第7章第2節
お待たせしました。第7章第2節更新です。
アイリスディーナ達が来るよりも一足早く、リサはノゾムの病室を訪れていた。
リサもまたアイリスディーナ達と同じように、ノゾムの看病を願い出た人間の一人である。
彼女が手に持つのは水を張った桶と白く清潔なタオル。
まるで黄昏の空を思い浮かべるような真紅の髪と、すらりした曲線を描く肢体。
俯いているリサの顔は窺い知ることができないが、手に持った水桶の水面には、形よく整った彼女の小顔が映っている。
だがチャプチャプと揺らぐ水面に映るリサの表情は、まるで空を覆う暗雲のように曇っていた。
悲壮な顔を浮かべながら、紅髪の少女はノゾムの病室の前で立ち竦む。
分厚く、堅い木製の扉の前で立ち止まっているリサは、ゆっくりとその手をドアノブに伸ばす。
だが、その手がドアノブに触れるかどうかというところで、突然彼女の体がビクリと震えた。
噛みしめられた口元と強張った頬。ほとんど動く者がいない廊下を、僅かな間完全な沈黙が支配する。
しばしの停滞。しかしリサは意を決し、ゆっくりとドアノブに手を伸ばす。
伸ばした右手にゆっくりと力が入ると、ギィッと扉がきしむ音が廊下に響いた。
四角く切り取られた隙間から見えるのは、白い壁に覆われた簡素な部屋。そこに据え付けられたベッドの上に一人の青年が横たわっている。
リサは一度持って居た水桶を卓の上に置くと、傍にある棚から替えのシーツなどを取り出し始めた。
彼女の仕事もまたアイリスディーナ達と同じように、ノゾムのベッドのシーツ替え等の雑用である。
替えのシーツを取り出したリサはノゾムのベッドの前まで来ると、彼に掛けられている布団へと手を伸ばした。
「っ!……」
しかし、伸ばした手が毛布に触れた瞬間、彼女はその手を引っ込めてしまう。
彼を目の前にして、伸ばされたリサの手が力なく垂れ下がった。
ノゾム・バウンティス。
かつて、リサ・ハウンズと一緒に夢を追いかけていた幼馴染。
そして逃避の果てに、彼女が深い傷を負わせ続けてしまったかつての想い人。
眠ったままのノゾムの寝顔はまるで石像のように動かず、わずかに上下する胸元だけが彼の息吹を感じさせている。
しばし自分の仕事を忘れ、リサは立ちすくむ。
その時、ガチャリと音を立てて病室のドアが開けられた。
振り向むくリサは、ドアを開けた彼女達の姿を見て目を見開き、そして僅かに顔を伏せた。
アイリスディーナ・フランシルトとシーナ・ユリエル。
ある意味、彼女にとって最も顔を合わせたくない人達だった。
目を見開き、押し黙る3人。その間に割り込むように、女医が前へと進み出た。
「これから診察を始めるが、きちんと準備は……ってまだできていなかったの? きちんとしてもらわないと困るのだけど……」
「す、すみません……!」
女医に注意されたリサはすぐに頭を下げ、ノゾムが寝ているベッドのシーツを変えようとする。
だがノゾムの掛けられた布団にリサが手を伸ばした瞬間、彼女の体がまるで石造のように硬直した。
「っ!」
伸ばした彼女の手がガクガクと震えている。
リサの呼吸が一気に荒くなり、額から汗が滝のように吹き出る。ノゾムに触れる事への明らかな動揺と躊躇が見て取れた。
「……アイリスディーナ君、シーナ君。悪いが彼女と替わってやってくれ。リサ君はこっちの準備を手伝うように」
「で、でも……」
「いちいち患者に触れるのを手間取っている人には無理。いいからこっちを手伝いなさい」
女医の強い語気にシュンと肩を落としたリサがその場を退き、代わりにアイリスディーナとシーナがノゾムのベッドのシーツ交換を始めた。
自分が犯した過ちをようやく自覚したリサ。
彼女は罪悪感と後悔に責め立てられながらも、意識不明となったノゾムの看病を名乗り出た。
