やって来たのはジハードすらも相手にならない超越者。これにより、学園側は万が一の場合、力でウアジャルト家を牽制することが出来なくなった。
さらに、学園側が予想外だったのは、ウアジャルト家当主が、ある特定の人物に異様な興味を抱いていた事だ。
しかも、その人物が学園側としても、相当な配慮をしている生徒ともなれば、否が応にも警戒せざるをえない。
「今回の協定について、学園側はフランシルト家とウアジャルト家の裏事情は把握していないが、協定を結ぶ目的について、ヴィクトル殿の考えはある程度把握している」
協定の目的は、フォルスィーナ国の安全保障。
強大な隣国であるクレマツォーネ帝国を牽制するための一手と、ジハードは理解している。
そしてその考えは、ヴィクトルの狙いとほとんど変わらなかった。
「問題なのは、ヴィクトル殿は、初めからウアジャルト家を表舞台に出すために、君を利用した可能性がある、という点だ」
「……どういう、ことですか?」
「約定を結ぶ相手であるヴィクトル殿にすら、あの吸血姫は興味を示していない。どちらがこの約定を結びたいか、考えるまでもない」
協定を結びたいのは、ウアジャルト家ではなくフランシルト家。
そして、ジハードはヴィクトル自身もまた、己がヴィトーラに興味を持たれていないことは理解していると考えていた。
「どこまでかは分からないが、私は少なくとも、ウアジャルト家の興味を引くために、君を利用した可能性は決して低くはないだろうと考えている」
ヴィクトルはノゾムという特大の餌を使い、ウアジャルト家を交渉の場に引き出したのではないのか、それが、ジハードの脳裏に浮かんだ懸念だった。
「この場は、学生たちの将来のために催された場だ。政治的な駆け引きは多少あれど、君をダシにした上に、景品にするような今回のヴィクトル殿のやり方はさすがに認められない。現に、会場内は未だに大騒ぎだろう」
ヴィクトルの真意がどうであれ、ジハードとしては、学生に害が及ぶような行動を容認することはできない。
学園側からすれば、当然の判断だ。
特にノゾムのような、特殊性と危険性を併せ持つ繊細な生徒の場合は。
それ故に、ジハードははっきりと、ノゾムに述べた。
「君は、ソルミナティの生徒だ」
その言葉の裏には“この協定について、君は一切関わるな”という意味がハッキリと込められていた。
そして、今一度、学園側はフランシルト家に一切関わらないと、言葉にせずとも改めて明言していた。
「……アイリスも、そうです」
「だが、彼女はその前に、フランシルト家の次期当主だ。前提が違う」
アイリスディーナもまた自分と同じ生徒だと述べるノゾムだが、そんな彼の言葉は、ジハードにあっさりと否定された。
アイリスディーナ・フランシルトは、今回の大騒動の大本の一つ、フォルスィーナ国フランシルト家の次期当主。
ゆえに、アイリスディーナには大家としての義務が伴う。
一方、ノゾムの立場は、その実力はともかく、身分は平民の一学生だ。
例えその身に人外の力を宿していようが、現時点で政治的な影響力も責任能力も皆無である。
「君の正体は公になっていないが、もし知られれば、どこにどんな影響が出るかわからん。しかも、まだその力の制御も覚束ない」
更に言うなら、ノゾムはその力の制御もまだまだ不安定だ。
むしろ、その力を“隠している”という事実そのものが、政治的な爆弾だけでなく、現実的な厄災に繋がりかねない状態である。
「今の君がウアジャルト家に関わることは危険すぎる。君にとっても、君の友人達にとってもな」
「…………」
力になりたい。そう思っても、願っても、現実はまるで鎖のように、ノゾムの足を絡め捕っていく。
今の自分が抱える問題と、アイリスディーナの現状を理解し、ノゾムは悔しさから拳を握り締め、唇を噛んだ。
「勘違いして欲しくないのだが、別に彼女達を見捨てるといったわけではない。
ヴィクトル殿がウアジャルト家をこの都市に招いて、公にしたという事は、協定についての条件合わせは、ほぼ終わっているのだろう。おそらくだが、後は公表することぐらいまで話は進んでいると推察できる」
