第7章第23節
「そんな……。ノゾムに、そんなことが……」
ゾンネとトム、そしてソミアから治療を受けたリサは、自分を手当てしてくれた3人から大まかな事情を聞いていた。
正確には、3人が話さなければならなくなった、と言うほうが正しい。
ゾンネの秘術で傷を癒されたリサだが、回復して元気になったことで、ノゾムの名前を連呼しながら騒ぎ始めたのだ。
このままでは彼を探して飛び出しかねない。実際、彼女が森の奥へと駈け出そうとするので、ゾンネとトムが慌てて止める羽目になった。
少なくとも、彼女にはノゾムが襲撃された事実の因果関係をハッキリさせた上で、現状を理解させる必要がある。そう判断したトムは、彼女を落ち着かせるためにノゾムの秘密と、とりあえず知りうる限りの現状を話した。
トムもゾンネも初めは曖昧な表現でぼかそうとも考えたのだが、下手なカバーストーリーでは逆にリサの疑惑を持たれ、彼女の疑惑を煽ってしまう可能性もあることからの判断だった。
実際のところ、この判断は正しかった。彼女はアゼルがノゾムに向けて漏らした”ティアマット”の名前を聞いていたからだ。
「あの……。リサさん、大丈夫ですか?」
「あ、ありがとう……。大丈夫、大丈夫よ……」
トムから話を聞いたリサは、あまりの内容に衝撃を受けていた。
ソミアが彼女を案じて声をかけるが、リサの返答には明らかに覇気がない。
彼女の憔悴も無理はなかった。
ノゾムに同化したのは、精霊種の中でも最強と言われる龍。しかも、その龍族でも規格外と呼ばれる存在である。ちっぽけな人など、たやすく押しつぶしてしまうほどの規格外の存在を、彼はその身に宿すことになってしまっていた。
彼女自身、ノゾムに何か秘密があるのではと思っていた。
きっかけは、ノゾムがジハードと武技園で接戦を演じた時。そして疑問が確信となったのは、怪物となってしまったケンに取り込まれたリサをノゾムが救ってくれた時だった。
その時の記憶は曖昧だが、それでもノゾムが助けてくれたことを、彼女は察していた。
同時にその事実が、彼が自分の知るノゾムとは遠くかけ離れているということを、なんとなく理解させてもいた。
だがノゾムを追ってきたアゼルが口にした名前、そしてたった今トムから聞かされた内容は、リサを茫然自失とさせるには十分すぎるほどの衝撃を彼女に与えた。
自分の知らない何かを抱えているのではとリサは思ってはいたが、まさかそんな危険極まりない存在と関わっているとは思わなかったのだ。
「おそらく、今小僧は、ティアマットの怒りに引きずられる形で暴走しているのじゃろう。以前なら元に戻るだけの余地があったじゃろうが……」
「暴走……?」
暴走という言葉に、呆然としていたリサが老人に視線を向けると、彼は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべながら、腕を組んでいる。
彼女を案じていたソミアも、顔を上げて、目の前で考え込む老人に視線を向ける。
「この異相世界に来た時、強大な力の衝突による余波を感じた。さらにお嬢さんが生死に関わるほどの重傷を負っていたことを考えれば、どのような事態がなったのかは簡単に推察できるわい」
「そうですね……」
ゾンネの言葉に、トムも小さくうなずいた。
リサ・ハウンズはティアマットと直接関係がなく、アゼルとしても、彼女の存在は何ら驚異ではない。そのあたりに生えている雑草のように、無視してもいいはずである。
そんな彼女が傷を負って倒れているという状況を考えれば、どんな状況で誰が手を下し、それがどのような結果をもたらしたか、容易に想像はつく。
「アゼルがお嬢さんを邪魔者として排除し、傷を負わせたことが小僧の怒りに触れた。
同時に小僧は理性を失った状態でティアマットの力を解放したものじゃから、今は完全にティアマットの憎悪と同調してしまっておるじゃろう」
「さらに言うと、このままだとノゾム君の体がもたない。最悪、ティアマットが彼の体を内側から突き破ってしまう」
「そうなったらノゾムは……」
「当然、死んでしまうじゃろうな」
