第7章第5節
「はあ、はあ、はあ……」
闇夜に包まれた外縁部で、1人の青年が拳を振るっている。
振るわれる拳打が空気を弾きとばし、流れるような蹴撃が風を切り裂く。
荒い息を吐きながら拳を振るうのは、3学年1階級に属する銀狼族の青年、ケヴィンだった。
月光に照らされた演舞は一度の停滞もなく、彼は次々と技を繰り出していく。
気を込めた正拳突きを振り抜き、そのまま右足を滑り込ませながら肘打ちへと繋げ、さらに左足の回し蹴りへと連携させる。
さらに左足を振り抜いた勢いのままに軽く跳躍。足を入れ替えながら、右足の踵落しを繰り出す。
回し蹴りの勢いすら上乗せした一撃が地面を激しく叩き、衝撃で跳ね上げられた土が宙を舞う。
並の鎧なら間違いなく中身ごと叩き潰してしまうほどの蹴撃だ。
だが、それだけの一撃を繰り出しながらも、ケヴィンの表情は技の冴えに反して硬い。
「駄目だ。これじゃ避けられる……!」
ゴリッと奥歯をかみ締めながら、ケヴィンは拳を構えなおす。
彼の正面には雑草の生えた原っぱが広がっている。しかし、彼の目には、その草原に一本の刀を携えた人影が立っている光景が映っていた。
その影を目にした瞬間、彼の脳裏に熱く、粘つくような感覚が広がる。
思い出すのは武技園でジハードと激闘を繰り広げた人族の姿。
劣等生だと。屑だと蔑んでいた人物が見せた、信じられない程の妙技の数々。
粉砕されるジハードの剣と盾。3学年1階級に属するAランク生が誰も成し遂げなかったことを成した10階級生が、彼の頭にこびりついていた。
仮の得物を砕かれた英雄は、ついに学生相手には決して振るわなかった自らの相棒を引き抜き、ノゾムと相対した。
それは彼がノゾム・バウンティスという生徒を、自分の得物を振るうに値すると認めたことだった。
3学年の中で、誰もそのような扱いを受けた者はいない。誰もジハードの“相棒”を抜かせる事ができなかった。
そして、その巨剣を向けられた当の本人は気負う様子もなく、ただ眼前の強敵を真直ぐ見据えていた。
「何なんだよアイツは……!」
力、そして強さでしか人間の評価をしてこなかったケヴィンにとって、ジハードと戦うノゾムの姿は正に青天の霹靂だった。
腸が煮えくり返るような憤怒と恥辱が、ケヴィンの体を焦がしていく。
だが、何より彼を苛立たせたのは、自分の想い人がその劣等生に惜しげもない声援を送っていたことだった。
模擬戦の最中に彼女がノゾムに向けた言葉が、まるで槍のようにケヴィンの胸を貫いていた。
応援に触発された奴が引き抜いた刃。ハンデを背負いながらも正面からジハードと打ち合う奴の姿を、彼女は虹のように輝く瞳で凝視していた。
戦いは結果的にジハードの勝利で終わった。だがその戦いで、ノゾムを笑える者などいなかった。
たとえ追い詰められても最後の最後まで足掻き、活路を見出そうと孤軍奮闘する彼の姿に、誰もが目を奪われていたから。
最終的に気絶したノゾムを見て、衆目も気にせずアリーナに飛び降りた想い人。
誰よりも速く地面に倒れたノゾムに駆け寄り、肩を揺らしながら必死に叫ぶ彼女の声からは、ケヴィンはただ痛みしか感じ取れなくなっていた。
「くそ……!」
まるで全身が燃え上がるような激情と、言いようのない不快感に襲われながら、ケヴィンは舌打ちをして瞬脚を発動。
胸の奥の不快感を振り払うように、眼前に佇む敵……ノゾムの影に踊りかかる。
だが、今度は影もただ受けるだけではなかった。
ケヴィンの瞬脚に答えるように影も瞬脚を発動。正面衝突する勢いでケヴィンに向かって疾走する。
両者の距離が一気に縮まり、あっという間に影の姿がケヴィンの視界一杯に広がる。
得物の関係上、刀を持っているノゾムの影の方が間合いは広い。
影が振り上げた刀を胴めがけて薙ぎ払ってくる。しかし、その速度は決して速くはない。
「そんな遅い一撃!」
斬撃に合わせてケヴィンは跳躍。持ち前の身体能力と身の軽さを使い、宙返りの要領でノゾムの頭を飛び越える。
さらに空中で身をひるがえしながら、ケヴィンは影の足元に気弾を放ち、舞い上がる土砂で相手の勢いをそぐ。
着地したのは影のちょうど真後ろ。刀の間合いの内側。彼にとって一方的に拳を振るえる最適の距離。
「らああ!」
ケヴィンは即座に拳を引き、影の後頭部めがけて拳を放つ。
気による強化で高められた身体能力。全身の捻りを伝えられた拳は、凶悪な鈍器となって影を背後から強襲する。
さらに先程放った気弾で影は完全に棒立ちだった。
“獲った!”
