第8章第13節
アルカザムの道筋を決める議会。そこで議長であるハイバオ・フォーカをはじめとした学園都市の重鎮達が、今日の議題を進めていた。
議長のハイバオも議員たちも、大きな声を上げるようなことはなく、至極淡々に議題を進めていく。
アルカザムの議事堂は全体が円形の階段状になっており、中央奥の最上部の席に議長が、その議長の下には書記などの事務員が配置されており、その議事堂の中央に席を向けるように議員席が配置されている。
また、議員席を囲むように傍聴席が設けられており、その傍聴席の一画にはヴィクトルの姿があった。
今のヴィクトルはアドバイザーですらなく、聴衆という立場である。
アルカザムの行先を決めるのはやはり議会であり、そこに参加している議員達だからだ。
元々、彼自身にこの議会に意見する権限はないし、意見を述べるような機会もない。
しかし、ヴィクトルが持つ存在感はやはり大きく、淡々と議事が進んでいく中にも何人かの議員達はチラチラとヴィクトルに視線を向けていた。
「それでは、各国の滞在施設の配分は、例年通りという事で。次は……」
現在の議題は、やはり開園祭に関する案件。しかし、開園祭自体はすでに今年で十回近く行われているため、ほぼ例年通りの内容になっている。
もちろん、議題の中には開園祭以外の案件もあるが、特別急を要するものはほとんどない。
それはやはり、ジハードが“星影”を率いて、アルカザムに潜伏していた諜報員を一斉捕縛したことが大きかった。
定例通りの議題進行。しかし、その平穏は議事堂に唐突に乱入してきた人物によって破られることになった。
「失礼する」
突然乱入してきたのは、軍服を思わせる黒の衣装に身を包んだ、二メートル近い長身の大男だった。
顔に刻まれた皺から、年齢は四十半ば程。
その人物を見た議員たちは、皆一様に驚いた表情を浮かべた。
エグロード・ファブラン。フォルスィーナ国屈指の名門貴族だ。
壮年の域に入ったその体躯は、ジハードと比べてもなお大柄であり、硬質な瞳は軍人のそれを思わせる。
「この議論、私も聞かせてもらってよろしいか?」
「エグロード殿、もうアルカザムに来られていたのですか?」
「ええ、開園際に合わせて。それで議長、傍聴させていただいてもよろしいかな?」
「ええ、構いませんよ」
「ありがとうございます」
エグロードは礼儀正しく議長に一礼すると、議事堂の一角に設けられている傍聴席に腰を下ろした。
エグロードの突然の訪問に、議事堂内が僅かにざわめきに包まれる。
議員の何人かは怪訝な表情を浮かべて、議事堂の端に腰を落ち着けているエグロードを覗いているが、肝心の彼はジッとある一点を見つめたままだった。
「…………」
「…………」
エグロードの視線の先にいるのは、同国の大貴族であり、政敵でもあるヴィクトルだ。
互いに無言のまま、交わる目線だけが静かな火花を散らしている。
一方、議長であるハイバオは二人の大貴族の静かな激突を意に返さず、淡々と議事を進める。
「それでは、続きを始めます。案件三十二、アビスグリーフ及び寄生体調査の経過報告」
次の議題は、定例通りの議事の中での例外事項だった。
アビスグリーフ。
数か月ほど前に、この街で発見された正体不明の魔獣。
十年前にも数件の目撃情報があり、あの大侵攻と何らかの関わりがあるのではと思われている存在だ。
当初、発見されたアビスグリーフは既に討伐されており、死体はアルカザムの研究機関であるグローアウルム機関が回収、調査を行っていた。
しかし、二か月ほど前、実験中に死んでいたはずのアビスグリーフが突如復活。研究室一室を破壊し、警戒に当たっていた憲兵に傷を負わせて逃亡を図ろうとした。
この騒動は、警戒の指揮を執っていたジハード・ラウンデルが復活した魔獣を討伐することで一旦収まったが、その後、件の魔獣は負傷した憲兵の体に寄生する形で再び復活。
