第7章第27節
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戦闘によって負ったノゾム達の傷は、ゾンネの手によって瞬く間に癒された。
以前にノゾムが暴走した時、彼は極度の消耗で数日間眠り続ける羽目になったが、ゾンネの治療のおかげで今回は10分程で目を覚ました。
そして目が覚めた彼は状況を理解すると、唇を噛み締めながらアイリスディーナ達に頭を下げた。
「皆、本当にごめん。なんて謝ったらいいのか……」
地面に頭を擦り付けるのではと思えるほどノゾムは頭を下げる。
「ノゾム、顔を上げてくれ……」
重苦しいアイリスディーナの声に、ノゾムの体がビクンと震えた。
申し訳なさと罪悪感から、ノゾムは恐る恐る顔を上げる。
その時、ポスンという2つの衝撃が彼の胸板に走った。
「よかった、よかった……」
「ア、アンタねえ、どんだけ心配させれば気が済むのよ!」
飛びついてきたのは、アイリスディーナとリサの2人だった。彼女達は瞳を潤ませながら、ノゾムの胸に顔を埋めている。
2人の後ろでは、シーナがほっとした表情で、胸を撫で下ろしていた。
ノゾムがおずおずと視線を落とす。
胸元に縋り付いてくる少女達の姿は、とても痛々しいものだった。
艶やかだったアイリスディーナの黒髪は、まるで老婆のように真っ白に色が抜けてしまい、リサの紅髪も肩口から無残にバッサリと切り落とされてしまっていた。
「そ、その……。2人とも、ゴメ……」
「そうじゃない、そうじゃない……」
「あ、あのねぇ、謝ってほしくてこんな事やったと思っているの!?」
鼻を詰まらせながら、涙声でまくし立てるアイリスディーナとリサ。彼女の後ろで3人を見守っていたシーナも、ジロリとノゾムを責めるような視線を向ける。
3人からの非難に、ノゾムは思わず押し黙った。
見かねた仲間達が、2人の後ろから声をかける。
「そうだぞ。それとも、その辛気臭い顔を、無理やり笑わせてやろうか?」
「そやそや、ワイとしては賠償を要求する! 具体的には銭とか、銭とか、銭とか……」
「お金しか言っていないじゃない」
「貴方は黙っていなさい」
「ぐえ!」
余計な冗談をまくし立てるフェオを、シーナとミムルが物理的に大人しくさせた。
なにやらゴキン! と痛々しい音が響いていたが、既に慣れた展開なので、綺麗にスルーされる。
一方、ノゾムはもう一度、ゆっくりと視線を落とした。アイリスディーナとリサの痛々しい姿に、罪悪感で落ち込んだノゾムの顔が、さらに苦々しい表情に歪む。
たとえ体の傷は癒えても、二人の姿が否応なくノゾムを後悔させる。
一度ならず、二度までもやらかしてしまった失態。仲間達は全員生きているからいいものの、一歩間違えばどのような悲劇的な事態になっていたかは、想像に難くないからだ。
それでも、彼女達がノゾムの謝罪など求めていないことは分かる。
「あ、ありがとう……」
ノゾムは精一杯の気持ちを込めて仲間達に礼を述べながら、ゆっくりと、縋り付いてくる2人の髪を撫でる。
胸は後悔と自己嫌悪でまだジクジクと痛む。それでもノゾムは、心の奥からは熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。
その時、成り行きを見守っていたゾンネが口を開く。
「まあ、小僧の方も色々思うところがあるとは思うが、その前にこちらをどうにかするのが先決じゃろう」
「くう……」
ゾンネの言葉で全員が目を向けた先には、拘束されたまま地面に伏しているアゼルの姿があった。
ゾンネがアゼルの前へと進み出て、冷淡な目つきで睥睨する。
