第8章第4節
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それは、ノゾムが微睡しながら見た光景だった。
荒れ狂う寒波と熱波。相反する気象が代わる代わる大地に吹き荒れ、そこに住む僅かな人達から生きる活力を奪っていた。
植えた種は一夜のうちに地面と共に凍り付き、ようやく出た芽は熱風と共に瞬く間に枯れていく。
さらに、飢えた魔獣の襲撃が、打ちのめされた人々をさらなる地獄へと叩き落す。
希望はなく、飢えと諦観が人々から気力を根こそぎ奪い取っていく。
そんな光景を彼女は空の上から見ていた。
“酷い……”
それが、その光景を見た時、ティアマットが最初に抱いた思いだった。
本人にはどうしようもない環境の中で、全ての可能性を摘み取られていく。
その生まれから同族に忌避されていた彼女だが、彼らの環境は自分などよりも遥かに悲惨に見えた。
普通の人間なら、そこで自分の力の無さに嘆き、ただ訪れる死に身を委ねるだろう。
だが、幸いにも彼女には力があった。龍族としては落ちこぼれかもしれないが、人と比べれば遥かに強大な力が。
だから、彼女は少しだけ、手を差し伸べた。
自らの源素を用いて、荒れ狂う自然の方向性を、一時的に変えた。
照りつける日差しを闇の力で抑え、枯れた植物に自らの生命力を譲渡する。さらに日中に熱を蓄えた闇を夜のうちに天高く飛ばし、雨を降らせた。
結果、枯れていた芽は命を吹き返し、荒れた地は瞬く間に緑の草原へと姿を変えていった。
多少力の加減を間違えてあちこちに森を作ってしまったが、彼女のおかげで、その地に住む人達は命を繋ぐことができた。
彼女にとっては、ほんの些細な気紛れ。
しかし、その時かの龍に向けられた人々の言葉が、彼女の胸を強く打った。
“ありがとう”
小さな、小さな存在から贈られた、生まれて初めての言葉。それは、彼女に今まで味わったこともない感覚をもたらした。
充実感、充足感、満足感、達成感。
それから彼女はちょっとずつ人間に力を貸すようになっていく。
風を穏やかに、日差しを健やかに、土地を豊潤に。
黒龍である彼女に出来る事は限られていたが、純朴な人々はその度に、彼女に深い感謝の意を示した。
そして彼女にとっても、そこに生きる人達は、掛け替えのない存在へと変わっていった。
飢えに荒れていた獣たちも大人しくなり、やがては人と共生する者達も出てきた
やがてその地は、彼女の仲間たちが加わり、大きな国へと成長していく。
アルハラント。精霊と獣と人が、共に暮らす理想郷へと。
「今のは、アイツの記憶……?」
自室の窓から差し込んでくる朝日の光で目を覚ましたノゾムは、先ほど見ていた光景を反芻していた。
時折垣間見るようになっていたティアマットの記憶。しかし、あれほどハッキリとした形で見た事はほぼない。
先の事件で、ティアマットと同調した時を除いて……。
「突発的な同調? でも封魂の縛鎖は解けてないし……」
ノゾムは念のために、ベッドから降りて自分の体を確かめてみるが、異常は感じられなかった。
全身を蝕むような痛みはないし、不可視の鎖も巻き付いたままだった。
「一応、老師に聞いてみるか」
今のところは問題ないかもしれないが、念には念を入れた方がいいだろう。
とりあえず、そう考えたノゾムは、今日にでもゾンネに確認することに決めると、ベッドの傍に置いてあった刀を手にして自室を出ると、寮の庭へと向かう。
寮の庭には、ノゾムと同じように鍛練に励んでいる生徒が数人いた。
彼らはやってきたノゾムを一瞥するが、直ぐに自分の鍛練に集中する。
ノゾムもまた静かに刀を鞘から抜くと、確かめるように振り始めた。
袈裟斬りから逆袈裟へ、右薙ぎから左薙ぎへ。
型を確かめるように、ゆっくりと無駄なく振るう。
流れるような曲線の演武。刀の刀身が、朝日の光を受けて軽やかに舞い踊る。
本人としては、鍛練にもならない確認作業。しかし、見る者が見ればおもわず見惚れてしまうほどの流麗さだった。
実際、周りで自主鍛練していた生徒達の視線が、再びノゾムに集中していた。
「そういえば、パーティーの事どうにかしないと拙かったんだ……」
一方、ノゾムは刀を振りつつも、開園祭のパーティーについて頭を悩ませていた。
