第6章第29節
お待たせしました。
「う、うん。ここは……っ!?」
全身を包む気怠さを感じながら、リサ・ハウンズは目を覚ました。
初めは目の焦点も合わず、呆けた様子のリサだったが、自らに起こった出来事を思い出して弾かれた様に体を起こす。
起き上がった彼女の目の前には深淵の闇が全天に広がっていた。
「ノゾム……」
方向感覚すら狂いかねない真なる暗黒の中で、彼女はまるで子供の様にうずくまった。
まるで自分が世界に独り取り残されたのではないかと思えるほどの孤独感が彼女の心を蝕んでいく。
「ごめんなさい、ごめんさない……」
リサの口から漏れる謝罪の言葉。
一体自分はどれだけ彼を傷付けてしまったのだろう。どうしてあんな酷い言葉を投げかけ続けてしまったのだろう。
ノゾムがどれだけ一途な人なのか。それを自分は誰よりも知っていたはずだったのに……。
リサは後悔と罪悪感に胸を抉られながら、ただ自分が傷付けた想い人に許しを請うことしかできなかった。
その時、深淵の闇の向こうで何かが蠢いた。
「っ! 誰!?」
彼女の声に反応したのか、漆黒の空間がまるで渦を巻くようにうねる。やがて赤黒く変色し始めた渦の向こうから姿を現したのは、周りを覆う深淵の闇よりもさらにドス黒い影だった。
一歩一歩、まるで這い寄るように近づいてくる影。リサは背筋に蛇が這うような悪寒を感じ、思わず後ずさる。
やがて黒い影は人型の形を取ると、その中からズルリと這い出るように、1人の男が姿を現した。
「ケ、ケン……?」
どう見ても現実とは思えない場所に現れた幼馴染み。しかし、リサはこの場所に来る前の彼の姿を思い出して身を震わせた。
真紅の瞳を輝かせ、奇声を上げながら襲い掛かってきたケン。その身が切り裂かれた際に吹き出てきた人の血とは思えない黒い液体に飲み込まれたことを、リサははっきりと覚えている。
一方、影から這い出てきたケンは、そんなリサの様子を眺めながらも満面の笑みを浮かべている。
それは心の底から喜びを感じさせる満面の笑顔。しかし、リサには無機質な蝋人形の微笑みにしか見えなかった。
「リサ……。これでずっと一緒にいられるよ……」
「な、何言っているのよ……。それに、その腕……」
何より、彼女の目に飛び込んできたケンの姿が、彼に起こった異常を如実に感じさせていた。
リサの目を釘付けにしたのはノゾムに深々と斬られたケンの右腕。そこには肉塊のような赤黒い塊がへばりつき、腕全体を覆っている。
しかしケンは吐き気を催すほどの醜悪な肉塊を見ても、全く驚く様子はない。それどころかその肉塊を愛おしそうな目で見ている。
「ああ、僕の力だ。これで君を守り続けられる」
「や、やめて!」
異形と化した自らの右腕に頬ずりしながら近寄ってくるケンに、リサは思わず拒絶の言葉を放つ。しかしケンの歩みが止まることはない。
「心配しなくて大丈夫だよ。今の僕には力がある。みんなが僕にくれたんだ。誰にも負けないほどの力を……」
「違う、そうじゃない。私は、私はただ……」
リサと一緒にいる理由を力にしか見いだせないケンに、リサは悲愴な顔で首を振ってうなだれる。
「どうして、どうして……」
「イマサラ何ヲ言ッテイルノダ。全テハオ前ガ元凶デアロウ?」
突然聞こえてきた澱んだ声色にリサが顔を上げると、ケンの右腕の肉塊に出現した紅い瞳が彼女を見据えていた。
「わ、私……?」
「ソウダ。貴様モアノ男ヲ否定シタ。拒絶シタ。今更戻レルト思ッテイルノカ?」
今更ノゾムの元に戻れるはずはない。頭では分かっていたことが他者の声という明確な形で叩きつけられ、リサの精神に致命的なヒビが入る。
「オ前ノセイダ、オ前ノセイダ、オ前ノセイ……」
「あ、ああ、あああ……」
繰り返される弾劾の声。その度に周囲を包む深淵の壁に深紅の瞳が開かれ、リサを責め立てていく。
胸に入った罅から、入り込んでくるその冷たい声はリサの魂から徐々に熱を奪い、生きる気力を奪い、そして心を殺していく。
やがて迫るケンと紅瞳を前に、リサの視界はゆっくりと暗転していった。自らが傷付けてしまったノゾムへの懺悔を呟きながら。
目の前に広がった暗闇に背筋が泡立つような感覚に覚えながらも、ノゾムはしっかりと自分の足で立っている。
「ここが捕食結界の中……」
未だに見えない暗闇の奥を睨みつけながら、ノゾムは目の前に広がった深淵の闇の中で独白する。
「リサはどこに……。くそ、前がほとんど見えない」
目の前に広がった闇を相手に途方にくれる。自分がどっちを向いているのか分からないし、目印となるような物標も見当たらないのだ。
ゾンネの話だと捕食結界内は異界と化しているという話だったので、この闇に包まれた世界がどこまで続いているのか全く分からない。このままではリサを捜しようがなかった。
“ノゾム君、聞こえる?”
