第7章第6節
「はあ……」
授業が終わり、生徒達が下校する光景を屋上で眺めながら、カミラは深く溜息を吐いて落ち込んでいた。
「どうすればいいのかな……」
ケンが起こした事件が白日の下に晒され、彼が退学処分になったことでリサに向かってしまった悪意。
同情的な意見もないわけではないが、それでも大半の生徒達からリサは白い目で見られている。
脳裏に浮かぶのは、罪悪感に苛まれ、消耗していくリサの姿。
どうにかしたいと色々と話しかけたり、励まそうとするのだが、一向に成果がない。
声を掛けても、リサは“大丈夫だ”と空元気をだし、“巻き込んでゴメンね”と謝るのだ。
「ダメダメ! ノゾムが寝込んじゃっている今、私がしっかりしないと……」
ブンブンと頭を振って気持ちを切り替える。
彼女にとって幸いだったのは、ノゾムがリサへの復讐に囚われていなかったことだ。
ノゾムが激情に駆られてリサを責めたりせず、その怒りを押し殺して気遣ってくれたからこそ、リサはまだ何とか折れずにいる。
これでノゾムがリサに激憤を向けていたら、きっとリサの精神的支柱は完全に壊されていただろう。
それでも、限界は近いだろう。周囲から向けられる悪意に、リサは日に日に弱ってきて来ている。
「とにかく、今は出来るだけリサと一緒にいよう。私は出来ることをしなくちゃ……」
親友の心を救えない自分に歯噛みしながらも、やるべきことを確認した彼女は、パン! と自分の頬を叩いて気合を入れる。
「よし、そうと決めたらリサを探して……あれ?」
「あ……」
カミラがリサを探しに行こうとしたとき、屋上の入り口でキョロキョロとあたりを見渡している人影を見つけた。
カミラと同級生のティマである。
誰かを探しているのか、キョロキョロと周りを見渡している彼女だが、どことなく落ち着かない様子だ。
「……どうかしたの?」
「あ、カ、カミラさん……」
声を掛けられ、ティマがようやくカミラの存在に気付いた。
カミラは以前蔓延していたノゾムの噂もあり、ティマとほとんど話したことはない。
しかし、ティマ自身が元々大人しい性格であるので、幾分声をかけやすかった。
とはいえ、ノゾムに対する罪悪感からニコニコ笑顔で語り合う間柄でもないのだが……。
「え、えっと……。ア、アアア、アイを探しているんだけど、み、見ていないかな?」
ティマとしてもカミラの事はいろいろと複雑なので、ガチガチに緊張してしまっていた。
口から出た言葉はお世辞にも流暢とは言い難いもので、声のトーンも変になっている。
「ア、アイリスディーナさん? た、多分もうノゾムのところに向かったんじゃ、ないかな……」
「そ、そうだよね……うう、間に合わなかった」
アイリスディーナの名前を聞いて、カミラの顔に緊張が走る。
ティマとしては今日中にアイリスディーナと話をするつもりだったのだが、偶然にも機会がなく、結局放課後まで話せずじまいだった。
終礼が終わった直後もアイリスディーナは直ぐに教室を出てしまい、後を追ったが結局見失ってしまっていたのだ。
一方、カミラとしても複雑な気分で項垂れる少女を眺めていた。
「……ねえ、どうして何も言わないの?」
「え?」
思わず口から出た問い掛け。
いきなりかけられた言葉に、ティマは目をぱちくりさせている。
「い、いや。貴方達から見れば、私達は罵声を浴びせられても仕方ないかなって……」
ケンが起こした事件の後で色々ゴタゴタしている内に曖昧になってしまったが、カミラはアイリスディーナ達から罵倒されることは覚悟していた。
だが蓋を開けてみれば、2週間経っても特に何も言われない。それどころか、負傷した右足について心配されるくらいだ。
どうしてそんな風に私たちに接してくれるのだろうか。
言葉にはしなかったが、ずっとそんな疑問が脳裏に過っていた。
「そうだね。ノゾム君から話を聞いた時は、みんなすごく憤慨していたよ。特にマルス君なんかは怒り心頭で、怒らないノゾム君に詰め寄っていたし……」
「ははは……そう、だよね」