その背中から、言いようのない覇気が滲み出しているようで、ノゾム達は息を飲んだ。
「アゼル、お主は龍族の総意に反し、ワシらが徒に干渉せぬと決めた人間界に無断で渡り、そして罪を犯した。事と次第によっては、取り返しのつかない事態に発展していた可能性もある極めて重い罪じゃ。監視者として、そして元白龍族の長として、到底容認できる事態ではない」
「お爺様! どうして分かってくれないのですか! そこにいるのはあの忌……あぐ!」
「わかっておるよ。この小僧が秘めてしまった危険性も、あの時生まれてもいなかったお主よりは遥かにな。
しかし、それでもお主のしたことは決して許せるものではない」
何やら抗議しようとしたアゼルだが、ゾンネが腕を一振りすると、彼女の拘束が強まり、その口を無理やり閉じさせる。
今まで突拍子もない事件を引き起こしてきたエロ爺と同一人物とは思えないほどの、威厳のある姿だった。
ゆっくりとゾンネが振り向く。深い知性と強靭な意志を感じさせる瞳が、ノゾム達に向けられた。
「それでじゃ。皆、この小娘をどうしたい? この場合、被害者であるお主達に、アゼルを裁く権利があると思うのじゃが」
「俺としては、死刑にされてもおかしくないと思うがな」
「まあ、ちょっと哀れとは思うが、事が事やからな~」
ゾンネの問いかけに、マルスとフェオは息を吐くと、辛辣な言葉を返す。
アイリスディーナやリサ達も明言こそしないが、厳しい表情を浮かべながら、拘束されているアゼルを見つめていた。
“待ってくれないか”
その時、清涼な声がマルスたちの脳裏に響いた。
よく見ると、ゾンネが手に持っていた水晶が光を放っている。
「なんだ、石ころ」
“アゼルの事を許せとは言わない。言えるはずもない。しかし、私もまた共犯の一人だ。アゼルを裁くというなら、私も一緒に裁いてほしい”
声をかけてきたミカエルにマルスが尋ねると、彼は自分も裁いてほしいと懇願してきた。
マルスとフェオは、ミカエルが自分にも罪を受けることで、アゼルの減刑を願っているのかとも考えたが、その真意までは分からない。
また、ミカエルにどんな罰が相応なのかも、難しい問題だった。マルス達も、水晶を裁いた経験などないからだ。
「というか、俺があまりどうこう言うべきでもないよな?」
そこまで考えて、マルスはあまり自分がでしゃばるべきではないと考えた。
きっかけはゾンネに事の次第を聞かされ、頼まれたからではあるが、この件は元々、龍族とティアマットの因縁が原因だ。
なら、直接の被害者に委ねるのが一番妥当だろう。
「……だ、そうだ。ノゾムと赤髪はどうする?」
「え? 俺?」
「赤髪って、私のこと?」
「今回、一番の被害者は2人だろ? いきなり襲われて重傷を負わされるわ、ティアマットを暴走させられるわ……」
色々と考えて、ノゾムとリサが判断する方がいいと考えたマルスは、二人にアゼルとミカエルの裁定を丸投げすることに決めた。
ノゾムは、どうするべきかと他の仲間達に無言の視線を送るが、アイリスディーナ達も特に異論はないのか、口を出す様子はない。
「とはいってもな……」
「お爺さん、白龍族は、彼女をどう裁くの?」
悩むノゾムを見て、リサはとりあえず、龍族がアゼルの所業を裁定する場合、どの程度になるのかをゾンネに尋ねてみた。
「今回のことはさすがに看過できんからの、いかにアゼルが幼龍とはいえ、死刑にされたとしても文句は言えん。
じゃが、龍族自体の数も少ない。できるなら、お主たちに二度と干渉できぬように、千年単位の封印刑が妥当なところじゃろうな……」
「千年……」
「さすがにその頃には、お主たちは生きてはおるまい?」