「シーナ?」
“よかった、ちゃんと繋がっているわね”
ホッとしたような声がノゾムの頭に木霊する。どうやらシーナはきちんとパスが繋がっているか確認していたらしい。ノゾムもまた仲間の声に安堵していた。
ここはあの魔獣の領域だ。正直、何が起こっても不思議はない。今話をしているこの瞬間ですら襲われる危険があるのだ。
そんな中でノゾムも少々緊張していたのだろう。心に若干余裕が出来たのか、その口元には笑みが浮かんでいた。
「……リサの居場所が分からないかな? 暗すぎて何も見えないんだ」
“ちょっと待って。ええっと……”
今現在、ノゾムはシーナを通して外にいる仲間達と契約魔法で魔力的につながっている。
そのシーナがノゾムを通して捕食結界内を探ろうとするが、彼女がリサの居所を探し当てる前にゾンネの声が割り込んできた。
“小僧、とりあえずまっすぐ行くんじゃ。妙にあのアビスグリーフとかいう獣の気配が強い場所がある。紅髪のお嬢さんは多分そこじゃろうな”
話の途中でいきなり割り込んできたゾンネの声にノゾムは驚くが、そんな彼の動揺に構わず老人は話を続ける。
“あの獣にとっても、あのお嬢さんは宿主を安定させるためにも大事な存在じゃ。ただ腹を満たすだけの餌とは違う。少なくとも、ただ喰って終わりにするような存在じゃないわい。エルフのお嬢さんも、あの獣の気配は分かるじゃろ?”
“……本当だわ。確かに先に行ったところにあの獣の気配が色濃く感じられる……”
「分かるのか?」
“何となく……。以前戦った時は脅えていた精霊達の方に気が向いていたけど、今では分かるような気がするわ”
腐った沼のような感じかしらと言うシーナの言葉を聞きながらも、ノゾムの脳裏には様々な憶測が浮かんでは消えていた。
以前森で遭遇した際にも、彼女はアビスグリーフの存在を敏感に感じ取っている。そのことからも彼女の言葉を疑う要素はないように思えた。
しかし、精霊に感応できるシーナも感じ取れたということは、あの獣は精霊に近い存在なのだろうか?
「……爺さん。あの獣は精霊なのか?」
“それに近いのう。体自体は他の生物を乗っ取っておるが、その本質は似たようなものじゃ”
本質、つまりその体の構造は精霊と同じ源素で構築されているとゾンネは言葉を続けた。
そのハッキリとした物言いに、ノゾムの脳裏にゾンネに対する疑念が再び湧き上がる。
いや、この老人が気にならない人間などいないだろう。その在り方はあまりに不自然だ。
自身の正体は一切話さないくせに、ノゾムたちには助言は与える。しかも、その助言の内容はジハードですら知らない内容ばかりである。
さらに本人の実力は完全に未知数であり、その実力は決して侮れるものではない。それはこの学園で最強のジハードに膝をつかせた点で十分に窺える。
そして今も、ゾンネはシーナよりも早く、アビスグリーフの存在を感じ取った。普通に考えればあり得ないことだらけなのだ。
だがノゾムは首を振って自らの疑念を抑え込み、気持ちを入れ替えるように大きく息を吐く。
「……ここで立ち止まっていてもしょうがないか」
ゾンネの事は気にはなる。だが今はリサを助けることに集中しよう。
そう考えてノゾムが足を踏み出した瞬間、突然彼は槍を突き刺すような激痛が頭に走った。
“ガアア! 出セ! ココカラ出セ! アイツヲ殺サセロ!!”
「ぐっう! またか、一体何を言って……」
再び暴れ始めたティアマット。ノゾムは歯を食いしばり、抉るような頭痛に堪え忍ぶ。
“いい加減にしてくれ”と心の奥で悪態をつきながら、しばらく痛みに耐えていると、ティアマットの怒声がゆっくりと遠ざかっていく。
「はあ、はあ……頼むから、今は大人しくしてくれ」
やがて痛みも潮が引くように治まっていくが、頭はまるで鐘を被ったように重かった。
だが、このまま足を止めているわけにもいかないため、ノゾムは深淵の闇へと足を踏み出す。
「リサ、どこにいるんだ!」
声を張り上げ、リサの名前を叫ぶ。その声に反応したのか、闇の向こうで何かが蠢いた。
ノゾムは目を細めながら一歩ずつ慎重に近づいていく。手は既に腰に差した刀の柄に添えられており、いつでも抜けるようにしている。
やがて見えてきたのは、ノゾムとほぼ同じくらいの背格好をした1人の青年。
見覚えのあるその姿にノゾムは眉を顰める。ノゾムに左半身を向けて佇むその青年は、間違いなくケン・ノーティスのものだった。
「ノゾムか……」
「ケンか……リサはどこだ」
腹の底に響くような低い声でノゾムがリサの居所をケンに問い質す。その視線はいつになく鋭く、彼の体からはピリピリとした怒気と剣気が漏れ出していた。
しかしケンはノゾムを一瞥すると、薄暗い笑みを口元に浮かべた。
ノゾムを正面から見るように向き直ると、隠れていたケンの右半身が露わになる。
赤黒い肉塊に覆われた右半身は赤黒い血管がはしり、ドクンドクンと脈動している。
そして何より目を引くのは右手に開いた巨大な紅眼だった。
その目に見えるもの全てを殺し、喰らい尽くそうとする強烈な飢餓感と憎悪。まるで腐った底なし沼のような強烈な負の執念。
それは間違いなく森で出会った黒い魔獣、アビスグリーフそのものだった。
「モウ、お前の出番は、ナイぞ……」
リサへの執着を口にしながらも呂律の回らないその口調に、ノゾムは眉を潜める。
「完全に飲み込まれたんだな。お前……」
自分に起こった変化を微塵も気にする様子もなく、薄笑いを浮かべるその様はまさしく怪物だった。
ノゾムの背筋に冷たい汗が流れる。目の前の人物が浮かべる表情はケンのものでも、その体からは信じられないほどの負の情念が感じ取れた。
その情念は以前に森で遭遇したアビスグリーフとは比較にならない。今のケンの体から発せられる怨念に比べれば、あの時の魔獣など子犬のようなものだ。
「リサはモウ、ボクのモノ……ダ」
そして激情に染まった瞳がノゾムに向けられる。同時にパンパンに膨れ上がった怨念が弾けるように、一気にノゾムに叩きつけられた。
「っ!」
ノゾムが考える間もなく、彼の体は勝手に動いていた。
咄嗟に首を逸らした瞬間、風を切り裂きながら巨大な刃が通過する。漆黒に覆われた刃。それはケンの赤黒い右腕から伸びていた。
右腕から鞭の様に伸びた先はまるで鉈のような肉厚の刃に変化しており、外見としては森で見たアビスグリーフの尾によく似ていた。
「ちっ!」
刹那に高まった気が彼の全身を怒涛のごとく駆け巡り、全身に火が付いたように熱くなる。
ケンは突き出した右腕を振り上げ、今度はノゾムの脳天めがけて打ち落そうとする。
ノゾムはすばやく真横に跳躍し、落ちてくる刃の軌道から逃れる。次の瞬間、スダン! という轟音を響かせながら巨大な刃が地面を打った。
ノゾムは一旦後ろに飛んで距離を離す。
一拍を置いて睨み合う両者。その時、辺りを覆っていた闇が徐々に晴れてきた。
徐々に見えてくる周囲の様子。そしてこの空間の全貌が明らかになった時、ノゾムはそのあまりの醜悪さに思わず口を覆った。
「っ!?」
“これは……”
“ひっ!”
