第8章第1節
というわけで、第8章の開始です。
薄暗い森の中。倒壊し、燃え尽きた小屋の残骸の前で、二つの人影が対峙していた。
一人は、腰に刀を帯びた青年、ノゾム・バウンティスだ。
白を基調としたソルミナティ学園の制服に身を包み、緊張した面持ちで深呼吸を繰り返している。
もう一人はローブを身に纏った、白い髭を蓄えた老人、ゾンネ。
ティアマットの監視者としてこの街にやってきた彼は、皺がれた腕を組みながら、ジッと真剣な眼差しで、目の前の青年を見つめていた。
二人の間には、ピリピリと引きつるような緊張感が満ちている。
やがて、ノゾムが自分の胸に手をあてると、何かを掴むように手の平を握りしめる。
そして、握りしめた手を振り払った途端、膨大な力の奔流が、激流となって四方八方にまき散らされた。
「ぐう!」
ノゾムが苦悶の声を漏らす。
ティアマットの力が激痛を伴つて全身を駆け回っているのか、顔は強張り、真っ白になるまで手の平を握りしめている。
それでもノゾムは、暴れ狂う力を必死に制御しようと試みる。
ギュッと目をつむったまま、己の内に意識を向け続けていた。
暴風のように周囲にまき散らされていた力が、心なしか、徐々に収まってくる。
しかし、ノゾムの表情は先ほどよりも歪み、やがてピシ、ピシッと弾けるような音と共に、彼の皮膚が裂け始めた。ティアマットの膨大な力の余波で、自傷が始まったのだ。
それでも、ノゾムは力を収めようとしない。
滴り落ちて吹き飛ばされる自らの血を顧みようとせず、只管に精神統一を続ける。
“アアアアアアアアア!”
漏れ出した力の一部が、怨嗟のような唸りをあげ、辺りの小石や砂を吹き飛ばす。
そして、溢れた力の一部は、ゾンネの首を絞めるようにゾンネに絡みついていく。まるで、その力の主の意思を代弁するように。
だが、ゾンネは、自分に絡みついてくる混沌の光も、特に止めようとするそぶりを見せず、ジッと眼前の光景を見守っていた。
やがて数分後、パチン! という一際響く音と共に、ノゾムの裂傷から流れる血が一気に増える。
その瞬間、ゾンネが口を開いた。
「そこまでじゃ」
その言葉と全く同時に、ノゾムが解放した力を収めた。
不可視の鎖がノゾムの体に巻き付くと同時に、荒れ狂っていた力が収まる。同時に、ノゾムは、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「はあ、はあ、はあ……」
荒い息がノゾムの口から漏れ、開いた傷口から、ビチャビチャと血が流れ落ち、地面を紅く染めていく。
ゾンネは素早く魔法を展開してノゾムの体の傷を癒し、ついでに制服に染み込んだ血と匂いを洗い流す。
二人がこの森にいる目的は、ティアマットの力の制御。
龍の力の大本である精霊、そして源素の力の使い方を習得することだった。
しかし、ノゾムの様子を見る限り、その結果は芳しくない。
「訓練を始めてから、二週間ほど。初めての時よりも、記録の伸びは十秒ほどといったところか」
「ここ一週間ほどは、ずっと……横ばいか……」
落胆した様子のノゾムに対して、ゾンネは特に気にした様子もみせない。
「お主の体は、どこまでも人間のようじゃからな。異能の制御が出来ぬ限り、記録の伸びは期待できんじゃろう」
“封魂の縛鎖”
ノゾムが持つ異能であり、彼の命を繋ぎ止める命綱。
ティアマットを封じているこの異能を使いこなす事が、ノゾムの目的だ。
しかし、鍛練を始めてから二週間ほど、ノゾムが自分の異能を制御できる様子は全くなかった。
「そもそも、異能の制御ってどうやっているんだ?」
「お主が持つ龍殺しとしての“異能”は、“本来の呼ばれている異能の形”とは若干異なる。
龍殺しの異能は、取り込んだ龍の力を、本人が本能的に制御しようとした形じゃ。その在り方は、むしろ個人としての異能。お主たちがアビリティと呼ぶ形に似ておる」
異能というのは基本的に、ある特定の種族が持つ力であり能力の総称だ。それに対して、アビリティは個人が持つ能力の総称。
そういう意味では、龍殺しの異能は、そのどちらとも取れる面がある。