そんな彼の様子を見て、慰めるつもりなのか、ジハードは言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「協定が正式に結ばれるまでは、ある程度の距離を保った方が、彼女の為にも君の為にもなるという事だ。理解したかい?」
「…………」
胸の奥で広がる悔しさと無力感を押しとめるように、ノゾムは拳を握りしめる。
彼のやるせなさを示すように、手の平から滴る血が、白い大理石の床に紅い斑点を刻んでいた。
ノゾムがジハードと対面している一方、アイリスディーナは帰りの馬車の中で自分の父親を無言で問い詰めていた。
ガタガタと揺れる馬車の中で、アイリスディーナの厳しい眼差しがヴィクトルに向けられている。
一方のヴィクトルは、そんな娘からの視線などどこ吹く風というように、窓の外に視線を向けていた。
「父様、どういう事ですか?」
不躾ともいえるアイリスディーナの質問に、ヴィクトルはちらりとアイリスディーナに目を向けると、一度大きく息を吐いて口を開いた。
「まず、我が家の先祖が結んでいたウアジャルト家との密約については、互いの契約書の喪失により、無効となった。しかし、過去にフランシルト家が密約を結んでいた事実は消えぬし、何より一方的に契約を破棄してしまえば、ウアジャルト家との間に軋轢が残る」
「それを解消した上に、公に対しては隠すための貿易協定ですか……。内容は、どんなものなのですか?」
「細かな要点は省くが、限定的な貿易協定だ。しかし、その協定履行に当たり、必要な費用は全て我が家が出す。そういう約定だ」
ヴィクトルの言葉に、アイリスディーナが納得したように頷く。
ウアジャルト家から見れば、フランシルト家は過去の約定を放棄した不義人の家系だ。
いくら、アイリスディーナやヴィクトルが、実際に密約が有ったこと自体知らなかったとはいえ、それはフランシルト家の事情であり、ウアジャルト家には関係がない。
だからこそ、その汚名を濯ぐには、それ相応以上のものを提示し、渡さなくてはならない。
その為に、ヴィクトルは多大な資産を出すことを、ウアジャルト家に約束していた。
「この協定は、あの密約を隠す目的もあるが、同時にウアジャルト家とディザード皇国を表に出し、我が国、引いては大陸の安全保障をより強固にすることが目的だ。
この協定について、既に王にも話は通っている」
今のフランシルト家にとって、過去の密約は強烈な毒であるが、その毒も使い方では薬になる。
過去の密約を一方的に破棄したことへの賠償というのなら、金銭の類の方が一見簡単に見えるが、多大な資金が動いてしまえば、すべての人間の目を誤魔化すことは出来なくなる。
そうなれば、フランシルト家が結んでいた密約もまた、表に出てしまうだろう。
そのような臭い厄が無秩序に拡散することを防ぐためには、利益を共有できる相手を巻き込んで秘密を共有し、適したカバーストーリーを組めばいい。
そして、その巻き込む相手の数は少なく、かつ権威が大きいほうが好ましい。
そう言う意味では、ヴィクトルが自国の王を説得して引き入れたことは、間違いなく最良と言っていい手だ。
問題はウアジャルト家が吸血鬼であり、過去に人族と対立した関係があることだが、これも交易する場所、人、物を限定することで、影響を最小限に留められる。
さらに、資産などはフランシルト家が全て出すとなれば、外聞もよく、事態を知らない他家からの追及もある程度抑えられる。
もちろん、その事はアイリスディーナも理解している。
彼女もまた、可能なら同じ選択をすると自覚しているからだ。
「協定を履行する理由は分かります。しかし、まさかとは思いますが……」
アイリスディーナが危惧しているのは、自分達がウアジャルト家に“提示するもの”の中に、ノゾムが含まれているのではないか、という事だった。
今現在、ノゾムはソルミナティ学園の生徒であり、対外的にはフランシルト家やフォルスィーナ国と直接関係はない。
だが、そんな事は政治の世界では関係ない。
こじ付けようと思えばいくらでも理由は作れるし、やろうと思えば手段などいくらでもあるのだ。
そしてアイリスディーナは、自分の父も、必要なら悪辣な手段を使う事を理解している。
実際、そのような手を使ってヴィクトルは、十年前の大侵攻に対応したのだから。