改めて言われるとさすがに堪えたのか、カミラはガクッと肩を落として項垂れてしまう。
「ノゾム君も言っていたよ。怒ってはいるって……。
でも、それ以上に悲しそうだった……。そんなノゾム君の姿を見たら、私たちも何も言えなくなっちゃうよ」
カミラは思わず涙ぐんだ。
分かっていたことだ。ノゾムが怒りを押し殺しても、リサが立ち直ることを望んだことは。
そしてノゾムの意思を尊重してくれている彼女達にも、感謝の念が込み上げてくる。
「ノゾム君が何も言わないなら、私も何も言わない。だから今は、早く目覚めてほしい。私の気持ちはこれくらいかな? でも、アイは……」
「…………」
先ほどまで苦笑を浮かべていたティマの表情が曇る。
彼女の口から出てきたアイリスディーナの名前に、カミラも表情を引き締めた。
「カミラさんも気付いていると思うけど、最近のアイは少し様子が変でしょう? どこか無理しているというか……」
「それって、やっぱり……」
ティマは躊躇うように指先をいじりながら、カミラの問いに小さく頷いた。
「うん。ノゾム君に対する私の気持ちとアイの気持ちは違うから……」
アイリスディーナ・フランシルトはノゾムに思いを寄せている。ちょっと事情を知っている者なら、分かっていることだ。
カミラも街で偶然ノゾム達と遭遇した際に、彼の隣に寄り添うアイリスディーナの姿を見ている。
「初めてかな。アイのあんな辛そうな顔を見るの……」
ティマのつぶやきが風に溶けていく。
カミラは沈痛な表情に何も言えず、押し黙るしかなかった。
だがその切ない横顔から、どれだけティマが2人を案じているかは手に取るようにわかった
「カミラさんは、どうするの?」
ティマがカミラに視線を戻す。
カミラはしばしの間俯いて考え込むと、徐に空を見上げた。
何処までも広がる大空を地平線に沈む陽が赤く染め上げている。
「私も、気持ちはノゾムと同じかな。リサに立ち直ってほしい。私の親友で、恩人だから……」
リサと自分は、ある意味同罪だ。共に最後までノゾムを信じ切れず、2年間もの間彼を苦しめることになってしまったと、カミラは考えている。
リサに立ち直ってもらいたいという思いは彼と同じ。しかし、同じ罪を背負う自分では自分と彼とは決定的に違っていた。
それは今のリサを見れば否応にも理解させられる。
でも、それでも……。
「……そっか」
ティマが小さく微笑み、カミラも答えるように首肯した。
「それに、まだきちんとノゾムに謝りきれていないし。彼は気にしていないって首を振るかもしれないけど、やっぱり……ん?」
口元に皮肉めいた笑みを浮かべつつも、カミラの声色からは悲嘆の色が薄まっていた。
その時、人気のない校舎裏でたむろする集団がカミラの目に留まる。
遠目からでは何をしているか分からない。もちろん彼らの声など聞えるはずもないのだが、何やらただ事ではない雰囲気を醸し出していた。
「あれって……!」
「もしかして、リサさん?」
彼女の目にチラリと真紅の髪が映った。
いやな予感が胸を穿つ。
カミラはその予感に急かされるように、慌てて階段へ飛び込み、ティマが慌ててその後を追って行った。
俯きながら誰とも視線を合わせず、リサは足早に廊下を歩く。
周囲から向けられる侮蔑の眼差しが、凍り付いた彼女の心を徐々に砕いていく。
矢のように突き刺さる視線から逃れたくて、リサはわざと人気のない校舎裏へと足を向けた。学園を覆う壁はかなり高く、薄暗い校舎裏は彼女の姿を人目から隠してくれる。
だが彼女が一息つく間もなく、ガヤガヤと目の前に複数の生徒が躍り出てきた。
皆一様にニヤついた気味の悪い笑みを浮かべている。
「リサさん、ちょっといいかしら?」
集団から一歩足を踏み出したのは、よく知らない女子生徒。
おそらく同じ3学年の人間なのだろうが、腕を組んで得意げな顔を浮かべている。
「……なん、ですか」
「いいから、ちょっとお願いがあるの。頼まれてくれない?」
リサは思わず後ずさった。
嗜虐的な笑みを浮かべる少女に、言いようのない悪寒を覚える。
