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第7章第21節

お待たせして申し訳ありません。

第7章第21節、更新しました。

 ずっと遠く、はるか昔の話。

 夕焼けに染まる山間で、2匹の龍が向かい合っていた。

 ミカエルとティアマット。

 夜を思わせる漆黒の鱗をまとった龍は何やら辛そうに目を伏せ、ちらちらとミカエルの様子を窺いながら、おもむろに口を開いた。

 

「ミカエル。私、やっぱりここに残るよ」


「どうして? 里に戻って来いって言われているだろう?」


「…………」


 ここに残る。その言葉を聞いたミカエルは、やっぱりかと言うようにため息を吐いた。


「あの人間たちのことかい?」


「うん。今、あの人たちは苦しんでる。最近干ばつが続くせいで、作物があまり取れないから」


「その問題はテトが解決したんじゃないのかい? 一回加減を間違えて樹海を作っちゃったけど」


「その土地に根差すような力の行使はできていないよ。私、落ちこぼれだし……。その辺はミカエルも分かっていたでしょう?」

 

 以前にティアマットが助けた人間達。痩せた土地で飢饉に喘いでいた彼らを助けようと、ティアマットは力を行使して作物を実らせた。

 ついつい力の加減を前違えて樹海を生み出してしまったりもしたが、死の淵に立たされていた村人達はとりあえず当座の難を逃れたらしい。

 だが、ティアマットの力で一時的に土地の力を活性化させても、彼女は黒龍。闇を司る力だけでは完全に土地の力を戻すことは困難だった。


「……緩衝地帯の人間達に干渉するのは勧められないよ? それに精霊の力が乏しく、痩せた土地であるこの場所で生きる人間達を救おうとするなら、相当な時間が必要だ。その意味、分かっているんだよね?」


 ミカエルの口から告げられる重苦しい言葉に、ティアマットは下を向いた。

 基本的に龍族は自分達の統括地から外に出ることは稀である。

 緩衝地帯は元々、各龍族が納める統括地の境界線付近に設けられた場所であり、この場所に長居する龍はいない。

 何より、ティアマット達はそれぞれの里に戻るよう命を受けている。これに逆らうと言うことは、里を捨てると言う意味と同じだった。


「里に戻っても私がいる意味はないもん。でも、ここの人達には私が必要みたいだから……」


 悲しみを秘めた瞳で、ティアマットは空を見上げた。その憂いに満ちた表情にミカエルは唇を噛み締める。

 ティアマットはその産まれから、里では疎まれていた存在だった。

 彼女に親はいない。黒龍の里に突然現れた、異端の龍だった。

 精霊種の中で最高位の力を持ちながらも物理的な肉体を持つ龍という種族は、必然的に同種の龍とつがいを持ち、子をなす事でしか数を増やせない。

 だが同時に、子は親の知識と力を継承する事で、より強く、賢くなる事が出来る。

 しかし、ティアマットには親がおらず、継承する力も知識もなかった。精霊の力を行使するのも苦手で、制御もままならない落ちこぼれ。

 そんな異端のティアマットが里から除け者にされるのはそう時間はかからず、その生まれが更に彼女の排斥に拍車をかけてしまった。

 もちろん、身寄りのない彼女を心配してくれた龍もいた。ティアマットの里親となったつがいの黒龍達は幼い彼女を迎え入れ、我が子と一緒に懸命に育ててくれた。

 だがそれでも、彼女を遠巻きに見る周囲の視線は結局変わらなかった。


「戻る気はないんだね?」


「うん、もう決めたの。私は要領悪いし、馬鹿だけど、あの人達を放っておけないんだ」


 故郷を去ると決めた彼女の顔は寂しさを窺わせながらも、その瞳には強い意思の光があった。


「……ごめんね。ミカエル」


 自分を心配してくれたミカエルの前で、ティアマットは申し訳なさそうに目を伏せた。

 強い意志の力で輝いていたティアマットの瞳の奥に、僅かに寂寥を帯びた色が混ざる。


「……分かったよ」

 

