第7章第19節
視界を塗りつぶすほどの光が収まっていく。
ノゾムがゆっくりと瞼を開くと、目の前にはアルカザムの外縁部ではなく、鬱蒼とした森が広がっていた。
「……ここ、どこ?」
木の葉の隙間から差し込む光が差し込み、辺りにはむせ返るような木々の匂いが満ちている。
先ほどまで外縁部にいたはずなのに、気がつけば森の中。訳がわからない状況に、リサが困惑の声を漏らす。
「多分、アルカザム郊外の森だな……」
茫然とした表情で辺りを見回すリサ。
ノゾムは冷静に周囲の環境から、自分たちの置かれた状況を把握しようと試みていた。
「分かるの?」
「ああ、あそこに……」
ノゾムが指さした先には、倒壊し、ボロボロになったテントや木組みの柵などが散乱していた。以前アビスグリーフによって全滅させられた、ゴブリンの集落跡である。
「でも、どうやってこんな一瞬でこんな場所まで……」
「信じられないけど、多分、空間転移魔法……。ただの人間が使える魔法じゃない」
ノゾムの指摘に、リサが目を見開く。
空間転移魔法を使える人間は現在この大陸には存在しない。
古き時代に魔法として存在していることは確認されているが、古びた遺跡にその痕跡が辛うじて存在する位だ。当然、解明などされてはいない。
その時、ガラリと瓦礫が崩れる音があたりに響いた。
音のする方に視線を向けると、ノゾム達をここに連れてきたアゼルが、憤怒の瞳でノゾムを見下ろしている。
「ここがお前の墓場だティアマット。その汚れた魂、二度とこの地に出てこれぬよう、永遠の闇に落としてやる」
散乱する家屋の残骸。その前で白髪の少女は、殺意に満ちた瞳でノゾムを睨みつけながらそう宣告した。
ノゾムがギリッと奥歯をかみ締める。
やはり、目の前の少女はノゾムの秘密を知っている。ならば、間違いなくゾンネも関わっているだろう。
「ティア、マット……?」
ノゾムが一気に警戒を高めた一方、リサはアゼルが口にした名前に困惑の表情を浮かべていた。
嵐のような展開と、唐突に突きつけられ続ける言葉に、理解が追いつけずにいるのだ。
「一体、彼女は何を言って……」
思わずノゾムに声をかけるリサ。しかし、彼女の言葉は苦しそうに顔をゆがめたノゾムに止められてしまった。
「……ノゾム?」
「ぐっ……!」
奥歯をかみ締めるように引きつった表情を浮かべていたノゾムだが、なにやらその様子がおかしい。
突然吹き出た汗と真っ青になっていく顔色。
その尋常ではない様子に、リサは思わずノゾムに駆け寄った。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ!」
何かに堪えるように、きつくかみ締められた口元。ノゾムの足はガクガクと震えており、ついには耐え切れずに膝を突いてしまった。
「はあ、はあ、はあ……」
荒い息が断続的にノゾムに口から漏れ出している。
事情を詳しく知らないリサは知る由もないが、アゼルの姿を見た瞬間、ティアマットがノゾムの体を食い破ろうと暴れ始めていた。
“ギギギ……。グガアア……”
耳元に響く怨嗟の呻き声。全身をムカデに蝕まれているような不快感を伴う痛みが襲い、頭の中をかき回されるような頭痛にさらされ続ける。
胸の奥から湧き出る激情。
それが自分のものではないと理解しつつも、あまりに強大な憎悪の激流は、ノゾムのちっぽけな理性をまるで水面に落ちた落ち葉のように容易く翻弄する。
「くそ……」
それでもノゾムは、押し流されそうになる憎悪の激流に、必死で抗い続けていた。
血が流れるほど唇をかみ締め、真っ白になりそうな意識に活を入れる。
「では、手早く終わらせることにしよう」
アゼルがそう宣言しながら、右手を高々と掲げた。