ノゾムの死という言葉に、リサの瞳孔が大きく開かれる。同時にまるで糸の切れた人形のように、ぐらりとよろめいた。
ふらついた彼女の体を、側にいたソミアがあわてて支えるが、リサの顔色はまるで病人のように真っ青になっている。
トムは立ちつくす彼女に痛ましい目を向けていたが、気持ちを切り替えるように首を振って、ゾンネに視線を戻す。
「あ、あのあの! お爺さんなら、今のノゾムさんを何とかできないんですか!?」
リサを支えていたソミアが悲鳴にも似た声をあげる。
しかし、ゾンネは、重苦しそうに唇を一文字に引き締めたままだった。
「先も言ったが、ワシがティアマットの前に出れば、奴の怒りをさらに煽ることは間違いない。ミカエルが無事なら小僧の動きをある程度押さえ込むことは出来るじゃろうが、理性を戻せるかと言われると分からん……」
「どうしてですか?」
「小僧とティアマットは表面上の精神のさらに奥。魂の深部でつながっておる。以前、占いと称して小僧の魂を確かめようとしたのじゃが、どうも上手くいかなかった。
どうもワシの力では、小僧の魂の深部に干渉することはできんようじゃ」
「そんな……」
「ワシの干渉をティアマットが妨害しているのか、それとも小僧が未だに不完全な龍殺しであるからか、理由は分からんがな……」
「それじゃ、意味ないじゃないですか……」
たとえ押さえ込めても、彼の心が戻ってこなければ意味はない。
痛烈なゾンネの言葉にソミアは思わず目を伏せた。
幼い少女の痛ましい表情に、トムは唇をかみしめる。
「アイリスディーナさん達がノゾム君を元に戻せればいいけど……」
「難しいかもしれんのう。以前とは状況が違い、小僧自身が我を忘れてしまってはのう……。この状況でワシが前に出るのは逆効果になりかねん」
龍族を憎むティアマット。そして、そのティアマットを封じる手段を持つ龍族。互いが互いに多大な影響を与えるだけに、このような切羽詰まった状況では、冷静な判断は難しい。
さらに言えば、ノゾムを押さえ込んだとしても、彼の理性が戻らなくては意味がない。
どうすれば、ティアマットの怒りを抑え込めるか。
いや、ティアマットとノゾムの精神を分離できるのだろうか。
その時、トムの脳裏に先ほどのゾンネの言葉が引っかかった。
「そういえば、アゼルさんは父親であるミカエルの仇として、ティアマットを追っているようでしたが、今お爺さんは“ミカエルがいれば”と言っていました。彼はまだ生きているんですか?」
アゼルはミカエルの仇として、ティアマットを追っている。しかし、先ほどの言葉を聞く限り、彼女の父親はまだ生きているようだった。
ミカエル。その存在が、ティアマットの憎悪と深く関わっているのではないか?
そう考えたトムは、先ほど感じた疑問を率直にゾンネにぶつけてみた。
「ああ、厳密に言えば、ミカエルはまだこの世に存在しておる。今はアゼルと同じく、ティアマットを封印しようとしているはずじゃ。
しかし、今は龍としての体も力もなく、その魂はティアマットを封印するための鍵と成り果てしまっているが……」
「鍵?」
確かめるように、トムはゾンネに聞き返した。
話を聞く限り、ミカエルはすでに龍としての体を失っているようだ。だが、死んだわけでもない。
そもそも、ティアマットに殺されているなら、ティアマットは白龍の力も持っていなければならない。
しかし、ティアマットに白龍の力はない。
以前、トムがノゾムから聞いた話では、ティアマットは5色6翼を持つ巨龍だったらしいが、その翼に白龍の力の象徴である白い翼は、話の中には出てこなかった。
ティアマットはミカエルを殺してはいない。しかし、アゼルからは仇と狙われるだけの理由がある。
「おじいさん達は、ティアマットに何をしたんですか? いや、そもそも、かの龍に何があったんですか?」
おそらく、ゾンネが言った“ミカエルは封印の鍵となっている”という発言にすべてがあるのだろうが、生憎と判断するには、ティアマットに関する情報がまだ足りない。
「文献によれば、ティアマットは力を欲して仲間を食らった邪龍という扱いです。ですが、お爺さんの話を聞く限り、ただ事ではない事情がありそうですが……」