昨日、ノゾムは自分がパーティー参加者だと気付いた後、即座に事務所に行って、参加者のしおりを手に入れていた。
その後、事務員からある程度の説明を受け、さらに昨夜の内に自室で手に入れたしおりを熟読した。
平民出身のノゾムは、パーティーの作法等はよく知らないが、事務員からの話では、パーティーの参加は制服で問題ないらしい。
しかし、パーティーでの印象が自分の将来に直結する可能性もあるので、大半の生徒はそれなりの服を手に入れて参加するようだ。
パーティーに使われる正装は学園でも多数確保しており、それらを借りての参加も大丈夫との事。
とはいえ、ノゾムはその辺りの事はあまり気にする必要がなかった。依然、ヴィクトルに館に招かれた際に、彼から正装をプレゼントされているからだ。
「もしかしてあの人、この事を知っていてあの服を渡してきたのかな?」
“良いものを一つは持っておけ”と言っていたヴィクトルの顔を思い出しながら、ノゾムは昨夜読んだしおりの内容を思い出す。
「それにしてもダンスか……。一体どうしよう」
ダンスの得手不得手等、ノゾムは気にしたことがなかった。自分には全く縁のないものだと考えていたからだ。
だが、よくよく考えてみれば、この学園を卒業できた者は、程度の差はあれ、それなりに高い地位を得る可能性が十分ある。
そうなれば、必然的に上流階級と接する機会もあるだろう。ならば、その際に必要なスキルも身につけておく必要がある。
その辺りは、間違いなくノゾムの考えが甘かったと言わざるを得ない。
事務員の話では、初めてパーティーに参加するような生徒は、教師が特別講習を設けるらしいが、その申込期間は一昨日までで、ノゾムの参加申し込みは間に合わなかった。
ちなみに、ノゾムと同じくパーティーに参加経験のないマルスは、既にちゃっかりと参加の申し込みを済ませていたらしい。
「経験なんて全くないぞ。踊れるわけがない。あれか、輪廻回天とかじゃダメなのか? ダメだろうな……」
当たり前である。ダンスパートナーをボコボコにしてどうするというのだろか。
この男、頭の中は未だにパニクッたままらしい。
ノゾムは一度手を止め、深呼吸をして動揺していた心を落ち着ける。
「いっそ、壁の置物になってしまおうか……」
ノゾムとしては、悪い考えではないような気がした。
ダンスの練習をするにも時間が必要だ。
アイリスディーナ達が言うように、有力者とのつながりも必要かもしれない。しかし、ノゾムとしては、今は何よりゾンネとの鍛練を優先したかった。
ティアマットの力を完全に制御する事。それこそが、何よりもやるべきことだと、彼は考えている。
そして、考え事をしていた所為か、ノゾムは背後から近づいてくる気配に気づかなかった。
「おい……」
背中から掛けられた声に、ノゾムは振り向く。
そこにいたのは銀色の髪と尻尾を生やした、銀狼族の同級生だった。
「ケヴィン。何か用か?」
ケヴィン・アーディナル。
アイリスディーナのクラスメートで、三学年でもっとも接近戦に優れた人物と言われていた生徒だ。
しかし、ノゾムとジハードの模擬戦以降、学園ではノゾムの名前がその筆頭に出ている。
彼もまた早朝の鍛練をしていたのだろうか。
肌には玉のような汗が光っており、髪の毛もべっとりと濡れている。
「お前も開園祭に出るらしいな……」
「まあ、なんだか参加しなきゃいけないみたいだからな。それで、一体何の用なんだよ」
「…………」
無言のまま睨みつけてくるケヴィンに、ノゾムはいぶかし見つつも、緊張感を高めた。
ケヴィンはプライドが高く、以前は成績の振るわないノゾムを一方的に蔑視していた。特総演習の時は、あからさまな敵意をぶつけられている。
ノゾムとしても、あまり気分のいい相手ではない。
ピリピリと肌が引きつるような威圧感が、両者の間に流れる。
その時、唐突に掛けられた声が、二人の間の張りつめるような空気を弾き飛ばした。
「ああ、ノゾム。ここにいたのか」
「あ、アイリス? なんでこんな朝早くに……」
「…………」
姿を現したのは制服姿のアイリスディーナ。
彼女の姿を見たケヴィンはノゾムに向けていた敵意を納めると、無言のまま踵を返して立ち去ってしまった。
ケヴィンの後姿を確かめたアイリスディーナが、神妙な表情を浮かべる。
「……何かあったのか?」