だが、2年間の間に開いた距離はあまりに大きかった。それこそ、意識のない彼の体に触れることすら躊躇うほどに。
下を向く彼女を一瞥したアイリスディーナとシーナだが、彼女達はすぐに頼まれた作業を行ない始める。
アイリスディーナ達はテキパキとノゾムのシーツを交換し、彼の体をマッサージする。
伸びていた関節を動かし、ノゾムの筋肉を僅かでも動かしてあげる。
寝たきりであるノゾムの筋肉が少しでも衰えないようにし、かつ循環系の機能を保てるようにするのだ。
ノゾムのマッサージを続けるアイリスディーナ達。そんな彼女達の姿を、リサはじっと見つめていた。
「ほら、早くしなさい」
「は、はい!」
だがすぐに女医から注意を受ける羽目になる。
テキパキとノゾムが寝ているベッドのシーツ交換を行なうアイリスディーナたちを横目にしながら、リサは消毒盤の上に清潔にした器具を並べていく。
「それじゃあ、始めるぞ。私は彼の容体を診るから、君たちはいつも通りに……」
「分かりました」
「は、はい……」
シーツを替え、マッサージが終わると、女医がノゾムの診察を始めた。アイリスディーナとリサ達は他に残った細かな雑事を行ない始める。
だがやはりノゾムのことが気になるのだろう。作業をしながらも、彼女達はチラチラと診察の様子を盗み見ていた。
その時、リサとアイリスディーナの視線が交差する。
「あっ……」
「…………」
目を逸らしたのはリサの方だった。
気まずそうに目を逸らしたリサの視線の先にいるのは、ベッドに横たわる少年の姿がある。
そんな彼女をアイリスディーナはただじっと眺めていた。
黒髪の少女が浮かべる能面のような表情。だが、その無表情な顔に反して、漆黒の瞳の奥はユラユラと揺れていた。
ノゾムの看病が終わると、アイリスディーナ達3人は早々に医療施設から追い出された。
用事が終わったら、さっさと学園に戻れということなのだろう。
グローアウルム機関の正門の前まで来た3人は、無言のまま学園へと足を向ける。
「リサ、ノゾムの看病はもういいの?」
3人がちょうど正門をくぐったところで、リサに声をかけてくる者がいた。
簡素な杖を携え、ソルミナティ学園の制服を纏った女子生徒。リサの親友であるカミラが、正門前で彼女を待っていた。
「う、うん。体の方は問題ないって……」
「そう。それで、ノゾムは目を覚ました?」
カミラの質問にリサは押し黙る。それだけでノゾムの状態を察したのか、カミラはそれ以上追求してこなかった。
「ま、まあ大丈夫さ! アイツ、凄い根性あるから、きっとすぐになんでもないような顔して目を覚ますよ!」
リサを精一杯元気づけようとするカミラだが、彼女の言葉にもリサは気の抜けたような声しか返せない。
底知れなく落ち込んでいるリサに、カミラは言葉を失う。そんな二人に意外にもシーナが声を掛けた。
「……貴方の方こそ大丈夫なの? あの時、足にかなり深い傷を負っていたけど」
「ああ、まあ、ね……。傷自体は塞がったけど、まだちょっと違和感はある……かな?」
いきなりシーナに声をかけられたカミラが、戸惑いながら言葉を返す。
先の事件の折に、カミラはケンの“氷柱舞”で右足のふくらはぎに深い傷を負った。
早急な手当てを受けたおかげで傷自体は既にないが、未だに鉛が入っているような感覚が付きまとっていた。
それ以上にカミラは目の前の親友の事が気が気でないのだが。
多少詰まりながらも言葉を交わすカミラとシーナと違い、アイリスディーナとリサは互いに一言も話さない。
アイリスディーナはじっと前を向いたまま漆黒の瞳に硬質的な光を宿し、リサは俯きながら肩を竦めている。
2人の間に横たわる沈黙の空間が、更に重苦しい空気を作り上げていた。
街の人たちも起きだしてきたのか、徐々に通りを歩く人が増えてくる。そして、学園に近づくにつれ、ソルミナティ学園の制服に身を包んだ生徒の数もチラホラと見るようになってきた。