「どの道、私たちはこの道を押し通すしかない。過去の血族が起こした不始末を濯ぐためにはな……」
「その為なら、恩人すらも利用するのですか……」
ギリッ……と唇を噛み締めながら、呻くような声をアイリスディーナが漏らす。
湧き上がる灼熱の憤怒が、彼女の胸の奥を焦がしていた。
ヴィクトルが行っていることは、為政者としては、ごくごく当たり前の行為だ。
ディザード皇国との協定でフォルスィーナ国の安全保障がより確固たるものとなり、それに続いて多くの国が皇国と関係を持てば、再び起こるかもしれない魔獣に対する切り札の一枚となり、大陸が安定に寄与する。
長期的な目で見れば、いいことずくめであり、フランシルト家にもフォルスィーナ国にもディザード皇国にも益となる協定だ。はっきり言って、ほぼ完璧と言っていい。
しかし、完全な政治など存在しない。耳触りのいい言葉と結果の裏は、常に“目に見えない誰か”の汗や血で濡れているものだ。
そして、今回の協定で、その“目に見えない誰か”とは、アイリスディーナにとって、看過できない存在になる可能性が高い。
アイリスディーナにとっては、到底許容できない話だった。
「アイリスディーナ、何かを守るという事は、同時に何かを守らないという事だ。分かっているはずだが?」
娘の激情を読み取ったのか、父親としてではない、為政者としてのヴィクトルの視線と言葉がアイリスディーナに向けられる。
その鋭く、巌のような瞳と重苦しい声が、アイリスディーナから、フランシルト家次期当主としての精神を急激に引き出し、昂っていた彼女の感情を急激に冷やしていく。
そして、激情を急激に冷やされたアイリスディーナは、否応なしに、今の自分達が置かれている状況をさらに深くまで、理解させられていた。
ここまで事が大きくなってしまった以上、フランシルト家が生き残るには、この約定を何としても成立させなければならない。
もし、失敗すれば、フランシルト家はウアジャルト家の報復を受け、王からの信頼も失う。
そして、あっという間に没落するだろう。
たとえ貴族として存続できたとしても、少なくとも、アイリスディーナが大切だと思う家族達は、間違いなく破滅する。
ヴィクトルは責任を取らされて投獄されるだろうし、アイリスディーナ達も政敵や責任を逃れようとする親類縁者から難癖を付けられ、離散させられることになるだろう。
その後の結末は、考えるまでもない。
だからこそ、フランシルト家が生き残るには、なんとしてもこの協定を成立させなければならない。
「しかし、思った以上に事は厄介だった」
そして、聡明なアイリスディーナの頭脳は、フランシルト家次期当主として淡々と、ノゾム・バウンティスをヴィトーラに差し出すことを、最も有効な選択肢の一つとして上げていた。
「っ……」
同時に、まるでムカデが全身を這うような嫌悪感と、冬空の下に放置されたような悪寒が、アイリスディーナを包み込む。
その蝕むような悪寒と嫌悪感に耐えるように、アイリスディーナは己の体を抱きしめた。
そんなアイリスディーナに向けるヴィクトルの眼は、普段の子煩悩な彼からは想像できないほど冷たく、無機質なものだった。
「質問はあるか?」
「…………」
「ならば、話は終わりだ」
気が付けば、馬車は既にフランシルト邸の門の前に到着していた。
出迎えに来たメイドが恭しく馬車のドアを開け、ヴィクトルは娘に振り向くこともなく、メーナを伴って屋敷の中へと消えていく。
しばしの間、茫然と馬車の席に座り込んでいたアイリスディーナだが、やがてノロノロと馬車から降りてきた。
その顔色は、暗い夜の闇の中でも分かるほど、真っ青になっていた。
「姉様……」
「ソミア……」
姉という言葉にアイリスディーナが視線を上げると、屋敷から出てきたソミアが目の前まで来ていた。
父と姉を乗せた馬車が帰ってきたのを知って、出迎えに来たのだろう。
密約の直接の標的だったソミア。
あらかじめ、事の話を聞かされていたのか、その表情には不安と憂慮に染まり、瞳には溢れんばかりの涙を貯めている。
「姉様、あの、その……大丈夫ですか……?」
アイリスディーナの聡い妹は、既に己の置かれた状況を理解しながらも、憔悴した姉の様子を気遣ってくる。
その健気で愛おしい姿に、アイリスディーナは湧き上がる嫌悪感に無理矢理蓋をし、顔の筋肉を総動員して笑顔を浮かべた。