「……ごめんなさい、行かなきゃいけないから」
「いいから来なさい!」
「痛っ! な、何を!」
背を向けて立ち去ろうとしたリサのポニーテールが力いっぱい引っ張られた。
ブチブチと音を立てて、リサの髪の毛が何本か引き千切られる。
彼女の悲鳴を無視しながら、少女はリサの体を振り回すように後ろの壁にたたきつけた。
衝撃でせきこむリサに、後ろで控えていた男たちが群がる。
リサの腕、脚を抑え込み、魔法の詠唱できないように口を塞ぐ。
「お、おい。いいのかよ……?」
「別にかまいやしないわ。こんな尻軽女、誰も気にしないでしょう? それにこの女、前々から気に入らなかったのよ。平民風情のくせに……」
「むぐうう!」
そう言いながら、彼女は隠匿の結界を発動させる。
実家が特権階級であるがゆえの傲慢。おそらく今まで手が出せなかったのが、彼女の評判がケンの起こした一件で地に落ちたことから彼女を排除できると考え、行動に踏み切ったのだろう。
はっきり言って三下以外の何者でもない。
当然、リサとて伊達に3学年のトップクラスの実力者ではない。
素早く膝で右足を押さえていた男子生徒の顎をかち上げて引き剥がすと、左足にしがみついていた生徒の側頭部を蹴り抜く。
「この!」
「ふっ!」
左足を押さえていた男子生徒が右足も抑えようと手を伸ばすが、リサはがら空きになった男子生徒の頬に、回し蹴りを叩き込む。
くぐもった悲鳴を上げながら、顎を蹴り抜かれた生徒が悶絶して倒れ込む。
後は上半身を押さえている生徒2人を引き剥がせばいいだけだ。
「いい加減にしなさいな!」
だが、抵抗するリサに歯噛みした女子生徒が放った雷弾が、リサの腹部に直撃した。
「きゃあああ!」
悲鳴を上げながら、リサの全身が痙攣する。
間違いなく手加減なしの一撃。雷弾が直撃した腹部は制服が焼け、痛々しく真っ赤に腫れていた。
「しっかり押さえろ」
「くう……!」
感電して身動きが取れなくなったリサに、再び取り巻きの男達が抑え込みにかかった。
それでもリサは痺れて感覚がない手足を必死に動かそうとする。
「別にいいだろ。どうせ何人も食っているに決まっているんだからな」
「ふざけ……ないで。誰が、貴方達なん、かに……!」
耳元で舌なめずりする男達に、身の毛がよだつほどの嫌悪感が沸く。
全身を縛る激痛を押し殺しながら、リサは両腕に無理やり魔力を集中させる。
今、彼女は舌がしびれて満足に詠唱が出来ない。こうなったら魔力を暴走させて、諸共吹き飛ばしてやるつもりだった。
だが、女子生徒が口にした名前を耳にした瞬間、抵抗していたリサの全身が硬直した。
「何を言っているのかしらこの売女は。今さら自分が綺麗だとでも思っているの?」
「っ!?」
「知っているわよ、あなたが毎日彼のところに顔を出しているのは。あれだけ酷い裏切りを彼にしておいて、今更よりを戻そうなんておこがましいと思わないの?」
目を見開いて硬直したリサの姿を見て、女子生徒の口元が楽しそうに釣りあがる。
その歪んだ笑みが、自分より優れていた相手を追い詰め、傷つけ、壊すのがたまらなく嬉しいと物語っている。
更に彼女はリサの髪を鷲づかみにし、毒香のような言葉を彼女に振り掛け続ける。
「今さらノゾムの傍にいれるとでも言うつもり?」
その言葉が、抵抗しようとしていたリサの気力を完全に奪い去った。
これでもかと目を見開いた彼女の瞳から、光が瞬く間に消え失せていく。
「お、大人しくなったな。さすがにあいつの名前は効果抜群だな」
「それにしても、えげつないな」
「ふん、言ったでしょう。気に入らないって。今までずっと我慢していたけど、もう限界よ! この売女も、最底辺もね。ゴミはさっさと排除するに限るわ」
吐き出される言葉はお世辞にも高貴な一族のものではない。まるで汚物のような醜悪さだった。
女子生徒はフン! と汚らわしい者を見る目つきでリサを一瞥する。
「貴方達、さっさとしなさい。見つかったらヤバいことに……」
「へへ、分かっているって。じゃあ早速俺から……」