「おい、あの人……」
彼女達の耳にその声が聞こえてきたのは、中央公園の近くまで来た頃だった。
カミラがちらりと視線を動かすと、下級生と思われる3人の生徒がカミラ達の様子を伺っていた。
いや、正確にはいえば、後輩たちの視線の先にいたのはリサだった。カミラの胸に嫌な予感がよぎる。
「ああ、エクロスの生徒を襲った先輩の彼女だろ」
下級生達の何気ない一言。それはリサの心臓を鷲掴みにした。
俯いていたリサの顔色から血の気が一気に消え失せる。
「何でそんなことしたんだろ?」
「さあ……でも碌な事じゃないだろ。その先輩が襲ったのって10歳くらいの女の子だって話だぜ」
「うわ! 最低……」
先のケンが起こした事件は、以前に被害者が出ていることもあり、完全に隠蔽する事が難しかった。
その為に学園は、ある程度真実をぼかした形で、事件の顛末を公表した。
ノゾム・バウンティス、ケン・ノーティス、そしてリサ・ハウンズの三角関係がこじれ、結果的にケンの暴走が起きる。
ケンは水鏡の心仮面というアビリティを用いてノゾムになりすまし、彼に冤罪をかぶせ、学園から排除しようとした。
しかしノゾムと学園、憲兵達が協力し、犯人であるケンを取り押さえた。
その結果、事件を起こしたケンは即時退学処分。今では犯罪者として留置所に送られたという事になっている。
また、ノゾムは暴れるケンを取り押さえる際に反撃を受け、病院で療養することになった。これが、教師陣が生徒達に説明した内容だった。
さらにケンがアビリティを悪用したということで、今後、学園におけるアビリティの使用はさらに厳しくなり、また、それについての罰則も強化されることが決定している。
「あの先輩も一枚噛んでいたんじゃないか? 何かそんな話聞いたことあるんだけど……」
「ええ、マジで!?」
後輩の一人がリサを指さしながら、疑念の声を上げる。
実のところ、犯人であるケンが学園から去ったため、彼が起こした事件についての興味と嫌悪が全てリサに向かってしまった。
さらに話には尾びれ背びれがつき、様々な憶測を加えながら変化し続けている。
ケンとリサが共犯してノゾムを陥れようとした。尻軽なリサがノゾムに乗り換えようとして、ケンが暴走した等々。
「それって本当なの? だったら何でまだこの学園にいるの? 隣にアイリスディーナ先輩がいるのもよく分からないんだけど……」
「馬鹿、監視だろ? アイリスディーナ先輩のことだから、下手なことしないように自主的に監視しているんだよ」
証拠も根拠もない噂話。だが周囲から孤立するリサの姿は、まるで2年前にノゾムがどん底に落ちた時の光景の再現だった。
真実を知らされた彼女には、ノゾムに向けた悪意が全て自らに帰ってきた。
嫌悪の言葉だけでなく興味本位の言葉ですら、今の弱り切った彼女の心を抉るのは十分だった。
だが、何よりも彼女の胸を深々と貫いているのは……。
「そういえば、ケン先輩ってどうなったんだっけ?」
「即日退学になったって聞いたけど……」
「でも、結局ノゾム先輩って、リサ先輩のせいで辛い目に遭い続けているよね」
ノゾムを不幸にし続けている自分自身の姿を突き付けられることだった。
「っ!……ごめんカミラ、先に行っているね」
「あっ! リサ!?」
血が出そうになるほど唇を噛み締めながらも、リサは足早に学園へと向かおうとする。カミラは慌ててリサの後を追いかけた。
そんな彼女達の背中を、アイリスディーナとシーナは複雑な表情で見送っていた。
先の事件の後、アビスグリーフについてや、ノゾムが龍殺しであることは徹底的に伏せられた。
特にノゾムが龍殺しであることは、その現場に居合わせ、かつ気を失わなかったアイリスディーナ達とジハード、そしてインダしかまだ知らない。
