第8章第20節
「何を飲まれますか? 古今東西のワインに蒸留酒、蜂蜜酒に米酒まで、何でも揃っていますよ?」
「いえ、お気遣いなく……」
メクリアにつれられる形で二階のサロンを訪れたノゾムは、豪奢な社交場の一画に設けられたテーブルで、彼女と向かい合っていた。
飲み物を勧められながらも、ノゾムは緊張感に満ちた視線を、目の前の妖艶な美女に向けている。
一方、メクリアは明らかに警戒されているにもかかわらず、特に気にした様子もなく、通りがかった使用人に年代物の赤ワインを一本頼んでいた。
使用人が持ってきたワインを開けると、メクリアはそれを二つのグラスに分けて注ぎ、一本をノゾムに差し出してきた。
「それで、お話とは何ですか?」
差し出されたワインには目もくれず、ノゾムは単刀直入に質問をぶつけた。
「そんなに緊張なさらないでください。ご友人との関係を考えれば警戒されるのは仕方ありませんが、私としては純粋にお話をしてみたいと思っているだけですわ」
ノゾムとメクリアとの間に、今まで特に接点はない。
彼がメクリアについて知っている事と言えば、精々彼女がフランシルト家の政敵に仕えている、ということぐらいである。
しかし、日中の模擬戦でエグロードに絡まれたこと。何より、メクリアの背後から向けられる視線に、ノゾムは警戒心を掻きたてられていた。
「…………」
ノゾムの視線が、メクリアの背後にいるであろう視線の主に向けられる。
彼の目が自分の後ろに向けられていることに気付いたメクリアは、嬉しそうに微笑むとパンパン! と手を叩いた。
その瞬間、まるで影が形を成すように、メクリアの背後から一人の人影が姿を現した。
「どうもどうも初めまして! ワタクシ、このお嬢様の護衛と雑用係と欲求の捌け口を兼任しております……」
「黙りなさい」
姿を現したのは、病的なまでに白い肌を持つ細身の男。
小奇麗な正装に身を包んではいるが、ふざけているとしか思えない口調と、その口調とは正反対の猛禽のような瞳が、これ以上ない程不気味さを醸し出していた。
「ええ!? やっと話す機会が出来たんだよ? もっと親交を深めて……」
「今ここであなたに発言する許可は与えていません。いいからその余計な口を閉じなさい」
「ちぇ~~」
メクリアに諌められながらも、痩せた男は特に気にした様子もない。
男はノゾムとメクリアが座っているテーブルの空席に腰を下ろし、出されていた茶菓子をバリバリと頬張り始めた。
「名前は……ジョン・スミスってことで、ぜひとも覚えておいてくれ」
それは明らかな偽名だった。
初めから本名を教える気がないのだろうか? とノゾムの頭に疑問が浮かぶが、その思考はすぐに外に追いやられた。
緊張感に満ちたノゾムの全身が、さらに強張る。
この男の本名より問題なのは、ふざけているようにしか見えないこの男が、未だにノゾムに対し、明確な殺気を叩きつけていることだ。
特にノゾムの首筋と眼球には、火傷をしたようにヒリつく感覚が走っている。
少しでも油断したら、一瞬で眼球をくり抜かれて首を切り落とされる。そんな予感を覚える程の殺気だった。
「…………」
ノゾムのスイッチはすでに切り変わっている。
向けられる殺気に、彼の体は自然と戦闘状態に移行していた。
先程まで貴族相手にオロオロしていた初々しい学生の姿が消え去り、大陸有数の戦闘者の顔が浮かぶ。
そんな彼の脳裏には、いざともなれば最大の抵抗をして見せようという気概に満ちていた。
ノゾムの戦意を感じ取ったのか、ジョンと名乗った男の頬がつり上がる。
まるで幼子が待ち望んでいた玩具を見つけた時のような無邪気さと、病的な青白い肌が合わさり、これ以上ない程凄惨で倒錯的な笑みだった。
「控えなさい。この場は戦場ではありません」
横からメクリアが割り込み、ジョンと呼ばれた青白い男を諌める。
彼女の言葉に仕方ないというように肩をすくめた男は、ノゾムにぶつけていた殺気を収めた。
「申し訳ありません、ノゾム殿。彼は私の護衛で、腕は立つのですが、見ての通り常識というものが欠如していまして、普段は人前に見せないようにしているのです」
メクリアが深々とノゾムに頭を下げる。
