第7章第12節
ソルミナティ学園内に設けられたジハードの執務室で、3人の男女が対面していた。
白衣に身を包んだ女性と、パリッとした服に身を包んだ初老の男性。そして凛とした金髪の貴族の男性。
3人の目の前には大人でも一抱えするほどの水晶球が置かれ、そこには刃を交えるジハードとノゾムの姿が映し出されていた。
信じられないほどの速度で切り結ぶ両者。彼らが一太刀振るうたびに大気が裂け、地面が悲鳴を上げていた。
そして、ジハードの最後の一撃が放たれる。
腰だめに構えた鞘から、ノゾムが一気に刀を引き抜く。
次の瞬間、あらゆるものを粉砕しながら突き進む極太の気刃を、ノゾムが真っ向から断ち切る姿が映し出されていた。
「なるほど、確かに異様な力だ。ジハード殿が警戒するのも頷ける」
貴族の男性。ヴィクトルが顎ひげをさすりながら、納得した様子でつぶやいた。
「そうですね。特に最後の気術。あれはもはや学生レベルで放てる領域ではありません」
ヴィクトルの隣で、同じように水晶球の映像に見入っていた初老の男性、ハイバオ・フォーカも頷いている。
口調こそ平坦なものだが、その額にうっすらと浮かんだ汗が、彼の心情を物語っている。
「それ以上に、私は本人の刀術にも目を見張りました。ふむ……」
ヴィクトルはノゾムの力もそうだが、刀術にも興味を示したようだ。
口数少なく黙り込む彼に白衣の女性、ノルンが言葉をかける。
「いかがだったでしょうか」
「いや、確かに驚異的であります。この執務室でこれを渡されたときはまさかとは思いましたが……」
感嘆した様子で顔を綻ばせているハイバオ。彼の手にはジハード直筆の、ノゾムに関する報告書があった。
ノゾムが龍殺しである、という最重要項目もしっかりと記載してあった。また、その力を十分制御しきれていないという事も。
「それで、ノゾム・バウンティスについて、ご助力をいただけますか?」
ノルンがこの場で結論を迫るように言葉を投げかけると、ハイバオは仕方ないというように肩をすくめた。
「初めから、私達が断れない事を承知で言っているのでしょう?」
「はい、そうでなくてはこの映像を見せるわけには参りませんでしたから」
そう。ここまでのものを見せられては、協力しないという結論は出せない。
無視することは不可能だし、力ずくの排除などもっての外だった。
ノゾムの力を確認するついでに、その戦いぶりを見せてこちらに協力を促す。
そしてノゾムの力を見せるなら、その相手が出来るのはジハードくらいだという事実も教える必要がある。
ジハードは初めからこの流れを読んでいたからこそ、この場にいなくても大丈夫だと踏んだのだ。
「いいでしょう。アルカザム議会の議事長として、私は出来うる限りの援助をいたします。とはいえ、この情報は下手に漏らさぬほうがいいでしょう。詳しいことは、後日ジハード殿と直接話すとします」
その言葉に、ノルンは満足そうな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。ハイバオ殿。ヴィクトル殿はいかがですか?」
ノルンが先程から黙り込んでいるヴィクトルにも答えを伺った。
だが、ヴィクトルは何か引っかかる事があるのか、眼を細めてジッと水晶球を見つめている。
そこには、地面に座って手当てを受けたノゾムに手を差し伸べるアイリスディーナの姿が映し出されていた。
「……確かに、彼を重要視し、かつその本質を隠匿する事には賛成だ。彼の正体が公になったら、どのような混乱を招くか分からぬ。今日見せられたこの報告書も映像も、私の胸のうちに秘めよう。だが……」
「だが?」
「……いや、後はジハード殿に直接申すとしよう。今日のところは、お暇させてもらう」
ヴィクトルはおもむろに手を振って魔法を発動。手に持っていた報告書に火をつけると、執務室の暖炉に放り捨てた。
そしてあっという間に燃えていく報告書を一瞥すると、踵を返して執務室を出て行く。
「ふむ、なるほどそういう事ですか。ノルン先生、私も帰る事にします。今日見たことは私の心の内にのみ、秘めさせていただきます」