そう、リサもカミラも、未だにノゾムが龍殺しであることを知らないのだ。
だからというわけではないが、アイリスディーナとシーナが彼女に対して言い様のない感情を抱いている様子は手に取るように分かる。
かつてアイリスディーナ達は、ノゾムに向けられた理不尽な仕打ちに対して怒りを覚えた。
アイリスディーナもシーナも、リサに対する感情を整理しきれていないのだ。そして、ノゾムに対する想いも。
彼が眠りについてしまっている今、2人の胸の奥で言いようのない何かが急速に膨れ上がっていた。
あの場所から逃げるように立ち去ったリサ。しかし、周囲からの視線と声は途切れることがなかった。
今はちょうど生徒達が登校する時間帯であり、中央公園には学園へ向かう生徒達で溢れている。
「あ、ほら、あの人だよ……」
「まだ居たんだ。てっきり退学したと……」
そんな中で、リサの姿はあまりにも目立つ。
元々アイリスディーナに勝るとも劣らない美貌の持ち主であり、さらに3階級でも5人しかいなかったAランクの実力者。
だが元々ケンがばら撒いた噂の信憑性が薄れていたところに今回の事件が起こった。
それにより、彼女に対する周囲からの視線は一気に反転した。
「それってケンの奴の方だったろ。でも彼女は何も知らないって話じゃなかったっけ?」
「あれ? 一緒になった共犯したって話じゃ……」
「馬鹿、それじゃとっくに退学になっているだろ? 大方、紅髪姫が元鞘に戻ろうとして、ケンの奴が暴走したとかじゃないのか?」
元々高い評価を受けていたからこそ、反動も大きかったかもしれない。
ケンの事件が表ざたになってから2週間近く。
周囲からリサに向けられる数多の視線は、ほとんどが嫌悪の色に染まっていた。
「ははは……」
乾ききった自嘲の笑みを浮かべながら、リサは己の体を掻き抱く。
寒かった。
まるで雪山に1人取り残されたような孤独感と寂しさ、そして周囲から向けられる視線と言葉は冷たい氷の矢となって、彼女の心に突き刺さる。
反転した世界。
もちろん、彼女に同情的な目を向ける者もいる。だがその数は少なく、他の嫌悪に満ちた声によって塗りつぶされている。
自分の手首を切り裂きたくなるような自虐的思考と、自責の念に締め付けられた リサは、彼らの同情的な視線には気付かない。
ノゾムを信じ切れなかった自分自身から逃げることもできず、ひたすらに堕ち続ける。
締め付けられ、押し潰されそうになる心を守ろうと、リサは無意識の内に感情を麻痺させていく。
体はまるで氷のように冷たくなっていき、気が付けばノッペリとした能面が彼女の顔を覆っていく。
だが、そんな彼女の胸の奥に小さな明かりが残っていた。
“リサ、ごめんな……”
鈴の様に落ち着いた声が心に響く。
脳裏に浮かぶのは、彼女の手を握りながら、どこか申し訳なさそうに笑みを浮かべていたノゾムの姿。
“俺は君のためになるのではなんていいながら、鍛錬に逃げて君に向き合おうとしなかった。まじめに鍛錬を続けていれば、君はいつかあの噂は違うんだって思ってくれるなんて考えていた。
馬鹿な話だよな。逃げてリサと向き合おうとしなかった俺が、リサに見てもらえるはずなんてないのに……“
本来なら、彼はリサに憎しみをぶつけても構わなかった。それだけの権利が彼にはあったのだ。
だが、彼はただ只管にリサの身を案じてくれていた。その時、ノゾムの手を通して伝わってきた熱が、リサの胸の奥で輝いている。
「ノゾム……」
そのわずかな明かりにすがるように、リサは胸を掻き抱く。その熱を逃がさないように。彼の顔を忘れないよう。
だが、ノゾムの顔を思い浮かべると、隣には必ず彼女達の姿があった。
アイリスディーナとシーナ。ノゾムを支えるように隣に寄り添う彼女と、今のノゾムの仲間達。