ノゾムは小さく頷いて返答したが、その意識は相変わらずジョンと名乗った男に向いていた。
腕が立つのも本当だろう。この場にいる誰もが、この男がノゾムに放った殺気はおろか、突然現れた事にも気付いた様子がない。
恐ろしいまでの隠形術である。
ノゾムがこの男に気付いていたのは、初めからこの男がノゾムに対して殺気を当てていたからだ。
もし、このジョンと名乗った男が、本気で隠形を行ったら、気付くことが出来るかどうか、ノゾムには自信がなかった。
そんなノゾムの懊悩を他所に、運ばれてきたワインで口を潤したメクリアは、ノゾムに問いかけてくる。
「さて、単刀直入に申し上げましょう。ノゾム殿、私に協力する気はございませんか?」
「……それは、ファブラン家に仕えろという意味ですか?」
「そうですね、そう取って頂いて構いません。実のところ、私は貴方様の力を必要としております」
メクリアの発言に、ノゾムの脳裏に疑問符が浮かぶ。
ファブラン家の当主は今日、ノゾムに対して辛辣な評価を下しているからだ。
「あなたの主はそうは思っていないみたいですが?」
「正確には“今は”という注釈が付きます。どうやら、ノゾム様は将来が見定まっていない御様子ですので」
メクリアの言葉に、ノゾムの眉がピクリと動いた。
ノゾムとしては、おそらくエグロードから自分の話を聞いているのだろうと当たりをつけてはいるが、こうもしたり顔で、今自分が抱えている懊悩を言い当てられるのは、面白い話ではない。
一方、メクリアはそんなノゾムの反応に対して、いちいち楽しそうに笑みを浮かべながらも、話を続ける。
「ですが、私個人としては、主の意向に関わらず、ぜひとも来ていただきたいと思っております」
「それは、下手をすれば背信と取られるのではないですか?」
「そうですわね。ですが、そんな些事よりも、貴方という人材を確保しておく方がはるかに有用と考えます」
「…………」
「エグロード様はああ見えてかなり保守的な人物。外の人間を懐に取り込むにしても、相応の時間がかかります。しかし、決して排他主義者ではありません。相応の働きをした者には、報酬を惜しむことはないでしょう」
エグロード・ファブランの政治的な思想は、とても保守的である。
十年前の大侵攻についても、あくまで後方支援に徹し、軍を送るようなことはするべきではないと主張をしていた。
ソルミナティ学園の創立についても真っ向から否定しており、国の人材と技術流失に拍車をかけると声高に反対していた。
一方で、領民や彼に仕える士官達からの評価は決して悪いものではなく、人望も厚い。それは、彼が身内と判断した者に対しては、相応の扱いを心得ていることの証左でもある。
「いかがですか? もし私の元に来ていただけるのなら、必ずや満足できるだけの報酬をお渡ししましょう」
蠱惑的な声で、メクリアはノゾムを誘う。
「金でも、名誉でも、利権でも。そして個人的にも……」
「っ!?」
気が付けば、メクリアはスッと自然にノゾムとの距離を詰めていた。
ノゾムの全身を、蜜のように甘い香りが包み込む。
同時に、ノゾムの脳が痺れたような感覚に襲われた。
動悸が自然と高まり、視界は狭まって眼前にすり寄ってくる紫髪の美女のみを映す。
こすれる絹布の感触が、男としての本能を昂らせる。
それは、食虫直物が獲物を捕食する姿によく似ていた。
甘い香りで誘い、滴る蜜を差し出し、代わりに悦楽をもって、相手のすべてをむしゃぶりつくす。
そして今のメクリアは、男にとって、食われてもかまわないと思わせるほどの色気を放っていた。
「……すみませんが、俺はファブラン家には仕える気はありませんので」
だが、ノゾムはその誘惑には乗らなかった。
初めからメクリアを警戒していたことが幸いだったのだろう。
すり寄ってくるメクリアの色香に負けまいと舌を噛み、痛みで沸き立つ欲を無理矢理抑え込む。
次にメクリアに向けられたのは、昂った雄の精気ではなく、敵対者へ向ける冷徹な剣気。
エグロードに向けられた時のような熱の籠ったものではなく、極寒の冬を想像させるような覇気であった。
「あら残念ですわ」