 その色を見た瞬間、ミカエルはそんな言葉を口にしていた。


「ミカエル?」


「僕も付き合おう。テト一人だと、加減を間違えて大変なことになりそうだし」


 戸惑いの表情を浮かべ、不安げなティアマットの様子に、思わずミカエルの頬が緩む。

 同時に、胸の奥から熱い何かが突き上げてくる。


「……いいの?」


「父上は帰って来いと言っているけど、テト一人を放っておけない。それに、居場所がないのは僕も一緒だし……」


 一族を率いる長の血を継ぐとはいえ、ミカエルは優秀な兄と常に比べられてきた。

 そしていつの間にか、誰も彼もがミカエルをミカエルとして見なくなっていた。

 向けられる視線の先には、常に優秀な兄の姿がある。

 ミカエル自身、別に兄が嫌いというわけではない。尊敬できるし、大事にしてもらってきた。

 だけど、常に周りから向けられ続ける憐憫の視線は、常に彼の心に突き刺さってきていた。

 自分はただ兄の代替品でしかないのではないか?

 代わりでしかないのであれば、自分がここにいる意味はないのではないか?

 そんな疑問は徐々に膨れ上がり、いつの間にか自分と周り、全てに対する猜疑心へと変わっていく。

 ささくれ立ち、はち切れそうになる嫉妬心と諦観。そんないつ破裂してもおかしくない彼の心を癒したのが、目の前の幼馴染だった。


“みんな、お願い……”


“なにやっているの……?”

 

 緩衝地帯で行われた各龍族との会合。そこで黒龍族側の重鎮の娘として連れて来られたのが、ティアマットだった。

 大人たちが会合をしている間、顔見せということで引き合わされたのだ。


“え? あああ! 散っちゃった……”


 出会ったとき、彼女は自分の力を大気に馴染ませ、同調しようとしていた。

 精霊魔法を行う上での基本中の基本だが、本来そのような事は龍族には必要ない。

 生まれながら精霊と同質である彼らは、思念だけで周囲の精霊たちに意思を伝え、手足のように使役することができる。それは龍族たちにとって本能と呼べるものだ。

 だが、ミカエルの目の前にいた黒龍は、そんな本能でできることすらできなかった。


“うう、もうちょっとだったのに……”


“……は、はあ。しかたないな“


 涙目で俯く幼い彼女を前にして言いようのない罪悪感に駆られ、会合が終わるまで懇切丁寧にティアマットの練習に付き合った。

 初めは危なっかしくて放って置けなかっただけ。だがしばらく一緒にすごしていたら、自然とささくれ立っていた心は穏やかになっていた。

 ティアマットが精霊魔法を使えるようになったことを聞いたのは、その出会いからしばらく経ってのこと。

 それがこの2人の始まりだった。


「それ、僕も見たいんだ。僕と君が作ろうとしているこの国が、どうなっていくのかを……」


「……ありがとう、ミカエル」

 

 はにかむように浮かべた笑顔。辛い事はきっとある。でも一緒なら、きっと乗り越えていけるだろう。

 そんな気持ちに満たされたまま、二匹は微笑む。

 これははるか昔の話。彼女達が自分たちの未来を信じて疑わなかった頃の淡い記憶。

























 夜の帳が下りた森の中を駆け抜けていくアイリスディーナ達。その隣には白髭を生やした老人が並走している。


「それでは、貴方達龍族は、封印から逃れたティアマットを探していたと言うことか?」


「そうじゃ。数ヶ月前に封印世界から逃れた奴を探して、この街にたどり着いたわけじゃ。まあ、ティアマットを取り込んでも無事だった小僧を見たときは、ワシも驚いたがのう」