「今の人間が知りえるティアマットに関する話は、断片的な上に表面上のものでしかないからのう……」
トムの質問にゾンネは大きく息を吐くと肩を落とし、神妙な雰囲気でゆっくりと語り始めた。
「5000年前、ワシは白龍族を纏める族長の立場じゃった。同時に、ミカエルの姿をあのように変え、ティアマットを封印したのもワシじゃ」
ゆっくりと吐露するその声に、いつもの陽気さは微塵もない。
「ティアマットがまだ忌龍と呼ばれる前、彼女は苦しむ人間達を救おうと友人達と協力し、一つの秩序を築き上げた。
龍脈の交差点。自然が無秩序に荒れ狂う場所で、龍、人、獣、あらゆる種が協力し、1つの理想郷を作りあげた。
しかし幾多の策謀と欲望、すれ違いが重なり、結果的に全てが崩壊してしまった……」
唇を噛みしめ、治らない瘡蓋を剥がすような痛々しい表情を浮かべたまま、ゾンネは言葉を続ける。
「彼女達の理想郷が、彼女達自身の手で破壊された後、全てを破壊しながら暴れ回る彼女を押さえ込むために、我ら龍族は、彼女が築いた理想郷の跡地ごと、彼女を封印した。
結局、ワシらに出来たことは、それだけじゃった」
その目に深い後悔の色をにじませながら、ゾンネは悲壮な表情で灰色の空を見上げた。
「……悲しいすれ違いじゃったんじゃ。ティアマットもミカエルも、守りたい者達のために、ただ自分に出来ることを精一杯やろうとしただけじゃった」
これ以上言葉にするのが辛いのか、それだけを話し、ゾンネは押し黙る。
重苦しくはき出されたゾンネの息が、トム達の耳に響く。
よく見ると、堅く握りしめられた拳から、血がしたたり落ちていた。
トムもソミアも、悲痛な表情を浮かべるゾンネを、ただ黙って見つめるしかできなかった。
「くっ、うう!」
その時、リサが焦燥の色で口元を歪めながら、森の奥へと歩こうと足を踏み出した。
隣で彼女の体を支えていたソミアが、慌ててリサに声をかける。
「リ、リサさん、大丈夫なんですか?」
「大丈夫……。こんなところで呆然としている場合じゃないから……ノゾムのところへ行きます」
焦燥に駆られているような、切羽詰まった声。
「ノゾム君のところに行って、どうするんですか?」
「何をしたらいいかなんて分からないけど。でも、このまま何もしない方が、私は耐えられないから……」
「……為せば成る、為さねば成らぬ何事も、ということか? でも、お嬢さん、自棄になっているわけでわけではないじゃろうな?」
ゾンネの鋭い視線がリサに突き刺さる。
彼にとっても、リサはノゾム暴走のカギだ。下手に動かれて死なれたら、もう取り返しがつかない。
「そういう心がないのかと問われれば……嘘になります。正直、自分の喉を切り裂きたくてしょうがない……」
今でも、過去の自分がノゾムに対して向けた言葉を思い出すと、胸をかきむしりたくなる衝動に駆られるのが、正直なリサの思いであった。
「でも、そんなこと、もう出来ない。そうしたら、ノゾムが今まで耐えてきたことすべてが無駄になる。それだけは、無駄にするわけにはいかないから……アイリスディーナさんたちを見ていたらそう思えるようになった……」
そう、彼女は答えた。
ノゾムが願ったように、もう一度きちんと前を見据えていかないといけない。
自分を叱咤した彼女に対する感情は複雑ではあるが、このまま引いたら何となく納得できないという思いもある。
胸に湧いたその思いを、生来の負けん気だと断じながら、彼女は微笑んだ。
「それに、まだちゃんと伝えてない言葉があるの。それをきちんと言わないと、始められないから……。
それに、死なれる訳にはいかないって意味じゃ、アイリスディーナさん達も同じでしょ?」
その言葉に、ゾンネは唸った。
死なれる訳にいかない、という意味で、リサの言葉は正しい。
今回はリサがノゾム暴走のきっかけだが、場合によってはアイリスディーナ達がそうなってもおかしくない。
アゼルがアイリスディーナ達を巻き込んでいたら、リサと彼女達の立場は逆になっていただろう。
さらに言えば、今暴走しているノゾムとアイリスディーナ達が相対しているというこの状況を、長引かせるわけにはいかない。
暴走した彼が、彼女達を手にかけてしまったら、それこそ取り返しのつかない事態になる。