メクリアもノゾムの反応を特に残念とは思わず、自然な仕草で離れた。
ノゾムが無言で席を立とうとする。
正直なところ、ノゾムとしては、これ以上目の前の女性と話を続けたくなかった。
「ですが、せっかくですので、もう少しお話は続けませんか? 例えば、ご友人の事とか……」
だが、腰を上げようとしたノゾムをメクリアが押しとめる。
無視するわけにもいかず、ノゾムは改めて椅子に腰を下ろす。
「何の話ですか?」
「ケン・ノーティスの事ですわ。かの魔獣に襲われて取り込まれた哀れな道化。そして、アビスグリーフについて……」
冷え切っていたノゾムの心臓に、再び熱が籠った。
ケンが起こした事件の真相。特にアビスグリーフがかかわっているという内容については、公にはされていない。
さらに、その後のケンの身柄についても、ノゾムが知るのは、グローアウルム機関に封印されたという事だけだ。
それ以上については、アルカザムでも機密事項に当たるため、ノゾムは触れる事ができない。
「ノゾム殿は、あなた自身が思っている以上に注目されております。
彼が起こした事件に関わっていたのなら、当然ご存知でしょう? その後彼がどうなっていたのか、気にはなりません?」
一方、メクリアはそんなノゾムの動揺などお見通しなのか、的確にノゾムの急所を突いてくる。
ケンの容態については、ノゾムとしても知りたいと思っていた事は間違いない。
自分の意思で相対し、自分の手で刀を振り下ろしてトドメを刺した相手なのだ。気にならない訳がない。
さらにメクリアは、ノゾムの心を揺り動かす言葉を放ち続ける。
「アビスグリーフについてですが、どうやらこちらも新発見がありました。もしかしたら、ノゾム殿の御力にもなれるかと……」
「……どういう事ですか?」
ノゾムの中で猜疑心が一気に膨れ上がる。
この女性は、いったいどこまで自分の事を知っているのだろうか? アビスグリーフが自分の力になるとは、どういう事なのか?
様々な疑問や疑念が、まるで泡のように浮かんでくる。
彼女の隣でニヤついている青白い男の表情もまた、ノゾムの焦燥を駆り立てる一因になっていた。
そんなノゾムの表情を、メクリアは満足そうに見つめていた。
「ふふ、可愛いですわね。でも、いけませんよ。知りたいのなら、相応の対価が必要です」
「…………」
乗せられた。ここまで来て、ノゾムはそう確信した。
初めからこの女性は、この場でノゾムに対して何らかの言質を取るつもりだったのだ。
先ほどの貴族たちと比べても、明らかに卓越した誘導術だ。
ノゾムについて調べ、その心中にある焦燥を見抜き、動揺を誘い、その弱点を巧みに突いてきた。
対して、ノゾムがメクリアに対抗できることはほぼない。
“ノゾムの勧誘”という、背信と思われるような行動も、メクリアがさして気にした様子がないことからも、おそらく彼女からすればどうにでもなるのだろう。
相手に対して持つ手札の数も質も、圧倒的に不利だった。
「やれやれ、若鳥を捕まえて何をやっているかと思えば、この華やかな社交場で、随分不埒な事をしているじゃないか」
その時、ノゾムとメクリアの間に割り込んできた声があった。
ノゾムが声の聞こえた方向に目を向けると、豪奢なドレスで着飾り、後ろに二人のメイドを従えたパルライン夫人が立っていた。
「あら、パルライン様、お久しぶりですね」
パルライン夫人は笑みを浮かべて挨拶をしてくるメクリアを一瞥すると、微笑を浮かべてノゾムの手を取った。
「悪いけど、こいつには先約があるんだ。話はまた今度にしてもらうよ」
パルライン夫人に手を引かれ、自然とノゾムの腰が浮く。
一方、話の腰を折られたメクリアは、にこやかな笑みを浮かべたまま、
「あら、随分と強引なのですわね。さすがは一代で大家を乗っ取った暴食夫人。意地汚いですわね」
「臭い香水を使っても男一人繋ぎ止められない岩女が何を言っても言い訳にしかならないよ」
売り言葉に買い言葉。
貴族特有の毒舌合戦を前に、ノゾムはあっという間に蚊帳の外に追いやられていた。
「生憎と、アンタも私も、この場では端役さ。主演女優は他にいるんでね」