おもむろに一人の男子生徒がリサの体にのしかかろうとする。その様子を、女子生徒は満足そうに眺めている。
「ほう、何が見つかるとやばいのだ……」
「っ!?」
欲望に凝り固まった空気が引き裂かれる。
腕を組んで口元を歪めていた女子生徒に衝撃が走った。リサを押さえ込んでいた男子生徒も、雷に打たれたように全身を硬直させている。
振り向いた女子生徒の目に、夕日を背中に受けながら歩み寄ってくる女子生徒の姿が映った。
漆黒の髪が風になびき、照らし出された同色の影が暴行犯達を覆う。
「あ、アイリスディーナ・フランシルト……」
「君はタルド家のご令嬢か……こんなところで何をしている……」
アイリスディーナの鋭い視線が女子生徒を射抜く。
続いて周りにいた男子生徒、そして最後に押し倒されているリサへと向けられた。
はだけた彼女の制服が、ここで何が行なわれようとしていたかを明確に物語っている。
アイリスディーナの目に浮かぶのは蔑みと怒りの感情。
普段の自制心が強い彼女から想像も出来ないほど、ドロドロとした憤怒が全身から醸し出されていた。
「い、いや、その……」
女子生徒は焦りを何とか押さえ込みながら、必死に言い訳を考えはじめた。
しかし、視線が定まらず、宙を泳ぐその様は、どう見ても動揺を隠しきれていない。
「こ、これは、あれよ……。そう! いわゆる、不定戦の訓練で……ぎゃ!」
「彼女を離せ」
女子生徒が何か口にする前に、打ち出された魔弾が彼女の足元の地面を打ち飛ばした。
舞い散る土に、女子生徒は思わず悲鳴を上げる。
貴族社会で海千山千の経験をしているアイリスディーナにとって、目の前の女子生徒の言い訳はあまりに滑稽だった。
そもそも、学園という狭い場所でこのような行為に及ぶことすら、目撃される危険性を高めている事が分からなかったのだろうか?
隠匿の結界も稚拙。自分から襲撃対象に接触するということもハッキリ言って馬鹿の所業だ。
姿を見せるなら、徹底的に相手の口を封じることを考えておかなければならないのだが、この女子生徒にそこまでの考えがあったとは思えない。
自分がするなら、相手の弱みを徹底的に突いて心を折る、人質をとり、最終的には……。
「っ!」
アイリスディーナは今しがた浮かんだ自分の考えに、思わず愕然とした。
一体自分は何を考えていたのだろうか。おおよそ、人として軽蔑される行為を、何の抵抗もなく思い浮かべていた。
苦々しく唇をかみ締め、頭を振って脳裏に浮かんだ醜悪な闇を振り払う。
「あ、アイリスディーナさん、これは……グハッ!」
「何度も言わせるな。彼女を離せ」
女子生徒がまだ何か言おうとしていたが、アイリスディーナはもはや聞く気などなかった。
闇色の魔力弾を彼女の腹に撃ち込み、強制的に黙らせる。奇しくもその光景は、先ほどの彼女とリサの焼き直しのようだった。
痛む腹部を押さえながらも、女子生徒はキッとアイリスディーナを睨み返す。
「な、なによ! 貴方だってこの女が我慢ならないはずよ!」
まだ減らず口が聞けるあたり、アイリスディーナは加減を間違えたかと歯噛みする。
目を細めたアイリスディーナに気付かないまま、女子生徒は罵詈雑言を喚いて彼女の神経を逆なで続けていた。
「あ、貴方だってこの女が邪魔なはずでしょう! 大体許せるの!? 勝手に捨てておきながら、状況が変わったら簡単に手のひらを返せる売女が……」
「……黙れ」
アイリスディーナの周囲に複数の魔力弾が形成され、一斉に女子生徒に殺到した。
次々と着弾する魔力弾によって、土煙が舞い上がる。
「きゃああああ!」
アイリスディーナは魔力弾を撃った端から再形成し、追撃を放ち続ける。
息つく暇もない連弾が、倒れこんだ女子生徒をあっという間に覆い隠していく。
「ひ、ひっ……」
やがて魔力弾の嵐が通り過ぎると、そこには無傷の女子生徒が肩を震わせていた。
彼女の周囲の土は抉られ、無数の穴が作られている。
アイリスディーナは撃ち放った魔力弾を女子生徒に当てる事はしなかった。しかし、魔法に込めた魔力は、間違いなく実戦仕様だった。