確信した勝利。しかし次の瞬間、その確信は霞のように消えていた。
「なっ!?」
拳の先にいた影の姿が流れるようにケヴィンの間合いから離れていく。
同時に、影の体がくるりと反転し、その鋭い視線がケヴィンを貫いた。
影は刀を振り切った際の勢いを利用して前へ踏み込み、刀術独特の円運動で振り向きつつケヴィンの拳打を躱そうとしていた。
間に合うかどうか分からない、極めて微妙なタイミングでの回避行動。
ケヴィンの拳が影を捉えるかどうか。銀狼の頬に一筋の汗が流れ、瞳孔が広がる。
そして刹那の交叉。ケヴィンが降り抜いた拳の先に……影の姿はなかった。
「っ!?」
ケヴィンの頬が引きつり、背筋から冷や汗が一斉に噴き出した。
頬に一筋の傷を作りながらも回避に成功した影は、振り向くと同時に切り上げの動作へと入っていた。
全身の毛を逆立てながらも、ケヴィンは振りぬいた拳を引き戻そうとする。
だが、ケヴィンは自分から踏み込んだこともあり、既に刀の刃圏から逃れることは出来なくなっていた。
「チィ!」
舌打ちをしながら、自分の拳を無理矢理刀の軌道に挟み込む。
不安定な体勢のまま、ケヴィンは滑らかな手甲の装甲を使った受け流しを敢行する。だが彼の狙いとは裏腹に、影の刃は何の抵抗もなく手甲を切り裂いた。
「ぐっ!」
慌てて距離を取ろうとするケヴィンだが、その時に影は既に返しの刃を放っていた。
目の前を何かが高速で迫る。
次の瞬間、ケヴィンはストンと体を何かが通り抜ける感覚を思えた。
「あっ……」
呆けた声がケヴィンの口から漏れる。
奇妙な浮遊感と空虚感。首から下が妙に寒々しく感じる。
回る視界。続いてドスンと音を立てて、目の前の光景が横転する。
いったい何が……。暗転する視界。そこには赤々と血飛沫を上げる自分の体が……。
「ずあっ! はあ、はあ、はあ……」
思わず大声をあげ、荒い息を吐く。
気が付けば、暗転した視界は元に戻っていた。
首筋に手を当てて確かめても、彼の首はしっかりと体に繋がっている。
「うぐ……!」
安堵と同時に湧き上がってくるのは、全身に火が付きそうなほどの憤怒と屈辱感。
ノゾムがジハードと激闘を繰り広げて以来、ケヴィンは人知れずこの外縁部で鍛練を続けていた。
腕が上がらなくなるまで拳を繰り出し、足がガクガクになるまで型を繰り返す。
限界まで体を酷使するケヴィンの脳裏にいつもノゾムの影がちらついている。
頭によぎる影を振り払おうと、必死で拳を振るうが、どうしても自分が勝つイメージが想像できない。
そして何より、ここ最近の想い人の憂い顔が彼の心をかき乱す。
彼女が自分を見ていないという事実、いつの間にか先を行っていた劣等生、負けを認めたくない自分のプライドが現実と鬩ぎ合い、折り重なり、混ざり合いながら、焦燥だけが募っていく。
「くそお……」
思わず漏れた屈辱の念。
満点の星空の下、ケヴィンはともすれば叫びそうになる声を必死に押し殺しながら、手のひらに爪が食い込むほど固く握り締めていた。
ソルミナティ学園内に建設された武技園の地下には、だだっ広い床一面に数多の魔法陣が描かれていた。
これは武技園に設置された魔法障壁を制御するための陣。学園の技術の粋を結集し手作り上げた、大陸最高の魔方陣だ。
まるで絨毯のように敷き詰められた陣の上で、ジハードは1人瞑目しながら、待ち人の到着を待っていた。
「やれやれ、遅くなったかの?」
「いえ、時間通りです」
コツンコツンと杖を突きながら、暗闇からヒョイッと現れたゾンネは、顎鬚をなでつけながらジハードの元に歩み寄る。
ジハードも特に驚いた様子も無く、振り返って老人と相対した。
「さて、それでは楔を打たせてもらうかの。ワシはともかく、お主はあまり時間が無いじゃろ?」
