第7章第7節
今回は久しぶりに明るい話……一部ですけど。
回る視界と水に浮かぶような浮遊感。
再び目の前に走る無数の白線を眺めながら、ノゾムは続いてくるであろう衝撃に備えてギュッと身構える。
だがその後の展開は、ノゾムが予想したものとはやや違っていた。
一方向に流れていた無数の白線がその方向を変え、無作為に視界の中を飛び回り始めたのだ。
「あれ? 何か変だぞ。さっきとは雰囲気が違うような……」
同時にノゾムの視界が砂嵐のように不規則に明滅し始め、胎動のような耳鳴りが聞こえ始めてきた。
次の瞬間、突然の衝撃がノゾムの全身に襲い掛かる。
「な、なんだ!?」
落下速度が急激に増加し、ノゾムの体が下へ下へと引っ張られる
不規則な光の明滅間隔が短くなり、耳鳴りが徐々に強くなっていく。
「うわあああ!」
急激な速度の変化に、ノゾムの口から悲鳴が上がる。
全身に叩きつける風が体に痛みすら感じさせ始めていた。
必死に歯を食いしばって痛みに耐え続けるノゾムだが、それ以上に流れ星のように通り過ぎていく数多の光景に目を奪われていた。
額縁で切り取ったような光景が、ノゾムの前を横切っていく。
成長していくティアマットの姿。幼かった幼龍は仲間達と共に、徐々に美しい鱗と翼を育んでいく。
満点の夜空の下で寄り添うティアマットとミカエル。2匹の龍の足元に集う数多の種族たち。そして、着々と大きくなっていく街並み。
詳細は分からずとも、2匹が順調である様が容易に感じ取れた。
しかしその考えは、次の瞬間完全に否定されてしまう。
落下していたノゾムの体に衝撃が走った。
「ぐう!」
全身に走る激痛に顔をゆがめながら自分の身体を確かめて見るが、手足はきちんと動く。
身体の前面に地面の感触がある。どうやらうつ伏せに倒れ込んでいるようだ。
「一体何が……」
体の節々に走る痛みを押し殺して、ノゾムは体を起こし、そして愕然とした。
ノゾムの眼前に広がる荒廃した大地。
ブスブスと煙を上げる大地には草一本、虫一匹の痕跡すら伺えず、所々赤熱化したガラスのような結晶が氷柱のように突き立っている。
あちこちに石の廃墟が散乱し、炭化した生き物の死骸が鼻を刺すような異臭を放っている。
空には分厚い雲が渦を巻き、悲鳴のような雷鳴が大気を切り裂いていた。
そして何よりノゾムの目を引きつけたのは、廃墟に佇む一匹の黒龍の姿だった。
いや、それはもう黒龍は言い難い外見をしている。
全身のあちこちから鱗が剥がれ落ち、流れ出た血が大地に赤い川となって流れていた。
そしてかの龍の足元には、引き裂かれた4匹の龍が横たわっている。
全身に無数の穴を開けて倒れ付す黄龍、首があらぬ方向へ捻じ曲げられた緑龍、内側から爆ぜた炎龍、全身を焼き尽くされた水龍。
彼らの屍から光の粒子が舞い、呆然と立ち尽くすティアマットに流れ込んでいる。
そして死の荒野に佇む黒龍の背中には、既に歪な6枚の翼が生えていた。
「うぐっ……」
ノゾムはあまりに凄惨な光景に、思わず込み上がってくる吐き気を必死に押さえ込んだ。
ティアマットの足元に倒れている龍は、間違いなくかの龍の友人だった龍達だ。
「ここがティアマットの記憶だとしたら、一体何が……」
ノゾムの動揺を他所に、ティアマットが苦悶の声を上げた。
“グググ、ギガァ……”
呂律の回らない、軋んだ音が黒龍の口から漏れ出す。
歯を食いしばりながら、目を見開きながらティアマットは天を仰ぐ。
剣山のような歯列がむき出しとなり、白濁した眼球が空を睨み付けている。
“ナンデ、ドウ……シテ……”
雨に混じって、ティアマットの瞳から血のように紅い一筋の雫が流れ落ちる。
漏れ出した虚ろな声は雨音にかき消され、誰にも届くことなく消えていく。
悲哀と虚無感に満たされた光景。しかし次の瞬間、ティアマットの顔が再び苦痛に歪んだ。
“グギギギギギ!!”