同時に、彼女の体から白い光が滲み出る。
ただの光ではない。魔力でも気でもない。それは始原の力たる源素の光。
精霊種しか持ちえぬ力の顕現に、ノゾム達の表情が引きつる。
滲みだした光はそのまま上空へと打ち上げられ、全天を覆う。同時に、ノゾムの周囲の景色が色褪せ始めた。
緑豊かな木々から色素が抜け落ち、土がまるで灰のように白くなっていく。
頬を撫でていたはずの風も消え去り、生暖かい無風の空間がノゾムを包み込んだ。
「これは……。一体……」
「結界で貴様の周囲の空間と位相をずらし、精霊との縁を断絶した。これでいくら暴れても現実世界では草木一本つぶれない。そしてお前の悲鳴はおろか、あの妖精の縁もここには届かない」
その言葉にノゾムとリサは息を飲む。
結界魔法は防御だけでなく、防音や気配遮断など、様々な術式が存在するが、精々ある指定された空間にある効果を付与する程度でしかない。
だがアゼルが言い放った効果を真実とするなら、ノゾムとリサだけがまったくの異空間に引きずり込まれたのと同意である。到底、2人の知識の中で、そのような魔法は聞いたことがない。
そして再び、アゼルの体が白い光が立ち昇る。
噴出した源素の光は中を舞い、複雑な多重陣を形成。
都合3個の陣が互いに絡み合いながら、その中心点に白い光が収縮し、形を成していく。
形成されたのは、白光で作られた巨大な銛。その切っ先が膝をついたノゾムへと向けられ、勢いよく放たれた。
「くっ!」
リサがとっさにノゾムを強く押し出す。その反動でリサの体も僅かにノゾムから離れ、その隙間を光の銛が勢いよく通過していった。
通過した光銛は2人の後ろにあった木に着弾し、閃光とともに強烈な爆風を周囲に撒き散らす。
「きゃあああ!」
「ぐあああ!」
爆風にもみくちゃになりながら、吹き飛ばされるノゾムとリサ。
リサは宙に投げ出されつつも、空中でくるりと体を捻り、鮮やかな着地を見せる。
ノゾムもまた全身に走る痛みを無理やり押さえ込みながら、何とか受身をとって立ち上がった。
「はあ、はあ……。君は、何者だ? あの爺さんの関係者か?」
「知る必要もないし、話す気もない」
問答無用。そんな言葉を体現するように、再び少女が多重魔法陣を展開する。
少女の頭上に展開された6重の魔法陣に光が集まり、無数の光矢となって上空に打ち出される。
打ち上げられた光の矢は空中でくるりと方向を変えると、その切っ先をノゾムに向けたまま、一斉に降り注ぐ
「うお!」
降り注ぐ光矢の群れ。ノゾムは全身に走る痛みを無理矢理抑え込み、眼を見開いて襲い来る矢の軌道を一瞬で見切る。
同時に即座に気を高め、瞬脚を発動。その場から飛び退きつつ、当たりそうな光矢に刀を振るう。
「ぐう!」
光の矢は見た目以上に重く、刀を沿わせるたびに鉄槌で打たれたような圧力がノゾムの腕に掛かる。
命中しなかった矢も深々と地面に突き刺さり、土砂を巻き上げてノゾムの視界を塞ぐ。まともに食らえば柔らかな人間の肉体など、ズタズタの肉片にされてしまうだろう。
元々ノゾムは正面から打ち合う事はしないからこそ直撃は免れたが、それでも予想以上の威力に体勢を崩しそうになってしまう。
ぐらりと状態が傾き、地面が目の前に迫る。そこに他の矢がノゾムめがけて殺到した。
「……ふっ!」
尋常ではない威力の光の矢。しかし、ノゾムの技量もまた尋常ではない。
ずれそうになる体の重心をすぐさま修正。絶妙なバランス感覚で体の動きをコントロール下に戻すと、体を回転させながら即座に状況に対応した。
地面に倒れかけたような体勢のまま、ノゾムは迫りくる光矢を上から打ち落とすように刀を振り抜く。