「ええ、まあ。この後、ネズミ狩りがありますので……」
「ふむ。では、始めるか……」
ゾンネは足を進めてジハードの脇を通り抜けると、床に描かれた魔法陣を一瞥する。
だが、ゾンネの目的は目の前の魔法陣ではない。あくまでこれは本命の陣を隠すための蓋だ。
徐に懐に手を伸ばしたゾンネが分厚い紙束を取り出す。
その紙に描かれているものを見た瞬間、ジハードは胡散臭そうに眉をひそめた。
「ご老人、真面目にやっておられるのですか?」
「な、何じゃその残念そうな顔は! わしは至極真面目じゃ!」
分厚い紙束の表紙に描かれていたのは、艶かしい女性達の裸姿。春画である。
冷たい視線を浴びせられたゾンネは、しどろもどろになりながら弁明してきた。
「こ、これは偽装じゃ! 見た目は春画じゃが、中身はワシらの魔道技術の粋を結集して作り上げた芸術じゃ!」
ジハードの視線が更に一段階冷たくなる。
本当なのだろうか? 甚だ疑わしい。
「ええい! 見ておれ!」
声荒くゾンネは持っていた紙束を空中に放り投げる。
舞い散る多種多様な裸婦姿。人族、獣人から妖精族。初々しい苗木から熟れた果実まで、おっきいのからちっぱいのまで網羅した、本人曰く芸術品という名の娯楽品。
「吹き荒れろ! ワシ自作の芸術品!」
渦を巻きなが吹き荒れる嵐はまさしくピンクタイフーン。ジハードはお前が書いたのかよ! と思わずツッコミを入れそうになった。
節操なしここに極まれりである。
そんな珍妙な光景の中、ジハードから向けられた疑惑の視線がゾンネを貫く。だが吹き荒れる嵐が一際激しくなった瞬間、それは起こった。
「むっ……」
宙を舞う春画が突然発光し、ピンクタイフーンが白く輝く光の嵐へと変貌する。
輝き始めた春画からパリパリと光の粒子が舞い、あられもない裸婦姿が消えて奇妙な図形が露わになる。
曲線と直線を多用し、紙の端で途切れた様な奇妙な図形。それはこの大陸で普及している円を基調とした陣とは明らかにかけ離れていた。
ジハードは一瞬、東方で使われる符術の一種かと思ったが、それとも違う。
「これは……!」
ジハードが瞠目する中、ゾンネが掲げた両腕を一気に振り下ろした。
次の瞬間、舞っていた光の紙が一斉に床に叩き付けられ、ひときわ強い光を放つ。
よく見ると、床に叩き付けられた紙の陣は、全て一寸の狂いもなく他の紙に描かれた図形と繋がっている。
それは数多の符を繋ぎ合わせて作られた巨大な陣だった。
武技園の魔法障壁を制御する陣よりはるかに大きく、そして複雑怪奇。
ゴクリとジハードが息を飲む。数多の戦場を駆けた彼でさえ、これほど見事な魔法陣は見たことがなかった。
「さて、これで陣の形成は終了。後は仕上げじゃな」
ジハードが放心しているのを流しながら、ゾンネは作業を続ける。
ゾンネは手に持った杖を掲げると、白く輝く杖が浮き上がり、魔法陣の中心に突き立った。
同時に杖から強烈な光が放出され、床に描かれた魔法陣もまた白一色に染まると、陣の中心に突き立った杖が染み込むように地面にめり込んでいく。
やがて杖がすべて地面の中に消えると、魔法陣の光もまた消え去った。
「これで終わりじゃ」
再び暗闇が地下室を支配する。
あれほど見事な陣は既に影も形もなく、武技園の障壁制御用の陣だけが床に刻まれていた。
だが、おそらくこれでゾンネの言う“楔”とやらは打ち込まれたのだろう。
ゾンネは、用は終わったとばかりに踵を返し、ジハードもやや遅れて後を追った。
地下室をから外へと出た二人を夜空に輝く月が照らす。とっくに夜は更けていた。
「ああそうじゃ、渡しておくものがあった」
