表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
150/221

第7章第22節

 リサを治療し続けるゾンネとトムを眺めながら、ソミアは心配そうな声でつぶやいた。


「……マルスさんたち、大丈夫でしょうか?」


「心配?」


「は、はい……。おじいさんの話だと、アゼルさんも龍族ですし、何としてもノゾムさんを封印しようとしているみたいですから……」


 沈んだ口調でつぶやく彼女の視線は、先ほどからチラチラと森の奥へと向けられている。

 強大な敵と相対しているであろう姉達の安否を心配する姿に、トムは思わず苦笑を浮かべた。


「それでも、何とかするよ」


「トムさん?」


 自棄とも違う、自嘲とも違う。どこか達観したようなトムの口調に、ソミアは首をかしげた。

 普段の彼はあまり強い口調で言葉を語らない。だが先ほどの言葉を、ともすれば楽観的とも取れそうな口調で言い切った。

 その言葉に感じる言葉があったのはゾンネも同じなのか、リサの治療を続けながらも、窺うような視線をトムに向けている。


「彼と出会って、一緒に過ごして、色々思うところがあったのは、僕たちも同じだったからね」


「トムさん達なりに、何か策があるということですか?」


「ノゾム君が寝込んでいる間にちょっとね。お爺さんがアイリスディーナさんに渡した物に比べれば大したものじゃないけど……」


「ふむ……」


 驚いたように目を見開くソミアを眺めながら、トムは苦笑を浮かべる。

 ゾンネは哀愁を漂わせながら、灰色に染まった木々を見上げる。その時、気絶していたリサが僅かに身じろぎした。


「う、うう……」


 一瞬苦しそう唇を動かした彼女の瞳が、ゆっくりと開かれた。













 アゼルの背中に着弾した魔力弾と気弾。しかし、強固な鱗を身に纏っているアゼルは痛痒を見せず、呆れた様子でアイリスディーナ達の方へと振り返った。


「……また人間ですか。退きなさい。“コレ”は貴方達が関わっていい存在ではありません」


「あの爺さんの孫にしては、ずいぶんと龍らしいけど、いちいち腹が立つ物言いやな」


 静かな物言いの中にも冷淡さが感じられる口調。ノゾムを“コレ”扱いするアゼルに、フェオが思わず不満げに呟いた。

 そんなフェオの独り言を無視しながら、アゼルは駆けつけたアイリスディーナ達を一瞥する。

 冷淡な口調と同じく、感情の色を感じられない視線。だがその視線がある人物をとらえた時、アイリスディーナ達を見下ろしていた冷たい視線に、僅かに驚愕の色が混じった。


「妖精族? 何故人間と……」


 アゼルの視線の先にいたのは、愛用の弓に矢を番えて構えたシーナの姿。

 自らと同じ精霊に寄り添って生きる民が、人間の側について自分と相対している事実に驚いているのだろう。


「精霊達が繋いでくれた縁故にです。精霊の王族よ」


 一方、シーナは礼儀正しい口調でアゼルに一礼する。しかし、その蒼い双瞳の奥には強い警戒心が宿っていた。

 アゼルを敬うような言葉の端にも、張りつめた弦のような緊迫感を宿していた。


「妖精の娘よ。そなたも精霊と共に歩む者なら、この人間の危険性が分かるはず……」


 自らを敬いながらも、警戒心をあらわにするシーナに、アゼルが諌めるような言葉を送る。

 淡々とした口調ながらも、ノゾムやアイリスディーナ達に向けられた冷淡さは感じられない。

 共に世界に満ちる精霊の存在を感じ取り、その力を行使する者同士。同質の存在として、思うところがあるのかもしれない。

 

「確かに、彼ら精霊は私達にとってかけがえのない友人であり、切り離す事の出来ない隣人です。そしてその隣人達と共に、彼が抱えてしまった黒龍がどれだけに危険な業を孕んでいるかを目の当たりにしました」