最終的にソルミナティ学園の生徒、ケン・ノーティスと同化するも再び討伐され、消滅した。
表向きは一学生の暴行事件として処理されたこの事件だが、その後も様々な影響をあちこちに与えていた。
一時はアルカザム再編の可能性まで浮上したが、判明したアビスグリーフの全情報開示、ジハードの密偵捕縛、ヴィクトルの取り成しなどで、一応鎮静化している。
しかし、この案件に関しては、回収した検体について排除派と封印派に意見が分かれており、今なお議員たちの間での中で意見が交わされている内容だった。
「本案件は、担当者から直接説明がある。トルグレイン氏、お願いします」
「はい、わかりました」
議長の声に応じる形で、メガネをかけた優男が前に出る。トルグレインはソルミナティ学園の教師であり、グローアウルム機関で研究も行っている優秀な錬金術師である。
「現在調査によって判明しているアビスグリーフの情報についてですが、回収された二名の体を分析するまでもなく、アビスグリーフの保有する源素が、対象達の肉体に影響を及ぼしたことは既に判明しています。
しかし、双方の変化には明確な差異が存在します」
ジハードの報告では、寄生された憲兵は信じられないほど膂力が強化されていたが、完全に自我が崩壊し、獣のように本能がむき出しになっていたらしい。
一方、ケン・ノーティスに至っては、肉体の強化だけでなく、相手を魂のレベルで吸収する結界を展開したり、上半身を両断されても再生するなどの規格外な変化を果たしていた。
さらにケンの場合、戦いの中で、一時的に知性を取り戻したという報告もされている。先に寄生された憲兵と比べても、明らかに異質な変化である。
「変化した二人の肉体強度を比較しましたが、ケン・ノーティスの方が遥かに強靭です。問題は、同一生物に寄生されたにも関わらず、なぜこのような差が生じたのか、です」
「それで、トルグレイン殿の見解は?」
「両名共に若い男性で、先天的な疾患もなし。
また、アビスグリーフが精霊に近い性質を持っていることを考えますと、違いを決めるのは、おそらく肉体的な要因だけではないと推察されます」
「と、なると?」
「寄生される側の魂の質、正確には、寄生対象の精神状態に極めて影響されているものと考えられます」
アビスグリーフ寄生の影響を調べるにあたって、トルグレインは当然ながら、寄生された二人の身辺調査も行っている。
そして、今までの調査から、アビスグリーフは精霊に近い性質を持っていることが判明している。
「精霊は、精神、魔力、源素などの影響をより強く受けます。アビスグリーフが、自らの宿主として彼を選んだのは、立場的に追い詰められていたケン・ノーティスの精神状態が寄生する上で都合がよかったからでしょう」
「結果として、彼はその心の隙間を魔獣に突かれ、人ならざる者に変異してしまったわけか……」
ハイバオの独白に、トルグレインは小さく頷いた。
自らが陥れたノゾム・バウンティスに追い詰められ、精神の隙間を突かれたケンは、その魂、肉体までもアビスグリーフと同化し、結果的に人ではなくなった。
人ならざる者。今のケンの状態を表すのに、これ以上の言葉はないかもしれない。
「だが、アビスグリーフは肉体を持った存在。寄生して変異させるにしても、相手の精神状態だけが要因とは考え辛いが……」
「その点に関して、原因として考えられる発見がありました。ケン・ノーティスの体を調べたところ、見えないほど細かな“刻印”が施された痕跡を発見しました」
「刻印?」
「はい。まだ詳細は不明ですが、既存の術式とは全く異なる刻印が、ケン・ノーティスの肉体各所に、肉眼では確認できないほど細かく、びっしりと刻まれていると思われます。
この呪刻は、おそらく肉体内にも及んでいることが推察されます。
一方、灰化した憲兵の肉体は完全に崩れ、刻印の確認はできませんでした。