「ただ、その異能の形が、お主自身に端を発している以上、それを学べるのも実のところ、お主だけじゃ。そういう意味で、異能に関しては、お主が自分自身に問い掛け続けるしかない」
そこまで語り、ゾンネは一回言葉を切る。
「それで、もう一つの課題の方はどうじゃった? 精霊の存在は感じ取れたのか?」
限界まで力を解放したまま精神統一し、異能の制御を試みる。それ以外にもう一つ、ノゾムに課題として与えられたのは、周囲の精霊を感じ取るだった。
龍の力とは精霊の力。源素の力。この世界を構築する根源的な力である。
精霊魔法の習得は、この力を間接的に触れることに他ならない。
ノゾム自身が取り込んだ力の制御を、別方向からのアプローチする。その為に、ノゾムは精霊魔法の習得も試みていた。
「全然……」
「ふむ、周囲の精霊を感じ取ることすらできぬか。龍殺しとして、精霊をその身に取りこんだくせに、体は本当に人間のままじゃな。このままでは、精霊魔法の習得は絶望的か……」
精霊魔法を習得する上での第一段階は、まず周囲に存在する精霊を感知すること。
次に、感知した精霊と意思疎通を行う事。
最後に、自らの力を精霊に譲渡し、契約を結び、力を借りることでようやく行使することができる。
しかし、ノゾムのその最初の段階で既に躓いていた。
初めは、力の解放をしないまま、精神統一を行って周囲の精霊を感じ取ろうとした。しかし、全く感知できない。
ゾンネは原因が封魂の縛鎖にあるのではと考え、力を解放している状態で精霊の感知を試みるよう指示するが、結果は芳しくなかった。
精霊の存在を感じ取ることは、人間の中でもごく稀にできる人物が現れる時がある。霊感だの、虫の知らせなど、大半は眉唾物の話に埋もれることがほとんどではあるが。
人間が精霊魔法の取得ができない理由は、第二段階。精霊との明確な意思疎通が、人間には、ほぼできないからである。
しかし、人間が使う気も、魔力も、元は源素と呼ばれる魂の力がその根底にある。時間と修練を重ね、人の身で源素を扱うこともできる人間も過去には存在したらしい。
ノゾムはその身に最強の龍を宿している。精霊魔法を使える可能性はあるかと思われたのだが、今のところ芽が出る様子はない。
ノゾムの顔に落胆の色が翳る。
「何を一丁前に落ち込んでおる。異能の制御、精霊魔法の習得。どちらも、ただの人間が一朝一夕にはどうにもなるまい。今まで、星の数ほどの偉人が挑み、敗れたことじゃ。龍としても人としても、半人前のお主がどうにかできると思ったのか?」
ゾンネが挑発するような言葉をノゾムに向けた。
悔しさからノゾムは唇を噛み締める。すると突然老人は、嘲るような笑みを浮かべた。
「それとも諦めるか?」
「冗談じゃない。この程度で諦めるくらいなら、初めから鍛練を申し出ていない」
ゾンネの挑発に、ノゾムは即座に言い返す。
その目には力強い光が宿っていた。
この程度がなんだと。高々切り傷十数か所、血管が数本が千切れただけだと。
例え血反吐を吐いても、絶対に制御して見せるという意思を短い言葉の裏に乗せ、挑発的な笑みを浮かべる老人に叩き付ける。
まっすぐに見返してくるノゾムの姿に、ゾンネは静かに口元に浮かべた微笑を深めた。
ノゾムもまた笑みを返す。かつてもう一人の師から修練を受けて居た時もまた、同じような感じだった。
「分かっているさ。学ぶとは、真似るということ。そして、本当の意味で身に着けるには、ただひたすらに繰り返すしかないという事も……」
ノゾムは怠い体に鞭を打って立ち上がる。
僅かな修練では身につかない。体に文字通り、刻み込まれるまで繰り返す。そして、真似ながら学ぶ。その繰り返しであることを、もう一度自分自身の心に言い聞かせていた。
「しかし、お主という奴は……」
「なんだよ老師」
「……いや、何でもない」
立ち上がったノゾムを見て、ゾンネが含みのあるような言葉を漏らす。
ノゾムが何事かと聞き返すが、ゾンネは曖昧な返事を返しただけで押し黙ってしまった。
奇妙な沈黙が、二人の間に流れる、
黙り込むゾンネを眺めながら、ノゾムは徐に口を開いた。
「なあ、老師。五千年前、ティアマットに何があったんだ?」
「奴の事が気になるのか?」