 アイリスディーナがおもむろに投げかけた質問に、ゾンネはよどみなく答える。

 保健室に光とともに突然出現した老人。彼はアイリスディーナたちに頭を下げると“力を貸して欲しい”と懇願してきた。

 全く事態が飲みこめていなかった彼女達。更に老人は、自分が今は大陸から姿を消した龍族で、封印から逃れたティアマットをずっと監視していたと言い放ったのだ。

 当然、正体不明の老人の言うことなど、簡単には信じきれない。

 ミムルは疑わしい視線をゾンネに向けていたし、マルスはあからさまに信じられないという台詞を口にしていた。

 だがアイリスディーナたちはノゾムに危機が迫っていると言われ、尋常ではないゾンネの様子から只事ではないと判断。ひとまずノゾムと合流する事を優先した。

 保健室で一緒にいたノルンは、今はいない。ジハードに話が通せる人間として、彼に事の次第を報告したのち、すぐさま合流する手はずになっている。


「正直、貴方には聴きたいことが山ほどあるのだが……」


「そうじゃろうな。ワシもこうなった以上、黙っているわけにはいかんじゃろう。じゃが今は待ってくれ。一刻も早く、アゼルを止めねばならん」


 申し分けなさそうに目を伏せながら、ゾンネは駆け足で暗い森の中をかけていく。

 

「それにしても、まさかジハード先生までグルだったとはな……」


「人間世界で秘密裏に行動するには、どうしてもジハード殿のような協力者が必要でな」


 保健室でアイリスディーナたちと一緒にいたノルンは、今現在ジハードに話を通しに行っている。

 事態が事態なだけに、ことを収めるにはジハードたちの力も必要と考えたからだ。

 ジハード達に話を通すなら、教師であるノルンが一番適任という理由もある。


「アゼルの目的はティアマットの再封印。そのために、ワシがこの街の周辺に施した龍封じの結界を使うつもりなんじゃろう」


「龍封じの結界? そんなものがあるのですか?」


「ああ。対ティアマット専用の結界魔法じゃ。元々はワシが保険として施したものじゃが、その切り札があればこそ、アゼルも真正面から事を構える気になったんじゃろう」

 