アイリスディーナの魔法はティマと比べれば威力に乏しいが、それでも先程の魔力弾は一つ一つが直撃すれば、骨を折るだけの威力はあった。
その暴力の嵐を目の当たりにした女子生徒は、痛みはなくとも、あまりの恐怖に完全に沈黙した。
悲鳴すら上げられず、まるで幼児のように怯えきっている。
「う、うわあ!」
あまりに容赦のない暴力の嵐を目にして、緊張の限界を迎えた男子生徒が悲鳴を上げながら背を向けて逃げ出そうとした。
その生徒の足元に一本の矢が突き刺さる。
「何逃げようとしているのよ」
思わず矢の出所に男子生徒が目を向けると、そこには青髪を風になびかせたエルフの少女が弓を構えていた。
「シーナ・ユリエル……」
「ああ、逃げたかったらどうぞ。もっとも、その体にいらない物を二、三本生やすことになるけど……」
シーナがニッコリとした笑みを浮かべながら、威圧感たっぷりに狙いを男子生徒の眉間に定めている。
口調こそ穏やかだが、ギリッと引き絞った弦からは、1人も逃さないという明確な意思が醸し出されていた。
確実に矢の一、二本くらい当てるつもりだ。これでは男子生徒達は逃げようがない。
「くうう……」
「さて、この様子では、話を聞かせてもらう必要もなさそうですね」
「インダ先生……」
ぐもった呻きを上げる男子生徒達の前に、今度は教本を抱えたインダが姿を現す。
「報告を聞いて急いで駆け付けたのですが……。さすがに黙ってみすごせるものではありません」
「う、ううう……」
項垂れる男子生徒を一瞥すると、インダはすばやく拘束魔法を使用。
男子生徒の後ろで逃げる機会をうかがっていた生徒も含め、全員を鉄の鎖でグルグル巻きにされる。
「リサ! 大丈夫!?」
「アイ、それにインダ先生!」
屋上で事の始まりを見ていたカミラとティアが、ようやく現場に到着した。
「こちらは心配ありません。きちんと“目”が機能してくれていたようですし……」
インダは飛び込んできた2人を一瞥すると、遠くの校舎の影にチラリと視線を向けた。
夕日の影に映りこんだ人影が、人知れず姿を消す。監視のために学園に残っている星影のメンバーだ。
インダは座り込んで震えている女子生徒の手を掴んで立たせる。
「若干名、往生際の悪い生徒もいたが……。シーナ君達、私はこの生徒たちを連れて、ジハード殿に報告に行きます。しばらくの間、申し訳ありませんが、リサ君を頼みます」
シーナとカミラ、ティマがインダの言葉に頷くと、意気消沈した女子生徒の手を引き、拘束した男子生徒達を引きずりながらこの場を立ち去る。
彼女達がやらかしたことは間違いなく犯罪、どう言い逃れしても退学は免れないだろう。もしかしたら、しばらく牢屋で臭い飯を食うことになるかもしれない。
強化魔法を使っているとはいえ、細身のインダが数人纏めて引きずる光景はかなりシュールだ。しかし、今この場でそれにツッコミを入れる勇気がある人間はいなかった。
微妙な空気を醸し出しながらインダを見送るティマ達をよそに、アイリスディーナとシーナ、そしてリサの視線がぶつかり合う。
「あ、ありが、とう……」
暴行されかけたことはかなりショックだったのだろう。乱れた制服を直しながらのリサの声は小さく震えていた。
アイリスディーナが眉を顰める。握りしめた彼女の手が、何かに耐えるように小さく震えていた。
きゅっと口元を引き締めると、アイリスディーナは何も言わずに踵を返した。
「……何も言わないの?」
その背中に、リサは思わず言葉をかけていた。
どうしてそんな言葉を口走ったのか、彼女自身にもわからなかった。
「何を言えと?」
ブルリとアイリスディーナの肩が震えた。気がつけば彼女は憤怒に満ちた目でリサを睨み返していた。
振り返った彼女が肩を怒らせながらリサに近づき、胸倉を引っつかむ。
息がかかるほど近づく両者の顔。
激烈な怒りを滲ませながらリサを睨みつけるアイリスディーナ。そんな彼女の姿を目の当たりにし、リサは目を見開く。
「ふざけるなよ!? 言いたいことなど山のようにあるに決まっているだろう!?」