思い出したようにゾンネは自分の掌を打つと、懐から奇妙な石を複数取り出した。
青、赤、緑、黄、そして黒の五色の石。だが、表面を見ると、見たこともない複雑怪奇な紋様が刻まれている。
「結界の魔法具のようですが……ゾンネ殿、これは?」
「五鱗石という魔法具じゃ。あの小僧が目覚めた後、なんだかんだで鍛練が必要じゃろう? これは龍の力。正確には、精霊の力を外部から遮断する魔法具じゃ。ついでに、隠匿の結界も組み合わせてある」
確かに、ジハードも彼が取り込んだ龍の力の確認と修練は必要だと考えていた。しかし、龍殺しであるノゾムの鍛練を行なうには、学園は狭すぎる。
森で鍛練を科すことも考えたが、それでも第3者に見られる可能性がないわけではない。
しかし、この結界魔法具があれば、人目を気にしなくてもよい。
「……つくづく出鱈目ですね」
渡された五鱗石を月光に照らして眺めながら、ジハードはため息を吐いた。
1つの魔法具には、基本的に1つの術式しか刻めない。下手に複数の術式を刻み込むと、刻んだ魔法同士が相互干渉してしまうのだ。
複数の術式を刻んだ魔法具の製造には極めて高い技量が求められるし、相当高価な値で取引される。
そんな貴重品をまるで巷のお土産のようにポンポン渡してくる老人に、ジハードは呆れるしかなかった。
「まあ、ワシらは本来このような道具は必要とはせぬが、お主達には必要じゃろう?」
「ええ。ありがたく、使わせてもらいますよ」
とはいえ、使えるものは使う必要がある。ここ最近の荒事と危機に、もはや体裁なんて気にしていられないのだ。
「お主はまだもう一仕事あるんじゃったな?」
「ええ、むしろこちらが本命ですね」
ゾンネの問い掛けにジハードが硬い表情で答える。
ジハードは、先ほどゾンネが打ち込んだ“楔” の概要を聞かされていたため、この老人に同行したのだ。
山場はこれから。ここから先は、自分たちの戦いをしなければならない。
「ジハード殿、準備が整いました」
校舎の陰からインダが姿を現す。
彼女は精巧な装飾が施された分厚い魔道書を抱え、魔術的な防護を施したローブを着こんでいた。まるで戦にでも行くような格好である。
「分かった。ご老人、貴方は……」
ジハードはインダの簡素な報告に頷くと、ゾンネの方に視線を戻す。
だが既に老人はその場にはおらず、なびく風が落ちた木の葉を巻き上げていた。
「ジハード殿、どうかしましたか?」
「いや……。何でもない」
ジハードは一度溜息を吐くと、すぐさま気持ちを入れ替える。
いきなり居なくなっていたゾンネに構わず歩を進め、正門前まで来たジハードは辺りを窺った。
正門付近に植えられた木々や影から、彼らを見つめる視線がある。
ジハードが招集を命じていた星影のメンバーたちだ。
「さて、話は聞いていると思うが、これからこの街に巣食った害虫の退治を行う」
すでに必要なことは全て伝えてあった。あと必要なのは、作戦開始の号令のみ。
「加減はいらない。全てを拘束し、確保せよ」
簡潔な命令と共に、周囲の視線が一斉に、音もなく消えた。
「私達も行くぞ」
「はい!」
背中の顎落としに手をかけ、インダを付き従えてジハードもまた夜の闇へと消えていく。
深夜の夜。月の内心の暗闇の中で、影に潜む者たちの戦いが始まった。
ノゾムは自らが置かれた珍妙な事態に、思わず嘆息していた。
ガラス細工の草原に立つ奇妙な門に触れた瞬間、この状況である。
周りにはキラキラとした砂嵐のような光景が、上下左右メチャクチャに動き回っている。
内臓が浮き上がるような不快感に、ノゾムは眉を顰めた。
これは周りではなく、ノゾム自身が動いているのだ。しかも、おそらく自然落下という嬉しくない状況。