 龍封じの結界。それは同族である龍の力のみを封じる魔法。

 同族を確実に粛清するために龍族たちが編み出した、禁忌の術法だった。

 自分達が住んでいる街にそんなものがあるとは全く知らなかったアイリスディーナ達は、みな一様に驚きを隠せない。


「ここじゃ……。ここにワシが仕込んだ龍封じの結界がある。アゼルの奴が術を使った形跡もあるようじゃ」


 言葉を失いつつも、足を進めるアイリスディーナ達。やがて彼女たちは視界が開けた場所に出てきた。


「ここは……」


 老人が案内したのは、アイリスディーナも訪れた事があるゴブリンの集落跡。

 オークに占領され、ノゾムが暴れた事ですっかり廃墟となったその集落が、暗闇に沈む森の中で、なぜか奇妙に歪んで見えた。

 まるで曇ったガラス越しに眺めたような景色に、アイリスディーナ達は怪訝な表情を浮かべる。


「アゼルと小僧は今、位相が違う異空間におる。ワシがそこへの道を開く」


 おもむろにそう言い放つと、ゾンネは両手を空中に伸ばした。すると彼の手からほのかな光が漏れ出し、空中に解けるように広がっていく。

 その光景を眺めながら、アイリスディーナ達は含みのある視線を目の前の老人に向けていた。

 ゾンネが龍族であることは分かった。しかし、まだ訊きたいことは山ほどある。

 走っている間は考えている余裕はなかったが、こうして足を止めると、どうしても気になってしまう。

 微妙な空気が漂う中、口火を切ったのはマルスだった。


「それで、アゼルって奴の目的がティアマットだとして、それほどまでに奴を付け狙う理由は何だ?」


 ゾンネがピクリと肩を震わせる。

 しばらく無言のまま結界への干渉を続けていたゾンネだが、やがて観念したように肩を落とし、おもむろに口を開いた。


「アゼルはティアマットが父親の……ミカエルと呼ばれたワシの息子の敵だと思っておるんじゃ」


「父親の仇?」


 マルスの確かめるような声に、ゾンネは小さく首肯した。

 心なしか、その背中が小さくなったような気がする。


「ミカエルとティアマットはいわゆる幼馴染というやつでな。その辺を話すと長くなるのじゃが……」


 平坦な口調。だがその声の端に、どこか後悔の色をうかがわせる。

 その詳しい内容こそ知りたいと思うのだが、生憎と今はその時間が惜しい。

なによりゾンネに問いかける前に目の前の空間の揺らぎが一際大きくなった。


「……どちらにせよ、そのアゼルって奴と一戦交える可能性は高いな」


 自分の手にはめた篭手をポンポンと叩きながら、マルスが肩をすくめる。その一言に全員が同意するように頷いた。

 マルスの言うとおり、アゼルは監視者であるゾンネを撒いてまでティアマットを封じようとする奴だ。

 このまま進めば彼女とぶつかるのは必然だろう。

 自然と、マルスの表情は硬くなっていく。そんな時、突然マルスの隣から気の抜けた声が聞こえてきた。


「何や、随分神妙なツラしているやないか。もしかして怖気づいたんか?」


 ニヤニヤと思わせぶりな顔を浮かべてマルスを挑発してきたのは、愛用の棍を肩に担いだフェオだった。


「まあ、以前我を失ったノゾムにボコボコにされていたんやし、自信喪失するのも無理ないで? 最近トムと何かしているみたいやけど、魔気併用術のほうもいい話聞かんから、うまくいっていないんやろ~」