滲み出す五色の光と共に、ティアマットの全身が硬直する。
渦を巻いていた光の粒子が脈動し、不規則に暴れはじめる。
同時に傷口から再び新たな血が噴出し、かの龍の全身を再びどす黒く染め上げていく。
激痛のあまりのた打ち回るティアマット。かの龍の巨体が暴れるたびに、地面に生えた結晶が砕け散っていく。
“テト……”
舞い散る結晶の中、ミカエルがティアマットの前に飛んできた。
純白の龍鱗に覆われた彼の身体は、舞い散る結晶の中でキラキラと輝いている。
“みか、える……?”
ティアマットが縋るようにミカエルの名をつぶやいた。
愛しい相手の姿を確かめた彼女の目に、安堵と理性の色が戻る。
だがそんな彼女を、ミカエルの憤怒の視線が貫いた。
“何て、何て事をしたんだ! 今自分が何をしたか、分かっているのか!?”
“チガウ、チガウヨォ……。私、みかえるニ会イタクテ。デモ、レグナント達ガ私ノ話ヲ聞イテクレナクテ。止メヨウトシテ。私、ワ、タシ……”
“じゃあその翼は何だ! 何でその翼が君に生えている!”
ミカエルの鋭い視線はティアマットの背中に生えた4色の新たな翼に向けられている。
足元に散らかった友人達の亡骸が、この場で起こったことを雄弁に物語っている。
だがノゾムは、ティアマットとミカエルの間の会話が微妙にかみ合っていないことに気付いた。
怒りに震えるミカエルと、何かを必死に伝えようとするティアマット。
“みかえる、話ヲ、私ノ話ヲ聞イテヨ……。オ願イ、ダカラ……”
“話を聞け!? 他でもないオル達を殺した奴の話を聞けというのか!?”
激昂するミカエルと必死に言葉を伝えようとするティアマット。だが、怒りに震えるミカエルに彼女の声は届かない。
かみ合わない2匹の会話は、どんどんズレていく。
その時、ティアマットの瞳が大きく見開かれた。よく見るとミカエルの耳元に白い羽飾りがつけられている。
所々に金があしわれ、ちょうど白龍の皮膜によく似た、神秘的な耳飾り。
安堵を浮かべていたはずのティアマットの瞳が、絶望の色に染まっていく。
“みかえる、ヤッパリ、嘘ダッタノ……。ズット、一緒ッテ……”
“嘘!? オル達を、この大切な場所を壊しておきながら、よくそんな事が言えるな!? 先に約束を破ったのはそっちじゃないか!?”
致命的な言葉がティアマットの胸を深々と貫き、彼女の精神に致命的な穴を穿ってしまった。
“ア、アアアアアア!”
“くうっ!?”
絶叫と共に、ティアマットの身体から5色の力が爆発的に放出された。
ミカエルは叩きつけられる異色の力に吹き飛ばされながらも、翼を広げて何とか体勢を立て直す。
一方、激烈な力を放出したティアマットは先程の気勢から一転。項垂れ、死んだように沈黙してしまう。
その時、凛とした声が辺りに響いた。
“そこまでだ、ティアマット”
その声に反応したミカエルが辺りを見渡すと、十数匹の龍達が周囲を取り囲んでいた。
ミカエルと比較しても分厚く、年月を経た鱗を纏った6種すべての龍達が大挙してこの場に押しかけている。
その中で、一番年月を経ていると思われる老龍6匹が前へと進み出る。おそらく彼らが一族の長なのだろう。
皆一様に茫然自失となってティアマットを睥睨しながら、彼女の様子を伺っていた。
“ミンナ、ミンナ。私ヲ騙シテ、嘘ツイテ……”
“驚いたな。この状態でまだ自我が残っているとは……”
老獪な白龍がティアマットの様子を見て目を見開いている。
精霊種である龍は、本来自分が統括する属性の色に染まっているため、同族以外の龍種から力の継承を行うことが出来ない。
取り込んでしまった場合、自身の体内で異種の源素が干渉しあい、結果的に魂もろとも肉体が崩壊してしまうのが普通だ。
当然、そんな苦痛に苛まれたのなら自我など残るはずもない。
しかし目の前の黒龍は、4種もの異なる力を取り込みながらも、かろうじて意識を保っている。
“しかし、どの道長くないだろう。介錯してやった方がいいのではないか?”
“何故だ! 私の息子を殺しておきながら、何故そのような情けをかけてやる必要がある! 魂と肉体が腐っていく苦痛を味わいながら、魂ごと消滅すればいい!”