それは一言でいえば肉の壁で覆われた空間だった。
ワイルドドックなどの四足の獣からゴブリンやオークなどの亜人に至るまで。それこそ有象無象の魔獣達がまるで子供の粘土細工のようにぐちゃぐちゃに混ざり合い、怨嗟の声を上げている。
それは魔獣が互いに食い合っているようにも見えたし、嘆いているようにも見えた。
“……なるほど、捕食結界とはよく言ったものだ”
重苦しく呟いたジハードの声がノゾムの耳元に響く。他の仲間達も言葉を失っているのか、息を押し殺す気配だけが感じ取れる。
そんな地獄のような世界で、ケンのみが半身だけ人の姿を保っている。それは異様にも見えるし、この混沌とした世界を象徴しているようにも見えた。
「今度コソ、リサは、僕ノモのに……」
ケンが天を仰ぐように手を広げると、肉に覆われた地面から球状の物体が浮かんできた。
ちょうどアビスグリーフと同じ、ケンの身の丈ほどもある汚泥の様なドス黒い球体。それを見た瞬間、ノゾムの全身に雷が落ちたような衝撃が走った。
黒い球体の中に誰かがいる。すらりと伸びた手足ときゅっとくびれた腰。
黒い球体の中で浮かぶ彼女は膝を抱えたまま、美しい肢体を惜しげもなくさらしている。
何よりその特徴的な紅の長髪はノゾムが捜していた女の子のもの。ノゾムが捜していたリサ・ハウンズの姿だった。
ケンが左腕で愛おしそうにリサが閉じ込められた球体を撫でる。だがリサの表情は虚ろなままピクリとも動かない。
感情が完全に抜け落ちたリサの顔。そこにノゾムがかつて惹かれた朗らかな彼女の姿は微塵もなかった。
「っ!!」
ノゾムの頭が一瞬で沸騰する。彼の激情に呼応するように、彼の全身から気が溢れだした。
納刀した鞘を握る手はミシミシと音を立て、ノゾムの全身は怒りのあまり震えている。
次の瞬間、ズドンと響く炸裂音と共に、ノゾムは一気にケンめがけて突進していた。
既にその手に持つ刀には極圧縮された気の刃が付されている。
「オ前も、我ノ糧にナレ……」
ケンの意識とアビスグリーフの意識が混在しているのか、その口調は既に人のものではない。
ケンの足元の地面がボコリと盛り上がった。人の下半身ほどもある卵状の肉塊。それも複数だ。
そして肉塊の表面にビシリとヒビが入ると。その中から何かが現れた。
現れたのは漆黒の魔獣達。犬型の獣の姿をした者もいれば、ゴブリンのような小鬼の姿をした者もいる。
カマキリの様な体に節を持つ生物もいるし、さらには人の腕ほどの体躯を持つ鳥のような魔獣もいた。
しかし、そのすべてがアビスグリーフの様などす黒い体表と、血のように紅く染まった単眼を持っている。
「ギュガアアア!」
「キシャアア!」
耳障りな産声を上げながら、魔獣達は生みの親に従い、ノゾム目がけて一斉に襲い掛かってきた。
牙をむき出しにし、爪を見せつけ、目の前の得物を魂まで食らいつくそうと迫りくる魔獣達。
「どけえええ!」
鯉口を切り、抜刀。
ノゾムは自分に向かって跳びかかってきた四足の魔獣を3匹まとめて一太刀で斬り捨てる。
目の前の獣の体は、以前森で戦ったアビスグリーフよりはるかに脆弱だった。多分眷属か働きアリのようなものなのだろう。
斬り捨てられた仲間の死骸を踏み越え、今度は子鬼たちがノゾムに向かって跳びかかってくる。
流れるような動きでノゾムの二の太刀が放たれた。
ノゾムに跳びかかろうとしていた子鬼達を気術“幻無-回帰-”が一気に両断する。
しかし、相手の数はあまりに多い。子鬼達を全て断ち切ったノゾムに、今度は黒鳥達が殺到する。
ノゾムは一々構っていられないと考えたのか、身を低くして向かってくる黒鳥の群れを一気に突破しようとした。
「痛! ぐっ!」
飛びかかってくる黒鳥達の爪や嘴がノゾムの服や肌を裂く。
だが、その程度でノゾムは止まらない。両足を踏ん張って腰に力を入れて、黒鳥の群れの中を、荒波を踏破する船の様にかき分けて進んでいく。
やがて黒鳥の群れが通り過ぎると、次に現れたのは前足に巨大な鎌を持つドス黒い虫だった。