「あら、そうですか……。ダンスの最後に裾を踏んで、喜劇にならなければいいのですけどね?」
ノゾムの手を取ったパルライン夫人は、そのまま自然な仕草で自分の手をノゾムの腕に絡める。
そして、パルライン夫人は腕を組んだまま、踵を返して、サロンからノゾムを連れ出した。
「パルライン夫人、あ、あの……」
「変な女に捕まったもんだね。まあ、“イシュタルの香水”を使われても誘惑に乗らなかったのは褒めてあげるよ」
「イシュタルの香水?」
「理性を吹っ飛ばす、強力な催淫剤さ。蜜のように甘い香りが特徴でね」
どうやらノゾムが感じた異様なまでの本能の高ぶりは、メクリアの媚薬が原因らしい。
しかも、相当強力な類の物。
そんな危険物を、こんな公なパーティーで使って良いのか、という疑問がノゾムの脳裏に浮かぶ。
「隣にいた護衛が、魔法で周りに香りが飛ばないようにしていたからね。それに、こんな手段は貴族社会じゃ別に珍しくないよ」
ノゾムの疑問にパルライン夫人が応える。
いかに衆目を集め、いかに相手を出し抜くか。
そのために、貴族達はあらゆる手段を使う。豪奢な衣装と装飾品をそろえ、自らの容姿と弁達を磨き、人を魅了する香水や装飾品を揃え、優れた従者を侍らせ、相手の情報を頭に叩き込む。
そして、手段を選ばずに、的確に急所を突く。
ノゾムには馴染みがなくとも、ある種の共感を覚えることが出来る戦いが、そこにはあった。
「…………」
黙り込んだノゾムの顔を、パルライン夫人が見上げる。
その目には何となく、呆れたような色を帯びていた。
「アンタがどんな問題を抱えているかは知らないよ。あの女が何所まで知っているのかもね」
「俺、そんなに分かりやすいですか?」
「まあね。アンタはもう少し余裕が必要だね。紳士なら、どんなに大変な事態に直面しても慌てず、常に微笑みを絶やさないものだよ」
常に余裕を持ち優雅に振る舞え。例え心の中は焦りや不安で一杯だろうと、決して顔には出すな。
まるで幼子に言い聞かせるように、パルライン夫人はノゾムに告げる。
「覚えておきなさい。余裕のない男を見ていると、女は不安になるんだ。アンタがもし大切な人を安心させたいなら、どんな時にも余裕を待ち続けるんだね」
「…………」
ノゾムの脳裏に、鍛練で傷を負った自分に対し、声を荒げていたアイリスディーナとシーナの顔が浮かぶ。
不安にさせる。その言葉は、ノゾムの胸の奥に、スッと落ちてきた。
「まあ、その辺りは今後の課題。それよりも、今日アンタが一番しなきゃいけないことは他にあるだろ」
「え……」
パルライン夫人がクイッと顎をしゃくる。
彼女が示した方向には、純白のドレスに銀の装飾を身に纏った、月を思わせる女神が佇んでいた。アイリスディーナである。
アイリスディーナはノゾムの姿を見つけると、華やかな笑みを浮かべた。
貴族として、昔からアイリスディーナと関わってきたパルライン夫人だからこそ分かる、さわやかな、甘酸っぱい思慕に満ちた笑み。
娘のように思っている少女の恋する姿に、自然と夫人の口元に笑みが浮かぶ。
「ほら、しっかり主演女優をエスコートしてきな。彼女、今の今まで、ずっと待っていたんだからね」
そう言って、パルライン夫人はアイリスディーナに向かって、ノゾムの背中をトン、と押した。
「は、はい! あ、あの、パルライン夫人!」
「うん? なんだい?」
「ありがとうございました!」
ノゾムは一度振り向くと、精一杯の感謝を込めて深々と頭を下げ、小走りでアイリスディーナの元へと向かっていった。
パルライン夫人は、初々しくも素直なノゾムの礼に笑みを浮かべながら、彼らを見送る。
貴族と平民。その格差を乗り切ってきたパルライン夫人だからこそ、二人の間に横たわる問題は理解できる。
いや、下手をしたら、自分が経験してきた事よりも、厳しい困難が二人には襲い掛かるかもしれないと、パルライン夫人は考えていた。
「紳士としてはまだまだだけど……まっ、精々頑張りなさい。男の子」
それでも、この二人なら、決して乗り越えることは不可能ではない。
そんな思いを抱きながらノゾムとアイリスディーナを見つめる夫人の心は、これ以上ないほど踊っていた。