その光景に、リサはどうしても黒い感情が湧き上がるのを感じてしまう。
ノゾムの傍に自分の居場所がない事も、その資格がもう自分に無いことが分かっていたとしても。
「汚いな、私……」
そして、その黒い感情を自覚するたびに、ノゾムに対する罪悪感はさらに深まっていく。
嫉妬と自責、そして自虐。出口のないループに迷い込んだ彼女の心は、グルグルと回りながら只管に堕ちていく。
だがそれでも、脳裏にチラつくノゾムの姿だけが、彼女の唯一の拠り所だった。
アイリスディーナ達と別れたマルス達は中央公園を通り、学園の正門を目指していた。
マルスを始めとした6人は中央公園の並木道を、肩を並べて歩く。
公園に建ち並ぶ木々は青々と茂り、枝葉の隙間から朝焼けの光が差し込んでいる。
「で、ノゾムの奴、今日は起きているんやろか?」
「さあ……な。何時起きるかはハッキリと分からないらしいし……」
彼の話を聞いていたトムが、おもむろに鞄に手を伸ばした。
「僕、図書館で調べてはみたんだけど、確か雪山で行方不明の人が1か月ぶりくらいに発見されて、息を吹き返したって話を見たことがあるよ」
トムが小さな紙束を取り出し、ペラペラと捲りながら目を走らせる。
その様子を見る限り、彼もノゾムの状態について、色々と調べていたらしい。
トムの話によると、今のノゾムと同じように長期的な眠りについてしまった人物は、他にも例があったようだ。
「そんなことあるの?」
「話を聞く限り数例。他にも魔法を使った場合が10例ほど。ノゾム君とは状況が違うから、何とも言えないけれど……」
魔法などを使った長期睡眠の事例は多少あるが、自然条件下でこのような事態になったことはほとんどないらしい。
魔法による長期睡眠の場合、ノゾムと同じぐらい眠っていた事例はあるが、それでも栄養や水分の補給、内臓や血液の循環系が弱るなどから限界が存在する。
「患者の時間を止められたら話は別かもしれないけど、そんな魔法はないからね。どのみち、出来ることは限られるよ……」
今の魔法学で時間を制御することは出来ていない。
一応魔法によって長期睡眠に陥った例があるから、寝たきりのノゾムの看病についてはそれなりに手がある。
しかし根本的な解決にはならない以上、気休めくらいにしかならない。
「助かった人って後遺症とか無かったのか?」
顎に手を当てたマルスが、トムに質問をぶつける。
再びメモに目を落としたトムがパラパラと紙をめくる音が流れた。
「ええっと……発見された時は内臓の機能がほとんど止まっていたけど、後々回復したみたいだよ」
「それならノゾムも大丈夫か……?」
「どうだろう? 元々人間の体は冬眠できるようにはできていないし、ノゾム君の場合は特殊な要因が多いし……」
頭の後ろで手を組んで天を仰ぐフェオが、トムの話を聞いて、ため息とともに独白した。
「龍殺し……。いや、ノゾム自身にも何かありそうな感じがするんよな……」
フェオの独白を聞いたトムの額に皺が寄る。
トムとしても今回の症例はあまり確認された例がない上、医療関係は専門ではない。
「ノゾムの状態について、トムはノルン先生に何か聞いてみたんか? あの人も医療関係者やろ?」
確かに学園の保険医であるノルンは医学的な教育を受けている。
フェオ達は、もしかしたら彼女が何か気づいていないのかと期待を膨らませる。 しかし、トムは目を伏せてゆっくりと首を振った。
「先生も正直判断のしようがないって……。ノゾム君の体自体は健康だから、精神的な要因が原因だとは思うけど、それがあの魔獣の影響なのか、それともノゾム君の中にいる“奴”が原因なのかまでは……」
どうやらノルンも、ノゾムの状態については判断がつかないらしい。
精神的な要因とは言っても、あの時の事件がノゾムの心に与えた負担は軽くないことは、この場にいる誰もが理解している。