 以前目の当たりにした、ティアマットが持つ混沌の力。僅かに漏れ出しただけで周囲の精霊が恐怖で萎縮するほどの憎悪。

 精霊と共に歩む存在として、彼女はその危険性を仲間達の中で誰よりも感じ取っていた。

 こうして精霊の頂点と向き合うことで、その確信は更に深まる。

 だがそれでも、シーナは己の考えを曲げようとは思わなかった。


「しかし、私は彼に返しきれないほどの恩があります。そんな彼を一方的に封印すると言うのなら絶対に退けません」


 自然と、その言葉が口から出た。

 自らの殻を破り、再び精霊と向き合えるきっかけをくれた青年。その人を支えるためなら、どんなことでもしよう。

 シーナはこうして精霊の王族に弓を引こうとしている自分自身を冷静に、そして自然に受け入れていた。

 ノゾムが抱えたティアマットの危険性を知っても、なお彼を助けようとするシーナの姿にアゼルが眉をひそめる。


「愚かな。奇跡的に保ってきたとはいえ、たかが人間風情にあの忌龍を押さえ込み続ける事は不可能です。いずれ何かしらの形で暴走し、災厄を撒き散らすだけの存在となる。そうなる前に……」


「はっ! ご大層な目的をのたまおうが、ゾンネの話じゃお前の本当の目的は父親の復讐らしいじゃねえか。ご立派な白龍さまにしちゃ、ずいぶんとケツの穴が小さい話だな」


「ケ、ケツって……」


 アゼルの問答を、小馬鹿にしたようなマルスの言葉が遮る。

 ズイッと不躾に前に進み出てきたマルスの姿に、アゼルが不快そうに目を細めた。


「人間風情が、この私を侮辱するつもりですか……」


「その人間風情と戦ったにしては、お前もずいぶんと傷だらけじゃねえか。意気揚々と挑みかかっておいて、返り討ちにあうなんて情けねえ限りだな」


 実際、今のアゼルは手負いである。

 片翼の皮膜をズタズタに引き裂かれ、真珠のように輝いていた体躯には、大小さまざまな傷が無残に刻まれている。

 致命傷はないとはいえ、決して無視はできない傷だ。

 だが何より、それが一介の人間の手によるものだという事。そして、その相手が自分の仇であるという事実が、アゼルの神経を逆なでしていた。


「…………」


 周囲に漂っていた重苦しい雰囲気が、槍のような鋭さを帯び始める。

 アゼルの体から敵意を帯びた源素が溢れ出し、彼女の意思に沿うように、周囲の精霊達を従えていく。

 一瞬で高まる緊迫感。

 マルスは無言で背中に負った大剣の柄に右手を伸ばし、左手を突き出すように掲げる。

 睨み合うアゼルとマルス。2人の間には、既に敵意と言う見えない刃がぶつかり合っていた。

 そんな両者の間に、アイリスディーナが割って入る。

 いきなり相手に戦意をぶつけたマルスを右手で制しながら、凛とした口調でアゼルと相対する。


「アゼル殿、私達は別に貴方と戦いたいわけではない。こうして私達がこの異界に来れたという事実、誰が協力してくれたかは十分理解できると思いますが?」


 この封じられた世界はただの人間が侵入できるような空間ではない。そしてそれが可能な人物はアゼルが知る限り、この街でただ一人。


「…………」


「その人は、貴方にこんな事をして欲しいとは願っていない」


 アゼルは沈黙したまま、口元を強くかみしめている。ここにきて祖父のことを思い返しているのだろう。

 アイリスディーナにゾンネの真意は理解できない。

 ただ、彼がアゼルにこのような強硬手段を取って欲しくないというは十分理解できる。

 父親であるミカエルの仇として、ティアマットに復讐を果たそうとするアゼル。

 一方、そのミカエルの父親であるゾンネは、ティアマットに対して危機感を感じさせる言動はあるが、憎しみや恨みといった感情は見えない。 