“だが、このまま放置すれば、この小娘が取り込んだ力が無作為に解放されてしまいます。そうなってしまっては、被害は今の比にならないでしょう”
黄龍の一匹がこの場での介錯を提案するが、激昂した赤龍が口を挟む。
そして怒りのあまり我を失いかけている赤龍を嗜めるように、青龍が苦言を呈す。
ティアマットの処断について、あちこちで議論が紛糾する中、ティアマットは俯きながら、呂律の回らない口調で怨嗟の言葉を吐いていた。
“ヨクモ、ヨクモ……”
そんな中、老獪な白龍が前へと進み出る。
ティアマットを取り囲んだ龍達の中でも、圧倒的な風格を備えた老龍。
積み上げた年月は、ティアマットやミカエルはおろか、他の族長とも比較にならないだろう。
その老龍の気配に当てられたのか、先程まで白熱した議論を展開していた他の龍達も皆一様に口を閉ざした
“ミカエル、どくのだ”
“父上……”
“……こうなってしまった以上、この娘を生かしておくわけにはいかない。秘術を使い、この娘の魂を砕いて、その身体と魂を世界に返す。
いくら友人を殺した龍であるとはいえ、お前に彼女を殺すことは出来ないだろう。下がっていなさい”
ミカエルに父と呼ばれた老龍は若い息子を下がらせると、項垂れるティアマットを一瞥した。
“グググ……ギ、ギギィ……”
“このような事になるとは……。哀れとは思うし、いささか同情を禁じえないが……許せよ”
一瞬、老龍の瞳に感情の色が宿る。しかし、ノゾムにはその目に宿った感情を推し量れなかった。
怒りか、憐憫か、それとも悲哀か。よほどの何かがあったのか。その老龍はあまりに多くの感情をその目に宿している。
誰一人口を開くものがない中で、老龍は天を仰いでその口腔を広げた。
老獪の身体から白く輝く源素が津波のように噴出した。
噴出された膨大な源素が渦を巻きながら収束し、その矛先を哀れな黒龍へと定める。
その時、項垂れていたティアマットがおもむろに首を上げた。
憎しみに染まった視線が上空で舞う龍達に向けられる。
血のように真っ赤に染まった角膜。瞳の中心の瞳孔には、ねっとりとした5色の泥が蠢いていた。
“滅ビレバイイ……”
“何!?”
「これは……!」
ティアマットの憎悪に呼応するように、5色の光がかの龍の体に収束していく。
ただ源素が集まるだけでティアマットの足元が削れ、大気が悲鳴を上げ始める。
次の瞬間、爆発的で暴力的な破壊の嵐が放出された。
“むうう!”
“アアアアアアアアアアアア!”
牙を向いてくる破壊の嵐に向かって、老龍が渾身の一撃を放つ。
両者が激突した瞬間、爆発した6色の光がノゾムの視界全てを飲み込んだ。
ノゾムは思わず自分の手を翳すが、指の隙間から洩れた光ですら彼の網膜を激しく焼いてく。
「見るな!」
全てを焼き尽くす極光の中、ノゾムの耳にティアマットの叫び声が聞こえてきた。
次の瞬間、全身を焼かれる感覚が突然失われる。
「っつう! ここは……」
体中に走る痛みに顔を顰めながら目を開く。
まだ視界にはチカチカと火花が走っているが、ノゾムには今自分が何所に立っているのかは理解できた。
硬質化した草木と、暗灰色の大地。
ノゾムは三度、あのガラスの草原へと戻ってきていたのだ。
だが今までと違い、彼の眼前には煌々と燃え盛る焔が地を張っている。おそらくはここが目指していた場所。
そして山のような巨体が6枚の翼を広げ、茫然とした表情でノゾムを見下ろしていた。
「貴様……どうやってここに入り込んだ!」
「さあ、な。気がついたらここに居たんで、理由なんて分からないよ」
この場にノゾムが現れたことに、ティアマットが声を荒げる。
ノゾム自身も内心驚いていたが、渦巻く驚愕を押し殺しながら平静を装っていた。
沈黙を保つ両者。パチパチと火の粉が爆ぜる音だけが草原を支配している。
そんな中、先に口を開いたのは、闖入者であるノゾムのほうだった。
「あれが、お前の過去……なのか?」
