第7章第9節
朝日に照らされたアネモミロスの街。ここはアルカザムへと続く交易都市として整備された街だ。
元々小さな農村だったこの街はアルカザム建設における物資の中継地となり、大量の資本が導入されて一気に活気づいた。
人族だけでなく、亜人や様々な人種が行き交うこの街は、さながらアルカザムの縮小版のようなものだった。
その街を貫く中央通りを、隊列を組んだ馬車群が通っていく。
白を基調とした豪奢な車体。馬車の前後を甲冑で身を固めた騎士たちが警護しているところを見ると、乗っている人物は相当身分が高いのだろう。
道行く人達の視線を釘付けにしながら、馬車は街道をアルカザムに向かって走り続ける。
「旦那様、そろそろアルカザムに到着いたします」
馬車の中でそう口にするのは、ゆったりとした女中服に身を包んだ中年のメイドだった。
彼女の主は馬車の後席に座り、女中の言葉に頷きながら、窓の外で警護についている騎士に目を向けている。
貴族が身につけている物は一目で最高級のものと分かる外套と装具。
整った顔には積み上げられた年月と経験を物語るような深い彫りが刻まれ、小奇麗に切りそろえられた金色の頭髪と髭がその風格に彩を添えている。
貴族の名はヴィクトル・バーレンツ・フランシルト。
かのフランシルト家の現頭首であった。
「うむ、かなり時間が掛かってしまったが、何とか間に合ったようだな。
アルカザムに到着したら、これを使って兵達に十分な休息を取らせてやってくれ。随分無理させてしまったからな」
そう言いながら、美麗の貴族は懐から小さな袋を取り出し、目の前のメイドに渡した。
主からの施しを、メイドは恭しい態度で受け取る。
小さいが、ずっしりとした重みがメイドの腕に伝わってきた。中身はおそらく金貨であろう。
「馬を何度も換えての強行軍でしたから、兵達も喜ぶでしょう。まあ、本来ならあと数日早く到着できたはずだったのですが……」
女中の視線が後ろに追従してくる馬車に向けられる。
視線の先にはここまで来る道中、目の前の主人が買い漁った各地方の名品が馬車に山積みにされていた。
しかも、荷物を運ぶ馬車は1台や2台ではない。2頭曳きの大型馬車が計6台も荷を満載して連なっていた。
とはいえ、これでも自重した方である。
実のところ、メーナの主人はこれの倍に相当する品々を買い付けようとしていた。もちろん、彼女に隠れてである。
普段は公明正大、名君として名高い主であり、彼に仕える事はメーナの誇りでもあるのだが、極一部の事項に関してはまるで別人のように豹変してしまう悪癖を持つ。
実際、年に2度ほどその悪癖が発現し、大騒ぎになってしまう。
幸いというか、ここ数年はその原因が主の傍にいなかったので、その悪癖は発現しなかったのだが……。
「メーナ、何か言ったか?」
「いいえ、何も……。しかし、ジハード殿にも困ったものです。いきなり旦那様を呼びつけるとは……」
明後日の方向を向いて呟くメイドに、美麗の貴族がいぶかしむ。
しかし、メーナと呼ばれたメイドは直ぐに主に向き直ると、突然憤懣やるかたない表情を浮かべた。
「ジハード殿から送られた書簡によれば、学園生徒による不祥事との事。確かに問題ではありますが、それで旦那様が参られるほどとは……」
「だが、あれだけ厳重な封を施した書簡を直接私に届けたのだ。先の事件がそれほど根の深いものなのか、それとも他に何か重大な問題が起こっているのかもしれん……」
目の前のメイドは渡された書簡の内容を知らない。
あくまで学園で起こった事件について書かれていたと主人は述べたが、実際に書かれていた内容はおいそれと口に出来るものではなかった。
実際、そのためにこの貴族は腹心のメイドにすら秘密裏に色々と動いていた。
顎髭を撫でながら、メーナに気取られぬよう、ヴィクトルは余裕の笑みを浮かべている。
「あの老人、突然旦那様の目の前に現れて、いきなり書簡を突きつけてきましたが……。正直、あの不遜な態度は目に余ります」
