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第8章第8節

今回はシーナの出番です。

 食事を終えたノゾム達は、湯浴みを終えた後に用意された部屋へと案内された。

 そこは一度ノゾムが泊まったこともある客室用の部屋であり、白を基調とした清潔な部屋と、落ち着いた味のある調度品がノゾム達を出迎えた。

 ノゾムはとりあえず、用意されたベッドに腰をかけ、瞑目して深呼吸すると、心落ち着けて周囲の気配を探りはじめる。

 ノゾムが身に着けようとしている精霊魔法の片鱗。周囲の精霊の存在を感じ取る事。

 ノゾムはゾンネからは休むように言い含められているが、彼自身は鍛練をしないとどうにも心が落ち着かなかった。

 

「……だめか。やっぱり封魂の縛鎖を解放しないとダメなのかな?」


 二十分ほど瞑想したノゾムだが、結果はやはり芳しくなかった。

 隣にいるマルス達の気配はもちろん、庭の木で休む鳥達の気配すら感じとれるのに、精霊と思われる意志の存在は微塵も感じとれない。

 ゾンネの話では、強い拘束力を持つ封魂の縛鎖はノゾムの魂そのものも縛りつけ、外界と遮断してしまっているらしい。

だからこそ、周囲の精霊を感知するには、封魂の縛鎖の解放が必須。

 しかし、封魂の縛鎖を解放すると、今度は激増した気の制御で手一杯の有様。

 ならば封魂の縛鎖を解放せず、精霊の感知を試みるが、やはりなにも感じ取れない。ノゾムの口から思わずため息が漏れる。

 その時、ドアを叩く音が響いた。


「ノゾム君、ちょっといいかしら?」


「ん? シーナ、何か用?」


 ドア越しに聞こえてきたのは、シーナの声。

 ノゾムは一体こんな夜更けに何だろうか? と、首をかしげつつも、ドアを開ける。そして、ドアの前に立つシーナの姿を見て、思わず息を飲んだ。

 シーナは淡い青を基調とした寝間着を着て、薄暗い廊下に立っていた。

 風呂上がりなのか、彼女の頬はほんのりと朱に染まり、滑らかな蒼の長髪はしっとりと濡れ、寝間着から覗く胸元からは甘い匂いが香ってくる。

 そして彼女は身を隠すように自分の腕をつかみながら、何やらモジモジと恥ずかしそうに俯きつつも、視線だけはチラチラとノゾムを見上げていた。

 