撃ち込んだ斬撃の反作用でノゾムの体が僅かに浮かび、つい先程ノゾムの体があった空間を、アゼルの光矢が勢いよく通過。その刹那にノゾムは完全に体勢を立て直す。
更にノゾムは後ろに飛び退きつつも刀を振るい、的確に矢の軌道をそらし、同時に避けていく。
ジハードとの模擬戦で身についた、相手の攻撃力を回避に繋げる妙技。それがこの場でもしっかりと活かされていた。
「……存外にしぶとい」
だが、目の前の少女もまた只者ではない。
自分が放った光矢を捌ききったノゾムの姿に眉をひそめつつも、即座に魔法陣を再展開。先ほどと比べても倍の光矢を作り出し、再びノゾムめがけて打ち放つ。
「くっ!」
更に気を高め、光矢をさばき続けるノゾム。
瞬脚-曲舞-を使い、回避と迎撃を同時にこなしていくが、アゼルが率いる光矢の軍団は、あまりに多勢であった。
「ノ、ノゾム!」
一方的に押し込まれるノゾムを前にして、リサが切羽つまった声を漏らす。ノゾム以上に目の前の事態に混乱しているリサだが、ノゾムの危機を前にして反射的に詠唱を唱え、術式を構築していた。
リサが最も得意とするのはアイリスディーナと同じく、剣と魔法を併用した接近戦。しかし彼女は今自分の得物を持ってきていない。
故に、魔法でノゾムの援護をする程度しかできなかった。
リサの手に炎弾が出現。彼女のアビリティ“ニベエイの魔手”によってその威力を倍加された炎弾は即座に肥大化。そのまま彼女はアゼルめがけて巨大化した炎弾を放とうとするが……。
「邪魔だ」
「きゃあ!」
しかし、リサが炎弾を放つよりも早く、アゼルが機先を制してリサの魔法を潰しにかかった。
放とうとした炎弾に光の矢が突き刺さり、爆発。
至近距離で威力の増した炎弾の爆発に巻き込まれたリサは、炎に巻き込まれながら吹き飛ばされてしまう。
「う、うう……」
吹き飛ばされ、体を地面にしたたかに打ち付けてしまったリサが苦悶の声を漏らす。
そんなリサに、アゼルは目もくれない。
「人間の女、お前に用はない。おとなしくしていれば危害は加えないが、次に手を出したら問答無用で殺す」
「リサ! くそ!」
目の前で吹き飛ばされたリサの姿に、ノゾムは自分の視界が真っ赤になっていくのを感じた。
それでも、この機会を逃すわけにはいかない。
ノゾムは悔しさに奥歯を軋ませながらも、アゼルの意識が一瞬リサに向いた隙を見逃さずに突っ込んだ。
「ちっ!」
アゼルがすぐさま光矢の軍団をノゾムに向かわせる。
目の前の視界いっぱいに広がる光の群れ。しかし、ノゾムは減速するようなことは一切せず、さらに加速しながら一気に踏み込んでいく。
「おおおおおおお!」
裂帛の気合いと共に、ノゾムは己の刀に気を叩き込む。
東洋に伝わる幻の妖刀に極限の刃が付与され、流麗な輝きを放つ。
同時にノゾムの視界が色褪せ、迫りくる光矢たちの動きが緩慢になる。
「せい! せい! せい!」
ノゾムが迫りくる光矢の群れに踏み込みつつ、手に持った極刃を振るう。その度に光矢は真っ二つに切り裂かれ、空しく四散。
さらに瞬脚-曲舞-を発動。素早く光矢の群れの間をかき分けながら、一気にアゼルとの距離を詰める。
「む……」
「はああああ!」
ついにアゼルを刃圏に捉えたノゾムは刀を振り上げる。
アゼルはノゾムの斬撃に対し、多重陣による障壁を展開。4重の障壁で真っ向からノゾムの斬撃を受け止める構えを見せた。
その表情は相変わらず冷徹で、全く変化がない。よほど自分の障壁に自信があるのか、それとも単にノゾムの力量を大したことがないと踏んでいるのか。
とはいえ、ノゾムにとってはそんなアゼルの心情など気にしている余裕はない。
展開した障壁の密度と枚数から、相手の力量があのルガトと同等以上であることは間違いないのだから。