「まあ、私も初めは怪しんだが、ジハード殿の印はしっかりと押されていたし、合言葉やその他の手形も正規のものであった。
どちらにせよ、元々アルカザムには立ち寄るつもりだったのだ。娘達の様子も見ておきたい」
突然屋敷に現れた白髪の老人を思い出す。
主人の執務室に唐突に現れたその老人は、驚きのまま固まる2人の前に、不精な表情を浮かべて懐から取り出した書簡を突きつけた。
書簡には学園生徒が起こした事件とアビスグリーフの脱走、そして先の事件に関する顛末が書かれていた。
それによってこの貴族はアルカザムへの来訪を急遽前倒しにしたのだ。
「先のウアジャルト家との密約の件が判明して以降、旦那様は休まれる暇がありませんでした。お嬢様方も喜ばれるかと存じます」
「ああ……」
数ヶ月前、長女から送られた文を読んだヴィクトルは、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
その文には数百年前に当時のフランシルト家が、ウアジャルト家と結んだ密約について書かれていた。
次女の誕生日に突然現れたウアジャルト家の執事。そして契約履行のために送られてきたルガトと戦闘となり、友人の力を借りてなんとか撃退した事。
この事実を知ったヴィクトルは慌てて歴代頭首に関する品を調べ、そしてその契約が事実であることを突き止めた。
ヴィクトルはウアジャルト家にすぐさま秘密裏に使者を送り、頭首自ら交渉を行った。
頭首としての責務を行いながら交渉を続け、昼も夜も休む間もなくペンを走らせ続け、先日ようやくウアジャルト家との交渉が纏まったところだった。
「ですが、ご友人達の力を借りたとはいえ、Sランクの実力者をお嬢様が退けるとは驚きました」
「アイリスディーナの文では、相当できる生徒達らしい。誰もがAランクに値し、Sランクに届くほどの素養を持つ者もいるそうだ。文を見た時は、それほどの実力者が3学年に集まっていると知り、私も驚いたよ」
魑魅魍魎が跋扈する社交界で、ヴィクトルの娘達は幼い頃からもまれてきた。
昔はその事を申し訳なくも思った。母親を亡くし、寂しく、つらい思いもさせた。
だがしかし、だからこそヴィクトルは娘達の人を見る目は信用していた。それほど将来有望な友人に恵まれていることは、彼女達の眼力が正に証明されたようなものだった。
「主様。奥様の事は、まだお嬢様方には……」
「話してはいない。話すわけにはいかないだろう……。あの件に関して、娘たちは何の責任も無いのだ。背負うのは私一人でいい」
ウアジャルト家との密約の際にフランシルト家に預けられた魔道具。その一つであり、かの家ともめるきっかけであった“霊炎の炉”をソミアの体に埋め込んだのは、彼女の母親、フィラーナ・フランシルトであった。
生まれた際に虚弱な体で生まれてきたソミア。彼女を助けるために、フィラーナは隠し持っていた霊炎の炉で、自分の魂をソミアに捧げた。
霊炎の炉は魂をささげることで莫大な力を得る魔道具だ。
フィラーナは自身の魂を糧に霊炎の炉の力を引き出し、ソミアの魂にその魔道具を融合させることで彼女の命をつないだ。
魂に関する魔法は極めて困難な魔法だ。成功率など砂粒ほどもなかった。
それでも術式はフィラーナの命と引き換えに成功した。それはまるで、何としても娘に生きてほしいというフィラーナの強い願いが具現したようだった。
結果として、次女はとても元気に、すくすくと育っている。
この事実をアイリスディーナもソミリアーナも知らない。ヴィクトルは、教えてしまえば優しい娘たちの心を深く傷つけてしまうかもしれないと考えたからだ。
「自分達の不始末を子孫に押し付けて、勝手に死んでいくご先祖にも困ったものだが、私も人の事は言えぬな……」
娘を助けるために行った事。それが結果として、娘達にいらぬ苦労を背負わせる事になってしまった。
ままならぬものだと言うように、貴族は肩を落として嘆息していた。
「……心中、お察しいたします」
「幸い、ウアジャルト家との交渉も何とか纏まった。失ったものは確かに大きいが、娘達の為だ。フィラーナも許してくれるだろう……」