グルグルと暗転する視界の中、ノゾムは必死で体勢を立て直そうと四苦八苦していた。
「くそ! どうなっているんだ!?」
予想外の事態の中、ノゾムは思わず声を荒げつつも必死に手足を動かす。
だが、翼を持たない彼が飛翔や滑空という芸当を出来るわけもない。
何とか手足を広げて回転の勢いを殺し、体勢を立て直すものの、落下している先はまったく見えない。
虚空の闇の中を切り裂くように、無数の白い線が走っている。
「どどど、どうすればいいんだ!?」
何処まで落ちているのかまったく分からず、慌てふためくノゾムが震える声を。
そうこうしている間に、徐々に周囲を走る無数の線が目に見えて数を減らしていく。
やがて目の前に映るものすべてが消えた。真の暗闇がノゾムを包み込む。
その時、唐突に先程まで感じていた落下の感覚がなくなった。残っているのは奇妙な浮遊感だけ。
次の瞬間、一気に視界が開けた。
まるで瞬きのように景色が移り変わる。
「なんだ、これ……?」
あまりに一変した状況に、ノゾムは思考が追いつかない。
だが気がつけば、先程の浮遊感は消え去り、彼の両足はしっかりと大地を踏みしめている。
そしてノゾムは、目の前に広がる光景の美しさに思わず息を呑んだ。
彼が今立っているのは、少し小高い丘の上。その先には地平線の先まで続く、豊な丘陵地帯が広がっていた。
命を育みながら高々とそびえる木々とその枝葉で羽を休める鳥達。
緑豊な草原には獣達が駈ける台地が地平線まで続き、その先には雲を突き抜け、天にも届くのではと思えるほどの巨大な純白の尖塔が建っていた。
その純白の尖塔は、空から降り注ぐ陽光に照らされ、眩いくらいに輝いている。
そして空には……翼を広げた6匹の龍が舞っていた。
「あれは……」
一匹一匹がまったく違う、異種の龍達。
力強さと清廉さを兼ね備えた純白、命溢れる黄土、気ままに天を掛ける風の翠緑、命の炎を体現したような緋炎の紅、全てを飲み込む大海の蒼。
どの龍も若々しく生命力に満ち溢れており、力強い羽ばたきは全ての命の頂点に君臨する者の風格を感じさせる。
だがノゾムに目に留まったのはそれ以外。夜の闇を体現したような漆黒の鱗を纏った一匹の龍だった。
群れの一番後ろを飛ぶその龍は、ヨタヨタと危うい様子を見せながらも、必死に翼を動かして、前を行く5匹の後に必死について行こうとしている。
「ティアマット……か?」
体格も、翼の枚数も違う。だがノゾムの目がその姿を捉えた時、彼の口からは自然とその名前が出ていた。
“みんな~。待ってよ~~!”
“やれやれ、あいつ、やっぱり飛ぶの下手糞だな~”
“レグナント、そんな事言わないの。テトだって頑張っているんだから”
緑色の龍鱗を陽光に輝かせた、レグナントと呼ばれた龍が鋭い刃のような皮膜を翻しながら嘆息している。そんな緑龍に、海蛇のようにしなやかな体躯の青龍が戒めの言葉を漏らしていた。
“オルの言う通り……。緑龍は……飛ぶ事に苦労しない”
“そうだ、そうだ! ウースラッグの言うとおりだよ!”
大岩ごとく節くれた体を持つ黄龍、ウースラッグがティアマットをかばうが、脇から話に割り込んできた赤龍が、再び彼女をこき落とす。
“でもまあ、確かにティアマットは龍とは思えないほど飛ぶのが下手だよな!”
“ぐう……。ウェリムス、何でそこで話の腰を折るの!”
不満顔のティアマットが再びギャーギャー喚き始めるが、ウェリムスと呼ばれた赤龍はそ知らぬ顔。
“う~う~う~!”
“ほら、テト。しっかり”
悔しそうに喉を鳴らすティアマットに励ましの声をかけながら、一匹の白龍が黒龍の傍に寄り添った。
その姿を確かめたティアマットの目が、パッと華やいだ色へと変わる。
“あ、ありがとう。ミカエル!”