予想ですが、この“呪刻”に肉体自体が耐えられなかったのかと……」
「そうなると、アビスグリーフとして覚醒できるのは、呪刻に耐えられる強者のみということか……」
そう考えれば、大侵攻の際にアビスグリーフがほとんど発見されていなかったことに説明がつく。
一定以上の強者でなければ変化に耐えられず、消滅してしまうからだ。
「対抗策は?」
「いくつか考えられます。まずは、強大な魔力で呪刻そのものをかき消してしまう方法。もう一つは呪刻が全身を犯す前に、罹患部分を切り落とす方法です」
問題点は呪刻を押し流す魔力量がどれほど必要なのか、不明な点。
さらにケン・ノーティスが変化した際は、寄生体が体内に直接もぐりこむという形を取っている。
トルグレインの説明では、呪刻を発するアビスグリーフ本体が体内に潜り込んだ場合、浄化も切除も困難だというのが厄介な点だった。
とはいえ、原因が分かれば、対処の仕様があるし、不必要な混乱も避けることができる。
ジハードにとっては、それが分かっただけでも御の字だった。
「分かった。それで、ケン・ノーティスの状態は?」
「現在、グローアウルム機関の最下層にて魔力の影響を受けぬように隔離し、物理的に封印しています。現在の所、目立った変化はありません」
「分かりました。本案件に関しては、そのまま調査を続行するか否か、皆さんのご意見を伺いたい」
ハイバオが議員に対して、採決を促す。
最初に声を上げたのは、排除派の議員だった。彼はバン! と卓を強く叩き、椅子から腰を上げながら大声を張り上げる。
「私は反対です。また再び復活するとも限らない。早急に処分すべきです!」
彼の強い意見に同調するように、排除派の議員達が同意の声を上げる。
「その通りです。先の事件はまだ穏便に納めることが出来ましたが、もう一度同じ事が起こり、民衆に多大な被害が出た場合、今度こそ取り返しのつかないことになります」
「そうなれば私達の罷免は確実。ここにいる全員が本国に戻され、責を問われるでしょうし、何よりこのアルカザムが存続できるかどうかも怪しくなる」
排除派の議員達が声を上げる一方、封印派の議員達もまた、排除派に対して、自分たちの意見をぶつける。
「ですが、この検体のおかげで、アビスグリーフの研究が進んでいることも事実。早々に破棄するのは、いかがなものかと……」
「特にアビスグリーフと共生するケン・ノーティスの存在は貴重です。上手くいけば、かの魔獣を御する方法が見つかるかもしれません」
「そもそも、灰の状態からでも復活する存在ですぞ? 処分と言っても、どうするおつもりで?」
「ぬう……。しかし、何が起こるのが分からぬのが常です。もし、かの魔獣が再度復活した場合、また確実に仕留めきれるという保証はあるのですか?」
「そ、それは……」
排除派の意見に封印派が押され始める。
「トルグレイン殿、その辺りはどうなのです? ケン・ノーティスの体を介して、アビスグリーフが復活する可能性はありますか?」
「何とも言えません。ただ、先の実験でアビスグリーフが復活したのは、おそらくこの呪刻が関わっていると思われます。刻印が完全に破壊されたと思われる憲兵の死体で復活することはまずないかと。
ケン・ノーティスの方ですが、魔力を徹底的に排除し、物理的に封印している今、こちらも復活する可能性は極めて低いと思われます。
先の復活の原因は、私達側から刻印の残っていた遺体に魔力を直接流し込んだために、遺体に残っていた呪刻が反応。その結果、アビスグリーフの生存本能を刺激したためだと考えられますから」
「ふむ……」
「私が思うに、かの存在に対する対抗策は必要です。ですが、危険性は最小限度にしなければなりません。
ならば、これまで通り最上位の封印を施したまま、対象への接触を最小限度に留めて研究を続けるしかないのでは?」