「旦那様……」
すでに亡くなった妻の優しい笑顔を思い浮かべながら、男は馬車の窓から外を眺める。
活気のあるアネモミロスの街の通りには、大小さまざまな露店が軒を連ねている。
さらに鬱蒼と茂る森を切り裂いて伸びる道の向こう側に、日の光を浴びて小さく輝く街並みが覗いていた。彼らの目的地である、学園都市アルカザムだ。
「そろそろだな……」
小さな呟きが夏風に溶けていく。
地平線まで続く森の木々。その向こうにアルカザムの巨大な外壁が見えてきていた。
アルカザムの議会には各国から派遣された議員で構成されており、他国の意向が入り混じっているが、基本的にその運営が阻害される事はない。
各国から運び込まれる物資や人材が作り上げた新たな技術や人材は、間違いなく各国の利潤となっている。そのため、この街の運営そのものを停滞させる事は不利益しか生まないからだ。
ただ、作れるパイの数は限られる。故に、出来うる限り多くのパイを得ようと画策はする。
そんな豹のような議員達を纏めているのが、議長であるハイバオ・フォーカであり、ジハードであった。
もっとも、最近は例の事件の影響もあり、そのタガが若干緩みつつある。
その急先鋒と呼べるのが、今壇上で演説をしている美女だった。
「さて皆さん。先の事件で明らかになったアルカザムの警備体制の不備は看過できるものではありません」
荘厳な議事堂の中に、艶かしい声が響く。
「そうであるな。確かに、ここ最近の学園の対応は後手に回りすぎている」
「さすがの英雄殿も、耄碌したという事ですかな? そうであるなら、ジハード殿の進退も今一度考えなくては……」
メクリアの発言に続いて、彼女に同調する議員達が口々に弾劾の声を上げた。
したり顔でメクリアに追従する議員達は、ジハード達の責任を今一度追求しようとしていた。
しかし、その声は隣に控えていた他の議員の言葉に遮られる。
「ですが下手にジハード殿を降ろせば、その後任などで学園の警備に更なる空白が発生する。
それに、ジハード殿たちを含め、学園関係者にも相応の戒めは既に下された。ジハード殿達の責任については、これで終わりとなったはずだ」
「そのとおりだ。信賞必罰は組織に必須だが、それに囚われすぎては意味が無い」
「今回の事件で被害が拡大した原因は、星影に入り込んだ内通者だ。皆さま方もご存知でしょうが、この街には各国の息のかかった者が多く入り込んでいる」
「そちらを何とかするのが先でしょうな」
ジハードの責任を追及しようとする議員達を、メクリアに追従しない議員達が戒める。
「それに、グローアウルム機関の最下層に封印した魔獣についても、どうにかせねばなりません」
「今現在、グローアウルム機関はアビスグリーフが寄生したソルミナティ学園生徒の封印及び研究に専念しておりますが……」
「今まで謎に包まれていた魔獣。大侵攻との関わりも含めその重要性は抜きん出ている。ジハード殿達の責については、今はここまでとし、今後の働きを見てから進退を決めても遅くはあるまい」
実のところ、以前アビスグリーフの検体が手に入った時点から、この街の重要性は今まで以上に跳ね上がっている。
さらに今回アビスグリーフが人に寄生し、その人物を確保できたことで、この魔獣の新たな性質が明らかとなった。各国も今まで以上の援助を約束してくれている。
「いや! まずは先の事件の責任をより明確な形にするべきだ! その為にもまず……」
だが、ジハード達への弾劾を声高に叫ぶ者達はまるで引き下がろうとしない。
折角棚から降ろしてきた荷物を元に戻そうとする議員たちへ向かって、これでもかと唾を飛ばしている。
だがその気勢は思わぬ形で遮られた。
「失礼します」
いきなり議事堂のドアが開け放たれる。白熱する議論に割り込んできたのは、つい今しがた話題に上っていたジハードであった。
突然の当事者の登場。彼が身に着けた白亜の鎧から張り詰めた空気が漏れだし、一瞬で議事堂を満たす。
息を飲むほどの緊張感に議員達は押し黙った。