「シャー!」
漆黒のカマキリは体を後ろ足で支えて越し、自らの威容を見せつけるようにカマを広げる。
そしてノゾムの体を挟み込むよう両腕の鎌を左右から一気に薙ぎ払ってきた。
唸りを上げてノゾムに迫る巨大な鎌。しかし、薙ぎ払われた鎌はノゾムの身体を捉えることはなく、むなしく空を切る。
次の瞬間、閃光が煌めき、断ち切られたカマキリの鎌が宙を舞った。“幻無-纏-”を付した刀による切り上げ。さらに返す刀で唐竹に奮われた刃が黒い虫が縦に真っ二つに両断する。
魔獣達の群れを突破したノゾムは足を止めずにケンに向かって一直線に駆けた。
「はっ、はっ! はっ!」
残った僅かな気が一気に消費され、ノゾムの息が荒くなる。
ケンが異形と化した右腕を振り上げ、打ち下ろしてくる。その速度は先程捕食結界の外で戦った時の比ではない。
「っ!」
ノゾムの読みを上回る速度で迫る刃を、彼は “瞬脚-曲舞-”で何とか回避する。
すぐ側の肉床に叩きつけられた刃が、無数の肉片とどす黒い体液をビシャリと撒き散らす。鼻が曲がりそうな異臭にノゾムは眉を顰めた。
さらに打ち下ろされた右腕に罅が入り、逆立つように無数の針状の刃が生まれる。
「ちぃい!」
既視感のある光景を目にし、ノゾムは考えるよりも先に刀を振るった。
気を纏ったノゾムの刀が円を描くのと同時に、ささくれ立ったケンの右腕が炸裂。無数の黒い針を辺りに撒き散らす。
それは間違いなく、ケンの“這い回る蛇牙”の能力だった。
「がっ! くぅ! ケンの魔法も使えるのか!」
無数の針はノゾムの“扇帆蓮”で作られた気膜を容易く突き破り、彼の身体に突き刺さる。明らかに以前の氷矢よりも威力が増していた。
さらに肉の床に突き刺さっていたケンの右腕がうねり、床の腐肉を撒き散らしながら薙ぎ払われた。回避する間もなく、ノゾムの体がケンの右腕に身体を弾き飛ばされる。
「ずぁ!」
全身に衝撃が走り、肺から空気が漏れ出す。
あれだけ不安定な精神でありながら、今まで以上の威力を生み出す目の前の存在に、ノゾムは歯噛みした。
だがそれでも諦めるなんて選択はノゾムには出来ない。地面に叩き付けられる衝撃を何とか受け身で逃がし、立ち上がる。
しかし、ケンは既に追撃の体勢を整えていた。
漆黒に染まった無数の氷柱が宙を舞う。これもまた、ケンの魔法である“氷柱舞”に間違いない。
空中に浮かぶ氷柱が立て続けにノゾムに襲いかかる。
ノゾムは再び“瞬脚-曲舞-”で回避に徹するが、間隙無く迫ってくる氷柱にノゾムは間合いを詰めることが出来なかった。
いや、たとえ氷柱舞の雨を避けて踏み込んだとしても、ケンの漆黒の“這い回る蛇牙”の氷矢はもうノゾムの扇帆蓮では防ぎきれない。
扇帆蓮で黒い針を防げないということは、ノゾムには間合いを詰める手段を封じられた事に等しかった。
さらにノゾムを追い詰める事態が発生する。
再び盛り上がる肉床と、そこから出てくる魔獣。しかし、姿を現した魔獣は先程のよりもはるかに脅威となる存在だった。
ノゾムの目の前に現れたのはノゾムの3倍ほどの身の丈と丸太の様に太い四肢。かつてノゾムも相対したことがある三つ目の巨人が咆哮を上げていた。
「ガアアァ!」
「ちっ! キクロプスまでいるのか!」
降り注ぐ氷柱舞を必死に躱すノゾムに向かって、紅眼の巨人が突進して行く。
ケンの氷柱舞はキクロプスの動きを完全に把握しているのか、その巨体に氷柱が突き刺さる気配は皆無だった。
この状況でキクロプスに乱入されたらどうしようもない。無数の氷柱に貫かれて奇怪なオブジェとなるか、それとも巨人の豪腕で叩き潰されて肉塊になるだけだ。
あっという間に危機的状況に追い込まれたノゾム。残された手は能力抑圧の解放のみだった。
ノゾムは自分の体を縛る不可視の鎖を引っ掴み、力を込めてその戒めを引き千切ろうとする。
だがここに来て、ノゾムに封じられたティアマットが三度暴れはじめた。
“アアアアアアアアアアアア!! 殺ス! 殺ス! 殺ス!!”