「ちょっと話があるの……。部屋に入ってもいいかしら?」


「あ、ああ、いいよ」


 意味深なシーナの言葉に、ノゾムは返答に詰まりつつも、部屋の中へ入るよう彼女を促す。

 シーナはキョロキョロと視線を宙に泳がせつつ、しばらく部屋を歩き回ると、窓際にあったベッドの縁にストンと腰を落とした。

 ノゾムは、とりあえず近くにあった椅子を手元に寄せて座ろうとする。


「ノゾム君、こっち……」


「え?」


 しかし、シーナが自分の座っているベッドをポンポンと叩いて、傍に来るよう催促してきた。

 ノゾムは目をパチクリさせた後に、シーナの言葉を理解してアタフタし始める。

 だが、じっと見つめてくるシーナの視線に促され、気恥ずかしそうに頬を掻きつつも、いそいそとシーナの隣に座った。

 隣り合って座る二人の距離は、おおよそ人一人が座れる程度。

 微妙な距離から肩に感じる気配、そして湯上りの甘い香りが鼻孔を擽り、ノゾムの心臓がドキンと大きく脈打った。


「そ、それで、用事って何?」


「ノゾム君、最近変な夢を見ていない? 具体的には、黒い龍が出てくる夢」


 ノゾムの表情が驚きに染まり、瞳が大きく見開かれる。


「どうして、それを?」


「これ……」


「これは、ミカエルの水晶?」


 シーナがおもむろに取り出したのは、金の耳飾りを抱いた水晶。ミカエルの魂の結晶だった。


「ええ、ゾンネ殿から大体の事情は聞いているの。

今までは私が持っていたけど、ノゾム君が、ティアマットのことを知りたいなら、貴方が持つべきだって」


 シーナがそっと、ノゾムにミカエルの水晶を手渡す。

 ミカエルに触れた瞬間、ノゾムの胸の奥がズグン……と脈打った。そして、手に乗せられた水晶を握りつぶしたくなる衝動が、熱いマグマのように湧き上がってくる。

 明らかなティアマットからの干渉。ノゾムは早鐘を打つ心音を抑えるように、大きく息を吸ってから、ゆっくりと吐き出す。

 深呼吸を繰り返すこと数度、やがて穏やかになる心拍と共に、湧き上がるような憎悪も静まっていった。


「それと、もう一つ、ノゾム君は精霊魔法を使えるようになりたいの?」


「それで、ティアマットに力を制御できるようになれば……」


 先ほど熱を帯びていた胸を押さえながら、ノゾムはまっすぐにシーナを見つめる。

 その目には戸惑いも、ティアマットに対する恐怖もない。今の自分のすべきことを見据えた、覚悟を宿した瞳だった。


「龍殺しになっても、ほとんど人間の貴方は、精霊魔法を使えるようになれる可能性はほぼない。でも、精霊を感じること位はできるようになるかもしれない」

 