「正直なところ、ティアマットについて、初めは厄介な奴としか思っていなかった。この力に助けられた事はあるけど、同時にアイリス達に迷惑をかけているのも事実だ。ただ……」
「ただ……?」
自分の内に湧きあがった疑念。それを確かめるように、ノゾムは深く息を吸い、目をつぶる。
そして一拍の間、息を止めてゆっくりと肺に溜まった空気を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「何となく、似ているような気がする。俺と、アイツと……」
ノゾムの言葉を聞いたゾンネは、考え込むように顎鬚を撫でる。
「お主、ティアマットの過去の全ては見ておらぬのか?」
「ミカエル……。アンタの息子と一緒に国を作って、それが滅んだっていう事くらいしかわからない」
ノゾムが見た光景は、既に滅亡した国と死んだ友人の龍達、取り込んだ異質な力に苦しむティアマットの姿だ。
そして、ティアマットは、縋ったミカエルに否定され、絶望と怒りの中で壊れていった。
しかし、そうなった経緯が全く分からない。
だだ、何かがあったのは確かだ。
あの時。ティアマットの怒りと同調し、アイリスディーナ達に刃を向けてしまった際に、ノゾムは穏やかなティアマットとミカエルの声を聴いている。
「ただ、ティアマット自身は裏切られたとか……」
しかし、どの部分も断片的で、ノゾムには何が起こったのかは分かっても、その原因が皆目見当がつかなかった。
「ふむ……。ワシが話してもいいかもしれぬが、正直なところ、大した話は語れぬ。いくら、アルハラントの末路を知っているとはいえ、所詮ワシは外側の存在じゃった……」
「アルハラント?」
「ティアマットとミカエルが作り上げた国の名前じゃ。その名はとうに土に埋もれ、人の歴史の中からは消え去っているが……」
アルハラント。ノゾムには、全く聞いたことがない名前だった。
「外側……というのは?」
「その通りの意味じゃよ。それを語るのならば、ワシよりもふさわしい存在がおるという事じゃ」
その名前を噛み締めるように呟いているノゾムを眺めながら、ゾンネはおもむろに地面に手をかざした。
「では、帰るぞい」
「あっ! ちょ……」
「ワシら龍族は確かにアルハラントとティアマットを封印したが、それを語るのならば、ワシよりもふさわしい存在がおる。しばし待っておれ……」
ノゾムが抗議の声を上げる間もなく、彼の目の前で空中に無数の魔法陣が踊り、光輝いた。
次の瞬間、二人の姿は森の中から忽然と姿を消した。
視界を照らす白の光が収まった時、ノゾムの目の前には、だだっ広く、薄暗い空間が広がっていた。
彼の足元には複雑怪奇な魔法字が敷かれ、ほのかに淡い光を放っている。
彼が今いるのは、ソルミナティ学園に設けられた武技園の地下。魔法障壁を発生させる魔法陣が敷かれた、地下室である。
「帰ってきたようだな」
重く低い声が、薄暗い地下室に木霊する。声のした方にノゾムが視線を向けると、白銀の鎧をまとった壮年の男性が佇んでいた。
ジハード・ラウンデル。
学園の最高責任者の一人にして、この場所をゾンネに提供した人物だ。
ノゾムがゾンネとジハードの間に繋がりがあったのを知ったのは、アゼルの襲撃からしばらくの後の事である。
ジハードの執務室に呼ばれたノゾム達は、そこでジハードとゾンネが協力関係であることを知った。
ジハードが依然見せた五鱗石も、ゾンネから提供されたものである。
その後、アイリスディーナ達がゾンネとジハードに詰問する光景が繰り広げられたが、最終的には納得し、こうして協力関係を続けている。
そして、ジハードはノゾムの鍛練をする際の中継地点として、この術式室を提供した。
ノゾムが鍛練するには、人の少ない場所が望ましい。となると、街中で鍛練することは不可能である。
しかし、森に行くにしても、今のノゾムは、鍛練の時間は一秒でも惜しいと感じていた。
そこで、武技園の地下から、ゾンネの転移魔法で直接森に行くことを提案。
結果として、彼はここ二週間、この武技園地下から森を行き来し、鍛練を続けていた。
ノゾムを一瞥したジハードは、わずかに眉を顰めるが、ノゾム本人が気が付く前に、元に戻った。
「ノゾム君、お疲れさまだ。今日はもう帰りなさい」