「がっ!」
自分の体を突き破って自由になろうとするティアマットの圧力に、ノゾムは苦悶の息を漏らしながらも必死に耐える。
しかしノゾムの体内で暴れ続ける巨龍の行動は能力抑圧を開放しようとしたノゾムの手を一時的に硬直させてしまった。
そしてノゾムが気付いた時にはすでに遅く、キクロプスがノゾムの眼前でその腕を振り上げていた。
「まず……」
既に回避は間に合わない。ノゾムにできたのは硬直していた自分の足に必死に喝を入れ、体を半歩後ろに退かせる事だけだった。
「がっぁ……!」
ノゾムの体に竜に体当たりされたのではと思えるほどの、強烈な衝撃が走り抜ける。
“無銘”がノゾムの手から落ちる。地面にほぼ平行に吹き飛ばされた彼の体は結界の端である肉壁に叩きつけられた。
同時に肉壁が盛り上がり、ノゾムを飲み込もうとしてくる。
「コレで終わり……ダ。安心シロ、リサはずっとボクが側デ守……ル。ズッと……」
ノゾムは朦朧とした意識の中でも、這い回る様に自分の体を飲み込もうとしてくる肉壁から抜け出そうした。
しかし手足に力を込めても、ノゾムの体は先程のキクロプスの剛腕で吹き飛ばされた際の衝撃で痺れており、彼の意思に反して満足に動いてくれない。さらに言えば、ノゾムの気も立て続けの戦闘により限界だった。
気の消耗による倦怠感がノゾムの体を包み込む。さらに未だに暴れているティアマットがノゾムの精神を摩耗させていく。視界は霞み、過呼吸で痛みが走る喉からはヒューヒューと擦れた声が漏れていた。
“おいノゾム君! 聞こえるか!?”
朦朧とする意識の中、ノゾムの脳裏に聞こえてきたのは捕食結界の外にいるジハードの声だった。
「ジハード……先生?」
普段から寡黙な彼らしくもない力の籠った声がノゾムの耳に響く。
“いいか、何とかしてあのリサ君をアビスグリーフから切り離せ! そうすれば 外側から捕食結界を壊しても問題ない!”
リサを助けられるかもしれない。その可能性を思い出したノゾムは肉壁と共に自分を縛り付けている不可視の鎖を見下ろした。
これを破壊すれば、多分この状況を打破できるかもしれない。
もちろん能力抑圧を開放すれば、封印されているティアマットは嬉々としてノゾムの体を食い破ろうとするだろう。その身から溢れ出す憎悪に任せるままに。
今までにないほどの憎悪を猛らせている巨龍。今の消耗しきったノゾムにかの龍を抑え込むことが出来るかははなはだ怪しい。
だが不可視の鎖を掴もうとするノゾムの手の動きは緩慢ながらも迷いはなかった。
そう、ノゾムはリサを守ると決めてこの学園に来たのだ。今までは逃げるための口実であったが、今やっとその約束を果たせるかもしれない。
どんな形でもいい。もう一度、互いに前を向いて歩いて行く為に、今ここですべてを出しきる。
意を決して鎖を掴んだ右手に力を込めた瞬間、彼の決意に水を差すようにゾンネが待ったをかけてきた。
“待て小僧。能力抑圧を解放するな!”
何故ゾンネが能力抑圧の事について知っているか疑問に思いながらも、ノゾムは朦朧とした意識の中で頭に響く声に問いかける。
「何……言ってるんだ? 今ここで……使わなくて何時」
“今、お主の中の『トカゲ』が暴れ回っておるのじゃろう? なおかつ、お主の魂は外からの攻撃にも晒されておる。その状態で能力抑圧を解放すれば、お主の精神は内と外から押しつぶされる可能性が高い! そうなれば取り返しの付かないことになるぞ!”
ゾンネの言っていることは間違いではない。今回のティアマットの抵抗は今までとは大きく違う。
以前はノゾムを惑わせて自身の復活を目論んでいたが、今はより強硬的な手段に打って出ている。
そしてその圧力は、もはや筆舌に尽くしがたいほど激しいものだった。
まるで頭を万力で締め上げられているような激痛と、内臓を掻きまわされているのではと思えるほどの苦痛が、今もノゾムに襲い掛かっている。
そのうえ、外側からはアビスグリーフがノゾムの肉体と魂を喰らおうとしてきている。
“じゃから、能力抑圧を解放せずにお嬢さんを助けるんじゃ!”
とんでもない発言にノゾムはゾンネに正気を疑った。
いったいこの老人は何を言っているのだろうか? 能力抑圧を開放して奴の力を使えば、アビスグリーフに捕らえられたリサを助けることが出来るかもしれないのに……。
“きちんと理由はあるわい! 魂とのつながりは普通の契約魔法よりもはるかに繋がりが深くなってしまう! 互い与える影響はこの契約魔法の比ではない! 小僧は『奴』の力を制御しきれとらんし、あのお嬢さんの魂はもう限界じゃ!
弱り切った心を蝕まれ、さらに小僧の魂から漏れ出した『奴』の力と憎悪に直接当てられれば、あのお嬢さんの魂は砕け散るぞ!”
その言葉が自分の身も顧みずに能力抑圧を解放しようとしたノゾムを躊躇させた。
自分が能力抑圧を解放した場合、リサが死ぬかもしれない。
リサを助けに来たはずなのに、ノゾムの奥の手は衰弱した彼女に止めを刺してしまう。皮肉と言えば皮肉な話だった。
「じゃあ……どう、やって!」
悔しさからノゾムは奥歯を噛み締める。絶望感がノゾムの心に満ちていく。
“しっかりせんか小僧! きちんとワシが言ったことを思い出せ!」
朦朧とした頭でノゾムはゾンネの言葉を思い出す。そういえば、あの老人はノゾム自身の力は他にあるとか言っていなかったか?