 老人がティアマットやアゼル、そしてミカエルと呼んでいた息子のことを話すときの表情は、枯れ切った大木のような、濃い後悔の色のみ。

 あの老人の過去に何があったのか、未だに分からないことが多いが、自分達よりもゾンネのことを知るアゼルが彼の後悔を知らないはずはない。

 一抹の期待を胸に、アイリスディーナはゾンネの言葉を引き合いに出してアゼルの説得を試みる。

 しかし……。


「……下らぬ問いかけだ」


 アゼルは胸を槍で突かれたように苦しそうな表情を浮かべながらも、アイリスディーナの説得を切り捨てた。


「どの道、この忌み龍を放置しておく事などできぬ。お父様が命をとして成し遂げた使命を無駄にしないため、そしてこの罪に穢れた龍を粛清するためには、手段など問わぬ!」


「……ならば仕方がない。貴方を倒し、そしてもう一度ノゾムを正気に戻して見せる!」


「愚かな! この人間は既にティアマットの憎悪に飲まれた。今龍封じの結界を解けば体が崩壊するまで際限なく暴れ周り、最終的にティアマットが復活するだろう」


「ぐううう! がああああああ!」


 ノゾムとティアマットの怨嗟が、灰色の森に木霊した。憎悪の叫びを上げながら拘束を解こうともがいている。

 憤怒に染まったノゾムの目に、アイリスディーナ達の姿は映っている様子はない。

 アゼルの言葉を肯定するようなその光景に、アイリスディーナ達は沈痛な表情を浮かべた。


「何を言っていやがる! てめえがチョッカイ出したのが原因だろうが!」


「どの龍族もティアマットを放置しておくことは出来ない。私でなくとも、いずれは他の龍族が封印のために接触してきただろう。今回お爺様がこの忌龍を見つけたのは偶然でしかない」


 思わず声を張り上げるマルスだが、アゼルはその言葉を真っ向から切り捨てた。

 監視者たるゾンネはノゾムを見つけた後も、強硬な手段はほとんど取らなかったが、他の監視者に見つかっていた場合はどうなっていたか分からない。

 最悪、その監視者が強制的にティアマットを封印しようとしたかもしれないのだ。

そうなった場合、どのような事態になっていたのかは想像に難くない。


「それに依代は所詮人間。どれだけ生きても数百年だ。時の流れで寿命がつきれば、ティアマットは開放され、その憎しみは再び数多の命を焼き尽くしてしまうだろう。

 そんな事、させるわけにはいかない!」


 結局のところ、この結果は遅いか早いかの違いでしかない。それがこの人間の運命であり、自分たちはティアマットの開放を容認することは絶対にできないと、アゼルは断言した。

 精霊の王に連なる一族の一員としての意識と、ティアマットに対する憎悪。それが彼女を駆り立てていた。

 アゼルの言うことは決して間違いというわけではない。

 彼女がノゾムを排他しようとする動機は確かにティアマットに対する憎しみではあるが、その動機の中には確固とした正義もまた存在する。

 人間という弱く儚い存在に封じられた災厄。数多の生命を救うために、その危険性を封じる。決して理解できない理屈ではない。


「それでも……」


 アイリスディーナにも、その理屈は十分理解できる。いや、人民を統治するという立場であるからこそ、アゼルの言葉を簡単に否定できない。

 だが……。

 

「それでも、今ここで彼を失うことを、私は絶対に許容できない」


 自分の中でも反論の余地のない理屈を、アイリスディーナは真っ向から否定した。

 もちろんアゼルの言葉は理解できる。でも受け入れられない。

 理屈? 運命? そんなもの知ったことじゃない。

 封印され、人知れず朽ち果てるのが彼の運命だというのなら、そんな下らない運命なんてぶっとばしてやる!