ごくりと唾を飲み込み、大きく息を吐きだすと、ノゾムはゆっくりとティアマットに問いかける。
ティアマットからの敵意が更に強まった。
「忌まわしい……。人も、龍も、何もかも!」
「……人? あの光景に人間も関わっていたのか?」
ノゾムの言葉にティアマットは眉をひそめると、フン! と荒く鼻を鳴らした。
「貴様が見たのは我の記憶の一部のみか。相変わらず、盗人のような姑息さだ……」
「お前は……」
ティアマットの目に宿る嫌悪の光。その色にノゾムは既知感を覚える。
だが、ノゾムが言葉を発する前に、ティアマットが巨木のような前足を振り上げた。
ノゾムは慌てて気を全身にめぐらせ、全力で後方へ跳躍する。
燃え盛るガラスの草原に巨龍の前足が打ち込まれ、地を走る衝撃波がノゾムごと草木をなぎ倒す。
「くう……。待て! お前が復讐する理由って……!」
衝撃波にもみくちゃにされながら、ノゾムは何とか受身を取って体勢を立て直す。
しかし、ティアマットはすばやく翼を広げ、空中に無数の光弾を生成。目の前の怨敵めがけて一斉にその矢を撃ち放った。
「くそ! 話くらい聞けよ!」
聞く耳を持たないティアマットにノゾムも愚痴をはき捨て、自らを縛る鎖を引きちぎる。
一瞬で全身に満ちた強大な力を足に集中させて前方へ跳躍。次々と背後で着弾する光弾を尻目に、一気にティアマットとの間合いを詰める。
携えた刀の鯉口を切り、抜刀。同時に付与された気刃がティアマットに向かって牙をむく。
「無駄だ!」
しかし、やはりティアットの強靭な鱗を切り裂くには至らない。ノゾムの“幻無”は鱗の表面で弾かれ、散った気の粒子が空しく宙を舞う。
そしてお返しとばかりに、ティアマットがその大木のような尾をノゾムに向かって薙ぎ払った。
だが、ノゾムもそれは織り込み済み。今まで散々夢の中で叩きのめされてきたのだ。自分の遠距離攻撃が一切通用しない事はとうの昔に理解していた。
「ふっ!」
ノゾムは迫ってくるティアマットの尾を跳躍してかわしつつ、一気にティアマットとの距離を詰めた。
彼が標的としているのは、ティアマットの長い首。
ちょうどかの龍は尾を薙ぎ払った動作で後ろを向いている。この機に、一気に間合いを詰め、刀で直接斬りつける。
だがノゾムが今まさに刀を振り被ろうとしたとき、強烈な衝撃が横合いから彼を襲ってきた。
「があ!」
あまりの衝撃にノゾムの肺から空気が漏れ、続いて彼の身体が地面に叩きつけられる。
一体何が……。
ノゾムが疑問の答えを導き出すよりも早く、強烈な悪寒が彼を襲った。
「っ!?」
身の毛が逆立つような殺気に、ノゾムは後先考えずに自分の身体を横へと投げ出した。腕と気を全力で搾り出し、出来る限りその場から距離をとろうとする。
そして、更なる衝撃が彼を襲った。
「っううう!」
衝撃と共に地面が砕かれ、ノゾムの身体が宙に放り投げられる。
霞む視界の中、ノゾムの目に飛び込んできたのは、深々と地面に打ち込まれたティアマットの尾だった。
「その程度の考え、読めぬと思ったか!?」
ティアマットの尾による初撃は単なるおとり。薙ぎ払うように振り抜いてノゾムの行動を制限し、返しの一撃で空中にいる無防備なノゾムを迎撃。そして打ち下ろしの一撃で仕留めようとしたのだ。
止めの一撃をかわされ、内心舌打ちをしたティアマットだが、後先考えない回避の所為で、ノゾムはまだ立ち上がれておらず、隙だらけだった。
「滅せよ! その忌まわしい鎖とともに!」
ティアマットの口腔に巨大な炎塊が出現する。
ノゾムも先程の一撃で全身がしびれながらも、何とか立ち上がる。
しかし、回避は既に出来そうになかった。
ティアマットが混沌の焔を撃ち放つ。
「くう! おおおおおお!」
裂帛の気合を込めて、刀を振り下ろす。
巨大な気の刃がティアマットの炎塊にめり込み。一方的に打ち消されていく。
だがそれでも、ノゾムは眼前に迫る炎塊から目を逸らさなかった。
目の前に波紋が広がる。