意識がぼんやりとしていてまともに思考が働かない。
そんなノゾムの様子に業を煮やしたのか、ゾンネが焦れたように声を荒げた。
「そんな気味の悪い壁に埋まっておる場合ではないんじゃぞ! それともなんじゃ、お前そんなところで悦に入る趣味があったのか!? うわ、エンガチョ! どんな性癖しとるんじゃ!」
その言葉に妙に喝が入った。
「……お前にだけは変態扱いされたくないわ、耄碌ジジイ」
“ノゾムさん、大丈夫ですか!?”
“ノゾム! 絶対に無茶をするな! 死んだら元も子もないんだぞ!”
心配のあまり声を荒げるフランシルト姉妹。その切羽詰まった声色から察するに、無茶苦茶なゾンネの提案に賛同しかねるのだろう。
自分の身を案じてくれる仲間たちの想いに、ノゾムの口元には自然と笑みが戻っていた。
「あの爺さん、とんでもない提案をしてくるな。師匠並みの無茶ぶりだ……」
意思は決めた。ノゾムは気合を入れるように大きく息を吐き、全身の力を抜く。
「……いいさ、やってやる。爺さんの案に乗ってやるよ」
“ノゾム!? やめろ!!”
“ちょ! いきなり何言っているの! もうちょっと後先考えなさい!”
アイリスディーナとシーナの大声がノゾムの頭に響く。その声は既に悲鳴に近かった。
とはいえ、これ以外に方法があるとは思えなかった。いくら契約魔法で繋がっているとはいえ、基本的に彼女達がこの結界内に直接介入することは難しいのだから。
また心配かけてすまないと心の中でアイリスディーナに謝りながら、ノゾムは握りしめていた不可視の鎖を手放した。
それを待っていたかのように、ティアマットとアビスグリーフがノゾムの精神をさらに締め上げはじめる。
「が、がああ! ぐうううぅ……」
炸裂するような衝撃がノゾムの全身を襲い続けている。
痛い、苦しい、辛い。
全身を走る激痛はますます増していき、ノゾムの体からあらゆる感覚を奪い去っていく。
耳元で鳴り響く号鐘のような耳鳴りは聴覚を麻痺させ、視界に写るものは既に真っ白に塗りつぶされている。
激しく脈打つ心臓は今にも破裂しそうな勢いで鼓動し続け、全身は火がついたような熱を帯びていた。
“シーナ君! ノゾム君との同調率を上げなさい! 感覚を共有した上でノゾム君の精神に防壁を張って、彼にかかる負担を少しでも軽くするわ!”
“ええ!? そんなことしたら……”
“インダ殿の言うとおりにするんだ。何があるのかわからんが、今彼の精神にかかる負担を減らすにはこれしかない!”
ノゾムが自分の内に意識を傾ける中、インダとジハードが声を上げた。
インダとジハードが提案してきたのは、パスを介してノゾムの精神に防壁を展開し、少しでも彼にかかる負担を減らそうという策だった。
確かにノゾムの精神と深く同調すれば可能ではある。
だが契約魔法の同調率を上げれば、ノゾムが味わっている苦痛をそのまま防壁を張っている人間も受けるということだ。
伝説の巨龍と正体不明の魔獣に魂を削られる感覚。一歩間違えば発狂することは間違いない。
それ以外にも不安要素は上げたらキリがない。正直こんなことをした話は誰も聞いたことがないのだ。
“大丈夫だ、インダ殿だけでなく私も彼女に同調して、少しでも負担を減らす。何、心配するな。歳をとっているが、私は頑丈だ”
“じゃあ、私も引き受ける。シーナ君は契約魔法の維持を頼む”
さらにジハードがノゾムとの同調を持ちかけると、アイリスディーナが彼に続いた。
さらにマルス達からも次々とノゾムとの同調を願う声が上がってきた。
さすがに全員で同調するわけにもいかず、ジハード達以外にはアイリスディーナのみが選ばれた。
“マルス君、いざとなったら……”
“分かっている、俺の技とティマの魔法であの結界をぶち破ればいいんだろ?”
マルスとティマを残したのは、ジハード以外の残ったメンバーの中で、2人が最も破壊力に特化した手段を持っているからだ。
マルスの魔気併用術とティマの攻撃魔法。二つとも制御に難があるが、いざという時になったら、目の前の結界を破壊するのに手段など選んでいられない。
“もう! みんな勝手なこと言って!”
シーナは怒りに声を荒げながらも、4人のパスを慎重に探り、その繋がりを強めていく。
深く同調しはじめる4人の精神。ノゾムと痛覚が一部流れてきたせいか、ジハード達の目尻に深い皺が刻まれ、脂汗が一気に噴き出してきた。
“ノゾム君! 言っておくけど、皆が限界だと判断したら問答無用で外からこの結界を破壊するわ。いいわね! 答えは聞いていないから!”