 かつて彼が、私たち姉妹の宿命を断ち切ったように……。

 アイリスディーナが腰の細剣を引き抜き、戦意を込めてアゼルを睨みつける。

 彼女の戦意に同調したように、彼女の後ろにいた仲間たちもそれぞれの得物を構えた。


「私と戦うと?」


「ああ。悪いが、この場でぶっ倒させてもらうぜ」


 己に向けられた不遜な言葉を最終的な宣戦布告と受け取ったのか、背を向けていたアゼルがアイリスディーナたちに向き直る。

 自分達を明確に敵と認識したアゼルの様子に、アイリスディーナ達は各々魔力や気を練り上げる。


「立ちふさがるなら容赦はしない。恨むなら、この忌龍に加担した蛮勇と愚かさを恨みなさい」


 アゼルの体から白く輝く源素が吹き出し、宙を舞う。その力の渦に、アイリスディーナたちは目を見開いた。


「ちょ、とんでもない量の源素なんやけど!」


「さ、さすがは伝説の種族ってことかな……」


 まるで天を覆う雲海。アイリスディーナ達の魔力を風や水に例えるなら、彼女の力はまさに嵐や津波といった表現がふさわしいだろう。

 あまりにも規模が違いすぎて、全体が把握しきれない。


「集え光の精。眼下に這いずる愚者に、その威光を示せ」


 アゼルの命に従うように、光の精霊たちが空中に無数の光弾を形成する。

 数えるのもバカらしいほどの光の玉。その規模は全天の7割を覆うほどだった。


「……だめ、精霊達が言うことを訊いてくれない。完全に彼女の支配下に置かれているわ」


「こりゃあ、間違いなくバケモンやな」


 同じように精霊魔法を使えるシーナが精霊との契約を試みるが、肝心の精霊達は彼女の呼びかけに一切答える様子がない。

 ノゾムに片翼を潰され、手傷を負っているにもかかわらず、桁違いの力である。

 これを相手にして追いつめたノゾムもまた凄まじい。


「くるぞ!」

 

 アイリスディーナ達めがけて、光弾の雨が一斉に降り注ぐ。


「ティマ、フェオ!」


「わ、わかった!」


 アイリスディーナ、ティマ、フェオが素早く障壁を展開する。

 しかし、アゼルが放った光弾の数は異常の一言に尽きる。明確な殺意を持って襲い掛かる光弾の群れはあっという間にアイリスディーナたちを飲み込んでしまった。

 次々と響く炸裂音。同時に土煙が高々と舞い上がり、弾けた白い光弾の閃光を覆い隠していく。

 瞬く間に閃光の嵐に飲み込まれてしまったアイリスディーナ達。

 アゼルは淡々としたまなざしで、その様子を眺めると、もう用はないというように踵を返した。

 どれだけ粋がったところで、所詮は人間。

 自然の猛威と相対して、大した抵抗が出来るはずもない。

 妖精の娘を巻き込んでしまったことは心が痛むが、この忌龍を封じるには仕方のないこと。

 そのようにアイリスディーナ達の存在を思考の隅に追いやると、アゼルはすぐさまノゾムの封印を再開する。

 再びアゼルの持つ源素がノゾムを封じているミカエルに注がれ、水晶の周囲に魔法陣が形成されると強い光を放ち始める。

 するとノゾムを拘束していた陣の周囲を取り囲むように、新たな魔法陣が形成され始めた。

 

「さて。邪魔が入ったが、今度こそ貴様を封じ……」


「勝った気でいるんじゃねえぞ!」


「なっ!?」


 封印を再開しようとしていたアゼルに、剛風が叩きつけられた。

 竜巻を思わせる風刃の群れが舞い上がった土煙を吹き飛ばし、螺旋を描きながらアゼルに叩きつけられる。

 巨壁を思わせるアゼルの体躯を吹き飛ばすことは出来なかったが、不意の衝撃にアゼルは思わず半歩退いた。

 土煙が晴れた先には、大剣を携えたマルスの姿。

 その後ろには障壁を展開したティマ達が、凛とした表情で佇んでいる。

 展開されているのは地水火風、4色の色を放つ多重障壁。

 さらに展開されたティマの障壁は何枚もの符が張り付き、光を放っている。張り付いたフェオの符に描かれている術式は魔力制御。膨大だが精緻に欠けるティマの魔法を補助するための術式だ。

 外部からの補助を受け、完全に制御された伝説級の魔力は、以前機殻竜のブレスを受けた時よりもさらに頑強になっている。

 現に彼女の障壁はアゼルの光弾を正面から受け止めても、尚力強く輝いていた。


「ううう、せっかく最近は赤貧生活から脱せられると思うとったのに……」


「ご、ごめんね? 私、まだどうしても魔力制御がうまくできなくて……」


 アゼルの精霊魔法を相殺したフェオの符が限界を迎え、ボロボロに崩壊して舞い落ちていく。膨大な魔力と強力な精霊魔法の激突に晒されたためである。

 同時に確固としたイメージで輝いていたティマの障壁が揺らぎ始めた。

 フェオはさらに懐から符を取り出し、ティマの障壁めがけて投げつける。

障壁に張り付いた符が輝き、再びティマの魔力を制御しはじめると、揺らぎ始めていた障壁は輝きを取り戻す。


「アイ、あまり耐えられないから!」


「分かっている! マルス君、いくぞ!」


 アイリスディーナの掛け声と共に、一斉に走り出す。向かう先は白銀の龍。

 正直な所、ノゾムをすぐに開放したいところだが、暴走しかけているノゾムを龍封じの結界が抑えていることは事実。下手に外側から龍封じの結界を破壊した場合、ノゾムは暴走したまま暴れ続けてしまう。