千年という年月の長さに、ノゾムとリサは思わず天を仰いだ。
確かに長い。ノゾムとリサには想像もつかない長さだ。
それにノゾムとしても、アゼルがリサを傷つけたことには怒りを覚えるが、自分も暴走した挙句に仲間を傷つけたので、思う所もある。どうするべきなのか迷いが消えない。
リサとしては、ノゾムが龍殺しだと知らされたり、唐突に伝説の精霊種と戦う羽目になって重傷を負ったり、暴走したノゾム相手に奮闘したりと大騒動の繰り返しだった。
肉体的にも精神的に限界で、正直頭が働かない。
「その刑期を終えたら?」
「そうなったら、開放して普通に里で過ごさせる。まあ、仮釈放ということで、二千年ほど力を鼠並みに落とさせてもらうかもしれんが……」
今度は二千年。年月の重さと龍族との感覚の違いに、ノゾムとリサは気が遠くなりそうだった。
思わず天を仰ぐ2人。その脇でマルスが先ほどのゾンネの言葉に首をかしげる。
「というか、こいつ幼龍なのか?」
マルスは成龍をその目で見たことはないが、アゼルの体は三階建ての家ほどもある。
おまけに精霊たちの力を借りた多種多様な魔法は、以前戦った屍龍よりもはるかに脅威であった。
これほどの力の持ち主が幼龍だとは、マルスには到底信じられなかった。
アイリスディーナも同意見なのか、口元に手を当てて小さく頷いている。
「正直、ノゾムが手傷を負わせていなかったら、抑え込めたかどうかは怪しかったな」
「力は成龍に近づいておるが、歳は七百歳程。人間でいうと十四歳くらいじゃな」
「「ぶっ!?」」
「私達よりも歳下なんですか!?」
龍としては想像以上に年下だったことに、ノゾムとマルスは思わず吹き出し、アイリスディーナが驚愕の声を漏らした。
「十四歳って……」
「龍族の成長速度は、人間に比べればはるかに遅いからのう。千年くらい生きて、ようやく大人といったところじゃ。
その点、この娘は体の成長は早く、大人と遜色ないほどの力があるが、精神的な成熟はまだまだでのう……」
それでも七百歳。それで精神年齢が十四歳とか、ギャップがありすぎる話である。
とはいえ、父親の敵を討つために里を一人で飛び出す等、妙に納得できる点もある。
「それで、どうするのじゃ?」
改めて、ゾンネはノゾムに裁定を促す。
ノゾムはちらりとリサと視線を交わす。
彼女も、またノゾムに判断を一任すると、手を振って静かに合図を送っていた。
「俺は……」
恨みがましい目で睨みつけてくる実年齢七百歳、精神年齢十四歳の幼龍を前に、ノゾムは今度こそ頭を抱えた。
翌日の早朝、森から帰ってきたノゾム達は朝焼けが街並みを照らす中を、学園へと向かった。今回の事件をジハードに知らせるためである。
ところが、学園に到着すると、既にジハードが執務室でノゾム達を待っていた。おまけに彼の隣には、補佐を務めるインダ先生の他に、アンリ先生とノルン先生。そして、フランシルト家当主のヴィクトルの姿もあった。
彼らは既に、森でアゼルに襲撃された件を知っていた。ゾンネが精霊魔法を使って、事の次第をジハードに伝えていたのである。
とりあえず、ノゾム達から具体的な事情を聴いたジハードは、彼らに休息を命じ、今日は帰るよう促した。
厳しい戦いであったことが、ゾンネから話を聞いた段階で分かっていたからである。
体に負った傷はゾンネに全て癒されたが、白を基調とした制服は既にボロボロ。それだけでジハード達は、戦いの厳しさを感じ取ったのだ。
特に鬼のような形相をしていたのは、愛娘の状態を見たヴィクトルだった。
彼が真っ白に脱色してしまったアイリスディーナの長髪を見た時、一瞬ジハードすら気圧されるほどの怒気を放っていたくらいである。