シーナから怒声を浴び去られながらも、仲間達の言葉にノゾムの頬は緩んでいた。
仲間達の励ましを支えに、ノゾムは全身の痛みに耐えながら目を閉じて己の内に意識を傾ける。
遠くなっていく耳鳴り。それはまるで水底に沈んでいくような感覚だった。
ドクンドクンと脈打つ心音の向こう側にほのかな光が見える。
五色に彩られた光の玉。手のひらに収まるほどの小さな光球だが、底知れないほど力を感じさせる。
それは今まで幾度となくノゾムを苦しめ、そしてまた助けてくれたティアマットの力。
だが今ノゾムが必要とするのはこの力ではない。
もっと深く。この湖の遥か底へとノゾムは沈んでいく。
どれほど深くもぐったのだろうか。小さくなっていた耳鳴りは既に聞こえなくなり、仲間達の気配も消えていた。静寂と暗闇だけが周りを支配している。
だがその静寂の中で、徐々に見えてくるものがあった。
見えてきたのは寮の自室でうずくまるノゾムの姿。今のノゾムよりやや幼い姿の彼が、魂が抜かれたような表情で膝を抱えていた。
“どうして、何で……”
「これは……」
ノゾムが膝を抱えた彼自身に手を伸ばすと、目の前の光景はパチンと弾けて泡のように消えていく。
そして再び数秒もしないうちに、ノゾムの目の前に次の光景が広がる。
“何やっとるんじゃお主は……”
次にノゾムの目に広がった光景は、ノゾムもよく知った森の中だった。
地面にへたり込むノゾムの前には、無数のワイルドドックを切り捨てた彼の師匠が佇んでいる。
“誰だ、婆さん……”
“年長の者への礼儀がなっておらんの”
ノゾムとシノの出会いの場面。ノゾムが苛烈なミカグラ流の鍛練を始めるきっかけとなった出来事。そして、ノゾムにとっても大きな転換点の一つ。
「昔の……俺の記憶」
ノゾムが呟く間にも、次々と昔の光景が浮かんでは消えていく。
衝撃的な出会いから始まったシゴキの様な修行の日々。今にして思えば逃げるための口実だったけど、あの日々は確実に今のノゾムの血肉になっている。
シノと命を賭した最後の打ち合い。本当の意味でノゾムが動き始めるきっかけとなった出来事。それは今でもノゾムの中で大きな位置を占めている。
仲間達との出会い。そしてすれ違い。本当に久しぶりにできた友人達。だが自らの内に秘めた秘密を言えず、それ故に衝突してしまった。
だが、それでもノゾム達はバラバラにならなかった。
リサ達と一緒にいた時とは違い、人と本当の意味で向き合う勇気を持つことが出来ていたから。
だが、目の前に映る光景はそれだけではなかった。
幼い時から仲が良かったノゾム達。その中でノゾムを気にするリサを眺めているケンの姿があった。
幼い時からリサが好きだったケン。でも彼女が想いを寄せたのは幼馴染の親友であり、彼ではなかった。
親友の隣で歩く彼女を見る度に、ケンの心の中に言いようのない暗い感情が湧き上がった。悔しい、悲しい。それでも彼女が選んだのはノゾムだからと思いに蓋をし続けた。
そして場面はソルミナティ学園に来たときへと移る。
“やあケン、大変ですね。貴方もあんな屑の相手をさせられて……”
“ナズウェル……”
1年の時に魔獣に襲われて亡くなったナズウェルとケンが話をしている。この時になるとノゾムに対する嫉妬心はどうしようもない程膨れ上がっていた。
それでもケンはその負の感情をノゾム達にぶつけられなかった。彼は我慢すること以外にその感情に折り合いをつける方法をしらなかった。
だがどんなに大きな壺も、水を注ぎ続ければ溢れてしまう。
そしてナズウェルが魔獣に殺され、リサが死ぬかもしれないという不安が嫉妬心と結びついた時、ついに彼は道を踏み外し始めてしまう。
“ノゾム……”
不安げな顔を浮かべて街の中を駆け回るリサの姿が浮かび上がる。
荒い息を吐きながらも、彼女は足を止めることなくノゾムの姿を探していた。
“大丈夫。大丈夫……。ちゃんと約束したんだから……”
それは“ノゾムが浮気をしている”という噂に不安に駆られたリサがノゾムを探している光景だった。
込み上げてくる嫌な考えを、首を振って否定しようとするリサ。
だがそんな彼女の目の前には、ノゾムに化けたケンが知らない女性と口づけをする姿があった。
次に映ったのはカーテンが閉め切られた部屋の中。昼間にも拘らず薄暗い部屋の中で、ベッドの腕に腰を掛けているリサの姿が浮かんできた。その瞳でただじっと床を見つめたまま、彼女は微動だにしない。
部屋の扉を破り、ケンとカミラが駆け込んでくる。
終わりを告げた3人の時間と、ケンによる偽りの関係が始まった瞬間だった。
「これって……」
ノゾムに流れ込んできたのは記憶の残滓ともいえるもの。
ノゾムとリサ、ケンの3人の魂がつながり、それぞれの記憶の一部を垣間見たに過ぎない。
次々と映る3人の過去が、走馬灯のように浮かんでは消えていく。
その光景を眺めながら、ノゾムは胸が詰まるような思いだった。
懐かしさと哀愁、憎悪と愛しさ。
全てが懐かしく、全てに憤り、全てが悲しく、ただ感情だけが胸から込み上げてくる。
やがて目の前に映るものすべてが消えて、漆黒の空間が戻ってきた。
だが、今までの暗闇とは違い、何かがノゾムの目に映っていた。黒に塗り潰された空間に何かが蜘蛛の巣の様に張り巡らされている。
「これは……鎖?」
目を凝らしてみると、その鎖は淡い光を纏っている。だがその量が尋常ではない。
一体どれだけの鎖がこの場にはあるのだろうか。縦横無尽に張り巡らされて光る鎖は、漆黒の空間のはるか先まで覆い尽くしている。
「これって一体どこまで続いているんだ? あれ? でもこの鎖は……」
よく見るとその鎖はどこか見覚えのあるものだった。数年前からノゾムの体を縛り付けている能力抑圧の鎖。まさしくそれと同じものだったのだ。
「俺自身の力……か」
この先にあるのだろうか?