一度深いつながりを持てたからこそ、そうなってしまった時の絶望は計り知れない。
リサがとりあえず死の淵から脱することが出来たとはいえ、状況はまだまだ予断を許さないのだ。
「まあ結局、行動しないと始まらないってことかな……。とにかく、アイリスディーナさん達と合流しよう」
まだまだ解決する道は見えないが、これ以上は時間が惜しい。そう判断したトムが、アイリスディーナ達との合流を呼びかける。
ここで問答していたとしても、解決には必ず行動が必要だ。
知識は力ではあるが、決断もまた力である。
投げやりな部分がないのかと言われれば、トムは否定することはできないが、どのみちアイリスディーナ達だけでノゾムを抑え続けることは難しい。
ならば、行動するしかないだろう。
とはいえ、トムの内心はガクブル状態だったりする。体一つであの抑圧解放状態の彼と相対するなど、絶対にできないと胸を張って言える。
思い出してしまったのは、襲い掛かってきた屍竜を解体処分していくノゾムの姿。体から吹き出すどす黒い力と相まって、恐ろしいことこの上ない姿であった。
全身が強張る。思わずチビってしまいそうだった。
「トムさん……ぷっ!」
不安そうな目で見上げてくるソミアを安心させようと笑みを浮かべようとするが口元が引き釣ってうまく笑えず、潰れたカエルのようにピクピク痙攣している。
ソミアに笑われ、トムは恥ずかしそうに咳払いして誤魔化す。
強張っていた肩の力は、いつの間にか抜けていた。
「僕たちも行こう。それとお爺さん。もう1つ、確かめたいことがあります」
「なんじゃ? 今更隠し事はせんよ。何でも聞くがいい」
「それは……」
森の奥、おそらくアイリスディーナ達が戦っているであろう場所を見据えながら、トムは最後に一つだけ、ゾンネに疑問をぶつけた。
真っ赤に染まった視界のなかで、ノゾムは怒りを込め、ひたすらに声を張り上げ続ける。
痛みと共に込み上げる憎悪は自分自身のものなのか、それともティアマットのものなのか、すでに彼自身も判別できなくなっていた。
リサを傷つけられたことによる感情の激発。
それを呼び水としてティアマットと同調した精神は互いに共鳴し、その境界をあいまいにしていく。
それはまるで、ぬるま湯に溶けていくような感覚。
全身に圧し掛かっていた疲労を、体の奥底からあふれる力が無理やり動かす。
体の痛みはとうに感じなくなった。
深紅に染まった視界に違和感も覚えない。それどころか、視界を染める紅は徐々にその深みを増していく。
ただ目の前の白く輝く“怨敵”のみを見据え、それを屠るためだけに刀を振り上げ、突き進み続ける。
“テト、お疲れ様”
“ほんとだよ~。何で私が人の姿でこんな格好しなきゃいけないの~!”
“それは言っただろう? 一国の長なら、それ相応の威厳が必要だって。テトは内面が残念なんだから、とりあえず姿形だけでもどうにかしないといけないだろ?”
“ううう、ミカエルがひどい……”
ノゾムの耳奥に、誰かの声が響く。彼が知っている人と、知らない人の声。
知っている声に怒りはなく、困惑と羞恥の色に染まっている。
意地が悪そうな知らない声も、どこか親しみを感じるものだった。
その声を聴くたびに、胸を刺すような痛みもまた増していく。
“ミカエルウウウウ!”
憎悪にまみれた彼女の声。しかし、ノゾムにはそれが他者のものだとは感じ取れない。
視界を染める紅はすでに血のようにどす黒く、湧き出る怒りはとどまることを知らない。
ノゾムとティアマット。両者はまるで狂った馬車のように、ひたすら突き進み続けた。
胸を突くような、鈍い痛みを感じながら。
「「オオオオオオオオオオオ!」」
色素が抜けた灰色の森に、怒りに満ちた絶叫が響き渡る。
地面を吹き飛ばしながら疾走してくるのは、憤怒に染まった一人の青年。
彼の進行方向にいるのは、力を失って地面に転がっているミカエル。そして、彼をかばう形で佇むアイリスディーナ。
「ミムル君、頼んだ!」
「あいあい、おまかせを」
アイリスディーナが足下に落ちていたミカエルを拾い上げ、ミムルへと放り投げる。