そんな静寂の中、議長であるハイバオがジハードに問いかける。
「ジハード殿。突然会議中の議事堂に入ってくるとは、一体何事かな?」
「いきなり押しかけて申し訳ありません、議長殿。実は早急に皆様のお耳に入れておかなければならないことがありまして……」
先ほどまで災いの魔獣について議論していたからだろうか。議員達は続くジハードの言葉に凶報を連想し、その表情がにわかに厳しくなっていく。
「まさか、またあの獣が現れたのか?」
「いえいえ、今回は吉報でございますよ。実は先日、我々はこのアルカザムで諜報活動を行なっていた者達の捜査を行い、若干名を拘束いたしました」
先程まで放っていた緊張感をふっと納めて表情を緩ませたジハードの言葉に、議員達は驚きの顔を浮かべた。
先程も話していたが、アルカザムに入り込んだ各国の諜報員については頭の痛い問題だった。
「ほほう、それでどれ程のネズミを捕らえたのかな?」
「まあ台所の残飯どころか、家主に噛み付かれてはたまらないからな。ネズミ達にもリスクというものを知ってもらうにはちょうどよいだろう」
先程までジハードの責任を更に追及しようとしていた議員が、口元を吊上げながらジハードを見下ろしている。
先程まで散々喚いていながら、本人を前にしてふてぶてしくふんぞり返っているその様に、一部の議員が眉をひそめていた。
一方、睨まれている議員達はそんな周囲の視線など、どこ吹く風とばかりに鼻を鳴らしている。
「それで、ジハード殿。どれ程の数を捕らえたのかな?」
「はい。約250名ほどでございます」
「なっ!」
「っ!?」
一瞬、その場にいた誰もが目を見開き、驚愕という衝撃に飲まれた。
多い、あまりに多すぎる。
議員達は今回ジハードが捕らえたのは数人、多くて精々十数人程度だと考えていたため、誰もがジハードの言葉を理解するのに数秒の時間を要した。
「250名……だと?」
「はい。そしてこれにより、この街で活動している外部勢力のほぼ全ての掃討が完了いたしました。
今後、先の事件のように外部からの裏工作は、ほぼ心配する必要がなくなったといえるでしょう。もちろん、今まで以上の警戒は続けておく必要がありますが……」
呆ける議員たちを横に置いたまま、ジハードは事の詳細の報告を始める。
先の事件で暗躍した他国の諜報員。それによって引き起こされた星影内での裏切り。
到底看過できるものではなく、星影を含めたソルミナティ学園関係者の身元を全て洗い直し、同時にアルカザム内部に入り込んだ諜報員達の一斉掃討作戦を立案し、実行した。
結果が先ほどジハードが述べた数字である。
この数はアルカザムに潜伏していると推察されていた諜報員の数とほぼ一致する。つまり、たった一度の作戦行動で、ジハード達と星影はアルカザム内に潜んでいた外憂をほとんど一掃してしまったのだ。
この事実に薄く微笑んでいたメクリアも、僅かに目元をヒクつかせていた。
議員達は知らないことだが、この結果の裏には、ゾンネがジハードにもたらした各国諜報員の詳細な情報があった。
またこの情報は、ノゾムに関して協力するために、ジハードがゾンネに要求していた対価の1つであった。
「そ、そうか……よくやってくれたな。ジハード殿」
「う、うむ。改めて、礼を言うぞ」
先程まで声高にジハードを弾劾しようとしていた議員達が、脂汗を滝のように流しながら体裁を取り繕い始める。
一方、それ以外の議員は失望を通り越して完全に呆れており、ため息しか出てこない様子だった。
向けられる怯えの視線をジハードは軽く流し、一礼をする。最も、それがあくまで儀礼的なものでしかない事はこの場にいる誰もが理解していた。
「ありがとうございます。実はまだ他にも懸案がありまして……。その為に、とある方に本議会に出席していただきたく、ここに許可を求めるものであります」
一体誰だ? と首をかしげる議員達を尻目に、議長は手早く“許可する”と、ジハードに正客の議会への承知を認めた。
ジハードに促された憲兵が、恭しく重厚な扉を開けると、ゆっくりと1人の貴族が議事堂へ入場してきた。