「は、はい」
特に語ることはしないまま、ジハードはノゾムに帰るよう促す。
ノゾムは“待っていろ”と言い放ったゾンネの言葉が頭に引っかかってはいたものの、全身を包み込む倦怠感には勝てず、フラつきながら地下室を出ていった。
ノゾムが地下室を出ていったことを確認したジハードが、スッとゾンネに近づき、押し殺すような声で尋ねてきた。
「それで、どうでした」
「相変わらず、精霊魔法を取得できる気配はないわい。力の開放時間は、ここ2週間で、十秒の記録更新といったところかのう」
「十秒、ですか……」
ジハードは、十秒という言葉をかみしめるように繰り返すと、嘆息するように、大きく息を吐いた。
「そうじゃ。十秒も、じゃ」
「驚異的ですね……」
ジハードが漏らした“驚異的”という言葉に同意するように、ゾンネはゆっくりと頷いた。
ノゾム・バウンティスが取り込んだ力は、本来人間という枠に収まるものではない。
龍族が一つの世界を作り上げてまで封じたのは、その力の巨大さも、質も、決して看過できないと判断されたからだ。
その事実を考えれば、十秒という砂粒のような時間が、どれほど驚異的なものであるかは理解できるだろう。
「小僧本人は不満みたいじゃがな。一刻も早く力の制御をしなくてはと、やや焦り気味じゃ」
ゾンネやジハードの認識とは違い、ノゾムはこの結果にやや不満そうだった。
本人も簡単にできることではないと理解はしているのだろう。
だが、いかんせん仲間達に二度も刃を向けてしまったという事実が、ノゾムの中で尾を引いている様子だった。
「本人に言わなくていいのですか?」
「下手に宥めて緊張感を無くされるのも困るし、逆効果になる可能性もある。その方が危険じゃ。緊張感を保ちつつ、ギリギリの鍛練を続ける必要があるのじゃからな」
ノゾム自身の焦りに繋がっているかもしれないが、彼が鍛練に励むテンションになっていることは確かである。
それに、ノゾムは一度自分の逃避に鍛練を選んでいるが、ゾンネの見たところ、今のノゾムが鍛練に溺れる様子はまだない。
曖昧な妄想ではなく、現実と向き合った上でこの鍛練を続けていた。
「その辺りのさじ加減は、お嬢さん方に一任するとしよう。その方が効果的じゃし、小僧も喜ぶじゃろ? ワシとしては、羨ましいことこの上ないが……」
「ゾンネ殿……」
確かに、ノゾムが今鍛練に没頭している理由は、アイリスディーナ達にある。ならば、彼女達の方が、ノゾムを宥めるには適任だろう。
後半の台詞が私情丸出しで、今一締まらないが、納得できる理由ではある。
「とはいえ、小僧はこのような経験を一度しておる。鍛練の内容は違えど、必要な要領は掴んでおるようじゃ」
「やはり、そうですか……」
「ああ、伊達にあの歳で、あれだけの刀術を身に着けたわけではない。生死の境を本能的に見極める感覚は、今まで見た人間の中でも優秀じゃ」
ゾンネすら感心するのは、ノゾムの鍛練時の集中力だった。
体が自壊によって致命傷を負う寸前を見極め、ゾンネが止めると同時に封魂の縛鎖を自分の体にかけ直している。
「無茶が出来る。故に無茶をする。しかし、生死の境はきっちりと見分ける。今さらながら、心配になってきますね」
「教える側としても、毎回毎回ハラハラさせられるわい。やれやれ、今さらながら、とんでもない弟子を抱えたかもしれんのう……」
会ったこともないノゾムの師に同情しながら、ゾンネは深々と溜息を吐いた。
教える側としては、これほど心配になる生徒も少ないだろう。
「さて、ノゾム君の状況は分かりました。私はこれから会議があるので失礼いたします」
「開園祭、じゃったか。街でも話が出ておるよ。色々とイベントが目白押しのようじゃな」
「ええ、願わくば、なにも騒動が起こらないことを願いますよ」
ゾンネに一礼すると、ジハードは地下室を後にする。
ジハードを見送ったゾンネは、チラリと地下室の床を一瞥した。
「ティアマットとミカエル。五千年止まっていた時間が動き始めたか……」
無表情のまま、何かを確かめるように、じっと床を見つめ続ける。
やがてゾンネは顔を上げて瞑目すると、転移魔法を発動。
後には、薄暗い地下室の中で、輝く魔法陣の光だけが残されていた。