かつての幼馴染との浅からぬ縁。2年以上もノゾムを苦しめた因縁と真正面からぶつかることになり、さらにアビスグリーフの乱入とティアマットの力の解放。
はっきり言ってお腹いっぱいどころではない。ノゾムが寝込む要因が多すぎて判断がつかない。
悲しそうな表情で俯いていたソミアが、すがるような顔でトム達を見上げた。
「何とかならないんでしょうか。エルフのシーナさんが使える契約魔法なら……」
「ごめんソミっち。シーナの話だと、ノゾム君の心とパスが上手く繋がらないらしいの。繋がってもボヤけていてよく見えないみたいで……。なんか“目の前に網が敷かれているみたい”とか言っていた」
「そう、ですか……」
ミムルの話を聞いて、ソミアが更に落ち込んだ表情を見せる。
契約魔法を得意とし、並の人間よりもはるかに感応に長けているシーナですら、ノゾムの状態を把握できない。
そんな時、ティマが思い出したように声を上げた。
「ね、ねえ。あのお爺さんなら何か知っていないかな?」
「爺さん……。ああ! あの占いやっとるエロ爺さん!?」
ティマの言葉にフェオはポン! と手を打つ。
ゾンネは商業区で占いを生業としている老人であり、年甲斐もなくあちこちの女性に粉を掛けている色欲ジジイである。
今まで散々ノゾム達の前に現れては騒動を起こしてきた人物であるが、あの夜に見た老人の姿は、今までマルス達が見てきたゾンネのイメージからは遥かにかけ離れたものだった。
「あの時のお爺さん、マジで半端なかったね……」
「うん。私、見ていて信じられなかった。術式は見た事もないものだったし、私以上の魔力をまるで鋏で紙を切るくらい簡単に扱ってた……」
ケンと同化したアビスグリーフにリサが呑み込まれた際に乱入してきたゾンネは、問い詰めようとするジハード達を、見たこともない複雑な魔法で容易く退けた。
幾重にも魔法陣を重ねた曼荼羅模様の魔法陣。このアルカザムでそのような魔法を見たことは一度もない。
そんな奇想天外な魔法を行使しても、老人の雰囲気に力んだ様子はなかった。
大陸でも屈指の英雄を片手間に退け、それを不思議と思わない態度。
おちゃらけた口調の中に、マルス達は言いようのない威圧感を感じた。
「だけど、あの事件の後に、商業区であのジジイの姿を見た話は聞いたことがねえ。多分、ジハードの奴らもとっくに知っているだろうが……」
ジハード達も事件当日、ゾンネが行使した不可思議な魔法を目の当たりにしている。当然、足取りを追っていることだろう。
だが、ゾンネが捕まったという話は聞いたことがない。
もしジハードがゾンネを捕まえているなら、ノゾムの状態もある程度進展を見せるかもしれない。
しかし、あれだけ強烈な印象を周囲に与えた老人は、まるで霞の様に忽然と姿を消してしまっていた。
先の見えない状況を改めて目の当たりにし、自然とマルス達の口数が少なくなる。
その時、突然横から人影が飛び出してきた。
「おっと」
「っ!?」
ドン! いう音と共に、前を歩いていたマルスの肩に衝撃が走る。
元々恵まれた体格のマルスは少しよろけるだけで済んだが、マルスにぶつかった影は派手に転んでしまった。
すでに夏も近いというのに、体がすっぽりと包むほどの外套を纏った人物。
目深に被ったフードで顔はよく見えないが、外套から覗くほっそりとした顎のラインと白く細い手を見る限り、女性のように見える。
ティマが慌てた様子で、倒れた人物に駆け寄った。
「す、すみません。大丈夫ですか?」
「悪いなお嬢さん。こいつ、昼間の蝙蝠くらい注意力が散漫やから」
「おいこら、どういう意味だ……」
「…………」
唐突にからかい始めたフェオに、マルスがジト目を向ける。
謝ったかと思ったら、いきなり漫才を始めるマルスとフェオを見て、ティマが大きく肩を落としてため息を吐いた。