ミムルは軽快な動きで放り投げられたミカエルをキャッチし、そのまま後方へと下がろうとする。
ノゾムの視線がミカエルをキャッチしたミムルに向く。
轟音とともに瞬脚が発動。ノゾムはまるで疾風のようにミムルとの間合いを詰め、激情に身を任せるまま、その右手に携えた刀を振り上げる。
「にゃにゃ!?」
「させるかよ!」
割り込むようにして、大剣を振り上げたマルスがノゾムの前に立ちふさがる。
突っ込んでくるノゾムに合わせて、彼は大剣を袈裟懸けに全力で振り下ろす。
気を全開にして強化した身体能力と、大剣の重量。この二つを合わせ持つ彼の一撃は、岩ですら容易く砕けそうなほどの威力を秘めている。
「しっ!」
だが、ノゾムは岩すら砕く勢いで迫る刃を、軽々と受け流した。
勢いよく振り下ろされたマルスの刃は滑るようにノゾムの刀の上を流れ、そのまま側面へと逸れていく。
まるで片手で羽虫を払うようにマルスの斬撃を捌いたノゾム。彼はそのまま一歩踏み込み、切り返すように刀を横薙ぎに一閃してくる。
激増した身体能力で振るわれるノゾムの刃。彼の得物にはすでに研ぎ澄まされた気の刃が付与されている。まともに受ければ人間の体など、得物もろとも両断されるだろう。
さらにマルスは大剣を振り抜いたまま、完全に上体をさらした隙だらけの状態。
「な、めんなよ!」
ノゾムの刃がマルスの胴体を両断するかと思われたその時、マルスの手甲が再び光とともにはじけ飛んだ。
直後、振り抜いたマルスの体と大剣に濃密な魔力と気が纏わりつくと、信じられないような速度で大剣が引き戻されて、迫りくるノゾムの刃を受け止めた。
ギャリリ! と耳を裂くような音が響き、マルスの全身に衝撃が走る。
「ぐう!」
「っ!?」
歯を食いしばりながらも、マルスはノゾムの剣戟をしっかりと受け止めていた。己の気刃が防がれたことに、怒りに染まったノゾムの顔にわずかな動揺が走る。
「おおおりゃ!」
さらに衝撃で若干感覚の鈍った体に無理矢理活を入れ、マルスはノゾムの刀を受け止めた大剣を盾のように構えたまま押し込もうとする。
ノゾムもまた足を踏ん張り、押し込んでくるマルスを受け止める。
がっぷりと組み合う両者。ギリギリと金属がこすれあう音を響かせながらも、互いに一歩も引かない。
「ぐぐぐ、ぎぎぎ……」
マルスの食いしばった歯の奥から、うめき声が漏れる。
彼が能力抑圧を解放したノゾムと鍔競り合える理由は、当然ながら魔気併用術による強化があった。
現に彼の手甲では、得物と身体能力、両方を極限まで高められるようにトムがくみ上げた術式が輝きを放っている。
だが、いかに魔気併用術を用いたとしても、今のノゾムを止めることは簡単ではない。
現にノゾムが気の密度を上げると徐々に均衡が崩れ始め、ノゾムの刀がマルスへと迫っていく。
さらにガリガリと耳障りな音とともに、ノゾムの刃がマルスの大剣に食い込み始めてきた。
「げっ!?」
魔気を食い破り始めたノゾムの刃に、マルスが思わず声を漏らす。
その瞬間に、ノゾムは左手を刀の柄から離し、拳でマルスの脇腹を打ち抜いてきた。
「がっ!? くそ! やっぱり得物と身体強化の二本立てじゃ十分じゃないか!」
ずしんと体の芯に響く衝撃に、マルスはたたらを踏んで後ろに数歩さがってしまう。
いくらトム特製の魔法陣による補助を受けたとしても、マルスは元々ノゾムほど力の制御を得意としていない。どうしても練度による差が生じる。
後ろに下がってしまったマルスに、ノゾムは容赦なく追撃を加える。
ノゾムの刃が目にもとまらぬ速度で袈裟懸けに振り下ろされる。マルスは脇腹に走る痛みに苦悶の声を漏らしつつも、歯を食いしばって大剣を振り上げる。
空中で激突する両者の刃が、ガキィイイン……!と耳の奥に響く甲高い音を響かせる。
打ち合う両者。2撃3撃とぶつかり合う鉄が、灰色の森を火花で照らす。
「ぜええええい!」
裂帛の気合いとともに、マルスは負けまいと足を踏ん張る。
足が伝える衝撃が土煙を巻き上げ、なぎ払われる大剣は大気を引き裂いて敵対者を屠らんと獰猛な牙を向く。
その豪快な太刀筋は、あのジハードを彷彿とさせるほど雄々しいものだった。
