第7章第26節
暴走したノゾムを何とか足止めしていたアイリスディーナ達だったが、まるで櫛の歯が抜け落ちていくように、追い詰められていった。
まず初めに、マルスの魔気併用術が、徐々にその精彩を欠いていく。
手甲に刻まれた術式が摩耗していったことで、強化を含めた魔法の制御がうまくいかなくなってきたのだ。
次に、アイリスディーナの動きが鈍り始める。こちらは、過剰な身体強化を使い続けたことによる弊害だ。
過剰な効果をもたらす魔法の連続使用は、肉体に多大な負荷をかける。さらに彼女は、奥の手である魔法剣“月食夜”も使い続けている。精神、肉体共に、消耗は著しい。
「「おおおおおおお!」」
「ぐう!」
薙ぎ払われたノゾムの刀を、アイリスディーナは何とか受け流す。その瞬間も、ブチッという音とともに、体の何か所の筋肉が断裂した。
新雪を思わせる真っ白だった肌のあちこちに、赤黒い内出血の跡が出来ている。
その動きにも精細はなく、何とか斬られないようにするので手一杯というありさまだった。
「この、いい加減元に元に戻りなさいよ!」
リサがなんとかノゾムをアイリスディーナから引きはがそうと、炎弾をつるべ撃ちし、さらにマルスが横合いから斬りこむ。
マルスは、魔気併用術の制御が甘くなっている状況にもかかわらず、大剣に全力で魔気を込めて解放。前にあるものすべてを薙ぎ払うつもりで“裂塵の餓獣”を使用し、無理やりノゾムを引きはがした。
「ぐう!?」
制御に甘くなっていた魔気併用術を無理に使用したことで、マルスの腕に裂傷が走る。
「大丈夫!?」
「ぐっ、な、なんとか……な」
顔をゆがめて痛みに耐えるマルスの姿に、アイリスディーナとリサの胸に焦りがこみ上げる。
早くこの状態を打開しないと、最後に残した策を実行する余力すらなくなる。
吹き飛ばしたノゾムは、やはりほぼ無傷で着地。その怒気を幾分も緩めることなく、再びアイリスディーナ達に襲い掛かろうとしている。
その時、後ろからトムの声が響いた。
「みんな、準備ができた! 行動に移って!」
待ち望んでいた、作戦決行の合図。その声を聴いた瞬間、アイリスディーナが動いた。
わずかに残った魔力を全力でひねり出しながら、術式を構築し、“新月の濃霧”という名の魔法が発動。
アイリスディーナを中心に、真っ黒な霧が放たれ、ノゾムの視界を塞ぐ。
「「!? うおおおおおおお!」」
一瞬瞠目したノゾムだが、構わず瞬脚を発動。自分を囲む霧を抜けようと疾駆する。
アイリスディーナが放った霧は、彼女の消耗が原因か、ノゾムの視界を完全にふさぐには至らなかった。そしてわずかでも相手の影が見えるなら、彼の驚異的な集中力は決して獲物の動きを逃さない。
ノゾムは自分を包む霧のわずかな動きから、相手の動きを見抜く。
3つの影のうち、2つが左右へ散り、1つは中央に留まっている。影の大きさと動きから、左右に散った影は長柄の得物を持っていた。
ノゾムは左右に散った影を無視し、中央の影へと突進する。
狙いは、アイリスディーナとマルスの援護をしていたリサだ。
彼女は得物を持っていない。接近されれば、ノゾムの斬撃を防ぐ手段はないのだ。その事を彼女の立ち回りから、ノゾムは直感で察していた。
霧を突き抜けたノゾムの目に映ったのは、驚きに目を見開いているリサの姿。彼女の両手には、やはり何も握られてはいない。
ノゾムは刀を振り上げ、邪魔者を排除しようと振り下ろそうとする。
「ふっ!」
「「!?」」
だが、次の瞬間、リサは驚愕の行動に出た。なんと、自分から前に踏み込んできたのだ。
同時に身体強化の魔法で、自分の筋力を全力で強化。振り下ろされる刃を見つめながら、手を腰の後ろへと伸ばし、それを引き抜いた。
「ええええええい!」
引き抜かれたのは、ミムルが持っているはずの短剣。これは、先ほどの打ち合わせの際にミムルから渡されていたものだ。
そう、彼女は得物はもっていない。ただし、その言葉には“彼女が愛用している得物”という補足がついていた。ミムルがノゾムと打ち合うことが出来なかった理由も、ミムル自身が自分の得物を持っていなかったからだ。
だが、ただの短剣ではノゾムの刃を受けることは不可能。そのことは、リサも今までのアイリスディーナ達の戦いを見て理解している。
だからこそ、リサはさらに一歩踏み出した。
激突音とともに、二つの得物がぶつかり合う。