“やれやれ、ミカエルのやつはテトに甘いよな~~”
ミカエルと呼ばれた白龍はティアマットの傍によると、彼女の頭を自分の顎で優しくなでて励ましていた。
そんな2匹の様子を仲間の龍達が穏やかな目で見守っている。
今まで見たこともなかったティアマットの姿に、ノゾムは瞠目した。
「これは……ティアマットの記憶? でも……」
ノゾムにとってティアアットというのは災厄の化身でしかなかった。
一撃で森を消滅させるほどの強大な力と、全てを破壊しつくさんばかりの衝動と憎悪。
今までかの龍は幾度となく彼を追い詰めてきた。時に間接的に、時に直接、ノゾムの精神と肉体を破壊し、復活しようとしてきた。
だが、今ノゾムの目の前のティアマットには、そんな憎悪や殺意の衝動は微塵も感じられない。むしろどこか幼く、気弱さすら感じさせる。
ティアマットの記憶。その一部を垣間見たノゾムに、かの龍に対する疑念と戸惑いが膨れ上がっていく。
だがノゾムの疑念を他所に、6匹の龍は大空を舞い続ける。
やがて6匹は適当な平地を見つけたのか、一斉に降下し始めた。
家よりも大きな巨体の着陸によって轟音が響き、着地地点の辺りにいた野生動物達が一斉に逃げ出す。
“みんな、大丈夫だよ~! 驚かせてゴメンね~!”
着地したティアマットは野生動物達の姿を確かめると、5匹から離れて動物達の元に駆け寄る。
ドスドスと地響きを立てる黒龍に野生動物達は慌てふためいて草むらの陰に隠れるが、すぐに逃げ出す様子は無い。
“ねえ、ねえ遊ぼうよ~!”
ティアマットは自分達の様子を草葉の陰から覗いていた動物達にチョコチョコと歩み寄り、明るく声を掛ける。
しばらく様子を窺っていた動物たちだったが、やがて一匹一匹と恐る恐る黒龍に近づいていく。
やがて最初近づいた雌鹿が差し出されたティアマットの前足に鼻を近づけ、スンスンと嗅ぐと、ペロリとひと舐めした。
好奇とやや怯えの混じった鹿の視線に、ティアマットは穏やかな瞳で答えている。
優しげな瞳に促されたのか、匂いを嗅いでいた雌鹿が黒龍の前足にスリスリ頬刷りした。
その光景にようやく安心を得たのか、森から次々と動物たちが姿を現し、ティアマットにすり寄っていく。
“あははは! くすぐったいって! こら~! 尻尾噛まないで~!”
あっという間に動物たちに揉みくちゃにされたティアマット。鹿やウサギなどの草食動物だけではない。本来なら彼らを狩るオオカミやクマ達ですら、一緒になってティアマットに寄り添っている。
“相変わらず、テトは動物たちに好かれるね”
“……動物だけじゃない。人間からも崇められていた”
暖かな陽光に照らされた、心温まる光景。それを遠くから眺めていたミカエルが小さく微笑むと、それにつられるようにウースラッグが口を開いた。
“へえ、何て?”
“豊穣の黒龍様、だったっけ? 飢饉に苦しんでいた人間達が可哀想だからって、やせた土地に活力を分けていたよ~。加減間違って不毛の地を樹海にしてしまって、大慌てしていたけどね~”
“相変わらず、どっか抜けているな……”
レグナントの暴露話にウェリムスがぼやき、それを聞いた仲間達がグフグフと喉を鳴らして笑っている。
一方、話の渦中にいるティアマットは相変わらず動物達と戯れていた。
しばらく動物達と戯れる光景を眺めた後、オルは神妙な顔をミカエルに向けた。
“それにしても、ミカエルは儀式を抜け出して来てよかったの? こっそり抜け出してきて、父上はカンカンに怒っているんじゃないのかしら?”
“別にいいよ、オル。どうせ儀式に必要なのはガブリエル兄様だから……。父上も僕がいなくなった事は気にしていないんじゃないかな……?”
オルと呼ばれた青龍が少し心配そうに首を傾げるが、ミカエルは首を振って答える。
だがその声はどこか沈んでいるようだった。
“どうだろな~。今頃勝手にいなくなったミカエルに怒髪天を突いているんじゃないか~”
“ミカエル、大丈夫……? ミカエルのお父さん、怒っている?”