 シーナがこくりと息を飲む。

 一泊の沈黙。その目にノゾムを同じ覚悟を宿しながら、シーナはゆっくりと口を開いた。


「その切欠を、貴方にあげる」


 シーナはスッとベッドの上に膝立ちになると、ノゾムの後ろへと回り込む。


「上着を脱いで、背中を見せて」


「え?」


 シーナの唐突な言葉に、ノゾムは一瞬息を飲む。

 一体何をするつもりなのかという疑問がノゾムの脳裏によぎるが、背中越しに感じるシーナの真剣味を帯びた気配に当てられ、ゆっくりと服の裾を捲り上げた。


「こう?」


「私とあなたは、契約によって繋がっている。より深く、私と貴方が繋がれば、私の感覚を共有して、貴方も精霊を感じ取ることができるかもしれない」


 シーナがノゾムの背中に手を当てる。ひんやりとした背の感触に、ノゾムの身体がピクッと震えた。

 シーナの言葉は、理論としては間違いではない。契約魔法は、エルフを初めとした妖精族や精霊種の十八番だ。

 問題は、封魂の縛鎖を解除していないノゾムとの間に、それほど強いパスを構築できるかどうか。


「…………」


「んっ」


 シーナの身体から蒼い魔力が滲み出し、ゆっくりと触れている手を介してノゾムに流れていく。

 ノゾムもまた体に入り込んでくる暖かい感触を感じつつも、精霊を感知しようと意識を集中する。


「……どう?」


「……だめだ、何も感じ取れない」


 ノゾムは何も感じ取ることができなかったのか、残念そうに首を振った。

 シーナはノゾムの背中に当てていた手を放して、考え込むように腕を組む。


「やっぱり“封魂の縛鎖”の影響が強いのかしら……」


「解除しようか?」


 ノゾムの提案に、シーナは首を振った。


「いえ、結界も張らず、こんなところで封魂の縛鎖を解除したら、大騒動になってしまうわ。ちょっと待って……」


「? シーナ、いったい何を……いっ!?」


 振り向いたノゾムが見たのは、着ていたパジャマをはだけたシーナの姿。慎ましいながらも美麗な双丘が、窓から差し込んだ月の光に照らされる。

 さらにシーナは、おもむろに自分の左手の人差し指を口に咥え、かみ切った。深雪のように白いシーナの指から、ポタリと深紅の滴が落ちる。

 続いて、シーナは後ろからノゾムの左手を取ると、彼の親指を口に含み、同じように歯を立てた。

 チクリと刺すような痛みと共に、ノゾムの指から血が滲み出る。

 シーナは噛み切ったノゾムの親指に、血が滴る自分の人差し指を重ね、そのまま手の平の上を滑らせると、後ろからノゾムに抱き着いた。


「…………」


「い、いい、いったい何して」


「こっち見ないで、集中して」


「え、ええっと、えっと……」


 シーナの突然の行動に、気が動転しているノゾムは、壊れたからくり時計のようにガタガタと震えている。

 一方、シーナはノゾムの背中にぴったりくっ付いたまま、動こうとしない。さらにシーナは、重ねていた手をギュッと握りしめる。


「一時的に契約を強めているの、お願いだから静かにして。わ、私だって恥ずかしいんだから……」


 上ずったシーナの声、そして、背中に感じる柔らかい感触に、ノゾムの全身が熱した鉄のように紅くなる。

 そして、繋いだ手の平では、流れ出した二人の血が混じり合っていた。

 溶け合い、広がる粘り気のある血の感触が、背徳的な香りと共に、ノゾムの理性を溶かしていく。


「ほ、他に方法なかったの?」


「ほ、他の方法って。そ、そんな事、出来ないわよ……」


 他にも方法があるようだが、どうやらこのやり方よりも恥ずかしいものらしい。

 ひんやりとしたシーナの体が熱を帯び、ノゾムと繋いでいた彼女の手にギュッと力がこもる。

 そのいじらしい姿に、ノゾムもまた内心で悶えていた。


「う、うう……」


「心を落ち着けて、集中して。雑念が入ると、上手く感覚を共有できないわ」


「わ、分かった……」

 

 ノゾムは一度大きく息を吐き、目を閉じて意識を切り替えた。

 真っ暗になる視界、同時にノゾムは自分の中に落ちていくような感覚を覚える。しかし、その感覚は、ある一点を超えると、急激にその方向性を変えていく。

 沈んでいたはずの感覚は、飛び上がるような感覚へと変わり、意識は内から外へと急激に膨らんでいく。

 同時に、膨らんだ意識の所々で、何かの存在が感じ取れるようになる。

 隣にいる大きな気配、軒下にいる複数の小動物の気配、外の木で眠る鳥達の気配。

 数多感じる、命の気配。だがそこで、ノゾムは今まで感じたことがない、全く新しい気配を感じた。

 まるで霧のような何かが、ジッと部屋の片隅に漂っている。


「……あっ」


「感じ取れた?」


「何か、そこに居るような気が……」


 ノゾムが、気配を感じた部屋の片隅を指差す。それを見て、シーナは頬を緩めた。


「ええ、闇の精霊がこっちを見ているのよ。貴方、変わり者だから。

 あっちからは月の光に照らされた光の精霊がいるわ。窓の外の木々には、風の精霊が休んでいる。分かる?」


 ノゾムはもう一度、部屋の外に意識を受ける。

 すると、月の光に照らされた豪奢な庭をふよふよと舞う何か、そして小鳥が休んでいる木の枝の周りを、クルクルと回っている何かの存在を感じた。


「ええっと……。なんとなく、その場にいるのは分かる。でも、何を考えているかとかは全く分からない……」


「そう、やっぱり私じゃ、このくらいが限界なのかしら……」


「いや。それでも、精霊の存在を感じ取ることはできたんだ。物凄い進歩だよ。ありがとう」


「そう……。よかったわ」


 残念そうに目を伏せていたシーナだが、ノゾムからのお礼の言葉に口元を緩めた。

 安堵の息を漏らしながら、シーナはそっとノゾムから身を離すと、はだけていたパジャマを整える。

 乱れた服を整え終えたシーナだが、ノゾムに触れていた胸元を両手で押さえながら、唐突に神妙な表情を浮かべた。

 先ほどの熱を帯びた空気とは違う、重苦しい気配に、ノゾムもまた表情を引き締める。


「ノゾム君、精霊を感じ取れるようになった上に、ミカエル殿が傍に居るとなると、これからティアマットの過去を垣間見る機会は格段に増えると思うわ」


「…………」


 シーナの言葉に、ノゾムは頷いた。

 精霊の感知、ミカエルの存在。そのどちらもがティアマットを刺激するものであり、先程の儀式の影響か、ノゾムは自分とかの龍との繋がりが、一段と強まったように感じていた。