「失礼する」
「あ、貴方は……!」
ジハードに促されながら、議事堂に足を踏み入れたのは美麗の貴族、 フランシルト家の現頭首であるヴィクトルだった。
いきなり登場してきた大物貴族に、その場に居た議員全てが目を見開いていた。
ヴィクトルは議員席に座っている者達を一瞥すると、にこやかな笑みを浮かべる。
10年前。かの大侵攻の際にいち早く対策を講じ、自国の軍を差し向けるよう奔走した人物の一人。
そのすばやい対応は魔獣の侵攻を食い止める先駆けとなり、その結果フォルスィーナ国の発言力はこの大陸内で大いに高まった。
また、各国にとっても恩人とも言える人物であり、ジハードと同じく大陸でも名の通った人物である。
本物の貴人を前にして、俗物の議員はただ圧倒されるだけだった。
「おや、久しぶりですね タルド卿。学園に在学されていたご令嬢の様子はどうですか?」
「い、いや。元気ですとも。は、ははは……」
先程まで威勢よくジハードたちを糾弾していた議員達が、まるで借りてきた猫のように大人しくなっている。
そんな周りの議員達に、ヴィクトルは深々と一礼した。
「議長殿。そして議員の皆さん。この度、私はわが王から御言葉を賜って参りました。
それをここで皆様にお伝えしたく思いますが、よろしいでしょうか?」
フォルスィーナ国王からの言葉。その場にいた議員の全てが息を呑む。
あくまで丁寧に、議会を立てる形で進言をするヴィクトルに、議長も発言を許可する。
「では“此度のアビスグリーフの件、ご苦労でありました。
今回起きた事件による被害者の方々については大変に思い、胸が痛む想いであります。
ですが、悲しみに引きずられ、ここで全てを投げ出すわけには参りません。議長殿や議員殿方、並びにジハード殿をはじめとした学園関係者一同、皆一丸となって、この事態を乗り越えていただけると信じております“」
ヴィクトルは主からの言葉全てを読み終えると、議長席に歩み寄り、親書を丁寧に議長に手渡した。そして一礼して、再びジハードの隣へと戻る。
議事堂はシーンと静まり返っていた。
「以上が、我が主からのお言葉であります」
先程までジハードを糾弾していた議員達も言葉を失っている。
特に魔獣の侵攻にさらされた国の議員達は敬意と信頼、そして感謝の視線をヴィクトルに向けていた。
彼らにとって、いち早く軍を派遣してくれたヴィクトル、そして現フォルスィーナ国王は、かけがえの無い恩人だったからだ。
ホッと胸が温かくなる空気が議事堂に満ちる。当然、そんな中でジハードたちを糾弾できる人間など居ない。
他の議員達を煽っていたメクリアも、何も発言できなかった。
メクリアの主もまたフォスキーア国王の臣下である。そんな人物からの御言葉を遮る事など、当然できるわけも無い。
親書の内容もアルカザムの独立性を脅かすような内容ではなく、あくまで丁寧。そして“これからも皆で協力して事に当たってください”と、述べているだけ。
命令でも、要求でもない。要望ですらない。あくまでも挨拶程度の内容だ。
しかし、その言葉が大陸でも一国の王であり、そしてその言葉を持ってきた人物が、大侵攻時に各国を奔走したフランシルト家の現頭首ともなれば、挨拶程度とはいえ無視できるはずも無い。
メクリアもこれ以上ことを煽るのは不可能と判断したのか、深々と親書に一礼をし、口を閉ざした。
メクリアが口を閉ざした事で糾弾派は完全に勢いを失う。
以降、議事堂内に怒号が飛び交う事は無く、粛々と議事は進行し、終わりを迎える事ができた。
議員達が退席した後、ジハードは自らの執務室にハイバオとヴィクトルを招いた。
「ヴィクトル殿、この度は本当にありがとうございました」
「いえ、我が主も、そして私としてもこの学園が不安定になる事は望んでいない。
今回の件で色々と問題が浮上し、糾弾されただろうが、ある意味改善点が見つかっただけよしとしよう。大切なのはこれからなのだから」
ヴィクトルの言葉にハイバオも小さくうなずく。