「大丈夫だ。心配いらない」
「でも、ノゾムさんの事も……」
妹を安心させようと笑顔を浮かべたアイリスディーナだが、ソミアの表情は一向に晴れない。
これじゃあダメだと、アイリスディーナはソミアの頭に手を伸ばす。
「大丈夫だ。彼にも、ソミアにも、絶対に手は出させないよ」
安心して欲しい。その気持ちを精一杯込めて、アイリスディーナは愛しい妹の頭をゆっくりと撫で続ける。
「大丈夫、大丈夫だ……」
自分自身にも言い聞かせるように、何度も、何度も、何度も……。
屋敷の自室に戻ってきたヴィクトルは、部屋の端に備え付けてある酒棚に向かうと、おもむろに酒瓶を取り出し、栓を開けて一気に呷った。
呷ったのは、パルライン夫人が好んで飲んでいた蒸留酒。
焼けつくような強烈な酒精が喉を焼く感覚に、ヴィクトルは思わず咽そうになるが、腹から込み上げる不快感を飲み下すように、無理やり喉を鳴らして飲み干していく。
瓶の半分以上残っていた酒は、瞬く間にヴィクトルの臓腑へと消えていた。
「ぷふぅ……くそ!」
瓶の中身をすべて飲み干しても、ヴィクトルの苛立ちは消えない。
消えない不快感を払拭するように、手に持った空瓶を壁に投げつけた。
大理石の壁に叩き付けられた酒瓶が、硬く耳障りな音を立てて砕け散る。
散らばった瓶の破片には目もくれず、ヴィクトルは酒棚からもう一本の酒を拝借する。今の彼の苛立ちを解消するには、一本にも満たない酒では到底足りなかった。
その時、コンコン、とドアを叩く音が響く。
ヴィクトルが荒々しい口調で「入れ」と答えると、ドアが開き、メーナが姿を現した。
「ヴィクトル様」
「……メーナか。ソミアはどうしている?」
「ソミリアーナお嬢様は、アイリスディーナお嬢様と一緒に自室に控えております」
「そうか。しばらくの間、ソミアは学園を休ませろ。少なくとも、この一件が片付くまでは……」
手に持った酒瓶のふたを開け、ヴィクトルは再び酒を呷る。
二本目にヴィクトルが手に取ったのは、東方から流れてきた穀物を使った醸造酒。
値段だけなら先ほどの蒸留酒を上回る高価な逸品だが、ヴィクトルは一気に半分近くを飲み干した、
そんな主の姿にメーナは一瞬眉を顰めるも、務めて淡々とした態度を崩さない。
「アイリスディーナお嬢様は?」
「アイリスディーナは学園に通わせる。あの小僧に接触してもらわなければならないからな」
ヴィクトルは、既に学園側がノゾムに対して、フランシルト家に近づくなと警告を発していると考えている。
そして実際、ヴィクトルが考えたように、ジハードはそのようにノゾムを言い含めていた。
しかし、ジハードの懸念はとは逆に、ヴィクトルはノゾムを政治的に利用などしてはいない。
政治的にも、物理的にも、リスクが高すぎるからだ。
だが、既に状況が切迫している。
あらゆる状況を考慮し、打てる手は全て打っておかなければならないのが、今のフランシルト家の状況だった。
大量の酒を一気に呷って少し苛立ちが収まったのか、ヴィクトルは残り半分の醸造酒を一口一口小分けにして飲み始める。
しばしの間、ヴィクトルとメーナの間に沈黙が流れた。
「予想外でしたか?」
沈黙を破って声をかけたのは、メーナだった。
確かめるような口調の中には、ある種の確信的な声色を感じさせた。
「何が、だ」
「ウアジャルト家の当主が、直に訪問してきたことです。今まで、そんなことは一度もありませんでしたから」
「まあ、な……」
今回のヴィトーラの突然の訪問は、ヴィクトルにとっても予想外だった。
ヴィクトルが直接赴いた謝罪の場でも、これまでの交渉の席でも、ウアジャルト家の当主は姿を見せなかった。
もちろん、ルガトが漏らした“ヴィトーラは密約に関して興味を持っていない”という言葉も、ヴィクトルはアイリスディーナから聞いてはいたが、それだけでは判断がつかない。
初めはルガトの言葉も“お前達の言など聞き入れる気はない”というメッセージなのかと感じたヴィクトルだったが、粘り強く交渉していく過程で、ヴィトーラがフランシルト家や過去の密約に、全く興味を示していないことに気付いた。
もし、過去の密約を強硬に履行する気なら、とうの昔にヴィトーラは周囲の目など気にせず、ソミアの魂を刈り取りにアルカザムに来ている。