事実、魔気併用術で強化されたマルスの身体能力は、ジハードにも迫るほどである。
だが、彼の目の前の龍殺しはそのジハードをして、降し辛い難敵。
ノゾムの刀術は類い希な剛剣をことごとく逸らし、打ち落とし、お返しとばかりにマルスの肩を薙ぐ。
「ぐうっ! やっぱり、俺1人じゃ力不足か!」
魔気併用術でも押さえ込めないのか。肩に走る痛みに歯がみしつつも、マルスは剣を振るい続ける。
だが、押されてもマルスの表情に焦りの色はない。彼としても、この展開は予想していたからだ。
いくら身体能力を引き上げようと、得物を強化しようと、この状態のノゾムに真正面から戦っても勝ち目はない。それは以前の戦いでも理解していた。
そう、マルス一人ならば。
「はあああ!」
打ち合うマルスの後ろから、アイリスディーナが勢いよく飛び出し、回り込みながら勢いよく細剣を薙ぎ払う。
ノゾムはすばやく腰にさしていた鞘を抜き放ち、アイリスディーナの斬撃を弾く。
「ぐう!」
片手で放ったとは思えないほどの衝撃が、アイリスディーナの腕に響いた。
さらにノゾムはくるりと流れるような動作で彼女に向き直り、右手の刀をアイリスディーナめがけて逆袈裟懸けに振り抜こうとしてきた。
疾風のごとく、アイリスディーナに迫る刃。
「はあ!」
だが次の瞬間、辺りに響いた音は肉を切り裂く不気味な音ではなく、甲高い金属音だった。
閃光のように振り上げられたアイリスディーナの細剣が、ノゾムの刃を逸らしていた。
よく見ると、アイリスディーナの体を濃密な魔力が包み込んでおり、彼女の胸元で複数の符が輝きを放っていた。
これは、先ほどアゼルの攻撃を凌いでいた時と同じ、他者の魔力を使用した強化魔法。
通常の強化魔法なら、符は一枚で事足りる。
だが強大なティマの魔力に合わせて、わざわざ魔力の譲渡、術の発動、制御、補助と、計4枚もの符を使用していた。
そして彼女の細剣に付されているのは、彼女の切り札である魔法剣“月食夜”だった。
アイリスディーナの奥の手である“月食夜”は、元々ノゾムの幻無とも正面から切りあえるほどの魔法剣だが、その制御は至難。この魔法剣を使っている間、彼女は身体強化を含めた他の魔法を使うことができない。
だから彼女は親友が持つ膨大な魔力と、フェオの符術でブーストをかけてもらい、一時的にノゾムと打ち合えるだけの身体能力を手に入れたのだ。
「っ!? おおおおおお!」
自分の攻撃が防がれたことに、怒りに染まったノゾムの目にわずかな驚愕が浮かぶ。
しかし、ノゾムはすぐさま逸らされた刀の軌道を修正。くるりと手首を返して振り下ろした刀を素早く斬り上げる。
「はっ!」
だがその刃も、アイリスディーナは確実に捌く。
ノゾムはさらに繰り返し暴風のように斬撃を繰り出すが、アイリスディーナは己の魔力をすべて注いだ魔法剣と、親友が持つ膨大な魔力すべてを費やした強化魔法で防ぎきり、逆に閃光のごとき突きを返す。
「ノゾム、いい加減目を覚ますんだ!」
「「ミカエルウウ!」」
突いた細剣は左手の鞘に弾かれ、お返しの右薙ぎを全力で引き戻した細剣で受け止める。
「ぐう! ティマの魔力を借りても、捌くので手一杯か!」
以前ノゾムを正気に戻した時のように、必死に呼びかけるものの、その視線はアイリスディーナに戻ってこない。
その視線はアイリスディーナ達の後ろ。ミムルが持つ、力を失ったちっぽけな結晶に向けられている。
前回ノゾムが暴走した時、ティアマットの幻惑に惑わされつつも、彼が探していたのはアイリスディーナ達であり、焦燥の中にもわずかな理性があった。
しかし、今回はリサを傷つけられたことが発端であり、しかもその傷は重篤なものであった。彼女の死を予感してもおかしくないほどの。
どんな形であれ、リサが立ち直ることを望んでいたノゾム。彼が理性を失うほどの怒りを爆発させてしまうのも無理はない。
(ただ呼びかけるだけではだめだ。何か、何か彼の理性を呼び起こすような要因がないと……)
「おおおおおおお!」
「くっ!」
必死に思考を巡らせるアイリスディーナだったが、その思考はノゾムの剣戟によって中断される。
元々月食夜の制御と過剰な身体強化の影響もあり、思考が鈍りかけている。