ノゾムの目の前には、以前アイリスディーナの屋敷で戦ったルガトを彷彿とさせる多重障壁がある。障壁の強度も、それ相応の強固なものだろう。
幼さを垣間見せる少女の外見からは正反対の圧倒的な実力。だがノゾムは構わず、手にした極刃を袈裟懸けに振り抜ぬいた。
「でえええい!」
ノゾムの“幻無”がアゼルの障壁を切り裂き、障壁の一枚が術式を完全に断ち切られて霧散する。
確かに強力な障壁ではある。
しかしノゾムは、この程度なら幻無で切り裂けることは、ルガトとの戦闘で理解していた。
「っ!?」
己の障壁がノゾムに砕かれたことにアゼルは一瞬目を見開く。
障壁は残り3つ。ノゾムは再び刃に気を込めると、すばやく刀を斬り返して2枚目の障壁を斬り砕いた。
そのまま気刃を維持しながら、3枚目を切り裂こうとする。
「生意気な……」
不快そうに眉を顰めたアゼルが、掲げていた手で空を切る。すると、霧散していた源素が再びアゼルの元へと集まり始めた。
「なっ!」
ノゾムが驚きの声を漏らす。彼の眼前で先程斬り砕いた障壁が次々と再生を始めた。
だが、考えてみれば不思議ではない。目の前の少女が何者か分からないが、彼女が行使しているのは間違いなく精霊魔法の類だ。
ノゾムもシーナの精霊魔法を間近で見ていたからこそ分かる。あの魔法は精霊との契約を行ってしまえば、魔法に必要な詠唱も陣も必要ない。
「くっ!」
次々と再生を始めた障壁に唇を噛み締めながらも、ノゾムは刀を振るい続ける。
繰り返される破壊と再生。
気術“幻無-纏-”を使い続けるには、多大な集中力と気の制御力を要する。おまけに、気による身体強化もどんどん限界に近づいていく。
一方、アゼルはただ精霊達に命じて障壁を張り続ければいい。傍から見ればノゾムが攻め込んでいるように見えるが、どちらが優勢かは一目瞭然だった。
「あまり時間もかけられない。もうひとつ手を加えるか……」
この上、更にアゼルが一手を講じた。
アセルの手がもう一度空を切る。するとアゼルの眼前に展開されていた障壁が、僅かに光を放った。
一体何を考えているのか。ノゾムは頭の中に引っ掛かりを覚えながらも、気の刃を付与した刀で眼前の障壁を斬りつけた。
先程と同じように、真っ二つに切り裂かれる白の壁。しかし次の瞬間、砕け散った障壁が霧散せず、そのまま刃となってノゾムに襲い掛かってきた。
「っ!?」
叩きつけられる白刃の群れ。全身を切り裂かれる痛みに、ノゾムは思わず顔をしかめた。
「はああああ!」
だが傷自体は浅く、体の動きには問題ない。
ノゾムは攻勢防壁と化したアゼルの障壁を前にしても、かまわず刀を振るい続ける。
2撃、3撃とノゾムが斬撃を繰り出すたびに、砕けた障壁がノゾムに牙を向く。
砕けた障壁で負う傷は浅く、所詮摺り傷程度。しかし、それが重なり続ければ話は別になる。
何回も何十回も砕けたガラスのような障壁の破片を浴びるうちに、服はぼろぼろになり、あちこちから血が滲んでくる。
「ぐう! くそ!」
それでもノゾムは、刀を振るうしかなかった。ここで手を止めれば、一方的に蹂躙される事が分かりきっているから。
だが、このまま攻め続けても攻めきれない事も事実。所詮、このままでは時間稼ぎでしかなかった。
「くっ! このままじゃジリ貧だ……」
攻めきれないこの状況を打開するには、能力抑圧を解放するしかない。
だが、ノゾムが自身を縛る鎖を破壊するには、僅かな間が必要になる。そして今少しでも手を止めれば、その隙をアゼルは見逃さないだろう。
相手が未だ何者か分からないが、底知れない力を持つことだけは感じていた。
だがそれ以上に、ノゾムを不安にさせているのが、未だに胸の内で暴れ続けるティアマットだった。
“グガア! ギギギギッギギギギ!”