 こんな状況であるにもかかわらず、性悪狐は糸のように細い両目でマルスの顔を覗き込みながら、わざわざ台詞の語尾を延ばして煽ってくる。

 いきなり挑発してくるフェオの行動を前にして、マルスのこめかみに青筋が立つ。

 マルスにとっても、以前この森で、暴走したノゾムに一方的に蹂躙されかけた記憶は新しい。

 あの時は結果的に事なきを得て安堵していたが、同時に改めて自分の力の無さを痛感した出来事でもあった。


「ええっと、ええっと……」


 突然不穏な空気を漂わせ始めた二人の様子に、傍にいたティマがうろたえ始めた。


「……抜かしていやがれ、お前こそどうなんだよ」


「まあ、ワイも色々と思うところはあったで。いろいろと、な……」


 ムスッとした表情で睨み返すマルスと、肩を竦めるフェオ。

 無力さを痛感したのは互いに同じ。彼らはそれ以上言葉を口にすることは無く、目の前の揺らめく宙を見据える。

 張り詰めた緊張はそのまま。だが、肩を並べたままの2人は、どこか妙に安心感を漂わせていた。


「え? え? え?」


 一方、完全に置いていかれたティマは、ただ2人の後ろでオロオロするのみ。

 マルスとフェオが妙な空気をかもし出している間にも、ゾンネの術式は空中へと広がっていく。

 やがて空中に虫食いのような穴が広がり、やがて数人が入れるほど大きく広がった。その奥には色素の抜けたガラス細工のような風景が覗いている。


「よし、穴が開いたぞ、これで中に入れ……むう!」


 穴を開いていたゾンネの表情が、まるで苦虫を噛み潰したように歪む。次の瞬間、穴の奥から強烈な風が吹き出してきた。

 自然の風ではない。強烈な力の炸裂によって発生した突風だった。


「これは、不味い事になっておるようじゃ……」


「っ! 急ぐぞ!」


「はい、姉さま!」


「分かっているわよ」


 既に尋常ではない事態が始まっている。その事実に目を見開いたアイリスディーナ、シーナ、ソミアの3人が、反射的に飛び出して穴の中へと飛び込んでいく。


「狐、急ぐぞ!」


「はいはい。分かっとりますよ、筋肉ダルマはん!」


「ちょ、ちょっと、2人とも待ってよ~!」


 3人の少女に続いてマルス、フェオが穴の中へと飛び込み、ティマも置いて行かれまいと慌てて後を追う。


「ミムル! 早く!」


「りょうか~い! トムはしっかりつかまっていてね!」


「ちょっ!」


 さらにミムルがトムを抱えて突入。気が付けばゾンネが止める間もなく、その場にいた全員がアゼルの封鎖世界へ飛び込んでしまっていた。

 ちなみに、ミムルはトムをお姫様抱っこの状態で突入していった。


「ああこら! お嬢さん達、待ちなさい!」


 最後に、慌てた様子でゾンネが後を追う。

 やがて開けた場所に出てきたアイリスディーナ達。

 だが自然に広がった広場ではなかった。

 周りには半ばからへし折れた大木が散乱し、地面にはあちらこちらに抉られた跡がある。

 強烈なエネルギーの放出の所為だろうか。倒れた木々の中には黒焦げて炭化してしまっているものも見受けられる。

 まるで極炎の竜巻が荒れ狂ったような光景。

 明らかに人間が起こしたと思えるような惨状ではなかった。


「これは……」


 一瞬言葉を失うアイリスディーナ達。その時、視界の端に紅色の何かがが映り込んだ。

 一体なにかとアイリスディーナが覗き込むと、倒れた木々の隙間に、リサが苦しそうに表情を歪めてうずくまっていた。


「っ!? リサ君、大丈夫か?」


「うう、ごほ、ごほっ!」


 リサが咳き込むと同時に、彼女の口から赤い液体が舞い散る。

 顔色は土気色で、血の気が全くない。明らかに重症だった。


「いけない! すぐに治癒を!」


「う、うん!」


「分かったわ」


 マルスとフェオがリサの体を木の隙間から運び出し、アイリスディーナ、ティマ、シーナの3人がかりで回復魔法をかける。

 穏やかな光がリサの体を包み込む。しかし、リサはピクリとも動かなかった。


「ダメ、効果がほとんどない!」


「くっ……内臓をやられているのか? かなり衰弱している!」


 土気色のまま変わらないリサの顔色に、アイリスディーナ達が焦燥の声を漏らす。

 内臓を深く傷つけてしまったのか、予想以上に生命力を失ってしまっていた。

 回復魔法は、怪我人の生命力を活性化させて傷を癒すが、本人が弱ってしまっていては十分な効果を得られない。

 このままでは傷が治るよりも先に、リサが衰弱死してしまう。

 そんな緊張が3人の間に満ち始める。そのとき、リサの口元がわずかに動いた。


「ん?」


「……め、ん」


 回復魔法が切れないように気を配りつつも、アイリスディーナは彼女のうめき声に耳を傾ける。


「ごめ、んなさい……ノゾ、ム」


 聞こえてきたのはノゾムヘの謝罪。

 意識を失い、命の危機に瀕しながらも、彼女はただひたすら、かつての想い人への言葉を口にし続けていた。


「信じて、あげられなくて……ごめ、んなさ……」


 風のせせらぎよりもなお小さい彼女の懇願。その言葉にアイリスディーナはどうしようもなく心をかき乱される。

 まるで万力で心臓を締め上げられるような痛み。

 自然と口元は固く結ばれ、ともすればこの手でその土気色の顔を張り倒して罵声を浴びせたくなってしまう。

 同時に、そんな汚い事を考えてしまう自分自身に嫌悪感を抱く。

 先ほどまでノゾムの事だけを考えようとしていたのに、醜い嫉妬心はこんなにもすぐに心を侵してくる。

 アイリスディーナは自分の正面で同じように回復魔法を使い続けるシーナに視線を向ける。

 エルフの少女は悪化し続けるリサの容態に眉をひそめつつも、必死に彼女の体を癒そうと魔法を使い続けていた。

 その瞳には嫉妬や憐憫などの負の感情は一切ない。ただひたすらに、目の前の命を救おうと必死に足掻いている。

 そのあまりに純粋な姿に、感嘆し、同時に自分の矮小さを思い知らされる。


(相変わらず情けないな、私は……だけど)


 だが、彼女はもうその心に囚われたりはしない。

 目を閉じて深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


「ふう……」

 

 確かに、彼女は自分が醜い人間だと卑下してしまうときがある。シーナのように純粋に彼だけ想う事はできていないし、湧き上がるリサに対する憤りを、完全に抑えきることもまだできない。