そして焦熱の塊が彼の体を飲み込むかと思われた瞬間、視界が暗転し、彼の体はこの場から消え去った。
暗転した視界が色を取り戻した時、ノゾムの目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。
「ここは、どこだ?」
ぼやけた思考が定まらないまま、ノゾムはムクリと体を起こす。
周りに見えるのは天井と同じ無機質な白色の壁と、申し訳程度の戸棚。そして傍の台に置かれた花瓶のみ。おまけに壁には窓ひとつない。
「あれは……。一体……」
先程見たティアマットの悲しみと憎悪、そして絶望と憤怒。あれは間違いなくかの龍の過去なのだろう。
ティアマットの過去を思い出しながら、ノゾムは胸の奥がうずくのを感じた。
とはいえ、今考え込んでも答えが出ない。
取りあえずノゾムは頭を振って、意識を切り替え、ベッドから降りようとする。その時、ノゾムは奇妙な違和感に気付いた。
「ん?」
周りに水が入るようなものはないのに、布団に掛けた手がほんのりと湿った感触を返してくる。
「濡れている。それに……」
そっと唇に手を当てると、どこかほっとする香りが鼻孔をくすぐった。それが妙にノゾムの心を締め付ける。
「とにかく、ここを出て……痛たたたた! 体がカチコチだ」
心に引っ掛かる水跡と唇の残り香をとりあえず頭の隅に置き、ノゾムはベッドから起き上がろうとする。
ところが、何日も寝たきりだった彼の体はすっかり固くなってしまい、ミチミチと悲鳴を上げた。
ノゾムはいきなり走った全身の痛みに涙目になりながら、ゆっくりとベッドから這い出る。
「よっと。それにしても、ここはどこだろう。ノルン先生の家じゃないし、学園の保健室でもなさそうだし……」
ノゾムが首を傾げていると、ガチャリと音を立てて病室の扉が開かれた。
入ってきたのはカルテを持った女医。
彼女は何やらプンスカと怒った様子で病室に入ってくると、起き上がっているノゾムを見て目を見開いた。
「「あっ」」
互いの視線が交差し、漏れ出た2人の声が重なる。
しばしの間呆けた顔で見つめ合っていた二人だが、とりあえずノゾムが窺うような口調で挨拶した。
「ど、どうも、おはようございます?」
首をかしげるノゾムに対して、女医はツカツカと足音を鳴らして近づくと、彼をベッドに押し戻した。
「ぐえ!」
思わず腕に余計な力が入ってしまい、ノゾムが苦悶の声を漏らす。
「あ、あの。い、一体何が……」
「いいから大人しくしていなさい! まずはジハード先生に連絡して……。いや、精密検査が先かしら?」
いきなり昏睡状態の患者が目を覚ましたことに困惑している女医をよそに、ノゾムは状況が分からず、目を白黒させていた。
「……え、え?」
「ちょっと! 誰か来て!」
声を荒げて人を呼ぶ女医に対して、ノゾムは何とか話を聞きだそうとするが、一切無視されたまま放置された。
呆然としたままのノゾムの耳に、ドタドタと鳴り響く足音が近づいてくる。何かと思って病室の扉に目を向けると、鎧に身を包んだ憲兵が病室の扉から飛び込んできた。
「暫くこの子がうろつかないように見ていて! 私はジハード先生に連絡を取ってから検査の準備をするから!」
粗雑な口調で女医は憲兵にノゾムの監視を言い伝えると、慌てた様子で病室から飛び出していった。
バタンと大きな音を立てて閉まるドアを眺めながら、ノゾムは呆然と目の前の光景を眺めるしかなかった。
「な、何ごと?」
「まだ状況が良く分かっていないのか?」
「は、はい。今しがた目が覚めたところで……」
呆けた様子のノゾムに憲兵が声を掛け、簡単な事情を話す。
「ああ、そうなのか。実は、君は2週間近く寝たきりだったのだ」
「2週間!?」
「ああ、昏睡状態が続いていたようでな。どうしてこうなったのかは、私は分からないが……」
話を聞く限り、この憲兵はほとんどノゾムの事情を知らないようだ。
リサやケンはどうなったのだろうか? アイリス達は大丈夫なのだろうか? あの魔獣はどうなったのだろうか?