実際、フォルスィーナ国王も、先の事件に関しては憂慮していた。アビスグリーフが現れたというのに、下手にアルカザムを混乱させる事は不利益しか生まない。
そう考えたからこそ、フォルスィーナ国王は自らの名を使って書をしたためた。
ヴィクトルと彼の主に感謝し、ジハードとハイバオは改めて深々と頭を下げた。
肝心なことは、問題点をそのまま放置しない事である。
色々と議員達がジハードを糾弾し続けていたが、その程度で事が改善するはずも無い。
ソルミナティ学園が10年。魔獣に対する恐怖心から作られたこの学園は、いまだに十分成熟しているとは言いがたい。むしろ、これからも色々と問題は発見されるだろう。
だからこそ、その問題を真摯に受け止め、変えていける人材が必要なのだ。
そういう意味では、ジハードは良い人材といえた。騎士としての自覚を持ち、自分の犯した過ちから目を背ける事はない。少なくとも、先程議会で喚いていた議員よりはよほどマシである。
身内から離反者が出たことを重く受け止め、迅速に足元を固め直し、アルカザムに潜伏していた各国諜報員を捕縛した事も評価できる。
まだまだこれからが期待できるのだ。ヴィクトルとしても、ここでジハード達を失脚させるわけにはいかなかった。
それにヴィクトルには、まだ確認しなければならないことがあった。
「それでジハード殿。先の事件についての話はこれでいいとして、渡された書簡にはまだ他に見てほしい者がいると書いてあったのだが……」
実はジハードがゾンネを通じてヴィクトルに送った書簡には、一度直に会ってほしい人物がいると書かれていた。
その人物は非常に優れた刀術の使い手であり、将来有望な生徒ではあるが、少々特殊な事情を抱えているらしい。
そして何より、娘が懇意にしている男子生徒であるそうだ。
書簡にはそれ以外の詳しい情報は一切記されておらず、ヴィクトルは首をひねった。
だが同じような内容が娘からの文にも書かれており、同時に興味もそそられた。
「刀術の使い手ということは、以前武技園で貴方と刃を交えた生徒のことですな。確かに、あの卓越した刀術には目を見張りましたが、彼には他に何かあると?」
ヴィクトルに続くように、ハイバオが興味を示す。
そんな2人の意思を読み取ったのか、ジハードは小さく頷くとさっと周囲に視線を走らせた。
ジハードは周囲に誰もおらず、気配もない事を確かめると、ズイッとヴィクトルに顔を近づける。
「はい、それについては夕方頃に見せることが出来ると思います。御二方はこの事を誰にもいわず、この執務室へお越しいただけますか?」
自分とヴィクトルの体を影にして、唇の動きすら出来うる限り周囲から見えないように気を払うジハード。
その病的ともとれる警戒心に、ヴィクトルとハイバオは眉を顰めた。
「……今ここで話すわけにはいかぬのだな?」
ぐもるように呟くヴィクトルの言葉に、ジハードが首肯する。
この時、2人は事が自分の思う以上に切羽しているという確信を得た。
「よかろう。では、その時にこの執務室へ来る事にする」
確信を得た後のヴィクトルとハイバオの行動は早かった。
2人は簡潔に回答をジハードに伝え、素早くその場を後にする。
何があるのかは明言されていない。しかしジハードの様子を見れば、極めて内密な話であることは想像が出来る。
変装等をしておく必要もあるかもしれないと考えながら、ヴィクトルは学園の正門前で待たせているメーナの元へと向かう。
向かう先はこのアルカザムに建てたフランシルト邸。
やることは数多ある。約束の時間までそこで色々と準備をしておく必要があるのだ。
「やれやれ、早く娘達の顔を見たいのだがな……」
せっかくアルカザムに来たというのに、まだ娘達に会えない。
威厳のある顔を残念そうに歪めながら、ヴィクトルは残念そうに溜息を吐いた。
自室へと戻ったメクリアは窓の外を眺めながら、厳しい表情を浮かべていた。
先ほどジハードからもたらされた報告。確かに先日から配下の諜報員たちと連絡が取れなくなり、まさかとは思っていたのだが……。