 そんな自分の欲を自覚する度に、言いようのない劣等感に苛まれる。まるで自分が嫌悪していた、あの貴族(どうぞく)達のようだから。

 それでも目を閉じれば、瞼の裏には困ったように笑みを浮かべた彼の姿が思い浮かぶ。

 自分にとって、初めて心を許せた異性の男の子。それだけで胸の奥のざわつきが、すっと穏やかになっていく。

 気が付けば、胸の奥で淀んでいた泥はすっかり洗い流されていた。


「ゴホ、ゴホ!」


「っ!? まずい、脈が弱くなってきているわ!」


 咳き込んだリサの口から、再び赤いものが飛び散り、アイリスディーナの意識ははっと現実に舞い戻ってきた。

 緩みそうになっていた意識に渇を入れ、術式に全力で魔力を注ぐ。

 複雑な思いは確かにある。でも、今は彼女に生きてほしい。ノゾムのためにも。

 だがそんな彼女の想いを裏切るように、触れている手の平から、徐々にリサの体温は失われていく。


「くっ! しっかりしろ! こんなところで死んだらノゾムはどう思う! 再び彼を絶望の底に叩き落すつもりか!」


 懇願するように声を張り上げるが、彼女の命は確実に消えかけていた。

 自分達の力では助けられない。そんな意識に飲まれそうになったとき、おもむろに声をかけてくる人物がいた。ゾンネである。


「ワシが代わろう」


 ゾンネがアイリスディーナ達の間に割って入り、その手をかざす。

 展開される白色の魔法陣。老人の体からあふれ出した源素が魔法陣を介してリサの体に注がれていく。

 すると先ほどまで土気色だったリサの顔色に、徐々に赤みが戻ってきた。


「ワシの源素を直接生命力に還元して彼女に渡しつつ、内臓の傷を治しておる。これならあと数分で目を覚ますじゃろう」


「すごいな。爺さん……」


「彼女に死なれるわけにはいかんからのう。ところで、小僧はどこに……」


 隔絶した力量に、マルスが感嘆の声を漏らす。だがゾンネは特に気にした様子はなく、すぐにあたりを見渡し始めた。

 命を感じさせない、灰色の世界。ここにノゾムとアゼルがいるはずなのだが……。


「おおおおおお!」


 次の瞬間、灰色の森に絶叫が響いた。

 同時に突風が吹き荒れ、ズドンという轟音と共に地面が揺れる。


「くう!」


「なんや、地震か!?」


 さらに生い茂る木々の最奥から、目を焼くほどの光が迸った。

 その光を目にしたゾンネが、苦虫をかみつぶしたように表情をゆがめる。


「……龍封じの結界が発動したようじゃ」


「アゼルって奴がか?」


「いや、これは……」


 龍封じの結界の発動。ゾンネの言葉を信じるなら、それはノゾムがアゼルに拘束されたことを意味する。

 アゼルの目的がティアマットの封印なら、ノゾムもただでは済まない。

 いよいよ切羽詰った状況に、アイリスディーナ達の顔には濃い焦りの色が浮かんでいた。


「アイリスディーナさん達はノゾム君のところ行ってあげて。リサさんはお爺さんと僕が看ておくから」


「トム君……」


「すまん。ワシはこのお嬢さんの治療が終わるまでは動けん。後数分、何とか時間を稼いでおくれ」


「で、ですけど……」


 先に行くよう促すトムとゾンネの言葉。

 アイリスディーナは一瞬迷ったように、倒れこんでいるリサに視線を向けた。

 だが直ぐに顔を上げると、真っ直ぐに森の奥に目を向ける。


「……わかった。彼女をよろしく頼む。ソミア、君はゾンネ殿と一緒にここにいるんだ」


「で、でも……」


「今回はアンリ先生がいない。ここに残るほうが安全だ」


 若干の迷いと焦燥を胸に抱きながらも、アイリスディーナはソミアを言い含めると、光が見えた森の奥を見据えながら立ち上がった。


「ミムル、無茶しないようにね」


「分かってるよ。大丈夫!」


「マルス君も……」


「ああ、勝算のない無茶はしねえよ」


「お嬢さん、これを持っていってくれ」


「え? きゃ!」


 駆け出そうとするアイリスディーナの背中から、ゾンネが何かを放り投げてきた。

 とっさにキャッチしたものを確かめてみると、それは石英のように透き通った六面体の結晶だった。

 表面には幾何学的な文様がびっしりと彫り込まれており、その文様はなんとなく、目の前の老人が使う、多重陣の術式によく似ている。

 