 同時に、ノゾムがティアマットに触発される危険性も増したという事。

 その危険性については、説明の必要がないほど、二人の体に刻まれている。


「でも、これだけはお願い。その記憶に飲まれないで。貴方は、貴方のままでいて……」


「ああ、分かってる。ありがとう、シーナ」


 シーナからの懇願に、ノゾムはしっかりと頷いた。強い意志を秘めたノゾムの瞳に、シーナは笑みを浮かべる


「それじゃ……」


 シーナはスッと立ち上がると、静かに部屋を出ていった。

 ノゾムはシーナが退室するのを見届けると、おもむろに自分の手の平に目を落とした。

 流れ出した血は、乾きかけてヌルリと粘り気のあるものに変わっている。 

 その血にシーナの物が混じっていると考えると、ノゾムはどうにも心が落ち着かなかった。


「少し、歩くか……」


 色々と心を落ち着ける必要があるだろう。そう考えたノゾムは、ゆっくりと腰をかけていたベッドから立ち上がり、先ほどシーナが出ていった扉に手をかけた。 












 ノゾムの部屋を出たシーナは、足早に白く長大な廊下を歩いていた。

 自分に割り当てられた部屋の前まで来ると、彼女は深いため息をついた。

 シーナの胸に広がるのは、歓喜と安堵、そして、自責の念。

 なぜ、彼女は自責の念を覚えたのか。実は、先程ノゾムに施した儀式において、シーナはノゾムに伝えていないことがあったからだ。


「やっぱり卑怯よね……」


「何が卑怯なの?」


「え?」


 漏らした独り言を返され、シーナが思わず振り返ると、寝間着姿のミムルが、なぜか枕を持って首をかしげていた。

 内心の動揺を努めて抑えながら、シーナは無表情を維持する。


「ミ、ミムル、一体どうしたの?」


「えっと、ちょっとトイレへ……」


「部屋に備え付けがあるのに? 枕を持って?」


「あ、あははは……」


 手に持っていた枕を背中に隠しながら、ミムルは苦笑いを浮かべる。

 どこへ行って何をしようとしていたのか、丸わかりだった。


「シーナこそ、こんな時間に何しているの? それにこの匂い……血?」


 ピクリと鼻をひくつかせるミムルの姿に、シーナは思わず左手を後ろに回す。


「な、なんでもないわ。私、もう寝るから、お休みなさい」


「あ、ちょっと!」


 素早く扉を開け、ミムルに追及される前に、シーナは寝室の中に身を滑り込ませる。

 後ろ手でドアを閉めると、シーナはホッと息を吐いた。

 先ほど行った儀式の名は、血約の儀。

 単純に魔力を介した契約魔法とは比較にならないほど、強力な契約儀式である。

 これを結んだ者同士は、魔力という媒介なしに、たとえどんなに距離が離れていても、相手の存在を感じ取ることができる。

 当然ながら、そんな強力な契約が “一時的”などの程度の軽いもののはずがない。それこそ、相手が死ぬような事態にならない限り、決して解除されない魂の契約なのだ。

 さらに、その魂の繋がりは、エルフにとっては特別な意味がある。

それらの意味をノゾムに伝えることなく、シーナは儀式を行った。

 封魂の縛鎖で魂が縛られているノゾムと、これ以上繋がりを強めるには、単純な契約魔法では足りなかったからだ。

 それほど強固な契約を可能とする術は、血約の儀以外にはなかった。

 

“もし、この儀式の本当の意味を教えてしまったら、ノゾムは責任を感じ、なんとか報いようと自分を押し殺してしまうかもしれない”