「ほら、マルス君……」
「あ、ああ。そうだった。すまん、大丈夫か?」
諫めるようなティマの声に我に戻り、マルスは倒れたフードの人物に手を伸ばした。
下を向いていたその人物の顔がわずかに上がる。
その時、目深にかぶっていたフードがハラリと落ちた。
「っ!?」
「ほわああ……」
その瞬間、マルス達の目が大きく見開かれた。
彼らの目の前に雪原のような銀世界が広がる。ソミアが思わず感嘆の声を漏らした。
新雪を思わせる真っ白な髪と肌。宝石のようにくりっとしたコバルトブルーの瞳
歳は14か15歳位だろうか。一見すれば冷たさすら感じられる、彫刻のような美少女だった。
だが右側から垂れ流した一房の髪には、薄紅色の可愛らしいリボンがクルクルと巻かれており、それが鋭利な美貌とは対照的に、どこか幼い印象も感じさせている。
「なんや、随分と美人さんやんか~。学園に用でもあったんか?」
「…………」
意外な出会いに興奮したのか、フェオが鼻を鳴らしながら少女に話しかける。
しかし、白髪の女性はその彫刻のような表情をまったく変えず、無言のまま差し出されたマルスの手を払いのけて立ち上がり、踵を返して去って行った。
「……行っちゃいましたね」
「なんや、随分と冷たい感じの人やったな」
何も言わずに立ち去った少女の後姿を眺めながら、ソミアが残念そうな声ををもらす。
一方、フェオはせっかく話しかけたのに反応が返されなかった為か、つまらなそうに口を尖らせていた。
「そうだね。何だか反応がなくて面白くなかった。ここは“無礼者!”とか言ってマルス君を叩き倒すところじゃない? いきなりナンパしてきたフェオでもいいけど」
「ミムル……」
面白そうなネタに反応するところはフェオと同じなのか、ミムルがやや的外れな発言を漏らす。
隣にいたトムは呆れて声も出ない。
「でも、すっごく綺麗な人でしたね!」
「そうか? 外見はともかく、あの態度はな……」
ソミアは純粋に先程の少女が持つ美貌に目をキラキラさせていた。
確かに見た目はアイリスディーナやシーナにも引けをとらないだろう
だが、マルスとしてはあんな雰囲気の悪い女性とはあまり係わり合いになりたくなかった。
前をよく見ていなかったマルスにも落ち度はあるが、それは先程の女性も同じだった。
釈然としない思いを抱きながら、マルスは立ち去っていく女性の後姿を眺める。
その時、マルスの様子を横目で覗いていたミムルの口元が、ニヤリと釣りあがった。
「あれ?もしかして、マルス君って内面はともかく“外見は”あんな娘が好みなのかな?」
「別にそんなことは言ってねえだろ!?」
いきなりとんでもない発言を向けてきたミムルの言葉に、マルスは思わず間髪入れずにツッコミを放ってしまった。
マルスとしては冗談ではなかった。外見は確かに目が覚めるような美少女ではあるが、あんな感じの悪い女の傍にいたら胃に穴が開いてしまう。
だが、彼が思った以上に大声が出てしまったことが、更にミムルに付け入る隙を与えてしまった。
「何だかムキになるところが怪しいな~~」
ニヤニヤと口元を緩ませながら、ミムルが人の悪い笑みを浮かべた。絶好の機会を得たといわんばかりに目を輝かせている。
ついでに言えば、普段から彼女の暴走を止めてくれるエルフの少女はここにはいない。
マルスが不味いと思ったときには既に遅く、彼の隣から悲壮な声が響いてきた。
「マルス君……」
ティマがマルスの隣で、目に涙を一杯に溜めながら彼を見上げている。
元々華奢で弱々しい印象のティマだが、今の彼女は風が吹けば吹き飛んでしまいそうなほど儚く見える。
同時に猛烈な保護欲を掻き立てられるのだが、この時のマルスは完全にテンパッていた。
「ちょっと待て! 誤解だっての!」
思った以上に声が上ずってしまう。それがティマの胸に生まれた余計な疑念を、さらに煽ってしまった。