奥歯を軋ませるような呻き声とともに、ノゾムという檻を破ろうとする黒龍。以前から何かとノゾムを陥れようとしていたが、その声にはどこか言いようのない悲しさも混ざっていたような気がしていた。
しかしノゾムがアイリスディーナたちとのすれ違いを経験し、リサを痛めつけるという選択肢を捨て去ってから、ノゾムに対するティアマットの殺意はさらにその密度を増している。
そして目の前の少女や、アゼルの姿を見てからは、それこそ全てを滅ぼさんばかりに怒り狂っていた。
その事実がノゾムに二の足を踏ませる。
「……くそ! 考えている場合じゃない!」
そんな己の懊悩を、ノゾムは無理やり押さえ込む。
このままではジリ貧になる事は眼に見えている。ティアマットからの干渉が続く中で能力抑圧の解放がどんな事になるかはわからないが、このままではなぶり殺しになるだけだ。
ならどんなに小さな可能性でも、賭けてみるしかないだろう。
ノゾムの視界の端に、倒れ伏したリサの姿が映る。
脳裏によぎる僅かな引っ掛かりを押しのけ、ノゾムは左手で己を縛る不可視の鎖に手をかけた。
そのまま鎖を引きちぎろうと力を込める。その時、アゼルの口元が僅かに釣りあがった。
「かかった」
「っ!?」
ノゾムが鎖を手にかけた瞬間、アゼルの前面に展開されていた障壁が、閃光とともに全て炸裂した。
一方向に鋭利な刃を撒き散らせながら、炸裂した爆風がノゾムを包み込む。
「がああああ!」
爆風にもみくちゃにされ、鋭利な刃で全身を切り裂かれながら吹き飛ばされるノゾムの体。
十数メートルほど吹き飛ばされたノゾムは、木の幹にぶち当たり、地面へ投げ出される。
「これで、終わり!」
「ぐうう、がはっ……」
アゼルが止めを刺そうと、再び巨大な光の銛を作り上げ、その切っ先をノゾムに向ける。
地面に叩きつけられたノゾムは必死に体を動かし、逃れようとするが、衝撃で痺れた体では満足に動けず、その場に膝を突いてしまう。
この状態では満足に回避は出来ないと判断し、ノゾムは何とか腕に力を込めて己を縛る鎖を引きちぎろうとする。
だがアゼルの方が、明らかに行動が早かった。
彼女が掲げた手を振り下ろすと、光の銛はノゾムめがけて勢いよく射出される。
「ぐぐうう!」
何とか直撃だけは避けようとノゾムは必死に体を捻るが、明らかに間に合わない。
しかし次の瞬間、横合いから打ち込まれた炎槍がアゼルの光の銛に直撃。爆炎を撒き散らせながら、光銛をあさっての方向へ吹き飛ばしていった。
「なっ!?」
驚きの表情で硬直するノゾム。思わず炎槍が飛んできた方向に目を向けると、全身から魔力を滾らせ、紅い髪をなびかせた少女がアゼルめがけて一直線に突っ込んでいた。
リサは全身の痛みに顔をしかめながら、ノゾムとアゼルの戦いをただ見守る事しか出来なかった。
満身創痍になりながらも刀を振るい続けるノゾムの姿に、リサの瞳から自然と涙がこぼれていく。
傷つけられていくノゾムの姿。それが彼女の罪を否応にも思い起こさせ、彼女の体を無力感で蝕んでいく。
この場合、彼女は単純にノゾムの事情に巻き込まれただけなのだが、傷ついていくノゾムの姿そのものが、リサにとってはどうしようもないほど胸をえぐられる光景だった。
「く、うううう……」
次から次へと零れ落ちていく涙が、灰色に染まった地面に落ちていく。
そんな時、リサの脳裏に浮かんだのは、呆れたような表情で見下ろしてくるエルフの少女の言葉だった。
“まったく、あなたもバカじゃないの?”