 それは、つい先程、彼女自身がノゾムに送った言葉を否定することになってしまう。


「私はエルフで、彼は人間。この繋がりだけで十分……」


 ポスンとベッドに倒れこみながら、シーナは先程まで彼の手と重なっていた左手を眺める。

 噛み切った人差し指から流れた血は、すっかり乾いていた。

 傷跡にそっと口を当てながら、彼女はベッドの上で背を丸め、眠りへと落ちていく。

 胸の奥で、滲むような歓喜と、まるで“鎖を引きずっているような”後ろめたさを感じながら。













 気を紛らわせようとフランシルト邸を散歩していたノゾムだが、ふと台所に明かりがともっていることに気付いた。

 何かと思って覗いてみると、女中のメーナが柑橘系の果物を切り分け、皿の上に盛り付けていた。

 ノゾムの気配に気づいたメーナが顔をあげる。


「ノゾム様、どうかなさいましたか?」


「いえ、ちょっと眠れなくて……。メーナさんは何を?」


「旦那様とマザリネット様が、部屋でお酒を飲まれていらっしゃいますので、何か口直しになるようなものを用意しております」


 メーナは再び調理に戻る。今度は薄く切ったパンに、チーズや燻製肉を乗せている。

 しばらく調理に集中していたメーナだが、ふと何かを思いついたように、ノゾムを見つめた。


「ノゾムさま、大変お手数なのですが、もしよろしければ料理を運ぶのを手伝っていただけませんか?」


 つまみが乗せられた皿は二枚あるが、結構大きい。おおよそ、ノゾムの腕で一抱えするくらいの大きさだろうか。

 皿の上に盛られた料理の量も、相応にある。女性一人で運ばせるには、かなりの重さだろう。


「わかりました。運べばいいんですね」


「ありがとうございます。料理はもう十分ですので、運びましょう」


 二人でそれぞれ皿を持ち、ヴィクトルの執務室へと向かう。

見た目通りの重さがノゾムの両腕にかかったが、普段から鍛えているノゾムにはなんてことはない。

ノゾムが隣を歩くメーナを横目で見ると、彼女もまた平然とした様子で皿を運んでいた。

 やがて二人は、ヴィクトルの執務室の前に到着する。

 以前ノゾムは、この部屋でヴィクトルから詰問された経験があり、この場に立つと、まるで難破した船のようだと酷評された時のことを思い出してしまう。


“今は、どうなんだろうか……”


 強くならなければならないと、ティアマットを御するほど己を高められなければ、仲間達に危険が及ぶと、アゼルに襲われた時に身を以て叩き込まれた。

 だからこそ、こうして全身全霊で封魂の縛鎖を掌握しようと、鍛練を続けている。

仲間達からの応援もあり、つい先程精霊を感知できるようにもなった。

だが、ノゾムは胸の奥で、何かが足りないようにも感じていた。


“それに、アイリスディーナのこともある……”


 艶やかだったアイリスディーナの黒髪が白く色あせてしまった事は、ある意味ノゾムの油断が招いてしまったことでもある。

 娘を誰よりも愛しているヴィクトルが、今のアイリスディーナの姿に激怒しないはずはない。

 今まで叱責されなかったのは、アイリスディーナ達の手前もあったのだろうとノゾムは考えていた。

 だが、今彼女達はノゾムの傍にはおらず、もし今のヴィクトルと対面したら、ぼろ雑巾のようにズタボロにされるかもしれない。

 だが、それもある意味今の自分が受け入れるべき事とノゾムは覚悟を決めて、ドアをノックしようとした時……。


「おおおおおおん!」


 野太い濁声が、ドアの奥から響いてきた。


「え?」


 ノックしようとしていたノゾムの手が、思わず止まる。


「ノゾム様、どうしたのですか?」


「い、いえ。なんかすごい泣き声が……」


「気にする必要はありません。入りましょう」


 硬直してしまっているノゾムを置き去りにして、メーナはコンコンとノックすると、ガチャリとドアを開けた。


「お待たせしました」


「お帰り、メーナ。おや、アンタも来たのかい」


 蝋燭の明かりに照らされた、ヴィクトルの執務室。

 その部屋の片隅に設えたソファーの上で、パルライン夫人が葡萄酒を注いたグラスを片手に座っている。

 だが、何よりノゾムの目を引いたのは、床に転がる何十本もの酒瓶と、散らかった本や調度品。そして、夫人の正面の席で蹲り、むせび泣いているこの部屋の主だった。

 まるで戦場跡のような悲惨さ。その中で、妙に気品あふれる仕草で杯を傾ける夫人の姿が、これ以上ないほど違和感を醸し出していた。


「ちょうどいい、アンタもこっちに来て飲みな」


 こっちに来いというように、ノゾムに向かって手招きをするパルライン夫人。ノゾムの背中に、嫌な汗が流れた。



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