次の瞬間、ノゾムの怒りに染まった目が驚愕で見開かれる。
振り降ろされたはずのノゾムの刃は、なぜかミムルの短剣を切り裂ききれず、半ばまで食い込み、嚙み合うように止まっていた。
「ぐう!」
リサはノゾムの足元で、彼を見上げるように膝をつき、短剣を掲げている。
彼女は自分が無事であることに冷や汗を掻きながらも、半ば程まで切り裂かれた短剣に何とか魔力を送り続けていた。
リサがノゾムの刀を防げたことには、当然ながらいくつかの要因がある。
まず一つに、彼女がノゾムの刃を刀の根元で受けていたこと。
刀はその特性から、刀身の根元が一番切れ味が悪く、振った時の勢いが乗らない。このために彼女は、自分からノゾムに踏み込むような真似をしたのだ。
もう一つが、アビリティ“ニベエイの魔手”の存在。
このアビリティで、彼女はミムルの短剣にかけた強化魔法を、一時的にアイリスディーナの“月食夜”並の魔剣に変えていたのだ。
とはいえ、既に剣身を半分ほど切り裂かれている以上、この短剣はもう持たない。
ノゾムが刀を引くだけで、この短剣をリサの体ごと一気に切り裂くだろう。
だが、リサにとってはこれで良かった。ほんの1秒、ノゾムを足止めできればそれでよかったのだから。
「おおおおおおおおおおおおおお!」
「はあああああ!」
アイリスディーナとマルスが、横合いから挟み込むように突撃してくる。
ノゾムはすぐさまリサを短剣ごと引き斬ろうとするが、注意が一瞬逸れた隙に、リサは素早く短剣を手放して横に転がる。
ノゾムの刀は、リサのポニーテールをバッサリと切り落とすが、その刃はリサの体を捉えることはなく、空を切った。
「「ッ! おおおおおおおおお!」」
斬り落としたリサの髪が舞い散る中、ノゾムは彼女への追撃をあきらめ、素早く左手で腰にさした鞘を抜いた。その間に、リサは大きく後方へ跳躍し、離脱する。
ノゾムは左右から振るわれる細剣と大剣を、左右の手に持った刀と鞘で受け止める。
両腕に幾分か衝撃が走ったが、すでにアイリスディーナ達も限界。その威力は、先ほどよりも軽い。
一気には弾き返して、決着をつける。
そう考えて両腕に力を入れた瞬間、突然辺り一帯を包み込むようにな閃光がはじけた。
続けて発生したのは、無数の蛇を思わせる紫電の大群。唐突に出現した雷の蛇達が、四方八方からノゾムに襲い掛かる。
「「がっ!? ああああああああああ!」」
「よし! 予定通りや!」
中級範囲魔法“紫電の蛇群”。
全身を槍で貫かれたような激痛がノゾムを襲う。
真っ白に塗りつぶされていく視界の中で、ノゾムはガッツポーズをしているフェオの姿を捉えた。
だが、その姿はいつもの彼とは明らかに異なっていた。
全身を覆うように増した体毛と、狐を思わせる突き出た鼻。一際大きくなった尻尾が、弾けるような紫電を纏っている。
「「じ、獣化……だと?」」
それは間違いなく、フェオが獣化した姿だった。
獣人族の種族によって仔細は異なるが、基本的に獣化という異能は自らの理性を削り、身体能力を増大させる傾向にある。
しかし、狐尾族の場合はいささか異なる。彼らは逆に、自らの身体能力を削り、一時的に魔法行使能力を増大させるのだ。
アイリスディーナに施した術式制御で手一杯だったが、獣化したフェオならば、一時的に幾分かの余力を生み出すことができる。
そして、増した魔法行使能力でノゾムを中心に範囲魔法“紫電の蛇群”を撃ち込んだのである。
「いくら能力が化け物じみたものになろうが、ノゾムは全方位をカバーするような障壁魔法は使えんからな! さすがに効いたんやないか!?」
身体能力が激増しているおかげて隠れているが、実はノゾムの弱点は何も変わっていない。
それは“広範囲を殲滅する範囲攻撃から身を守る防御魔法が使えないこと”である。
馬鹿正直に真正面から撃っただけでは、隔絶したノゾムの身体能力と技巧の前には到底通用しない。
だが、こうしてその俊足と両腕を封じてしまえば、その弱点は容易く露呈してしまうのだ。
「「ぐう!」」
「ミムル、今だよ」
「よっしゃ! まかせなさい!」
ノゾムの動きが鈍った隙をついて、茂みから飛び出したミムルがノゾムの右腕に飛びつくと、そのまま彼の腕をひねりあげ、刀を奪い取る。
ノゾムは咄嗟に左手の鞘で打ち払おうとするが、その前に大剣を投げ捨てたマルスが、無理やり鞘をもぎ取った。
「「な!?」」
なぜ動ける。怒りと痛みで鈍ったノゾムの頭が、さらに混乱する。