「うっ……!」
穏やかな彼女らしからぬ、激高した姿。
これほど怒りを露わにしたアイリスディーナは、一番付き合いの長いティマも見たことがなかった。
胸倉をつかむ彼女の手にさらなる力が籠り、リサが思わず呻き声をあげる。
「だがそれを言ってどうなる!? それを言ったとしてもノゾムは目覚める訳じゃない! それに……」
彼の意思に反する。そう言おうとして、アイリスディーナは愕然とした表情で押し黙った。
一体自分は何を言おうとしたのか。それを言える人物は、この世にただ一人だけだというのに。
漏れ出してしまった罵倒。口にしてしまった非難の言葉に、彼女は唇を噛み締めた。
「っううっうっっ!」
堰き止めきれなかった嗚咽が、固く閉ざした唇から染み出してくる。リサもシーナも、その場にいた誰もが言葉を失っていた。
どれ位彼女はそうしていただろうか。アイリスディーナは突然リサを突き放すと、踵を返して走り出してしまった。
「アイ!」
ティマが思わず声を上げるが、アイリスディーナは立ち止まる気配が全くない。
「……ティマさん。ここは私に任せてアイリスディーナさんを追いかけて」
「シーナさん……」
「早く。見失うわよ」
「う、うん! お願いね!」
ティマを一瞥したシーナが、彼女に後を追うよう促す。
どうしようかと迷いながら、キョロキョロと視線を泳がせていたティマだが、シーナの一言にはっきりと頷くと、アイリスディーナの後を追って走り出した。
シーナはアイリスディーナを追いかけて行ったティマを見送ると、いまだ地面に尻もちをついて呆然としているリサに歩み寄った。
「まったく、あなたもバカじゃない。あんなことを言って何をしたかったのよ」
「…………」
シーナの呆れた声に、リサは俯きながら沈黙を保つ。
そんな様子の彼女にシーナは嘆息しつつ、負傷した彼女の手当てを始める。
カミラもすぐさまシーナの手伝いを始め、しばらくの間、治癒魔法と包帯を巻く音だけが当たりに流れていた。
やがて手当てを終えると、シーナはおもむろに口を開く。
「ノゾムが自分を罰してくれなかったから、せめて私たちに責められたかった……ってところかしら?」
「…………」
キュッとリサの口元が噛みしめられる。
それはシーナの言葉が的を射ていたことに他ならない。
学園内でのリサの評価ははっきり言って地に落ちた。学園を歩けばあちこちから侮蔑の視線を向けられるし、先ほどのような暴行を受けるようにもなってしまった。
それはかつてノゾムの状況と瓜二つ。
だが何よりリサの耳に残っているのは、先ほど女子生徒が言い放った“今さらノゾムの傍にいるとでも言うつもり?”という言葉だった。
自らの罪をまざまざと突きつけるその言葉が、彼女に自傷的な行動に出させていた。
「まあ、はっきり言って“ふざけるなと”言いたいわね。
貴方に対して思うところはあるけれど、それを言う資格があるのは私達でもなければ、無関係の他の生徒でもない。ノゾム君だけよ。
ましてあなたの行為は彼の気持ちを蔑にする行為でしかないわ」
シーナの言葉を前に、リサはただ沈黙し続ける。
だが、言葉にせずとも分かっていた。そんな事をしても意味がないことも、ノゾムが彼女に立ち直ることを望んでいることも。
想ってくれたノゾムのことが嬉しく、彼の傍にいられるアイリスディーナ達が羨ましく、彼を信じ切れなかった自分が情けなくて惨めだった。
先程の無抵抗は、ただ自分の罪悪感に押し潰れそうなリサが咄嗟に取った逃避行動でしかない。
同時にリサは、そんな風にノゾムを想えるエルフの少女がちょっと羨ましく感じた。
「……貴方も、ノゾムが好きなのね」
「……うえ!?」
リサが唐突に口にした言葉に、シーナが奇声を漏らした。
そんな反応が返ってくるとは思わなかったのか、リサが意外そうに首をかしげている。
「……違うの?」
「ち、違わ……ないけど。……分かる?」
「うん、私も……」
好きだったから。
その言葉がリサの口から出ることはなく、未だに胸に渦巻く罪悪感とともに、自分の気持ちを飲み込んだ。