その後、アイリスディーナ達は学園を数日間休んだ後、フランシルト邸に集まっていた。
アイリスディーナが退屈しているであろう仲間達に話を通して、フランシルト邸に招待したのだ。
だが、この場にノゾムの姿はなかった。アイリスディーナは当然彼も誘ったのだが、外せない用事があるからと断わられたのだ。
とりあえず、ノゾムを除いてフランシルト邸に集まった彼女達は、一般人は絶対に受けられないフランシルト家からのもてなしを楽しんだ。
そして、昼下がりの午後。昼食を終えたアイリスディーナ達は、サロンで食後のお茶を楽しんでいる。
「結局、ノゾムの奴はあのヤンチャ娘を爺さんの手に委ねたわけやけど、大丈夫なんかな~?」
高級な家具に囲まれたサロン。そこで出されたこれまた高級そうなお菓子に手を伸ばしながら、フェオは唐突に呟いた。
「ノゾムがそれでいいって言ったんだ。俺達がどうこう言う事じゃねえだろ?」
フェオの発言に、マルスは今さら言う事かと、呆れた口調で返答する。
ノゾムはあの時、アゼルを裁くことはしなかった。ただ苦々しい表情を浮かべてアゼルを一瞥すると、拳を握りしめながらゾンネに向かって“そちらに任せます”と一言述べただけだった。
怒りと自責と後悔と、その他諸々の感情をごちゃ混ぜにしたような、苦々しい表情だった。
ノゾムは今回の件では被害者の立場ではあるが、自分自身が怒りに飲まれ、暴走してしまったという失態も犯している。
一度ならず、二度までも仲間に刃を向けてしまった事実に、やはり思うところがあるのだろうと、マルス達は感じていた。
「いや、ノゾムの決定を咎めているわけやあらへんで? ただノゾムの事やから、またウジウジ考えてドツボにハマるかもしれんで?」
「う、う~ん。その可能性もゼロじゃないかも」
「ノゾムの奴、何だかんだで背負い込む性格だからな」
ノゾムの心の内を心配して、トムとマルスは難しい表情を浮かべた。ノゾムは何かと背負い込んで、自分の内側に押し込めてしまう性格なので、心配が尽きないのだ。
その時、彼らの声を隣で聞いていたシーナがおもむろに口を開いた。
「そのあたりは大丈夫だと思うわ」
「分かるんか?」
「ええ、なんとなくだけど、分かるのよ……」
シーナは紅茶を飲み干したカップをソーサーに戻すと、トントンと、自分の胸元をしなやかな指で軽く叩いた。
契約でつながったパスを通して、彼女なりに何かを感じ取ったのかもしれない。
「でも、今回の事件はなんだかんだで、大変だったね」
「今回も、だな。色々ありすぎて未だに頭がパンクしそうだぜ」
ミムルが高級感抜群の椅子の背もたれに体を預けて大きく背伸びをし、マルスが溜息を吐く。
アゼルの襲撃。それに伴うゾンネの正体。ミカエルと龍封じの結界の存在と、ノゾムの暴走と異能。
色々な事が起こり、様々な事が露呈した事件。数日経った後でも、未だに整理しきれない部分もある。
「あのご老人は、アゼルを連れて一旦白龍の里に戻るといっていたな。数日後には帰ってくるといっていたが……」
「そんな短時間に戻ってこれるものなのか?」
「なんでも、龍脈を利用して、空間を跳躍すれば問題ないらしい。あのお爺さん、どこまで出鱈目なのやら……」
今現在、ゾンネは拘束したアゼルを白龍族の里に連行するために、アルカザムを離れている。
話によれば、白龍族の里は人間には絶対に行けない場所にあるらしいが、ゾンネにとっては、短時間での行き来も可能らしい。
本人曰く“川を下って隣町へ行くような感覚”なのだそうだ。
「孫娘を裁くといっていた時の爺さん、桁外れの威圧感だったな」
「確かに、背筋が震えるほどの威厳を感じたよ」