マルスは先ほどまでノゾムと鍔競り合っていた。当然、フェオの“紫電の蛇群”に巻き込まれていたはずだ。
「普段のお前なら、決して見逃さなかったはずだけどな……」
そう言って、マルスは自分の胸元を指さした。そこではフェオが渡した、障壁魔法を張る最後の符が輝いている。
「はあああ!」
そしてマルスが無事だということは当然アイリスディーナも無事である。
彼女は残った魔力をすべて投じて拘束魔法を展開。空中に出現した闇色の鎖が、これでもかノゾムの体を縛り付ける。
「シーナ君、今だ!」
アリスディーナの掛け声とともに、狙いをつけていたシーナが、魔力矢を放った。
耳を突くような轟音と破砕音。放たれた魔力矢はシーナの弓を粉々に粉砕し、彼女の頬に一筋の傷をつける。
猛烈な速度でノゾムの心臓めがけて疾駆する魔力矢。
刀も鞘もなく、すでに全身を拘束されているノゾム。全身に巻き付いた拘束を解こうにも、その時間は既にない。
魔力矢はまるで彗星のように一直線に駆け抜けながら直進し……。
「ウソだろ……」
「「ぐ、うううう……」」
片腕だけを拘束から無理やり外したノゾムに受け止められた。
5色の源素を吹きだしながら、つかみ取った魔力矢を握りつぶそうとする。
「くそ!」
もう一度踏み込み、ノゾムの意識を刈り取ろうとするマルスだが、一歩足を踏み出した瞬間に足に力が入らず、地面に崩れ落ちてしまう。
すでに魔力も気もなく、限界だった。
初めは混沌の力を押し込んでいた魔力矢だが、徐々にその輝きが衰えていく。このままでは、ノゾムに命中せずに消滅してしまう。
「えええええい!」
だが、その前にアイリスディーナが動いた。
既に力の入らない体を無理やり動かすと、なんと彼女は、今にも握りつぶされそうになっている魔力矢をつかみ取り、そのまま押し込もうとし始めたのだ。
「ぐ、うううう!」
「姉様!?」
「おいアイリスディーナ、無茶すんな!」
仲間の静止する声が聞こえるが、彼女は意に返さない。
ノゾムが捻り出しているティアマットの力は、指向性のない力の奔流だ。全身に叩き付けられる滅龍の力が、容赦なくアイリスディーナの肌を焼いていく。
「「ミカエルルウウウウウウ!!」」
「ノゾム! お願いだから目を覚ましてくれ!」
これほど近くによって、これだけ呼びかけても、アイリスディーナの言葉はノゾムに届かない。
悔しさに唇をかみしめる。無力感で胸が押しつぶされそうだった。
いくら彼の傍にいても、ティアマットという存在の前に、自分はこんなにも無力なのかと。
「それでも。それ……でも……」
それでも、傍にいたいと願ったのだ。
アイリスディーナには、シーナのように契約という特別なつながりも、リサのような幼い頃からの約束もない。
彼と繋がれる唯一のことが、森で彼に向かって言い放った告白のみだった。
だから、それに向けて全力で臨もうと思った。
足りない力をかき集めて、少しでも彼の隣に立てるように……。
「まだ、まだ……」
自分の保護は考えない。
少しでも、彼の近くに……。その想いだけで、既に枯渇していた魔力を全身から無理やりかき集めて、魔力矢に送り込む。
その無茶の代償は、すぐに表れた。
まず初めに視界の色がなくなった。別によかった。灰色の世界でも、彼の姿はまだ見えている。
次に、全身の痛覚がなくなった。好都合だ。集中を妨げるものがなくなったのだから。
続いて、髪の色素が抜け落ち、灰のように白くなっていった。困った。彼に触ってもらいたかったのに……。
最後に、色あせていた視界が、まるで眠りに落ちるように暗くなっていく。
“届かない……のか”
悔しい。悲しい。諦めたくない。でも、彼女の意思とは裏腹に、力を失った指から魔力矢がすり抜けていく。
その時、崩れ落ちそうになっていた彼女の手を支えるものがあった。
薄れゆく視界の端に見えてきたのは、紅の目が特徴的な少女の怒り顔。
「ちょっと! なに諦めてんのよ! あれだけ私に説教していながら、この程度であきらめるって本気!?」
少女は、まくし立てるように アイリスディーナに発奮する。
その顔を見た瞬間、先ほどまで折れそうだった彼女の胸から、熱い何かがこみ上げてきた。
「冗談、じゃない……。諦めて、たまるか!」
崩れ落ちそうだった指に、再び力が戻る。
“そうだ。負けられない。何より、この少女の前で絶対に負けてなんてやらない!”