ゾンネたちの声はいつの間にか消えており、ノゾムのつぶやきは漆黒の闇に溶けて消えていく。
考えていても仕方がない。ここにいてもリサは助けられない。
ノゾムは意を決して光る鎖をかき分け、奥へと進もうとする。
だがノゾムが鎖に手を掛けた瞬間、まるでひときわ大きな光を放ち、脈動するように震えた。
次の瞬間、空中に張り巡らされていた鎖が一斉にノゾムに向かって飛んできて、彼の体に巻き付き始めた。
「な、なんだ!? がっ!?」
ギシギシと音を立てて身体を締め付けてくる鎖。ノゾムの口からは息が漏れ出す
ノゾムは咄嗟に身体に巻き付いた鎖に手を伸ばした。いきなり締め上げてくる鎖を外そうともがくが、その時脳裏に響いた声にノゾムは思わず手を止めた。
“ごめんなさい……”
ティアマットとは明らかに違う弱り切った声。その声の主が思い浮かび、ノゾムは思わず虚空を見上げた。
「この声は……リサ?」
頭に響いたリサの声に驚くノゾム。同時に彼の目の前に膝を抱えて顔を伏せ、泣きじゃくるリサの姿が映った。
“ごめんなさい、ごめんなさい”
「リサ! おい!」
ひたすらに謝罪の言葉を述べ続けるリサ。ノゾムが声を張り上げると、顔を伏せていたリサの身体がぴくりと動いた。
恐る恐るという感じで顔を上げ、辺りを見回すリサ。だが彼女にはノゾムの姿が見えないのか、リサがノゾムの存在に気付く様子はなかった。
キョロキョロと辺りを見回した彼女は落胆の声を漏らす。
“はは、ノゾムの声がする……。私、おかしくなっちゃったのかな……”
擦れた声。憔悴しきった笑みがリサの顔に浮かぶ。疲れ果てて青白くなったその顔は、まるで死相が浮かんでいる様だった。
“でもいいや。幻でも良いよ。最後にノゾムの声が聞こえたから……”
悲しげな、それでいてどこか満足したようなリサの笑顔と共に、彼女の姿が霞んでいく。
まるで砂糖が水に溶けるように暗闇に消えていくリサの姿。その闇の向こう側で、何かが口元をつり上げていた。
暗闇に出現する無数の紅眼。その瞳が今まさに消えようとしているリサを満足そうに眺めている。
間違いなく、リサを取り込もうとしているアビスグリーフだった。
その無数の視線の中で、リサは自分の身を赤ん坊のように丸め、ギュッと自分の手を胸をかき抱いた。まるで大切な何かを決して手放すまいとするように。
それは先程のノゾムの言葉なのか、それとも、彼と過ごした幸せだった頃の思い出なのか。
彼女の胸中をノゾムは窺い知ることは出来ない。ただ分かったのは、心を閉ざすことで自分を保っていたリサの精神が、完全に抵抗を諦めてしまったということだった。
「リサ! しっかり自分を保て! このままじゃ……!」
“でも最後に……ちゃんと謝りたかったな”
今際の際に残った最後の未練がリサの口から漏れ出していく。既に彼女の姿はほとんど闇の中へと溶けてしまっていた。
“信じてあげられなくて……ごめんね”
その言葉が耳に響いた瞬間、麻痺しかけていたノゾムの精神が一気に息を吹き返した。
拳を振り上げ、気合いを入れろと自分自身の頬を殴りつける。
目の前に白い光が走り、痺れるような痛みを感じながら、ノゾムはキッと目の前の鎖を睨みつけた。
「ぐうう! ああああああああ!」
腹の底から声を張り上げ、手を伸ばし、目一杯の力で眼前に張り巡らされた鎖を鷲掴みにする。
次の瞬間、掴んだ鎖がドクンと脈動し、淡い光が一気に強烈な閃光となって漆黒の空間を満たしていく。
「な、なんだ!?」
戸惑うノゾムを他所に複雑に絡み合っていた鎖は瞬く間に解け、ギャリリリリ! と猛烈な音を立てて空中を疾走する。
“ギッ! ギッゥウウアア!”
強烈な閃光で暗闇を切り裂きながら飛翔する鎖。ノゾムの周りを包み込んでいた暗闇と紅眼は恐れるようにビクンと震えると、次々と飛び回る鎖に切り裂かれ、悲鳴を上げながら千切れて消えていく。
やがて周囲を満たしていた闇を全て駆逐すると、輝く鎖は空中のある一点へと集中する。それはまるで獲物を求めて殺到する鮫の群れの様だった。
やがてパリンとガラスが割れるような音が響き、空間に割れ目が現れる。
さらに外へと飛び出そうと疾駆する鎖が割れ目へと飛び込んでいくと、ノゾムの体を引っ張り、空中にできた割れ目へと導いていく。
「うわっ! なんだ? 何が起きているんだ!?」
突然宙に持ち上げられたノゾムは驚きの声を漏らす。
引き裂くような割れ目の奥に見えたのは、肉壁で覆われた世界とその中で目を見開いているケン・ノーティス、いやケン・アビスグリーフの姿。その傍らには、黒球の中で俯くリサの姿がある。
「貴様! ドウヤッテ我ラノ牙カラ逃レタ!」
肉の床に着地したノゾムに向けられる視線。その眼には驚愕とわずかな恐怖が感じ取れる。
ケンの記憶を垣間見たからであろうか。異形と化してまでリサを求めたケンの姿に、ノゾムの胸の奥に言いようのない感情が湧き上がる。
だが、それでも……。
師に逃げていた自分に気付かされ、仲間達に前に進む勇気を教えてもらった。
リサを助ける。今度こそ約束を果たす!
その決意を胸に、ノゾムは助けるべき人の元を目指して疾駆する。
床に落ちた“無銘”を拾い上げ、駆けるノゾムの姿に、空ろな表情を浮かべていたリサの瞳から一筋の涙が流れた。