ヴィクトルの後ろ姿に何かを察したのか、ハイバオも小さく頷くと、手に持った報告書を暖炉に投げ捨て、ヴィクトルに続いて部屋を後にする。
ノルンは閉められた扉をしばらく眺めると、大きく息を吐いて肩を落とした。
「……やれやれ。ノゾム君も私達も、まだまだ大変そうだな」
小さくつぶやいたノルンの独り言が、静まり返った執務室に消えていく。
ノルンは報告書がすべて焼けた事を確認すると、水晶球を片付け、執務室を後にした。
静まり返ったジハードの執務室。そこには暖炉で燃え尽きた報告書の残り火のみが、暗闇に包まれた執務室を照らしていた。
ジハードとの模擬戦後、とりあえず今日の鍛練はこれで終了という流れになった。
さすがに今日は暴れすぎたということもある。
ノゾムはアイリスディーナ達から手当てを受け、ジハード達も持ち込んでいた魔道具を片付けていた。
ノゾムと刃を交えたジハードの感想は、出鱈目から始まり、とにかく要訓練の一言で締めくくられた。
「制御不能な力が能力抑圧で抑えられるという話は聞いた事は無いが、これからのノゾム君はその能力抑圧を自在に制御できるよう訓練する必要がある。
ノゾム君は今まで能力抑圧の効力を調整して、ティアマットの力を制御した事はないのか?」
「ティアマットの力をちょっとでも解放すると、能力抑圧自体が全部吹き飛んでしまうんです。なので、まったく使わないか、全力開放しか出来なくて……。
ただ最近、力を解放してもティマットからの干渉を受けづらくなっているような気もします」
チラリとノゾムが視線を逸らした先には、アイリスディーナ達が首をかしげていた
一方、ノゾムの話を聞いたインダは、口元に手をあてて考え込んでいる。
「無意識の内に、アビリティの効力を自己防衛に使っているのかもしれませんね」
「自己防衛、ですか……」
「ええ、誰でも殴られそうになると、とっさに手を上げたり眼をつぶったりといった反射的な防衛行動に出ます。それと同じようなものである可能性があります。ただ私は一介の人間のアビリティ程度で、ティアマットの力を封印できている現状そのものに疑問がありますが……」
インダの話では、他にも肉体的な保全では無く、なぜ精神の保全に偏っているのかというのも疑問らしい。普通なら両方を守ろうとするはずだ。
ノゾムがなぜティアマットの力を抑えこんでいられるのか。それについては彼自身も不思議に思ったことはあったが、結局考えても結論が出なかった。
ただ今までの出来事から、ティアマットを封じているという事実に能力抑圧が関係していると推察しただけ。
インダは、その現状にすら疑問を感じているようだったが。
「ノゾム君が寝込んでいる間に、私達も能力抑圧の文献を色々と調べてはみたが、このような前例は無い」
考え込んでいるインダの代わりに、今度はジハードが話に続く。
「とりあえず、ノゾム君にはこれから毎日能力抑圧を解放し、ティアマットと対面してもらおう」
「うえ!?」
ノゾムが思わず裏返った声を漏らす。
ティアマットとは、今まで夢の中などでそれなりに対面してきたが、自分から顔を突合せに行った事はほとんど無い。
そもそも、会うたびに殺されかけているのだ。死んだと思える回数も一度や二度ではない。
ノゾムとしては不安しかない提案だが、ジハードはかまわず話を続けていく。
「ノゾム君が取り込んだ力の持ち主はティアマットだ。その力の制御を学ぶなら、持っていた本人に聞くのが一番だろう。
それに聞いた話によると、ノゾム君が力を解放した回数はそう多くない。ある程度開放を続けていけば、力に体を馴染ませていく事もできるかもしれない」
一応、理屈は通っている。
ノゾムが取り込んだ力は元々ティアマットの物だし、体に馴染ませるために力の開放を行うという事もある程度納得できる。
とはいえ、ノゾムの不安はぬぐえない。
「う、う~ん。大丈夫なのかな?」
「聞いた話では、これまで何度も干渉を受けているのだろう? それでも無事なのだから何とかなるだろう……というか何とかしろ」
「は、はは、師匠並みの無茶ぶりだ……」