「これは?」


「なに、お主達の身を守るための護符……のようなものじゃ。小僧を止めようとしてアゼルがちょっかいを掛けて来たら、彼女めがけて放り投げるとよい。多少は時間が稼げるはずじゃ。アゼルは幼い娘じゃが、その力は決して無視できるものではない。お守りのようなものじゃが、無いよりはマシじゃよ」


「本当に効果はあるのか?」


「ワシの魂の一部を使っておるからの。急ごしらえの品じゃが、効果はある程度保障するぞ」


「魂の一部って……大丈夫なのか?」


 大丈夫ではない。精霊という括りにはあるならば、人間に比べれば大丈夫かもしれない。しかし、彼らもまた己の魂に根源を根ざす者達だ。

 己の魂を分割し続ければ能力だけでなく、記憶にも障害が現れる。そして、最悪は自我すら失い、ただ彷徨だけの存在へと成り果てる。

 だがゾンネは、それでもいいと言うように首を振った。


「今更ワシ自身が信頼されるとは思わぬが、それでも誠意は見せねばならん。その為ならこの程度、迷う事ではないわい」


「……分かりました。リサ君をよろしくお願いします」


 アイリスディーナは神妙な表情で、渡された護符を握り締める。

 色々と思うところはあるが、少なくともこの老人は真摯な思いでアイリスディーナたちと向き合おうとしている。

 ならば、自分達は自分達に出来ることを精一杯成そうと、改めて心に誓った。


「それと、龍封じの結界はその特性上、内向きへ干渉する力を限界まで高めておる結界じゃ。半面、外からの干渉には意外と脆い。その護符を上手く使えば、小僧にかけられた龍封じの結界も崩せるじゃろう」


 ゾンネの忠告に頷くと、アイリスディーナ達は森の奥へと迷いなく駆け出した。

 これから先にいるのは、あの老人と同じ、人知を超えた力を持つ伝説の存在。いつも以上に荒くなる息を押し殺しながら、アイリスディーナ達はノゾムの元へと急ぐ。

 叩きつけてくる小枝を無視して足を進めると、やがて開けた場所に出てきた。

 

「あれは……!」


「ノゾム!?」


 彼女達が見たのは、両眼を紅く染めたまま白い光に拘束されているノゾムと、片翼を引き裂かれ、体に裂傷を刻まれた白き龍。そして輝く結晶が、睨み合うノゾムとアゼルの間に割り込むように浮かんでいる光景だった。

 ノゾムの紅く染まった瞳を見た瞬間、アイリスディーナ達の背筋にイヤな予感が走る。


「ノゾム!? いや……この殺気は……」


 脳裏に浮かんだのは、以前ティアマットに意識を飲まれかけたノゾムの姿。目についたもの全てを葬ろうと凶刃を振り上げていたその光景を思い出し、アイリスディーナ達は思わず立ち止まってしまう。

 さらにノゾムの体から周囲へ無差別に放たれる殺気と、背筋に氷の矢を突き立てられたような寒気が、アイリスディーナたちの不安を更に煽っていた。


「おおおおおおおおおおおおおおお!」


 大気を震わせるような絶叫と共に、ノゾムの体から膨大な気が放出される。

 まるで火山を思わせる灼熱の気。しかし、噴出した力はすぐさま四散してしまい、彼を拘束している陣にはまるで影響がない。

 さらに拘束されているノゾムを睥睨していたアゼルの体から、白く輝く源素が噴出し、宙に浮かぶ水晶へと流れ込んでいく。

 同時にノゾムを拘束していた陣の放つ光がさらなる光を放ち始める。

 なにやら不穏な気配。同時に中に浮かぶ水晶を中心に全天を覆うほどの魔法陣が展開され、ズズズ……と地下を這いずり回るような地鳴りが響き始めた。

 背筋を虫が這うような悪寒に急かされ、アイリスディーナは気がつけば魔力を練り上げながら大声を張り上げていた。


「ちょっと待ちなさい!」


 響き渡る大声と共に十数発の魔力弾と気弾が、アゼルの背中めがけて殺到した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 7章はティアマットがテーマなんですね。ようやく話のがつかめてきました。となると、今後ミカエルも出てきて大激突って感じですかね。予想を裏切り話の展開に期待です。
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