 正気に戻すにしても、アゼルに横槍を入れられてはたまらない。

彼を正気に戻すには、まずアゼルを降した上で、憎悪に呑まれている彼を正気に戻さなければならない。


「邪魔はさせない!」


 アゼルが再び空中に光弾を作り上げ、踏み込もうとするアイリスディーナ達めがけて撃ち放つ。

 回避する隙間を与えないほど濃密な弾幕が叩きつけられる。

 瞬く間に呑み込まれるアイリスディーナ達。

 しかし、次の瞬間、舞い散る源素をかき分けながら、無傷の2人が飛び出してきた。


「な!?」


 アゼルが思わず驚愕の声を漏らす。

 アイリスディーナ達の体を包み込むのは4色の魔力障壁。なんとティマの障壁が彼女達個人にそれぞれ展開されたまま、維持されていたのだ。

 基本的に魔法障壁は術者を中心に一定範囲内に展開されるものである。術者と距離を隔てるほど、難度は上がり、また各個人に他人の魔法障壁を展開して維持するにも相当の技量を必要とする。

 さらに使用された魔法が高位の術になればなるほど、その難度はさらに跳ね上がる。

 ただでさえ高難度の技法を同時使用。4属性の多重障壁を個人個人に展開できる人間など、アークミル大陸でも何人いるだろうか……。

 ただでさえ魔力制御に難があるティマだけでは到底こなせない技法だった。

 実際、光弾の弾幕をかき分けたアイリスディーナ達の障壁は、既にあちこちにヒビが入り、今にも崩れそうである。

 だがアイリスディーナとマルスが懐から符を取り出して障壁に張り付けると、崩れそうだった障壁が再び確固とした輝きを取り戻した。

 超高難度の技術の同時行使。それをアイリスディーナ達は、制御のための符を大量投入することで一時的に可能としたのだ。

 問題があるなら、符術の符は消耗品であり、あまりに消費が激しく、長時間障壁を維持することが不可能であること。そしてある一個人の懐を直撃する点だろうか。


「お願いや2人とも! あまり使わんといて! ワイの財産が、ワイが苦労して溜め直した血と汗と涙と鼻水の結晶が!」


「無理だ!」


「後でうちの店で晩飯を奢ってやるから我慢しろ! 鼻水程度なんだろ!」


「晩飯一回程度で補てんできる金額のわけないやろーーーーー!」


 文字通り紙くずになっていく自分の財産を前にして、悲痛な叫び声を上げるフェオ。だが、当然こんな切迫した状況で、アイリスディーナ達にフェオの財産を気にしている余裕などないわけで……。

 哀れ、ここ数週間での自分の稼ぎが瞬く間に霧散していく光景に、フェオは思わずホロリと一筋の涙を流した。


(ワイ、この戦いを生き残ったら、ノゾムに奢ってもらって腹いっぱい黒パン食べるんや……)


 すでに思考は現実逃避しかけている。

石を食べるのはもう嫌と呟きながら、それでも必死に障壁を維持しようと符を使い続けるその様は、哀れを通り越して痛々しい。

 そんな哀愁漂うフェオを放置したまま、アイリスディーナとマルスは叩きつけられる光弾の雨をかいくぐりながら、それぞれ左右に分かれつつ、一気にアゼルに肉薄しようとする。