それだけの奔放さと、その傲慢さを押し通す力を秘めた化け物なのだから。
「くそ、過去の愚人の後始末が、ここまで拗れるとは……」
ヴィクトルの予想が決定的に外れたのは、ウアジャルト家当主の急激な変心だ。
ノゾムの名前は、今までの交渉過程で一度も出ていないし、ウアジャルト家側から言及されたこともない。
交渉も順調で、ヴィクトルにとっては、自家の縁者や、関係各所との交渉の方が難儀だった。
それは、フランシルト家にも密約にも興味のない己の主や民の為に、ルガトが円滑に事を納めようとしていたからでもある。
つまり、ヴィクトルはそもそも、ノゾムを政治的に利用する必要すらなかったのだ。
「旦那様、ノゾム様の正体をウアジャルト家に漏らしたのは、いったい誰が……」
「タイミングを考えれば、一番怪しいのはエグロードだ。ノゾム・バウンティスを監視している存在や彼が現状、力の制御が覚束ない事について知らないなら、可能性は十分ある」
可能性があるとしたら、彼の正体を一緒に聞いていたアルカザム議長であるが、そもそも、この都市にはエグロードの腹心が滞在している。
ジハードとしては、ノゾムの正体をウアジァルト家に漏らしたのは、ほぼ間違いなくエグロードであり、その腹心であるメクリアが関わっていると考えていた。
「旦那様、この件でゾンネ殿が動く可能性は……」
「無いだろうな。あの翁は龍であり、この件は所詮人族の問題だ」
現在、龍殺しとしてのノゾムを指導しているゾンネだが、その立ち位置は指導者でありながら、同時にティアマットの監視者でもある。
その立ち位置は微妙かつ奇妙なもので、ティアマットの監視を行いながらも、ノゾムの教導を行っている。
だが、あくまで龍族として協力しているに過ぎない。
当然ながら、人族に協力する理由はないし、干渉しようとはしないだろう。
「それに、ゾンネ殿はあの小僧を試している節がある。本当に最悪の時以外は、介入してこないだろう」
そして、ゾンネにとって、フランシルト家の危機は、彼が手を出す事案でもない。
アゼルの時は、龍族の介入でティアマットが復活しかけたから、介入したに過ぎないのだ。
ヴィクトルにとって今もっとも重要なのは、フランシルト家は現在、今はこうして、孤立無援の状態に陥っているいうこと。
予想の前提が一つ狂っただけで、事態が一気に背水の陣へと追い込まれていた。
“アルカザムから排除されないだけマシだが、もう、学園の協力を取り付けることはできない……”
ジハードはヴィクトルに対して“これ以上協力できない”と言ったが“アルカザムから出ていけ”とは言っていない。
学園の中立を守りつつも、フランシルト家とウアジャルト家の交渉の席を残してくれたのだ。
それが、ジハードにとって精一杯の譲歩だという事も、ヴィクトルは理解している。
“後は、私次第という事か……”
改めて覚悟を決めたヴィクトルは、急激なアルコール摂取で高まる心臓の鼓動と熱に酔いながらも、しっかりとした手つきで、執務机の引き出しから一冊の封筒を取り出した。
白く、豪奢な装飾が施され、フランシルト家の印璽が施されたそれは、フランシルト家の当主が直々に自分の意を発するために使われるもの。
「……メーナ、お前に託すことがある」
「よろしいのですか? もしこの手紙を渡してしまえば、お嬢様方に恨まれることになるかと思いますが……」
ヴィクトルから渡された封筒を渡されたメーナだが、その封筒の中身に察しがついているのか、僅かに眉をひそめて己の主に問うた。
「もとより覚悟の上だ。私のやることは変わらない。必ず、守って見せる」
重々しくも、力強く宣言するヴィクトルに、メーナは己の主の決意を感じ取り、深々と頭を下げた。
というわけで、今回はジハード側とヴィクトル側の視点からお届けしました。
学園とフランシルト側、双方の齟齬がより顕著になった結果、フランシルト家は孤立。学園は静観するしかなくなりました。
結果、ノゾムとアイリスディーナの間に楔が打ち込まれる形に。
いや~、こんな風に仕込んだ地雷が起爆して、登場人物が追い詰められていく過程が楽しいと思えるあたり、ワタシハビョウキカモシレナイ……。
追記
5月20日に修正を加えました。