リサの学園での評判が一気に落ち込み、不逞の輩に乱暴されそうになった事件。
ノゾムへの罪悪感と自責の念から、抵抗の意思を放棄しそうになっていた彼女を諌めたのは、同じようにノゾムを想う、彼の今の仲間達だった。
“ノゾムが自分を罰してくれないから、せめて私達に責められたかった……ってところかしら?”
シーナと呼ばれていた蒼髪のエルフの少女は、リサの内心を見透かした上で、呆れたように嘆息していた。
一方、激情でもってリサを叱り飛ばしたのは、普段そのような言動とは無縁に見える、凛とした黒髪のクラスメート。
“ふざけるなよ!? 言いたいことなど山のようにあるに決まっているだろう!”
荒々しく胸倉を掴み上げ、まくし立てる彼女の姿は痛々しく、そして何よりも悲壮感に満ちていた。
“だがそれを言ってどうなる!? それを言ったとしてもノゾムが目覚めるわけじゃない! それに……”
そこまで言って押し黙ったアイリスディーナ。
彼女としては、思わず漏らしてしまった不慮の言葉。しかし、リサにとっては自分の目を覚まさせるきっかけともなった一言だった。
彼女はどれだけ彼を想い、どれだけ心配し、どれだけ心を締め付けられていたのだろうか。
思い浮かぶ、寝たきりのノゾムの姿。その光景を思い浮かべるだけで胸がつまり、息が苦しくなる。
“これ以上、彼を裏切りたくないでしょう?”
リサの脳裏によぎる彼女達の言葉。
ノゾムを散々傷つけた自分。だからこそ、彼女はこれ以上ノゾムを傷つけたくない。
そして願わくば、もう一度彼の背中に手を伸ばしたい。
今、その資格が自分にないのは分かっている。彼の中にはもう自分への想いはないのかもしれない。それでも、少しでも彼の近くに……。
だがこのまま何もしなかったら、これほどまでに自分を想ってくれた本当に彼に何も返せない!
「っ!」
力が抜け、冷たくなってしまった体の奥から、信じられないほどの熱がこみ上げる。
リサは想いっきり自分の頬を叩くと、一気に全身の魔力を高め、練り上げ始めた。
「来たれ、天空を貫く紅の刃……」
アゼルの意識は今、完全にノゾムに向いている。リサを気にする様子は微塵も見られない。
2人に気づかれないように魔力を高めながら詠唱を続け、機会をうかがう。
下手にここで魔法を放っても、ノゾムの邪魔にしかならない。むしろ魔法耐性の低いノゾムを傷つけてしまう公算のほうが大きかった。
得物を持たない今のリサでは、出来ることは限られている。ノゾムの方もなにやら様子がおかしく、ケンと戦ったときのような超常的な力を使っていない。
少女のような外見からは想像も出来ないほど強力で、異質な力を行使するアゼルの虚を突くには、絶対に気取られるわけにはいかなかった。
そして、そのときが訪れた。
「がああああ!」
至近距離で炸裂した魔法障壁に吹き飛ばされたノゾム。勢いよく木の幹に叩きつけられた彼の動きが一瞬鈍る。
「ノゾ……っ!」
彼の名を叫びそうになり、必死に声を押し殺す。その視線の先で、アゼルが隙と逃すまいと、巨大な銛を作り上げ、切っ先をノゾムに向けた。
「っ! 今!」
抑えていた魔力を一気に開放。リサの右手に真紅に輝く槍が出現する。
同時に、アビリティ“ニベエイの魔手”が発動。出現した炎の槍が、一気にリサの身長程に巨大化する。
リサは倍加した槍を掲げ、一気に投げつけた。
“紅蓮の投槍”
飛翔した真紅の槍は、ノゾムを貫こうとしていた光の銛に直撃。耳をつくような炸裂音とともに、光銛の軌道を逸らす。
リサはさらにもう1つ魔法を発動。身体強化を全力で己にかけ、一気にアゼルめがけて踏み込む。