「無茶口茶です! ノゾムの負担が大きすぎます!」
「下手をすれば、ノゾム君の精神に取り返しのつかない事態が訪れる可能性もあるんですよ!?」
話に割り込むようにアイリスディーナとシーナが声を荒げる。
よほどノゾムが心配なのか、本人以上に切羽詰った表情を浮かべていた。
「もちろん、出来うる限りの対策もしておく。以前にシーナ君との契約でティアマットの干渉から脱せたという前例があるから、その点をより活かせるよう工夫しよう」
もちろん、ジハードとしても保険はかけておくつもりだった。
ただ開放するだけならそれほどでもないと思うが、ティアマットと対面するとなれば対策の一つや二つ考えてから提案するのが当然だろう。
ノゾムには何としてもティアマットの力を制御してもらわなければならないのだから。
更にインダが具体的対策案を提示する。
「具体的にはちゃんとした儀式を行える道具を用意し、設備を整える事です。
契約魔法によって結ばれる魔力路の強度は、そのような下準備でかなり底上げすることが出来ますから」
「むう……」
ジハードとインダの説明で対策をきちんと考えていた事が分かり、アイリスディーナとシーナの気勢が削がれてしまった。
とはいえ、自分の心配な気持ちは変えられないのか、彼女達はチラチラとノゾム本人を横目で覗き見ている。
そんな2人の仕草に苦笑を浮かべつつもジハードとインダは説明を続けた。
「また、その契約に他の人にもパスを繋ぎ、彼の負担を軽減する。これも以前、君達が行った方法だ」
「ただ、これに関してはあまり多くの人間にパスを繋がない方がいいでしょう。あまり人数が多いと術式が複雑化し、予想外の事態の際に術式を維持しきれなく可能性があります」
相手はティアマットなのだ。かなり余裕を持って術式を構築する必要があるだろう。
「……どのくらいの人数なら大丈夫なんですか?」
ノゾムが更なる説明を求める。
インダはすばやく必要な術式の難度と規模を計算し、答えを導き出す。
「シーナさんの能力にもよりますが、ノゾム君が対面する相手の事も考えると、契約魔法を行使する人間を含めて2、3人といったところですね」
2、3人という人数は、以前ノゾムが暴走した際にパスを繋いだ人数から算出したものだ。
ここ最近のシーナは精霊魔法に更なる磨きがかかっている。先の事件の際にも、ティマと魔道具の力を借りたとはいえ、アルカザム全体を覆う魔力通信網を構築したくらいだ。
そのシーナの能力を加味した上で、インダは安全マージンを十分にとってこの人数とした。
ジハードがジッとノゾムを見つめる。その視線が、この鍛練を行うかどうかをノゾムに問いかけていた。
「……分かりました。やりましょう」
「ノゾム君、本気?」
しばし考え込みながらも、はっきりとジハードの提案を受け入れたノゾム。
そんな彼にシーナが眉を顰めた。
「ああ。いい加減、どうにかしなきゃいけないと思う」
今までティアマットとは夢という形で偶発的に会うか、または相手がノゾムに干渉してくる場合がほとんどだった。ノゾム自身から、ティアマットに対面しに行ったことはほとんど無い。
だがいつまでもこのままという訳にはいかない。それはノゾム自身も理解していた。
とはいえ、シーナの協力無しには実行できない鍛練である。ノゾムは彼女の顔色を伺うように、スッと視線を向けた。
「……分かったわ。ノゾム君がそういうなら、協力する」
拒否されても仕方ない。ノゾムはそう考えていたが、意外にもシーナはあっさりと協力する旨を伝えた。
「……いいのか?」
「いいも何も。私がいなかったらその鍛練、できないでしょ?」
「ま、まあ、そうなんだけど……」
驚きのあまり、ノゾムはついつい問い返してしまう。
一方、シーナは肩をすくませ、しょうがないというような態度を示しているが、その口元には自然と笑みがこぼれていた。
まるで泉のように澄んだその笑みに、不安や不満といった感情は微塵も見受けられない
元々の容姿の良さも相まって、人とは思えないほど幻想的な雰囲気を放っている。
ノゾムは自分の頬が自然と熱くなっていくのを感じた。