ケヴィンの性格をよく知っているアイリスディーナが、目じりを吊り上げながらノゾムに尋ねてくる。
「いや、何も言われなかったけど……。そ、それで、何か用があるのか? こんな朝早くに男子寮に来るなんて」
「あ、ああ。ちょっと用事があってね。いいかな?」
アイリスディーナの鋭利な気配は嘘のように霧散し、彼女はしどろもどろといった様子で、ノゾムの顔色を窺い始めた。
上目づかいでノゾムの顔を覗きこむ彼女の頬は、ほんのりと朱に染まっているような気がする。
「そ、その。ノゾムはダンスの経験が無いんだろ? だったら少し練習してみないか?」
「練習?」
「あ、ああ。私の家なら場所もあるし、広いから周りに迷惑をかけることもないだろう。ど、どうかな……」
アイリスディーナの提案に、ノゾムはバツが悪そうな表情を浮かべた。たった今、ダンスの練習を放棄しようと考えていたところだったからだ。
アイリスディーナが自分を心配して提案をしてくれていることはよく分かる。でも、彼としては、今の自分が表舞台に出ることに忌避感を感じてしまうのだ。
「でも、迷惑じゃないか? それに、老師の鍛練も考えると、時間もかなり遅くなると思う。ヴィクトルさんもあまりいい顔をしないんじゃ……」
「問題ないさ。あの屋敷の主は私だ。それに遅くなっても、寮に門限はないんだろう? 夕食くらいならご馳走するよ。どうかな?」
「アイリスの提案は嬉しいけど、でも俺は……」
練習を手伝ってくれるというアイリスディーナの言葉は嬉しい。でも、今の自分にはまだ早い。そう考えてしまうと、ノゾムは彼女の提案を快諾できなかった。
ノゾムは悩んだ末に、アイリスディーナの提案を断ることに決めた。
精一杯自分を想ってくれている彼女の事を考えると、ノゾムの胸はギシギシと軋むように痛んだ。
その痛みを、ノゾムは唾と一緒に飲み込む。ティアマットの力を制御する事。それが、今の自分に何よりも優先すべきことだと、胸に走る痛みに蓋をしながら。
せめて言い訳じみ台詞ではなく、しっかりとした真摯な言葉で断ろう。それが、彼女に対する礼儀だと信じて、ノゾムは口を開く。
「そう、か……」
だが、ノゾムが返答する前に、彼の顔を見つめていたアイリスディーナの表情に影が走った。
察しの良い彼女の事だ。すぐにノゾムの返答がどんなものか、気が付いたのだろう。
その寂寥感を滲ませた表情に、ノゾムの胸の奥で軋んでいた氷にビシリと罅が入った。
「私は……君と踊りたいんだけどな……」
彼女が寂しそうに呟いたその言葉が、ノゾムの胸にストンと落ちた。
その瞬間、先ほどまで軋みを上げていた胸の奥の氷が、ガラガラと音をあげて崩れる。
同時に、ノゾムは自分自身に言いようのない怒りを覚えた。
“何をやっているんだ自分は。こんな顔を彼女達にして欲しくなかったから、自分はゾンネとの鍛練を申し出たはずだった”と。
ノゾムは言い訳をしようとしていた自分を叱咤するように、両手で自分の頬をパン! と叩いた。
ノゾムの突然の行動に、アイリスディーナがびくりと身を震わせ、目をパチクリさせている。
「アイリス、ダンスの練習、お願いするよ。正直なところ、どうにかしなきゃと思っていたんだ」
しっかりと彼女の目を見つめながら、ノゾムはダンスの練習を申し込んだ。
驚きに固まっていた彼女の顔が徐々にほころび、満面の笑顔へと変わる。
「そ、そうか! じゃあ今日の放課後。正門で待っているから、ゾンネ殿の鍛練が終わったら、私の家に行こう!」
アイリスディーナは浮かれたようにノゾムの手を握ってブンブンと振ると、早口にまくし立てる。
そしてパッとノゾムの手を放すと寮の正門の方へと駈け出して行った。
「いいな! 約束したからな! 絶対来るんだぞ!」
「ああ、約束だ!」
振り返りながら手を振るアイリスディーナに、ノゾムもまた手を振って答える。
鍛練の時間が減り、ゾンネはいい顔をしないかもしれない。それでも、これで良かったと、ノゾムは心の底から確信できた。
既に日は完全に地平線から昇っている。しかし、風はまだ身を切るように冷たい。
寒さからノゾムの体が震える。でも胸の中は、これ以上ないくらい暖かかった。
ちなみに、この二人の会話は早朝鍛練をしていた生徒達によって瞬く間に男子寮中に広がり、ノゾムは朝から無数の殺意の視線にさらされる羽目になった。