「く……ですが、この程度で私に触れられるとは思うな!」


 アゼルは展開していた弾幕をアイリスディーナとマルスに集中させ始めた。

 密度を増した弾幕にアイリスディーナ達の速度は徐々に落ち始める。さらに2人の進行方向を遮るように、地面から無数の光の杭が突き出す。

 2人とアゼルを隔てるよう、半円状に出現した光杭の壁。

 完全に足を止められたアイリスディーナとマルス。このままでは一方的に蹂躙されるだけである。


「く、足を止められたか……」


 だが、2人の表情に動揺の色は全くなかった。

 ちらりと視線を合わせた2人は、進行方向を90度変え、光杭の壁に沿うように中央に向かって駆けていく。

 

「マルス君」


「ああ、分かっている! 予定を変えるぞ。タイミングを間違うなよ!」

 

 マルスが右手に携えた大剣に風が纏わりつく。同時に左手の手甲に魔力が集まり、光を放つと、手甲の一角が弾け飛んだ。

 鉄の装甲の隙間から覗くのは、風の術式。

 

「トムからの土産だ! 吹っ飛べ!」


 魔気併用術“裂塵の餓獣”

 気術“裂塵槌”と魔法“風洞の餓獣”を組み合わせた術。

 絡み合う風の餓獣が進行方向を遮っていた光の杭と光弾を食い荒らしながら、一気にアゼルに牙を向く。


「なっ!? ぐああ!」


 アゼルが、思わず苦悶の声を上げた。

 餓獣の群れはアゼルの鱗に爪を立て、ノゾムがつけた傷に牙を向く。流麗な鱗がひび割れながら剥げ落ち、傷口からは鮮血が舞い散っていく。

 以前暴走させてしまった不完全な術とは比べ物にならないほどの威力だった。


「トム、ありがとよ……」


 マルス個人では、未だに魔気併用術を制御しきれていない。だが使う術式を限定し、さらに補助を加えれば、可能性は見えてくる。

 陣術。マルスは術式を刻むことで魔力を流し込むだけで魔法を発動させる術式、そして魔力量を調整する術式を、トムに頼んで手甲の装甲の裏に刻み込んでいたのだ。

 武器に刻み込んでは、耐久性を落としてしまう。手甲の装甲に直接刻んだ場合も同様。

 さらに装甲に直接刻んだ場合、戦闘の中で術式が削られ、術式が十全に機能しない場合もあった。

 そのためにトムは、手甲の装甲の裏、下地となっている布地の部分に、術式を刻んだのだ。

 これならマルスは魔力を手甲に流し込むだけで魔法が使え、気術の制御により専念できる。

 とはいえ、欠点もある。

 手甲の一部が四散し、防具としては劣悪品になってしまうこと。

 さらに刻み込んだ術式は使い続けると劣化する。魔気併用術の負荷に術式がどれだけ耐えられるかは、まだ不確定だった。

 とはいえ、それを補ってあまりあるだけの力を、マルスは手にすることは出来た。

 現に完全に制御された気術と魔法は相乗効果をもたらし、アゼルの光の杭と光弾を消し飛ばした上にアゼルの傷を負わせたのだから。

 

「行くぞ!」


 アイリスディーナが“裂塵の餓獣”によって薙ぎ払われた空間に身を躍らせ、一気にアゼルに肉薄する。


「はああああ!」


 その手に携えたのは細剣。

 強化魔法を幾重にも幾重にも重ね掛けされた、深淵の夜を思わせる漆黒の刃。

“月食夜”

 ノゾムの幻無に匹敵する魔法剣が、鱗が剥げた場所めがけて振るわれる。


「あああああ!」


 深々とアゼルの体を切り裂く細剣。さらアイリスディーナは細剣を振るい、2撃3撃とアゼルの体を切り裂いていく。


「この、人間風情が!」


 アゼルが丸太のような剛腕を振るい、アイリスディーナを振り払おうとする。

 だが暴走したノゾムに片翼と全身を切り裂かれた痛みで、体がうまく動かない。

 更に相手は自分よりもはるかに小さい存在。思うように体が動かないアゼルの攻撃はどうしても大雑把になってしまう。

 一方、アイリスディーナの動きは流麗で一切の無駄がない。

 舞うように、軽やかにアゼルの攻撃をかわしながら、細剣を振るい続ける。


「ぐう! がっ!? ええい、うっとおしい!」


「!?」


「吹き飛べ! 人間!」


 焦れたアゼルが全身から無作為に源素が放出され、突風となったアイリスディーナの体を吹き飛ばす。

 邪魔な羽虫を吹き飛ばしたアゼルは、一気にその口腔に力を集中させる。

 憤怒の形相を浮かべるアゼルの視線の先には何とか体を起こそうとしているアイリスディーナの姿がある。

 