「なら、負担軽減役は私とアンリ先生が適任であろう、術式もそのように合わせたほうがよいな」
協力者の承諾も得たという事で、ジハードが話を進める。なら後は、ノゾムの負担を分け合う役目の人選だ。
彼はノゾムの負担軽減役に、自分とアンリを推す。
インダは術式などでシーナをサポートする必要があることを考えると、当然の人選といえる。
しかし、そんなジハードの言葉に待ったをかける人物がいた。そう、アイリスディーナである。
「私がやります!」
普段冷静な彼女らしくないほど張り詰めた声に、ノゾムや他の仲間達も目を見開く。
一方、アイリスディーナは、ジッと見つめてくるジハードの視線を真正面から受け止めている。
「この役目は、生半可な精神力で勤められるものではない。そんな事は君なら十分すぎるほど分かりきっていると思うが?」
「私は以前、シーナ君の契約魔法でノゾムとつながり、同じ役目を担った事があります。その際にティアマットの精神圧力も経験済みです」
ジハードは厳しい表情を浮かべたまま、重苦しい声で苦言を言い放つ。だが、アイリスディーナも譲らない。
「それに、私は……」
彼女の脳裏に蘇るのは、以前、ティアマットに取り込まれかけた彼に向かって叫んだ言葉。
それは彼女の願いであり、誓いでもあった。
彼の傍で、彼の背中を支える事。決して譲れない、彼女の本心。
「……これは私の意志です。他の誰にも譲る気はありません」
決して大きな声では無い。しかし凛とした声と真摯な瞳は、何よりも雄弁に彼女の意思をジハードに語りかけていた。
ジハードもそんなアイリスディーナの意思に折れたのか、仕方ないというように大きくため息を吐いて肩を落とす。
「いいだろう。なら、私とアイリスディーナ君とで……」
「分かりました~。ノゾム君とパスを繋ぐのは~、私とアイリスディーナさんですね~」
ジハードの決定に今度はアンリが割り込んだ。
またまた口を挟まれたジハードが、ジト眼でアンリを睨みつける。
「アンリ先生……」
「申し訳ありません~。でも、ノゾム君は私の生徒です~。この役目はジハード先生でも譲れません~」
相変わらず間延びした口調。だがその口調の裏に、アイリスディーナと同じくらい自分の意思を滲ませていた。
「はあ……分かった」
「ありがとうございます~」
もうどうしようもないといった様子で首を振るジハード。心なしか、背中が哀愁を醸し出しているようにも見える。
ノゾムはすっとアイリスディーナの傍に寄ると、周りに聞こえないほど小さな声で話しかけた。
「アイリス、よかったのか?」
「何がだ?」
「いや、その……さっきのジハード先生の話さ」
「なんだ。そんな事か」
心配そうな口調のノゾムと違い、アイリスディーナの声はまったくブレた様子が無い。
若干頬が紅潮しているようにも見えるが、薄暗くなった森の中でははっきりと分からなかった。
平坦なように聞こえる口調の中にもはっきりとした抑揚があり、どこか高揚しているようにも感じ取れた。
「いや、そんな事って……」
ノゾムとしてはアイリスディーナ達に危険を犯して欲しくないというのが本音だ。
実際、自分が暴走した時は、本当に命まで賭けさせてしまったのだから。
だから、ノゾムとしてもアイリスディーナ達に無茶をして欲しくは無かった。
“今なら大丈夫。しっかりと押さえ込んでみせる”
そう言葉を続けようとしたノゾムの機先を制するように、アイリスディーナが言葉を被せてくる。
「ジハード先生にも言ったが、あれは私の意志だ。ノゾムは気にしなくてもいい」
有無を言わさぬアイリスディーナの言葉。いつになく己の意志を貫こうとするその姿に、ノゾムは圧倒される。
「それに……」
それに? とノゾムが首をかしげると、アイリスディーナは先程までの高揚した雰囲気に若干影を感じさせながら、
「あの時の言葉を、嘘にしたくないからな……」
と、ノゾムにしか聞こえないほど小さな声でつぶやいた。
「あっ……」
あのときの言葉。それは間違いなく、ノゾムが暴走したときに彼女が呼びかけた言葉だ。
“君の背中を守りたい! 君に私の背中を守ってもらいたい!!”