しかも一方的に押されているこの状況。いつ押し切られるかわからない。
「あまりこっちを無視していると、あぶねえぞ!」
そんなアイリスディーナを援護しようと、マルスが反対側からノゾムに切りかかる。
魔気併用術で強化された斬撃。それをノゾムは左手の鞘で受け流す。
「片手でいなすって、相変わらずでたらめな奴だな、おい!」
剣を交わしているのはマルスとアイリスディーナだが、ティマとフェオの援護を受けている。実質的に4対1でも攻めきれない。
ノゾムのデタラメ具合に何度目になるか分からないあきれの声を漏らしながらも、マルスは体ごと押しつけるように大剣を叩き付ける。
「ぐう!」
再び至近距離でにらみ合う両者。今度は刀ではなく、鞘で受け止めているため、ノゾムの刃がマルスの大剣を切り裂くことはない。
さらにアイリスディーナが反対からノゾムに斬りかかる。
鍔競り合う刀と細剣。アイリスディーナの月食夜がノゾムの幻無を防ぎ、ティマの強化魔法が彼の膂力を受け止める。
アイリスディーナとマルスはノゾムをちょうど両側から挟み込む形で、抑え込んだ。
「ぐう!?」
「よし、捕えた!」
「いくらお前でも片手じゃはじき返せないだろ!」
いくらノゾムでも、能力を劇的に高めたアイリスディーナ達を片手では押しきれない。だが、アイリスディーナ達も押し込むこともできていなかった。
「シーナ君、頼むぞ。なんとか彼を説得してくれ……」
拮抗するこの状況の中、アイリスディーナは後方に控える彼女達に視線を送った。
ミカエルを回収したミムルは這々の体でシーナのところへ駆け寄ると、思わず親友の足に飛びついて叫び声を上げた。
「ひいいい! 死ぬかと思った!」
よほど怖かったのか、自慢の尻尾もふるふると縮こまってしまっている。
「ミムル、お疲れ様。早くその水晶を渡して」
「もうちょっと労いの言葉をかけてくれてもいいんじゃない!? 私、危うく首と胴体がおさらばしそうだったんだけど!」
「たとえば?」
「さすがミムル様、このシーナ、感謝の極みでございます。どうか今後も私をこき使って……」
「いいからさっさと渡しなさい! 時間がないの!」
シーナはミムルが抱えてきた水晶を無理矢理もぎ取る。さすがにこの危機的状況で、ミムルの冗談を聞いている余裕は彼女にはなかった。
既にシーナは、以前に結んだパスを通じてノゾムに呼びかけていた。しかし、感じることが出来るのは身を焼くような憤怒のみ。
何度もノゾムの精神と同調しようと試みるものの、ティアマットとノゾムの同調が進行しすぎており、外部からの干渉だけでノゾムの精神をティアマットから切り離すことが困難な状況になってしまっていた。
以前の時はノゾムの精神は追い詰められていたものの、きちんと理性が残っていた。しかし、今回はティアマットとの同調で、彼の理性が軒並み吹き飛んでいる。
「ううう、冗談なのにシーナが冷たい。トム、早く帰ってきて……」
「ミムル。ぼーっとしていないで、早く戻りなさい。まだやることあるでしょ!」
「……誰か私に笑顔をください」
涙目になりながらうなだれるミムルの尻を蹴り飛ばしながら、シーナは早速、契約魔法でミカエルとのパスを繋ごうと試みる。
アゼルがミカエルと呼んでいた水晶。もし推測が正しいなら、この水晶こそがティアマットの幼馴染であり、アゼルの父親である。
もしそうなら、今のノゾムを止める手段を知っているかもしれない。
「ミカエル、白き精霊の王族よ。私の言葉に耳を傾けてください……」
“…………”
シーナは一抹の希望を胸に、手のひらの上にのせられた水晶に魔力を流し込み、簡易的な契約を結ぶ。
だが、手のひらの水晶は何も答えない。
シーナの声は確かにミカエルに届いているはずだが、肝心のミカエルの返答は沈黙。その姿の通り、岩のごとく押し黙っていた。
とはいえ、シーナも引けない。沈黙を貫くミカエルにかまわず、言葉を続ける。
「お願いします。ティアマットを止めるために協力してください。あなたが彼女の……」
“無駄だよ……”
「え?」
“彼女の心はすでに憎しみに塗りつぶされてしまっている。私の声など、もはや届かない”