「あああああああ!」
「っ! 邪魔をするな!」
アゼルが踏み込んできたリサめがけて、苛立ち紛れに光矢の雨を見舞う。
驟雨のごとく叩きつけられる光の雨に飲まれていくリサ。吹き飛ばされた彼女の体が、立て続けに響く炸裂音とともに、舞い上がる土砂の中から放り出される。
「く、がは……」
苦悶の声を漏らしながらうずくまるリサ。
先程とは違い、ピクリとも動かない。明らかに様子が可笑しい事が手に取るようにわかる。
その光景を見た瞬間、ノゾムは頭の中が真っ白になった。
「っ! てめえええええ!」
ノゾムは手にかけていた不可視の鎖を無理やり引きちぎる。
自らを拘束していた枷がはずれたことで、彼の体から膨大な嵐のような気が一気に放出された。
直後、爆発的な轟音とともに、ノゾムが瞬脚を発動。まるで獣のようにアゼルめがけて襲い掛かった。
「ちいい!」
あまりの加速にアゼルが一瞬眼を見開くが、すぐさま展開していた障壁にありったけの源素を注ぎ込む。
眩いばかりの光を放つ多重障壁。だが、ノゾムはかまわず、膨大な気を注ぎ込んだ刀を一気に突きいれた。
強度を増した魔法障壁2枚を紙のように貫きながら、刃の切っ先がアゼルめがけて突き進む。
「ち、これほどまでに能力が上がるのか……、だが!」
斬り砕いたはずのアゼルの障壁が、一瞬のうちに再生された。どうやら再生速度も桁違いに増しているらしい。
次から次へと生み出される障壁が、ノゾムの針路を阻み続ける。
貫く、展開、貫く、展開……。
刹那の間、ノゾムの刃は何度も針路を阻まれながらも、突き進み続ける。
だがその切っ先は、後一枚というところで止められてしまった。アゼルが手を振り上げ、ノゾムの頭上に無数の光矢を形成する。
「これで終わ……っ!?」
勝利を確信したアゼル。しかし次の瞬間、ノゾムの気刃が炸裂。全てを貫く矛となって、アゼルめがけて襲い掛かった。
気術“芯穿ち”
ノゾムが打ち込んだ気矛はアゼルの魔法障壁を一瞬で貫いて炸裂。無数の気刃はアゼルを飲み込み、そのまま進行方向上の森をごっそりと抉り取った。
「はあ、はあ、はあ……」
灰色の森の中に静寂が戻る。
砕かれ、塵となった木片が漂う中、ノゾムは疲労から背を丸めて荒い息を吐いていた。
ノゾムとしてもかなり限界が近く、正直こうして立っているだけでも億劫だった。だが、そんなノゾムを更に追い込むような事態が発生する。
芯穿ちの余波で舞い散る煙。その中から、突然ぽつぽつと光の粒が立ち昇り始めた。
粉雪のように舞い上がる粒はやがて渦を巻きながら一点に収縮。集まった光は徐々に膨らみながら、徐々に形を成していった。
大理石を思わせるスラリとした四肢。繊細さと力強さを兼ね備えた手足が大地を踏みしめ、背中から広がる翼が天を覆う。
体を覆う滑らかな鱗は、さながら雪のような純白。その瞳には獣とは明らかに違う理性と、そして殺意が覗いていた。
白龍。
ティアマットと同じく、伝説の中に消えていった種族がそこにいた。
「たかが人間と思っていたけど、まさかこの姿を晒すことになるなんて……。だが、これで終わらせる。満足に滅龍の力を使いこなせていない貴方に“私達”は倒せない」
ノゾムを見下ろしながら、絶対零度の視線を向けるアゼル。だがノゾムは背筋が凍えるほどの殺意を、煮えたぎる怒りで押し返していた。
刀を構え、目の前の龍を睨みつける。
気がつけば、ノゾムの双眼が紅く染まり始めていた。
「「……殺す」」
全身から殺気を振りまきながら、ノゾムは淡々と宣言する。己の内なる存在と重なるような、奇妙な声と共に。