「あ~あ~。ティマさん可哀想だな~。マルス君の訓練のお手伝いとか一杯していたのにな~」
ついでに、嬉々として事態を引っかき回す悪猫が一匹。何とか誤解を解こうとするマルスの言葉の間に、的確に楔を打っていく。
「ミムル、てめえ……」
「おっと、怖い怖い。それじゃあお先に~~」
マルスの剣呑な空気を察知したミムルが一目散に逃げ出す。ついでに彼女はその脇に恋人であるトムをしっかりと抱えていた。
事態をかき回すだけかき回して放置する様は正しく小悪魔という表現がふさわしい。
だが、当然マルスもミムルを逃がすつもりは無い。
いくら身軽な山猫族でも、小脇にトムを抱えているのだ。マルスの足なら簡単に追いつける。
そう考え、マルスは脚に力を込めて走り出そうとする。
「……マルス君、あんな感じの娘が好きなの?」
「い、いや、そんな訳……」
しかし、踏み出そうとした彼の足を、再びティマの声が押し止めた。目一杯に溜まった涙は今にも零れ落ちそうだ。
元々不器用で口下手なマルスは、何を言ったらいいのか分からず、言いよどむ。
「う、うう……」
どうしたら良いのだろうか。マルスはあちこちに視線を泳がせる。
ティマは外見も中身も控えめで純真な少女である。
一方、マルスは制服を着流した大男。最近は大人しくなっているが、元々商業区では有名な不良だったし、今でも他人からは近づきがたい印象がある。
そんな組み合わせの2人であるから、今の状況は端から見れば、マルスがティマを泣かせたという状況に取られてしまう可能性が高い。
「ちょっと、ティマさん泣いているみたいなんだけど……」
「あの男に何かされたのかしら……」
というか、既にそうなりかけている。登校中の生徒達の何人かが、一体何事かと2人の様子を遠巻きに眺めていた。
早く誤解を解かなくては不味い。
意を決して、マルスはティマの誤解を解こうと口を開く。
だが彼の言葉は、フェオのワザとらしい大声にかき消された。
「それじゃあマルス! ワイらも学園に行くわ! ほらソミア嬢ちゃんも!」
「え!? で、でもティマちゃんが……」
3度出鼻をくじかれたマルスが、恨めしそうにフェオを睨み付ける。
フェオは睨み付けてくるマルスを面白そうな目で一瞥すると、心配そうなソミアの背中を押して学園へと向かっていく。
「大丈夫、大丈夫! あれは一種のコミュニケーション。気にしなくても問題無し! それに急がないと学園に遅れてまうで」
「ちょ、ちょっとフェオさん!? 押さないでくださ~い!」
「さあ、さあ、さあ!」
マルスが“おいこら、この駄目狐!”と罵声を上げる間もなく、フェオはソミアを連れて脱兎のごとく逃げ出していった。
残されたのは怒りの矛先を向ける相手を無くし、呆然とたたずむマルスと、今にも泣き出しそうな学園屈指の魔法使い。
「ちょ! 誤解だぞ!? 分かっているよな?」
「や、やっぱりマルス君って髪が長いほうがいいのかな……。短い方はあまり好きじゃないのかな……」
元々ティマはマイナス思考に凝り固まりやすい性格をしている。
慌てふためくマルスと、落ち込んで自分の殻に閉じこもりかけているティマ。
何だか色々と含みがある言葉も聞こえてくるが、今の2人とも完全に冷静さを欠いており、互いに相手が何を言っているのか気付く様子がない。
マルスは必死に誤解を解こうと試みるが、ミムルとフェオに幾度も説得を邪魔された間に、ティマの疑念は簡単には解けなくなっていた。
こうしてマルスは朝礼の鐘が鳴る直前まで、ティマの誤解を解くために四苦八苦する羽目になったのだった。
今回は学園におけるリサの現状がメインでした。
色々と2年間のツケが返ってきています。
ついでに新キャラがちらりと登場。こちらも今後、色々と書いていこうと思います。