それはまさに、蝋燭の最後の輝きだった。アイリスディーナの体から、漆黒の魔力が濁流のごとき勢いで噴き出し、魔力矢に流れ込む。
今にも消えそうだった魔力矢が輝きを取り戻し、再びティアマットの力と拮抗し始める。
「トチるなよ、リサ!」
「誰に言ってんのよ!」
アイリスディーナが、はじめてリサの名前を呼び捨てで叫ぶ。
彼女の声に発奮され、リサがニベエイの魔手を発動。魔力矢が一気に倍の大きさに肥大化し、一気に食い破り始めた。
「「っ!?」」
「「いけえええええ!!」」
そして次の瞬間、押し込まれた魔力矢がノゾムの左胸に直撃し、耳を突くような轟音とともに炸裂した。
ノゾムの胸に走った激痛と衝撃。肺から空気が押しだされ、心臓が大きく拍動する。
「「が、は……」」
膨大な魔力と急激に変化した拍動が、ノゾムとティアマットとの意識の同調の間に切れ目を入れた。
全身の力が急激に抜けていくのを感じながら、ノゾムの真っ赤に染まっていた目が急激に色褪せていく。
同時に、ノゾムの体から力が抜け、重力にひかれてゆっくりと崩れ落ちる。
成功した。誰もがそう思い、安堵の声を漏らしそうになった瞬間。
「あああああああああああああああああああああ!」
弾かれたように、ノゾムが体を起こした。
色あせていた両目は、片方だけが真紅に戻り、彼の口から出てきた声は、絹をひきさいたような女性の絶叫だった。
突然の出来事に茫然としているアイリスディーナ達の前で、崩れ落ちそうになる片腕を上げ、混沌の力をかき集め始める。
いや、ノゾムではなかった。彼が意識を失ったことで、ティアマットが一時的に彼の体を乗っ取ってしまったのだ。
「みかえるうううう!!」
収束していく膨大な源素。ティアマットの狙いはミカエルだが、その射線には当然ながらアイリスディーナ達がいる。事態を察したゾンネがすばやく手を掲げ、彼女たちを守るように障壁を展開する。
そして、収束した混沌の力が、勢いよく放たれそうなったその時……。
「がっ!?」
ティアマットが突然、苦悶の声を漏らした。
次の瞬間、空中に無数の光の鎖が出現し、ノゾムの体を縛り付けていく。
光の鎖を引き千切ろうともがくティアマットだが、いくら彼女が力を入れても、光の鎖はビクともしない。
「また、また貴様か! あと少し、目の前に奴がいるのだ! 離せ、離せえええええ!」
響き渡るティアマットの怨嗟の叫び。
しかし、目に映るすべてを呪わんとばかりに放たれる憎悪とは裏腹に、ティアマットがかき集めた源素は瞬く間に霧散していく。
「くそ! くそ、く……そう…………」
徐々小さくなっていく怨嗟とともに、ティアマットの抵抗も徐々に収まり、やがてその動きを完全に止める。
そして、光の鎖が霧散すると同時にノゾムの体が糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
アイリスディーナとリサが慌ててノゾムを受け止める。
だが、彼女たちも限界だったため、足に力が入らず、膝立ちになって体を支えた。
「ノゾム! 大丈夫か?」
極度の疲労に襲われながらも、2人はノゾムの体を確かめる。
全身にはこれ以上ないほど裂傷が走り、とめどなく流れ出る血液が2人の体を紅く染めていく。
肺にも傷を負っているのか、口からはゴフッと血の塊を吐き出した。
だが、それ以上に息をする様子がない。
顔色も紫色で、まるで血の気がなく、体温も恐ろしく低い。死人のような様子だった。
呼吸器系に重大な損傷を受けていることは間違いない。
「まずい、息してない!」
「お爺さん、ノゾム君が!」
リサが慌てた様子でゾンネを呼ぶ。
一方ゾンネは、ノゾムの様子を見て、得心を得たような表情を受けべていた。
「なるほど……そういう事か……」
「お爺さん、早くしてください!」
「お、おお! 分かったわい!」
焦れたリサが声を荒げ、ゾンネは慌ててノゾムの傍に駆け寄り治癒魔法を施し始める。
見る見るうちにノゾムの傷がふさがり、顔色が戻っていく様子を眺めながら、アイリスディーナ達はようやく安堵の息を漏らしていた。