それは間違いなく、ノゾムとアイリスディーナ達を繋ぎ止めた絆の言葉。
それを出されてしまったら、ノゾムもそれ以上何も言えなくなってしまう。
彼女達が心配な気持ちは変わらない。だがノゾムは同時に、芯から湧き上がる温もりを感じていた。
しかし、だからだろうか。先程彼女の顔に僅かに刺した影が心に引っ掛かってしょうがなかった。
帰路についたノゾム達は森を抜け、アルカザムの城壁をくぐり、外縁部を歩いていた。
既に周囲は暗い闇に包まれている。
シノの小屋での訓練後の片付けは一通り終わっていたが、さすがにえぐられた森まではどうにも出来ないので放置するしかなかった。
シノの小屋はかなり森の奥に位置している上、隠匿の結界に覆われていたから気付いた者はいないと思うが、ノゾムはまた片付けるものが増えたと引きつった笑いを浮かべていた。
「痛っつう……。やっぱりあの力を使うと、体のあちこちに響くな」
体のあちこちに鈍い痛みが走る。やはり治療を施してもティアマットの力はノゾムの体に相当な負荷をかけていた。
表面上の傷は癒せても、負担はしっかりと体の芯に残っているのだ。
同時にそれは、ノゾム自身がまだ満足にティアアットの力を制御しきれていないことを示す。
「力の大元のことを考えれば、この程度で済んでいるだけ僥倖なのだろうが、やはりノゾムへの負担が大きすぎるな……」
「そうね、油断大敵であることは変わらないわ。現にティアマットは、以前貴方をさまざまな手段で惑わそうとしたのだから」
仲間達の苦言にノゾムは黙って頷く。
しかし、彼らの言葉とは裏腹に、ノゾムにだどうしても気になる事があった。
(あいつは、過去に一体何があってあんなに変わったのだろう)
ノゾムの脳裏に思い出されるティアマットの過去の情景。
仲間の輪の中で楽しそうにすごしていた幼い黒龍。
そんな胸温まる光景からは想像も出来ない凄惨な惨劇の後。糾弾してくるかつての仲間と、必死になって訴えようとするティアマットの姿。
明らかにかみ合わない言葉のやり取りと、絶望の淵に落ちたティアマット。
(……仲間達に裏切られた? それにしては不可解な点も多い。それとも他に何かあったのか?)