聞こえてきたのは、淡々とした無感情の声だった。
「貴方とティアマットは幼馴染だと……」
“だからこそ、彼女は私を絶対に許さない。私も、許されようなどとは考えていない。できることは、自分と彼女がただ朽ちていくのを受け入れることだけ……”
「ですが、最悪の場合、この地に住まう人間はおろか……」
“それに、私にはすでに龍族としての力はない。あるのは、ただテトの力を抑え込み、あの世界に押し込むための機能のみ。彼とテトとの同調を切れと言われても、そのような力はないよ……”
「そんな……」
ミカエルの返答に、シーナは言葉を失ってしまう。
もし彼の言葉が正しいなら、彼はノゾムを戻すことはできないということになる。
「「オオオオオオオオオオオ!」」
「うお!」
「きゃあ!」
「っ!? アイリスディーナさん! マルス君!?」
その時、雄叫びとともに一陣の衝撃波が灰色の森を駆け抜けた。
衝撃波にもみくちゃにされながら、アイリスディーナとマルスがシーナ達のところまで吹き飛ばされてくる。
「ちょちょ! ふごう!」
「ふぎゃ! あ、ちょっとやわらか……」
吹き飛ばされたマルスの体がフェオに激突して諸共吹き飛ばされ、アイリスディーナの体を、ミムルが倒れながらもしっかりと受け止めた。
「くそ、まさか両側から挟み込んでくる俺たちの剣を利用するなんてな……」
「単純に力だけで拮抗してもダメか……」
両側から抑え込まれていたノゾムは力では脱出が困難と察するや、唐突に両腕に込めていた力を抜くと、すぐさまその場にかがみこんだ。
普通なら振り下ろされた刃に両断されるが、このとき、マルスとアイリスディーナがノゾムを両側から挟み込んでいたために、2人の剣が空中で衝突してしまった。そのようにノゾムが2人の剣筋を調整したのだ。
一瞬自由になったノゾムはすぐさまマルスの後ろをとると、邪魔な2人を気術“震砲”で吹き飛ばした。
「っ、く!? 制御術式が崩壊している!」
ティマの魔力を制御していたフェオが吹き飛ばされたことで、アイリスディーナにかけられていた強化魔法が四散する。
「ちい! ミムル! アイリスディーナの術式が直るまで、何とか2人で耐えきるぞ!」
「うえ!? あ、あたしが前に出るの!? 無理無理! 死んじゃうよ!」
「俺1人じゃノゾムを抑えきれないんだよ! 別に打ち合えとは言わねえ。アイツの気を引くだけでいいからさっさと行くぞ!」
「ちくしょー! 此処のパーティはどいつもこいつも猫使い荒すぎだ~!」
ミムルが涙目で腰の短剣を引き抜く。
だがここで、アイリスディーナの脳裏に疑問が生じる。なぜノゾムは拘束から逃れたとき、2人を斬らなかったのかと。
その疑問はすぐに解けた。ノゾムが掲げた左手に、膨大な気が集約されていたのだ。
踏み込もうとしていたマルスとミムルを含め、その場にいた全員に強烈な悪寒が走る。
それは、ノゾムが持つ唯一にして、最大の殲滅気術の準備だった。
気術“滅光衝”
発動すれば、肉体的にか弱いアイリスディーナ達などチリも残らないだろう。ノゾムはアイリスディーナとマルスを後衛とまとめた上で、もろとも殲滅するつもりだったのだ。
「っ!? まずい! 全員防御を固めろ!」
アイリスディーナが慌てて障壁魔法を足元に構築しようとするが、ノゾムの左腕はすでに眩いばかりの光を放っており、明らかに間に合わない。
「「おおおおおおおおお!」」
更にノゾムの体から5色の源素が噴出し、左腕に流れ込んだ。
業火のように揺らめく源素の光が、障壁を張ろうとしたアイリスディーナの精神を折りにかかる。
ティアマットの力まで“滅光衝”に上乗せされてしまったら、たとえ障壁魔法の発動が間に合ったとしても、到底防ぎきれないだろう。
それでもアイリスディーナは、諦めるものかと術式を展開しようとする。
ノゾムの左腕が地面に向かって振り下ろされる。
だが、その腕が地面を穿つことはなかった。アイリスディーナの後ろから放たれた炎弾が、ノゾムの左腕に着弾し、込められていた力を霧散させたからだ。
「間に合った……」
「リサ、君?」
振り返ったアイリスディーナが見たのは、紅の髪を靡かせ、凛として立つリサの姿だった。