その後もガヤガヤと様々な意見が出るものの、有用と思われる意見は出なかった。
結局採決をとった結果は、現状維持で様子を見るという結果となった。
「では、案件三十二に関しては、現状維持とします。トルグレイン氏、ありがとうございました。それでは、次の案件に……」
1つの案件が片付けば、また次の案件へ。
アルカザムが抱える問題は多い。
議長のハイバオは淡々と議事を進めていった。
「待て、風見鶏」
議会が閉会となり、議事堂の廊下を歩いていたヴィクトルは、耳障りな声に足を止めた。
振り返れば、先ほど議会に途中で乱入した傍聴人が立っていた。
「何か用かな、太腕漢君。私はこれから忙しいのだが?」
「なに、同じ学び舎で学んだ“同期”と少し世間話するくらいの時間はあるだろう? それとも、忙しいのは“債務の支払い”が滞っているからか?」
最初から皮肉の押収を始めるヴィクトルとエグロード。
双方の雰囲気は険悪だ。
さながら、会食の席で笑顔を浮かべつつ、テーブルの下で蹴り合うような光景である。
「債務? あいにくと、私の家は大きいから細かな債務はあるが、私自身が抱えている債務の支払いは順調なのだが?」
「三百年間、硬貨一枚も払わずとも順調か? ずいぶんと寝坊助な鶏もいたものだ」
三百年。その言葉を聞いて、ヴィクトルの眉がピクリと動く。
第三者に聞かれても簡単には分からないようにオブラートに包んでいるが、それは明らかにウアジャルト家との密約を意味していた。
一方、ヴィクトルは多少眉を顰めたものの、淡々とした口調を崩さず、静かに反撃に出る。
「君こそ、お抱えの騎士団を率いてこのアルカザムに来るなど、ずいぶんと軽率なことをしたな。いらぬ騒動の種をまき散らすような軽率な行動は、学生時代から変わらないようだ」
「鉄骸騎士団のことか? ただの護衛だ。私は政敵も多いのでな。
それにしても、この都市の議会もあまり有意義なものではないな。あの魔獣の事といい、あらゆることに後手に回りすぎだ」
鉄骸騎士団はファブラン家に仕えている騎士団で、規模こそ大きくないが、かなりの精鋭騎士団であり、立派な軍隊である。
もちろん、それだけでアルカザムや他国に戦争を起こして勝利できるような勢力ではないが、各国勢力が拮抗しながら成り立っているアルカザムにおいて、多勢力を刺激する一因になる可能性はある。
「悪戯に火種を増やす悪辣小僧よりはマシだ。だからフィラーナに見向きもされなかったのだ」
「甘言で人を惑わせて死地に追い込む笛吹き男が何を言う。お前のせいで十年前、どれだけの国民が喘いだと思う?」
十年前の大侵攻。その時にいち早く援軍を送るべく尽力したヴィクトルだが、当然国内、国外から反発もあった。
自国の軍隊が国境を超える。平時であろうが非常時であろうが、間違いなく宣戦布告と取られるような行動だ。
さらに軍隊の編成、進軍、維持、報償、どれをとっても莫大な経費が掛かる。
ヴィクトルはそれらの反発をあらゆる手段を用いて排除した。
義と理を解き、甘言で惑わせ、賄賂で頷かせ、時には脅迫して。
風見鶏、笛吹男、これらの呼び名は各勢力の説得に回ったヴィクトルの姿を、彼に反発し続けた者達が付けた蔑称だった。
「肝心な時に動こうとしない銅像も口は開けるのだな」
「十年前は愚父が当主だったから動けなかったにすぎん。今は違う。もう二度とお前の甘言で国を傾けさせん」
十年前のファブラン家当主、つまりエグロードの父親はフランシルト家からの提案された遠征軍編成の際に協力し、兵力と物資、資金を提供している。
ファブラン家に関わらず、他家も最終的にこの遠征軍編成に協力した結果、フォルスィーナ国はいち早く魔獣の侵攻を受けた戦場に駆けつけ、その名声を高めるに至ったが、同時に大きな負債や経済的な損失も抱えるようになった。
その損失は決して少なくなく、今でもフォルスィーナ国の憂鬱の種になっている。