そんなリサにシーナは何も言わず、悪戯っぽい笑みを口元に浮かべた。
「多分こうしてきちんと話せるのは、一番彼への思いが薄いのかもしれないわね。彼に惹かれている自分に気付いたのは、つい最近だし……」
そんなシーナの様子を眺めながら、リサは“何を言っているのだろうか”と内心呆れた。
想いに気付いた時間は遅くとも、目の前の彼女はしっかりとノゾムの意思を理解し、支えようとしている。
私なんかよりも彼のためにこの少女は動いている。強い想いがなければ絶対出来ないことなのだと、リサは痛感していた。
「と、とにかく! もしノゾム君のことを想うなら、短絡的なことは厳に慎みなさい。それは自分の憎しみを必死に押し殺した彼に対する裏切りでしかないわ。
これ以上、彼を裏切りたくないでしょう?」
雪のように白い頬を朱に染めながら、シーナは話を進める。
その言葉に、リサは小さく、しかしハッキリと頷いた。
今まで散々ノゾムを裏切ってきた。あの女子生徒の言うとおり、自分はもう彼の傍にいる資格はないのかもしれない。
でも、これ以上裏切りたくない。彼の気持ちを蔑にしたくない。その意思はリサの胸に小さな炎を灯す。
「ならいいわ。カミラさん、後はお願いね?」
さっと立ちあがり、シーナは踵を返して立ち去っていく。
「あ、あの。……ありがとう」
颯爽と立ち去る彼女の背中に、リサは頭を下げる。
シーナは振り向かずに右手を上げて返答すると、そのまま正門へと向かって消えていった。
正門をくぐり、中央公園まで来たシーナは、周りを見渡して誰もいないことを確認すると、いきなり顔を抑えてその場にうずくまった。
「うう、いまさら恥ずかしくなってきちゃった……」
よく見ると、指の間から覗く頬だけでなく、耳の先まで真っ赤に染まっている。
「す、すすすきって……。ノゾム君が好きって他の人に知られちゃった。あうう、恥ずかしいよお……」
先日ノゾムへの恋心を自覚したばかりで、いきなりのカミングアウト。
恋の自覚と羞恥にもだえながら、シーナは首を千切れそうになるほどブンブン! と激しく首を振る。
その度に彼女の長い青髪がピョンピョンと犬の尻尾のように可愛く跳ねた。
だけど、いくら首を振っても顔の熱は一向に治まってくれない。
結局彼女は30分近くの間、時折近くを通りかかった人々から奇異の視線を向けられながら、公園で一人もだえていた。
一方、リサたちの前から走り去ったアイリスディーナは、荒い息を吐きながら街中を爆走していた。
ものすごい速度で走る目麗しい少女に、周囲の人達が一体何事かと仰天している。
だが、そんな周囲の視線にアイリスディーナは一向に気付かないまま、ある場所めがけてひた走っていた。
制止しようとする番兵を無視し、廊下でぶつかった女医の声も聞こえないまま、彼女はノゾムの病室を目指す。
叩きつけるように荒々しくドアを開けたアイリスディーナの視線の先では、ノゾムが相変わらず穏やかに寝息を立てていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
荒れた呼吸を落ち着けることもせずに、アイリスディーナはノゾムが寝ているベッドに歩み寄る。
「ノゾム……」
アイリスディーナが呟いた彼の名が、病室の中に溶けて消える。
ズキンズキンと痛む胸に手を当てる。
手が白くなるほど胸元を握りしめても、歯を食いしばっても、抑え込んでも、うずく痛みはまるで雨漏りのように染みだしてくる。
「な、なあ、起きてくれ。ちょっと寝すぎだぞ? そろそろ起きないと、いい加減授業についていけなくなるぞ?」
努めて平静を保とうとする言葉。しかしその声色は震え、上擦ったものでしかなかった。
何とか浮かべようとした笑みは硬く、気が付けば唇を噛み締めている。
「ソミアやシーナ君たちも心配しているぞ。それに、それに……」
頭の中は真っ白で、言葉などまったく浮かんでこない。ただただ自分の尾を噛む蛇のように、同じ言葉がグルグルと鳴り響くだけ。