アゼルを断罪していた時のゾンネは、アイリスディーナ達も驚嘆するほどの威厳に満ちていた。
ノゾムの返答に頷いたゾンネは、アゼルに白龍族の里へ連行し、そこで裁定を下すことを伝えると、ノゾム達に向かって頭を下げ、今までの非礼、そしてアゼルの蛮行を謝罪した。
そして、最後にノゾム達全員に向かって感謝を述べ、光と共に消えていった。
「あのお爺さん、最後はノゾムさんにありがとうって言ってましたね。何だかんだで、お孫さんのことは心配だったんだと思います」
「それで、代わりにあの爺はこの石ころを置いていったわけだけど」
マルスがおもむろにテーブルの上に視線を向けた。
そこには、金の耳飾りを内に抱いた水晶が鎮座している。先の事件で、アゼルと共にノゾムを封印しようとした、ミカエルだった。
ゾンネがアゼルを白龍族の里へ連れ帰っている間、もしもの為にとアイリスディーナ達に預けたのだ。
ゾンネ曰く“罪滅ぼしをしたいのなら、小僧達に手を貸してやれ”という事らしい。
だが、あの事件以降、ミカエルは沈黙したままだった。
「あれ以来、何も話しませんね?」
「ふん。自分の娘を本当に庇う気があるのか?」
沈黙したまま何も語らないミカエルに、マルスが不機嫌な口調で文句を述べる。
彼はその言葉の裏に、罪滅ぼしというのもその場を取り繕うための方便なのではないかという考えを匂わせていた。
だが、彼の言葉をシーナが首を振って否定した。
「いえ、そうじゃないわ。たぶん彼は話せないのよ」
「話せないって、こいつ龍族だろ? あの時も言葉を発していたぞ?」
怪訝な表情を浮かべて、マルスはシーナに疑問をぶつける。
実際、マルス達は、あの森でミカエルの言葉を聞いているのだ。マルスがミカエルを疑うのも当然と言える。
「そうじゃないと思う。あれは多分、アゼルさんの力で喋れていただけじゃないのかな?」
「どういう事だ?」
しかし、今度はティマが、マルスの疑問に答えた。
首を傾げるマルスに、シーナが改めて口を開く。
「ティマさんの言う通りだと思うわ。お爺さんが“ミカエルは封印のためだけの存在になった”と言っていたでしょ? 文字通り、それ以外の能力は、彼にはもう無いんだわ」
「つまり、こいつ1人じゃ喋れないと?」
「それだけじゃないわ。おおよそ、生きるために必要な五感も全てないと考えた方が自然よ」
シーナ曰く、今のミカエルは目も見えないし、音も聞こえない。五感が全てないから、外界を知る術が全くないのだそうだ。
そして、彼はおそらく、その状態で数千年の時を生きてきたのだろうと。
そこまで言って、シーナの顔が痛々しい表情に歪んだ。
「彼は多分、もう感じることができないのよ。頬をなでる風の感触も、太陽の日差しの暖かさも、水のせせらぎも、そして愛しい人の温もりも……」
その言葉に、マルスは目を見開いて黙り込んだ。続いて、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「しかし、なんでこんな体に……」
「文献によると龍族はその絶大な力を持つ反面、成龍になった後は、成長がほとんどできない種族らしいんだ」
「そうなのか? あのアゼルってやつの魔法は桁外れの威力で、しかも防御、拘束、広範囲殲滅と何でもありだったぞ?」
「それは、龍族が直接事象に干渉しているんじゃないからだよ。精霊魔法において、事象を改変するのは精霊の役目で、龍族は事象の改変に必要な力と命令を与える役目だから」
言うなれば、龍は巨大な貯水湖で、与えられた水で労働するのが精霊らしい。
何とも他人任せとも取れそうな魔法ではあるが、確かに的を射た話ではある。