最近感じるようになってきた、ティアマットに対する親近感。だが、自らの内で眠るかの龍に対する不信感は拭い切れない。
「はあ……」
どうにも自分の気持ちが纏まらない。
あの夢を見てから、なんともいえない感覚が常につきまとう。
そんないやな感覚を振り払おうと、ノゾムはちらりと隣を歩く仲間達に視線を向けた。
提案された無茶苦茶な鍛練に、いの一番で声を上げてくれた二人の少女。
確かにティアマットとの対面は考えるだけで全身が緊張するが、不思議と直ぐに全身から余計な力が抜けていく。
そんなノゾムの視線に気付いたのか、アイリスディーナが首をかしげた。
「ノゾム、どうかしたのか?」
自然と熱くなっていく自分の頬。それを気取られたくなくて、ノゾムは視線を逸らした。
「う、うん、どうにもハッキリしないことが多くてね……」
今隣にいる仲間達と一緒にいたいとも強く想う。
凛とした黒髪の少女、太陽のように笑顔が素敵な女の子、月のように清廉とした妖精族のエルフ。ちょっと無鉄砲な親友に、オドオドとした女友達。むやみやたらにトラブルを起こす獣人2人組と、巻き込まれる錬金術好きの同級生。
ノゾムが今、絶対に失いたくないと心から思う大切な人達だ。
「それに、悩みの種はティアマットだけじゃないし……」
だがアイリスディーナ達の事を考えれば考えるほど、ノゾムの脳裏にはリサの姿も浮かび上がっていく。
同時に、言いようのない何かが、ノゾムの胸の奥をかき乱していた。
とにかく、きちんと話をする時間を作らないといけない。
そう考え込むノゾムの耳に、聞き覚えのない声が聞こえてきた。
「お帰りなさいませ、アイリスディーナお嬢様、ソミリアーナお嬢様。お待ちしておりました」
ノゾムが声を掛けられた方向に目を向けると、街の入り口に女中服を身にまとった中年の女性が立っていた。
彼女は降ろした手を手前で組み、深々と頭を下げる。
ノゾムが今まで会ったことがない女性。
しかし、彼女が身に着けている服には見覚えがあった。フランシルト邸で働いているメイドたちと同じ服である。
「あ、あの……どなたですか?」
「はじめまして。私、フランシルト家当主、ヴィクトル様のお傍仕えをさせていただいております、メーナと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「ど、どうも、はじめまして……」
メーナと名乗った女性からの丁寧な挨拶に、ノゾムも思わず頭を下げる。
年上の女性から頭を下げられ、ついついノゾムも頭を下げてしまう。
一方、顔見知りのアイリスディーナとソミアは、ここにいるはずのない人物の登場で、驚きのあまり固まっていた。
「……メーナ、どうしてここに」
思わずアイリスディーナが漏らした言葉。それに答えるように、野太い声が響く。
「私がこの街に来たからだ」
「と、父様……」
メイドの後ろから現れたのは、鮮やかな金色の髭を蓄えた壮年の男性。
一目見て高価だと分かる衣装に身を包みながらも、その装飾が色褪せるほどの風格を漂わせていた。
だが何よりノゾムを驚かせたのは、アイリスディーナが目の前の男性を父と呼んだことだった。
現フランシルト家の当主。その名声はノゾムも聞いた事がある。
10年前の大侵攻の際に、フォルスィーナ国王にいち早く軍を送るよう進言した忠臣。また、本人も魔獣の攻勢で追い詰められていく国々に救いの手を差し伸べた人物だ。
「久しぶりだな、アイリスディーナ。フィラーナに似て、ますます綺麗になった」
「いえ、父様こそ、ご健勝そうで何よりです」
ヴィクトルが美しく成長した愛娘をみて、その厳つい顔を綻ばせる。
驚きに眼を見開いていたアイリスディーナも、はにかむような笑みを浮かべた。
「父様! お久しぶりです!」
「おお、ソミア! 大きくなったな。なかなか会いに来れなくて、すまないな」
父親の姿を確かめたソミアは、元気いっぱいな様子で父親の元に駆け寄った。
ヴィクトルもまた幼い次女を抱き上げると、その頭をやさしく撫でながら、満面の笑みを浮かべている。
「父様、くすぐったいです」
「すまない、すまない。ついソミアが可愛くてな。うむ、相変わらず羽のように軽いな」
「ぶ~! 父様、私もちゃんと成長しています!」
「うむ! そうか、ソミアも立派なレディーなのだったな」
「そうです! 立派なレディーなんです!」
ぷうっと不満そうに頬を膨らませていたソミアだが、直ぐに笑顔に戻ると、ギュッと力いっぱい父親に抱きついた。
父親と会えた事がとても嬉しいのか、彼女はいつも以上にはしゃいでいる。
「父様! お仕事のほうは大丈夫だったんですか?」
「ああ、大丈夫だよ。メーナも良くしてくれているからね。」
何処に行っていたのですか? 何があったんですか? どんな様子だったんですか?