「それで、どういう状況だったのですか?」
メクリアの問いかけに答えるように、部屋の暗がりから一人の男が現れる。
この男は元々、メクリアがこの街に侵入させていた間諜の一人であり、まとめ役だった人間だ。
彼は恐縮した様子で頭を下げると、声を震わせながら、襲撃時の状況を語った。
「も、申し訳ありません。突然アジトを強襲され、成す術なく……」
報告をする男にメクリアの鋭い視線が突き刺さる。
声が震えるのは襲撃された時の恐怖を思い出したのか、それとも今目の前にしている主の怒気に気圧されたのか。
一方、メクリアは数秒の間だけその部下に鋭い視線を向けていたが、やがて興味を失ったように腕を組んで思考にふけり始めた。
「やられましたか……。まさかこれほど早くこちらの戦力を潰せるとは……少々見くびりすぎましたね……」
「……いかがいたしますか?」
恐る恐るという様子で、部下はメクリアに声を掛ける。
メクリアは仕方ないというように肩をすくめると、気持ちを切り替えるように大きく息を吐いた。
「元々、先の事件でこれ以上ジハード殿の陣容を切り崩せるとは思っていませんでした。
しかし現状、私達も相手の眼前にいながら手足をもがれた状態でしかありません。今は、雌伏に甘んじるしかないようですね」
メクリアとしては、この程度の扇動でジハードの陣営を完全に切り崩せるとは思っていなかった。
あくまで自分の勢力を温存し、少しでも相手の相手の勢力を削ればよかった。
しかし、今回彼女が払った代償は相当なものになってしまった。
自陣の手駒をほぼ全て失い、温存していたはずの戦力を全てつぶされてしまった。
明らかに彼女の方が被害は大きく、正直なところ全く動きが取れない状態である。
かといって、先の事件のように内部から干渉しようにも、ジハードの陣営もグラついていた足元を完全に固めてしまっている。内側から崩す事もほぼ不可能だった。
「ですが、手をこまねいている気もありません」
メクリアは独白しながら、机の上に広げていた書類を目の前の部下に放り投げた。
「これは……」
いぶかしみながらも、床に広がった書類を手に取る部下。
名簿の抜粋なのだろうか。そこにはソルミナティ学園に属する学生の学年、名前、成績等の基本的な情報が書かれていた。
「先の事件で活躍した学生達の資料です。調べて見ましたが、なかなか面白い子達のようですよ」
「…………」
部下は黙って投げ渡された書類に目を走らせる。
名前、容姿、成績、出身等。部下はその全てを十秒足らずの間にすばやく頭の中に収めていく。
「貴方はこの生徒についての情報を集めなさい。いずれも将来有望な生徒です。その全てを私の前にさらけ出しなさい。いいわね」
「……御意」
部下は主の命を聞き届けると、すばやく影から影へと消えていく。
「……あの者も長くは使えないでしょうね。念のために、保険を掛けておきましょうか」
完全に人の気配が消えた自室の中に、メクリアの独白が小さく響く。
彼女は自室の窓へと向かうと、そっと右手を掲げた。
キュッと小さく手を握って開く。
次の瞬間、バサバサと大きな羽音とともに、黒い羽が辺りに舞い散った。
彼女の手に出現したのは、黒一色に染まった小鳥だった。
かわいらしい外見とは裏腹に、鉱石のように無機質な朱色の目が、見る者に人形のような印象を与える。
メクリアはふところから小さな紙を取り出すと、それをクルクルと巻いて小鳥の足に結び付けた。
「“屍鴉”にこれを届けてください。頼みましたよ」
手にとまる小鳥にそう伝えると、メクリアは窓を開け、その黒い小鳥を空に放った。
黒い小鳥はパタパタとその小さな翼を羽ばたかせ、青く澄んだ空へと消えていく。
「あの魔獣を滅する事の出来る存在……。何としても、確かめる必要がありますね……」
メクリアは飛び立っていった小鳥を見送ると、薄暗い自室の中へと戻っていく。
その口元には、ぞっとするほど妖艶な笑みが浮かんでいた。
というわけで、今回はノゾム達は出てきません。その代わり、新キャラが登場しました。