「旦那様、馬車の用意ができました」
その時、ヴィクトルお抱えのメイドであるメーナが二人の会話に割って入ってきた。
一介のメイドが高位貴族の会話に割り込むなど、あってはならない無礼な行為。だが、メーナを見たエグロードは特に咎める様子はなかった。
「メーナか、久しぶりだな」
「お久しぶりでございます。ファブラン様」
咎めなかった理由はただ一つ。この二人はヴィクトルと同じように、貴族学校の同期であり、旧知の間柄だったから。
「相変わらずこの風見鶏に仕えているのか? お前ほどの騎士なら、わが騎士団でも活躍できる。再び爵位を頂くことも不可能ではないだろう?」
ヴィクトルに対して嫌悪を超えて憎悪にも似た感情を持つエグロードだが、メーナに対するエグロードの感情は、決して悪いものではない。
騎士としても腕が立ち、筋を通すこの女中をエグロードは内心気に入っていた。唯一不満があるとしたら、この女中が宿敵に仕えていることぐらいだ。
「申し訳ありませんが、古傷を抱えた私では大したお力にはなれないかと。それに、今の私はヴィクトル様の女中であり、それ以上でも以下でもありませんゆえ……」
「……っち、あの老害どもめ」
さらりとメーナに断られたエグロードだが、特に不満は感じなかった。
彼が怒りを覚えるのは、自分の誘いを断った旧友ではなく、彼女を貶めた貴族達だった。
もっとも、彼が怒りを覚えた貴族たちはとうに没落し、今ではどうなっているかは分からないのだが。
「お前が剣を授けた教え子は壮健か? 噂ではかなり成長していたそうだが」
「アイリスディーナお嬢様であるなら、今でもご学友と研鑽に励んでおります。もはや私などでは及ばぬかと」
「そうか、それは素晴らしい。そういえば、その教え子は男に執心しているらしいな。確か名前は……ノゾム・バウンティスとかいったか?」
エグロードが視線をメーナからヴィクトルに戻す。
覗うような、試すような視線を受けても、ヴィクトルの表情はピクリとも動かない。
無表情のヴィクトルを眺めながら、エグロードはさらに言葉を続ける。
「シノ・ミカグラに師事した凄腕の劣等生……。ずいぶんと変わった男だ。もちろん、それだけではなさそうだが……」
「なんだ。高々一学生を気にする時間があるほど、お前は暇なのか?」
「お前の屋敷で起きた魔法具事故の時もその場にいたそうだな」
「はあ……暇人め。娘と彼は友人なんだ。別に屋敷に招待されても不思議ではないだろう?悪いが、君と違って私は忙しいんだ。失礼させてもらうよ」
呆れたというように溜息を吐いたヴィクトルは、踵を返して歩き始める。
ヴィクトルの傍にいるメーナはエグロードに一礼すると、彼の後に続いた。
「待て、風見鶏」
立ち去ろうとするヴィクトルの背中にエグロードが引き止める。
ヴィクトルは聞く価値はないと言うように歩き続けるが、エグロードはかまわず言葉を続けた。
「貴様は私を銅像だと言ったが、そう言う貴様は何だ?」
問い詰めるような口調。そこには、先程までよりもさらに強い負の感情が垣間見えていた。
「甘言を吐き、他者を動かしながらも、貴様は結局フィラーナを死なせた」
フィラーナを死なせた。
その言葉にヴィクトルの足が一瞬止まる。
「俺だったら彼女は死なせなかった。たとえお腹の子を殺すことになろうともな」
「そうかもな。だが、だからこそお前は彼女に選ばれなかったんだ」
振り向きながら、ヴィクトルは視線だけをぶつける。
ヴィクトルとエグロード。二人はあらゆる意味でライバル同士だったといえる。
家柄としても、政敵としても、そして恋愛でも。
奇しくも、彼らが生涯の中で、真に惹かれた女性は同じ人。しかし、その女性が選んだのはヴィクトルだった。
根の深い因縁によって結ばれながらも、水と油のように反目する両者は、やがて互いに背を向けて歩き始めた。