様々な心配事がノゾムの脳裏によぎる。
目の前の憲兵から話を聞き出したい衝動に駆られるが、かなりきわどい内容も含まれるだけに、簡単に口にしていいのか憚られた。
暫くノゾムが顎に手を当てて考え込んでいると、再び廊下から荒い足音が聞こえてきた。
「ん? もう戻ってきたのかな?」
先程の憲兵よりもさらに騒々しい足音が、ノゾムの病室まで響いてくる。
女医が戻ってきたのかと思ったノゾムだが、目の前に飛び込んできた光景に目を見開いた。
「ノゾム!」
「ア……アイリス!? それに……ティマさん?」
病室の入口に立っていたのは、艶やかな黒髪の同級生とその親友。なぜか目元を真っ赤に晴らした少女の瞳が、真直ぐノゾムに向けられていた。
「ええっと、おはようございます? 朝かどうか分からないけど……ぶべ!」
また怒られて物でも投げられるのかと思ったノゾムは、アイリスの姿を見て思わず身構える。
しかし次の瞬間、目の前に突然黒髪のカーテンが広がっていた。
続いて猛烈な衝撃がノゾムの身体に襲い掛かり、同時に柔らかいアイリスディーナの感触に包まれる。
「どわああ! ア、アイリス。何、何なの!? 何やってんの!?」
飛びついてきたアイリスディーナを慌てて受け止めたノゾムは混乱状態。
そんなノゾムの動揺を他所に、アイリスディーナは力いっぱいノゾムを抱きしめる。
柔らかい感触と、締め付けられる息苦しさに襲われ、ノゾムは嬉しいやら息苦しいやら訳が分からなかった。
「うう……。ぐす……」
「……アイリス、泣いているのか?」
だが、そんなノゾムの動揺は、アイリスディーナの嗚咽にかき消されていく。
ノゾムの手が自然と彼女の頭をなでる。
普段の凛とした彼女とはまるで違う、怯えた少女のような姿に、ノゾムも言葉を失う。
その時、三度病室のドアが荒々しく叩き開けられた。
「はあ、はあ、ノゾム君!?」
今度病室に突入して来た人物はシーナだった。
よほど慌ててきたのか、彼女は息を弾ませて、頬を真っ赤に火照らせている。
最も、顔が上気していたのは、ここまで全力で駆けただけではないのだが……。
「あ、シーナ。おは……ぐえ!」
そして二度目の衝撃がノゾムを襲う。
部屋に入るやすぐさま飛びついてきたシーナに、ノゾムは再び悲鳴を上げた。
「ちょ、2人とも! 倒れる、倒れる!」
弱った腹筋に喝を入れて、何とか2人を受け止めたノゾム。だが、自身に掛かる重さが一気に増したことで後ろに倒れそうになっていた。
後ほんの一押しすれば、この危ういバランスは一気に崩れるだろう。そして、そんなノゾムの不安を予見するように、今度は子猫のように可愛らしい声が病室に響いた。
「ノゾムさん!」
病室に駆けつけてきた3人目は幼い天使。姉によく似た漆黒の瞳は潤み、真直ぐノゾムを見つめていた。
感極まった様子で鼻をすすった少女が、ノゾムめがけて一気に駆け出す。
「ソミアちゃん、ちょ、ちょっと待って!」
こちらに向かって全力疾走してくるソミアにノゾムは慌てて静止を促すが、肝心のソミアにはまったく聞こえている様子がなかった。
「ノゾムさ~ん!!」
跳躍、そして衝突。
何とかバランスを保っていたノゾムの身体が一気に傾き、必死の抵抗むなしく4人の身体はベッドから転がり落ちた。
「うわああああああ!」
「きゃあああ!」
ドスンと背中から落ちたノゾムだが、さらに3人分の体重が加わり、肺を打ち抜いた衝撃で息が出来なくなる。
ついでにノゾムが使っていたかけ布団もひっくり返って4人に覆いかぶさってきた。
「きゃあ! 真っ暗です!」
「んぅっ! ちょ、何処触っているの!?」
「ノゾム、ノゾム……!」
「み、みんな。あ、暴れ……ないで、くれ。い、息が……」
暗闇の中で暴れる3人、悶えるノゾム。つい最近からこの病室に籠っていた陰鬱な空気がウソのようだ。
もっとも、今はなんとなく甘酸っぱい空気が満ちているが……。
「いいな……。若いって……」
きゃあきゃあと騒ぐ4人の姿を、見張りの憲兵がどこか羨ましそうに眺めていた。
というわけで、ようやくノゾムが目覚めました。
まあ、この辺りで第7章の全体の3分の1くらいですね。
長い長いといわれますが、一応テーマが「選択」なので、それに相応しい話に仕上げて行きたいところです。