再び聞こえてきた緑龍レグナントの煽るような声に、先程まで満面の笑みを浮かべていたティアマットが不安そうにミカエルに擦り寄ってきた。
ティアマットもミカエルの父の事はおそらく知っているのだろう。
よほど苦手にしているのか、ティアマットは長い首を亀のように引っ込ませている。
それでもミカエルと離れるのは嫌なのか、ティアマットは白龍の傍から離れようとせず、彼を見上げながら“行かないで!”と目を潤ませていた。
“大丈夫だよテト。それに僕は、皆と一緒にいる方が楽しいからね”
“まあそれでも、大人達は俺達が一緒に遊ぶことをよく思っていないからな”
悲しそうな目でミカエルを見上げるティアマットを、彼は優しくなでる。
一方、苦言を漏らしたオルが、今度はティアマットに視線を移した。
“テトは良かったの? この辺りは黒龍の統制地の外。緩衝地だけど、テトはまだ統制地の外に出ることを許されていないんじゃ……”
オルの問い掛けを聞いて、ティアマットは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
何やら不満げな表情で口を尖らせ、不貞腐れている。
“あそこにいるの、やだ。皆、私の事を役立たずって苛めるから……”
役立たず。
身をもってその力の破格さを知っているだけに、その言葉を聞いた瞬間、ノゾムは自分の耳を疑った。
だがよく見れば、ティアマットは他の龍達と比べても体格が一回り小さい。
おそらくはまだ幼龍。
他の龍達もかなり若いのかもしれないが、ノゾムはもしかしたら彼らは、自分が思っているよりもずっと幼いのかもしれないと考えた。
実際、彼らの言動から成熟した雰囲気は感じ取れない。
そんな覗き人の思考など知らず、幼い黒龍は頭を振り乱して叫んだ。
“皆と一緒の方がいい。ううん、皆とずっと一緒にいたいよ!”
“でも無理だろうな~。全ては風と同じく移ろうもの。いつまでも一緒にいるなんて無理さ~”
悲鳴にも似たティアマットの叫びを、レグナントが一蹴する。
他の龍たちも同様の考えなのか、目を逸らして気まずそうにしていても、レグナントの言葉を否定する者はいない。
“でも……。だけど……”
まだ諦めきれないのか、ティアマットは何とかレグナントの言葉を否定しようと必死に言葉を探している。
だが結局、それ以上言葉を重ねられないまま、静寂だけが龍達の間に流れていった。
“……事実。大人になれば統制地を納めないといけないし、他の龍が納める地に行く事は禁じられている”
“……なんでそんな風にするんだろう。皆一緒にいられた方がいいのに……”
寂しそうに空を見上げるティアマットの呟きが、風にかき消される。
どこまでも落ち込んでいく黒龍の気持ちに反して、空に輝く太陽は何所までも陽気な光を振り撒いていた。
「一体、これは……どういう事なんだ?」
信じがたい光景を次々と見せられ、ノゾムの頭は完全に混乱状態だった。
見たこともない巨大な白亜の尖塔。そして話し込む異種の龍達。どれもこれもがノゾムの理解を超えたものだった。
何より、今まで知っていたティアマットとは全く違う姿に、胸を打たれたような衝撃を受けた。
今まで災厄でしかないと思っていた龍のまったく違う一面。かの龍に対する戸惑いと疑念が胸の奥で渦巻き始める。
だがその答えを知る間もなくティアマットの記憶は弾けて消え、再び暗闇が辺りを支配する。
そして再び浮遊感に襲われ、ノゾムの視界は暗転する。
気が付けば、ノゾムは再び漆黒の草原に立ちすくんでいた。
目の前にはやはり光り輝くアーチ状のゲートがある。
気のせいだろうか。地平線の向こうに見えていた紅の明かりが、心なしか近付いているように見える。
このままゲートをくぐったら、またティアマットの過去を見るかもしれない。
そして、赤々と燃えるような地平線の先には何があるのだろうか。
一抹の不安と緊張を押し殺しながら、ノゾムは再び眼前のゲートに手を伸ばした。
一応、本設で出てきた龍の簡易説明です。
ネタバレの恐れがあるため、情報は制限しておきます。
レグナント
緑龍であり、風を操ることにかけての才は緑龍族の中でも突出していた。
正確はひょうきんで、よくトロトロしているティアマットをからかっていた。
ウェリムス
炎龍の一体。
炎を操ることに長けており、その気になれば森一つを気まぐれに焼き尽くせる。
その威力は土が炭化を通り越し、ガラス化するほど。
力は強いが性格は激しやすく、よくトラブルの元になっていた。
ウースラッグ
寡黙な黄龍。
話すことがあまり得意ではなく、しゃべる事でうまく意思を伝えられない。
オル
落ち着いた性格の青龍。海蛇のようにしなやかな体躯と、美しい鱗が特徴的。
ミカエル
正義感の強い白龍。ティアマットと一番仲が良く、よく世話をしていた。