「たぶん、彼は龍族としての魂まで使ってこの体になって、ティアマットを封印することを選択したんだと思う」
「その為に、娘すら利用したわけか。とんでもない奴だな……」
マルスが今度こそ、汚いものを見るような眼をミカエルに向けた。
実の父親に捨てられた過去を持つ彼としては、ミカエルに対しても実の父親に対するものと同じような憤りを感じているのだろう。
「いや、それは違うだろう」
だが、そんな彼の発言は、たった今サロンを訪れた金髪の偉丈夫に否定された。
「父様」
「アイリスディーナ、ソミリアーナ、お前達が大変な時に何もできずに、すまないな」
サロンを訪れたのは、フランシルト家当主のヴィクトルだった。
彼は慈愛に満ちた表情を浮かべて娘達の傍まで歩み寄ると、両手でそれぞれの頭を優しく撫でた。
友人達の目の前で、実の父に頭をなでられた事に、アイリスディーナの顔が羞恥に染まる。
「い、いえ。お気になさらないでください。私達は大丈夫ですから」
「それで、違うっていうのはどういう事だよ」
「マ、マルス君……」
食って掛かるようなマルスの発言にティマが慌てた様子で彼を止めようとする。
しかし、ヴィクトルは手を挙げ、笑みを浮かべて彼女を穏やかに制すると、傍にいる娘達に視線を向けた。
「彼は、一人では何もできない。それこそ、娘の頭を撫でて慰めることもな。
父親としては娘が助けを必要としている時、自分が何もできない事が、この世の何よりも一番歯がゆいことなのだ」
ヴィクトルは、再び優しく娘たちの頭をなで始める。
先ほどは羞恥で慌てたアイリスディーナだが、優しい口調の裏に秘められた父親の真摯な思いを感じ取り、今度は素直にヴィクトルの手を受け入れている。
「おそらく、彼としても止めたのではないのか? しかし、彼に娘を止める手段はなかった。なぜなら、彼は娘がいなくては、何もできない体だから……」
娘を守ろうと思っても、何もできない。
優しく頭をなでて慰めることも、一緒に遊んで思い出を作ることも、間違いを涙を飲んで正してやることも、何も……。
「どれほど悔しく、どれほど苦々しい思いをしていたのだろうか。
そんな彼が娘に唯一してやれることが、ティアマットの封印だったのではないのか?
そして、娘が父親にしてやれることもまた、ティアマットの封印のみだったのではないだろうか?」
もちろん、理由はそれだけではないだろう。
ミカエルがこの姿になったのは、アゼルが生まれるよりもずっと前の話だ。
ミカエルが自らこの水晶に姿を変えたのなら、彼はティアマットの封印という行為に対して、元々それだけの覚悟をもっていたはずだ。
自らの覚悟と無力感。娘に対する愛情。当然、元友人に対する葛藤もあっただろう。
ミカエルが相当な葛藤の果てに、この選択をしたことは、想像に難くない。
「つまり、友人を裏切ったわけだ。一度ならず、二度までも」
「君は随分と絡んで来るが、何かこの水晶になった龍殿に思うところがあるのかね?」
「ふん。ただ、気に入らないだけさ」
そう吐き捨てながら、マルスは紅茶が残ったカップを荒々しく掴み取った。
ヴィクトルにここまで言われれば、彼としても、ミカエルの選択の重みが分からないわけじゃない。自分の無力さを呪ったことは、彼自身も経験があるからだ。
自分とミカエルとの共通点に気づいたマルスは、胸の奥から込み上げる苦々しい感情を押し殺すように、カップに残った紅茶を一気に飲み干した。
冷めた紅茶が、高ぶった彼の怒りを鎮めていく。しかし、それでもマルスはミカエルを認める気にはならなかった。
「でも、なんだってそんな体になってまで、ティアマットの封印を……」