「消えろ!」


「ミムル君!」


「待ってました!」


 アイリスディーナの声とともに、アゼルの背後の木の陰からミムルが飛び出してくる。

 手に持つのはゾンネから渡された護符がある。

 アイリスディーナ達はすべて囮。アゼルを封じる可能性をもつ、たった一枚の護符を確実に当てるための策だった。


「気づいていないと思ったか!」


 だが、その程度ではアゼルの裏はかけない。

 周囲の精霊を完全に制御下に置いているのだ。ミムルの動きも当然察知していた。

 アゼルはしなやかな尻尾を振り上げ、ミムルを打ち払おうとする。


「ええ、知っていたわ」


「なっ!? がああ!」


 だが次の瞬間、アイリスディーナの背後から一本の矢が、アゼルの放とうとしていたブレスに突き刺さった。

 直後に突き刺さった矢は4色の魔力を吐き散らしながら炸裂。

 自分の口内を蹂躙する激痛に、アゼルは思わずのた打ち回る。


「さすがトムの特製の矢にティマさんの魔法を乗せただけあるわ。一本しか用意できなかったらしいけど、桁外れの威力ね」


 矢を放ったのは、後方で待機していたシーナ。放った矢には鏃から羽に至るまで、びっしりと術式が刻まれていた。

 刻まれていた術式は、シーナが得意とする“星海の天罰”にティマが得意とする4属性に適応させて重ねがけしたもの。トムが特別に用意した、会心の一矢である。

 星海の天罰は本来精霊の力を集約させて放つが、今回はティマの魔力を乗せてはなっていた。

 4属性の力を併せ持つ矢は臨界を迎えていたアゼルのブレスを見事誘爆させて見せたのだ。


「私達がノゾムの看病をしている間、こんなものを作っていたなんて……」


 たった今、自分が放った矢に驚嘆しながら、シーナはこの矢を渡されたときのことを思い出していた。

 制作者であるトム曰く、ノゾムの正体を知った後にティマと意見を交わしながらコツコツと作り上げ、アイリスディーナ達がノゾムの看病をしている間に完成にこぎ着けたらしい。

 とはいえ欠陥も多く、出来た品はどれも一回しか使えない使い捨て。もしくは使用後に何らかの不可逆な弊害を伴うらしく、コストパフォーマンスは最悪らしい。

 実際、放った時の反動でシーナの弓の弦は切れてしまっていた。

 とはいえ、威力はみての通り。

 放たれた矢は狙い違わず目標に命中し、精霊の王族を相手に傷を与えた。


「このおお!」


「大人しくしなさーーい!」


 血を吐きながらそれでも抵抗しようともがくアゼルだが、もう間に合わない。

 ミムルが護符を張り付けると同時に、符に刻まれていた術式が、込められたゾンネの魂を核として発動。

 無数の光がアゼルの体を縛り付け、その力を封じていく。

 刻まれていたのはノゾムに使われていたものと同じ、龍封じの結界。


「くう、そ、そんな……」


「やったね!」


 思った以上に上手く行ったことにミムルが喜びをあらわにする。その光景を眺めながらアイリスディーナはホッと息を吐いた。

 アゼルが初撃から強力無比なブレスを放ってきたり、最初の一撃から追撃の手を緩めなかったらこうはいかなかった。

 ノゾムとの戦闘による消耗や怪我。だがなにより、相手の動きの先を読む戦術眼があまりにも未熟だった。

 おそらくアゼルは戦いの経験があまりないのだろう。

 元々の能力の高さもあって“戦闘”に発展するような事態をあまり経験していないのかもしれない。

 使ってきた術自体は目を見張るほど強力ではあったが、ゾンネのような繊細さや緻密さはあまり感じ取れなかったのだ。

 力は強大、しかし精神は未熟。今考えれば、とても歪な龍である。


「今は置いておこう、後は……」


 アイリスディーナは地面に縛り付けられたアゼル一瞥しつつも、とりあえず浮かんだ疑問を脇へと追いやり、視線をずらす。

その時、アゼルを封じた護符は次に弾けるようにして空中に無数の光を散らせる。

 散った光が辺りに散らされノゾムを拘束していた龍封じの結界に降り注ぐ。


「おおおおおおおおおおお!」


“くっ!? 力が……”