矢継ぎ早に飛ぶソミアの質問と、これまた嬉しそうに外の国や街について語るヴィクトル。
傍で聞いているアイリスディーナも、久しぶりの家族の再会に笑みを浮かべていた。
一方、完全に置いてけぼりを食ったのはノゾム達だった。
親子の再会ということでしばらくそっとしておいたのだが、ソミアとヴィクトルの会話に終わる様子が見えない。
だが、話しかける事も憚られた。
「父様、ここは街中です。ソミアも少し抑えなさい……」
どうしようかと迷っているノゾム達にアイリスディーナが気付き、ヴィクトルとソミアに一声掛けた。
「あ、ご、ごめんなさい」
「ああ、すまない」
苦笑を浮かべたヴィクトルがソミアをそっと地面に下ろす。
ソミアはノゾムの目の前ではしゃぎすぎた事が恥ずかしいのか、父親の腕から下ろされると、頬を真っ赤にさせながら俯いて姉の後ろに隠れてしまった。
「改めて挨拶をしよう。私はヴィクトル・バーレンツ・フランシルト。アイリスディーナ達の父だ」
「は、はじめまして! ノゾム、バウンティスです」
「マルス・ディケンズだ」
「テ、ティマ・ライム、です……」
「シーナ・ユリエルです」
ノゾム達が各々簡単な自己紹介を行うと、ヴィクトルはうむと頷く。
「ああ、君達の事は話に聞いているよ。色々と、娘達が世話になったようだね」
「い、いえ。俺……私のほうこそ、お世話になりっぱなしで……」
「それで父様、今日はどうしてアルカザムにいらしたのですか?」
「ん? 娘達の様子を見に来るのに理由などいらぬだろう? まあ、多少の視察も兼ねているのは確かだが……」
別に不思議な事ではないだろうという様子のヴィクトルだが、ノゾムの近くにいたジハードに気付くと、スッと寄って何か話し始めた。
「ジハード殿、“事情”は理解した。先程、確認もした。話は明日の早朝にでも……」
「わかりました。では明日、執務室にて……。それでは皆、また明日」
ジハードはヴィクトルと簡単に一言二言会話を交わすと、インダとアンリを伴って学園へと戻っていく。
「父様、どうかしたのですか?」
「いやなに、ジハード殿に話があったのだが、今日はもう日が暮れているので話は明日にでも、と話を伝えておいただけだ」
ヴィクトルは大した事ではないと言うように話を切る。
「では、帰るとしよう。久しぶりに娘達と食事ができるな。ああ、そうだ。学友諸君も一緒にどうだ?」
「え!?」
いきなりの申し出にノゾム達は戸惑う。
相手は大陸に名立たる大貴族様だ。アイリスディーナに対しては既に貴族の令嬢というより大切な仲間という意識だが、ヴィクトルに対してはそうもいかない。
それに、久しぶりの家族の再会なのだ。自分達に事は気にしないで、ゆっくりしてほしいという思いもある。
ヴィクトルはそんなノゾムの気持ちを察してか、気にするなというように口元に笑みを浮かべた。
「折角の機会だ。学園での娘達の様子も聞いてみたいのでな。お転婆でなければいいのだが……」
「と、父様!」
茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべたヴィクトルに、アイリスディーナが狼狽したように声を上げる。
ヴィクトルはそんな娘の様子を眺めながら、口元に笑みを浮かべていた。
「ええっと、いいのかな?」
「なに、準備は既にメイド達にさせている。ここで断られると、メイドたちの苦労が無駄になってしまうのだがな?」
どうやら始めからノゾム達を誘うようだった。
ここまで言われてしまっては、断るなどと言う選択肢はノゾム達には無い。
「わ、わかりました。ご相伴に預からせていただきます」
「うむ。それでは行こう」
ヴィクトルはノゾムの返答に満足そうな笑顔を浮かべると、娘達を伴って歩き始めた。
ノゾム達がその後ろに続き、最後尾をメーナが歩く。
貴族、学生、メイドという珍妙な集団。当然人目を惹く。
ノゾム達は住民達に通りの家の窓からチラチラと覗かれながら、夜の闇に包まれたアルカザムを、フランシルト邸目指して歩いていった。
というわけで、ヴィクトルとノゾムの邂逅です。
次回は多分フランシルト邸での出来事を書くと思います。