「起きて、起きてくれよ……! 声、聞かせてよ……」
胸を掻きむしられるような苦しさから逃れたくて、アイリスディーナは寝ているノゾムを揺する。それはまるで物言わぬ母親に縋り付いた過去の情景のようだった。
脳裏に浮かぶ幼い頃の光景が、アイリスディーナの焦燥をさらに加速させていく。
だがそんな彼女の悲痛な声にも、ノゾムは何の反応も返してくれない。
ジワリとアイリスディーナの瞳が潤む。
一筋の涙が頬を伝うと、もう止めることは出来なかった。
堰を切ったように涙があふれ、アイリスディーナはノゾムの胸元に縋り付く。
「ふうっぐ。うう……。っうう……!」
ノゾムの掛布団を引きちぎらんばかりに握りしめ、顔を埋めて只管に泣きじゃくる。
次から次へと溢れてくる涙がノゾムの胸元を濡らしていくが、彼は穏やかな寝息を立て続ける。
顔を上げると、彼の寝顔がすぐそばにある。
特に特徴のない容姿。だが、その笑みを向けられれば心の底から暖かくなった。でも今は……。
「ひっく、ひっく……。ノゾム……」
顔を近づけ、そっとノゾムの頬に触れる。
そのままアイリスディーナは自らの唇とノゾムの唇に押し当てた。
初めてのキス。
森で暴走したノゾムを治めるためにシーナが契約の為にキスをした。
その時のシーナのように、ただノゾムに目を覚まして欲しくて、アイリスディーナは只管に唇を押し当て続ける。
だがそんな彼女の願いもむなしく、ノゾムの瞼が開かれることはなかった。
「…………」
アイリスディーナはそっと身を起こすと、フラフラと病室を後にした。
胸の奥には痛みも感じなくなっていた。ただぽっかりと空いた穴と、猛烈な寒気しか感じられない。
すでに外は暗くなっている。
覚束ない足取りで街中を彷徨っていると、突然後ろから抱きしめられた。
「アイ!」
「ティマ……か?」
耳慣れた親友の声が、アイリスディーナの名を叫んでいる。
耳元で名を叫ばれたはずなのに、どこか遠くに聞こえた。
「うん……」
「何やっているんだ? こんなところで……」
彼女は一体こんなところで何をしているんだろうか?
よく回らない思考の中で、口だけは反射的に言葉を出している。
ティマはそんなアイリスディーナの問い掛けには答えず、後ろから包み込むように彼女を抱きしめ続けている。
「大丈夫だ。私は……大丈夫だ」
オウム返しのように同じ言葉を口にするが、全身から放たれる憔悴した雰囲気には説得力など皆無だった。
そんな彼女を慰めるように、アイリスディーナを包み込むティマの腕にギュッと力が籠る。
「大丈夫、大丈……うう」
その温もりに、凍っていたアイリスディーナの感情に再び火が灯る。
同時に、枯れていたはずの涙が再び込み上げてきた。
嗚咽を漏らし始めたアイリスディーナの顔が隠れるように、ティマは体をずらして彼女の顔を自分の胸板に包み込む。
「ううう、あああ……」
親友の温もりに包まれながら、アイリスディーナは再び泣きじゃくり始める。
周りの人が何事かと目を向けてくるが、そんなことは気にならない。
「ふぐう、うう! ひっく……ああああああああ!」
「アイ……」
人は他人の心を直接感じ取れない。
どれだけ不安だったのだろうか。どれだけ憤りを我慢していたのだろうか。どれだけ胸が張り裂けそうだったのだろうか。
目覚めない想い人に心が張り裂けそうになり、その想い人のかつての恋人の嫉妬し、その憤りを必死に抑え込もうとして失敗したのだ。
アイリスディーナの顔を隠しながら、ティマは溢れ出る彼女の激情を受け止めつづける。
その時、ティマの視界の端に、慌てた様子で学園へと駆けていく人物の影を捉えた。
「あれは……」
向かってくるのは白衣を着た女医。顔を一面に焦りの色を浮かべながら、学園へと全力疾走している。
ノゾムの身に何かが起こった。
ティマの胸の奥に、確信に近い予感が湧き上がってきていた。
う~ん。次節をこっちに持ってきた方が読みやすかっただろうかと悩みながら書きました。
感想で話が途切れて感情移入しずらいと言われたので……。