「私には彼の心の内までは分からないけど、少なくとも、彼と魔力路を開いたとき、聞こえてきたのは、深い絶望と諦観の声だったわ」
その場にいた全員が、無言でテーブルの上に置かれた水晶に視線を向ける。重苦しい雰囲気がサロンに満ちていた。
「と、ところで、ノゾム君がここにいないけど、どうしたのかな~」
やがて、その雰囲気の重さに耐えきれなくなったミムルが、無理やり話題を変えようとした。
しかし、正直この場でその発言は爆弾であった。
「ミ、ミムルさん……」
「お前、それをこの場で言うなんて、本当に空気を読まないな」
「え、え? どういうこと?」
自分の発言の拙さに気づいていないミムルが、あちこちに視線を彷徨わせながら、右往左往している。
彼女以外の仲間達は、既に気づいてるのか、そんなミムルの様子を眺めながら溜息を吐いていた。
「アゼルに襲われる前、この場にいない人間が何をしようとしていたか考えればわかるだろ?」
「この場にいない人って……あっ!?」
ようやく気付いたミムルが、額に冷や汗を流しながら視線を白髪になってしまった少女と、親友のエルフの少女に向ける。
シーナは特に気にした様子もなく、淹れ直した紅茶を楽しんでいる。
一方のアイリスディーナは、どこか浮ついた様子で、色が抜けてしまった自分の髪を指先で弄っていた。
そして時折窓の外を眺めては、一瞬複雑な表情を浮かべ、そしてまた自分の髪を弄って蕩けたような顔をする、という行為を繰り返している。
「ええっと、姉さま?」
「分かっているさ。大丈夫だよ、ソミア」
以前は懸命に、リサに対する嫉妬心を抑え込もうとしていたアイリスディーナだが、今ではどこか余裕があるように見える。
とはいえ、窓の外を見ていた時の表情を見る限り、嫉妬心は健在のようだ。
コロコロと表情が変わるアイリスディーナの姿は、まるで犬のようである。耳と尻尾があったら、ぴょこぴょこ忙しなく動いているだろう。
マルス、ティマ、フェオの3人は、そんな彼女の様子を眺めながら、顔を寄せた。
「なんか、アイリスディーナもずいぶん雰囲気変わったんじゃないか?」
「あれじゃないかな? あの白髪。ノゾム君の役に立てたっていう証みたいに思っているんじゃないかな? リサさんに対する感情はまだあるみたいだけど……」
「恋する乙女やな~」
三人の発言に、ヴィクトルの額にピシリと青筋が走った。
先ほどまでの慈愛に満ちていた笑みが妙に黒いものへと変わり、口元がピクピクと痙攣し始める。
「ア、アイリスディーナ、その髪は大丈夫なのか?」
「あ、はい父様。色素が抜けただけで、お医者様が言うには、特に健康には問題がないそうです。いつ元に戻るのかは分かりませんが……」
残念そうな口調とは裏腹に、アイリスディーナの表情はどこか嬉しそうだった。
荒れてしまった白髪を、指先で優しく、愛おしそうに梳きながら、頬を染めている。
「う、うおーーーーーーーーーーー! 我が娘のなんと健気な! おのれ小僧、よくも娘の一番大事なものを奪ったな!」
その瞬間、偉大な父親がブチ切れた。雄叫びをあげながら、両手を握りしめて突き上げる。そして何やら悔しそうに、ダンダン! と地団太を踏み始めた。
突然始まったヴィクトルの奇行に、その場にいた全員が目を見開いた。
「大事なものって?」
「もちろん、彼女の初……」
「ちょっ、父様! 誤解を招く発言は止めてください!」
ソミアの無邪気な質問にミムルがニヤニヤしながら余計な知識を教え込もうとし、アイリスディーナが父親の奇行と発言を止めにかかる。
一方、ほかの仲間たちは突然の出来事に目を白黒させながら、事の成り行きを見守っていた。