 憤怒の叫びをあげながら、ノゾムが再び拘束を解こうともがく。

 徐々にひび割れていく光の拘束。よく見るとノゾムの足元の陣が揺らぎ始めており、光を放っていたミカエルの水晶も徐々に光を失い始めている。

 どうやら龍封じの結界を発動させたのはミカエルでも、その維持にアゼルの力を借り受けていたらしい。

 結界を維持していたアゼルの力が封じられ、さらにゾンネの護符が龍封じの結界の術式に干渉したことで、ノゾムを拘束していた結界が緩んだのだ。

 力を取り戻したノゾムが力任せに結界を引きちぎる。

 さらに再び解放された暴力的な気が四方八方にまき散らされ、力を失ったミカエルは吹き飛ばされて地面に転がり落ちた。


「「ミカエルウウウウ!」」


「ちょっと待つんだノゾム」


 地面に落ちた水晶を砕こうと、ノゾムが刀を振り上げる。

 だがその刀が降り下ろされるよりも先に、アイリスディーナが待ったをかけた。

 ノゾムとミカエルの間めがけて打ち込まれる多数の魔力弾。

 身の危険を感じたノゾムが獣のような俊敏さで後ろへ飛ぶ。

 その隙にアイリスディーナがミカエルとノゾムの間に割り込む。その時、ようやくノゾムの目がアイリスディーナ達を捉えた。

 憤怒で赤く染まった真紅の瞳。あの時と同じ、こちらを敵対者としか見ない、敵意に満ちた目だった。


「シーナ、早く!」


「ええ、分かってる!」


 シーナが魔力をたぎらせ、維持していたノゾムとの間のパスを広げた。

 彼女を介してアイリスディーナとノゾムの精神を繋げ、ノゾムを正気に戻そうと試みる。


「ノゾム、聞こえるか!? すぐに正気に戻るんだ!」


「グウウウウ……」


「……だめ、怒りの念が強すぎて私達の声が届いていない。完全にティアマットと同調している」


 以前ノゾムを正気に戻した時のように声を張り上げるアイリスディーナだが、彼女の思いとは裏腹に、怒りに染まったノゾムの目は元に戻ってはくれない。

 完全に怒りが理性を塗りつぶしており、止まる気配が全くなかった。

 封じられていた力が戻ったことで、ティアマットの力がノゾムの体を再び傷つけ始める。

 

「なら仕方ねえ。また力づくで止めるしかねえな。」


「う、うん。何とかして止めないと……」


 マルスがアイリスディーナの隣に並び、大剣を構えなおす。

 ティマもまたマルスの後ろに立って杖を構えながら、まっすぐにノゾムを見つめていた。


「ううう、もう堪忍してつかあさい。ワイの財布は空っぽや……」


「大丈夫だって、いざとなったら私が貸してあげるよ。10日で5割だけど」


「悪徳商人も真っ青な暴利……」

 

 こんな状況でありながら、漫才じみた会話をするフェオとミムル。シーナもまた呆れた様子で、仲間たちの隣に並んでいた。

 今のノゾムを正気に戻すことは、以前のようにはいかないだろう。

 前回はノゾムにもわずかな理性が残っていたが、今の彼はリサを傷つけられたことで完全に怒りに飲まれている。

だが、アイリスディーナ達の目に過剰な気負いはない。その瞳に宿るのは明確な決意のみ。

 必ずノゾムを止めて連れ戻す。

 運命が立ちふさがり、彼を連れていくというのなら、もう一度その鎖を叩き切ってやる。

 その意思を再び胸に彼女たちは狂える竜殺しと相対する。


「さて、思わぬ形になっちまったが、あの時のリターンマッチといこうじゃねえか!」


 マルスの豪胆な宣言とともに、今再び、ノゾムとアイリスディーナ達の戦いが始まった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