「まあ、髪は女の命言うし、大事なものなのは間違いないわな」
「誤解って……。アイ、何を想像したんだろう?」
「さあ? 色事なのは間違いないが。今さら隠せていると思っていたのか?」
ドタバタと騒ぎ始めたフランシルト親子を眺めながら、マルスとティマ、フェオはコソコソ話を始める。
マルスがシーナの方にチラリと視線を向けると、彼女はカップを傾けたまま、顔を真っ赤にさせながら、彫刻のように停止していた。
どうやら、先ほどのフェオの発言に、何やらよからぬことを想像してしまったらしい。変なところで初心である。
そして、3人のコソコソ話に、トムやミムル、ソミアも加わってきた。
「というか、この家の当主様、こんな人だったんだね。どうやってノゾム君に責任を取らせる気だろう?」
「そりゃ、男が責任を取るって言ったら結婚じゃん! ね~トム!」
責任の取り方について、いきなり自分の恋人に振るあたり、この山猫少女もあざとい。
ミムルは首をかしげるソミアに、男の責任の取り方について熱弁し始める。
「え、ええっと。そういうものなのでしょうか?」
「あたりまえだよ!」
「かくなる上は、フランシルト家の総力を挙げて、小僧を社会的に抹殺して、切腹か打ち首獄門かを選ばせて……」
「ごめん、ハラキリの方だったか……」
だが、責任の取り方について、ミムルとヴィクトルとの間には谷よりも深い違いがあったようだ。とはいえ、どちらも墓場行きには違いない。
「父様、いい加減にしてください!」
次の瞬間、顔を真っ赤にしたアイリスディーナの拳が、ヴィクトルの頬に深々とめり込んだ。
その場にいた誰もが見惚れてしまうほど見事なストレートは、少女の細腕から繰り出したとは思えないほどの威力を発揮した。
ヴィクトルの体が窓をぶち抜いて、屋敷の外へと放り出される。続いて、ドシン! と地面に激突する音が聞こえてきた。
ちなみに、サロンがあるのはフランシルト邸の三階である。普通なら転落死間違いなしだ。
「メーナ、メーナはどこか! 一大事である! 集められるだけの戦力を集めるのだ!」
だが、今のヴィクトルには何ら痛痒もないらしい。階下でピンピンしている彼が、メーナを呼び寄せる大声が響いてきた。
というか、3階から叩き落されたのに、なぜ無傷なのだろうか?
「今日、私は理解した。私の真の敵は、故郷で対立しているファブラン家ではなく、ノゾム・バウンティスという一人の学園生徒だ!」
ヴィクトルは怒り顔で屋敷の使用人全員を呼び立て、ノゾムを自分の政敵よりも脅威だと言いふらしながら、庭の真ん中でノゾム殲滅作戦を実行しようとしている。
しかも、人数が足りないなら、憲兵隊やジハードすら巻き込んでしまえと言い始める始末。マルス達はその光景に、頬を引きつらせた。
その後は語るまでもない。
妙なカリスマで屋敷全体の使用人はおろか、アルカザム中を巻き込もうとするヴィクトルに、怒ったアイリスディーナが顔を真っ赤にしながら3階から突撃。壮絶な親子喧嘩が勃発した。
アイリスディーナが照れと怒りで細剣を繰り出し、娘への愛を暴走させたヴィクトルが素手で細剣を弾き返す。
娘離れできない父親が、行かないでくれとアイリスディーナを抱きしめようとすると、娘は心底嫌そうな表情を浮かべて、父親の顔を足蹴にして逃げ出す。そんな騒動が延々と展開された。
そしてその騒動の脇では、メーナがしれっと後始末の準備をするよう使用人を促している。
結局、その後一時間ほど、肝心の二人が力尽きるまで、フランシルト邸には爆音が鳴り響いていた。
いかがだったでしょうか?
あと1節書けば、第7章を終われると思います。